« 理想を求めて。 | トップページ | 柳沢大臣の発言と教育論 »

2007年1月30日 (火)

情報利用の判断

 報道ステーションでは、『あるある大事典』の納豆ダイエットデータ捏造問題の続報を取り上げてる。納豆に続き、レタス、みそ汁・・・・・と発覚中。
 テレビ、ネットにおける氾濫した情報っていうのは、発信側から受信側への一方通行の情報でもある。そして、これらの情報を盲目的に信用したり、否定したりするのが大衆の行動から見て取れる。

 このように氾濫する情報を如何に利用するか?この資質が個人に求められる時代である。氾濫する情報が全て正しいか?というと、その限りでは無い。只、正しくない情報といっても、情報の発信者自体の理解を超えた部分で悪意の無い間違いとなる場合もあれば、意図的に欺くための嘘の情報というのもある。
 そのような情報の精度自体は利用する側が判断して行動すれば、情報の真偽自体の責任追及の意見は度を過ぎないのでは無いだろうか?勿論、意図的に誤りのある情報を配信するのは良くないが、例えば、否定報道に盲目的に追従し、それに関わった人(好意的に様々なデータを開示した研究者等)全てを否定するのは、これまた過剰な反応であり、否定報道する側にも、報道によって大衆がどのように判断するかを考える思慮深さというのは必要だ。

 ところで、学問や勉学の世界では、本当に理解している状態と、人の考えを聞いた上で理解したと錯覚している状態がある。経験上、周囲に居る人を見回しても、前者の人ってのは極めて少ない。殆どが後者の状態である。他人の言葉の上辺を読むだけで理解したと錯覚した人っていうのは、類似の問題に対しては殆ど無力で自己判断することが出来ない。また、そのような人ほど、一見専門用語のような言葉さえも理解していると錯覚していて、実は全く判っていない場合が多い。それは、ここ最近の教育で育った人の殆どは、結果だけを求める点数評価で優劣を競う教育制度で育っており、上辺だけの理解しか出来ない人が極めて多いことに関係しているようにも思う。

 何が言いたいのか?というと、番組やネットの情報は発信者側には意図が有り、その意図を含めて情報というものが、一見判りやすいように発信されているのだが、利用する側には、情報に含まれている断片的な真理と組み合わせによって伝えられようとする意味の真意が何処にあるのか?を理解する域に達していないのが問題では無いか?ということだ。つまり、表面的な理解や、他人の言葉で理解したと錯覚している連中には、情報自体の作り手の意志に洗脳されやすく、自身での真偽の判断が出来ないのが問題では無いだろうか?

 今回も身の回りの奴の話を聞いていると、こいつは騙されやすいアホだなと思える奴もいたが、結局、人の言葉だけで自分が判ったような気になっているに過ぎない。

 これからの情報が氾濫する時代においては、そのソースを全否定するのも馬鹿だし、全肯定するのも愚かである。その中で自身の判断で利用する情報を選択する力が必要である。そして精度の高い情報の取捨選択においては、様々な知識と経験が必要である。この知識と経験を身に付けるべき時というのは、実は幼年期から社会に出るまでの教育を受ける期間である。
 しかし、このような考えも持つのも自分の成長過程で得た自身の人格によるものであり、それが絶対という訳ではない。色んな人格が存在し、それぞれに生き方が存在し、いろんな個性、人が居て、それが社会となる。

 身近な所には、私のような考えに憧れる人も居るようだが、それを真似ようとすること自体が不可能で、同じ事をしようとすれば、する程に不幸になる。
 寧ろ、各人が自身の生い立ちに自信を持ち、自分に素直に生きる事が本人にとって幸せだろう。氾濫する情報に翻弄されるも、誤った情報に怒るも自由だが、結局は情報の利用は自己判断によるものであるということを肝に銘じておきたいものである。結果的に判断を誤るってのも、最終的には自分の能力故の事であることを忘れてはならない。

|

« 理想を求めて。 | トップページ | 柳沢大臣の発言と教育論 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 情報利用の判断:

« 理想を求めて。 | トップページ | 柳沢大臣の発言と教育論 »