理想を求めて。
自転車に限った事では無いんだが、こういう系統(単車も含めて)の道具ってのは、実に奥が深いと思う。特に、ぬかるみ(?)に嵌れば嵌る程に、今迄気付かなかったような事に気付き、新たなモノが見えてくる。新たなモノが見えると、それが発端で別の事が見えてきたり、今迄言葉に表せなかった事が確信を持って表せるようになったりする。不思議なモノだが、恐らくは最後の最後迄、常にモアベターを追い求めていく限りは、終着点には辿り着かないように思う。
終着点の姿がどうか?は具体的に言う事は出来ないが、自分の価値観の中でモアベターを考え続けると、一定の方向性は定まってくるし、今現在の状態に対しても納得出来る。それは、今の状態が今迄の好奇心探求活動の結果である事なんで、今の状態を自分で受け入れる事が出来るという事でもある。
逆に、今の時点を受け入れる事が出来ないような人も居るが、そんな人ってのは、その人自身が決めた方向性で物事に取り組んで来なかった事を表していると思う。
昔は自転車に対しての知識も非常に大雑把であり、抽象的な捉え方をしていたが、振り返ってみると、その捉え方も歳を取って、様々な経験、知識を身に付ける程に変わってきている。大雑把な考えが、割と細かい部分に眼が行き届くようになり、その過程で、モノに対する拘りも出てくる。更には、その拘りの取捨選択、選んだモノの本質というか原理を突き詰めて考えていく事で、今迄気付かなかった事も見えてくる。
そんな風に過去を振り返ってみると、これまで身に付けた知識や学問ってのは、結構役に立っている。後悔としては、大学時代でも、もう少し勉強していれば良かったなぁというのが本音である。考えてみると、小学生の知識と小学生の好奇心や理解力というのはシンクロしているし、中学世代の知識と好奇心や理解力、高校時代、大学時代のそれというのもシンクロしている。人間の成長とともに、知識と理解力は高度に発達するが、その発達した知識と理解力が在るがために、その世代(脳神経系ネットワークの発達度)に応じた好奇心や探求心が芽生えるものである。(ここで言う、知識や理解力は学力を意味しているのではなく、人間の成長に応じた脳の発達度を意味する。)
そして最終的には、考え自体は非常に特化してシンプルな形に帰結していくように思う。
特に、自転車や単車のように身体全身を使い操り、動力変換を行い操作する機械に対しては、そういう考えで接する事で、終わりのない探求活動が出来る楽しい趣味のように思うところだ。
今更ながら、自転車に嵌っているが、それに対する考えも、モノ頼り→力ずく→技、という風に考え方が変わってきたと思うところ。勿論、モノ、力、技の全てが必要だが、一番影響度の高い要素というのは、情報として得にくいが『技』という部分である。
そして『技』を理解するというのは、相手が機械である限りは、自然科学に対する理解力が必須であると感じる今日この頃である。勿論、理屈ばかりでは駄目で、それに集中して感じるという行動あっての話であるが、そんな接し方で自転車や単車に乗ると、何時もが新鮮さに溢れているように思う。
人が進む方向性は嗜好次第だが、その嗜好を満たすなりに自分で考えを持ち進んでいくのは、趣味が違っても、同じ単車趣味で嗜好が違っても、同じような志向性ならば話が合うものだ。少なくとも、脳神経系ネットワークの発達度が実年齢に対して幼稚な人とは考えが合わない。
昨日はショップでの自転車談義で盛り上がったが、こういう考えを根底を持つ人とは、話が合うし面白い。
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