伝わる『楽しさ』と『楽さ』
趣味に限らず、仕事でも、勉強でも思う事がある。
テーマは何でも良いのだが、何かをやる時に自分の力で何とかしようという意志ってのは、とても大切なモンだと思う。意志の力こそが、色んな発見や力を生み出す根元となっていると思う。
意志=目的意識と執念だが、そういう奴は、何をするにしても目が輝いているように思う。
昨晩の難病と闘う子供達の姿は正にそんな感じで、自分的には、日々の生活で改める良い切っ掛けになったと思うし、自分としても、そういう姿勢で物事に取り組んでいきたいと思う。
やっぱり、意欲のある奴は、目が輝いているし、話しても楽しい。話題も、話し手にとっての楽しみを本当に相手に伝えようとするというか、楽しさが伝わってくる。塾の生徒なんかでも、そうだ。自分は躓いた問題について、どれ程の試行を重ねたかを延々と真剣に話してくれる。そういう一生懸命さを聞くってのは、嫌いではないし、そういう姿勢で来られると、判っている事は何でも教えてやろうと思うし、出来る事は何でもしてやりたくなる。
人付き合いってのは、人間関係によるモノだが、相手の真剣さが判る程に、こちらも真剣になる。いわば、鏡のようなモノである。
逆に、意欲が無い奴、他力本願な奴、体裁ばかり整える奴、言葉が舌の先が乾く前に入れ替わる奴との話には、如何に楽して答えを聞き出せないか?って狡さが伝わってくる。そういう奴は、如何に簡単に目的に到達できるか?の只の一点にのみ関心が集中し、プロセスの重要性は見えてこない。そういう狡さを持って聞かれると、敢えて何も教えてやりたくなくなるし、話が出来なくなる。
こういう感情も、やはり鏡のような人間関係から芽生えるものである。
話に『楽しさ』がある奴は、考えの奥底に目的意識と意欲が全面にあふれ出ている。
一方、話に『楽さ』がある奴は、瞳の向こう側には安直に答えだけを知りたいという狡さが見え隠れする。
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