私感
趣味にしろ、研究にしろ、最近感じる事。
周りを見て、何故そんな事さえも判らないの?って感じる事。
二年前に亡くなった友人、学生時代の研究室の先輩、社会人になってから他企業との共同研究で付き合い始めた他企業の研究者等と話をすると、仕事や研究に限らず、それ以外の趣味の世界等でも縁が深まり仲の良い付き合いが出来るし、話を聞いても面白いし、自分の話も興味深く聞いて貰える事が多かったように思う。
仕事や学問の世界の話、専門分野への様々な取り組み方ってのは、自分の考えを進める上で大いなるヒントになっていたし、自分の話を聞きたいという事で人も集まっていた。趣味の世界でも、単車のモディファイ、扱い方という部分でも、仲の良い友人との間では、互いを尊重し、認め合うという良い人間関係を作る事が出来ていたと思う。
このような思考上の方向性が同じ人っていうのは、例えば、企業における研究担当者であったり、大学の同窓生であったり、趣味において同じ価値観を持つ付き合いでは、極当然に居る。
しかし、そういう思考上の分類が希薄な社会、例えば、ランダムな人員の集合である会社組織、地域社会では、物事の進め方が同じ方向性である人っていうのは見付けにくいものである。
最近、特に強く感じるところだ。会社組織では、人から依頼されたり、質問されたりする事が殆どで、逆に、他人に頼った覚えが無い。自分の意識では当然と思える常識的な考え自体が通じないもどかしさというか、伝える内容の基本的な語句等の説明迄もしなければならないのか?という情けなさを感じる事の方が多い。仕事の様を見て感じるのは、殆ど全ての人には独創性というかオリジナリティが存在しない。猿真似、トレースしか出来ていないし、真似る根拠さえも理解していないようだ。見ていて、吐き気がするし、そんな姿勢で時間を過ごす人には存在価値自体が無いとしか思えない。
仕事や専門性について、他人を見下す事はしたくないんだが、そういう人が本来好きな事柄である遊びや趣味の面での話しを聞くと、好きな事に対する取り組み方の姿勢というかレベルの浅さに驚きを覚える事が多い。そんな時に感じるのは、本来好きな事に対する取り組みがその程度なら、本人にとって決して好きとは言えない仕事や学問での取り組みのレベルの程度が推し量れるという事。
生意気を言ってはならないんだろうけど、、、、この違和感は何とも言えない。自分で好きな事へのレベルを見る事で、その人の実力ってのが、測れる分野ってのは確実に存在している。
こういう違和感は、年輩者から若い世代に掛けて全てに感じる。コアな世界を持てない人ってのは、自分から見て面白みに欠ける所だ。
最初は、そういう情けない存在ってのは、見栄と欲にまみれた管理職連中だけか?と思っていたが、最近は、若い世代にも多いようだ。もっと存在価値を示して、独創性を発揮して、自身の意見を明確に主張して欲しいんだが、多くは迎合主義で意見を出さないのが多い気がする。ただただ、情けない限りである。
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