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2007年1月12日 (金)

ゆとり教育の方向転換

 なにやら30年ぶりに教育現場における授業時間数が増加に転じるそうだ。
 方針としては週5日制は守りながら、土曜と放課後の補修授業開講や夏休みの短縮で対応するらしい。

 本当にイイのだろうか?学歴偏重や落ちこぼれ問題が出れば授業時間数を短縮、学力低下が社会問題となれば授業時間数確保、っていうのは如何にも安直だ。教育を預かる省庁、教育現場の意見を反映してのことだが、本当にこんな対応が良いのだろうか?

 確かに教育課程で習う科目、授業というのは考えれば必要な事が多いのだが、これらの習熟度に囚われて、表面的な点数のみで成績を評価するのが正しいのか?と思うと疑問を抱かざるを得ないのが、素直な感想である。学歴偏重で点数評価絶対の教育を受けた世代でも、ゆとり教育世代でも結局は最終的には、表面的な点数評価のみで優劣を区分している現状に変化はない。
 評価する側が、表面的な数字を重視していれば、教えるべき内容の多少に関わらず本質的な問題は解決できないのでは無いだろうか?

 自分を基準として年輩の世代や下の世代を見ていて思うことは、肩書きが優秀でも使えない奴が異様に多い事なんだが、使えない奴の殆どは、習ったはずの内容を完全に忘れているとか、語句や文言こそ覚えていても、社会の実務において使い方が判らない奴が異様に多い。結局、授業内容を表面的に記憶していても使えなければ社会の発展は望めないし、無意味では無いだろうか?生意気を言うようだが、日本人の性質を見ると、自身の意見をもって生活行動を行う人が案外少ないように思う。その理由は、他人と同じにすれば取り敢えず安心だとか、物事の優劣比較を意味を理解していない状態でスペックに拘り崇拝する思考と相通じるモノを感じてしまう。ダイエットに対しての取り組みにしても然りだ。数字も大事だが、プロセスを放棄して結果を如何に安直に求めるか?が問題解決のプライオリティーの上位に来ている。必要なのは、論理の展開方法と継続性、継続できる意志を保つ目的であり、様々な分野における行動パターンから違和感を感じることが出来る。

 これらは、内容の多少でなく、教育における優劣の評価指標が単純な数値によってなされる現状に合わせ、見た目の評価や点数のみを積み上げることを目標に育ったがためのように感じる。事実、進学時の入試勉強における過去問への取り組みに熱心なのも、そういう志向性に通じるように思う。

 元来のゆとり教育というのは、授業時間数を減らすのが目的でなく、人間の成長期に併せた思考能力を育てるというのが本筋では無かったのだろうか?ゆとり教育という言葉を、どのように解釈するかにもよるが、子供から大人への成長過程において、好奇心を養い、それを解決する手立てや手順の必要性を認識させ、その手順の手法を学ばせて、将来における探求的生活活動における自己判断が可能とせしめることが目的では無かったのだろうか?授業や科目というのは、その道筋を修得する実験的なフィールドであり、そのフィールドから適性の優れた分野を見つけ、適性のあった分野において思考回路を完成させるというのが目的であったように思う。

 ゆとり教育における『ゆとり』という言葉を教育現場が勘違いし、ゆとり=好きな事をしても良いという間違った風潮を世間がもったがために、思考回路も育たず、表面的な知識さえも有していない世代を作ってしまっただけのように思う。

 安部首相肝いりの教育再生会議だが、ニュースから聞こえてくる話題を見る限りは、どうも将来像が見えないし、本質を変えることは出来ないように感じるところだ。

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