自分の意見、他人の意見
今日、久しぶりに、例の自転車少年が自転車の事を尋ねて来た。雑紙のインプレッションに書いてあるモノが良さそうだが、本当に良いのか?といった類の質問である。答えとしては、記事の書き手がそう感じたんなら、記事の書き手にとっては良いモノなんだろう。しかし、その良さを感じれるかどうか?は、判らないのでは?という答え。
モノの善し悪しの判断っていうのは、使い手次第であり、違いが判る人、判らない人も居れば、モノの特徴が使い手に会うかどうかでも論評は変わる。よって、雑紙やネットの記事ってのは、話半分で聞くしかないし、自分がどう感じるか?どう思うか?の自分の意見の方が大事ではないだろうか?という答えになる。
なんでも、彼は未だに『速く』なりたいそうだ。そして、そういう意識を無くすとモチベーションが保てないんだそうだ。この『速く』というのを聞くと、とにかく速くという事だそうで、何を以て目標に到達したかの判断は無いみたいである。
更に聞くと、街で遭遇する他の自転車乗りを追い抜く?速さを以て、自分が速くなったと判断する様子である。微妙に難しいというか、何というか、コメントのしようが無いのが正直なところだ。
聞けば聞く程に、幼稚園児がウルトラマンや仮面ライダーのようになりたいという願いにオーバーラップする。まぁ、願いは人次第であり、それはそれで良いんだが、その速さを手に入れるには、雑紙やネットで紹介されているパーツの機能を手に入れる事が解決法のように思っているようだが、聞けば聞く程に難しいという印象だ。
先の記事の、何が楽しいか?というのは、彼の意見に反応しての記事だが、彼と私の違いっていうのは、私はあくまでも自分の身の丈の範囲で楽しさを見つけている点であり、彼の楽しさっていうのは、人より速く走れるようにならない限りは得られないという、満足の尺度が他人にあるという点である。
やっぱり、自分で出来る事っていうのは、自分次第であり、自分の出来る範囲で満足を得なければ楽しくないような気がするのは気のせいだろうか?
夢を語るのは自由だが、夢だらけで、夢を実現するのを全てモノ任せ、他人任せというノリでは、夢は白昼夢で終わってしまうような気がする。ふと振り返ってみると、彼が話し掛けてくる時は100%質問ばかりである。自分で考えようとしない時点で終わっているような気がするなぁ、、、。
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