物が全てか?
自転車少年ネタはどうでも良いんだが、面白い傾向というか話なんで、一つ。
・自転車等を乗り換えるのは、今の持ち物では遅いが、新しいモノが速いと思うから。
・次から次へと乗り換えるのは、どれも自分に合わないから。
・色んな人の真似を繰り返すのは、いくら真似ても人のようにならないから。
・部品をどんどん換えるのは、いくら換えても速くならないから。
なんだそうだ。
そして、乗り換えない、買い換えない、真似ないようになる時ってのは、
・速く走れるモノを手に入れた時。
・速く走れる改造が出来た時。
・真似て速く走れた時。
だという。凄く、微妙というか違和感を感じるところ。
極論すれば、モノさえ揃えれば一流になれるということらしい。逆に、今速くない理由は、持っているモノが自分に合わないからという。或る意味、凄い自信家である。
自分が上手く出来ないのは、全て、持っているモノが自分に合わないためという考え方が強烈である。
久々、感動した。素晴らしすぎる思想である。
こういう思想が安直な答えをダイレクトに欲しがる資質にも繋がっているんだろうなぁ、、。
ツールの選手の話を引用して、試して思い通りの結果がでなければ、引用元の話は自分に合わないという結論となるらしい。
ショップで有料でポジション指導して貰って、そのポジションで結果を得なければ、その指導されたポジションは自分には不向きという結論らしい。
自分が機械を使いこなしていないとか、それ以前に正しい操作法が出来ていないとは考える事が出来ないのだろうか?と思ってしまうが、生い立ちから思想迄全て異なると、伝える事さえ困難だ。
素晴らしすぎる考え方である。モノが理解出来なかったり、解らなければ、それは自分には合っていないという結論付けが強烈だ。言ってみれば、生い立ちにおいて遭遇してきたであろうテスト等でも結果のみが全てで、結果を導き出す解法を発想するひらめきには感心が無いということ。一番重要なのは、個人毎に持っているひらめきである筈だが、与えられた解法に従った結果のみしか感心が無かったそうだ。
自分とは趣味のジャンルが二輪車という部分では共通するが、その接し方、特に趣味の主体となる存在という部分が全く違う。自分は、イメージを具現化する道具としての二輪車であり、具現化する事が出来る自分自身が大切な訳だが、彼は、自分の夢を叶えてくれるモノを追い求めている訳だ。
話が合う筈が無い。接点も生まれ得ない。
自分は2スト500が乗れたりVツインでペースを作れる自分が好きであり、固定シングルを普通に乗れたり、小径車でイメージ通りに走れる自分が好きなだけだが、彼は、見つからないかも知れないが、彼を速く走らせてくれる単車や自転車があれば最高だという。
恐らく、そういうモノは一生掛かっても見つかる事は無いだろう。ていうか、あってはならないモノだと思う。
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