文明の進化=生体の退化
今日のニュースで気になったのは、ロボットの完成度が随分と高くなってきたとの事。これから数年の内に、何らかの形で生活に入ってくる可能性が高いそうだ。ロボットに限らず、生活を便利に楽にという方向で様々なモノが生まれている。全てのモノが、そういう方向性を持って作られている。そして、そのインパクトの大きなモノが喝采を浴びている。家電、自動車・・・・全てがそうである。それだけではない、計算機、文房具・・・・周りを見渡せば、全てそういう方向である。
他にも医療についてもしかりである。医療技術の発達=対処療法的技術の発達であり、生体固有の機能を磨き上げるという方法ではなく、半ば強引な延命技術の発達ばかりに感じる。
自分の仕事でも、開発するモノといえば、超ユーザーフレンドリーを目指し、どんなに過酷な状況では根を上げないモノを目指しているが、結局は、多くの人間が行っている活動と同じベクトルの上で活動している。そういう価値観の上に世界が成り立っている以上、その価値観での貢献度が生活の糧の多少になる訳であり、仕方ないといえば仕方ない。
しかし、生活から、全ての苦労を取り去ることは良い事か?って考えると、便利になる程に、古来からの知恵と工夫、常識が失われ、更には、機能さえも失っていく。生命体としても、非常に敏感で脆いか弱い生命体に変化しているように感じる。
現代の価値観のまま進んでいく事は、文明という面では進化しているのだろうけど、個体単体としては、知恵も工夫も経験も何も持たず、個体としても非常に弱い退化した形に変化していっているように思う。
今の価値観は、生物として終焉に向かっているように思う。通常の生物は環境に合わせて進化していくはずだが、ふと考えた時に人間は何故に退化しているのだろうか?不思議な気がする。
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