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2007年1月24日 (水)

自己判断力

 あるある大事典の納豆騒動(テレビの情報を盲信した視聴者のクレーム騒動)に限らず、現代は雑多な情報で溢れた世の中である。この溢れる情報全てが真実であるとは限らず、精度、真偽、正誤の区別無しに存在している。
 人が人生を全うする中では、様々な判断が求められる。判断する場面は、学業、趣味、遊び、生活・・・・ありとあらゆる場面に存在している。

 判断するのは簡単だが、正しい判断を行うというのが難しいものである。しかし、人は最終的には自分の行動を自分の意志で決定して未来に進んでいかなければならない。その未来が良いものになるかどうかは、判断が正しいかどうかに関わっているといっても過言ではない。

 正しい判断をするには、正しい判断材料つまりは知識が必須であり、知識を組み合わせて判断することの手助けとなる論法が必要だ。そのような正しい判断力を養わせるのが教育(家庭、学校)の意味では無いだろうか?

 要は、人が生きていく上で必要な生きる力を身に付けるのが教育であり、人間社会における生きる力というのは、極論かもしれないが、遭遇する様々な事態に対応できる判断力と言っても過言ではない。
 ここで判断の時とは、自身が次ぎに取るべき道を選ぶ時ということである。つまりは、個人にとって未知の領域に一歩を踏み出す時に選ぶ道を決めることである。

 余談になるが、この方向性を作り出す力が好奇心であり、その方向を決める力が判断力である。この好奇心と判断力こそが最も重要な力である。そして、進む方向によって成果を得るには、方向性が誤っていては駄目な訳で、目的を得るには、既知の事実(歴史、知識)と、未知の洞察(論理的な展開法)が不可欠である。

 今の情報の氾濫した時代においては、氾濫する情報の取捨選択を利用する側が自己責任で行うべきであり、そのために、自己判断できる力を養うことが最も重要である。

 教育制度においては、そのような自己判断が出来るような子供を育てるのが第一だと思う。子供に授ける力は、家庭と学校では別個のものであり、本能に近い本質的な部分(好奇心、探求心、善悪)というのは家庭が担い、それらの本質的能力を実社会に出る前段階のトライアルを行うフィールドが各種学校であり、科目であると思う。

 個人的な意見だが、すべてを外部の責任に転嫁する言葉を吐く人間は、この本文の価値観に従えば、有り得ない存在である。『~が言ったから』『~に書いてあるから』・・・そんな言葉を吐くくらいなら最初からしなければよいと思うところ。

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