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2007年12月31日 (月)

2007年、私的10大ニュース

 昨日、一昨日と趣味ネタで総括したけど、今年最後の記事は私生活全般での2007年の十大ニュースである。

1.長男誕生!これで、単車と自転車を増やす口実が出来た!?
 念願という訳ではないが、上が娘、下が息子という自分的には理想的な家族構成である。一応、単車、自転車は息子に譲る事ができるんで、一安心である。少なくとも、息子が免許が取れる年齢迄は自分のコンディションを今と同等に維持しておきたいところである。健康管理でのモチベーション維持にも役立つ。

2.虫垂除去術。まさか自分が盲腸の手術をするとは!
 自分の親も盲腸は切っていない。自分の妹もそうだ。ということで、自分も盲腸を切る事は無いと信じていただけに驚きである。それにしても盲腸の痛さは突然に急激にやってくる。そして、耐える事が出来ない痛みであるのには、驚いた。
 良かった事は執刀医の先生からも内臓脂肪、皮下脂肪共に皆無であるという目視確認して貰った事だ。

3.大腸検診受診!精密検査を自発的に受診!検査結果は異常無し!
 便に血が混ざるというのを初めて見た。うんちくんに付いた血の固まりを目の当たりにすると、連想するのは大腸癌である。大腸癌は進行が速く致死率が高いという印象からチョット怖かった。二度に渡る精密検査の結果、自転車の乗りすぎ?のためか、肛門近辺が擦れたようになっている(要は軽度の痔だそうだ!)のが原因だろうとの事。チョット笑った。痛くなったら対処しようとの話だが、別に痛く無いので放置プレイ中。因みに、現在は血は見当たらない。ところで、高価なサドルであるTIOGAのスパイダーとか、BROOKSのB17は健康保険が利かないのだろうか(笑)。

4.健康第一への意識転換!日常生活の最重要課題にランクアップ!
 自分の盲腸、大腸検査もあるけど、周りに糖尿病、白血病、胃癌、大腸癌、肺気腫が発症する人が増えたりした事もあり、健康のありがたさと、健康を阻害する疾病の怖さを実感した。結果、今一番必要なものは、健康でパワフルな身体であるという意識を強く持った。これが最大の価値観の変革であり、或る意味、一番大きな出来事でもある。
 精神の変革、ターニングポイントがホントはナンバーワンのニュースであるが、モノとして見えないので、敢えてこの順位にした。

5.固定シングルOK!固定シングルに普通に乗れるようになった。
 自転車に復帰して二年目の今年は、自転車に求める機能の順位が変わったのが大きな点。去年(2006年)は実用性、可搬性(折り畳みの簡単さ)が最上位、今年(2007年)は、スポーツ性、特異性が最上位。その権化として固定シングルを導入!そして、昔通りに乗れる自分に満足!一枚のギアで10%の勾配から平地で55km/hオーバー迄カバー出来る状態に満足である。平均ケイデンスは110rpm程度、最高ケイデンスは178rpmってところ。20年以上昔の競技時代と較べても、加齢を差し引いたら十分納得できる状態。
 これは、自転車趣味という分野で、望む結果を得るに必要な力は如何ほどか?を自分なりに見極めて、その自分の理想をトレース出来るようなったという満足感を象徴している。

6.中央森林公園で自己新!オ・モイヨWWで21分16秒は納得のタイム。
 タイム的には平凡だけど、自分の今の身体能力から考えると妥当なタイム。このタイムの速い、遅いではなく、今年冬にファーストランでのタイムから、自転車のモディファイと身体能力、コース攻略のイメージから予想したタイム通りで走れたというのが最大の納得点である。イメージと実際が一致する!という感覚が単車の世界以外でも味わえたというのが大きなポイントである。昔、単車で中山サーキットを57秒狙いで走って、その通りが出た時の嬉しさに通ずる感覚だ。これは、実は自転車趣味全般に通じる事だが、やる事が思い通りの結果を得られるという実感を得ているって事を象徴しているのだ。自転車に関しては、その効果を得るための自分なりの因果関係(構造と機能等・・・)を把握できているという自負も含んでいる。

7.心肺能力向上!安静時心拍数はアンダー40に!
 持久力アップの運動メニューの実践の効果か、平常時でも45前後、安静時では37程度で静定した心拍数が保てている。運動量から言えば当然の事で、自画自賛では無いけれど、今の運動量を継続しての賜だと思う。健康維持に行う運動が習慣化できている事を示す効果だ。一寸した心配は脈圧が結構大きい事。最高血圧が120弱、最低が70弱で脈圧としては50程度であり、許容値とは言っても、推奨40にはほど遠い。ただ、心肺機能向上のために続けている水泳だが、5km程度の距離なら完全にペースを固定して無休で泳げるように維持しているが、こういう生活の成果だと言えよう。
 少しの気掛かりは、第Ⅰ度心房ブロック、徐脈と診断された事。

8.私的に開発した完全無潤滑摺動を許容する材料の外注先の確立
 健康ネタ、家族ネタ以外の初登場!?仕事とは言っても、個人の趣味的な仕事である無潤滑摺動の完璧なる実現のために開発した摺動組み合わせの一方の材料だが、これを作る外注先がほぼ確立できた。結果、今年は結構大きな企業との取引も始まった。今、その商売は、一族の会社を興して行っているけど、将来的にはもう少し大きな取引が出来るようにしたい。今回の製品の初号機は、官公庁に納品される予定だが、同分野の開発を行っている日本有数の大企業の摺動組み合わせなんかより遙かに高性能である。
 なんといっても、摺動の固定側硬質材料も私の特許で製作する特殊なセラミックス。運動側材料も摺動機構を従来の面/面とは異なる摺動機構で、硬質材料ながらも脆性破壊せず、表面処理ながらも摩耗状態に影響されない摺動面組成を維持し、懸案の膨張係数も通常セラミックスの1/20という優れた特性を確保している。
 大きな商売に結びつけたいものである。

9.高圧洗浄機購入!溶接機、工作機械、コンプレッサーに継ぐ家庭への導入
 家にいれた工具類だが、充電器、旋盤、ボール板、溶接機、コンプレッサー・・・・あるけど、今度は高圧洗浄機を買ってみた。高所の汚れ、洗車、ガレージの土間コンの掃除等に活躍しそう。我が家は、一般家庭からみると有り得ない工具、機械類が沢山ある。エアツール、エアブラシなんかも可能。インパクト系工具も勿論ある。カスタムのワンダーランド状態である。

10.掲示板スパム対策完成!
 イタチゴッコだが、掲示板スパム対策が上手く機能している。迷惑投稿は夏を最後に遮断出来ている。何時まで今の平穏は続くだろうか?
 表示部のHTML化、表示ファイルの暗号化、臨機応変なパスワード制、書き込み時への認証キー制、NGワード、文脈チェック、サーバー設置国チェック・・・・色々な対策を講じての成果だが、次は敵はどう来るか?

 以上というところ。総論としてはライフスタイルを大きく変化させた家族が増えた事が第1位であるのは当然だが、以後上位は、2~4位が健康ネタであり、この一年で健康に対する意識が自分の中で大幅に高まった事が判る。序で、運動ネタで健康というよりも運動する事で身体機能が高まった事が重要事項となっている。下位の8位以降は、個人の好奇心探求活動の現れというところ。私事ながら技術的な話の特許、商売ネタ、使った事のない高圧洗浄機、対スパム機能を盛り込んだ掲示板CGIの作成というところ。
 因みに、これらの生活を支えるための仕事に関しては、探求対象となる新しいテーマも無くは無いけど、深みが無いし、見ただけで答えが出るという感じ何で今一盛り上がりに欠けるためランキング圏外となった。実際、脳内活性度を回転数で表すと平日日中はアイドリングに近い状態。帰宅するとトルクバンドに入り、運動から就寝前はパワーバンド。休日は四六時中パワーバンドに入っている感じである。

 ということで、自分的十大ニュースっていうのは、関心事における因果関係が見極められたか否かで重要度が変わってくる。今年は、健康、ダイエット、自転車趣味において、自分の考えたイメージを実践して、思い通りの結果が得られたという実感が最大のニュースである。なんていうか、イメージする事を信じている(確信を持てている)から、難儀な事でも続ける事ができるのである。やっても駄目かもと思うと、多分、取り組みは続かない気がする。こういう性格なのである。良く言えば、信念を持ち妥協を許さないのだが、執念深く、偏執的と言う事でもある。

 ところで、今年一年を漢字で表すと『偽』だったけど、自分の生活を漢字一字で表すと、

                 『活』

 とでも言おうか?2006年に整えたコンディションが花開き、単車との接し方でも乗る事が最重要となり、自転車でも実用性、可搬性重視から趣味性へ変遷し、思い通りの結果が得られるような実感が得られるように戻れた意味で、いつの間にか失った感覚、考え方で本来の自分を取り戻す事が出来たと言う事である。復活、再生、活動、活発という言葉から選んだ言葉は『活』だが、これは決して、石田純一が元カノと復活したために選んだ『活』とは違うのである。

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2007年、客観的10大ニュース

 今年最後で今年の出来事で自分が感動した事、ビックリした事、呆れた事をピックアップしてみる。

1.日産GTR登場!
 自動車、単車好きの自分からすると、日産GTRの登場は驚きである。ブログの記事にも書いたけど、何と言っても縦置きエンジンでFRベースの4WDという構成ながらもトランスアクスルという構成を市販車であるGTRに採用した事が、とにかく驚きである。
 何と言っても、方法論的には古典的かつ基本的だが、手間を考えると、『そこまでやるか?』って事。アテーサE-TS、V6ツインターボ、、、、といった事よりも、何と言ってもトランスアクスルって事である。前の記事で想像していたドライサンプって機構にはならなかった模様だが、それでもセミドライサンプというモノらしい。詳細は知らないが、日本車で、ここまでやるってのは驚きである。

2.Ninja 250R 登場か?
 東京モーターショーでも発表されていたが、カワサキの新世代250ccバイクである。市販はされていないが、ZZR250の後継機での登場が予想されている。
 仕様的には本気仕様ではないし、マニア向けとは言い難いが、それでも、このクラスに、この出で立ちでニューモデルが登場するとは想像していなかっただけに、驚きである。
 似たような存在で、ヤマハのYZF-R125というのが海外で発表されたようだが、これは国内販売の期待は薄そう。
 中小型クラスのスポーツバイクというと1980年代のレプリカブームを彷彿させるが、果たしてどうなるか?興味深いところである。

3.不祥事発覚多すぎ!
 食品偽装、政治家の事務諸費偽装、社会保険庁の年金問題、薬害肝炎・・・・とあまりにも嘘と偽りが多く発覚したのも印象的。おきまりのパターンで組織のトップが深々と頭を下げるシーンが多いが、謝罪するなら切腹しろ!って思うんだが、頭下げて終わり?っていうのが納得出来ない。企業でもトップの首を付け替えて終わり、、、、確かに社会的制裁は受けるだろうけど、偽装によって直接的に偽装された食品を食った人間に何にも無しか?っていうのは腑に落ちない。お決まりの言い訳は、偽装でも健康に問題無いんだと、、、でも、嘘付いた事での慰謝料は払わなくても良いのか?偽装、改竄、、、、こういう問題は故意もしくは管理不行き届きであり、罰金モノである。交通反則金、罰金は凄く高価なんだから、経常利益の50%くらい差し押さえてしまえと言いたいところだ。

4.ガキオヤジには敵わない、、、、
 超ローカルな話で恐縮だが、最近の教育制度の弊害を一身に集めたような奴がリアルで存在する。好奇心ゼロ、探求心ゼロ、独立心ゼロ、自覚ゼロ、自信ゼロでスペック志向、超依存体質、、、、私のストレス、不満は過去記事参照として、こういう奴が溢れているのが現実であり、日本の将来の暗さを暗示しているようだ。

5.自転車を取り巻く環境の変化
 自転車が良くも悪くもニュースに取り上げられる頻度が高くなってきた。良い面では、健康増進、環境負荷低減というモノだが、悪い面では、ユーザーモラルの酷さ、自転車が加害者となった交通事故等々、社会的に注目度が上がっているのが実感できる。
 但し、残念ながら自転車の良さよりも、ニュースとしては悪さの方が目立っているように思う。実際問題、モラルの悪さは凄いものである。

6.ガラスのような好景気
 日本経済は今、景気拡大期に入っているらしい。その要因は、中国経済の発展に引っ張られているのだが、他にも円安による輸出産業の恩恵ってのも大きいようだ。しかし、政策的にデフレ誘導の低金利政策は本当に良いのか?とも思える。
 大企業牽引の好景気は確かだが、中小零細企業の実態は厳しい現実があり、今社会問題化しつつある格差の問題も抱えている。
 産業実態も実際には産業空洞化も進んでおり、今の好景気っていうのは、バブル期以上に実態の無い好景気のようにも見える。景気には波が必ずあるけれど、今の波が退いた時の不景気において、どうなるか?を考えると寒気がする。
 仮に、この異常な低金利で中国等の消費によって景気が牽引されているとすると、今後の世界的な資材不足による輸入品目のコスト上昇に伴う、実質的な物価上昇による生活破壊の進行、国内景気の低迷が進んだ時に、インフレ懸念を抑制する手立てが無い状態ともなれば、どうなるのだろうか?

7.長い夏、暖かい冬
 今年を振り返ると年初の冬は雪が殆ど降らなかった。昨シーズンは冬タイヤが活躍した時は一度もないのである。
 それに加え、夏の長い事、、、、、広島で最初の夏日は5/8、真夏日は5/26であり、最後の真夏日は10/8、夏日が10/25である。11月でも最高気温20℃以上の日は結構多いし、12/26でも最高気温16℃である。
 一概に温暖化の影響とは言えないが、それにしても長いスパンで見ると着実に熱くなってきた。

8.参院選、民主党躍進
 政治の世界では、参院選での民主党の躍進、安部内閣の退陣、福田内閣の低迷ってのが印象的だ。今の参院選での民主党の躍進について、自民党政治の不満への受け皿としての民主党であり、それでも消去法的な選択の結果だという意見も聞く。確かに、その通りだと思う。しかし、衆議院での自民党の多数の原動力となった小泉チルドレンって人達も、世論を反映した上での配分議席とは思えない。
 さっさと衆議院の解散、総選挙をすべきであろう。
 今の『ねじれ国会』を良く言わない政治家も居るが、逆に健全だとも思う。絶対的な安定多数での国会では少数意見は思想は完全に排除される。ただし、数の論理で廃案連発は頂けない。
 国会における政党議席数に数値的上限を設け、一党、一会派での過半数が不可能な数的制約を設けるのが緊張感を与えて良いと思うのは安直な意見だろうか?小規模であれ連立しなければ過半数が取れない構造にすれば、枠組みの多様化による緊張感が生まれる筈である。

9.勤務先社長交代
 世間的なニュースというよりも、超ローカルであるが、87歳迄現役で社長を務められていた方が、88歳の米寿を迎えるタイミングで会長に退いた。とは言っても、実質的な企業組織の運営が変わったか?というと、全く変わっていないのだが、、、、勤務先の経営者の交代ってのはニュースに入れない訳にはいかない。
 それに伴い、役員さんの退任も結構多い年であった。新しい経営陣の元、この会社はどうなるのだろうか?景気、業績的には絶好調と周辺からは言われているが、結構、危うい空気が漂っている。

10.石油製品価格高騰
 この辺になるとニュース的な関心度は高くないのだが、原油価格の高騰に伴う、石油製品価格の上昇が印象的である。ガソリンはリッター150円を突破、灯油も18リットルで1800円を突破、、、、、原油を原料に製造しているモノは軒並み価格上昇である。
 他にも、小麦粉等の食品関係も価格高騰しており、お菓子は価格据え置きながら、内容量は減量、乳製品も価格上昇、、、、、と庶民の暮らしを直撃中である。
 金利は低くても、物価は上昇していくのか、、、、。

 以上のような感じである。いろんな事があったけど、特に印象に残った事というのは、実はあまりないのが本音である。但し、大きな時間の流れで見ると、価値観が安直志向、即物志向に流れているように思うのは気のせいか?全ての現象は、なんらかの脈絡を持っており、何を最初に変えるべきか?変える必要があるか?その辺りをしっかり吟味して社会を作る担い手には行動して貰いたいモノだ。

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2007年12月30日 (日)

折り畳み小径車のススメ

 去年、自転車に復帰した。その際は、収納性、可搬性を最重要視していた。それ故に、折り畳み小径車を選んだのだが、今年は、自転車熱の高まりに併せ、身の程にあったスポーツサイクルを選んだのである。
 ここまでは、総括記事に書いたけど、世間一般でみると、小径車が人気を得ている反面、アンチ小径派が居るのも事実である。

 小径対アンチ小径派の議論の争点には、ホイールサイズの違いによる走りの差っていうのが大きなポイントのようである。そこで興味深いのは、ホイールの持つ慣性と、回転運動しているホイールの持つ回転の運動エネルギーの話である。

 ここでいう回転運動のエネルギーっていうのは、E=(1/2)×I×ω^2であり、慣性モーメントと角速度の二乗の積から求められている。ここで言う慣性モーメントはI=mr^2で定義されており、角速度ω=v/rであるので、回転のエネルギー自体は、v、つまり円周の周速度と回転体の質量だけで表されることになる。つまり周速度が等しく、運動する質量が同じであれば回転の運動エネルギーは等しくなるのであり、そこには径の違いは影響しないのが真実である。

 その一方で慣性モーメントという概念は一定の回転運動状態(停止も含む)を変化させる際の抵抗のようなモノであり、慣性モーメントが大きなモノほど、運動状態を維持し続け易いという性質を示している。つまり、静的(質量的)な値であり、純粋にI=mr^2で定義されるものである。つまり、質量が大きく、半径が大きいもの程、慣性モーメントが大きく、動き出しにくく、加速し辛い。しかし、一定の運動状態にあるとすれば、速度も落ちにくいという性質を持っている。

 一言でいって、慣性というのと、回転のエネルギーってのは別個のモノである。

 ただ、このような前提で、絶対的に車輪の周速度を上げるには、どちらが小さな仕事で済むか?というと、質量が小さいものという結論になる。そういう意味で、物理的に小さな小径の方が質量を小さくする事が出来る分、一定の周速度に上げるのに必要な仕事が少ないのは道理である。
 一方で、慣性に目を向けると、回転状態の保ちやすさ、回転変化のしやすさのどちらを狙うかによって、慣性モーメントを大きくするか?小さくするか?が選ばれる。自転車以外の回転機械で慣性云々を考えるとフライホイールがそれに相当する。そして、フライホイールは用途に応じて適切な慣性が与えられているのが現実である。車などでは、延々と回転を保たせるならフライホイール容量は大きくなるし、レスポンス重視ならば小さくなる。

 自転車においても、現実には、使い方(等速運動なら大径、加減速大なら小径)、パーツ類の普及度、外乱に対して影響を受ける角度の違い、2本の脚の往復運動故のトルク変動の吸収度合・・・・様々な要因によって答えを一意的に定めることは難しいのが現実では無いだろうか?

 実際に色んな場面での議論を見ると、小径車故の展開の少なさによる、漕いでも進まない!って意見、それと同レベルで展開が小さいがために、漕ぎ出しが軽い!って意見も含まれており、いろんなレベルで、かみ合わない話が飛び交っているようにも見える。

 そんな事はさておいて、折り畳み小径車に乗って、フルサイズに乗って、どうか?と考えると、折り畳み小径車、更に、自分の愛車のようなH型フレームの自転車では、収納性、可搬性、乗降性が非常に優れており、一寸した時間の合間に自転車に乗って気楽に遊べるという意味で、一日24時間の内での付き合う頻度が多く、そういう意味で、気張って乗ってしまうような本格的なスポーツバイクよりは良いなぁ!って思っている所である。
 このH型フレームでの乗降性っていうのは、単車でいうとスクーターみたいな要素であり、脚も前から跨げるってのは、思いの外、楽さを助ける要素である。
 小径か否かよりも、折り畳むという工具レスで、バラけないアクションで、小さくなるってのは、結構重要である。小径車でも折れないと結構長い。長いと持ち運びには苦労する。特に、私のように民家の二階が書斎で、階段が一箇所旋回していると、持ち運びには壁にぶつけはしないかと気を遣うけど、折り畳みなら心配無用である。ホイールを外すと、ホイールと車体を別々に運ぶというのが面倒臭いのである。気楽って言う意味では、工具さえも使いたくないのである。車のトランクに投げ入れて、ふとした時に出して遊ぶ、直ぐ仕舞えるってのは、結構ポイント高いのだ。

 自転車っていうのが乗ってナンボって考えると、可搬性、収納性、乗降性って3要素は、乗る頻度の高さに直結する要素であり、そういう要素でみると、この3要素を満たした自転車の一つである折り畳み小径自転車っていうのは、結構お奨めである。

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2007年、バイク総括

 バイクについては、それ程大きな変化は無かったものの、自転車に乗る時間が多くなった分、努めて乗るように心掛けた点が大きな所である。

 それを顕著に表したのが、一寸した休日には喩え少人数でも、近距離であっても、ツーリングに出掛ける事にした点である。
 2007年の11月には二日程自由になる日があったのだが、その二日とも、ダブルヘッダーで、のべ4台の単車に乗って、走り回ったのがそうである。

 今の関心事と言えば健康管理だが、それに意識が移ったのは、始めにダイエットであり、ダイエットの決意は、ツナギが着れない、身体がキレないという単車が上手く操れない点が大元である。
 そういう問題点は、ほぼ完璧に解消されており、今は、20年前と同等以上に乗れていると思うし、乗っている時の楽しさも当時と変わらない。それ故に、少しでも乗りたいという衝動に駆られるのである。その気持ちの変化が、先のようなダブルヘッダーツーリングに繋がっていると言える。

 持っている単車も2ストローク+ミドルツイン+シングル+下駄バイクという構成であり、趣味も完全に固まっている。こういう状態に辿り着いて久しいが、この価値観は、単車に乗って25年以上の時間の中で固まったもので、これから大きく変化することも無いと思う。
 バイクをコレクターズアイテムとして捉えた時に、チョット欲しいか?って思うのがドリーム50、今の価値観の延長の中で揃えたいのがVJ23の最終ガンマの輸出仕様車、アイテム+現価値観ではRVF/RC45ってモデルが興味の対象だ。
 但し、今の状態で大きな不満がある訳でもなく、欲しいモデルが良いコンディションで見つかった時に買うか否かを判断する事になりそう。今の段階では切迫性は無い。

 そんな訳で今年をバイク乗りの面で振り返ると、25年分身体能力を戻した事により、昔のように寸暇を惜しんで乗りまくりたいという衝動が顕れた年という事だ。身体を取り戻したのは去年の話だが、実際に心がフィジカルコンディションに同調し始めたのが今年と言う事である。以前、健康管理における問題点の解消と身体の機能の追随性にズレがある記事を書いたけど、物理的な肉体改造が完了しても、それに応じた精神性が蘇るには、やはりタイムラグが有ると言う事かも知れない。そのズレが解消して、20年前と同じ生活感が生まれた年でもある。

 そう、単車に乗り始めた頃の原点に戻ったような感じである。純粋に峠を走って楽しいんで、ただただ走りたいというところ。カスタム、改造、購入・・・二の次である。
 2008年も、一寸した休日が取れれば150km級で構わないんでワインディングツーリングに出掛けまくるだろう。

 一応、テーマ別の総括記事は、これで終了。大晦日の明日は、客観的、私的十大ニュースの予定!

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2007年、自転車総括

 さて、今日は予告通りに自転車総括、単車総括の記事をアップする。まずは自転車総括編!

 自転車趣味に復帰したのが2006年であり、今年は二年目である。そんな今年も自転車が増えた。今年増車したのは、ラングスター、531ロードである。去年がボードウォークから始まって、西DAHON、オ・モイヨWW(レ・マイヨW)、スピママ(SPEED)だった訳であり、去年の趣味への入りが、実用目的で折り畳み小径車に出会い、その折り畳み小径車の購入動機である収納性、可搬性を重要視していたために、仮にスポーツサイクルという方向に行っても、収納性や可搬性重視という前提から、DAHONのSPEED系、レ・マイヨWという折り畳みのスポーティモデルに留まっていたのが去年である。

 しかし、25年前はバリバリのサイクリストだった訳であり、スポーティで済む筈が無いのは、今考えれば当然だが、その通りに2007年には、スポーツサイクルの定番であるフルサイズに移行した。

 ラングスターを注文したのが2006年の12月14日の事。納車が2007年4月だから5ヶ月掛かった訳だ。フルサイズでも、突然に固定シングルに行ってしまったのは、オ・モイヨWW号で殆どの部分で満足したためってのもあるが、フルサイズのロードに移行すると僅差とは言え、本格派の方が良いのは判りきっている事。そうやって、オ・モイヨWW号に乗らなくなるのも嫌だし、そうなっていくと性格的に2ストのレプリカバイク乗りという第一意が失われていくような気がしたのが大きい。心はバイク乗りである。あくまでも自転車はバイクのための存在である。
 そんな気持ちの問題以前に、フルサイズ本格派ロードとは言っても機能的に大きな差異が無いという確信を持っていたのも理由であるが、そんな葛藤の末に、フルサイズならば折り畳み小径車では有り得ない固定シングルの方が楽しそうだし、用途が被らないので、どっちも楽しめるって事で選んだのが正直なところだ。

 実際、ラングスターTTに乗りまくっていても、やっぱり、オ・モイヨWW号に乗る頻度は減っておらず、二台買って、乗る時間が二倍になったと言うくらいである。

 そういう訳で、フルサイズの最新の正統派ロードというのは、興味が無い訳では無いが、積極的に買う理由が見当たらないというジレンマに陥り、更には、自分の身体能力に併せたロードを造るのは結構難しい(虚栄心、自己満足を満たすという条件で車種選びをすると、マニア心もあるためにハイスペックとなり、結果的に自分の身体能力で賄いきれない)というのも、最新のロードを遠ざける理由でもある。
 そんな迷いの中、大きな出来事は、ニシダサイクルさんに在った、東叡社で勤められていた小林氏によるレイノルズ531のフレーム(かなり軽いし、当時は結構高価だったらしい。先代店長がオーダーされていた品だそうだ。)を貰った事が大きな出来事である。
 このフレームと細々としたパーツ類をショップ及び常連さんから寄付して頂いたのが切っ掛けでロードが生まれたのである。この頂き物のフレームとパーツで作るロードとなると、現代のパーツのように組合せの制約は殆ど無いので、自分の身体能力に合わせたパッケージが簡単に出来るのも、フルサイズに乗ろうか!って決めた動機の一つである。

 このロード、ポジション、ギア比は自分の他の愛車と似たようなモノであるが、使っているパーツは新旧のハイブリッド仕様のバイク。構成的には昔仕様であり、ギア比等の組合せ自由度は最新のロード以上である。それ故に、拘れる所(特にギア比)は拘れており、あり合わせで作ったにも拘わらず今やジャスト9kgという軽量なバイクでもある。
 しかし、正統派ロードで、自分に合わせたロードであり、機能的にはオ・モイヨWWと殆ど同じ、、、、で、結局は、思った程乗れていないのが現状である。努めて乗るようにしているのだが、用途がオ・モイヨWWと完全に被っているのが微妙な存在である。

 それでも何とか乗ろう(何と言っても、ニシダサイクルさんの先代店長が入手されていた逸品で、乗って貰えるなら!ということで譲り受けた手前、、、)ということで、秋迄は夜中にマイコースを毎日30km程走っていた。晩秋になり寒くなってからは、自分の書斎でローラー台を回すのに活躍中である。確かに、ローラー台では小径車はNGだから、初めてフルサイズのロードが生きる道が生まれた訳である。ただ、当初はラングスターのホイールセットを履き替えてローラー台にも使う予定だったので、それ用のホイールセットが剰ったままとなっているのが玉に瑕である。
 そんな、自分の中では当初こそ扱いはどうすべき?って思っていた531ロードだが、乗り込む程に、他の自転車より良いなぁ!と思い始めており、結局、シェイクダウンしてからはホイールセットも流用→転用→新調、駆動系も流用→転用→新調、サドルのBROOKS化、細かいコンポ類も当時モノで統一気味にモディファイされている。
 今は、一番乗りやすい自転車だと思う状態だ。

 今、自転車は5台あり、その用途は次の通り、

1.西DAHON・・・・・ショップの常連さんとの中長距離サイクリング専用
2.オ・モイヨWW・・・風の強い時間帯にマイコースを走ったり、中央森林公園走行用
3.ラングスターTT・・早朝時間帯にマイコースを走る専用
4.スピママGTR・・・平日昼休みでの昼ポタ、町内徘徊、買い物、下駄代わり
5.531ロード・・・・・・夜間のマイコース、ローラー台専用機、今後はツーリングにも!

 まぁ、これ以上増やす事は必要無いと言えば必要無いのだが、2008年は、この用途別構成での入れ替えか、新たなる用途の開発と言う事になりそうだ。

 話がぼやけてしまったが、今年を総括すると、自転車を生活ツールとして取り入れたのが2006年であり、その主が実用性、可搬性、従が運動、趣味という主従関係だったものが、2007年では、主が運動、趣味で、従が実用性、可搬性という関係に逆転したのが大きなポイントである。一言で言うと、自転車が生活家財から趣味品に変わったと言う事である。もっと身近に言うと、車好きのオッサンで、若い頃にスポーツカーに乗っていた人が、生活の制約で、ミニバンに乗ってエアロパーツで武装していたのが、生活の制約を受けないスポーツカーに戻るような感じである。

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2007年12月29日 (土)

ベストポジションを生み出す。

 12/28の金曜から雨続きである。自転車というと、ローラー台くらいでしか乗れない訳であり、書斎の自転車の各部のメンテナンスを行いながら、今更ながらポジションチェックをしてみる。

 ポジションは何が正しいか?という事で、色んなサイトに色んな説が載っていたり、ショップのブログにはポジション出しで工賃幾らとかの話も見つける事ができる。そんな訳で、ポジションっていうのは、単車以上に自転車の場合は、繊細かつ重要である。単車でのポジションの場合は、操作という観点での位置決めとなるけど、自転車の場合は、操作でも動力を加え続ける上での姿勢という観点での位置決めであり、その適正値っていうのは個人によって千差万別であろう。
 そんな中、自分のポジション出しが正しいかどうかは別として、自分が自転車に乗って不具合の無いポジションっていうのは、どうやって定めるか?をメモ代わりに記録して見ることにした。

 第1段階としては、下半身の位置を決める。
 まず第一に大雑把な位置気味はサドルトップ~ハンガーセンター迄の距離であり、これは、靴を履いた状態で計った股下距離に0.875という数値を乗じた値で上述の距離を設定する。
 次に、そのサドル高さの状態で跨って、クランクを水平位置にした時に、膝小僧が一番前方に来ている筈だが、その膝小僧の膝の皿の裏側中心の真下にペダルスピンドルシャフトが来るようにサドルの前後位置を調整する。
 三番目は、その仮決めされた状態で実際にペダリングを行い、常用回転数下において足の裏にペダル踏み面からの反力を感じながらもゼロにならないようにサドル高さを微調整し、その微調整されたサドル高さに合わせ、サドル前後方向を微調整する。
 仮に反力(抗力)が感じれない状態となると足が届かない状態となり、場合によっては腰の芯がずれたり、脹ら脛が伸びすぎたりする。逆に、下死点で脚が伸びきっていないと脚力が活かしきれない。と自分では考えている。(あくまでも主観である。)
 というプロセスで、下半身位置を決める。

 第2段階としては、第1段階で決めた下半身に合わせた上半身の位置決めである。
 どんな用途の自転車にするかによって上半身の屈曲度合が変わるのだが、屈曲度合は、前傾度合というイメージではなく、上半身の畳み具合で表現した方が理解しやすいと思う。大きな力を生み出そうとする場合は畳み気味(へそに力を入れた状態、腹筋を収縮させ気味)であり、リラックスして乗る場合は伸び気味(伸びをした状態、腹筋を伸ばし気味)である。イメージとして下腹の感じは、ハーフスクワットの屈曲状態(必然的に前屈み、イメージとしては筋トレでのショルダープレスでしゃがんだ姿勢)に近い状態が前傾度の高いスポーツサイクル向け、スクワットの伸張状態に近い状態程リラックスした自転車向けとしている。
 因みに、スポーツサイクル的、腹筋に力が入れやすい状態で身体が沈んだ状態であっても、腹筋、背筋によって上体は支えられるのが基本であり、その上体では必然的に背骨の真ん中辺りから緩やかに前方に湾曲気味となる。
 その湾曲した背中から自然に腕を伸ばした位置にハンドルが来るイメージでバーの基本位置を決める。

 一般にハンドル位置はトップ長+ステム長(=リーチ)を基本にドロップハンドルの場合は、プラス幾らとか決めるけど、足でも大腿部、下肢部の長さの違いでサドル重心位置がシートパイプセンターに一致するとは限らないので、私の場合は、第一段階でサドル位置を決めた際の重心位置からの距離で考えるようにしている。その重心位置からバー迄の水平距離を如何ほどにするか?が鍵であり、その距離をリーチと考えて、リーチ=(胴長+腕長※)÷2+100とか、リーチ=中指の付け根間距離÷4+195といった式もあるようだが、大事なのは、先の段階で作った下半身でペダリングを行う際に上半身を最も楽に支える事が出来る位置を探す事である。
 数値的な適正値は、個人の体型、乗り方によっても異なり、乗り込んでいくと数値が幾らか?ってのが判ると思う。

 要は、自転車という機材で体力を動力に伝える時に、関節の稼働領域で最も力を楽に生み出せる姿勢をニュートラルポジションとして作ると言う事。特に、上体の位置気味ではそれが重要だ。下半身の場合、大腿部の有効稼働範囲を最大となるようにサドルポジションとクランク長を決めて、その上で、脚の付け根を中心とした脚の上下運動によりクランクを回転させる訳であり、踏み降ろす力が最大となる膝小僧が最も前方に来た上体で、受ける動力値が最大となるようにクランクが水平となるように位置決めする事だと思う。

 以上で大雑把なポジションは決まるんで、その上で乗り込んで一番疲れずに速く走れるポジションを各自が見つければ良いのである。

 因みに、私の場合、ハンガーセンター~サドルトップが680mm、サドルセンターからバーセンター迄が640mmである。シートパイプの角度が自転車によって異なるんで、サドルセンター≠シートパイプセンターなのは当然であり、それ故にサドルセンター~バーセンターの長さは、所謂、トップ長+ステム長とは若干異なっている。
 この二つの数値で高さを決める680mmって数値は、どの自転車でも完璧に同じ状態で2mmの狂いも無いが、前後方向の640mmって数値はハンドルポジションの上下方向の違いで、±10mm程度の範囲で異なっている。これらの数値の絶対値自体は、乗り手固有の数値であり、体力、年齢、経験・・・・によって様々な数値であり、基本的な位置決めで得られた見た目のポジションに乗り込んで行く事で各自の真のポジションに辿り着くんだと思う。
 因みに、我が家の5台の自転車だが、上記の数値でポジションを揃えたのではなく、各一台毎に良い具合と感じるようにポジションを別々に作り、その結果の長さを測ってみると偶然にも、そういう数値に収束したのである。この辺は、勘違いせぬように願いたいところである。思い込んだ数値を各車に再現するのと、各車で調整した結果、数値が揃っているのとは、意味が違うのである。自然と、そういう数値が生まれるような感覚を養うことが最も重要であり、それを感じ取って生み出せるように、考えながら乗り込んでいく事が重要だと思う。

 少なくとも限界に近い走り方をせずに、真っ直ぐとした道を走る範囲では、本当に自分にあったポジションが得られると、まず、どんなサドルを選んでも尻が痛いとか、腰や背中が痛いとかの問題は出ない筈。小径車だろうがフルサイズだろうが、150km/dayくらいは楽勝となる筈である。事実、自分の場合なら、レーパン不要だし、サドルもEverything OK!である。腰も首も手首も何処も問題無いのである。局所的な疲労で悩むこともない。更には、目的が似たような自転車ならば、動力性能的に、自転車の違い(舗装路に適応したタイヤとギア比さえ揃っていれば、車輪サイズ)による差ってのは、殆ど生まれないのである。
 もし、普通の自転車趣味人の方で、装具が無ければ痛いとか、自転車を乗り換えたら痛みが出るとか、そんな不平や不満を漏らす方が居たとすれば、それはきっと乗り方の根本となるポジションが乗り手にマッチしていない事の裏返しでは無いだろうか?或いは、乗り換えて明らかに劣ると感じる自転車の方が、実は身体に合ってないだけという状態の結果のように思える。

 今迄述べた話は、自転車という器具を用いて身体の力を推進力に変えるという範囲の話であり、それ以外の要素、路面のうねり、荒れ、下り坂、旋回性といった外乱に対する対応力に関しては、乗り手の身体を支える位置関係以上に、車体のスケルトンが持つ特性の方が支配的である。例えば、同じリーチの自転車であっても、ステム長、トップ長の比率も変わってくる訳であり、そういう意味では、自転車に対してふらつきやすいとか、安定してるとかの感想の違いはあるだろう。
 スケルトンと乗車姿勢で生まれる重量配分なんかも無視できない影響がある。
 他にも、動力を伝えるという使い方でも、通常の使用では稀な状況(かなりの高速度からのダンシングとか)では、スケルトンの持つ特性で、動力伝達性に違いがあるのは言うまでもない。

 このように、雨が降ると通常では気にしない事を考えたり、記事にしたりしてしまうのである。

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2007年、健康総括

 自分にとっての健康ネタと言うと、≒ダイエットなんだが、去年末の健康診断での胃部X線検査での所見有りという診断に伴う内視鏡検査、ヘリコバクターピロリ菌の発見と除菌を経て、今年二月での便潜血の発見に伴う腸検診、三月には壊疽性虫垂炎による虫垂除去術、その半年後のサイドの便潜血に伴う胃部腸部の精密検査受診を受け、これ以上無い健康な状態!との診断を頂いたのが先日の事。
 何にしろ、消化器官関係では、内視鏡、バリウム・・・を相当数用いて受診したのは初めての事。自分では絶対に無いと根拠無く自信を持っていた虫垂炎による手術というのも結構インパクトとしては大きかった。
 因みに、この際に除去した虫垂はフランクフルト大に腫れ上がった状態で破裂寸前だったそうだが、幸か不幸か、腹部に脂肪が全く無く、手術は極めて簡単だと褒められた事を何故か納得していたりもした。

 他には、特に健康を意識しての事ではないが、初夏以降煙草を吸っていないということ。この断煙ってのは、先の虫垂除去手術による入院生活で、院内禁煙というルールに則り1週間程禁煙したのが切っ掛けである。1週間吸わずに過ごした後に煙草を吸うと、何故か、異様に煙草が不味いのである。で、旨い煙草のブランドは何?ということで、販売機に並んでいる煙草を順番に買って吸ってみたのだあ、どれも今一である。最終的に、入院前の煙草に戻しても、何か、味覚が変わったのか?不味い。
 兼ねだして上手くないなら買わなくても良いか?というのが取っ掛かりで、禁煙が偶然に始まり、今に至る状態である。
 今でも、禁煙を続けるか?は決めていないが、一番良かったのは、起床時の口内の不快感が全く無くなった事と、歯が汚れなくなった事か?何時も真っ白で、口内の不快感がゼロっていうのは気分的に良い。禁煙して最大のメリットはこういう点である。
 但し、一般に言われている金が浮くとか、体調が優れるとか、心肺が強化されるとかの効果は全く感じていない。

 最後には、自身の健康への意識が高まった事。これは、先の二つの事に加え、身近な人が疾病が発覚して結構大変そうな状況を目の当たりにしたことが理由だ。
 その結果、従来以上に生活習慣病、それが重症化する糖尿病・・・・のメカニズム、癌、腫瘍についてを、真剣に考えるようになった事が大きな所である。
 生来の凝り性であり、好奇心旺盛な性格だが、健康に関する知識は随分と身に付いたと思うし、過去の知識と今の状況を結びつけるような思考の再構築を行ったのが今年である。ダイエット、医療、サプリ、運動・・・・・全てを健康、身体機能の健全性維持に結びつけて考えるようになった。

 考えてみれば、もう人生も折り返し地点を過ぎて、正しく後半戦である。残す半生を心地よく元気良く過ごすには、何よりも、健康が第一であり、日常活動の目的は、何よりも健康な身体を維持する事に労力を費やすという意識になったことである。
 これまでは、仕事がどうの、金がどうの、地位がどうの、という方向に色気があったけど、今は、自分らしく生きるための趣味と、それが満喫できる道具としての身体の維持という意味で健康を保つっていうのが優先順位として最高位になった事が大きい。

 と言う事で、明日の記事は趣味である自転車、単車の総括記事をアップ予定!

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2007年、ダイエット総括

 さて、暮れも押し迫ってきたので、去年同様に総括シリーズで記事をアップする。
 今日は、このダイエット記事と健康記事をアップする。

 2005年秋から結構したダイエットだが、2005年末にはダイエットを完了し、2006年、2007年とリバウンドすることなくコンディションを維持している。
 相変わらず、しっかり食ってるけど、この間で変わった事と言えば、運動を一日も休まずに続けているということ。決めた運動を休んだ間っていうのは、2007/3頃の壊疽性虫垂炎での虫垂除去術を受けた時だけである。
 運動の再開は、退院翌日からであり、運動休止期間は極めて短い。勿論、2005年末以降の忘年会、新年会、歓迎会・・・と職場中心での飲み会に参加したとしても、帰宅後には2時間の運動をキッチリ行うのは欠かした事がない。

 そういう訳で、ダイエットを総括するとすれば、決めた行為を休まずに続けてきた結果、体調管理は殆ど完璧に行えているということ。そして、ダイエットというか健康管理に日々行っているのは、次の事。

1.朝食抜きは絶対に無し。基本は御飯+納豆+牛乳+ヨーグルト+一品!
2.昼食、夕食を含む一日三食は定刻通りとする。
3.食事の際には一口で30回を目安にしっかりと噛む。
4.食順は、繊維質→タンパク質→炭水化物→脂肪の順番
5.毎日連続1時間の筋トレをサーキット形式で行う。
6.毎日連続1時間、距離で30kmを運動強度60%を維持して自転車に乗る。
7.天気の良い平日の昼食後は12kmの昼ポタリングを行う。
8.最低週一回はSCにて最低2000m、基本は3000mの連続水泳を行う。
9.SCで水泳が2000mの時は、必ずフリーウエイトのベンチプレス等1時間行う。
10.毎週土曜日は堤防道路中心で30km走行を追加して行う。
11.天気の良い休日は堤防道路中心で30km走行を最低二本は追加して行う。

 考えてみれば、5~11の項目を継続するってのは、やりすぎって気がしないでもないが、こういった運動を続けることが出来るかどうか?ってのは、決めた事を、『習慣』として捉える事が出来るかどうか?である。

 何事も『習慣』化してしまえば、結構気楽に出来るものである。習慣化するには、最初或る程度の怠け心が出るけど、それを乗り切るのが大切であり、最初だけ、義務感を持つ事が必要である。義務感というか使命感を持つ最も手っ取り早い方法は、ブログのような生活日誌を記録することである。
 記録を書く場合には、やっていなければ嘘を付く事になり、その嘘は、自分の心がどう思うかだけの話であり、他人には迷惑が掛かるモノではないが、自分を誤魔化す事は、誰しも良い気分では無い筈である。自分を誤魔化す事に抵抗を感じるために、生活日誌のような日記を付けるのは良い事だろう。

 ダイエットを総括すると、ダイエットとは、継続であり、継続するには、ダイエットのための行為を習慣化する事であると言う事だ。

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2007年12月28日 (金)

昭和と平成

 水曜日のビートたけしさんが進行を務める番組で、昭和と平成の間、1989年、平成元年という時にスポットを当てた番組を見た。

 番組の中では、昭和天皇、美空ひばり、阿久悠、松下幸之助、中内功・・・といった昭和を活躍した人の生き様と当時の時代、世相を振り返る事で、現代の世相や価値観の原点を探るというモノである。

 そんな事はさておいて、1989年、平成元年がどういう年であったか?を振り返ると、バブル真っ盛りの時代というのは有名だが、自分はどう過ごしていたか?を考えると、大学院進学の年であり、世間のサラリーマンのような形でバブルに接していた訳ではない。
 但し、当時は、大学生活前半の塾講師のバイトという形から、塾を作って経営(運営)するというスタイルに移った時でもあり、一般の大学生以上の収入があったのは確かである。バブルの恩恵を直接受けた訳ではないが、当時は、自分の塾の給料日、バイト講師の給料日、家庭教師代金の受領日を毎月1日、11日、21日と定め、10日毎に十数万円が手元に入るような生活をしており、夏休み、冬休み、春休みの講習シーズンでは、通常月の2~3倍の収入を得ていたような時期でもある。
 まぁ、バブルという時代で、親の子への教育熱が高まり、親の収入も潤っていたために、教育費を存分に支払う事が普通という時代故の生活であったのは確かだが、それでも、バブルの象徴である株や絵画で儲けた訳でないので、それなりの自負は持っている。

 そんな時代への回想とテレビ番組の進行の中で印象深かったのは、モノの価値を定める定価という概念が消失し、価値を決めるのは供給側から消費側に移ったという話と、歌謡曲の評価で、昭和以前の歌詞から内容が社会的普遍的に通用するモノから平成以降では書き手個人に特化したモノに変化したという話である。
 大きくは価値観的には、全てを判りやすい尺度に当て嵌めて、その価値判断は普遍性を有さずに全くの個人主義に変化したという印象である。そういう価値観の変革点が1989年という時代だったのだろうか?ふと、そんな事を考えたりする。

 今の時代もそれなりに好景気であり豊かな時代とされているが、当時と現代では、やっぱり同じではない気がするし、昭和世代の自分から見ても、国としてのパフォーマンスは落ちているのでは?という気がしてならない。

 話が少々跳ぶが、ここ数年の傾向は、全ての分野で懐古主義的な空気を感じる。テレビCMで選ばれている音楽も1980年代モノが多い。工業製品のレトロ志向は車、単車を見ると顕著に判る。最近では、パチンコの宣伝で、仮面ライダー、宇宙戦艦ヤマト、北斗の拳を始めとした昭和漫画を題材にしたモノが多い。通販番組の定番は懐かしCD大全集ということで昭和のヒットソングをまとめたCDの通販は今や定番であるし、民放からNHK迄、深夜の番組プログラム終了後は、昭和の映像と音楽を流すのが定番である。

 この傾向は以前から判っていたことで、当時を懐かしむ風潮が大きいのかなぁ?って程度しか思っていなかったけど、最近は、殆ど全ての商品のキャラクター、イメージソングに昭和をモチーフとしたモノを用いている様を見ると、商品の購入層を1980年代に思春期を過ごした人をターゲットにする事が商売繁盛の秘訣と売り手側のマーケットリサーチの答えが出たんだろうと思えてくる。
 消費を牽引する世代っていうのは、昭和(1989年)以前に思春期を過ごした人達というのが日本の姿のように見える。そうは言っても、既に2007年も終わろうとしており、1990年以降で17年も経過しているのだが、90年代以降の世代による消費の牽引というのが全く見えない日本っていうのは、この先大丈夫か?と思うのは考えすぎだろうか。或いは、もう10年もすれば90年代以降2000年代初頭の消費意欲を刺激するような時代がやってくるのだろうか?
 ただ、回想すると1980年代、1990年代において、その時代における30代以上の消費世代の購買意欲を刺激するような販売戦略は無かったし、1980年代では、とにかく先(未来)を向いた新しいモノに強い関心を示す人が多く、そういう方向で社会は動いていたように思う。現代においては、先に向くというのではなく、懐古するという後ろ向きの方向で社会が動いているようにも思う。

 ただ、マーケットの活性化、社会の活性化に今の40代を刺激するための懐古戦略があるとすれば、それは多分失敗に終わるように思う。当時の奴らは、そんなに懐かしむ傾向は無く、どちらかというと新しい物好きである。新しい価値観には飛び付くけど、経験済みの分野には無関心って奴が多いのも事実であり、どんな時代でも新しい価値を提案し続けるようなマーケット戦略が無いと、40代以上の関心を集めることは出来ないのでは無いだろうか?

 勝手な話かもしれないが、少なくとも、自分からみて、懐古調のギャンブル、懐古調の車やバイクに全く関心は無い。関心があるのは、見た事も無い、想像も出来ないようなモノ。想像出来ないから味わってみたいという気持ちが芽生えるのである。好奇心を刺激するようなモノで無ければ購買欲もそそられない。
 だから、単車でいうとゼファー、W、今のXJR、CB-SF系なんか、全く興味ないし、欲しくもない、面白そうにも思わない。今やビンテージのガンマやGLが自分のお気に入りだが、このような単車は1970年代、1980年代には前例の無いモノで、乗らない限りは判らない代物であり、それ故に、興味を持ち、購入に到った訳である。
 自分のような考え方が普通とは思わないが、やっぱり時代が進むんだから、新しいモノを提案し、好奇心を刺激し続けられるような社会であってもらいたいものである。

 常に、好奇心を刺激する社会とは、即ち、新しい価値やモノが矢継ぎ早に登場する社会、技術革新の早い社会である。即ち、創造力豊かな人が多く居る社会の事。つまりは、既存の価値観の上に新しい発想が出来る人が沢山いないと駄目な筈である。

 そういう目で、ふと周りを見る。自分の勤務先の同僚、部下、上司、関連会社のスタッフ、時々勉強を教えてやる子供達・・・・・こりゃぁ、期待出来そうにない。創造力があり、好奇心があり、独立心があり、って奴が殆ど居ないのが現状。
 もしかしたら、社会を構成する人間のパフォーマンスレベルが下がりっぱなしなのか?そう考えると、みんなみんな、体裁を取り繕い、結果(金)だけを求めるというのが標準という社会になってしまったのだろうか?それなら、最近のモラル低下の問題、公営ギャンブル、公認ギャンブルの異常な普及も説明できる。

 こんな時代に向かった節目が番組で言う1989年という年だったのだろうか?

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デジタル家電、更新すべきか?

 パソコン、デジタルカメラといったデジタル家電が関心の対象だった頃は、頻繁に機種入れ換えをしていたけど、最近は、動けばイイや!ってスタンスであり、別に不満も無いので長らく放置プレイ中である。

 ざっと思い浮かべると、

1.パソコン
 嫁パソコンは何故だかXeon2.4GHzのデュアルパソコン。デュアルコアではなく、シングルコアのデュアルCPUという10年前ならハイエンドな構成。マイパソコンは、今更ながらカッパーマイン1GHzのデュアルパソコンである。これも10年前ならハイエンドという構成。共にビデオカードは今更ながらのAGP接続でMGA系のカードだ。嫁パソコンはメモリーがRIMMを2GB、自分のはSDRAMを1GB、共にOSはWindows2000だ。稼働開始は、その時点で既に型遅れである2005年で二年前。二年前に三年落ちだから5年前のパソコンである。しかし、十分に動く訳であり、特に買い換える予定は今のところ無い。

2.デジカメ
 これも娘の誕生に併せて購入したのがオリンパスのC720UZであり、その時期、一寸凝ったために2002/11くらいにC730UZに買い換えて以降はずっとそのまま。スナップカメラとしては、35万画素を愛用していたけど、電池の消耗が激しい上に、全体的にくたびれてきたので2003/1にFinePixのA101、A202という一番簡単な固定焦点カメラを導入して変更無し。C730UZでも320万画素、A101が130万画素、A202が210万画素で完全に時代遅れだが、ハガキサイズ、L判出力なら全く十分。大体A4サイズで出力することなんて無いのだ。それ故に、最近の1000万画素級には魅力を感じない。寧ろ、保存データのデカサが不愉快だし、電池の消耗の激しさも不愉快。

3.テレビ
 これは今の家に引っ越してきた1999年製のアナログのプログレッシブテレビである。我が家は、CATV契約しているんで、デジタルチューナーをリリースのタイミングで導入しており、既にデジタルハイビジョンで視聴中だ。
 昨今は、液晶、プラズマが流行だが、昔のDVD、VHS、子供のテレビゲームといった場合は、低解像度で見るんで、その場合は、高解像度専用の液晶モニターでは思いっきり滲む。今の時代はHDとSDが両方綺麗なのが良い。そういう意味では、焦点固定型?の液晶等よりも、焦点切り替え式ブラウン管の方が綺麗に見える範囲が広い。
 当分、買い換える予定無し。但し、寝室の小さなテレビ等は液晶に変えるかも知れない。

 こんな具合である。既に数世代遅れた機器ばかりだが、関心が無くなると、どうでも良くなるモノである。勿論、テレビは兎も角、パソコンとデジカメは新調したい気がするのだが、先急いでって感覚には為れない。2008年は買い換えるだろうか?

 現時点で興味があるのは、デジカメならC730UZの後継機であるSP560UZって機種。一眼レフ迄は必要無い。魅力を感じるのは広角が27mmってところ。パソコンについては、今ならクアッドコアのCore QX6600搭載のパソコンかなぁ?ってところ。或いは、ノートパソコンを無線LANで繋ぐのも悪くないか?って所。

 あっ!ゲームについては購入予定無し。娘がDS持ってるけど、自分的には無関心だし、Wiiも必要なさそう。

と、そんなところである。

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2007年12月27日 (木)

ママチャリ指導開始か?

 自転車のモラルの悪さもあるけれど、モラルの悪さも故意によるもの、無知によるものがある。故意による違法行為は、モラル指導が必須だが、無知による違法危険行為は、ルールの周知によって或る程度は防止できるものである。

 という理由かどうかは知らないけど、この度、ママチャリユーザーへの自転車使用法のガイドを作成するという。元ネタは、下記のニュースである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071227-00000020-jij-soci

 この内容自体は、既存の法律を熟読の上解釈すれば、判りきった事でもある。しかし、自転車屋さん、ホームセンターでは、普通に売っているものであり、付けたらNGって認識はママチャリユーザーのオバサンには無いものだろう。

 このニュースによると、

1.ママチャリに乗せれる幼児は一人迄
 これは、子供乗せが前用と後用が別個に売っているために、両方付ければ物理的には二人乗せる事が出来るという事から、二人乗せる事を普通と思っている人が多い事による対策だろう。

2.傘固定運転はNG
 傘というものを固定した段階で、自転車の寸法が普通自転車には当て嵌まらないし、突起物が出っ張ったモノは厳密には使えない筈だが、傘固定具が売っているので使うって認識を持つオバサンには罪の意識は無い。そういう意識への対策だろう。
 因みに、名古屋とかでは傘の固定具は既にNGだった筈である。

3.携帯、ヘッドフォン禁止
 これも当然といえば当然。どちらかというと、加え煙草もNGにして欲しいくらいである。自転車みたいな不安定な乗り物で携帯電話っていうのは、危険極まりない。勿論、手放し運転が出来る出来ないという問題ではなく、安定度が低い乗り物が咄嗟の状況で対応できるかどうか?を考えると、技術的な問題以前に常識的に当然な話である。身を預ける自動車でも携帯はNGであり、自転車でメール送受信操作とか有り得ない。
 オッサン連中でよく見るのが、がに股+加え煙草で、吸い殻のポイ捨て運転だが、こういうのは死刑でも良いくらいである。

 他にもあるんだろうけど、取り敢えず、周知する事で効果が得られそうな範囲からでも取り組んでいこうって意志が感じられるニュースである。
 それにしても、自転車=車道って原則の筈が、道路整備では歩道内自転車通行帯整備が進んでいる。おかしな話である。歩道内自転車通行可ならば、歩道は全てディンプル舗装とか、凸凹舗装にして物理的に速度を殺す方法を入れないとダメだろう。

 しかし、今日の昼ポタではトレーニングウェア+ママチャリ+オッサン、学生+シティサイクル、ジャージ、レーパン、メットのローディを見かけたが、全員信号無視しやがる。信号守っているのは自分だけでは?とも思えてしまう程の酷さだが、悪いの解って信号無視するってのは、どうすれば良いのだろうか?遮断機でも必要か?或いは、交差点には5cm位の凸凹ギャップを付けて自転車は絶対に止まらざるを得ないような障害物でも設けないとダメなように思う。取り締まりでは限界がある。
 それにしても、やっぱり許せないのは、自分でスポーツサイクル愛好家って思ってる連中だ。こいつら信号くらい守れと言いたいけど、信号待ちしてるスポーツサイクルなんて見たこと無い。有り得ない。

 ただ、いくら周知徹底を計るとは言っても、罰則を伴い実効性が無いと何の役にも立たない。取り締まりルールの簡略化も併せて議論すべきだろう。

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気になる一台

 買うか?買わないか?というと、買わない可能性が高いのだが、気になる折り畳み小径車がある。

 そういう記事は、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2007/12/post_1855.html

 にも書いており、そこでは、そこそこ走る改造ベースとしてNFヘリオスが良さそうなんて書いていた。

 基本は、自分の乗っているH型フレームの折り畳み自転車の如く、トップチューブが無いのが良い。有れば、乗降の際には跨る時に脚をサドルの後回しで乗ると言う形だし、跨ったまま自動販売機で買い物する時もトップチューブは邪魔であるからだ。という思いだったのだ。

 ところが、最近は頻繁に自転車の出し入れを行って色んな自転車に乗っているけど、そうなると、なるべくコンパクトに持ち運べるっていうのが好みであり、やっぱり小径車であっても折り畳めるのが良いと思い始めている。折り畳めない小径車でそれなりなモデルっていうと、どうしても車体は相当に長めとなり、フルサイズと殆ど変わらないからだ。
 自分の場合、重量に付いては特に大きな拘りがある訳ではない。極端な話、電動アシスト自転車でも抱えて移動したりすること自体が苦にはならないし、敢えて言えば20kg以下なら、まぁ良しとしようと思う程度の拘りである。

 前の記事では、改造ベースでNFヘリオスとも思っていたし、少し前にはハンマーヘッド7.0も良いと思っていたが、移り気なもので、折り畳み小径車に期待するのは、散々改造しまくった人間が言う事では無いけれど、まぁ、売っている状態でまったりと付き合うのが良いかなぁ?と思い始めている。

 そんな我が儘な思いを羅列すると、

1.トップチューブが無い自転車で、(乗降性能重視)
2.尚かつ、折り畳み構造であり、(可搬性重視)
3.車体はリアセンターが長めで、キャスターが大きめで、(安定性重視)

 ってところが、条件であり、それなりの装備がデフォルトで装着されており改造せんでも使える街乗り自転車が欲しいということ。

 それを探していると、見つけました!怪しい自転車!で、それは、これ!

  『ランボルギーニ20RD16』

 ってモデル。これ、名前からすると、買ってはいけない代名詞みたいなブランド名だが、
 好意的にみると、

1.『サカモトテクノ』(買収先の『デキサイクル』)製であり国産商業自転車の雄
2.よく見ると、アルミフレーム低価格車ながらリプレイスエンドが付いている
3.非折り畳みならGIANTのエスケープっぽいけど、クロス部で折り畳むのは道理
4.キャスター大、リアセンター大なスケルトン
5.コンポはシマノの2200系か?必要にして十分

 ってなっている。定価が69,800円だが、実売は幾らか?49,800円くらいか?一台遊びで買ってみたい気がするのである。
 少し前に関心のあったDAHONのハンマーヘッド的エッセンス(リアセンターが長い)を持ちながら、トップチューブが無くって乗降性が楽そうで、比較的コンベンショナルな車体構成で壊れても直しやすそう。DAHON級に長いけど、折り畳みできて持ち運びも楽そう。
 これって、スピママ号の入れ換えに買っても良いかなぁ?と思わせるモノがある。

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微妙なカスタム、雰囲気、人

 火曜日の事だが、所要で市内を車で移動中に見た自転車が目を引いた。

 最初に目に付いたのは、乗り手が車道を逆走してキョロキョロしながら走っていたので、コイツ!って目で見たのだが、その次に印象に残ったのが、その自転車である。ハードテイルのMTBがベースだが、なんと付きだしの長いステムに、ロード系バイク用のブルホーンバー、サドルは相当に高めにセットされており、乗り手が逆立ちしているかの様子。ギアはフロント、リア共にシングルだが、リアはテンショナーが見える。ハブはカセットハブでギアを一枚+スペーサーって構成。タイヤは太めのスリックという仕様。

 まぁ、アリかなぁ?とも思う反面、個性的な改造であるのは確か。でも運転が信号無視+逆走なんで、乗り手のモラルは最低レベル。

 このブルホーンバー装備の超前傾MTBで驚いてはいけない。

 なんと、同日の午後の昼ポタ時には、MTBにブロックタイヤのままで、ドロップハンドルっていうのも見かけた。ハンドルは当然、激前傾ポジションを作る低位置で強烈!

 そんなインパクトが頭に残りながら見ていると、結構個性豊かなカスタムが街には溢れている。
 で、火曜~水曜の間で見かけた多いのが、改造車はやっぱり折り畳み自転車が多い。折り畳み自転車+ドロップハンドルっていうのが定番のようである。DAHON系、BD-1系が派手な改造が多いものの、廉価なモデルには、取り敢えずドロップハンドルっていうのが目に付く改造である。

 そして、ドロップバー、ブルホーンバーの取り付け方も特徴的であり、MTBには異様に低いポジションに取り付けられている事が多く、小径車には、サドルポジションからみると+100mm程度はアップライトな位置にバーが取り付けられている。

 中には、パッと見の印象を決めるハンドルバーが結構格好良く付いている場合もあるけど、多くは、ハンドルバーだけが浮いたような印象である。ハンドルバーに併せて各部も同調的な改造が為されているのは、違和感を感じないのだが、ハンドルバー以外ノーマルって組み合わせも少なくない。また、付けるだけでも普通に付けていれば良いのだろうけど、稀に目が釘付けにされる取り付け例を見る事がある。印象に残っているのは、バーエンドを手前水平に取り付けられている例。これには参った。

 まぁ、人の事をとやかく言える改造をしている訳ではないのだが、なんか自転車の改造というか、カスタムっていうのも、流行しているのかなぁ?って思うところ。
 でも、ブルホーンは兎も角、ドロップバーってのは三次元的に湾曲しており折り畳み自転車には不向き。元からドロップの折り畳み自転車ってのは案外少ない。

 ところで、世間ではドロップハンドル=競輪選手の自転車って見方も多く、スポーツサイクル=競輪の自転車≒ドロップハンドルって方程式が世間では一般的。

 で、興味深いのは、自分的にはドロップにしろ、ブルホーンにしろ、普通握っているのは、ハンドルクランプの両脇のハンドルの内側か、バーが水平から垂直方向に湾曲する肩の部分だと思うのだが、街で見掛けるドロップカスタムマシンのスーパーサイクリスト達の殆どが、ドロップハンドルなら下ハン、ブルホーンでも一番先っぽを握って、お尻プリプリで漕いでいるのが多い。
 まぁ、競輪中継なんかは下ハンでプリプリしているから、それが刷り込まれているのかもしれないが、自転車なんか、気張って乗る瞬間なんて殆ど無いと思うのだが、、、、

 こうして考えると、未だ、河川沿いで遭遇するロードに乗ってる人達の方が普通と言えば普通な気がする。市街地区域でドロップ、ブルホーンハンドルを装着したカスタムマシンで激走する人達ってのは、改造も微妙だが、ポジションというか乗車風景も微妙である。なんか、熱いオーラというか、汗というか、そういう雰囲気が発散しているのである。

 自分を思い返すと、週末定例の堤防道路でも殆ど、バーのショルダー部か、バー内側のクランプ脇しか握ってない。その状態でも満足できる速度域に到達するし、街行くスーパーサイクリストの皆さん程に超前傾にしてもしんどい気がする。

 まぁ、自転車なんて所詮、誰にとっても遊びなんで、好き勝手すれば良いのだが、最近は微妙な人が多い。

 ドロップバー、ブルホーンバーのようなハンドルを使うんなら郊外の綺麗な道向けのように思う。そういう所で、ハンドルに応じたポジション、ギアレシオのコンビネーション、タイヤを調和させて使うのが正解のように思う。
 最近は街中でピスト、ロード~小径でも走り系を良く見るけど、街中で発停の多いコンディション、段差の多い場所では、小径で、アップライトなポジションで、舵角自由度の高いフラットハンドルの自転車で軽快に走る方が格好良いように思う。洒落っ気出せばDAHONの折り畳みなんか良いと思うし、競技系車両ならばBMXとかBTRの方が粋に感じる。街中では小さい自転車で自由自在に扱うのが活けていると思う。

 まぁ、遊びなんだろうから、大きなお世話なんだろう。

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2007年12月26日 (水)

自転車は何処でも買える!?

 先週末は、爺サンタが娘にクリスマスプレゼントを買ってやりたいということで、オモチャ屋に出掛けた。クリスマス前の休日ということで、駐車場には車が溢れ、売り場には、子供と爺さん、婆さんに溢れている。

 今も昔も、クリスマスといえばオモチャ屋さんは大繁盛である。
 そんな中、ふと思った事、、、、それは、若いお父さん?が子供のために自転車を買ってやるという風景を結構見掛けた。その自転車もペダルは付いていない、ハンドル、ステム共固定されていない。比較的大きなサイズとなると、前輪も外れている。勿論、補助輪も外れている。パッと見た感じは、少なくともBS、ナショナル製ではない感じで、自転車メーカーの幼児車というよりも、玩具屋の自転車型オモチャって感じだが、親も子供も自転車って認識なのは間違い無い。

 そして、ふと考えた。そう言えば、最近、自転車を買う場所と言えば、ホームセンター、郊外型ショッピングセンター、ネットで通販というパターンである。ネットで通販にしても専門店から買うならいざ知らず、輸入激安自転車の卸屋から直売するという場合は、卸屋への入荷した梱包箱の状態で買うって場合も少なくないだろう。
 先日のオモチャ屋で変われた自転車が駐車場に運ばれている風景では、自転車のサイズにも寄るが、7分組状態が殆ど。この7分組ってのは、メーカーから段ボールで運ばれてきた状態。昔は7分から一台組んでバイト組賃で1000~2000円というところ。まぁ、そんな事はどうでも良いのだが、お父さん、爺さん連中が車にそういう状態で積み込んでいる訳だ。

 更に、思うのは自転車のプロショップが並の自転車屋さんの組み立てを批判するブログも見掛けるけど、ふと思うに、自称プロショップと昔ながらの自転車屋さんで組み立てに差があるか?っていうと、むしろ調整代の広い普通の自転車屋さんの整備能力の方が上手だと思う。高価な高精度の自転車は普通に組んだら普通に精度は維持できるけど、怪しい精度の自転車は丁寧に組まないとNGだからな。
 でも、実際問題、プロショップが整備する上で????だらけの自転車ってのは、案外、普通の自転車屋さんが組んだモノではなく、或いは、いい加減な仮組状態で買った人が、素人組したモノではないんだろうか?また、改造車でも、工具の扱いを知らないマニアが素人細工で組んだモノではないんだろうか?と、そんな気がするのである。

 実際、勤務先の自転車少年もそうだが、三十路、工学部出身でも工具の使い方がNGな奴も居て、組み立ての際の留意点も判らない奴が居る。製造業の組み立て現場でも、それは無いだろう!?って使い方してる奴は結構多い。案外、そういう奴の方が多いような気もする。自分で自分が器用だとは言わないが、案外、世間のお父さんってのは、不器用で工具の使い方なんかも知らない奴の方が多いようにも思う。

 自転車って乗り物は、少なくとも小さな子供にとっては、最初の乗り物である。そんな乗り物にいい加減な品質の乗り物を、いい加減に組み立てて与える親という時点で、脳は死んでいるといっても良い。最初の1台だからキチンとしたものを与えるのが大事というのは自分の考えだが、そう言えば、周りにそういう奴は居ない。

 自転車っていうのは、安全上、保安上、重要なモノであり、買う時に見るべきポイントは、機能と品質が高いプライオリティーを持っていると思うのだが、最初に価格を上げる人が多い時点で間違っている。カネカネ言い過ぎると、ろくな事はない。

 ただ、一言言っておくと、別に中国製廉価自転車が悪いのではない。中国製廉価自転車という精度の悪い自転車でもキッチリ整備すれば、それなりには乗れる筈。そういう廉価自転車が廉価たる所以は、人件費というコストを如何に圧縮しているか?ということで、廉価=国内流通で人手が関与していないって事。自転車で一番大事なのは、確かな目を持った人による確かな整備である。
 逆に言えば、本当の意味で整備できる奴ならば、そういう廉価商品であっても、整備と使い道を限定すれば、それなりに使えるんだろうし、そういう目を持つ奴は、使い道を見極めるという目がある筈であり、考えられないような損壊は招かない筈。また、そういう目がある奴は、結果的な価格と品質のバランスから損得を弾き出してモノ選びもする筈であり、有り得ない激安に手を出す事は稀だとも思う。ただ、お目に適った品を安く買って、しっかり整備してっていう使い方は出来るんだろう。

 結局はそれを得というかもしれないが、そういう目を養うために、そういう人は人生にコストを掛けているのも事実である。買い物一つとっても、その行動パターンには人の人生が映されるようで興味深いものである。

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不老不死

 生物の定めとして老いて世代を重ねるって考え方がある。
 ところで、この生物を構成する細胞っていうのは、日々分裂を繰り返し再生を繰り返し個体を維持しているが、その分裂の限界を定める物質としてテロメアって物質が大きく拘わっているというテロメア説が現在有力である。

 ところで、その一方で不死化細胞というのも存在しており、それが癌細胞である。癌細胞っていうのは、正常細胞が変異する事によって生まれた細胞であり変異によって不死化、異常増殖という特徴を持つモノを特に癌細胞と呼ぶらしい。この内、異常増殖しないものを良性の腫瘍と呼んだりするようだ。

 ふと思ったのは、正常細胞の癌化への変化でも、変異の程度で癌と表現されたり良性腫瘍と表現されている。そして興味深いのは悪性の癌であっても、その悪性細胞が増殖するという現象は、悪性なりに正確に悪性の細胞をコピーして分裂しているということなのだろうか?
 これって、分裂回数に限界を定める遺伝子が損傷するという変異のみで、異常増殖しない細胞というモノが生まれたとすると、それは、寿命が永遠な正常細胞とはならないのだろうか?仮に、分裂回数が無限となった細胞で個体が構成されるとすれば、その個体を構成する細胞は永遠に存在し続けるのであろうか?もしかしたら、不老不死は癌細胞から生まれるのだろうか?

 因みに、このテロメアって物質(遺伝子の末端部位)は、細胞分裂毎に長さが短くなっていくもので、これが無くなると老い滅びるだけ。そして、最近はやりのレーザー治療、シミ取りなんかを施すと、このテロメアが極端に消失するというもの。つまり、人為的な操作を行うと、暫く後に急速に老化が進行するということだ。
 そして、癌細胞はこのテロメアが短くならないのでは無く、分裂の際に短くなったテロメアを再生する機能を持っているそうだ。

 しかし、このような新しい医療の知見にしても、生物としての神秘を解き明かしている訳ではなく、仮に、テロメア再生機能を活用できるようになったとすれば、何らかの弊害が生まれるんだろうと推測される。
 何故なら異常な変異による癌細胞で不死化が顕れるのであり、生物として不死化は異常という事は、生物の平衡性を維持するには代謝+再生が原則という基本的なメカニズムが存在しているのだろうと思えるからだ。

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2007年12月25日 (火)

一番判っているようで判っていないモノ

 よく、自分の身体は自分が一番良く判っている!って言葉を聞く。口に出さずとも、そう思っている人は結構多い。しかし、最近思うのは、自分の事を見る時は、主観に基づいて見ているために、一番自分の事を判断する時が不正確ではないか?という事である。

 仮に、自分の身体の事を自分が一番良く判っていたとしたら、成人病って言葉は無い筈だし、呼び名の変わった生活習慣病の終末的な症状である高血圧症、糖尿病、痛風といった、少しずつ忍び寄る疾病には陥らない筈である。
 しかし、現実には、このようなサイレントキラーと呼ばれる重大疾病に悩む人が非常に多い。

 自分の身体の事と生体としての摂理を客観的に見る事が出来れば、先のような内部的な疾患に限らず、己にとって出来る事、出来ない事っていうのも冷静に見極める事が出来る筈である。誰彼が出来るから自分にも出来る筈とか、自分より高齢の誰彼が出来ているから、それより若い自分なら更に出来る筈とかは、そういう発想の段階で、自分の身体の事が見えていないのである。

 過信や競争心という事に翻弄される人っていうのは、自分の身体の事を判っていない人ではないか?と思う今日この頃である。その果てが、病院通いがデフォルトとなったような肥満体型のオヤジ連中となるのである。

 自分の身体にとってベストなコンディションは何か?というのは、自分しか判らない事だが、自分の身体の能力やコンディションの適正状態が何か?を冷静に見極める目と、その適正状態と今の状態の違いを受け入れる冷静な心が最も必要なモノである。

 どんな生活形態であっても成長過程の身体は、その形になろうと適応現象を見せる。これが二十歳迄であり、その成長期における生活によって個体の能力っていうのは決まってくる。これは、運動能力であったり、体質であったり、知能であったりするだろう。
 その完成された状態が、その個人にとっての完成形、即ち適正状態であり、その状態は、加齢によるライフスタイルの変化によって機能の平衡性が少しずつ失われていくのである。その僅かずつの機能の喪失っていうのは、殆どの場合、気付かない。或る意味、若さという麻薬によって現実が見えなくなっているだけである。少なくとも20代の間は、自分が成長して、健康であり、機能は失われていないと錯覚している。
 しかし、20代にしても10年の時間があるわけであり、その10年の間に確実に変化しているのである。良く聞く声で、三十路になると無理が利かないという話があるけど、それは、10年におよぶ機能平衡性の喪失によって顕れた症状だけの話である。しかし、それを加齢の一言で済ませる段階で、自己分析が正確に出来ていないのでは無いだろうか?

 そうやって歳を重ねて35~40歳になると、殆どの人が二十歳の頃に戻ろうという意識さえ持てぬ(仮に何とか戻そうとしても、安直な器具やサプリに頼る方法を選ぶ場合が殆どだが、)状態に陥る場合がある。それは、内蔵脂肪症候群の果ての症状であったり、不具合を発症する迄の過信による無茶な活動(身体機能を越える負荷を掛け続ける事)によって受けた怪我(機能的損傷)だったりする。良く鍛えているから筋肉痛が無いとか、日頃運動不足で運動したから筋肉痛が出たとかの言葉を聞くけど、それは筋肉痛でも故障痛だろ?って奴だ、、、。

 前述のような事例っていうのは、周りを見渡すと、殆ど100%の人がそういう状態となっており、そう考えると、自分の事が判っている奴っていうのは、実は1人も居ないのでは?と思う。実際、自分もそうであったし、、、、。

 少なくとも、若いと思って、無理してやるっていうのが一番活けない。それは、運動でも、遊びでも、そうである。無理という言葉を使うと、無理していないとの反論もあるかもしれないが、無理していなくとも、何て言うか、周りに付き合うとか、流されるとかも身体から見れば無理を強要されている!という細胞の叫びに耳を傾ける冷静さを持つ事が大事では無いだろうか?

 無理したり、周りに流されたりせず、自分で自分のベストを保つ。そして、小さな不調には必ずや原因が存在し、それを取り除けば、必ずや問題は解決する。他人が出来ることが出来るとは限らないし、自分にしか出来ない事もある。小さな不調、不具合を見逃さず、不具合が小さい内に対処するのが重症化防止の最大の秘訣。過信は禁物、色気も禁物、冷静さと臆病さが大事って事だ。

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体重変動と血圧変動、身体の追随性

 昨日の記事と被るけど、今の関心事は表題の件。

 一般に内臓脂肪肥満(メタボリックシンドローム状態)での高血圧の理由は、第一に大きくなった身体全体に血液を送るための心拍増加による心臓ポンプの吐出圧力アップによるもの、第二には肥満による血中脂質の増加による血液粘度増加にともなう心臓ポンプの吐出圧力アップによるものが考えられる。他にも、このような高血圧要因の蓄積に伴う血管の硬化(コレステロールの付着)、それに伴う血管有効内径の縮小、或いは体脂肪事態の血管への圧迫等が高血圧を加速させる要因ともなっている。

 という訳で、血圧っていうのは肥満度に大きく関連しているのが判る。一般に人間の身体が完成されるのが二十歳の頃であり、その頃のコンディションで平衡性が保たれるように各器官は働くようにできているのだが、多くの人は、三十路、不惑と加齢する程に、二十歳の頃とは懸け離れた身体になっていく。その懸け離れ方っていうのは殆どが肥満であり、肥満により体重が10kg、20kgと増加する。その変化が徐々に進行するのが普通だが、人間の身体は、その少しずつの変化になるべく対応すべく機能しているのだが、その調整限度範囲を超えた状態で高血圧症という症状を表している。
 それ故に、多くの医療機関等での指導では、フィジカルコンディションを各人の二十歳の頃に戻せという指導が行われる事が多いが、それは前述の根拠に基づくものである。

 実際、自分の血圧の上昇はこのようなプロセスで進行してきたと思っている。自分の体重変動を思い起こすと、20歳の頃が体重で65kg、就職前の26歳の頃が体重で70kg、就職後は毎年増量し、第一次肥満ピーク時が32歳頃に75kgとなり、第一回ダイエット(二輪レース活動のため)で34歳で67kg迄戻しけど、35歳以降は着実に増加して、不惑越え41歳にして86kgという最高値を記録した。因みに血圧は体重が70kg以下の時代は上/下=125/75以下だったけど、85kgオーバーでは145/95近辺迄上昇した。体重(脂肪)増量でいうと15kgで20mmHg程度増加した訳である。
 この後、41歳から始めたダイエットによって二ヶ月で体重20kg、体脂肪率で20%、ウエストで20cmの減量(脂肪除去)を行ったが、その頃の体重と血圧は65kgで上/下=105/55迄効果した。下げる時は体脂肪20kgで40mmHgの血圧低下となった訳である。

 この急激な脂肪除去という身体の物理変化に対して身体機能の維持のための機能追随は、緩やかな体重増加時の変化とは異なっており、特に、夏場2006/7頃には、座った状態から立ち上がると100%立ち眩みして、夏場の暑い時期には、一瞬、目の前が真っ暗になって倒れかけた事もある。最初は、原因がわからなかったけど、振り返ってみると、急激な体重減少に伴う血圧低下の度合が大きすぎた事が原因の様にも見える。
 この起立時の立ち眩みは、起立性低血圧と呼ばれる症状であり、立ち上がる事で身体の一番高い部位に来る脳に血液が供給される迄のタイムラグによって生じるものであり、立ち上がる事で血圧が下がりすぎることが原因だそうだ。
 この起立時における血圧降下は誰にでも生じるが、それが立ち眩みに繋がるか否かは、起立時において静脈が即座に収縮して血圧を高めるという代償機能が作用するのが早いか?遅いか?の違いだそうで、普通は老化に伴い遅れるとのこと。子供に見られる場合は、心臓機能が未成熟なために見られる場合もあるそうだ。実際には、様々な原因があるらしいけど、関係無さそうな事はカット。
 この症状の改善には、代償機能のレスポンスアップと、心臓ポンプの機能アップ、体重に見合った血圧値への身体平衡性の確保ということだが、自分の場合は、2006/7以降は特に自転車を用いた有酸素運動の大幅増量と、筋トレのサーキットトレーニング化に伴う有酸素運動性のアップを行って1年半が経過して今の状態となっている。

 その結果、現在は体重、血圧は65kgで上/下=120/70という状態になっており、当初の体重対血圧の関係にほぼ一致した状態となっている。減量当初の血圧値に比較すると15mmHg程度上昇しているが、これは心臓機能アップと考えるよりも、急激な変化後の新しい平衡状態に収束した結果では?と考える方が納得できる。まぁ、なんにしろ、その結果、この夏は起立性低血圧症の症状である立ち眩みには悩まされなかった。

 今回の症状で、人間の身体はコンディションに応じた症状を正確に示す事が理解できたし、急激な変化を与えてやると、その他の機能がそれに完璧に追随する訳ではなく、様々な弊害を来す場合もあるということ。急激なダイエットというのが正攻法であっても、このような追随不良による別の症状を見せる訳であり、人為的な速効ダイエットを行えば、更に重大な機能不良を表すかも知れない。

 人間に身体っていうのは実に上手い具合に出来ており、体力に限らず、身体の平衡性を保つのも二十歳の頃のコンディションをその個体における標準値として記憶しているようである。二十歳という年齢が成人といわれているが、それは、モラル等の思考的な意味だけでなく、身体的にも完成する年齢が、そういう年齢であるという事を表しての言葉なんだろうなぁと、しみじみ思うのである。

 如何に、各人が二十歳の頃のコンディションを保つか?また、それから懸け離れていても、それに戻すには、緩やかな変化で行うことが大事だ!っていう事が今回の教訓である。追随性、応答性、、、、たしかに、工学の世界では一般的な事だが、人間の身体の場合は、機械以上に複雑なシステムであり、追随性、応答性を加味した道理の通った段階的な取り組みが何事にも必要ということなのであろう。

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2007年12月24日 (月)

暖かいと微妙、、、、。

 今日も川沿い道路を通って往復30kmのコースを二本走った。天候は今一ながら気温は12月の半ば過ぎの割には暖かいコンディションである。先週は寒かったせいかサイクリストは殆ど見なかったけど、今日は暖かいので結構見た。

 暖かいコンディションで見掛ける人達ってのは、やっぱり何かオーラが違う気がする。微妙に無愛想、微妙に高級車、微妙なジャージ+レーパンルック・・・・・。
 トドメは、あんこ腹+二重顎。絞られた身体ながらも筋肉の隆起が明確な人は殆ど見ない。激やせタイプか激太りタイプのどちらかの場合が多いけど、激太りタイプの人の方が、バイク、装備ともハイグレードな感じである。

 人がどう走ろうと関係無いのだが、実際に走っている人の乗り手の体型と機材の関係を見ると、反比例のようである。なんとも興味深い現象である。

 今日のインパクト大賞は、ピナレロに乗った肥えた人。往路で安佐大橋交差点ですれ違い、その後、太田川橋でUターンした後に大芝水門で追い越したんで二回見たためか、インパクトが強かったなぁ、、、、。最近、受けるインパクトの大小は、見た目と乗り手のギャップが大きい程インパクトがデカイ。そして、このインパクト、なんか知らないけど、とにかく拡大傾向にあるような気がしてならない。

 我が家はJ-Sportsチャンネルと契約しており、シーズン中はサイクルロードレースが観戦できるのだが、この一年は、ディスカバリーチャネルとか、CSCとかの格好したサイクリストを結構見掛けたけど、ショップオリジナルとは異なるレプリカジャージの人は殆ど100%の確率で、身体がブヨブヨである。自転車の軽量化度合いと乗り手の目方のギャップが滑稽で面白いっていうのは言い過ぎか?軽そうな自転車に重さを強調した?ウェアのサイクリスト(腹や背中の肉が目立ちすぎ、、、)がフルレプリカ状態っていうのが、インパクトが、やっぱり強烈だ。-1kgの機材に十万単位で掛ける前に、脂肪を10kg落とせば良いのに、、、ってのはお節介なのだろうか?

 ところで、明日24日は世間は休みだが、勤務先は普通出勤日、、、、、悲しい。休みなら走れるのに、、、、。今年も1週間になった。そろそろ、一年を総括するネタをまとめよう。

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ダイエット、立ち眩み

 最近、血圧測定をずっと行っている。理由は、11月中旬での健康診断での測定数値が最高が130、最低が85で自分にしては高めに出たためである。そして、その高めの値の原因が、きつめのベルトのためと判り、以後、リラックスして朝昼夕の三回を基本に血圧測定を行っている。

 その結果、自転車少年の虚偽報告等によって頭に血が上らない限りは血圧は低めであり、大抵が最高血圧が110~120、最低血圧が65~75というところである。因みに心拍数は平常の日常生活時で45、安静時では37というところ。

 ところが、掛かり付けの病院で横になって血圧測定を行うと、最高血圧が105、最低血圧が55、心拍数が33とかになる。

 で、今気掛かりっていうのは、実は身体の活動レベルが低い状態では血圧等が寧ろ低すぎるのでは?というところである。

 そう言えば、血圧が特に低めに感じ始めたのは、急激な減量を敢行した2005/11頃からの話である。そして、その寒い時期は何も問題無かったけど、2006/7の暑い時期は、異様に立ち眩みが多かったし、意識が飛びかけて病院にも出掛けたりした。
 そう!思い返してみれば、減量後の初のサマーシーズンで立ち眩みが頻発していたのである。

 その立ち眩みについては特に気に掛けることなく、今年2007年の夏には何の問題も無く忘れていたのだが、2006年の夏っていうのは、それまでの身体コンディションからの急激な身体の変化に身体の調律機能が追随しきれていなかったためなのか?と思うところである。その後のフィジカルコンディションの維持に伴い、身体の調律機能が新しい平衡性を獲得したために今年の夏は変な違和感が無かったのか?と考えている所である。

 さて、遠い昔の話だが、2006年夏の立ち眩み(と、その際の通院)は何だったのか?と考えると、今思い付くのは、起立性低血圧症では無かったのか?ということ。
 特に、寝そべってジッとした状態からの起立では何時もと言って良いぐらいクラッとしていたが、起立時の立ち眩みは重力に逆らって脳に血流を送る力が不測しているために、一時的に虚血性低血圧になるのである。
 その症状は血管が拡大する夏季に多く見られるってのも一致する。実際、寒い冬季では血管が収縮しており血圧も高めとなるし、日常生活でも寒い場所での作業時には血圧が上昇し、心拍数が下がるのは確認済みである。

 この起立性を含む低血圧症の改善には、有酸素運動が効果的と言われているが、考えてみれば2006年中盤以降から現在迄の間でライフスタイルで大きく変わったのは、健康生活における自転車の投入であり、現在は月に1400kmの距離を走っている。勿論、水泳も継続しているが、それ以上に有酸素運動の増加は著しい。そういう心肺機能の強化による心臓のポンプ機能の向上により去年悩まされた立ち眩み症状とおさらば出来たのでは?と考えている。

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2007年12月23日 (日)

日中の自転車風景

 自転車を取り巻く環境に関するニュースでは木曜日朝のめざましテレビでの話。

 日本の自転車の通るエリアが車道上にブルーゾーンとして明示された地域が紹介されて、その幅が90cmしか無く、駐停車車両の存在が邪魔って意見とともに紹介されていた。なお、ブルーゾーンが無くなった途端に自転車ユーザーは自転車を歩道に乗り入れるという利用者の実態を紹介しながら、来年の道交法改正以降は13歳以下の自転車は歩道OKだが、それ以外は車道が原則。歩道は走行可指示が無いと走れない旨を説明していた。

 そんな日本の実態と対比して中国の自転車事情では、自転車と単車が幅4mの専用レーンを走行している風景。更には、自動車しか走れない道路、二輪車しか走れない道路を定義することで強制的に車両分離している様子を紹介してた。他にも、取り締まりが厳しく、罰金も徴収され、自動車同様にナンバー登録が必要とか、、、、ってそんな話。

 こうしてみると、発展途上という印象の中国の方が遙かに統制が取れている。

 中国=みんな自転車って印象だったけど、最近は自動車も多い。でも自転車も多い。そんな自転車と増えてきた自動車を上手く共存させている。

 このニュースネタではないが、中国では少し前にはオートバイがスゴイブームであった。しかし、今、都市部ではオートバイは走っていない。商売としてオートバイは既に成立しないという、、、何故か?というと、新規でナンバー登録が出来ないからである。都市部を走る単車の総量を規制しているのである。
 中国のオートバイ産業の発展は凄まじいが、実は、都市部ではオートバイの普及には歯止めを掛けている。これらのオートバイ産業が目指すのは海外市場なのである。

 そんな中国では、自転車とオートバイの間のような乗り物であるフル電動自転車が流行中である。日本製の電動アシストとは違う。漕がずに進む電気バイクである。中国製の乗り物は結構、怪しくも面白いものが多い。
 因みに、この電気バイクは、見た目が電動アシスト自転車と変わらないために、日本に輸入して原付バイクながら無登録で自転車としての闇使用が為されている。実際、漕がずに進む自転車を何度か見たけど、結構な速度で走ってる。一応、日本ではアシスト式に改造して売られているらしいが、簡単なハーネスの組み換えで本来の電気バイクに戻るという。

 中国製の製品は怪しくも危険なモノが多いが、その種類を見ると、逞しさを感じる。日本よりも使用法を管理して、製造は自由に!って風にも見える。それ故に、製品は面白すぎである。電気バイクもそうだ。パクリの単車もそうである。

 中国の自転車管理体制では、あんな危険なモノもOKかもしれないが、日本の無法無管理体制で、中国製の危険な自転車本体及び関連用品を無秩序に使うとどうなるか?

 それは、先日のブレーキレバーで目を突いて死亡ではないが、怖い事故が多発しかねないのである。確かに、自転車関連製品はコスト的に日本では成立しないかもしれないが、少なくとも、使う上では厳しい保安基準と品質管理体制を整えないとヤバイのでは無いだろうか?自転車用部品は使い方によってはヤバヤバなモノに溢れている。
 中国以上に自転車環境が無秩序な日本である。このままでは良くない気がする。

PS 中国製折り畳み自転車でリアサス付きの自転車がある。これを週末金曜日の昼ポタで見かけた。乗り手は、結構リズミカルにペダリングしていたが、リズミカルにサスペンションが伸縮してキュッキュッキュッキュッとリズミカルに音を発しながら進んでいた。チョット、ほのぼのである。サスペンションは無用だと思う反面、こういう風景も悪くないかもとも思った。中国製粗悪自転車である。このサスペンションは敢えてロスを生んで速度を規制するためのリミッターかもしれない。そう考えるとOKである。

 先日、会社の創立記念講演会があり、そこでは金美鈴さんによる日本の製品に対する評価と中国製品の評価を論じられていたが、俺的には中国製品もアリである。今の模倣品、低品質ってのも産業発展の通過段階の状態であり、大昔の日本も似たり寄ったりである。それよりも、あの商魂溢れるスピリッツの方が驚異である。

 俺的には、中国製品も使ってみても良いのだが、壊れた時に補修部品が手に入らない可能性が高いという点で、環境に優しくないと思う。壊れる毎に捨てるのは忍びない。とか言って、壊れた部品に金を掛けすぎるのも本末転倒。怪しいモノは製品サイクルが短いけど、短すぎで壊れたら終了ってのは、ゴミが増えるだけで考え物だ。

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三十路限定で腰痛解決の秘訣

 先日テレビを見ていて頭に引っ掛かった事。それは、腰痛である。腰痛っていうと、高齢者って印象が強いけど、実際に悩んでいるのは30~40代との事である。そして、腰痛の原因っていうと様々あるみたいだが、ただ言える事は、成人前の二十歳以前に腰痛で悩む人っていうのは皆無に近いのが実際である。

 病的な原因、老化等の問題もあるだろうけど、この二十歳前の学生時代には腰痛に悩まず、三十路以降になると何故に腰痛で悩み出すのだろうか?
 実際に、先日のテレビの30代~40代の腰痛の悩みってのは、老化が原因とは考えづらい気がするのである。

 同じ姿勢・・・・って問題もあるだろうけど、自分という超ローカルな所を考えると、大学、大学院時代っていうのは、席についてって時間が凄く長かったけど、腰痛なんぞ皆無であった。だけど、30代の頃には、確かに腰痛があった。姿勢の悪さも原因だろうし、筋肉の衰えも原因だろうけど、どうも決め手に欠けるのである。

 自分自身も腰痛を意識し始めたのが三十路になった頃から不惑を迎える頃の話であり、確かに腰痛が酷かった。しかし、当時より老化が進んだ今は腰痛なんぞ皆無である。姿勢という点にしても、特に改善した訳でもなく、良くも悪くもない状態である。

 腰痛の原因は何か?それも、30代、40代限定での腰痛の原因の何か?を考えると、思いつきかも知れないが、自分の腰痛の変化とフィジカルコンディションの変化を照らし合わせると、それは肥満が最大の相関性を示しているようである。

 肥満、、、、、腹筋、背筋という自分の身体を支える筋肉量によって異なるだろうけど、許容以上の荷重は骨に負担を強いるのである。多くの人は三十路以降で体重が急増するが、その増加分荷重に筋肉の余裕が無くなれば腰痛を発するのでは無いだろうか?

 腰痛で悩む人の解決は、ひたすら二十歳以前の体重に戻す事。或いは、体重が増加したなら、それに見合った腹筋、背筋を手に入れる事しか無いのでは無いだろうか?
 筋肉細胞の増量は原則不可能であり、可能なのは、脂肪を減量するしかない。という訳で、腰痛解決の秘訣はダイエットというか減量である。

 人体の完成は二十歳迄には終わる。その頃の身体を維持するに必要な機能が、その時に完成されているのである。それ故に、二十歳以降の余分は、身体にとって受け持つ事は全てが負担になるのである。それは、運動量しかり、脂肪というウエイトにしてもしかりである。よって、二十歳迄に完成された身体っていうのは、そこまでの運動生活によってもたらされたモノであり、それ以上の負担は掛けれないのが原則である。
 運動能力の三十路以降での大幅な強化は不可能だが、強化行為自体は日常生活ではありえない。しかし、余分な重量増加は普通に生じる。身体にとって見れば、強制的に負荷が増やされている状況になる訳だ。強制負荷=脂肪を取り除く事。これが、腰痛からの解放への最短距離である。

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2007年12月22日 (土)

『めざましごはん』は誰のため?

 最近、表題のCMをテレビで良く見掛けるようになった。
 まぁ、タレントの優香さんが出演しているので、目が行くってのが本当の所。この優香さんは、志村けんさんとのコンビから印象に残っている。

 さて、このCMだが、これは農林水産省によるCMのようである。最初は、省庁関係なしで業界団体のCMだと思っていたけど、サイトをチェックすると違っていた。

http://www.maff.go.jp/j/soushoku/kakou/mezamasi.html

 確かに、朝食には御飯も良いとは思うけど、サイトの御飯食わないとNGって言い方は一寸違うような気もする。パンでも麺でも良いように思うところだ。
 確かに日本人の主食は米ということだが、米を主食としない余所の国の人でも素晴らしい人は一杯いる訳であり、米食わんと仕事が出来ない!?っていうのは言い過ぎである。

 まぁ、自分も週に5日は御飯で朝食だが、朝食に御飯+おかずをメインに持ってこようとすると、他の食事に較べると時間的余裕が欲しい所。朝の就業開始を最低でも午前9時以降にさせるとか、生活にゆとりが無いと和食中心の朝食ってのは難しい。今の和食減少傾向ってのは、現代日本人の忙しさ故に、準備に時間の掛からない食事っていうのが普及したのが現実である。

 このサイトのCMでは、とにかく御飯を!ってスタイルで、外食おにぎりもOKとしているけど、コンビニ御飯、むすびは米を使ってても、色つやアップのために結構油を混ぜて御飯を炊いたりしているのだが、、、、そして、それは健康に決して良くない筈だが、、、、

 と、そんな事を考えていると、御飯の良さの薦め以前に、これって、昨今の日本人の米離れを食い止めて、米剰り状態を改善し、農政保護施策が第一目的っていうことなんだろうなぁ、、、って思ってしまう。

 御飯は確かに日本人のライフスタイルに合っているけど、御飯中心の和食から日本人が遠ざかったライフスタイルの変化は何か?を考え、それを解消するような施策を打ち出さないと対処療法的、一時的なキャンペーンで終わってしまうんだろうと、素直に思ってしまう。

 そう言えば、少し前は、『牛乳に相談だ!』っていう牛乳消費促進キャンペーンが、日本酪農会議って社団法人でなされていたが、これも酪農家廃業防止というのが一番の目的であったのを思い出す。

http://www1.gyunyu.com/pc/index.jsp

ってサイトだが、なかなか厳しいのが現実である。勿論、私は、朝、昼、夕と250ccずつ牛乳を飲んでいるのだが、そういうライフスタイルを持つ人は結構少ない。

 牛乳にしても、米にしても、健康維持にはお奨めなんだが、健康食材としてのインパクトはサプリ等に較べると弱いのが現実。で、衰退するのだが、普及キャンペーンは生産者保護のためってのが消費者に伝わるから関心を惹かないのが現状。

 自動車等の工業製品では、比較広告OKで、相手を罵倒するのもOKだ、暗に嫌みを言うのもOKだ。昔は『名ばかりのGTは道を空ける』なんてフレーズを出していたメーカーも有ったくらいである。
 本気で健康の良さをアピールするならば、人工的な薬剤系サプリ、濃縮栄養補助食品の持つ、生体との親和性への懐疑を煽るようなアピールくらいOKではないか?下手なサプリでダイエットなんて得られる効果は、即効性がある程、喪失性が高いのは世の真実。簡単に手に入る変化は、簡単に失うのが世の常であり、そういう意味では、真の意味での自然派生活っていうのが一番効果的であり、食スタイルでは、米と牛乳、生野菜ってのは食材の王道である。それをアピールすれば少しは消費が伸びるのでは?と思うところだ。

 因みに、私の食生活は、

・朝食
 月~金は御飯+みそ汁+納豆+牛乳+無糖ヨーグルト+ナタデココが基本で、土日は、サンドイッチ、フレンチトースト、ホットケーキが御飯の変わりに登場。牛乳、ヨーグルトは不変。
・昼食
 食後の低糖ヨーグルト+ヤクルトは毎日。昼下がりには牛乳を毎日。
・夕食
 日曜日以外は毎日御飯+納豆が基本。日曜日はお好み焼き。おかずは、生野菜は毎日、調理野菜は週に4日、海草系は週に1日、肉は週に1~2日、魚は週に2~3日
・間食
 結構食う。基本はクリームパン、カレーパン、チョコレート系菓子、小魚、昆布、黒糖系か?他には、米菓(せんべい、あられ)も大好きで貰えば食う。米菓は高いから自分では殆ど買わない。
・デザート類
 週末になると手作りパン屋さんでのアップルパイは結構食う。子供の誕生会、クリスマスでのケーキも普通以上に食う。週に3日程度はアイスクリームも食う。

 ってところ。スナックは特別規制している訳でもないけど、家族で週に一袋以下。インスタントラーメン類は年に1~2食程度。冷凍食品は殆ど無し。ファーストフードは平均するろと月に1食以下。晩酌は無し。酒は、付き合いで年に5回以下。サプリ類は全く無し。カロリーメート等栄養補助食品も全く無し。スーパーの総菜は、月に3食程度、おかずの足しに買う位。飲料水は、基本はウーロン茶で毎日平均すると1.5リットルは飲んでいる。加糖飲料は皆無。飲むのは無糖のブラックコーヒー(缶、ドリップ、インスタント等々)のみ。これは毎日6~8杯飲んでいる。

 そんな生活である。敢えて、良く無さそうなスタイルは何か?というと、毎日大量に飲むブラックコーヒーかなぁ?というところ。カフェイン中毒かもしれない。飲んで目が冴える事は無い。飲んでも眠る。そんなところだ。

 話が逸れるけど、食順は繊維質→タンパク質→炭水化物→脂肪質の順番が多い。で、一口は30回噛むのが原則なんで、食事所要時間は最低でも30分は掛かる。

 食生活のコンセプトは、例えば、ブドウ糖摂取ならば、ブドウ糖の前段階の麦芽糖、その前段階のでんぷんを多く含む食事を取るということ。そして、でんぷんを分解するのがアミラーゼ、麦芽糖を分解するのがマルターゼで、それを助ける物理消化は顎でかみ砕く事。その運動に連動して唾液腺から唾液が分泌されアミラーゼが沢山分泌されるというシステムをしっかり動かすという考えだ。他にも、脂肪を分解するのがリパーゼ、タンパク質ならトリプシンであり、食材をブドウ糖、脂肪酸、グリセリン、アミノ酸という吸収可能な形に変えるのが消化酵素で、これらを吸収するのが消化吸収器官である。因みに、栄養分を吸収するのは小腸柔突起で、拡げるとテニスコート級の吸収面積になる。
 と、こんな知識は中学二年の理科第二分野で習う事だが、これで習った事を思い浮かべると、自然に複雑な機能は人体に備わっている訳であり、これを使うのが一番というのが考えである。

 因み、身体の各器官の機能は単体で機能しているのではなく、ある動作による変化が生まれると、それを感知して次段階のシステムを働かせるように変化するのであり、その各システム、サイクルの関連性は殆ど未解明である。生化学的に○○回路とか言われているけど、それは複雑のシステムの中の極僅かな一部の様子を人間が名付けただけである。そういう事を考えれば、栄養分の濃縮物質を摂取するというのは、食材を分解させるという身体機能を休眠させる事であり、その機能低下を金掛けて行っているという事である。身体機能を働かせて所要量の栄養分を吸収させるという行為と、分解された栄養分を強制注入するというサプリ摂取行為には、人体機能の活動度に大きな差があるのは一目瞭然であり、絶対に同じ効果を得る事が出来ないというのが持論である。

 因みに、分解された栄養分というのは吸収しやすい物質であり、化学的には不安定な物質である。不安定な物質故に、自然界で存在するには安定な形で存在するのが道理であり、それを利用するために備わっているのが生体の消化機能である。逆に、不安定な物質を濃縮した形で強制吸飲する行為は、生体への吸収プロセスで吸収という反応において濃度感知するメカニズムが上手く働かない。結果、本来生体の有する吸収率っていうのは、確実に低下していくものである。

 そういう意味で、不可欠な栄養分原料として自然な形である牛乳とか米っていうのは、最高のサプリでもあるのだ。何故に、そういう連想が普通の人に出来ないのか?が不思議である。

 キャンペーンどうこうは関係なく、米、牛乳、生野菜・・・・しっかり食うことが一番である。

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人体の本来の適応能力

 自分は、健康管理や体力維持、筋力強化、持久力強化から減量、ダイエットに到るまで、基本的には薬剤、サプリ、強制的な外部刺激は用いずに行っている。行う事は?といえば、それは人体の持つ本来の機能を働かせるというのがスタンスであり、それを逸脱していると思える行為は、敢えて避けている。

 そんな、薬物、サプリ等々に頼らない方法によっても、ここ数年間の生活習慣の改造によって身体の状況を示す各指標値が大幅に変化している。そして得た身体を周囲の似たような目的で別の方法で行っている人と較べると、なんていうか、自然の力で行った自分で選んだ方法が一番効率が良く効果的であると思っている。

 今行っているのは、身体の持つ本来の機能を積極的に使用するという考えだが、それによって全ての指標が改善されている。

 ダイエット的な視点から見ると、体脂肪率も10%前後で完全に静定してリバウンドの兆候は一切無いし、内臓脂肪は皆無に近い状態。皮下脂肪も殆ど無い。それで居て、一日三食+間食はしっかり食べれている。
 健康管理的な視点から見ても、血液検査等々の測定データにおいて異常値どころか、測定値の殆どが健常者範囲の中央値近辺となっている。それ以外の、臓器年齢、骨年齢・・・・は実年齢より10歳以上は若くなっている。
 体力的な視点から見ても、筋力、筋持久力ともに15年以上前から強化されていても劣っている部分は全く無い状態。

 そんな状態を維持しているが、これら全てを保つのに、サプリ、薬剤、強制刺激具のような類は一切使わず、単純に、三食の御飯を良く噛んで定刻通りに食う。献立は、野菜、肉、穀物をバランス良くという注意のみであり、他には、平均すれば毎日2時間の連続運動を行っているだけである。
 たった、これだけで他の如何なる方法による身体作りに勝る結果を手に入れている。

 そこで思うのは、人体が本来持つ機能の適応能力の凄さであり、金を掛ける事無く、こういう結果が得られる機能が備わっている事への有り難さである。

 フィジカルコンディションとは各部の平衡状態であり、この平衡は何から生まれているか?は現段階では完全に解明されていないのが実情であり、結果値の修正のみを極狭い知見による技術によって修正したとしても、あくまでも対処療法に過ぎず、得られる結果というのは、健康のような雰囲気というもので、メッキのような健康に見えてしまうのである。

 今年一年では、健康、疾病に関する資料の検索を結構行ってみたが、専門的な範囲に検索エリアを拡げる程に、巷であふれる安直な手法のリスクを感じるのである。見た目の体裁を整えるのではなく、本来の機能を活用するのを目的として、その結果として健康な身体を得るという考え方を持つ方が、適切ではないか?と思うところである。

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2007年12月21日 (金)

『メタボ』な人による、『メタボ』な社会、組織、会社

 去年辺りから世間に浸透してきた言葉で『メタボリックシンドローム』って言葉がある。
 この言葉は深く関心を持って考えて、知る程に怖さが実感できる言葉なのだが、どうやら世間的には、その怖さを真剣に怖いと捉えていないのでは?と思える雰囲気を感じるのは自分だけだろうか?

 確かに、メタボリックシンドロームという言葉が浸透し、中高年世代における健康への意識の高まりをムーブメントとして感じられるようになったのは間違いないけれど、その健康の手に入れる方法の流行が、簡単なフィットネス機器による方法、短絡的なサプリ、美容系ダイエットのようなモノばかりが持て囃されている。
 去年の保険会社の川柳でも『妻サンボ、息子スノボ、俺メタボ』のようなノリで、結構楽観的なイメージが先行しているように思うが、これは気のせいだろうか?

 それもこれも、この疾患の前段状態を横文字で『メタボリック』と表記して広めた事が、世間で軽んじて捉えられている原因では無いだろうか?そして、その状況からの回復には、即効的なサプリ、安直エクササイズ、簡単フィットネス器具で十分という認識を植え付けていないだろうか?
 何か、その安直さは、問題を安易に考えた結果のように思うのは自分だけだろうか?

 そもそも人体機能の健全性の保持には、人為的、人工的な機器や薬剤は不要であり、本来の機能を働かせる事で十分に対応可能である筈。そして、それが最も弊害が少なく効果的である筈。唯一の難点は、ライフスタイルの改善に時間を要するという即効性が無いということだが、この大原則を逸脱した取り組みばかりが持て囃されている現状には、ある種の危うさを感じるものである。

 『メタボリックシンドローム』なんて言葉でなく、素直に代謝機能異常とか、代謝機能喪失前兆とかの日本語熟語を用いて、視覚的にも重篤なイメージを読み手に与える方が良いのでは?と思う。
 どうも横文字は怖さがイメージ出来ないのである。自分もγ-GTPって項目での異常値が出ていたけど、γ=ガンマ=単車とか、GTP=IMSAのカテゴリーってイメージが先に来て、怖さ以前に、まぁイイか!って考えていた事もある。無関心であっても、高血圧とか血糖値とかの項目の方に神経質になっていた。
 特に、メタボ状態のように自覚症状が無い場合は、怖さの前にギャグってしまう気がするのである。

 自分だけかもしれないが、日本人には漢字の難しそうな語句の方が心の奥に入り込んでいくように思うのである。

 今、街は忘年会シーズンである。そこで見かけるのは、強烈にたるんだ腹を更にぱんぱんに膨らませ、顔を真っ赤にして夜の街を笑顔で徘徊しているオッサン軍団である。本当にメタボリックシンドロームを認識して怖さを感じていたら、笑っている場合では無いのでは無かろうか?
 過度に異常に結びつく数値に神経質になる必要もないけれど、異常値だらけを自覚症状が無いからといって放置して良い程に楽観できるものでもない。正月休みを挟んで忘年会、新年会で何キロ太ったとかを笑顔で語るようでは、自己管理能力ゼロと言わざるを得ない。

 企業において管理職世代にメタボリックな人達が多いけれど、自己管理できない奴らが、組織を管理できる筈が無いのである。自己管理出来ない奴に組織管理させている会社は、会社自体の管理能力があるとは言い難いのである。自分の管理が出来ない奴に、それ以上に広い範囲の管理が出来るとでも思う考えがあるとすれば、それは大きな間違いだ。そういうのは管理とは言わず、組織における命令系統の節における精度の悪い伝達係であり、上から言われた事しか出来ない奴にしか過ぎないのである。それは管理でなく、誰でも出来る伝言屋に過ぎないのである。
 俺に言わせれば、健康に難点がある奴は、働く資格等無いのでは?ということだ。そういう施策を行政が打ち出す事が出来れば、働くためには健康管理が必須であり、メタボ予備軍の大幅減少が可能となりそうだ。

 反論としては、中間管理職のストレスのはけ口として、酒や食で紛らわせるという話も聞くけど、それは管理すべき職務が全うできない不満を、他の行為で紛らわせるという管理行為の放棄である。要は、仕事をしていないのと同じであり、管理職としての賃金、手当を貰う資格等無いのである。
 首を上役に対して縦にしか振れないのは、中間管理職だろうが役員だろうが、存在価値は全く無いのである。
 そして、大抵はそういう奴ほど、心身に異常を抱えているのである。究極的にはメタボ=代謝異常という機能障害であり、身体に機能障害を抱える社員に組織管理を任せた組織自体も実はメタボ≒機能障害を来していると言っても過言ではないのである。

 デブ、メタボ、アル中・・・・いろんな奴が会社勤めしているが、そういうのは一度リセットして、健康管理という自己管理できるようになって、出直すべきでは無かろうか?

 健康第一であり、管理職、非管理職に限らず、自己管理できる奴が、社会を動かす資格があるといっても過言ではないのである。そういう意味で、『メタボ』なんて軽いイメージは消し去って、重い言葉で心の奥底に植え付けて、それが改善できないと、どうなるか?(例えば、職、食を失うよ!)っていう深刻さを思い知らせる事が、個人の意識改革に最も効果的であると思うのである。

 良い活動をする組織ってのは、複雑な組織が効果的に機能している訳であり、その部署間の調整能力を司るのが管理職である。そんな管理職の身体も、高度なバランスによって健康が成り立っているのである。代謝という生命維持の根幹に関わる活動は、様々な器官が複雑に絡み合って平衡性を保って維持されているのである。そういう複雑なバランスを安直なサプリ、器具で修正する事は原則不可能である。組織における破綻も、特定部署への責任転嫁のような方法では解決が得られないのと同じである。
 組織も人体も同じであり、高度に複雑化した平衡性の上で成立しているのである。極当然の事だと思うのだが、多くの人は、それに気付いていないようであり、これが理解出来ない奴ってのは、言い過ぎかも知れないが、存在価値は無いのである。

 そんな事を考えると、平衡性が維持できない人が沢山いて、そんな人が作る会社とか組織、社会ってのも実は平衡性が維持できていないように思うのは言い過ぎか?社会に対する行政施策さえも対処療法的であり、因果に基づいた根本対策に見えないのは、政治家の脳内も代謝機能不全に陥っている証かもしれない。
 中高年のメタボ、、、、実は日本社会がメタボかもしれない。

 ということで、今日も辛口全開である。ハハハハハッ!トークが花火のように飛躍してしまった!!!!

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歳取って変わった考え方

 最近の関心事は、何と言っても健康についてである。35歳になるまでは、そんな事は全く考えず、健康である事は当然の事だと思っていた。

 それ故に、元来の性格、負けず嫌いの、何でも一番が好き、凝り性という性格から、給料は多い方が良い!昇給、昇進、成績も当然そう!そのためになら、誰にも負けない事が出来るようになる!って気持ちを持っていた。

 しかし、、、、

 最近は、そういう感覚は皆無に近いのである。性格的には、相変わらず凝り性だが、それ以外の事に関しては、あんまり気にならなくなってきた。というよりも、他人と競う事自体が関心が無いというか、嫌になってきたのである。役職、給料についても、まぁ、どうでも良いか!って気持ちの方が多いのである。

 それは、何故か?っていうと、、、、

 やはり、健康であり、命という限られた時間を如何に過ごすか?を考えた時に、優先順位の上位には、学業や仕事や、生活の裕福さよりも別の事が来たためである。

 一番大切な事は何か?というと、昔から言われている健康第一で、好きな事を好きなように出来る身体が大事ということである。好きな事をやるには、健康な身体が長期間維持出来ていないと出来ないのである。判りきっていた事だし、誰もが言っていた事だが、要約、自分にもそういう感覚が芽生えたのである。

 その理由は、何か?というと、

 実は、自分と同世代の人間の多くが、今社会問題になっているような健康を脅かす要素によって、回復不可能なような疾病状態に陥ったり、命を落としているからである。同世代の人間で両手の指で足らない程の人数の友人が、命を落としたり、長期入院による闘病生活を行ったりしている様を目の当たりにすると、同じ時代を過ごした同世代の自分にも等しくそんな事態が襲いかかってもなんら不思議はないと思っている。

 昨今の命を脅かす、生活習慣病、癌のような病について、一般的には個人の生活習慣の影響が大きいと言われているが、自分としては、同じ時代を生きる人間のライフスタイルがそんなに差があるか?というと、それよりも、時代によるライフスタイルの共通性の方が高いために、世代毎の社会問題として、頻度の高い疾病が現れるのでは?と考えている。
 それ故に、周りの人間に襲いかかった癌、腫瘍、糖尿病・・・・っていうのは、リスク因子を自分も持っていると思っている。

 これ程までに、同世代の友人がやられると、ハッキリ言って怖いのである。そして、その恐さを逃れるには、今の時代を作る価値観とは別の価値観の上でライフスタイルを構築するしか無いのでは?と考えている。それ故に、5年前の今では、考え方が全く変わってしまったのである。

 考えてみれば、昔は定年が55歳がデフォルトである。それが今や65歳になろうとしている。今の就業世代は、様々な現代病と闘いながら、その時迄過ごすのである。過ごす過程の中で充足感が得られるか?というと、それは極稀であり、多くがストレスを抱えたり、惰性で、時間に追われる生活を強制されている。
 その結果、自由に動く身体も、自分の本心さえも忘れ、その時を迎えるのである。その時を迎えると、自分で出来る事の選択肢は大幅に制限されており、その範囲でレールに乗った楽しみしか味わえず、そうやって人生を終えるってのは、あまりにも寂しい。
 まだ、その時を迎える事ができたならマシな方で、その道半ばにして、身体的な破綻により、身体を失ったり、精神的な破綻により心を失ったりする。それが、今盛んに放映されているテレビの特集番組でも紹介されている。

 そんな事を考えると、馬車馬のように働く人には申し訳ないが、程々に働いて、自分の好きな事に拘り、好きな事が出来る心と身体を維持するってのが一番大事なように思うのである。
 勿論、それには資本が必要だが、金儲けも無尽蔵に求めるではなく、自分のしたい事を等身大レベルで出来る程度以上は不要であり、あくまでも儲けた金は、したい事をするための道具にしか過ぎず、それは目的では無いのである。
 よく、金が無い(少ない)から頑張って(無理して)働く(長居(残業)する)って話を聞くけれど、それなら時間で稼がず、効率アップすれば良いのである。効率アップ=価値アップであり、人が出来ない事をすれば単価はアップ出来るのである。それをせずして、不平不満嫉妬っていうのはNGだ。逆に、そういう評価指針を自分で持っておけば結果は付いてくるし、そういう評価を自分で適切に評価(待遇にたいする満足度評価)できれば、その後の進み方(頑張るか?怠けるか?転職するか?独立するか?)も決める事ができる。要は、自分で今を受け入れる考えが持てるか否かが大事である。辛口になるが、ライフスタイルが自分の支配下におけるかどうかが大事であり、そのために、周りと闘うこともあるし、理論武装の必要も出てくる。全ては自分の思い通りに動かすための道具にしか過ぎないのである。
 そのスタイルを維持する目的とは、自分のやりたい事が十分に出来る心身のコンディションを維持する事こそが最大の目的であり、限られた時間(24時間/day)に、十分な睡眠時間+健康維持時間+家族との対話時間+趣味用時間を絶対に確保するという強い意志を持っている。

 睡眠時間を削って働くとか、働きすぎて遊びや対話を失うってのはナンセンスなのである。

 ここ3年で、4人の友人を失い、闘病中の友人も2名居る。みんな、頑張りすぎである。頑張る目的は人それぞれだが、命あってのモノである。命とは、身体と心の健全性であり、これは見失いたくないのである。
 加齢に伴い身体の不具合、病変前兆は現れてくるだろうけど、可能な限り、予防的対策は講じておきたいものである。

 ただ、こういう考え方とは別に、働く事で生き甲斐を感じ、最後の一瞬まで会社に尽くして勤め上げる人生も、それはそれで幸せだろう。仕事が生き甲斐というか趣味というレベルに昇華した人も居るけれど、それはそれで尊敬に価するものだ。そんな人生もアリかもしれないが、唯一受け入れがたいのは、そういった尊敬できる人の伴侶であったり、御子息の姿を見ると、そういうスタイルが人間的か?という点において完全には同意し難い面があるのが否めない。

 年の瀬を迎えると、色んな事を考えるが、それも良いものだ。こうやって、日記に残す事で、将来において過去の自分が何を考えていたか?が判るのも面白い。

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2007年12月20日 (木)

泳ぎ納め

 明日は何時も通りにSCに出掛ける。泳ぎにいくためだ。
 さて、スケジュールを見たんだが、来週の金曜日から年末年始の休館日となる様子。来週は木曜日が会社の管理職会議、水曜日がSCの定休日、火曜日は25日で家族だけのホームパーティということで、来週は夕方以降は空きとSC営業日が一致しない、、、、、。

 ということで、明日が年内最後の水泳となる訳だ。チョット例年より早いのが残念だが、しっかり泳ごう!

 この年末年始は自転車をフル活用して泳げない分、太田川沿いの堤防道路は走り回ろうと思うところだ。

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血圧測定から探る危険因子

 前にも述べたように、関心事は血圧という測定結果から何がわかるか?ということ。
 身体の健康状態を探るには血液検査が一番はっきりしているけど、日常性に乏しく、手軽かつ頻繁に測定できる体重、血圧というモノから危険を察知するのが一番であるという考えに基づき、血圧から判る事に関心がある。

 従来、血圧と言えば、最高血圧、最低血圧の絶対値を持って危険か否か、頭がクラクラするとか、半ば笑い話的に語られる事が多く、今一つ、個々の値の示すリスクが連想できないものであった。
 そのような感覚的なイメージをはっきりさせるために、判る範囲で考えてみると、最高血圧、最低血圧よりも、それらの値から(近似的に)求められる脈圧、平均血圧の方が良いのでは?と思い始め、それを記録として残す事とした。

 しかし、脈圧、平均血圧を表示したところで、その値がどういう値なら危険で、その値は何を示すか?というところが納得できる形で示されなければ危機感を持つ事が出来ない。
 ということで、平均血圧、脈圧で考えると、これに心拍数という因子を加えると、動脈硬化リスクを評価する事が出来るという文献を発見した。

http://www.arterial-stiffness.com/pdf/no08/009_015.pdf
http://www.arterial-stiffness.com/pdf/no05/019_025.pdf

であるが、記載してある事が実に判りやすく、なるほど!って思えるモノである。この内容を、ここに転記するのは意味がないので、そこから抜粋して要約すると、次の事が自分の関心事である。

・最高血圧上昇に伴う脈圧の上昇は、大動脈壁の伸展性低下を近似的に示す。
・最高血圧は加齢と共に増加、最低血圧は50歳でピーク、脈圧も加齢と共にやや増加。
・心拍数×脈圧/平均血圧=動脈壁硬化度/全末梢血管抵抗
・心拍数≧80~100、脈圧≧65を死の結合と呼ぶ。
・スポーツ心臓でも無いのに脈圧が高いのは、動脈の硬化を疑う
・平均血圧が高い(≧110)のは、毛細血管の硬化を疑う

ということである。最低血圧については一般的に高齢化と共に減少傾向にあるが、怖いのは最高血圧であり、これは加齢と共に単調増加するモノである。それによって脈圧の上昇を伴うというのが一番怖いのである。

 また調べて新たな事が判れば記事にする予定だ。

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スポーツクラブでの乱射事件

 スポーツクラブでの乱射殺人事件だが、ニュース第一報での異常者による犯罪とか、無差別殺人とは異なり、同級生殺傷を目的か?から、女性の水泳インストラクター狙いか?という目的殺人の様相を呈している。

 この事件の報道は連日為されているけど、この自殺した容疑者の異常性、幼稚性っていうのが浮き彫りになっているように思う。それにしても、今の報道が真実だとすれば、街で見かけただけで一方的な好意を持ち、それがストーカー的な行為となり、エスカレートした果てが、こういう結末だと、安心して街も歩けない。

 それにしても、インストラクターに好意を持って、インストラクターの勤務日を自分の就職の際の休日としたい?とかは、恐い考えである。面識が出来てからは、色気づいたのかどうかは知らないが、隣人が驚く程の『爽やか』系への変身もあったそうで、純真というか、幼稚というか、、、、何とも驚きであるが、それが、殺人事件に到るっていうのは考えられない。しかし、その精神構造自体の幼稚さっていうのは、小学生レベルで好きな子に対して悪戯をするという精神構造に似ているか?とも捉えることが出来るが、そのまんま37歳になってしまったのは、本人を責めるのは勿論だが、それ以外にも、教育環境、家庭環境的に大きな問題があったとしか思えないのである。

 でも、最近は年齢に寄らず、幼稚な精神構造を持った奴が多く、幼稚な考えを持った奴全体が、或る意味恐い存在か?とも思ってしまうのである。

 精神的に成長しているかどうか?っていうのは、知識を沢山持っているかどうかでは無く、結局は社会性を身に付けているかどうか?であり、社会性の無さ=調和機能の欠如=公衆性の欠如=自分勝手ということ。自分勝手=意のままにしてきた過去=苦労しらず=速攻主義とも連想できる。
 そんな事を考えると、これも教育で教えるべき事を教えてこなかったツケの一つのようにも思えるのである。

 結果主義、プロセスは問わない、そんな考え方が、こういう事件の温床にあるようにも思う。この結果主義の最たるモノが拝金主義であり、そこにはモラルも何もない。よって、今のモラル欠如の偽装問題、不正といった社会問題迄繋がっていると考えるのは飛躍しすぎであろうか?

 飛躍に飛躍を重ねて論ずるのはナンセンスなのは承知だが、このような結果主義、拝金主義ってのは利益優先主義≒資本主義のなれの果てである。
 冷戦の終結においては、社会主義体制の崩壊を以て、資本主義の正当性を証明したかのような論調もあったけど、社会体制において民主主義≠資本主義であり、これまでは、民主主義=資本主義という先入観に皆囚われていたのだろう。

 民主主義は当然だが、社会体制の維持には、利益優先主義と計画経済体制の両立が本当は必要なんだろう。何でもかんでも民営化というのは、現代社会の抱える闇を増幅するだけのようにも感じてしまう。

 バブル期以前の日本が戦後急速に発展したのは、資本主義と言いながらも、昨今槍玉に挙がる規制という名の管理体制による統制による賜物であろう。この統制方法が時代に合わなくなったのが現代であり、それを以て、全て民営化が良いか?というと、そうではなく、新しい時代に応じた統制方法を生み出すことこそが、大事なように思う。

 バブル崩壊後の社会を見ると、過去の規制という名の統制を全て否定し、全てを市場原理に任せるという方向に進んでいるようだが、利益優先主義に任せることは、即ち、結果主義であり、弱肉強食の世界を作るだけでもある。教育から政治迄、全てにおいて破滅に進んでいるように見えるし、発展著しい周辺諸国に埋没する日も遠くない気がする。

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どんな小径車が良いかなぁ?

 ほんの昨日迄は、次小径車買うなら、ハンマーヘッドみたいなんが良いかなぁ?と思っていた。
 でも、気分が変わるのも早い。未だ、考えが纏まっていないのだろう。

 小径車、フルサイズ、単車に限らず、現状のモノで満足しているのだが、それとは別にネクストワンで遊びたいって気持ちがあるのも事実。これは一種の病気だろうけど、仕方ない。単車ならRVF(RC45)、ドリーム50辺りに関心がある。自転車なら、より本格的な固定シングルのTTバイク、小径車って所である。

 でも、そんな思いの中で一番グッとくるのは、実は小径車である。で、小径車なら、どんなのが?というと、先日迄は非分割のハンマーヘッドって思っていたのだが、今は、一寸違う。
 毎日、昼ポタでスピママ号に乗っていると、これはラングスターや531ロードに較べると乗り心地こそ硬いけれど、何とも楽珍である。
 この楽さ加減は何処にある?と考えて色々な自転車に乗ったり、ポジションを変更したり、ギア比を見つめたりしていたのだが、、、、、ポジションは基本はどれも同じである。ギア比もそうである。で、なかなか、この小径車のお気楽性能が何に起因するのかが判らなかった。
 先週の日曜日には午後からオ・モイヨWW号に乗ったのだが、これはポジションは結構ハードなんだが、これも実は結構楽珍であり、先々週のった西DAHONも同じく楽である。

 この小径車の楽珍性能は一体何処にあるのか?とずーっと考えていたのだが、つい先日、友人がビアンキの小径を購入したとのことで、早速試乗させて貰った。

 その結果、、、

 このビアンキのミニベロ、乗り易いのは確かだけど、、、、あんまり街中を乗って楽ではないのである。タイヤは小さいし、車体も短いけれど、楽でないのである。

 で、先日、ニシダサイクルさんの店長さん号のレ・マイヨMも乗りやすいけど、街中チョロチョロは楽ではない感じなのを思い出したのである。

 そう、小径車で楽珍さを感じていたのは、乗り降りの際、信号での停止での際でのトップチューブの存在ではないか?と思ったのである。そう言えば、自分の小径にはトップチューブが無いのである。結果、乗り降りする時は、脚をサドルの後方から回して跨ぐ事はなく、女性の如く、サドルの前から差し足的に跨ぐのである。ストップアンドゴーが頻繁で、乗り降りが頻繁な環境の中では、あの一本が結構鬱陶しく感じていたようである。
 だから、小径でもビアンキの小径では気軽さが感じれなかったのかも知れない。そう言えば、ご婦人向けの自転車ってのも大抵はトップチューブが無いし、昔の女性向けランドナー的なモデルでミキストフレームってのもあったけど、あれ系の自転車は、乗ったら楽である。結構、あの水平の高い位置のフレームは街乗りではウザイものである。
 そう言えば、自転車に限らず単車でもスクータータイプの足の移動に邪魔なタンクが無いモノ程楽なのも確かである。跨るという行為自体が面倒くささを呼び起こしているのでは無いだろうか?

 と、そんな風に思っているのが今だ。

 となると、昨日迄は、あれ程輝いて見えたハンマーヘッドが急速に色あせて見えてしまうのである。確かに、長い車体は魅力だが、車体の安定度事態は折り畳みのDAHONでも十分以上に満足出来るモノである。ならば、ハンマーヘッドのようなトップチューブは要らないかなぁ?というのが正直な感想である。

 で、良さそうって思うのは、シンプルで乗り降り楽珍な自転車ということで、08年モデルから登場のNF(ノンフォールディング)のヘリオス号である。あの、昇降時において邪魔なモノが付いていないシンプルヘリオス号である。更には畳む必要が無いんならフレームは更に単純で良さそうである。どうせなら畳めない頑丈で軽いステムで登場すれば良いのにと思う程である。
 自分で遊ぶなら一番単純なボードウォークなんかが面白そうである。鉄系なんで、折り畳みジョイントをぶった切って鉄パイプで一寸車体を延長して溶接してしまうのも楽しそうである。小径車ならボードウォークのフレームが一番格好良いと思うのは俺だけだろうか?

 『小径車=気楽な乗り物=低床フレームかH型フレーム』

 と、そんな方程式が頭の中で固まりつつあるのである。その範囲で、それなりに速い気分が味わえてってノリが良いような気がするのである。
 それにしても、そんな事を考えながら既製品車両を見ていると、DAHONの折り畳みシリーズや、BikeFridayってのは、なかなか良く出来ているいるなぁと、改めて思うのである。

 未だ考えはまとまっていないけど、次何しよう?って考えている今の瞬間っていうのは案外一番楽しい時かもしれない。

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2007年12月19日 (水)

高性能脂肪感知器の使い心地

 2005年の秋からダイエットを初めて、2005年の暮れには今と同じコンディションを得た。それから早二年が経過した。
 急激(二ヶ月~三ヶ月で20kg減)なダイエットを敢行したが、その後の2年間は殆どコンディションを変えることなく体型等が維持できている。
 ダイエットっていうと、体重計の示度であったり、健康管理であれば血圧計の示度であったり、そんな機材の指示値を見て一喜一憂するのだが、そんな数値的な変化以上に、ダイエットを突き詰めて行って一番驚いた事は、足のサイズが小さくなった事と、顔、特に頬骨上の肉が無くなった事である。

 この2年間では、体重を落とすのを目的とせず、今度は、体重を少しずつ増やしながら、脂肪は減らしたままに筋肉を肥大化させるという取り組みを行っている。そんな取り組みの結果、2年間で体脂肪率が2~3%減り、逆に体重は1~2kg程増加しているのである。こうなってくると、体脂肪計で測定しない限りは身体がどうへんかしたかは判断しづらいのであるが、そんな面倒臭い方法でなく、より簡単な方法で余分な脂肪が付いたか否か(リバウンドしているか)を判断している。

 それは、体重という方法でも、胴回りという方法でもない。体重というのは増減の結果の数値だし、胴回りでもそうである。で、自分の判断ポイントは先にも述べた頬骨の上の脂肪の厚みを摘んでは脂肪が付いたかどうかを判断しているのである。

 専門的に正しいかどうかしらないけど、自分のこの2年間の取り組みで判った事は、頬骨の上、足の甲の上っていうのは脂肪は付いても筋肉は殆ど付かない部位であり、ダイエットによって脂肪を落とす事ができて、他の部位に筋肉が付いて体重自体が増加したとしても、頬骨の上の肉の付き具合で、自分の余肉が如何ほどか?を判断している。

 結構、頬骨上の脂肪は、緩んだ生活をすれば簡単に付くようであり、頬骨上の肉を摘んでは、未だOKと思っているのである。

 つまり、自分にとっての脂肪感知器は頬骨上の肉である。目尻したの頬骨の出っ張りが直ぐに判り、骨の稜線が耳まで触って即判るか?
 そして、その稜線上で摘んだ肉の厚みが稜線から顎に掛けて等しく皮を摘むような感じになっているか?具体的には、親指と人差し指の間を3cm程開けて摘んだ時に摘んだ厚さが3~5mm程度となり、ビヨ~ンと引っ張ると伸びるかどうか?を確認している。

 これは、何時でも何処でも直ぐ確認できる。これをやって、今日もOK!快調!大丈夫!って判断しているのである。

 因みに服を脱いで全身の肌を摘んでみると、身体全体に渡り摘める厚みは5mm以下である。

 なお、ここで判断できるのは皮下脂肪であり、生活習慣病の元凶である内臓脂肪とは異なる事を覚えて置いて欲しいけど、内臓脂肪とは摘めない場所にある脂肪で判断不能である。ただ、中年以降で肥った男性の場合、皮下脂肪が付いている奴には内臓脂肪は更に沢山付いている可能性が高い。運動によって最初に取れるのは内臓脂肪である。よって、皮下脂肪が無くなっているということは、既に内臓脂肪も消滅していると考えて差し支えないのである。
 因みに、春先に受けた虫垂除去術の際には、執刀医から内臓脂肪も皮下脂肪も全くといって良い程ありません!って言われた。結果、手術創の長さは30mm以下で、今は傷跡を見つける事自体困難になってる。脂肪がいっぱいあると、沢山切らないといけないらしい。

 という訳で、暇を見つけては、いつも頬骨上を摘んで、今日もOKと微笑む私である。

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突然死!スポーツ心臓?

 運動を習慣化することによって、心臓に形態変化がもたらされ、その変化した心臓をスポーツ心臓と呼ぶのは広く知られている。
 で、そのスポーツ心臓ってのを調べていると、新たな発見をした。
 スポーツ心臓って心臓も、スポーツのタイプによって異なる形態変化をするというのである。その変化形態には二つあって、マラソンのような動的な運動では心臓の容量が大きくなり、重量挙げのような静的な運動では心臓の壁が厚くなるそうである。
 有酸素運動的な運動では心臓というポンプは容量拡大方向に変化して、無酸素運動的な運動ではポンプは吐出圧力上昇方向に変化するということ。で、両方の運動を行うと、大きく、圧力の高い方向に変化するのだろう。但し、心臓の変化は心臓を構成する細胞の数は不変で、細胞単体の形状や機能の変化によるものであり、運動という行為による適応現象の一つと考えられている。
 という訳で、スポーツを辞めるとスポーツ心臓は普通の心臓に戻っていくのである。

 スポーツ心臓の機能的な変化としては、徐脈(脈拍の数が遅いこと)などがあげられるが、これは、マラソンなど全身持久性のスポーツ種目に多い変化で、安静時の脈拍が40台であることもまれではありません。これは、心臓の容積が大きいので安静時の脈拍の数は少なくてすむことや、心臓の働きをおさえる自律神経である迷走神経の働きが大きいためと考えられています。実際運動をするときには、脈拍が普通は早くなるのが通常である。

 スポーツ心臓っていうと、これまでは持久運動に適した形態変化の事しか考えていなかったけど、静的な運動に適した形態変化もあるって事を、今回初めて知ったのだが、考えてみれば、当然といえば当然のようでもある。

 但し、このスポーツ心臓ってのは、先に述べたけど長距離陸上の選手とか、自転車競技者レベルの話で、健康維持スポーツって観点で緩い運動しかしていない人が脈が低いからとスポーツ心臓っていう素人判断するのは危ないのである。

 スポーツ心臓か否かは、病院で診断を受けて判断すべきであり、そう思い込み(願望的に)、無理な運動を行って待ち受けるのが、スポーツ中の突然死であり、健康に変な自信を持つ中高年では、冠動脈硬化症による心筋梗塞が圧倒的である。こうなるとスポーツ心臓以前の話である。
 ところで、突然死っていうと、その殆どが心室細動って症状によるけれど、その危険因子が先述の虚血性心疾患(心筋梗塞など)や肥大型心筋症といった心臓病である。心室細動は心室の小刻みな振動状態で血液を送り出す機能を失った状態のこと。この突然死対策で昨今普及拡大中の機器がAED(Automated External Defibrillator)と呼ばれる自動体外式徐細動器であり、勤務先の工場にも設置してある。

 確かに、オヤジ世代となると、それまで以上に健康に留意する。そして結構まじめに取り組んだりする。しかし、過去の生活で運動を行ってきたか?スポーツによる危険因子を持っていないか?によって、得られる結果は千差万別である。しかし、オヤジは自信を持ちやすいという特徴もあり、早合点に『俺はスポーツ心臓だ!』とも思いかねない。
 しかし、そういうレベルってのは、先にも述べたように、然るべき経験を持ち、相当の負荷をモノともしないレベルとなるように、軽負荷から相当に長い年数を掛けて鍛えた人のみが持つものであり、殆どの場合、スポーツ心臓だ!って言えるレベルには無いのが現実では無いだろうか?

 突然死を防ぐには、過信しないのが一番であり、我が身の程を理解するのが第一である。その上で、専門家の指導を聞き、突然死の危険因子を取り除くというのが最も有効な手立てである。
 最近はスポーツ心臓って言葉を、身近な人の間から聞く事が多いけど、スポーツ心臓っていうのは持続的なスポーツ習慣による高度な適応現象の結果であり、そういう形態変化は、毎日10km程度のジョギングをして身に付くものでは無いという説もある。よって、単純に心拍数が低い=スポーツ心臓というよりも、別の心疾患を抱えている可能性の方が圧倒的に高いって事を肝に銘じるべきである。これも過信の一つであり、突然死への第一歩となっているのである。

 なお、このような中高年の突然死である心室細動とは別に、心臓震盪って不整脈もあるが、これは心臓への外部的な衝撃を悪いタイミングで受けた際に発症するものらしい。

 何はともあれ、色んな場面に生命を脅かすリスクが潜んでいるんだと、しみじみ思っている。年取って運動不足なら生活習慣病、糖尿病・・・・、喫煙、飲酒、紫外線等々の異常な刺激を受けると癌発生とか、スポーツするにしても弁えずにやると突然死とか、、、、健康は一日にして成らずである。結局は、人体機能を自然に活用するような地道な生活=健康ってことか?

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年末年始変則スケジュール

 師走ということで、世間は忙しないようである。自分としては、単純に12進数的に桁が一つ繰り上がるだけという程度の意識なんだが、それでも違うのは、年末年始の長期休暇があるということ。会社が休みなのは大歓迎なんだが、世間一般も休みなのはNGだ。

 毎年、この時期になると、ごろ寝、大食いというパターンであり、自分に限らず周りの人も正月休みで何キロ太ったとかの話をしたりする。

 さて、今回の年末年始は如何に?過ごすかとうい事が、この時期の関心事なんだが、私的には忘年会、新年会が幾らかある事。これは、まぁ程々にしておく。
 日常の運動も基本は自宅で行ってるんで、まぁ、年末年始で運動出来ないって事態には繋がらないだろう。

 問題は、、、、そうフリーウエイトのベンチプレスを行うためと、水泳のために通っているスポーツセンターである。スポーツセンターには、基本的に金曜日に出掛けている。というのも、金曜日が勤務先の保険日という事で定時操業日だからだ。それ以外の曜日は、2時間残業がデフォルトであり、2時間残業して帰宅して家事、育児、自宅運動をやると、それだけで午前0時となる。つまり、残業日にはスポーツセンターには通えない。
 で、水曜日がスポーツセンターの休館日である。

 そういう前提で、スポーツセンターの年末年始の営業案内を見ると、年末は12/28(金)から休業のようである。で、12/26(水)は休館日。で、12/27(木)を定時で強引に帰ろうか?と思ってスケジュールを確認すると、その日は、最後の管理職横断会議で強制残業・・・・・。12/26以降はスポーツセンターに出掛けるのが不可能ということである。12/24は休日ながら普通出勤日。当然、家族でクリスマス会である。12/25(火)辺りがラストチャンスだが、微妙に難しい感じ。それ以前だと、今週末の予定から間隔が取れないので筋トレが出来なくなる。

 となると、今週末の12/21(金)がラストチャンスか?年始は1/6が日曜日なんで、恐らくは営業は1/7(月)以降だろうし、その週は年始の挨拶等々で強引な定時帰還は不可能であり、早くても再開は1/11(金)となる。となると20日間もブランクが生まれるのは、一寸気掛かりである。スケジュール調整をしっかりするか、年末年始の好天時には自転車で激走するかの特別スケジュールを起案しないといけない。

 できれば、年末年始というタイミングを活かして、機能強化を図っておきたいところ。春になる頃には、更にワンステップ上を狙いたい。

 運動機能で次のターゲット数値は、毎年少しずつ強化しているのだが、

・フリーウエイトベンチプレスで110kg狙い(今は胸に落として100kg、ダイエット前110kg)
・水泳ではブレストストロークで5kmを100分切り狙い(3kmを60分は楽勝、5kmは115分)
・自転車で最高速度(笑)ならば、車種問わず70km/h狙い(最高は68km/h)
・自転車で中央森林公園ロードコースは、20分切り狙い(今は21分16秒)

 って所がターゲット。勿論、健康診断は検査値オールクリア、安静時心拍数は40未満キープは当然だ。

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2007年12月18日 (火)

驚きの事故と自転車の無法状態

 今日のニュースで驚いたのが、なんと自転車で転倒時にブレーキレバーが目に刺さり、それが脳に達して死亡ってニュースである。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071218-00000041-mai-soci

に記載されているが、驚きである。

自転車といえば殆どが中国、台湾製である。勿論、パーツ類もそういう傾向が強い。
更に、単車のような乗り物とは異なり保安基準もアマアマである。

単車の世界では実際はともかく法令上は有り得ないような突起物が常態化した世界である。
今回の事故では、乗った本人の転倒による本人の死亡ということだが、今の世間に溢れる暴走自転車は走る凶器状態である。

・ブレーキレバーの先端が尖ってる・・・・単車では丸になってる。目を突くぞ!
・傘固定具で傘を固定して走行するママチャリ・・・・目を突くぞ!
・DHバー装備で歩道をかっとぶロードバイク・・・・・・脊椎アタックすると重傷負わせるぞ!
・ビンディングでかっとぶロードバイク・・・・・転ける時は肉団子状態!
・バーエンド装着のクロス、MTB・・・・・・一番広いハンドルに突き出す突起物、良いのか?
・高圧タイヤ・・・・・タイヤで踏んでの飛び石は結構威力あるぞ!
・剥き出しのタイヤ・・・・単車では回転体の露出はNG、歩道走るなら泥よけ要るだろ?

他にも色々あるけれど、パッと思い付くだけで無法状態なのがよく判る。
少なくとも歩道を走行可能とする自転車には、突起物となるような傘固定具、DHバー、バーエンド、高圧タイヤ、フェンダーレス仕様ってのは有り得ないのでは?と思う。

そういう自転車は歩道走行禁止にすべきだ。
今回の事故では加害者=被害者であり、人の関心は薄いかもしれないが、加害者=自転車、被害者=歩行者で、先述した装備が原因で事故が起きる可能性は極めて高い。

もう少し業界は、自浄作用を発揮せんといけないだろうと思うけど、如何なモノだろうか?

そうでなくても、乗り手は歩行者とぶつかったら、先日のニュースではないが、ひき逃げみたいな事する訳である。

もう少し、モラルをユーザー、業界とも持つべきであろう。

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問題山積、、、、政治家も大変。

 最近のニュースは、政治に纏わる問題が結構多い。
 厚生労働省では、
 薬害肝炎問題、年金問題、原爆被爆認定の問題・・・・・
 防衛省では、
 事務次官の不正、防衛機密漏洩問題、テロ特措法問題・・・・・
 他にも、いろんな問題を抱えているようである。

 で、どの問題に対しても取り組みが及び腰に見えるのは気のせいか?

 何をすべきか?の優先順位から考えて、強引な手法でもよいから進めないと厳しそう。関係省庁、組織の調整を優先するというのも理解できないではないが、結果前には進まない。政治生命を掛けて政治判断という名の下に強引に進める時期に来ているようにも思う。さもなくば、今の閉塞性は打破できないように気がする。

 もっと強引な手法、剛腕でも良いから、目に見える変化というかインパクトが与える事ができる政治家が必要では無いだろうか?

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細胞数は一緒だけど、、、

 人の身体を構成する細胞の数量は、ほぼ一定とされており、60兆個とされている。しかし、この値には個人差があるのも事実だし、人によっては随分とその絶対値、細胞の種別別組成は異なっているのでは?と思っている。

 全ての人が同じ組成で60兆個としたならば、身体的能力、特徴に大きな差異は無いと思うのだが、人によっては、全く別の生物か?という程に違う事がある。

 一番身近な常識論としては、肥満についてだが、肥満を司る脂肪細胞についてだが、肥満とは、脂肪細胞の数が増える事による肥満と脂肪細胞単体のサイズが肥大する肥満とに分けられる。そして、脂肪細胞とは一説によると3歳迄、別の説によると成長期迄に大方決まると言われている。

 つまり、人という種族では60兆個の細胞で身体が作られていながら、常識的には脂肪細胞の数が遅くとも成体となる迄のライフスタイルによって異なっているという事が明らかになっている。

 少なくとも、個体として完成されて以降は、細胞の数自体が不変だというのは理解できるが、その数自体には個人差があって、その個人差っていうのは、成長過程における様々な刺激によるホルモンの分泌等によって生まれているのでは?と思うのである。

 細胞というのは、どんどんと新しい細胞に入れ替わるべく代謝しているけど、前の記事に書いたように、殆ど入れ替わらない細胞も存在する。その入れ替わらない細胞分裂が活発でない細胞としては、脳細胞と筋肉細胞がある。そうは行っても、生まれたばかりの赤ん坊と成長して個体として完成された成体の間で細胞の数が同じであるとは、とうてい思い難い。

 その細胞の数は、個体の成長過程における分泌ホルモンの量によって個体差が生まれるのでは?と思っているが、それは、成長期迄で脂肪細胞の数に差が生まれるという事実から連想している事である。
 何が言いたいか?というと、人の成長期における過ごし方で、個体として完成される成体における脳細胞、筋肉細胞の絶対的な数値として差異が生まれているのでは?と思っているからだ。
 ここで言う細胞の数っていうのは、絶対数だけではなく動かす事が可能な細胞の数を含んだ上での意味である。絶対数的には顕著な差異が生まれにくいのは、例えば心臓の細胞数についての様々な所見や論文でも或る程度明らかになっているが、例えば、細胞を動かす神経のネットワーク自体は成長期の運動経験によって大きな差異が残るのも真実である。運動経験が豊富な程、運動神経が発達し(発達速度4~5歳がピーク、8~10歳で完成だそうだ。なお循環器系の発達は10~15歳、仮に自転車や水泳で能力を高めたいなら、小学校高学年迄に水泳等をしっかりやるのが一番であるということ。で、三十路から始めるってのは、負けず嫌いであっても手遅れか?)、筋肉を動かす自由度も高いのでは無いだろうか?

 幼い時に身体を動かす事が大好きな子供っていうのは、何かしらの運動に没頭する幼少期を過ごすだろう。そんな成長の軌跡では、運動部等に属する事も多く、それ系の人っていうのは、下地として運動神経が発達し、身体を動かす事で筋肉も発達し、スポーツとして取り組む際にも上達に必要な手法を身に付けているだろう。
 逆に、幼い内に過保護或いは放任で過ごし、屋内遊び主体で過ごし、上達に手順が必要な取り組み(スポーツ、勉強)を積んでいない人っていうのは、運動神経はもとより、基礎体力、上達に必要な手順も理解出来ないだろう。

 このような成長過程における差というのは、老齢化してから結構顕著な差になるようにも思う。前者の手順を踏んでいれば、神経系、下地的体力、上達の手順を身に付けている訳であり、長いブランクで身体が衰えていても、その中に楽しみを見つけるだろうし、上達、復活は速いだろう。しかし、幼い頃から完全に運動不足の帰宅部のような奴の場合、中高年以降にそれらしいトレーニングを積んでも、成長期における経験者とは絶対的に同じにならない場合が多い。

 結局、大事なのは、身体の成長段階で効果的な時期に効果的な運動を行ってきたかどうか?っていうのが、個体の運動能力を大きく左右しているってことである。そういう取り組みは、生体的な能力の優劣の他にも、スポーツを道として取り組む際の考え方にも大きな差が発生する。
 色んな人と話したり、いろんなサイトやブログを見たりすると、熱さがあれば何のその!ってノリも見られるけど、そういう熱さで語られたり、干渉されたりするのはウンザリであり、そんな熱さや、機材だけで、どうにかなるって思ってる奴には、こういった現実を理解して貰いたいと切に願うのである。

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心臓は筋肉で出来ている!

 定期健康診断以来血圧を定期的に測定し始めてから1ヶ月が経過した。
 当初は、健康診断の際の血圧測定で上が130、下が85という自分にしては異様に高いな?という疑念をはらすというか、平常状態を確認するのが目的であったが、その原因は、朝一番の健康診断で、会場である3階迄駆け上がった後の測定だったこと、デジカメ、携帯等のホルダーをベルトにぶら下げて、ベルトを相当にきつく縛って測定した事が原因では?という結論を得て、今は測定前に数分間のリラックスタイムを設け、腰のベルトを外して測定して、問題無い状態である事を確認している。

 しかし、今の気掛かり?は、異様に心拍数が低いという事である。朝の就業開始時におけるラジオ体操+現場巡回直後で心拍数は45前後、午後の昼ポタ直後で50前後、夕方の事務仕事+現場巡回後では場合によるけど40未満も度々計測される、、、、。そして、病院等で安静状態を保った時の測定では35程度という異様な低値である。
 普通の人が60~70という値で、50未満だと徐脈、100以上だと頻脈といわれるらしい。

 色々と調べると、正常(健康)でありながら心拍数が下がるのは、スポーツ心臓ということだが、スポーツ心臓の成立条件としては、

・高校生以上
・耐久競技選手
・数年以上のトレーニングの継続

 ということである。しかし、このような心肥大の傾向は、トレーニング中止後1年以内で消失するということ。ここで言うトレーニングの質だが、高々10km程度のジョギングを毎日続ける程度では、こういったスポーツ心臓にはならないそうだ。他にも、学生時代にそれなりに運動していたという中高年で、低心拍数っていうのは、スポーツ心臓という以前に別の問題となる疾病を抱えているということである。
 スポーツ心臓か否か?を簡単に見分けるのは、運動を行うと心拍数が速くなるのであれば、概ね、問題は無いそうである。

 因みに、心臓という臓器は人体の中では極めて特殊な臓器である。

 一寸前の関心事である癌というテーマで考えると、心臓癌って病は聞いた事が無い。これは何故か?というと、癌は細胞分裂を繰り返す細胞で発生する不完全体による細胞が起源である場合が多く、心臓を構成する細胞は細胞分裂して数を増やさない(入れ替わらない)という特徴があるからである。心臓は、一度完成すると、細胞の単体は大きくなっても、細胞の数が増えないという、そんな細胞の集合体であるために、悪性腫瘍の前提条件である細胞分裂が無いのである。

 因みに、色々と連想すると、心臓は内臓という臓器ながら血液を全身に送るという活発な動きをしており、臓器自体が心筋で出来ている。心筋でもパワー溢れる横紋筋で出来ているのである。横紋筋=筋肉なのだが、筋肉自体は分裂能が著しく低いのが特徴であり、個体として完成した後に筋肉を増強させるというか、パワーを付けるのが難しい事と一致するものである。実際、心臓に限らず、筋肉にも癌が発生しにくいけど、それと繋がっているのかもしれない。

 心臓、癌は発生しにくいけど、他の筋肉同様に完成後は細胞数も不変である。心臓を鍛える?のは、細胞単体を太らす事しか手はないが、その変化は簡単に消失するのである。

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2007年12月17日 (月)

スポーツクラブで銃乱射

 週末の驚いたニュースといえばスポーツクラブで起きた銃乱射事件。散弾銃を持った男が押し入り、散弾銃をぶっ放し二人死亡という痛ましい事件である。

 ニュースでも報道していたけど、九州では、ここ最近銃を使った犯罪が多発しているようだ。

 それはともかく、スポーツクラブで、この手の事件が起きるってのは珍しい。15日(土曜日)現在、37歳の男性の逮捕状が請求されたが、間もなくして、教会の敷地で迷彩服、散弾銃、血まみれの37歳男性の遺体が発見されたそうで、容疑者が自殺を図ったのは?とされている。

 動機は何?というと、イメージ出来にくいのだが、この容疑者は、このスポーツクラブの利用者だという情報もある。
 仮に、利用者ならば、なんらかの意識の交錯による逆恨みみたいなモノがあるのかなぁ?とも思うところだ。

 スポーツクラブ、スポーツセンターでは水泳教室、ダンス教室、エアロビ教室のように指導料を払い受講するというスタイルもあるけれど、年会費、利用料という形で会員登録して施設を利用する権利を得るというスタイルで利用する人も多い。
 昨今の健康ブームで、この手の施設を利用する人が増えているけど、混雑している時期には、利用者数に対して設備が不足気味の場合もある。そういう点で利用者にフラストレーションが溜まる場合もあるし、常駐のインストラクターとのコミュニケーションによる意識のすれ違いもあるかもしれない。
 殆どの場合は、大人の対応で問題となる事はないのだが、そういった環境では、順番を待つ、譲り合いの気持ちを持つ、一つの器具占有を控えるといった心掛けを持っている人も多いし、そういう指針でインストラクターの方は施設管理をしている。

 しかし、その辺を理解していない、指導員、利用者も居ないとは言い切れない。

 ふと、思い出したのは、自分もスポーツセンター、スポーツクラブに通っているが、今通っている所には、通い続けて12年目になる。
 この12年の間に一度だけ、インストラクターの方と利用者の方での喧嘩を目撃したことがある。
 この喧嘩は、何年か前の話だが、チーマー風の利用者とインストラクターの間の喧嘩だったのだが、その時は、パトカーがやってきて結構物々しい雰囲気だったのを思い出す。

 人間が多く集まる場所っていうのは、価値観、道徳観、常識観の違いが無いとは言いきれず、そんな環境では何が起こるか判らないと思うような世の中になってしまったのだろうか?最低限度の常識と越えてはならない一線という意識が無い時代になったのか?
 仮に、現代がそういう時代ならば、結構、怖いものである。

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ヨーグルトは食前?食後?

 最近は、勤務先でもヨーグルト、ヤクルトを食べる人が増えてきた。とはいっても、一過性の現象だと思う。11月の定期健康診断の結果が帰ってきたのが先週の事。それで、バリウム飲んで撮影する胃部レントゲン検診での所見有りの人も居たりして、一時的ではあっても、事務所内でも健康?を意識する人が増えている。
 この事務所にはヤクルトのオバチャンがやってくるのだが、自分は随分前からヤクルトと低糖ヨーグルトを買っている。
 で、このヨーグルトを食前に食べる方が良いか?食後に食べる方が良いか?の話が出たのだが、明確な答えを見つかっていない。食前派と食後派に分かれるようである。

 以前、何かのテレビでも食前食後のどっちが良いか?を扱っていたが、実際のところ、さほど関心は無いのである。
 自分の場合は、ヤクルトのオバチャンがやってくるのが昼休み中であり、待ってから食べると昼ポタ時間が無くなるので、必然的に、昼食が先で、ヨーグルトは食後という状態だし、そういう状況で無くても、朝もヨーグルトは食後に食ってるし、洋食レストランでもヨーグルト等は食後のデザートで出される事が殆どであり、習慣としては食後って印象だ。

 ヨーグルトが食前に!って提案されたのは、何年か前のテレビでのネタで、食前に食べると、腸内の栄養分を吸収する穴を一時的に塞ぎ、食事における過剰な栄養分、特に脂肪等の摂取が抑える効果があるとの話であり、ダイエット目的なら食前がお奨めって言われたためだと思う。
 一方で、乳酸菌の効果を期待するならばヨーグルト内の乳酸菌を破壊せずに腸迄届けるという観点ならば、食後の方が良いとも言われている。

 つまり、目的によって違うと言う事なのか?
 でも、個人的には、食前食後と言っても、その時間差は数分の差も無い訳であり、胃の中に入ってしまうと一緒では?って思いの方が強いのである。それ故に、自分では食べる順位に全く拘りが無い。純粋にヨーグルトの微妙な酸っぱさが美味しいと感じるから食べているだけである。

 ただ、何となく思うのは、ヨーグルトに限らず食材を食する順位は、或る程度決まっているのかなぁ?とも思う。
 和食の場合は、そういう意識を持つ事はないけれど、フランス料理等のコース料理では、スープ、サラダ、メインディッシュ、ライスorパン、デザートという順番で出てきて、一段階毎に完食するか、ナイフフォークの位置で料理を下げる合図を出さない限りは次が出てこない。これが、どういう根拠かは知らないけれど、そういう形式が常識化しているってのは、伝統か歴史によるものだろうから、そういう風習には、そういう手順に意味があるからかもしれない。

 ダイエット関連のネタで料理を食べる順番に論じた話もあるけど、その話の順位は、食物繊維、タンパク質、炭水化物って事が多いが、それって、コース料理で出される順番そのものである。ダイエット話単体で聞くと眉唾っぽく聞こえるけど、コース料理の形式を考えると、なるほどとも思えるところが興味深いところである。

 先にも話したが、自分の場合、ヨーグルトを食べる順番に拘りは無いけど、料理は一般的に、サラダ食って、肉や魚食って、最後に御飯を納豆で食うってスタイルが長く続いている。話は変わるけど、当然、良く噛んで食べている。

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2007年12月16日 (日)

カーボンオフセット

 これは、環境問題をビジネスに繋げる上で用いられ始めた考え方であり、カーボン=炭素、オフセット=相殺ということで、活動による炭素消費(=二酸化炭素発生)を、別の方法で相殺させることで環境に貢献しているという考え方みたいである。
 そして、相殺の手法は、活動による発生炭酸ガス量を相殺するに必要な二酸化炭素吸収の手立て(=炭酸同化、即ち植物を増やす=植林)によるという結構安易な考え方であり、オフセットすることで本人が環境に貢献しているという意識が持てるそうだ。しかし、言い方は悪いけど、これって、環境オタクのマスターベーション狙いの商売に見えるのは気のせいだろうか?

 植林する場所っていうのは、本来は植物が生えていた場所であり、そこに植物を植える行為ってのは、地球に意志があるとすれば最低限とも成り得ない現状回復しているって思いに過ぎない気がする。少なくとも、人為的な生態系への介在であり現状回復にはなっていない筈だが、植林行為を手助けする対価を払って相殺しているという時点で強烈な違和感を感じる。

 人間の手で破壊した生態系に本来の機能を取り戻させるには、植林行為に相当するだけの対価では、到底まかなえるモノではない筈。それを維持管理するには、番組で紹介されたような金額では済まない。
 このようなマスターベーション的な活動では生態系の安易は作り替えによる二次的、三次的な災害や、生態系の破壊という危機的な状況を更に加速させるだけのように思うのは考えすぎか?

 教育のプログラムとして、日常生活が、どれほどの炭素消費を伴い、どれほどの炭酸ガスを排出しているかを認識させるのは有意義だが、それを一意的な計算によって相殺できるという短絡的な考え方を教えるのは有害だと思う。その一意的な関係性を盲目的に信用して、相殺しているから、炭素消費は自由に行ってOKという認識が生まれるとすれば、それは偽善であり、炭素消費の絶対的な制限を行うことこそが必要な認識では無いだろうか?
 1人あたりの消費炭素量を制限するには、実質的に燃料消費を抑制するっていうのが重要であり、民間のビジネスにおけるカーボンオフセット商法というよりも、国家等の公的な機関による強制的な炭素消費抑制行政が必要だろう。

 極端な話、ガソリンなんて炭素消費税という名目で、リッター500円位にしてしまえば、使う奴激減するだろうし、光熱費なんても、一定基準内については貧困層をも配慮して単価を抑えさせた上で、一定以上の使用量に対しては超累進的に課税し単価を引き上げる等も有効だろう。生活必需品目外での炭素消費税というものを導入するのがカーボンオフセット商法よりも遙かに絶対的な発生炭酸ガス抑制に効果があるだろう。

 既存の産業界からは反対があるだろうけど、既存の価値観を作り替える良い時期であるようにも感じるところだ。

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極意?本、沢山!

 定期的にニシダサイクルさんにお邪魔して部品を頼んだり、談笑したりと時間を過ごすのだが、そんな時間を過ごす際には、新しい雑紙が入ればページをめくる事が多い。

 自転車関連の雑紙は、ここ一年程度パラパラとめくってみたけど、傾向として、新製品紹介、速くなる極意や技術の紹介、時事問題の3つの要素から成り立っており、どの号も、どの雑紙も基本は同じである。まぁ、単車の雑紙、車の雑紙も同じであるが、大抵同じである。

 自転車本には、そんな極意習得?に結構なページを割いて特集を組んで、色んな用語が飛び交っている。こういう構成をスタンダードって事は、愛読者も、こういう特集を好んでおり、大きな関心事なんだろう。

 それにしても、日本人は、そういう極意とか、秘訣とか、公式とかが大好きなんだろうか?他の国の人はどうなんだろうか?普通に考えれば、極意も秘訣も公式も、それ単体では全く意味を為さないと思うのだが、そういうモノにただならぬ関心を持つ人が多い。

 これが国民性なのか?それとも、これが人の性なんだろうか?
 確かに、苦労せず結果が欲しい気持ちは理解できないではないが、苦労せず、簡単に、或いは、金を払えば結果が得られるのなら、それは競技やスポーツ、学問としては成立しないのだが、何故か人は結果を先急いで求める傾向があるようだ。

 極意とか、秘訣とか、公式っていうのは、それに気付いた人にとっての経験則を簡略化しただけのモノであり、そういうモノがどういう状況に適用できるか?は、本当に理解した人で無ければ正しい運用は出来ない筈。

 一寸、笑い話になるけど、『体重の重い軽いは下り坂の速度に影響しない!』って豪語する奴が居て、そいつの理論?によると、高い場所に居る時の位置エネルギーが低い場所に移った時の運動エネルギーに等しいので、体重は速度に関係ないとの説明を真剣にする奴が居たけど、呆れるというか、哀れというか、悲しいというか、本人は自分を論理的って自身を持っているのが、何とも言えないって事があったけど、結局は、言葉だけ、公式だけ知っていても、使いどころが意味不明では全く無意味というか弊害でしか無いのだが、何故か、人は結果を得るために簡略化した極意、公式、秘訣に拘っている。

 大事なのは、人から聞いた言葉、本で見つけた語句ではなく、自分の経験から感じた自分の感覚であり、なによりも経験を積む事が一番大事なんだが、どうも、その辺が理解されていない様子である。

 結構、短絡的な奴が多いのは驚きである。栄養補助食品とファーストフードばかり食うイタイ奴が居るんだが、頭悪く、直ぐカッとなるのは、野菜食わず、魚も食わない食生活にも原因あるんだろ!と半分からかってみると、魚食って野菜食って頭を良くしたいらしい。取り敢えず自分で自分の好きな所探してみれば?って言っても、それは無いと豪語する辺りが難しい。実際、野菜食っても、魚食っても頭は良くならない。それは、補助的に効果があるかもしれないが、それはバカを改善するための主要因では無いんだが、、、、よく考えて、よく見て、よく注意してって言っても、考えれない、見れない、注意できないのを修正する方法なんて、実は全く判らない。敢えて言うなら、不惑なら40年遡るか、三十路なら30年遡るしか治しようが無いのでは?っていうのが持論。身も蓋もないけど、人格を変えるっていうのは、その人の人格形成に到った生い立ちを半ば否定するようなモノであり、それを望む事自体間違いだ。
 ありのままの自分を受け入れて、自分とはそういう存在であるという事を受け入れる事から始めるしかないと思うけど、自分に自身を持てない人は、自己否定から入るのが多いが、そういうのは鬱病や自殺の原因になりかねない。

 人間誰しも、良い所、自分の好きな所がある筈だが、それを見つけて大事にするのが先ではないか?長所な無い奴なんて居ない筈である。自己否定は辞めて、自分の好きな所を探し、自分を受け入れるというのが大事なんだが、、、、。

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2007年12月15日 (土)

'08 ZZR1400

 去年、ZZR1400が190PSで登場して『オ~ッ!』、今年、新型のGSX1300Rの隼が予想194PSを覆して197PSで登場して『オ~ッ!』と来て、カワサキとスズキの意地の張り合いが凄いなぁと思っていたところ。

 なんと、ラムエアー加圧ながら、

           203PS

 だそうだ!凄いモノである。
 その半分の100PSでも扱いきれないのだが、これは既に、そういうスペック自体に意味があるんだろうし、世界最強!世界最速!を所有する、跨る事に重大な意味があるんだろう。そのためには、最速最強で無ければ為らないという論理か?

 この数値には単純に驚くのだが、自分のスケールでは他人事というか別世界のような冷めた目でしか見えない。

 でも、昔を遡ると、ホンダから6気筒のCBXが103PSという最高出力で発表された時には、『いつか乗るぜ!』って思ったのを思い出す。確か、中学二年の頃の事である。
 思い起こせば、当時は、Z750FXが70PS、CB750FZが68PSで、実際の売れ行きはCBがダントツだったけど、免許の無いカワサキ好きの中学生の自分には2PS多いからFXがエライ!?なんて思っていた時期もある。
 今考えれば、こっぱづかしい事である。雑誌に載ってるスペックの1PSの大小、定地テストの最高速度、ゼロヨンタイムの優劣に一喜一憂していたのが中学1年の頃だ。

 馬力数値に意味を感じなくなったのは、免許をとって、数台の単車を乗り換えてからの話で、18歳くらいの事では無かっただろうか?馬力なんかどうでも良くなっていたのは、どんなスペックであれ、実際に乗って、攻めて、走ってみると、チンケな単車でも普通に能力全てを使い切る場面が極稀な事に気が付いてからの話だ。

 大事なのは、自分の棲息域で単車のキャラが自分に合うかどうか?それが重要だ。

 その棲息域は人によって違うのであり、その拘りが馬力数値であるならば、ZZR1400の新型は狂喜乱舞の神となりうるのだろう。

 なんにしろ、約30年前には100PSがスーパーバイクの指標だったのが、今や200PSである。凄いモノである。

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脈圧、平均血圧から見た健康管理

 健康ネタは以前にもかいたけど、自分の健康状態に連動して関心事が変遷する。メタボ、生活習慣病から癌、潰瘍を経て、今の関心は心拍数、血圧って因子。

 結構ヤバイ系の疾病についての心配は、取り越し苦労に終わり安心なのだが、心拍数、血圧って所が若干気に掛かるところである。

 心拍数については、以前の記事にも記述したけれど、安静時、冷間時は35程度、平常時が45程度という心拍数で徐脈傾向。更には、第Ⅰ度心房ブロックという症状も併発中である。
 そして血圧については、一寸高めの数値を示してから1ヶ月が経過したが、概ね最高血圧が120前後、最低血圧が70前後ということで、極めて良好という状態である。

 そんな中、第Ⅰ度心房ブロックについてはP波とQRS波の間隔が広いだけであり、要は遅延している状態でⅡ度、Ⅲ度とは異なりQRS波の欠損、消滅とは異なるスポーツ心臓状態ということで納得しているのだが、血圧について少し調べてみた。

 一般に高血圧っていうのは、最高血圧が140以上、最低血圧が90以上とされているが、この最高血圧と最低血圧の差の脈圧についての所見は案外知られていなかったりするようである。血圧には平均血圧というのもあるらしく、それは(脈圧/3)+最低血圧で算出するらしい。更に、この平均血圧ってのは、心拍出量(1回拍出量×心拍数)と血管全体の抵抗(総末梢血管抵抗)の積である。つまり、血圧を上げるためには少なくとも心拍出量または総末梢血管抵抗のいずれかを上げる必要がある。逆に血圧を下げるためにはどちらかを下げる必要がある。

 この最高血圧と最低血圧の差の事を脈圧というが、脈圧が高い場合は、場合によっては動脈硬化が来しているリスクがあるらしく、逆に脈圧が低い場合は、心臓のポンプ機能が低下している可能性があるとのこと。
 そして、最近の研究では、この平均血圧っていうのが重要らしく、平均血圧で110を越えると動脈硬化の警戒域に突入ということだそうだ。

 脈圧は太い血管の動脈硬化が進むにつれて大きくなる。50、60代になると、大きな脈圧の影響を受けて、下の血圧が下がり、脈圧値は50前後が目安だが、上の血圧と下の血圧の差が大きくなり脈圧値が上がるほど、心筋梗塞などの心臓病を発症するリスクが増大する。
 例えば58歳の人で上の血圧は170、下の血圧は70の人がいたとすると、170という上の血圧については誰もが高いと感じるが、下の70という数値は問題ないと思う。しかし、下の血圧が低いのは、脈圧が増大したためで、動脈硬化が進行していることを意味するそうだ。上の血圧が高いのに下の血圧が低いのは、動脈硬化が細い血管にも太い血管にも起きていることを示すということらしい。他にも、脈圧が大きすぎると心房細動っていう異常心拍の発症リスクが増大するとの報告もある。

 ということで、理想は平均血圧≦100、脈圧≦60を保つ事なんだそうだ。

 但し、この血圧っていうのは、動脈硬化、血中コレステロール等々によって現れる結果値であり、血圧のコントロールは体内環境の改善と循環器機能の強化によって行うべきモノであり、血圧が高いから降圧剤っていうのではNGである。
 更に、この平均血圧、脈圧と心拍数の関連性の資料をあたると、心拍数が増加し、脈圧が上昇する程、心血管疾患死の危険度が上昇する報告も多い。脈圧が高く、高血圧症状の人は、心拍数増加には配慮が必要ということ。

 因みに、最近の測定結果の平均値で算出すると、

 最高血圧=119、最低血圧=68より、
 脈圧=119-68=51
 平均血圧=(51/3)+68=17+68=85
 平常時心拍数=47
 安静時心拍数=35
 ※因みに、寒い環境で仕事をすると、血圧の上下共10程増加して、心拍数は10程下がり36~37という状態に移行したけど、これは血圧反射機能という身体の持つ機能らしい。

 というコンディションであり、至って健康である。血圧、脈圧、心拍数・・・結構関連性がある事が判る。直ぐに調べれるので、随時チェックして健康管理に役立てたいと思う。

 因みに、血圧関係で判りやすいFAQページを見つけたので紹介しておくと、

http://www.kenkoukagaku.jp/faq_page/A_ketsuatsu.html

 である。

 健康な身体の獲得に特効薬は無いけれど、身体の反応は素直であり、良い生活をしているかどうか?の確認は簡単に出来る。身体コンディションチェックには血液検査っていうのが有効だが、手軽ではない。コンディションを手軽に確認するには、体重計、血圧計ってのは実に手軽で、身体コンディションを随時監視するには最高の道具である。
 下手なダイエット器具を買うよりは随分有意義では無いだろうか?悪ければ悪い数値が警笛を鳴らしてくれるのである。良いじゃないか!

 ボーナスで血圧計の立派な奴、買おうかなぁ?なんて少し思う所である。

 それはともかく、我ながら、この歳にして、良く鍛えれていると素直に思う。筋力、持久力もSCにてベンチプレス、或いは遠泳をしており体力が維持されているのも判っているし、実際に心拍数も相当に低くなっている。こういうコンディションを維持するには、日常生活の過ごし方が大事であり、それが出来ているのは、大好きな2ストレプリカで山走るって趣味の楽しさに拘っているからだ。趣味を持つっていうのは、健康維持に相当に効果的だ。単純に健康でありたいと願っても、健康の有り難みが判らないと取り組めない。健康で無ければ出来ない趣味を持つのが大事であり、そういう取り組みでパワフルな身体が手に入れれば、副産物的に新たな楽しみを見つける事が出来る。自分の場合は、単車が起点であり、副産物的にスポーツサイクルである。その新たな副産物的趣味による楽しみ増幅のために、循環器系の更なる強化とうスパイラルで今を生きている。

 ニュースでやっていた燃え尽きる糖尿病患者での問題提起に対する解答ではないが、健康は目的でなく、目的は人生であり、健康は手段であるっていうのが私の考えだ。

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燃え尽きる糖尿病患者

 木曜日のNHKの『クローズアップ現代』でのタイトルが、表題の燃え尽きる糖尿病患者というもの。
 予備軍も含めると1600万人が悩むという疾病であり、対象年齢人口から言うと3人に1人が対象ともなるものだが、一度糖尿病になると二度と治らない?という、厄介な病でもある。治療には継続性が求められ、その治療の原則としては、適切なカロリー制限など生活習慣の改善である。しかし、その内容はといえば、患者本人の努力のみにまかされる部分が大きいため、自己管理が続かず、療養の途中で挫折することが少なくない。結果、完璧に医師の指示を守ろうとするあまり燃え尽きるケースや、家族が厳しすぎいわば「糖尿病警察」となって患者の心理的負担ともなるケースがあるそうだ。

 癌という疾病の場合、疾患部位を除去し転移、再発が防止できれば一応は健康を回復できるけど、糖尿病の場合は、継続性が必要ということ。継続=運動、食制限であり、人間の本能的な欲望を制限するというもので、『敵は本能にあり!』とも番組では表現されていた。
 確かに、長きに渡り本能を制限する生活を続ける事によるストレスの増大は、所謂、燃え尽き状態となったり、別の疾病の原因ともなりうる。

 この糖尿病って病は、治療として生活習慣の改善、具体的には、運動の習慣化とカロリー制限が有効ということは、逆に、発症因子としては運動不足とカロリー過剰摂取によるもの。
 運動っていうのは、汗をかいて動き回る事であり、本来は楽しいモノ。何故に運動しなくなるか?っていうと、運動するような時間を失う事。それ故に、運動が続けれないという事。楽しい事が出来る時間が無いのが大人の実態であり、楽しさを得るためというか、日常のストレス発散に、時間的制限の少ない食行動に走る事がカロリー過剰摂取にも繋がっている。

 結局は、本能に従って活動出来ないために、本能による欲望を充実させるための生活の変化によって運動不足、過剰カロリーというライフスタイルが生まれている。

 結局、運動不足=忙しいというのが原因であり、働き過ぎというか、働かされ過ぎっていうのが一番の原因であるように思う。
 話が飛躍しすぎだが、格差問題、社会保障問題、フリーター等雇用問題を含め、一部の層の働き過ぎによる、労働の偏在化っていうのが一方では糖尿病患者の増大って状態を生んでいるようにも見える。

 このネタで水曜日にも人と話をしたのだが、半ば強制的に労働者は1日8時間(場合によっては7時間)を超えて労働してはならないというルールを作ってもよいのでは?とも思う。1人あたりの収入は減るだろうけど、同じ生産力を得るためには多くの人が就業するのも間違いし、格差是正にも、未払い問題も改善される筈。余暇を持たせる事で、生活にゆとりが生まれ、健康の必要性を認識する人も増える。

 世の中の全ての事象はカオス的な論理で関連性がある筈であり、現代の闇の問題の解決には、様々な問題の関わり合いを考えた対策を講じるっていうのが一番の処方箋だと思うところである。

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2007年12月14日 (金)

ものは試しに、、台湾台座 for DAHON

 モノは試しに!って言うのも何だけど、DAHON系自転車のフロントW化用の既製品が入手できるかもしれないので、その応募?に手を挙げてみた。

 台座自体は、台湾製の製品であり、某巨大掲示板(残念ながら契約サーバーからはアクセス禁止みたいなんでROMオンリーだが、、、)で過去にも発起人の方の一括購入後の配分が為されたりした商品であり、購入もとの台湾のヤフオクでは姿を消しているって品物である。その商品を再び一括購入なされた方が居られ、偶然というかタイミング良く分けて頂けるかも知れないという事になっている。
 それはさておき、このような手間の掛かる取り纏めをなさるというだけで、頭が下がる思いである。
 因みに、対象の台座はアルミの削りだしで、写真から判断するに、結構な調整代が有り商品としても価値ある品のように見える。国産の同系の台座としては、金澤輪業、IKDといったショップからも販売されているけど、国産品の多くは、Fメカ位置が車体中心から外過ぎのように見え、BBの軸長に非常に長いモノが必要なようであり、チェーンライン的に厳しいのでは?と思っていた。
 そういう訳で、自分の西DAHONには自作で限りなくFメカを車体内側に寄せる寸法でつくりBBの軸長としては109~113mmでいい具合になる仕様となっている。また、バンド留めの精度による締め付け力とアウターホルダー位置によっては台座を下方に引っ張る力も作用するか?という懸念から、台座はステンレスで製作し、メインパイプ上方にバンド固定して絶対に下に移動しない方法を採用したのだが、そんな自作台座とは対極にあるようなのが台湾台座である。純粋に台座がどうなってるの?って興味が実は一番だったりする。

 もう小径車は卒業かな?って思いながらも、もう一台、作ってみようかな?なんて思いも心の底にあったり、新たに一台買おうかな?って思いもあったりする。今更、またDAHON?って話も有るけれど、色々乗ってみるとDAHONが一番纏まっているかなぁ?と思っており、何かするならDAHONが良いという思いもある。

 最近、ニシダサイクルの店長さん、常連さんと折り畳めない小径を購入され、身近では一寸した小径ブーム。そんな小径車と自分の小径車達を乗り較べて判った事。それは、折り畳みという重量がかさみ、剛性が落ちる構造ながらも、実際に走るとDAHON系が一番走りやすいという結論となった。絵空事でなく、ガンガンに踏んで車体が暴れないのは、乗り方が悪いのかもしれないが、DAHONのみだった。(まぁ、小径で55km/hオーバー迄一気に加速なんてナンセンスなんだろうけど、、)

 仮に小径車を増やすとすると、やっぱりDAHON系になると思う。そして、候補としては、キャスターが寝て、オフセットが少なく、トレール量が大きい安定性重視のフォークディメンションを持ち、リアセンターの長目(結果的にはホイールベース自体が長い)の小径車が欲しいなぁなんて考えている。
 その第1候補としては、06~07年式のDAHONのハンマーヘッドで5.0か7.0のモデル。MAKOや08年以降のモデルは感心が無い。DAHON独特のフロントサスに感心があり、更に、フレームは一体型が望ましいので新型の分割フレームはパスしたいのである。
 他には、折り畳み構造ならばホイールベースが一番長いDAHON系の車体。出来れば、ノンフォールディング(NF)の新ヘリオス。無ければ、普通のボードウォークってところ。これをベースに折り畳まない事を前提にフライデー的な自転車を作ってみたいところ。新ヘリオス以外ならベース的には出来れば04年式以前のスレッドステムのタイプがステム選択の自由度が広い(っていうか、オーバーサイズのステムなら簡単に好きなサイズ、形状にジュラルミンで自作出来そう。)ので好みって具合。

 こういうイメージを持っていると、取り敢えずNFヘリオスやボードウォークで何かするには、メカ台座を入手しておくのも悪くないかな?と思ったのである。

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たかが10分、されど10分

 同じ時間だが、状況によっては異様に速く過ぎる場合もあれば、時間が進むのがじれったく思う場合もある。

 異様に速く時間が過ぎると感じる場合は、
1.冬の朝、布団から出る際に時間が経つ時
2.試験等で期限の時間が迫る時
3.サーキット等で狙ったタイムをクリアしようとする時
4.同様に定例のコースを走る時
5.休日の時間が過ぎる時
6.自由気ままに遊んでいる時
 ということで、急いでいる時、楽しい時間を過ごしている時である。

 逆に時間が過ぎるのを焦れったく感じる時は、
1.仕事や勉強中に休憩時間を待ち焦がれる時
2.時間を決めて運動等を行っている時
3.休日を待つまでの時間を過ごす時
 ということで、楽しい時間を待つ時、苦しい時間を過ごしている時である。

 大抵の場合、アッという間に時間が過ぎているような感じである。一般的にも、急いでいる時に時間が足らない気になるってのは極当たり前の事だが、不思議なのは、急いていない、アイドリング状態に近い時でも、例えば、ゴロゴロと過ごしている時は、時間がアッという間に過ぎるけど、所在なくボーッと過ごしている時は、逆に時間がなかなか経たないという感じである。所在なく?ボーッと過ごすっていう時は、振り返ってみると新入社員時代が、そういう場面が少なくなかったように思う。

 今、特に思うのが、朝の10分である。この10分、もう少し確保できないか?ここの10分は非常に大きな意味を持っているなぁ!としみじみ思っている。この10分欲しいという感じ方を消そうと思えば、自然と早い時間帯には寝ているのが大事で、逆算すると、前日の午後10時頃に寝ておけばOKだ、実際は寝るのは午前1時頃が多い。結局、1日の時間が無さすぎである。やりたい事をやってると、夜遅くなる。1日が24時間では完全に不足。最低でも30時間くらい欲しい。

 朝起きて、会社行って、帰ってきて、飯食って、運動して、風呂から上がると、自然と寝る時間は早くても午前12時20分。やりたい事を存分にやる時間が無いのは結構悲しいものである。したい事が山程ある分、ストレスになりそうだ。

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勉強はしていて損はない。

 色んな場面で、色んな人を見掛けるが、なんか虚しいというか、哀れって思ってしまう存在っていうのは、色んな場面で見掛けるものである。
 共通しているのは、そういう人っていうのは世界観が狭いという一言に尽きるように思う。

 世界(観)が狭い、即ち、視野が狭かったり、普通気付く事が見えなかったり、常識的と思える知識を持ち合わせなかったり、、、、である場合が多い。
そういう傾向で人格が形成されている大人っていうのは、そういう指摘を受けても変えようがない、変わりようが無いためか、内向的、陰気、殻に閉じこもりやすい、自己嫌悪に陥りやすい、、、、そんな特徴を有しているように思う。

 物事を広く、詳細に、客観的に見て、その中の自分の位置を冷静に見つめるっていうのは、極自然の事だと思うけど、全てを主観に基づいてしか判断できないのは、思い込みの激しさという好意的な見方もあるけれど、どちらかといえば、世間知らずの馬鹿野郎故の性質では無いだろうか?

 考えてみれば、詐欺系犯罪についての意見も、加害者が悪というのは当然ながらも、鴨になる人は鴨リストと呼ばれるように鴨となる側にも人格的に問題があると言わざるを得ない。
 騙される側の言い訳として、心の隙間に入り込む加害者の巧妙さもあるけれど、何よりも、犯罪被害に遭うか否かは、行動に対して客観性を持って判断できているか?それを判断するための常識、知識を持ち合わせているか?によって大きく異なるように思う。

 特に、20代、30代という若年層で、そういう犯罪に巻き込まれたりする人、鬱に陥る人、自殺を考える人っていうのは、物事を考える知識や世界観が不足し、客観的な判断が出来ない状態にある人ではないか?と思うことが多い。

 いろんな事例を学び知識を深める程に、様々な出来事に関連性や法則性が見つかり、その傾向から、いろんな考えを張り巡らせるようになる。勿論、問題の解法を専門的に学ぶのも有効だろう。そういう多くの考えや価値観を学ぶ事が勉強だが、学校において学ぶ勉強が大切なのは勿論だが、それ以外にも、様々な本を読んだりすることも大切である。

 そうやって客観性を持って行動出来るようになるっていうのは、長く生きる上でとても大切な事だと思う。三十路を過ぎて、そういう事が出来ずに、陰に陰に入る人もいるけれど、長い人生が楽しくないだろうし、見ていて不憫に思うことがある。20代ならいざ知らず、自分を駄目人間と思ってしまうと、キツイ言い方だが、生きる価値が無くなったも同然と言っても良いのでは無いだろうか?

 よく人は、熱い人、クールな人といった表現を使うけど、衝動的にカッとなる人の事を熱い人というのは大きな間違いである。衝動的に自分を見失う人っていうのは、単なるバカである。
 熱い人というのは、冷静な分析によって必要なモノを手に入れるために、弛まない努力を諦めずに続ける事の出来る心の強さを持った人を熱い人というのである。

 そういう意味で、長続きしない癖に衝動的になる人が時折、己の事を熱い人と思っている場合があるけど、それは大きな間違いである。衝動的になる=自分を見失う=客観性がない=脳が働かない=単なる獣ということである。

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2007年12月13日 (木)

今年の漢字、『偽』

 今年の世相を表す漢字を選ぶっていうのが、この時期の恒例だが、今年選ばれた漢字は『偽』って漢字が選ばれた。
 過去を振り返ると、1995年が『震』、以後、順に『食』、『倒』、『毒』、『末』、『金』、『戦』、『帰』、『虎』、『災』、『愛』、『命』ときて、今年が『偽』なんだそうだ。

 『偽』って漢字の根拠は、食品関連の消費期限偽装表示、年金記録問題、防衛省関連の汚職、政治家事務所費偽装、建築業界関連のデータ偽装等々が露呈し、世間の怒りが頂点に達したという意味で、確かに今年を表現した漢字だと思う。

 さて、『偽』って漢字と競った漢字としては、他に『嘘』って漢字もあったらしいけど、嘘と偽とか印象の良くない感じが表に出てくる辺りに、世間の景気は良くなったとは言っても、実際の所、人の心に部分では決して良い時代とは言えない事を示しているようである。

 偽、嘘、欺・・・・というような言葉は、その好意自体、褒められたものではないが、その欺く相手によって、欺く側の心の状態は全く違うように思う。

 他人を欺く、偽装する、誤魔化すって行為は、本人の中の行動の優先順位によっては、そういう行為に対して心の違和感を感じるとは限らない。しかし、自分の心に嘘を付くのは、どこまで行っても、本人は満足を得る事は出来ないし、違和感を拭い去る事が出来ない。
 人を騙すって行為は褒められた行為ではないが、一番情けないと思うのが、自分に嘘を付く行為である。人を騙す行為っていうのは、法やモラルを犯すという絶対悪だが、自分の考えを欺くっていうのは、内面的な問題であり、法やモラルには抵触しない場合もある。それ故、自分に嘘を付いてよいか?っていうと、自分を欺き続ける人は、決して、心底からの満足を感じる事は無いだろう。そういう状態で不満が鬱積していくと、最終的には他人に嘘を付くようになる。

 嘘、欺き、偽りって行為が問題になるのは、相手が存在する場合だが、相手が存在せずとも、自分自身に嘘をついて行動している人っていうのは、将来、周りに対しても嘘を付く可能性が極めて高いと思う。
 今年、様々な業界?で偽装が発覚したが、その経営者、担当者は偽装という行為に対して罪悪感を感じないというか、麻痺しているのである。麻痺の理由は判らないが、少なくとも良心に対する引っ掛かりはあったのでは無いだろうか?

 相手を騙さないためには、自分で自分のやっている事を、自分で考え、自分で納得するのが大事であり、自己満足とは、自分の疑問を本心から氷解させたと納得出来た時に得られるモノ。つまりは、表面的、機械的に体裁を整えたとしても、本人が疑問を完璧に取り除いたと本心から思えないと、本人は心の奥底ではすっきりしていないだろう。

 今年の世相を表す言葉から肝に銘じた事といえば、自分の本心には絶対嘘を付かないように過ごそうということ。拘りを持って、思い通りに行動するってのが大事である。

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スポーツ心臓

 ブログの記事ネタというと自分にとっての最大の関心事となりがちである。
 ブログ開設時の一昨年には最大の関心事の疾病といえば生活習慣病、メタボリックシンドロームと、それに起因する重大疾病、去年~今年はというと、胃部レントゲンでの再検査、壊疽性虫垂炎、下血による大腸精密検査とあったんで癌やポリープ関連に関心を持っていた。さて、今の関心事は?というと、取り敢えず、血液検査、消化器、循環器系の検査で異常は認められず健康そのものと言われるようになったけど、敢えて言うなら、二三日前からの関心毎である心房ブロックという所見。これも、去年くらいから掛かり付けのお医者さんに言われながら気にする事無いと言われていたんで無関心なんだが、やはり気になるということで、スポーツ心臓等々について関心を持っている。

 さて、人間の心臓の打つ鼓動、心拍っていうのは、身体全体に血液を送るという生きる上での基本的な機能を表すものであり、結構重要である。
 そして、一般に通常の心拍数っていうのは、安静時(寝てうつ伏せで寝た状態)心拍数で男性の場合が60~70、女性が65~75ということらしい。そして、この心拍数が高くても、低くても異常であり、60未満の場合を徐脈、100以上を頻脈ということだ。
 心拍異常については詳しく述べているサイトがあるので、詳細は割愛するが、気になるのはスポーツと心拍数の考え方である。

 スポーツ心臓(アスリートハート)っていうのは、よく鍛錬されたスポーツ選手の心臓に見られる症状であり、一般には徐脈を示すって事が良く知られている。徐脈っていうのは、安静時の心拍数が60未満となる状態であり、高度な持久系スポーツ選手では、この傾向が顕著といわれている。因みに、Qちゃんこと、高橋尚子選手は35程とのことである。
 このスポーツ選手のスポーツ心臓の挙動で度々確認されるのが、心房ブロックという症状でⅠ度、Ⅱ度、Ⅲ度とあるそうだ。因みに心房ブロックとは、心臓を拍動させる電気刺激は心房から心室に伝わるが、この電気刺激がうまく伝わらない場合の事を言う。

 心電図検査は、12の誘導で波形を記録する。誘導によって波形の高さ(深さ)は違うが、出てくる順にP波・Q波・R波・S波・T波・U波と呼ぶ。この内、Q波・R波・S波はまとめて QRS 波と呼ぶ。この時の心房の電気活動を見るのがP波で、この心室の筋肉が刺激されて出る波形が QRS 波である。

 そして、P波とQRS波の間隔が遅延しているのがⅠ度の心房ブロック。時々欠損するのをⅡ度心房ブロック、完全に消失しているのをⅢ度心房ブロックというそうだ。この内、Ⅰ度とⅡ度の一部は迷走神経の働きによるもので病的な症状では無いけど、Ⅱ度の一部とⅢ度の場合は心疾患の可能性があるとのことである。Ⅲ度の場合はペースメーカーが必須とのことで、考えれば怖いものである。

 今回の所見ではⅠ度心房ブロックなんで、正常の場合は、迷走神経緊張亢進によりおこり、訓練されたスポーツ選手などでは洞徐脈と共にPR間隔延長を示すということ。迷走神経緊張によるPR間隔延長(第Ⅰ度房室ブロック)は、運動負荷により交感神経緊張を起こすと正常化する。しかし、病的な場合としては、心筋炎の後遺症、薬物の副作用(ジギタリス薬など)などの際に見る。心筋炎の病歴は明らかでなく、単に風邪症状として経過している場合もあるそうだ。
 何れにせよ、第1度房室ブロックのみでは、何ら臨床症状を示さないので治療の必要はない。でも、調べる程に、スポーツ心臓と心疾患は紙一重の関係にあるようにも見える。

 ただ、現実にチョット身体が冷えたり、病院で安静状態をしっかり作って測定した時には、心拍数は35程度であり、普通の事務仕事をしている時で45程度っていうのは、異様な低さである。嬉しい反面、やりすぎはNGって部分が確実にある筈であり、もう少し、まともなバランスポイントを生活の中で見出していかないといけない。

 現実問題、スポーツ選手が健康で長生きか?っていうと、結構早死にで、身体ボロボロって例も少なくない訳であり。自分のスポーツの目的は健康長寿な訳であり、超ハードのストイックで鍛えられたアスリートを目指している訳ではないので注意が必要である。

 できれば、心拍数的には安静時で50弱、心電図所見で何の文句?も言われないような心臓にしておきたいところだが、これは難しい問題である。

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新しいのが洗練されている?

 先日、街中を単車で走りながら、周りを走っている車を見て思った事がある。
 確かに、新しい車というのは、どこのメーカーであってもデザインに方向性があり、メーカーに拘わらず、時代毎に形状が定まっているように感じる。形状的なデザインっていうのは、純粋にデザインの部分であったり、機能追求の方向性が同じ方向故の必然的な形状であったり、新しい部品を採用するがための結果によるものであったりと様々である。

 大きな形状的な方向性としては、最近の車は室内空間重視?のためかボンネットが短く、フロントウインドーの先端がかなり前方に来ている。結果、フロントドアとフロントウインドーの間に昔風の三角窓のような窓が結構見られる。この窓は、ミニバンに多いが、それ以外の車にも結構見られる。更に、ボディーの強度というか剛性確保のためか、このピラーがかなりゴツイ。
 結果、運転時においては太いピラーが上から下迄非常に目障りに感じるが、これって、運転する人は気にならないのだろうか?

 他には純粋なデザインだろうけど、ヘッドライト周りの後退角が異様に付いているものが多い。ヘッドライト自体は横に回り込むだけでなく、上側方向にも大きく回り込んでいるのが最近の形状のようだ。結果、ヘッドライトアッシーは相当に大きなユニットとなっている。
 車の軽微な事故と言えば、角をぶつけるというのが多いように感じるが、角の部分がこういう大きなライトアッシーに締められていると修理代は相当に高くなる感じである。
 後は、レンズカバー自体がかなり広い範囲であり、このレンズユニット自体は樹脂系のパーツである。新しい間は問題無いけれど、この手のデザインを採用し始めの頃の車は、現時点で結構年数が経っている。そんな車のユニットを見ると、上方向の回り込んでいる形状的な問題からか、太陽による紫外線を結構長く受けやすい事もあり、黄色っぽく変色したのが結構居る。
 レンズ部分が黄色っぽく変色するだけで、車は凄く古くボロク見えるけれど、高級車も同じ運命だろう。気にならないのだろうか?

 最後は、最近流行のダイオードを用いた燈火類。ヘッドライト、テールランプ共、昔は、レンズ表面のレンズカットによって光を分散させていた。そういうデザインに慣れていたのだが、平成8年頃から流行しはじめたのは、レンズはクリアレンズ、配光はリフレクターというマルチリフレクタータイプが流行っていた。これも最初は新しく感じたけど、形状的な自由度は増すけれど、結局クリアレンズの形状が各車各様であり、内部のレンズユニット自体は丸型を基本とした形状で個性が埋没気味、、、、テールランプに到っては、どれもが光ると丸く光るというもので、今や安っぽさ全開に見えるのは言い過ぎか、、、、
 更には、平成16年以降ではダイオードが普及しはじめてからは、ダイオードの点々が光っているだけで、まるで自動販売機のルーレットが同時点灯しているだけのように見える。
 こうなってくると、レンズ形状はデザインされていても発光部位以外は全く光もしないので意味無い様に見える。

 確かに、時代に合わせて構成が変化しているが、新しいモノが優れた特徴を持つか?というと結構微妙である。ダイオード系の燈火は点としては明るいけど、光が広がるという特徴が無いようで、本当なら広い面積を斑無く照らすというのがテールランプ等には求められているのでは無いだろうか?高輝度の点で光るライトっていうのは眩しいだけで、機能的には手抜きが為されているように思うし、ヘッドライトの回り込んだライトも古くなって色褪せ、黄ばみが出るのは頂けない。

 こうして考えると、昔ながらのガラスレンズを用いレンズカットで配光したヘッドランプっていうのは色褪せも無いし、デザインも各車各様の個性が出ていた。テールランプでもそうだ。高輝度の点で光るライトよりも、面で光るライトの方が、夜でも車種識別が簡単で、眩しくないし良かったと思う。ダイオードを否定はしないけど、この玉切れせずに低消費電力という特徴を活かし、車の機能と個性を高めるような利用の仕方という点で、何か画一的で欠けているように感じるのは自分だけだろうか?

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中型中古=貧乏なアホ?

 日曜日にいつもの川土手をラングスターTTに乗って走っていたのだが、その帰路での出来事。

 後方からマルチエンジンの排気音が迫る、、、、、抜いていったのは、1988年式のヤマハのFZR250に赤メタリックの半キャップを被った子供。排気音は昔懐かしい音だが、それ以上に???だったのは、スピーカーから大音量の歌を流しながら、まるで最近のビッグスクーターかのような状態。

 その後、間をおかず今度は小型のツインエンジンの音が迫る、、、、、抜いていったのは1996年式辺りのカワサキのZZR250にやはり赤メタリックの半キャップを被った子供。同じく、スピーカーから歌を大音量で流しながら走り去っていく。

 当然、ラングスターではオンボロ?とは言え250ccのスポーツバイクにアッという間に抜かれ遠くに消えていったのであるが、安芸大橋交差点で二台と遭遇。この二台、なんと友人同士みたいで並んで曲を掛けながら走っている。

 こいつら、スポーツバイクに乗りたくて乗っているのではなく、これしか買えずに、乗っているんだろうな!的空気に溢れている。本人達的には、多分だが、マジェスティとかフォルツァとかスカイウェブといったスクーターが欲しいんでは?と思った次第。

 そう言えば、レプリカ時代に金が無さそうな連中でチョット違う系の人は、当時でザリ、ゴキのGSX-Eとか、ホーク系、GX系、或いは、初代インパルス~FW、XJ-ZS系に乗っていたけど、多分、脳内は同じ周波数で動いてそうである。

 なんだか、250とは言え、ZZR、FZRが可哀想に見えて不憫に見えて仕方ない気がした。ZZRは一世を風靡したことなんぞ無いけど、FZR250といえば、80年代後半は若い女性に大人気クォーターバイク(死語ですね)で、当時の深夜番組である南海部品提供の『ララバイククォーター』でも、よく登場していたバイク。そんな女性に愛されたバイクだが、今は完全なゴミみたいなもの。本当の意味での、その車種の愛好家も極稀。あれほど大量にいたのだが、最近はめっきり見なくなり、久しぶりに見たのが、その姿。哀れである。

 言葉が悪く、そういう使い方、そういう乗り手を『アホ』というのは反対意見もあるかもしれないが、やっぱり、自分から見ると相容れない姿である。
 まぁ、ロンスイトラッカー、車高短系ビッグスクーター、爆音アメリカン、意味不明SRは特に嫌いな生態系であるが、似た空気を先のクォーターに感じたところ。好みでないけど、未だ、ツアラー系欧州車、国産SS系バイクの方がまともに見えるし、国産旧車(旧車会系ではなくWとかSSとか)愛好家の方が理解可能である。

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2007年12月12日 (水)

師走、車走、事故

 さっき昼ポタから帰ってきた。その昼ポタの往路での出来事である。

 猿候川沿いの道を広島駅方面に走行していたら、前方100mの横道から女性の乗った鶯色メタリックのワゴンRが本線に一時停止無しで徐行前進しているが、全く前方を見ていない。そして、その土手道を広島駅方面から弁当の配送車両が30km/h制限の道を約50km/hで直進している。

 その様を見て、ワゴンRが停止しなければ、間違いなくぶつかる!って思って、ワゴンRを見ていたら、そのまま見ずに前進・・・・・・『ガゴッ!』、次の瞬間、ワゴンRのフロントバンパーが半分外れたようになる。対して、ボンゴは無傷?って状態。

 その瞬間を見たけど、停まることなく広島駅方面に自分は昼ポタ。

 帰路も同じ道を通るのだが、二台が停めて、なにやら揉めている様子。

 師走。師が走るのか?人も車も慌ただしく走ってる。年末の事故は、修理が越年。

 気の毒だけど、今日の二台は双方に過失アリである。仕方ないと言えば仕方ない。自転車に限らず、車も結構いい加減な運転する人が多い。

 だらだらゆっくり走る=安全ではない。車の流れ迄、サッと加速して、サッと停止する。一時停止は守る。交差点もそう。キープレフトを守る。曲がり角の入口で減速してはみ出さない。これって常識だが、こういう常識的運転が出来ない馬鹿が多すぎである。

 広い真っ直ぐの道をだらだら走るのは安全ではなく、事故を誘因するって事を、おばさん、高齢者は判っていない。曲がり道で曲がりきれずコーナーの途中でブレーキを踏んだり、はみ出したりするのも安全ではない。

 絶対にはみ出さない。停まる時は止まる。加速する時は速やかに!これが大事では無いか?
 今日のワゴンRは交差点をはらみながら大回りしており、さらに停まることなくジワジワ前進している。この抑揚のない運転が一番危ない。

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ずばり、『癌』について考える。

 『癌』という疾病は、日本人の死亡原因の上位に位置するモノであり、現在でも多くの人が疾病と闘い、癌で無い人にとっても関心の高いものである。
 その高い関心を持つ癌についての一般論は既に様々なサイトに詳しく紹介されている。
 代表的なのは、

 http://ww3.tiki.ne.jp/~ashinsin/data/koza30.htm

 というサイトであり、ここには癌の発生部位別のリスク因子、予防法について綺麗にまとめてあったりする。

 さて、ここでは、最近聞いた癌についての雑談的な話や、自分の癌に対する意識を徒然に書いてみる事にする。

 日本人に多い癌と言えば、胃癌である。胃癌には、表面的に発見しやすいタイプと発見しにくい進行性のスキルス癌っていうのがある。
 癌の見つけやすさについて、思いがけない事を聞いたので、ここで紹介すると、普通の癌は内視鏡で発見しやすいけど、スキルス癌ってのはバリウム飲んだレントゲン撮影の方が発見しやすいそうなんだ。内視鏡は表面的、局所的な異常は発見しやすいが、ある範囲というかエリアでの緩やかな形状変化を伴う疾病にたいしてはバリウムレントゲン撮影の方が判りやすいらしい。なるほど!って思ったところである。

 癌を疑う際に、慣例的に良く聞かれるのは、家族に癌発症者が居るか否か?って話だが、実際には、癌家系という形で遺伝するかどうか?というと、その確率は極めて低いそうで、確率的に高いか低いか?の数値は1%以上なら遺伝性癌、以下ならばそれ以外の癌との区別なんだそうだ。
 疾病の発症確率の数値としての1%という数値が大きな値か小さな値かの判断は出来ないけど、個人的には大した数値では無いように感じる。

 癌細胞とは、元々は正常細胞が変化したものであり、その変化の結果持ち得た特異的な性質は『不死性』と『異常増殖』という性質である。この異常性は、細胞が個々に変化した微少な変化で癌という形に到る事はなく、殆どの場合は、紫外線とか喫煙とかの細胞にとって特異変化をもたらすような刺激を長期間に受けて細胞遺伝子の異常が蓄積された結果、その損傷細胞が一定の要件を満たした時に初めてガン細胞として現れるものだそうだ。それ故に、癌を発症するには、異常な刺激を一定以上受け続けるという蓄積に要する時間の長さが必要であり、癌の発症は一般に人生の後半に見られるということだそうだ。

 こうやって生まれた癌細胞は正常細胞とは異なり、死なずに増殖するという特徴を持つ。癌細胞は、癌の自律的増殖性を持っているが、それだけではヤバイという訳ではなく、ヤバイのは、浸潤と転移という機能を有する癌細胞である。浸潤とは周辺細胞を癌化させるようなモノ。転移とは飛び火のように癌組織を連続的に作るモノであり、この浸潤と転移を持ち、更には、正常細胞が摂取するべく栄養分を横取りするような悪液質という性質を持ったモノを良性腫瘍といい悪性の癌とは区別する。
 良性腫瘍の場合は、腫瘍組織による周囲への物理的圧迫以外には大きな影響が無い事が多いそうだ。こういう表現が為されるのは、脳腫瘍のような腫瘍の場合、圧迫だけで影響が大きく出る場合があるからだそうだ。

 さて、このように癌とは正常な細胞が異常な刺激を受けて、その刺激による損傷が遺伝子に蓄積し、一定上の蓄積条件に当て嵌まった時に発症するというのがメカニズムである。この細胞にとっての異常な刺激とは何か?というと、やはり思い付くのは、生物の歴史的な生活スタイルから懸け離れた生活様式によってもたらされるモノではないか?という意見に帰結する。

 個人的には、

1.喫煙
 確かに、喫煙によって吸引する刺激物質が肺胞を通して吸収される。吸収された物質は、本来は不要なモノであり、この刺激物が細胞にとって好ましくない損傷を与えるリスクはあると思う。
しかし、異常物質は、気体中に拡散した物質であり、その濃度は低濃度であり、一定以上の損傷が蓄積するには相当な時間が必要では無いだろうか?

2.紫外線
 これも、生物にとって殺菌性を持つエネルギーだが、この紫外線照射を連続的に長期間受ける状況っていうのは、余程の状況でないと想定しずらい。但し、昨今のオゾン層破壊によって生物の持つ紫外線耐性の限界を超えた紫外線を受ける可能性はあるかもしれない。

3.飲酒
 有機物であるアルコールっていうのは燃焼することによってエネルギーを取り出す事ができる。或る意味、人体にとっても燃料的な役割を果たすが、人間の身体自体がアルコールを燃焼することによって動力を得る機関ではない。それ故に、過剰な摂取は生体に大きな刺激を与えると考えられる。何と言っても、水溶液の形で体内に取り込む訳であり、喫煙行為以上に、異常の蓄積速度は大きいように考えられる。

4.薬、サプリメント類
 これは昨今持て囃されている物質だが、身体を構成する物質をダイレクトに濃縮した形で摂取できるというモノ。取り込んだモノがダイレクトに身体の原料になるという点で、喫煙、飲酒行為以上に影響度は高いと考えられる。
 化学式的には天然モノと同じであっても、安価に大量に合成する物質は、多くの場合は、異性体であったり、好まざる副産物、類似物質を含んでいるのが化学的には常識である。この好まざる物質が固体(或いは濃縮液体)という極めて濃縮度の高い形で摂取するという行為は、体内に与える影響は極めて高い。
 仮に、絶対的に無害な物質であったとしても、その濃縮性故に生体としての許容する濃度、純度を超えている場合もあるだろう。この純度というファクターは反応に異常性を与えるのに大きな影響を持つのは、化学の世界ではもはや常識ではないだろうか?

 この4要素が、正常細胞の癌化誘因因子となるのでは?と私は考えている。

 癌を避けるには、細胞の癌化に到るスイッチを入れさせない事。即ち、人工的、歴史の浅い行為に走る事を慎む事。生物の生体の持つ機能を活用した生活を営む事が大事では無いだろうか?
 そういう自然な生活を努めて行い、身体の機能を寝かせる事無く活用するという生活こそが重要では無いだろうか?
 これって、結局、健康維持には近道が無く正攻法でコンディションを整えるというしか手はない事を示しているようでもある。スポーツでも勉強でも、結局は同じである。真理を追究するには、モノの因果を考え、その真理を追究すると、近道は無いし、地道に継続するしか無いのかなぁ?としみじみと思うのである。

 ところで、癌細胞ってのは、先にも述べたけど、細菌、ウイルスと違い、元は正常細胞であり、異常増殖と不死性を持っているのが大きな特徴だが、この増殖機能と不死機能っていうのは、案外、人類にとって強力な武器となる事が無いのだろうか?癌細胞で癌細胞のワクチンのようなモノを作るっていうのは夢なのであろうか?
 でも、仮にそういう人為的な操作によって対策を講じれば、自然の法則は常に一歩先を行くのは様々な分野で証明されており、癌の特効薬が生まれれば、それを越える強力な癌が生まれるのも世の常のように思う。人の浅はかな知恵とは言わないが、それによって、敵を更に強力にしているのも事実である。この現実を回帰的に考えれば、疾病等に立ち向かうには、なによりも自然に本来の人体の機能をフル活用する事が最も効果的かつ唯一の特効薬になるのでは?と思う。それが最終兵器と考える理由は、人間という生物の進化の過程で生まれた形態は原始生命体に較べると遙かに高度であり、人体の機能は長きに渡る進化の結果生まれた物である。その機能こそが低級の細胞、細菌に対する最も有効な機能となりうるのでは?という思いがあるからだ。
 人間の持つ機能をフルに使うことこそ、人間の進化の辿った歴史の長さを尊ぶ事であり、それこそが最高の知恵が詰まった行為だと言える。

 ただし、問題点としては人体機能には即効性が無いために、致命的な状況に陥る前に身体の健全性を自然に確保するという日常の営みが大事になってくる。病状が進行してからは、健全性を回復させるには、自然の力だけでは難しいために、様々な医療技術が発達してきたんだろう。

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血圧の変化の傾向

 専門家の方からすれば、極当然の事なんだろうけど、ド素人の自分にとっては大きな?発見をした。

 というのも、以前健康診断で血圧が思っていたより高いか?と言う事で、平日勤務中の朝昼夕の三回を基本に血圧を測定している。

 その測定の傾向で面白い事が判った。

 朝・・・・寝起き後1時間程度・・・・・最高血圧120弱/最低血圧70弱/心拍数45位
 昼・・・・デスクワーク後・・・・・・・・・最高血圧120弱/最低血圧70弱/心拍数45位
 夕・・・・現場巡回後・・・・・・・・・・・・最高血圧130位/最低血圧80位/心拍数35位

 ということ。寒いというか、身体が冷えていると血圧が高めに出て、心拍数が下がるんである。確かに身体が冷えると血管は収縮して血圧は上がり気味になるし、そうなると心拍数も下がり気味になるのは当然である。

 そういえば、最近の新聞等の天気予報?では、花粉注意報の他にも、心筋梗塞注意報なんてあるけど、これって、気温による血圧の変動による心疾患の発症リスクを掲示したものである訳だ。

 それにしても、病院で横になって安静状態をつくり測定した心拍数が35っていうのは、まぁ理解出来ないではないが、日常生活下において、高々12月程度の気温の中、現場作業の巡回程度の体温低下で心拍数が35迄下がるのは、途中で止まるのでは?と心配になってくる。
 下手すれば、人の半分程度の心拍数である。大丈夫か?徐脈?Ⅰ度心房ブロック?チョット気になるではないか!

 運動のしすぎも考えものだが、辞める気にならない。

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情報に翻弄される前に

 最近はネットや雑誌、テレビプログラム・・・の様々なメディアで様々な情報が大量に発信されている。そんな溢れる情報の中で関心が高いのが、健康、ダイエット、金儲け関連だが、その中で特に人の心に深い印象を与えるのが健康ネタである。

 そして、その情報も昔とは異なって、結構専門的な知識が誰にでも簡単に手に入るようになっている。
 それ故に、素人が、そんな情報に接する時には、客観性を失って情報を見ると、素人描法ではないが、どうにでも解釈できるような捉え方をしてしまう。
 健康診断の結果を見て、本当は結構重大な状況を示していても、ネット等の情報の誤った理解により病状が進行する迄放置して重症化する例もあるし、一次健康診断で要精密検査の診断を受けた段階で、必要以上に申告に捉え落ち込む例もある。

 そのような誤った判断材料になりかねない程の情報が氾濫しているのが現実であり、溢れる情報を客観的に利用するには、情報する際の自分の立ち位置が客観性が保てる状況でなければ危険では?とさえ思う。

 命や健康のありがたみは、その危機が訪れた時に初めて感じるものであるが、そういう事態においては冷静に情報を見つめ、客観的な判断も出来なくなる。仮に医療機関に掛かり治療を受ける過程においても、主治医の言葉を深く考えすぎる際の材料として、氾濫する情報に接して精神のバランスを崩す場合だってある。

 と言う事で、溢れる情報を冷静に利用するならば、健康状況が脅かされていない時に限るのでは無いだろうか?そういう時ほど、怖い事が書かれていても、それを冷静に読む事が出来る。という訳で、これから、今一番恐れている疾病である、『癌』について考えてみる事にする。記事は別に立ち上げる予定。

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2007年12月11日 (火)

自転車での拘り

 さっき迄は、心房ブロックの記事に繋げていたのだが、冗長になり過ぎなんで記事を割った。

 心房ブロック←運動しすぎという話だが、日頃運動を続ける理由は何か?っていうと、運動する事で身体を或るレベルに保っておきたいという欲求があるからである。
 その欲求が満たされるレベルというのは、250Wレベルの負荷を連続的に掛けても心拍数から言うと、運動強度は(130-35)/(197-35)×100=58.7%であり、鼻歌レベル以下となるようにする事である。因みに250Wというと、条件にもよるけど30~40km/hでの走行である。こういうレベルは維持しておきたいと思うところ。

 身体能力については、色々と、リアル世界、ネット世界で吹聴する人が居るし、面識の無い人からみれば自分もそうかもしれないが、何て言うか、実際に走って、一定レベル以上の出力が長時間出せるには、それに応じた筋力と循環器系統の能力は必須であり、それが保たれているか否かを見るにも、こういった健康診断での医師からの所見、実際の運動下における身体状態を把握しておくってのは大事だと思っている。
 逆に、色々言う人居るけれど、機能が発揮できる身体状態とコンディション維持のための日々の運動は一意的な関係であり、拘っている人が言う能力と、その人の運動メニューを考えた時に、言ってる事が嘘か真実かは何となく判る今日この頃である。特に、能力に拘る人にとって、能力っていうのは、機材以前に身体能力によってのみ得られるものであり、その身体能力というのは、個人の勝手な思い付きや、運動しているつもり的自負だけでは絶対身に付かないのも真実だ。よって、言っている事が真実の場合は、それだけの場数(運動の量と時間)をこなしており、体型一つ、姿勢一つ見ただけで、何となく、本物かどうかも判る気がするのは、気のせいとは思えない。

 まぁ、身体能力に限らず、本当の知識っていうのも雑紙をめくったり、たかが人の話の伝聞のみでも身に付く筈は無い。本当の論理とか知識というと学問の世界に近く、そういう方面において、常識的な知識を身に付け、それの論法を説明できる能力と、それから何かを感じる事が出来る感性の全てが無い限りは、人の感想っていうのは、タダの根拠の無い感覚的感想に過ぎず、全く意味を為さないとも思う。機材に対する意見を各所で耳にするけど、話し手の経験や能力、知識は、本人と話したり、或いはサイト開設者であれが、その為りから本人のレベルは推し量る事が出来る。そういう見方をすると、殆どの機材インプレッションっていうのは、書き手のフラシーボ効果だろ!って思う事が殆どである。

 例えば、自転車や水泳といったスポーツ分野で自分が納得できる結果を得るには、実際にスポーツをして自分の納得できる状態が体感できて、それを維持し続けるに必要な身体能力的レベルがどれほどか?っていうのも判る。それを維持するために必要な日々の運動も判る。スポーツに限らず、それ用の機材、知識にしても受け売りとは異なり、自分の頭でイメージして答えがだせるためには、関連する知識を本当に使えるようにならないと、実際の問題を分解して考え出す事が出来ない訳であり、その知識を維持するために必要な日頃の勉強やモノの見方、接し方も判る。そういう意味で、一日して為らず的な労が必要であり、何をどれほどやるっていうのが意識できる世界っていうのは、結構好きである。いくら講釈垂れても、いくら金を突っ込んでも、本人が労を厭う気がなければ手に入らない世界っていうのは、今の結果が過去の自分の積み重ねという点で、そういう世界では後悔を感じないように過ごしていきたいと思うところだ。

 先の記事での心房ブロックって所見は症状的には異常だが、それに到る取り組みの結果、そういう風に診断されるっていうのは、健康面からはリスクがあるかもしれないが、継続した取り組みによって客観的に、そういう風に診断されたっていうのは、実は嬉しいという感情があるのも事実である。やっぱり、『よくトレーニングされた結果のスポーツ心臓である!』って医者からお墨付きを貰う訳であり、そういうモノである。こういう客観性を持った所見っていうのは、自分にとっては、過去の競技経験上に感じた感覚以上に重要な位置づけに為っている。
 この感覚は、過去においては自分のレベルを他との比較で判断しており、現在は、現在の自分の状態は、その状態を作る日常生活の結果が診断数値に表れ、その効果を体感して満足出来るか否かを判断している。つまり、昔は相対的に自分を判断していたが、今は絶対的に自分が判断できるようになったと思っている。自身、自分が成長して自分のペースで楽しめるようになった証と満足しているのである。それ故に、人の事が気にならないとか、どうでも良いとか、干渉されたくないとかの感情を持つようになったんだろうとも思う所である。まぁ、昔から他人との優劣を競う競技は好みで無い。大抵は、水泳のように自分のタイムを見つめたり、単車でもコースのラップタイムに強い関心を持っている。人に較べてどうか?なんてはどうでも良く、自分の発揮できる能力を数字で表すと今幾らで、これをどうしたいか?という方が重要って思いを持っていたが、今もそのまんまである。尺度として曖昧な他人なんか用いる事自体が無関心。必要なのは絶対尺度で要は数字のみである。そして数字を純粋に改善するに必要なのは、本当に正しい自然界のルールのみであり、そのために知識を身に付け、経験を磨くのである。

 こういった性格が、一般道で他人と干渉したくない気持ちにも繋がり、純粋に決まった尺度を用い自分のコンディションを計る数字のみから満足を得たり、物足りなさを得たりしているのだろうと言える。
 例の自転車少年では無いが、何時も見掛ける誰彼に勝った!負けた!なんてどうでも良い。満足できるかどうか?は、決めたコースを決めた負荷で、決めた状態を保ち、走行時間をどれだけ短縮できたか?という方が重大な関心事なのである。相対性よりも絶対性が重要で、相手は他人ではなく、相手は時計である。主観より客観的事実が大事なのである。

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1度心房ブロックが意味する事

 定期健康診断の結果、血液検査、レントゲン検査以外での異常としては、心電図において1度心房ブロックという所見が出た。
 これは、春先でも去年の暮れの掛かり付けの医者での心電図でも出てきた所見である。

 心房ブロックっていうのは、1度、2度、3度と種類があるようだが、これが進むとペースメーカーのお世話になる必要がある症状らしい。しかし、この1度っていうのは、自覚症状も臨床所見も無いそうで放置ってことらしい。症状的に1度房室ブロックとは心房から心室への興奮伝導時間が通常よりも遅くなっているということで、欠損とは異なり時間的な遅延が見られるということ。格別な病気がなくても、子どもなどではよくみられる異常らしい。

 掛かり付けの医者の所見では、日常の運動量、安静時心拍数等々から、間違いなくスポーツ心臓で、安静時心拍数は40を下回る状態自体がこういう心電図所見として現れることが有るということ。この所見は、ここ数年以上言われ続けている事だが、会社の定期健康診断で指摘されたのは初めてであり、遅延の度合が顕著に現れるようになったということみたいである。去年から今年に掛けては、無酸素運動的な筋トレよりも、高度な有酸素運動的な水泳と自転車を大幅に増量しているのが生活パターンが大幅に変わった点であり、それが顕著に現れた様子である。

 確かに、最低心拍数で35程度、日常生活下(事務仕事中)での心拍数も45程度、普通に肉体労働?的な動作中でも50程度しか上がらないし、250W負荷の1~2時間連続運動でも脈は130程度、水泳1時間+筋トレ1時間後でも70程度しか心拍数が上がらないのであり、或る意味仕方ない症状である。この一年で最低心拍数、通常での心拍数はそれぞれ5程度は減っている。

 これは、地元の病院で受ける定期的な検診で何時も言われる事だが、『トライアスロンの選手?』とか『運動しすぎ!』とかの根拠となる診断でもあり、まぁ、納得である。但し、場合によっては、1度が2度、3度と進行して競技生活を断念させられる運動選手も居るそうなんで、程々にしておかないといけないのかも知れない。

 取り敢えず、心臓が急に止まる事は無さそうだし、心房ブロックが進むようだと運動を減らせば良いだけなんで、この辺の所見はあんまり深く考えないようにするつもりである。

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定期健康診断の結果

 本日(月曜日)、先月勤務先で行われた定期健康診断の結果が帰ってきた。
 一昨年迄は、数値的に異常状態を示す※印が各所に付いていながらも、結果に対しては全く気に留めていなかったのだが、昨年には胃部レントゲンにおいて陰らしきものが見つかって、かかりつけの病院にて内視鏡等の精密検査を受診してからは、生活習慣病系統の疾患よりも、癌、ポリープという疾患に対して精神的には随分と過敏な状態となっている。

 昨年の健康診断で胃部レントゲンに写っていた陰は、純粋に陰であり、内視鏡による検査では全く異常が無く安心したのだが、胃の表面は決して綺麗な状態とは言えず、ヘリコバクターピロリ菌が居るか否かの検査の結果、ピロリ菌が居るという診断を頂いた。
 因みに、このピロリ菌っていうのは胃ガンを誘因する因子になりうるというモノであり、ピロリ菌除菌のために1週間ほど、毎食後に相当の薬を服用したのが今年の春の事である。

 更に、そんな胃部レントゲンでの異常こそ無かったものの、生まれて初めて便に血が付いているのを見つけたのも今年であるが、そこで内視鏡検査を受けたのが春前の事。異常は無かったものの、血便発見後から診断を受けに行ったのが1週間後ということもあり、時間が経過しすぎている等により原因が特定できず、お医者さんからは良く判らないが、心配する程の事ではないとの所見を頂き安心していたのだが、その異常から一週間後には壊疽性虫垂炎ということで虫垂切除+ドレナージ手術を受けるという事態に陥ったのも記憶に新しい。

 その後、春、夏、秋と経過して、再び便に血を確認したために、即翌日には胃腸科に通い本格的な内視鏡検査+レントゲン検査で半日程度の精密検査を行った。どきどきしながらの結果を聞く段階では、腫瘍は全く無い。ポリープの一つでも見つけてやろうと綿密に時間を掛けて検査して貰ったけど、ポリープの一つも無いので安心して良いとの事で一安心。結局、血の付いた原因は?というと、それは、どうやら自転車に乗りすぎ?で肛門が擦れているように見える?との話で、まぁOKって結果に今は落ち着いている。

 その後の先月10日過ぎに定例の勤務先での定期健康診断の受診となったのだが、今回も前回同様に胃部、胸部レントゲンに変な所見が見つかりはしないか?とドキドキであった。それは、先に述べた経緯に加えて、今年は、勤務先の同僚、上司、部下の多くに、胃部の癌、潰瘍、大腸での多発性ポリープであるポリポーシスが発見される人が続発し、学生時代の友人、出入りのショップ店員の中には胃癌、肺癌、肺気腫、大腸癌で命を落とす人が現れており、加齢に伴って健康を害する人が結構増えてきたために、人ごとでは無いという意識が非常に強く感じられているためである。
 なんていうか、決して自分の事では無いけれど、自分と世代的に近い人に、重大疾病が発覚したり、それで手遅れになって重篤な症状に陥るって方が、最近は特に増えている。それ故に、同じ時代で生きた自分自身も不安になることが多い。

 さて、健康診断では、去年の段階では尿酸値が規定値より0.1程多いという異常が残っていたのだが、今年は、尿酸値もセーフ、癌発生を疑うレントゲン等ではセーフだったものの、何と中性脂肪が規定値より1程多いという異常が現れてしまった。
 確かに、ここ数ヶ月は体調も良いということで、結構、間食(実は大のチョコレート好きであり、最近は異様に食った。自転車に月1400kmも乗っていると甘いモノが欲しくて我慢できないっていうのがNGかもしれない。)も食ったし、揚げ物も大量に食ったが、そういうライフスタイルの変化で異常数値は敏感に現れるモノと妙に関心したところ。まぁ、それでも大した異常という状況では無いんで、生活を再度律して望む予定である。これからは過度なチョコレート生活を改めて氷砂糖に変えようかな?と思う。チョコレート、身体に良いけど過剰摂取は脂質が多過ぎなのが難点である。

 今回は、そんな周りの状況、自分の一年の体調の変化から、健康診断の結果を貰うのが結構ドキドキしたのだが、取り敢えず、緊急を要す異常は無かったのが、何よりも安心である。安心して年末年始の休暇を迎える事が出来そうで、本当に良かったところである。

 でも、揚げ物とチョコレートは美味しいからと言って、野菜をしっかり食ってるからといって、元気だからといって、運動しているからといっても、度が過ぎて偏食しすぎては駄目である。良い事しているから、一つくらいは大丈夫だろうって判断が健康を阻害する始まりになり、異常が少ないから大丈夫だろうという過信が異常項目の増殖を招くのだろう。

 取り敢えず、春迄の間で生活を今一度律し、血液検査でも受信してみる予定。生活習慣病っていうのは、日常の注意でかなり有効な予防対策が講じる事が出来るんで、実はあんまり恐れていない。ましてや、一昨年の健康診断では、全ての検査項目で異常を示す※印が付いていた訳で、一年程取り組めば、その※印は消す事が出来るという自負と自信もある。サイレントキラーという名の通り、前段症状を意識しておけば、取り敢えずは、対策を打つための時間が取れるというのは、精神衛生上大きな安心である。

 しかし、今一番怖いのは、宣告されると即治療、或いは、即座に死を意識させるという腫瘍、癌である。良性腫瘍のポリープと判定されればOKだが、判定のための精密検査でさえ結果を待つ間は精神衛生上宜しくない。この辺の病は、ネットや本では、それらしい予防生活が書いてあるけれど、書いてある事は寧ろ生活習慣病予防のためと考える方が自然であり、身の回りで癌や腫瘍で亡くなった人を見ると、この人が?って方が逝かれている事が多い。そういう意味で、自分の意識としては、癌や腫瘍については運命的不可避な病であり、逃げる事の出来ない恐さとして認識している。今回、煙草を長期間(といっても半年だが、、、)中断できているのは、周りの友人で肺気腫、肺癌で亡くなった奴がいる事もある。癌や腫瘍は年齢や発生箇所によっては異様に進行が速い。進行してリンパ迄行くとアウトであり、素人知識だけでも恐怖を覚えるに十分である。幸いな事に親類縁者に癌で亡くなった人は居ないし、爺さん、婆さんも事故に遭わなかった人は異様に高齢(109歳等)であり、そういう意味では安心だが、それでも個人の荒んだ生活が異常細胞の発生を起こさないとも言いきれず、やっぱり怖いのである。

 それと、血液検査、レントゲン以外でも分かり切った異常が認められたが、これは次の記事で、、、、。

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自転車マナー教育

 日曜日の午前中だが、定例のコースをラングスターで走った後に、幼稚園の年長組の子供達による赤穂義士討ち入り大祭の見学と討ち入りそばを食べに、年中組の娘と一緒に幼稚園に出掛けた。
 幼稚園には、電動アシスト自転車で二人乗りして出掛けた。娘とは、自転車公園に出掛けたり、二人乗り自転車で出掛けたりする際には、自転車は道の左端を走らないといけないとか、歩道で歩行者と遭遇したら歩行者に道を譲らないといけないとか、信号は必ず守らないといけないとか、自転車で横に並んで走っては絶対にいけないとかの話をいつもしている。
 勿論、同じ事を繰り返し説明し、そういうルールを守らないと危ないという説明をしているのだが、説明には結構大きな声で子供の耳にしっかり届くように話している。

 しかし、街を自転車で走ると、伝えるルールとは全く異なる違反を平気で犯す人があまりにも多く、娘は『あっ!あのバカはルールを守ってない!』とデカイ声で言っている。勿論、そういう際には、自分も『あんな大人になってはいけない。あんな運転をしていると大きな怪我を起こしたり、人を怪我させたりするよ!』って言っているのだが、日曜日も歩道でヘルメットを被ったMTBに乗る若い男性が豪快に信号無視である。
 その状況は、歩道を自転車が3台(自分+自分の前に二台)走っている状況。信号が迫る際に、デカイ声で『あっ!信号が赤だ。今から止まるよ!』って言ったのだが、その声を聞いたのか?MTBユーザーはこっちを振り返りながら信号無視で行ってしまう。もう一台のご婦人の乗った軽快車も一度は赤信号で止まったものの、MTBが信号無視したのを見て、信号が青に変わる前に信号を渡るではないか!
 赤信号が青が変わるやいなや、信号を渡り、進んでいくと歩道が途中で狭くなって人が増えたせいか、その信号無視二人に追いついて娘曰く『信号無視しても、結局追いつくんだね!』と、、、、その際の二人の振り向きざまの表情のなんとも言えない顔がチョット滑稽で、、、、

 それにしても、スポーツサイクルに限らず、街ゆく学生からご婦人に到るまで信号無視しない人を見付ける方が難しいのが現状。子供に自転車ルールを説明するのに、悪い例ばかりが溢れる現実は、なんとも言えないものである。

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2007年12月10日 (月)

チョットポジション変更

 最近は寒いせいか朝のCR走行ではウインドブレーカーを来て走っている。自転車はラングスターTTというものでDHバー装着である。DHバーに風の抵抗の大きなウインドブレーカーって組み合わせはナンセンスなんだが、速度を出すのが目的でないのでOKである。
 しかし、肘置きにウインドブレーカーという組み合わせは結構滑るのである。そう思うと、結構、肘の位置が決まらない。ということで、DHバーの位置を若干変更してみた。グリップをチョット手前にセットしてみたが、結構イイ案配である。肘が滑らないのがイイ具合である。
 それに伴い、サイコンの位置を変更しようとしたのだが、横着したために自家製マウントの樹脂部分が破断してしまった。
 で、次は樹脂=破断ということで、マウントを金具で作り直した。マウントは、ハンドルに装着するスプリングベル用のバンドをベースにしたもの。見た目的には以前の樹脂の方が格好良いが、絶対に割れない金属の方が良いので、良しとしよう。

 しょうもない日記だが、ブログ=日記なんで、こういう記事もアリだろう。

 因みに、冬の防寒対策は夏はTシャツ、秋はTシャツ+ウインドブレーカー、冬はTシャツ+トレーナー+ウインドブレーカーで、はちまき風の耳当てに百円ショップの合成皮革製キャップという安直な出で立ちである。下はオールシーズンでリーバイスのスリムタイプのジーンズ。レーパンは未着用、っていうか必要性を感じない。夏場に脚を露出させたり、冬場に脚の形を露出させるスタイルはチョット抵抗があるのが正直なところなのだ。なんたって、腰の合わせると脚が入らない。脚に合わせると腰がユルユルという特殊体型で、自分で客観的に見ても下半身はゴツゴツしすぎでチョットいやらしいと思うからだ。
 上半身も下半身も体型的には相当に自信があるけど、これを露出して乗るってのはチョット嫌っていうのが本音である。
 最後に手袋は、冬以外は指切りのメッシュ。冬は薄手のナイロン手袋、滑り止め付き。更に寒くなると通勤、通学用でスーパーで売ってる奴で良いかなぁ?と思う。
 考えてみると、出で立ち的には相当なラフスタイルで普段着そのまんまである。

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マナーと時間帯

 今日の早朝は一段と寒かった。これだけ気温が低いと、耳も、指先も感覚がなくなるような寒さになる。走るコースとしている太田川沿いの堤防道路も冬は風が強く冷たく心を折るような環境である。特に早朝ともなると、朝起きるのも一大決心が必要で、更に気合いが必要である。

 この季節、日によっては暖かいし、朝寒くても、昼になると、かなり快適なコンディションとなることもある。しかし、良く晴れた日の早朝っていうのは、概ね厳しいコンディションである。

 こういう日によってコンディションが大きく変化する中、定刻通りに自転車に乗って気付くことがある。
 それは、真夏の炎天下の時間帯、冬の早朝時間帯という自転車に乗るには決して快適とは言い難い時間帯に出会う人っていうのは、大抵、マナーが悪いということは無いようである。絶対的に走っている人も少ないのだが、往路、復路ですれ違う人が一人か二人という範囲だが、それでも信号は守っている。そして、殆どの人が一人で走っている事が多い。
 逆に、チョットでも走りやすい状況となると集団走行者が増えるし、集団暴走気味であったり、単独でも信号無視とか結構見る。

 そして、決まった曜日の決まった時刻に出会う人っていうのは、概ね、すれ違うことが多いし、そういう人とは、軽い会釈を交わす事が多い。

 なんていうか、季節的に変動して現れたり消えたりする人と、決まった時に何時も出会う人の二通りがいるようだが、前者の人達はマナーも悪く、挑発的でいて、言葉は悪いが下手くそっぽい人が多く、後者の人は、法規を守り淡々と走っている人が多い気がする。

 すれ違う人っていうのは、そういう状況でマナーの良い人、悪い人と出会うけれど、同一進行方向では、殆どの場合、意味不明の人としか出会わない事が多い。
 考えてみればそうである。淡々と走る人っていうのは、前後の人とは不干渉であり、出会うという状況は、ペースが大幅に違わない限りは合う確率は極めて低い。同一進行方向で、最初視野に入らずとも視野に入って抜く対象となる人、或いは、一時的に猛スピードで追い抜いた後に急激に失速して消えていく人っていうのは、ペースの変動が激しいから良く視野に入ったり消えたりするのである。

 なるほど、同一進行方向で現れたり、消えたりする人っていうのは、私自身が常に一定のペースで走っているのだから、そのペースに対して大きな変動があるということである。そういう変動というのは、結局、干渉故のことなのか!と妙に納得したところである。

 ところで、今日は、朝寒かったせいか、すれ違う自転車が1台いただけ。軽く会釈しただけで、同一進行方向では誰とも出会わなかった。
 こういう日の方がリラックスして走れるのである。季節が悪い方が良いなぁと思うところ。

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2007年12月 9日 (日)

自転車に乗って思う事

 今日(正確には昨日)は早朝と夕方に自転車でマイコースを走った。最近は、車の運転でも老人の運転の仕方に物凄い違和感と恐怖感を覚える事も多いし、車の運転マナーの悪さも気になる所であるが、それ以上に、スポーツサイクルユーザーの酷すぎる実態から、何だか自転車に乗るのも抵抗があるなぁと思う事が多い。

 そんな理由で、少々辛口気味の『キモオタか?』とか『コスプレか?』といった記事を書いたりしている。
 そんな事考えながら自転車に乗る事自体、チョット嫌な気分になるのだが、今日の呆れた事は、信号待ちで止まっていたら、後から来た自転車に乗ったオバサンからどけてくださいと言われ、素直にどけると、赤信号無視して自転車で行きやがった。こうなってくると、注意する気も起こらないし、信号無視しときながら、こっちに止まって待っている事が邪魔だと言わんばかりで、なんとも言えない気分になる。

 それはさておき、自転車で誰もいない道路を走っていると、理屈抜きで気持ち良いのだが、あるスポーツサイクルユーザーの生態を見て、苦笑せざるを得ない場面にも遭遇した。この状況では、自分は完全に距離をおいた傍観者であり、どうだって良いのだが、登場人物はロードバイクに乗った二人の人。一人は、青のTREKのロードで普通に走っていられた。その後はメーカー不明の比較的安価っぽいロードにのったオッサンが激走して追っかけている。その光景は、自分がラングスターTTで定速走行中に前方100mに近付いた時に見えた光景だ。
 すると、オッサンロードがお兄さんロードの後にピッタリと付けて狭い歩道を走っている。当然、自分には気付いていない。距離で20m程後を挑発しないように狭い区間なんで観察しながら走行。その状態で交通量の多い安芸大橋交差点で停止。
 前がお兄さんロード、後がオジサンロードでピタ付け。私はオジサンの20m後方で停止。

 信号が青に変わると、二台がSTIの変速音も軽快に加速競争。その後の狭い区間ではスリップストリーム状態だが、それから自歩道的に巾が10mの道路に変わる辺りからオジサンが猛然とダッシュ!
 お兄さんロードも反応したようだが、向かい風に負けてか先にへこたれた様子。お兄さんに言いたいのは、素直にオジサンに最初から譲れば良いのに、、、、オジサンに言いたいのは、後にピタ付けするくらいなら、先行きます!とでも言えば良いのに、、、、。

 しかし、この二台、挑発しあったためか、その瞬間に掛けていたのか、途中で激しく失速気味になったんで、十分以上広くなったところでスルーさせて頂いたのだが、なんとも安っぽいバトルを見させて頂いて、何て言うか、笑ってしまうというか、情けないというか、そんな気持ちになったところである。

 それにしても、スポーツサイクルユーザーってのは、やっぱりスポーツマンでは無い、スポーツ選手コスプレというか、機材マニアというかそんな感じである。
 競技としてのスポーツの場合、それに打ち込む人っていうのは、むやみやたらに挑発、競い合いを他人同士でやらないのは当然だし、マナーやルール、手順の重要性を理解しているが、自転車の場合は、挑発OK、マナーやルールは自己中心、手順よりも即効性、機材依存の度合いが高い場合が多く、機材オタク的な趣味か、コスプレ趣味としか思えない。いくらひいき目に見ても、競技以前のレクレーション的スポーツに過ぎない。

 そう言えば、トライアスロンなんかもラン出身の選手、スイム出身の選手の方が多いしバイク出身の選手ってのは少数派。何よりも、スケートの橋本選手、宮部選手のようなアスリートが自転車に乗ると、いきなり高い能力を発揮する辺りに、自転車がスポーツとして認知されて取り組んでいる人が少ない事を如実に現しているのが判る。
 サイクルスポーツというのは、日本では高校大学辺りの自転車部が最下層で、他は競輪学校のような所でしか成立していないように見えるのは言い過ぎだろうか?

 自転車が好きっていうだけで、他の競技スポーツ経験が全くない人が、自慢気に語っても、所詮口だけ。能力以前にスポーツを取り組む上での上達に必要な手順を追う心と、ルールを尊ぶ気持ちが無い人が殆どに見える。
 能力を語る資格は自分にも無いけれど、少なくとも、上達には手順が必要で、社会で楽しむにはルールを守る気持ちが無いようでは、スポーツの世界でも上達はしないのでは無いだろうか?

 負けず嫌い的なオタク的マニアが多いようだけど、機材以前に、純粋に筋力、持久力、心肺能力が必要で、それを身に付ける訓練無くしては、絶対に上達しないし、道具を使うスポーツでは、道具の原理、論理、使用法を理解し、正しく使えるように考える事が必要だ。この辺は我流では身に付かないとも言える。
 このような手順を超越して、都合の良い所だけを掻い摘んで、他は機材で賄うとか、具体性の無い感覚で語っても、何の説得力もないし、その己が速いとでも思っている錯覚を試すために、公道で他人と絡むってのは、あまりにも稚拙ではないだろうか?

 生意気な事を語るレベルには無いけれど、少なくとも身の程は弁えて、ルールを遵守するのが自分のスタイルだが、私のような考えは、街で見るサイクリストの生態と照らし合わせると、極めて異端のようでもある。

 自転車をスポーツと捉えると、その道のりは相当に厳しいのでは無いだろうか?多くのサイクリストの生態や、ブログネタから『勝った!負けた!』への拘りが多いようだが、それに拘るなら、最高心拍数を上げれるようになり、最低心拍数も極低くなるような身体を作る事。その上で、運動強度的に長時間持続可能なレベルで、一定以上の出力が維持できるような筋力を付ける事。これが最初で、後は、機材を扱う技量、機材を自分に合わせる知識を身に付ける事。これが最低でも必要。
 筋力を付ける事も、持久力を付ける事も、相当な負荷を継続しなければ身に付かない。技量や知識に到っては、色んな失敗と試行錯誤、自分にとっての解に近付く手法を知らなければ一生身に付かない。

 本当に速くなる人ってのは、さっきの話でないが、他の競技性を持ったスポーツに長期間取り組んだ経験のある人くらいでは無いだろうか?スケート、陸上、水泳、、、、そんな競技出身者くらいしか思い浮かばない。
 少なくとも、帰宅部で運動経験無しとか、勉強嫌いとか、三日坊主的な人っていうのは、駄目だろうと素直に思う。

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時間配分見直し

 以前も記事にしたけれど、一日24時間しか使えない現状において、今のスクジュールはタイト過ぎるし、ついつい睡眠時間が短くなってしまう。
 人間、ボーッと緩んだ時間も必要である。

 ということで、ライフスタイルの変更を検討しようかと思う。今は会社通い、育児、毎日の運動と時間を積算していくと、殆ど時間に隙間が無い。全て終わるのは午前0時前後である。そこから、記事作成とか、改造とか、他の事をやると確実に睡眠時間が減っていく。

 これって、或る意味不健康である。睡眠時間が4時間台になると、さすがに翌日が眠い。寝る時間を削ってしたい事を全部するのは、物理的に不可能である。

 ということで、可能なのは運動の2時間を1時間程度にする事だが、これがなかなか踏ん切れない所である。なんか、もの足らない気もするし、、、、、この辺りをどうするか?が今の最大の悩みの種である。

 寝る時間は減らせれない。今以上に早く会社から帰るのも難しい。育児も当然必要。減らす事ができるのは、やはり2時間にも及ぶ運動時間である。毎日2時間を、毎日1時間にするか?一日おきに2時間とするか?運動のメニューを考える事で納得できるリズムを作り出さないといけない。

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2007年12月 8日 (土)

餅は餅屋!小径は小径屋!

 ロードバイクが欲しいんだが、どうも今の世間のロード乗りの風貌の浮き具合とモラルの度合から、最新のロードバイクに乗るのを躊躇している。という訳で、今は折り畳み小径車と、ビンテージロード、固定シングルのTT風バイクに乗っている。でも、ロードが欲しいけど買い辛いという状況。

 それでも物欲がやってくる。なにか欲しいな!って思いながら、周りの状況に影響されながら、どうしよう?と思っているのだが、今のターゲットは折り畳まない小径車が欲しいというのが盛り上がっている。そんな小径車に期待するのは、やはりフルサイズロード的なフィーリングというか、そういう部分を求めている。

 最新のロードに乗っては居ないが、過去の自転車経験と今の愛車群から次はどんなのにする?って考えて、車型としては折り畳まない小径車というところ迄決まっている。

 小径車っていうのは、フルサイズとは違うけど、そのネガの印象は一般的に次のようなイメージが先行している。

・漕いでも進まない。
・加速は良いけど、速度は落ちやすい。
・ハンドリングが過敏で、走行時の安定性に欠ける。
・乗り心地が悪い。

 たしかに、それは言えている。でも、小径車なりに欠点が減らす事も出来る。それは、我が家の小径車に色んな視点で部品交換を進めて、それなりに結構変化することが判ったから言える事だが、自分なり先のネガが少ない小径車像っていうのが何となく見えてきたような気がする。

 確かに漕いで進まないかもしれないが、ギア比次第で何とでもなるし、自分の必要な展開量は小径車で十分作る事ができる。既に既存の愛車には策が施してあり、フルサイズと乗り較べても不満は無い。この点は解決済みである。

 加速は良いけど、速度は落ちやすいって問題も、平衡系では差異は無しだし、運動状態を変化させるために必要なエネルギーの絶対値にも差は無いのが現実。重量の等しい円環の回転と考えたら。半径の違いが有っても、速度が同じならば、周速度は同じであり、慣性モーメントという慣性項が同じでも角速度で差は相殺されるんで、回転体のエネルギーとしては全く同じ。違うとすれば、運動状態を変化させる場合の力×距離的な考えでの力の絶対値の大小の違いだが、これとて、距離の大小を伴うのでエネルギーとしては差異は無い。実際に乗った限りでは、厳密な差を感じるよりも、実質的に軽量な小径ホイールの軽さによるメリットの方が大きいくらい。

 ハンドリングが過敏っていうのは、小径故に同じスケルトン時におけるトレール量が少なくなる事。トレール量を増やすためにオフセットを減らすのが常道だが、殆どコラム角度と一直線のフォークを持つ車種も少なくない。殆どの小径車がフルサイズとの相似形状ばかりである。 乗り心地の悪さについては、車輪径に対して路面凹凸の大きさ率が大きめになるので仕方ない。改善は、ホイールベースを伸ばす事、サスペンションを用いる事くらいか?

 色々言われているけど、この中で致命的なのは、スケルトンに起因する欠点で、他の問題は何とか解決できるものばかりである。スケルトンについて既存の車種を見る限り、そこまでしっかり考えている小径車ってのは案外すくない。殆ど、コンポと部品形状でフルサイズ並の走行性!って謳う、宣伝のためのバイクが殆ど。今一、小径ならではの形が見えてこない。

 そんな中で、やっぱり違うな!って思えるのは、BD-1、モールトン、ダホン、タイレル、KHS、フライデーってブランドの自転車。この辺の自転車は、さすが小径車を良く知っていると思わせる違いが存在する。
 最近流行の小径車だが、ラインナップの一つで揃えている小径車とは、一線を画すスケルトンと構造をもっている。細かい論評は過去記事参照。近い内、具体的にメインサイトで特集を組む予定だが、これを見ると、やっぱり『餅は餅屋』である。その世界で生き残り、ブランドを構築して、その世界のみで成立しているのは、訳が有る。

 反論はあるかもしれないが、自分の眼で感じたのがこういう感想だ。最初にボードウォークを買った時、西DAHONを作り始めた時には思いも寄らなかった事が頭に浮かぶけど、この専門メーカーのモデル群は何れも良く出来ているし、こういうモデルは他の流行に併せて生まれた車種とは全く違う。
 少なくとも、我が家の西DAHONとオ・モイヨWWでは、どっちが安定しているか?踏めるか?疲れないか?っていうと、一発で判る程に西DAHONである。

 今の感覚と知識を満足させる選択眼を、次期愛車を選んでいく予定である。

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生活保護支給基準の引き下げとメタボ罰金

 最近のニュースで気になったのは、報道ステーションの特集で、北九州市における生活保護の支給の実態を取り上げたニュースである。
 概略は、この自治体は生活保護を限りなく抑えるという政策で、厚生労働省から優秀と評価されていたが、ここ最近の本来なら生活保護を受けるべく人への生活保護の打ち切りにより、この人を孤独死に追いやった事から、逆に要監視と評価が一転したというもの。
 このニュースでは、生活保護の申請は拒まず、しかし、対象数が増えると、予算の都合で、保護基準を引き下げるっていう方向にいくだろうって事を問題として取り上げたニュースである。

 これとは直接関係ないけど、もう一つの気になったニュースは、来年から企業におけるメタボ対策の推進のために40歳以上の従業者のメタボ状態で、企業から反則金を徴収するって制度の事。この制度が現実のものとなると、三菱電機で10億円のコストが発生するという話。

 企業っていうのは利益追求の団体であり、如何に従業員の健康のためとは言え、10億円ものコストを負担するか?というと、実に微妙である。

 この先がどうなるか?っていうと、企業は人を採用する段階で肥満リスクの人を排除するような行動に出る気もするし、下手すると、既存従業員で改善の見込みが無いメタボ対象者を企業から除外するような空気を生むのでは無いか?ということ。

 肥満=自己管理能力欠陥者=評価査定で減点=待遇面で冷遇=給与手当の減俸=辞職

 って流れが生まれるのでは無いか?このシステムが目指す方向ってのは、アメリカ等での肥満者=管理能力欠陥者ってレッテルを貼って組織から除外って方向に向かうのか?と思えたりする。

 所謂、格差社会における格差因子が一つ増える事を暗示しているように見える。企業の論理として、雇われたかったら、自己管理出来るようになってから来い!とそんな未来が予想されるのだが、実際、どう変化していくだろうか?

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革サドル、育てるぞ!

 木曜日に注文していたサドルが入荷したとの連絡を受けて、早速取りに行って装着した。このサドルは革サドルでBROOKS B17 Narrowってモデルで色は茶色である。このサドルは531ロードに装着した。前のサドルはニシダサイクルさんの長期在庫で頂き物でサンマルコのHDPってモデルで、結構な品だったけど、自分的にはサドルは革サドルが一番好きである。
 我が家の自転車のサドルは?っていうと、西DAHON、オ・モイヨWW、ラングスターTTは取り敢えずサドルで偶然転がっていた奴である。革サドル以外では、別に拘りを持っていないのである。プラベースのサドルは尻で形が変わる訳でもない。なんだって一緒である。どれに座っても、尻が痛いってことは無いし、逆に極楽って感じもない。拘らない理由ってのは、これらの自転車が今風の流行り自転車であり、近代的な形故に、革サドルが似合わないからである。

 しかし、531ロードは一見ビンテージ、スピママも折り畳みとは言え、パッと身はママチャリであり、所謂昔っぽい自転車である。こういう自転車は、やはり革サドルである。
 この革サドルってのは、新品状態では硬く、滑りやすく、メンテも大変ということで、新品状態が一番悪い状態である。しかし、このサドルにはメンテナンスを加え、地道に使うことで少しずつ骨盤に適合してくるのである。そうやって得たサドルは、長い年月と手間が必要だが、その快適性はサドルとしての価値を考えると、世界で唯一の自分の骨盤と乗り方に適合したベストとなる。

 そういう意味で、ベストを手に入れるって考えると、革サドルっていうのは最高の品であり、機能を追求するならば、サドルはレザー以外には有り得ないのである。
 因みに、今回の531ロードではBROOKSサドルを奮発したけど、スピママは昔のイデアルで普通の品だ。

 この革サドルっていうのは、昔のサイクリストでは拘り順位で高い位置を占める品だが、昨今の自転車マニアからは関心度の優先順位はかなり低い。
 これって、革サドルが自分のモノになるための時間と手間が許せないのだろう。性能には、それに見合った時間と手間が必要という絶対的な掟が理解できないのであろう。モノによって短絡的に性能を安易に得る以外は認められないのだろう。

 そういう意味で、昨今のマニアの選び方っていうのは、即効性を重視し、スペックを重視しているのかなぁ?と思うところである。革サドルの良さがピンと来ない人っていうのは、サドルが与えてくれる真の極楽度合いが見えてこないのだろうか?っていうか、こういう手間が掛かる事ってのは、スペック重視、即効性重視のキモオタ、コスプレ野郎的にはNGなんだろう。

 531ロードは組み上げてから4000km以上走っているが、革サドルが尻に適合する日もそんなに遠く無いと思う。楽しみである。いつ頃から骨盤に合い始めるだろうか?ワクワクである。

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2007年12月 7日 (金)

大食いブームの被害者

 最近はダイエット、美容、健康ブームの対極として、大食いもブームとして存在しているようである。
 そこでの出演キャラも、ギャル曽根さん、ジャイアント白田さんと結構注目の高い人が居る。

 そんな影響からか、あの釈由美子さんが服が着れない程に肥えられたとの事である。妊婦と間違えられるって・・・・ホントか?っていうところである。

 釈さんのブログに内容が記載されているようだが、その日の記事には、ステッパーに乗ってる写真も掲載されており、チョット笑ってしまった。

 芸能人として、人に見られる事を自覚してダイエットに取り組むそうだが、あの人なら多分、直ぐに元に戻るんだろうと思う。

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昼ポタTT!?

 昼休みには猿候川沿いを昼ポタしている。そこの川沿い区間では信号に掛からないタイミングというのがある。勿論、コース内の全信号をスルーするのは不可能に近いけど、猿候川沿いの区間の車道については、そういう区間がある。

1.ウォーミングアップポタエリア
府中~大州橋~東大橋迄の3km弱の区間で、概ね35km/h走行。猿候川見ながら、身体暖めながら、、、、、

2.第一区間
東大橋から一本入った信号~平和橋:距離400m、維持速度32km/h、時間で45秒なら東大橋が青に変わったタイミングで平和橋が丁度青に変わる。

3.第二区間
平和橋~大正橋:距離500m、維持速度37km/h以上、時間で48秒以内なら大正橋信号が赤に変わる前に渡れる。

4.ポタエリア
荒神橋、猿猴橋、駅前大橋界隈の河川沿いをポタリングして大正橋に戻る。距離で4km程度

5.第三区間
大正橋~平和橋:距離500m、維持速度35km/h以上、時間で51秒以内なら平和橋信号を渡りきれる。

6.第四区間
平和橋~東大橋北詰:距離370m、維持速度30km/h、時間で45秒で丁度青に変わる。

7.クールダウンポタエリア
東大橋~大州橋~府中迄の3km弱の区間で、概ね35km/h走行。クールダウンしているつもりでも身体は暖まっている。アッという間。

以上の区間だが、信号に掛からないようにと言う事で信号で区切られた4区間、区間距離500m弱を結構踏んで走っている。このポタリングコースは総延長12km弱で、所要時間は20分未満である。

これって、日祝日の市北部に向かうマイコースの堤防区間(片道13km弱を18分程度で走る)と似たような感じである。時間がもう少しあれば、更に足を伸ばせるのだが、昼休憩には食事も必要だし、現実、この程度の距離が一杯一杯である。

 実は、日祝日のマイコースでも信号のタイミングを見計らった走行をしているんだが、この昼ポタでもそうなっている。信号で止まらずにスルーするために必要な走行条件は幾らか?それを狙って走っているのは、既にポタリングでは無いのかもしれない。

 勿論、信号厳守、左側通行厳守、歩行者優先なのは言うまでもない。

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キモオタか?

 自分は自転車でも単車でも流行とは関係無しに、結構、幼稚園児の価値観と同じく競技性の高いジャンルが好きである。
 自転車ならロードやピスト、単車なら2ストレプリカである。

 でも、ネットを見渡すと、ロードレーサー好き、SS好き系の人に対するネガティブな印象としては、こういう嗜好のユーザーはキモオタ系って言われる場合が少なくない。

 反対したい反面、自分の中にも、『オタク、マニア』的要素は結構あると思う。街を走るロードやSSを見てもやっぱり、キモイ要素は結構あるとも思う。残念ながら、ネットで言われる悪い印象を否定する状況では無いというのが素直な感想である。

 何故に、自転車や単車ではスポーツ性を追求したモノを志向するとキモオタと虐げられるのか?他のスポーツ、球技、格闘技ではスポーツを求道すると、キモオタと表現される事はまず無い。

 これは、先の記事にも書いたけど、スポーツとしての市民権を得ているか否か?歴史と体制が整っているか否か?の違いもあるけど、『オタク』と表現されている時点で、他のスポーツと大きく異なるポイントがある。

 それは何か?

 そう!自転車や単車の場合は、その道での格好良さ?の追求に、機材や道具に拘るという部分での自由度が大きいってのが、その理由では無いだろうか?
 そして、機材の選択においては、本来はスポーツの道具としてならば、選択の段階で目的が明らかであり、選ぶ機能を見定める眼が研ぎ澄まされているのが前提で、そのために必要な経験と、機材に纏わる専門分野が有るっていうのが前提の筈だが、オタクって言われる人は機材に大きく依存し、機材の選択は、謳われているスペックに簡単に誘導されるのが現実である。

 そういう現実を見ると、身の程に合わないスペックを判ったような気になり語り、選び、他との優越感に浸るような奴は、やっぱりオタクであり、スポーツプレーヤーに憧れるコスプレーヤーであり、キモオタとなるのかもしれない。

 キモオタって言葉は、そのコスプレ性を強調した表現で、スポーツ的要素を極端に無くして残った様子を滑稽に表現した言葉なのかもしれない。

 コスチュームプレーヤー=キモオタって表現っつうのも、何となく理解できるところだ。

 しかし、人間誰しも、そういう蔑まされた表現を受けて良い気はしないし、そういう風に見られたくもない。キモオタって族は、機材崇拝主義な方々であり、機材崇拝主義的な方々とは一線を画す存在でありたいと思うけど、これ系の趣味の場合、誰しも、そういう機材に頼る弱さっていうのはあるのかなぁ?と思う。

 でも、匿名巨大掲示板を眺めていると、言葉こそ悪いけど、世間を割と正確に捉えているなぁ!って感心させられる事が多い。

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虚言癖

 メインサイトの日記でも書いたけど、表題の言葉っていうのは、嘘を付いてしまう癖と思うのだが、実際の所、どうなんだろうか?虚言の虚って字は嘘って字と似ているようで違う。虚って字は、作り事であったり、実在しない事柄であったりを意味するものであり、この字自体が嘘を示している訳ではない。もしかしたら虚言癖と嘘は違うのかなぁ?と考えたりする。

 いろいろと考えると、咄嗟に付く嘘は虚言癖とは異なるような気がする。虚言癖っていうのは、話しての頭の中には悪意の無い空想が広がり、現実と見境の付かない状態となった事柄を、事実の中の一齣として他人に無意識に話してしまう癖で、或る意味、夢みたいな話をする人の話癖なんだろうか?
 そうであるならば、そのイマジネーション自体は悪では無い訳であり、そこには創造性こそ褒められても、馬鹿にされる理由は無いようにも感じる。

 しかし、咄嗟に付く嘘っていうのは、全く考えていない状態で、己の未熟さや間違いを覆い隠す事を目的で本能的に言ってしまうモノであり、空想世界という思考を伴う虚言癖とは異なるモノのように思う。

 要は咄嗟の嘘とは、咄嗟の言い訳であり、言ってみれば無責任さによる言い逃れみたいなモノかもしれない。こういう言い逃れは、本人にしてみれば嘘を付いてるつもりは無いんだろうと思う。

 仮に虚言癖と咄嗟の嘘を上記のように分類したとしたら、虚言癖については許せるけど、言い逃れのための咄嗟の嘘っていうのは許せない。まぁ、言い逃れのために咄嗟に嘘を付く奴は、目が泳ぐし、緊張状態となるし、一発で判るし、考えていないだろうから、言ってる事が支離滅裂な事が多い。

 虚言癖は創造性が高すぎ故の癖ならOKだが、咄嗟の嘘は見識無さ過ぎによる嘘である。そういう癖を持つ人は似ているようで全く正反対の生い立ちで育ってきたのでは?と思う今日この頃である。

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幼稚園でのウイルスキャッチボール?

 娘の通う幼稚園では、今はアデノウイルス感染症が流行しているようである。少し前は、水疱瘡が流行していた。
 幼稚園では、色んな病気が流行しては園児が休んだりしている。これからは、インフルエンザの流行期である。予防接種を受けて、手洗いうがいを習慣付けても、感染する時には感染するものである。
 子供ってのは、こういう集団生活に揉まれる事で、強く元気になっていくのだろうか?娘は、年少組の時は一年で十日程度は病気で休んだけど、年中さんになってからは今のところ皆勤賞である。なんでも、一年間休まず登園出来たら最後にメダルが貰えるってのが励みになっているようだが、仮にインフルエンザになったら休まざるを得ないが、それでも、病気にならないように一生懸命に帰宅すると手洗いうがいを励行し、好き嫌い無しで食事をしている。

 これから本格的な冬である。病気にならぬように体調維持に務め、健康管理に気を付けて乗り切りたいところである。

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コスプレか?

 何回か記事にした事あるけど、80年代のレプリカブームにおける有名ライダーレプリカツナギ+メットってスタイルや、最近なら第三京浜風チョイ悪バトルスーツ、自転車のプロサイクリングチームレプリカジャージスタイルってのは、なんだか、スポーツのための正装っていうよりも、ヒーローを模したコスチュームプレーヤー、所謂、コスプレで秋葉系メイドなんかと同じでないの?って気がする。ましてや、本人がスポーツのつもりでも全く意味無い事やってたりしたら、コスプレどころか、ピエロというか道化師の如きでは無いだろうか?

 勿論、反論もあると思うんだけど、単車や自転車に関して言えば、他のスポーツのようにメジャーな人気が有る訳でもない。殆どが我流で、それ風のショップのそれらしい指導?の元で取り組んでいるレベルであり、例えば、水泳、格闘技、テニス、スキー、野球・・・という風に指導料、授業料を払って正式なインストラクターの指導の元で手順を踏んで進めるっていう、学問としてのスポーツとは絶対的に違うレベルである。
 それ故に、ストイックな意味でのスポーツとは意味合いが全然違っている。自転車も単車もスポーツ!ってユーザーは思い、店主もインストラクター!って自負があるかもしれないが、所詮は客と店の関係であり、そこでの営業活動の一環というか色気が存在する。
 機材の販売、用品の販売がありき!と思う訳である。そういった利害関係抜きで、果たして店主がインストラクターとしての専門性(スポーツとして、或いは、機材を扱う専門家として)を有しているか?っていうと、かなり怪しいのが現実では無いだろうか?

 殆どのショップは該当しないと思うけど、中には、サイクルスポーツの伝道者、インストラクターとして重すぎる自負を持って商売している人も居るんだろうけど、そういう人が、本当の意味で、スポーツとしての論理を学問的に説明し、生徒(ホントは客)の疑問を氷解させる知識と解説力を持ち、機材の意味、機能、目的と本当の効果を明確に言い当てる事が出来るレベルに達しているのか?というと、超怪しい。
 自転車のセッティング論についても色んな論調があるし、ペダリングスキルの蘊蓄、機材の特性の蘊蓄が蔓延っているが、本当にモノにできるレベルにあるか?っていうと何とも怪しい。

 本来、自転車とかモータースポーツっていうのが人気のある地域は、文化的に成熟したヨーロッパ圏であり、日本を含めたアジア圏では、純粋にスポーツとして見ると、人気の度合は遙かに下位である。文化的、技術的、伝統的に進んだ地域っていうのは、社会自体が成熟しており、その成熟した地域において人気があるっていうのは、対象の奥深さ故ではないか?と思う。それ故に、モータースポーツ、サイクルスポーツが身体能力に加え、経験、機材に冠する知識・・・・の非常に広い範囲で知識が求められるという難解さが人気の要因の一つでは無いだろうか?

 そういう見方で捉えるならば、今の日本における自転車ブーム、過去のバイクブームっていうのは、瞬間的なブームに過ぎず、それを伝統的なスポーツとして受け入れるには、体制も備わってないし、それを伝える担い手のレベルも全く育っていないのが現状では無いだろうか?
 スポーツとして捉えるならば、それに打ち込む人には人間性が備わっている。実際、日本の社会に根ざしたスポーツは道場、ジム等で非常に厳しい教育体制が備わっており、日常においても生活を律する行動が身に付いている。格闘家は街で喧嘩はしないし、本当のモータースポーツ選手は、公道でアクセル全開は無い。
 しかし、日本のサイクルスポーツ愛好家のキノコメット+ピチピチレーパン、レーシャツのロード乗りの現実は、並進当然、信号無視も当然という社会性が全く無いような、まるで、普通の通勤通学の学生やオバチャンの自転車マナーとなんら変わるところが無いのが現実である。少なくとも、地元広島で朝走っている定例コースで遭遇する人の殆どが信号無視してるし、並進してるし、意味無いチョッカイを仕掛けてくる。

 つまり、スポーツとして取り組んでいるならば、精神性も高まっている筈だが、このような現状を見る限りでは、社会性が備わっていないというか、そういう判断が出来ないレベルって事で、スポーツの上達に必要な知識と経験を順序立てて吸収するという手順を学ぶ道場とは違う世界でスポーツしている気分(錯覚か?)になっているだけのように見える。

 この現実を見ると、如何に高級な自転車に乗って、本格的な装備を纏ったところで、信号無視に、並進、暴走し、公道で遭遇する他人にむやみに挑発するようなロード乗りの現状を目の当たりにすると、こいつらは、サイクルスポーツが趣味ではなく、サイクルスポーツ界のヒーローのコスプレーヤーだろ!って思ってしまう。それを煽てるショップ店主のレベルもたかが知れてるって思う。

 考えてみれば、様々なスポーツが世の中にはあるけれど、サイクルスポーツって言われている世界は、関心を持つ人を教育する体制も無い。この辺が、他の裾野の広いスポーツと大きく異なっている。仕方ないといえば仕方ないけど、昨今のマナーの悪さを見ると、スポーツ云々の前に、単にコスプレオタクにしか見えないっていうのは言い過ぎだろうか?

 こんな事を記事にしたくなる程に、マナーは乱れている。ホント、どうにかならないのだろうか?正統派?愛好家?大人の趣味?笑わせるな!って言いたい。少なくとも、こいつらはオッサンばかりであり、車を運転している時は、多分、信号無視はしていない筈だ。
 なのに、何故、自転車に乗り換えた途端に、信号無視するんだろうか?

 自分も最新のロードバイクに関心があるんだが、こういう流行にのったモノを手に入れる事を躊躇するのは、こういうユーザーの酷いモラルとマナー故である。世間の普通の人から見ると『キノコ頭のショッカー』が目立つ自転車で信号無視って姿が、相当に違和感がある筈。まぁ、『悪の手先のショッカー』だから信号なんか守っちゃいけない!ってなら笑うところだが、最新のロードバイクが買いにくい理由の一つである。

 思えば、80年代のレプリカ全盛の時代には、皆がレプリカに乗る前こそ2ストに乗ってたけど、F3レプリカ全盛期には殆どレプリカには乗らず公道ではツアラー志向だったし、それは、当時のヘルメットにアンテナ立てて狐のしっぽをぶら下げて、場所を弁えずかっとぶレプリカが多すぎたのも大きな理由である。実際にガンマをメインで走り出したのは88年以降というレプリカが衰退してからが、自分のレプリカ時代だったのだが、今も同じ気分である。(※峠のブームはマーケットの充実期より現実は1~2年早かった。年式的には1988年式崇拝が言われているが、ブームのピークは1984~1986年頃。1988年は衰退期である。1989年がゼファー登場だ。1985年以前はRZメイン、1986年からはVFインテグラ、XZメイン、S4ガンマ投入は1987年以降)
 最新のロードバイクが流行している今、乗るならビンテージロードか、ミニベロか?って思いの本音はこういうところにあるのである。

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2007年12月 6日 (木)

歳を取る程に変われない、、、。

 チョット前に、凝り固まった高齢者の価値観を変えるのは困難って記事をアップしたけど、例の自転車少年では無いが、あんな思考パターンを変えるのも極めて困難である。年齢的には還暦以上のジジイの半分以下の三十路オヤジでさえ変えるのは難しい。

 ところで、例の奴がらみだが、今、新規形状でモノを作るべく準備を行って作業をやらせているのだが、作業一つ一つに配慮が全くないし、注意も出来ない、見ているようで何も見ていないという状況。
 指摘すると『すいません!すいません!すいません!すいません!』ばかりである。挙げ句の果てには、『自分には何が悪いのか、全く判らない。怒られて初めて気付くんで、やりようが無い・・・・』と愚痴をこぼす。どうすれば、何に注意を払うべきか?何を考えるべきか?が判らないらしい。
 それも半分以上は言い訳だと思う。なぜならば、報告において優先順位がひっくり返り、更には、虚偽の連絡をするように知恵を回すような奴だからだ。

 そんな事は兎も角、どうしたら同じ間違いを繰り返さないようになるか?知識が身に付くか?を、再び質問してきやがった、、、、。同じ問いは、5年以上前にも質問されて、それに対して解答は何度もしてきている。要は、一度やらかした間違いは記録に取る。記録という型式に拘らず、毎日、何やったか?何気付いたか?何故怒られたか?を日記的でも良いんで記録して残せと言っていたのだが、コイツの日記は更新が一年は滞る始末、、、、。

 結局、続ける事が出来ないのか?積み重ねる事が出来ないのか?コツコツで地道な変化が待てないのか?そう言えば、何かの話で、即解答が欲しい、公式が知りたい、結果が全て、価値は金額で決まるって豪語していたけど、こういう価値観は三十路なりたてにして既に変えようが無いみたい。こういう疑問の解明には、自分の望む解答を探すことを以て勉強というのでは、結局ダメである。
 答えを探すのではなく、自分で答えを出すの必要な知識を身に付けるのが先決であり、知識を身に付ける大変さを体感し、手順通りに物事を進める事を諦める事無く続ける辛抱強さが必要である。そういう癖を付けないと変われない。本来なら学校教育期間中に身に付けるべきだが、中年以降にそれをするのも困難。自主性に任せて学習しろといって出来るようなら今の事態を招いていない訳であり、日記的に学習を続けることも不可能だ。そんな奴には、道場か何かハードでスパルタな所で、竹刀や鞭でしごかれるしか無いのでは無いだろうか?
 それ程に、考え方を変えるのは困難である。

 変わらなきゃ!とは色んな場面で聞くけれど、変われるかどうかは、個人の生い立ち次第である。変われない奴は、年齢に関わらず変われない。変われなくなるのは何時頃決まるか?と思うと、よく判らないけど、人格が形成された時点で、決まってしまうのだろう。
 こういう奴は、一生、こういう奴であるに違いない。そう思う今日この頃である。

 本人が変わりたいと言っても、変わるための手法に時間と手間が掛かると思った時点で、挫ける。結果、変われない。こうなってくると、時間がいくらあっても、幾ら若くても変わる事は現実不可能である。つまりは、こういうタイプの違う人間に俺の考え方を強制する事自体がNGであるってことである。変える事が出来ないのは判っているんだが、立場的に言わざるを得ないジレンマである。

 そうは言っても、そういう奴も何%か存在するのが社会であり組織である。こういう奴は、こういう行動パターンがデフォルトであるって承知した上で、何かをやらせるだけって結果になるんだろう。

 それにしても愚痴になるけど、奴にとっての此までの勉強は、『答えを前例から探すこと』っていうのがNGだ。本当は、『答えを出すに必要な知識や論理を理解すること』が勉強だと思うのだが、、、、、。

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男性ホルモンとメタボ、ED

 今日の注目の記事は、男性ホルモン減少がメタボ、EDと関連性があるというニュースである。
 男性ホルモンの減少で、生活習慣病や鬱病を誘因しやすくなるって話はチョット前にも他のニュースでしっていたのだが、その解釈の仕方が新鮮だったんで引用すると、次のような事だそうだ。

『メタボリックシンドローム(内臓脂肪症候群)は男性に多い。男性の方が内臓脂肪がつきやすいためだが、若い男性で腹が出ている人はそう多くない。40代、50代で腹が出てくるのは、食べ過ぎや運動不足のせいだけでなく、男性ホルモンが減ることで内臓脂肪がつきやすい体になっていることが関係しているという。』

 因みに、男性ホルモンが減ったかどうか?の自覚の仕方は、従来は歳を取ったら仕方ないという認識や、血圧や糖尿病っていう検査しないと判らないのが普通だったけど、今なら、EDで自覚可能であるって事らしい。そして、将来は男性の健康指標になるかも知れない事らしい。

 EDを自覚するか否か?っていうのは、結構難しいかもしれない。なんたって、そういう状況でなければ確認出来ないし、、、しかし、似たニュースで『朝立ち減少』も病気!って記事を見つけた。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/95515/

この記事によると、早期治療でうつ予防が奨励されているが、オッサンになると、この朝立ちが有るかどうかをチェックポイントに入れるのが良いのかもしれない。

他にも関連記事だが、この男性更年期障害を紹介した記事も見つけた。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/living/87556/

である。一言でいうと、やる気がでない、疲れやすい、集中力がないなど。朝立ちが減った、筋肉痛をよく起こすようになったという場合がそれに該当するらしい。誘因としては、真面目、完璧主義、仕事大好き、趣味無し、家庭で孤立、運動不足が該当するとのこと。
 このサイトにはチェックシートも有るんで、各人がチェックしてみると良い。因みに自分は3点なんで無問題である。

 まぁ、仕事嫌いの遊び好き、拘るのは自分の趣味だけ、仕事も趣味の延長で考えている。筋力、体力は少なくとも周りの同じ趣味の連中に負ける事は無いし、水泳等持久力も最盛期と遜色無い。ピークは今だと思っている。ぶっちゃけ、朝立ちは毎日だし、関係無いとは思うけど、そういう時期がやってくるかもしれない。

 ただ言える事は、こういう健康ネタのニュースに敏感になり、健康診断の結果を何時もドキドキして待つという気持ちを持っている事。つまりは、健康に留意するようになった時点で、オッサンになったと言う事である。三十路の声を聞く前には、そんな事は全く関心が無かったのが、不惑越えの今は超敏感。これこそ、『度胸のメタボリックシンドローム』かもしれない。

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FA制度

 FA(フリーエージェント)制度について地元広島では、地元球団の選手流出で何時もローカル新聞を賑わせている。
 個人的には野球ってスポーツに、それほど大きな関心がある訳でないので、どっちでも良いといえば、どっちでも良い。但し、制度的には、悪くない精度だとも思う。但し、資格取得制限自体は一考の余地があるようにも思う。

 制度云々は別として、選手がFAによって移籍するというスタイル自体に自分自身違和感を感じない。自分が最も好きな観戦スポーツといえばMOTOGPのようなレース競技だが、ドライバーやライダーっていうのは短期の契約でチームを何時も変わるような制度となっている。それでも、何の違和感も感じないし、そういうスタイルの中で選手を応援したり、チームを応援したりしている。
 好きなチームで活躍する選手を結果的に好きになったとしても、その選手がライバルチームに移籍する事自体に違和感を感じない。

 こういう目で見ていると、選手がチームを渡り歩くのは極自然な事だし、極一部の例外を除いては、選手の所属が極めて流動的である。

 しかし、日本のプロ野球では、異様に選手のFA流出を嘆くファンが多いように思う。特に、広島東洋カープにおいては、FAで出ていっても誰も入ってこないので、そうかもしれない。勿論、二輪レースと野球を同列に語る事は出来ないが、二輪レースにおいては選手個人の能力が全面に出て応援するのも選手を応援するというスタイルが主であり、野球ではチーム競技故に選手を応援するというよりもチームを応援するというスタイルが主であるために、選手の移籍に対する観客感情が変わってきているのかも知れない。
 となると、チーム競技である野球には現在のFA制度自体がなじまないのか?とも言う事が出来る。FA制度による戦力の偏向が生じると、競技としての面白さが欠けるのでは?と思えるが、FA制度自体は選手の権利であり、それはそれで必要なようにも思う。

 現在の単純な一軍在籍日数というのもシンプルで良いかも知れないが、所定の成績を残したら短期的な移籍もOKとして選手の流動性を高めるのもアリのように思うし、移籍選手の在籍期間を制限するのも流動性を高めるという目から見るとアリのようも思う。移籍先のプロテクト枠を狭くするのも有効だろう。

 個人的には、FA制度というのは選手の権利であり大切だと思うけど、その制度によってプロスポーツとしての興奮が失われたり、偏ったりするような制度ではNGだと思う。
 もう少し、選手流動の活性化が行われ、スポーツ自体が面白さを増すような制度になればと思うところである。

 それにしても、最近のプロ野球は面白く無くなったなぁってのが素直な感想である。それに較べると、F1とかMotoGPとかは20年前から今に至るまで、ずっと楽しい。これって、単純に、スポーツの種別による違いか?って考えると、世間一般でいう人気の凋落傾向を踏まえて考えると、FA制度、ドラフト制度といった制度改革がスポーツとしての面白さに結びついていない事が原因の一つなのかなぁ?と思う所である。

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世代による価値観の違い

 最近はテレビでもモラル云々、若者の価値観云々を取り上げた番組を見かける事が多い。しかし、どうにも腑に落ちないのは、殆どの番組の図式で、若者=低モラル、高齢者=善人っていう型がデフォルト化している点である。

 前にも述べたが、個人的には、高齢者世代程、質が悪いと思うのは言い過ぎだろうか?殆どの高齢者は、自分の尺度のみで周囲を判断し、時代から遅れた部分では、周囲の判断を無視した上で自分の都合で善人ぶるように見える。

 世話好きの町内副会長の老人だが、先日、狭い団地の道を車で逆走気味に暴走したネタを記事にしたけど、やっぱり、秋祭りでも違和感のある光景を目の当たりにした。

 その光景は、祭りを練り歩く子供の集団の後を、何だか知らないが自分の自動車に乗ってゆっくりと併走しているでは無いか?
 そんなの見た事無いし、歩くのが疲れるなら集会所で待ってれば?って思ったところ。
 狭い団地を神輿が移動するのを後から車で来るってのは、何考えて居るんだ?っていうのが素直な感想である。

 揚げ句の果てには、その場違いに気付いたのかしらないが、全く他人の家の駐車場に車を入れては、知ったそうに誘導している・・・・・・こいつは多分、アホである。それでも、本人は、きっと町内のためにやっているんだから、OKとでも思っているんだろう。

 因みに、この老人は、自分の車を休日になると路上に朝から晩迄放置している。車庫法違反だろ?っていっても判らないだろうけど、、、、、

 これは、ただの一例だが、老人ほど信号守らないし、一時停止を守らない等々、少なくとも交通道徳については破綻状態である。破綻しているんだから出歩くなっていうのは言い過ぎだろうか?少なくとも公衆性は身に付けるべきである。

 勿論、俺らの公衆性も褒められたものでは無いが、老人のモラルと若者のモラルを見ると、救いようがあるのは若者の方だと思う。老人のそれは、誰も注意しないし、本人には罪の意識が無い。それでいて、集会等では名士を気取る。年取ると、名誉欲みたいなモノがあからさまに出るだけに、誰も文句を言いづらい。嫌な感じである。

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2007年12月 5日 (水)

Wii fit やっぱり出た。加圧トレも注目度アップ!

 今年の初めのサラリーマン川柳で、『脳トレを やるなら先に 脂肪トレ』って入選作にグッと来た旨をブログに書いたが、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2007/02/post_38bb.html

その『脂肪トレ』ってゲームが格好良い名前の『Wii fit』でやっぱり発売になった。

 最近迄、街の家電量販店では、DSは勿論、Wiiも品切れ状態だったけど、最近はWiiの方が現品在庫有りで売られており、売り場の前を通る度に買おうかな?と思いつつ、何時もスルーしていたが、今回のWii Fitの登場で、再度品薄になりそうだ。

 出来れば、脂肪トレって名前で発売して欲しかったけど、結構、消費者心理のツボを突いた良い商品戦略だと思う。

 実際、買うか?っていうと、微妙なところで、多分買わないだろう。

 ところで、ダイエット関連では、今注目を上げつつあるのが、『加圧トレーニング』ってトレーニング方法。先日のオヤジ番組で、あの20年前の学園祭女王の杉本彩さん御推薦って事で取り上げられていたけど、これが注目度急上昇中である。

 因みに、この加圧トレーニングっていうのは、腕の付け根、太股の付け根に拘束ベルトを巻いて血流を制限した状態で軽い運動を行う事で、身体を騙して?筋力強化を促進?させる物質の分泌を促進して効果的に筋肉を作り、代謝を高めるっていうのが売りなんだそうだ。
 しかし、血流制限を行うベルト拘束は、的確な指導が必要との説明で、ベルト拘束の補助具込みで考えると結構高価なセットとなる。

 血流を制限して運動する事で、血管が浮く様をテレビは紹介して、赤く毛細血管がうっ血する様を放映していたが、血流を制限して軽い運動を行うって事は、なんだろう?心拍数が上がらない状態でも血圧上昇が先行して起こるって事だろうか?
 逆に言うと、こういう運動をし続けると、心拍数が上げれない身体になるって事では無いだろうか?最低(平常時)心拍数自体は、こういうトレーニングでは下げる事は難しいので、最低心拍数はそのままに、年齢に応じてあげれる限界心拍数が低い身体を作るって事のように思うのは間違いなのだろうか?
 一般に最高心拍数は便宜的に220-年齢って事。仮に40歳なら220-40=180って事だが、これが160とかになるなら、その計算で用いる年齢が高齢化するって事のように思うのは気のせいか?

 このテレビでは、この加圧トレを30分やったら水道橋博士の肉体が一回りガッチリした様を映していたけど、30分での見た目の変化って言うと、筋肉が付いたのではなく、うっ血して腫れているだけでは?って思った所である。

 加圧トレーニングについて、もう少し考えて良否の判断は下すつもりだが、こういうモノが紹介されると多くの消費者が一気に押し寄せていくのだろう。

 でも、なんていうか身体を拘束して運動するってのは、身体に悪そうってイメージはある。なんか、無理があると思うのは考えすぎだろうか?

 今は、ダイエットというより身体能力強化って意味合いが多く、最高心拍数は高く保ちたいし、運動強度が60%前後という持続可能な領域で、如何に大きな出力が継続して取り出せるか?って事が大事であり、そういう観点から考えると、今一つ乗り気に慣れない。

 今、仮に自転車ならば平地で35km/h程度の速度を1~2時間程度は維持できるけど、その所要出力は200~300W位である。その出力は、自分の最高心拍数と持続時心拍数から運動強度は60%程度であり結構長時間維持できる。こういうバランスを保ち、更に高めるには、運動強度が同じなら更に大きな出力を取り出せるようになる事か、同じ出力なら運動強度が更に下げれる事が大事。そのためには、最高心拍数が高まるか、運動時における心拍数が低くならないと駄目であり、そういう観点から考えると、負荷と心拍数のバランスが悪い方に変化しそうな加圧トレっていうのは微妙である。

 まぁ、世の中には色んな情報が溢れている。どの情報を取り入れるか?は視聴者次第である。As you like!であり、その世界では自身の価値観をしっかり持つ事が大事である。

 この加圧トレとWii Fitのどちらかやるとすれば?多分、Wii Fitの方だなぁと思うところ。

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国際学力調査、結果、理数離れ

 経済協力開発機構が行った国際学力テスト『学習到達度調査』で日本人の子供の理科、数学離れが一段と顕著になったそうだ。

 学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から10位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下したとのこと。

 これに対する政治家としては、『ゆとり教育』の影響を認めるコメントだしたり、なんだか知らないが、省庁のプランでは指導要綱の見直しを前倒しするとかがニュースになっている。

 ホントにそういう問題か?っていうのが、正直な感想である。

 時間の多少、習う内容の早い遅いの問題では無いのでは?っていうのが正直な所。
 笑い話ではないが、例えば円周率πを昔は3.14、今は3と教える事を、さぞかし『ゆとり』とか馬鹿にしたり、小学校で台形の面積を教えないとか、中学で連立方程式を教えないとかの、教育指導内容についての論評が為されているが、本質はそんなところに無いだろう?っていうのが正直な意見である。

 昔の詰め込み教育で学力が高いか?っていうと、これまた怪しいのが現実である。日本人のオリジナリティーって側面から見ると、近代以前の日本人、或いは戦前教育を受けた日本人の方が遙かにクリエイティブな感を受けるし、発明品の数々も、そういった『昔』の人間の方が上手ではないだろうか?
 受験戦争世代は確かに詰め込まれているが、新たな価値を生み出す創造性があるか?っていうと、非常に怪しい。現代、企業の主力世代である40代前後の世代を見て、創造力豊かな奴が多いか?っていうと、チョット違うように思う。

 学力低下を嘆く前に、学力とは何か?何が必要な力か?を見定める事が出来ない連中が、今後の方針を議論している段階で日本の将来は真っ暗なように思うが如何なものだろうか?さっきの深夜のニュースでも、切り口は?というと、指導内容の簡素化からの揺り戻しに力点を置いた解説してたが、そんな論評しか言えないニュース記者の浅はかさを露呈しているだけのように感じる。

 勉強っていうのは、生きる力を身に付けるためであり、決して、学校での設問の解答を迅速に出す事が目的では無いのだが、そういう点で教える側の段階で既に間違っている。そんな教師側の価値観を鵜呑みにして輩出される社会人ってのは、たかがレベルが知れているように思う。例の自転車少年もそうだ。会社の上役管理職、役員にしてもそうだ。何をすべきか?これが無いし、何がベストか?という判断を下せない。上も下もだが、自分で答えを出す事が出来ない奴が多すぎである。

 勉強とは生きる力を身に付ける事であり、生きる力とは直面する問題を解決する事。解決するには、その方面の基本的な知識(知識とは先人の経験、歴史である)と未開の問題の解に近づくための論法を身に付けること。理系も文系も無いのである。どの系も、題材こそ違っても大きくは同じ流れに存在している。不要なモノは何一つ無いのだが、責めて何か一つの分野で、そういう未開の解を解決できる手法、能力を身に付ける事が重要だ。
 そうすれば、分野を越えて論理的な思考は活用できる筈である。

 学力低下を嘆くのではなく、本当に国際競争力を得るために必要な学力、それを養う教育とは何か?を考える方が大事ではないか?子供の年齢に応じた創造性と好奇心を引き出すには何が必要か?子供の理解できる範囲で学問の必要性を知らしめる事が欠けているのではないだろうか?恐らくは今の指導要項の基本を最初に作った人には、そういう志と計画があったはずだが、今、それを引き継いで教育行政に携わっている人の大部分には、そういう志が見えなくなっているのでは無いだろうか?指導内容の多少でゆとり云々を言っている段階で、役人や政治家の教育が必要な気がする。
 過去の塾経営の経験上、子供が自発的に好奇心探求活動を行うようにする事を最重要として指導してきたが、自発的探求活動を行わせるような教育っていうのは、過去の自分が受けた学校教育や周りのライバル塾の指導方針からも伺えないのが現実。

 ところで、最近はサイト、ブログともハードというか、生意気口調というか、辛口な文章が増えてきたように思うのだが、それもこれも、実は、ゆとり教育以前に、周りにたいして苛つきを覚える事が多いからである。苛つきってのは、『それは違うだろう!』『何してるの?』『その立場でそれは無いだろう!』って違和感を感じる事が多いからである。

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さよならレ・マイヨW

 なんと、我が愛車、オ・モイヨWWのベースモデル、レ・マイヨW(PCW-38)が廃盤なんだそうだ!流通在庫のみの販売で終了って事。

http://www.panabyc.co.jp/products/compact/pcw_a.html

 にあるように、店頭在庫のみみたいである。2007/08の段階で、2006年モデルからはリムがALEXのDR13からR390に変わり、フレームもエンド構造が昔のスプリングボックと同じタイプに変更されてマイチェンされていただけに、暫く作るのか?と思っており、それだけに、残念である。

 確かに、カタログ写真は格好悪いし、後継車のレ・マイヨMに力が入っている。
 でも、折り畳み+ドロップハンドルって構成の国産小径車として唯一の存在だっただけに残念である。
 パッと見はバイクフライデーのようなフレームワークで、デザイン的には結構良いと思うのだが、スペック上の魅力が最新の他車に較べると見劣りするのが受けなかったのだろうか?

 売れない理由を挙げると、

1.重い!純正で12.5kgは重い!
2.フレームが今時ハイテン鋼、アルミでもクロモリでも無い。パナ流にはALEXフレーム。
3.パーツ構成が古い。安い。
4.改造するにもフロントWが現実的には非常に困難。

 でも、良い点もある。

1.コラムが長くヘッド周りが頑丈。
2.折り畳むと結構コンパクトになる。
3.折り畳みの基本はサドルを下げて、フレームを折るだけ!超簡単!
4.折り畳みらしい最小構成のフレームワーク(←オーナーの贔屓目)
5.国産唯一のノーマルの20インチWO仕様。

 というところ。確かにスペックは劣るけど、スペックのネガは無視できるか、改造で対処可能なモノばかり。一方で良い点は、折り畳み構造、フレームワーク、コラム長といった後の改造が不可能な部分で他のモデルとは一線を画す。
 そういう点で、自分がロードモデルを買うつもりで選んだもの。実際、ネガティブポイントでの重量については乗って差異を感じる事が無いし、重いから遅いとは思わないので気にならない。材質は気にならない。寧ろ、ラグ構造にホッとする程。パーツは換えるんで関係ない。フロントWも不可能ではない。

 なんといっても、誰も乗っていないし、誰も同じ改造をしていないというオリジナリティがお気に入りであるが、何故に人気が無いのか?改造自体は大した事無いけど、簡単に出来ないから敬遠されているのだろうか?誰でも出来る改造は、しても楽しく無いと、工作者魂が叫んでる!?

 なんだかんだ言って、結構、珍しい、面白いモデルだと思うのだが、、、、、もしかしたら、パナの折り畳み、パンチ、ビーンズハウスの如く、DAHONのスポーツモデルをOEM化してレ・マイヨWの後継機をリリースするのだろうか?

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バイクの印象

 日曜日にスリッパV-maxを目撃した話を記事にしているが、それは本屋での話。
 何故、本屋に行ったのか?っていうと、漫画『キリン』の作者の描いた書き下ろしの漫画の題材がガンマだったため。別に興味も何にも無かったのだが、取引先で'88GSXR1100に乗る人が、『○○さん!今のRIDE6、ガンマが題材だよ?』って話をしてきたからだ。その際の解答は、興味無いって言っていたのだが、最近は夜中にローラー台を漕ぐ事が多く、結構暇なんで、その際の読書用って思いで、その本を思い浮かべたから買いに出掛けただけである。

 さて、内容は?というと、対象は今の40代ライダー狙いって感じ。でも、構成は、微妙である。
 確かに、スポーツバイクの歴史を辿るのは楽しい。攻めて走るのも楽しい。メンテも楽しい。そのために装備が重要ってのも判る。

 でも、バイクと色っぽいネーチャン、バイク=不良?ってイメージは果たして必要か?って思うと、チョット違うような気がする。
 この雑紙に限らないが、単車=暴走族、チョイ悪アイテム、アウトローって印象が強すぎだが、それも、業界や関連漫画を含めて、そういう価値観に載っかり過ぎって感じ。
 それ故に、単車に乗ってる人も、そういう悪の印象先行で、世紀末レザー系コスプレライダー、ハーレー風素肌+レザーのモーホー系コスプレが大過ぎである。

 単車は楽しい。楽しさは人それぞれだが、少なくとも、いろんな要素を不良とか悪と結び付けるような価値観は何故か?って気持ちの方が多い。

 何故に攻撃的か?何故に威圧的か?何故に下着のネーチャンが必要か?この辺のよく判らない方程式が、どちらかというと不愉快である。

 単車=スポーツ。それも、今のモータースポーツ的に狭いターゲットのマニアックさよりも、テニス、スキー的な間口の広い好意的な趣味的スポーツのように変化して欲しいところである。

 今の単車イメージは、伝統的に暴走族、不良って負のイメージが主体であり、最近は、チョイ悪アイテム、悪に憧れたコスプレアイテム、チョット頭悪そう系アイテムっていう、伝統的な悪印象に軸足を置いたイメージばかりである。

 なんか、嫌である。

 ところで、話が戻るけど、RIDE6のガンマネタ漫画について、判らないではないが、あんなに早くは壊れない。ガンマは結構丈夫である。全開10秒もたないなんて整備不良だろう。速く走りたいという気持ちは常々持っているって部分では共感できる。同じ世界は併走し続けないと見れないって部分も頷ける。でも、ガンマはそんなにヤワでない。
 実際の所、雑紙やネットの話程に、最新のバイクが追いつけない程に素晴らしい!ガンマ如きでは、手も足も出ない!って状況は、見た事がないだけに何とも言えない。身の回りが下手くそ過ぎるのか知らないけど、ギンギンに攻め走る最新モデルを見た事がないのが正直な所。本当に最新モデルは、乗り手込みで滅茶苦茶速いのか?っていうと、漫画の描き手の妄想では?と思ってしまう。

 他人はともかく、自分が走るエリアでは、ガンマは勿論だが、SVでもCX改でもアクセル全開で速度域を高めて、怖いからこれ以上は出せないとは思っても、動力性能自体が不足と思った事はない。よって、ガンマ以上に能力的に上回る単車が有ったとしても、タダの直線を度胸試しで走る趣味が無いので、必要と思えないのが素直な気分である。

 ガンマ500はおろか、ガンマ200でさえも十分である。勿論、SV、CX改でも十分過ぎるのである。持っている単車で言えば、AV50、C200、マグナム80辺りでは単車の能力不足気味って時もあるけど、AR125Sになると、まぁ違和感感じないし、グースでもそう。それ以上のバイクは動力性能の余裕が有りすぎである。ってか、そんな道しか趣味でないのが自分のスタイル。多分、80年代のレプリカ小僧全体がそういう道が棲息域だと思う。

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2007年12月 4日 (火)

インフルエンザ最速流行

 何でも、今年のインフルエンザは過去20年で最も早い流行なんだそうだ。
 そんな兆しを我が家でも感じていたせいか、家族の予防接種を早めに受けようと話をしていたのだが、不幸にも10月下旬に差し掛かる頃、下の子が水疱瘡に感染し、上の子も同時に感染してしまった。水疱瘡の完治が文化の日の頃だったけど、予防接種は最低でも2週間は受けれないといことで、家族でインフルエンザの予防接種を受けたのが11月も下旬の頃になってしまった。
 因みに、予防接種によるワクチンが効果を発揮し始めるのが、接種後2週間らしいので12月の半ば以降でないと効果は期待出来ない訳だ。更には、幼稚園児は二回受けないといけないので、次は12月エンドである。
 インフルエンザ流行レベルマップによると隣接の岡山では注意報が発令されている。広島に流行がやってくる前に、ワクチン有効状態になって欲しいモノである。

 今年は乳児が居るんで、周りはなるべく病気にならないようにしないといけない。泣くだけしか出来ない乳児が重病になると本当にキツイ。

 なんとか、無事に冬を乗り切りたいものである。

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二輪車は奥深い

 さて、自分は結構改造好きである。単車も自転車もそうである。
 ところで、改造といっても色んな改造がある。パワー中心の改造、作動性改善のための改造~操縦性の変更迄様々である。

 パワー中心なら、単車では、エンジン載せ替え、ボアアップ、キャブ、カム、マフラー、チャンバー交換等々、自転車では駆動系ギアレシオの見直しと体力アップってところか?作動性改善ってテーマなら、軸受の抵抗軽減、ダンパー類稼働部品の摺動抵抗低減ってのがそうである。
 ところが操縦性の変更っていうと、これは一番難しい気がする。何を以て良しとするか?変更が改良になっているか否か?

 大昔に遡ると、RZ350Rの改造で、エンジン周りの改造では別段何か神経質になったか?というと、何も考えていなかったけど、何と言っても、当時1985年頃、殆どの人が行っていなかった足回りのスワップは結構怖い思いもしたし、この手の改造の難しさを肌で感じたモノである。当時は16inchの前輪のモデルが流行していた事もあり、何も考えず(とは言っても当時なりに考えて)当時のヤマハ系16inchの足回りを移植した。勿論、キャスター、トレールは移植元の単車の数値に近づけるべく、三つ又近辺のワンオフパーツを何通りか作り、乗っては確認の作業を繰り返したのであるが、当時の感想として、真っ直ぐの道以外の峠道では、改造前と同じように身を委ねた走りってのは結局出来ずじまいだった。
 その理由は、自分でやったスケルトン変更の操縦性の過敏さ、恐さを感じた事と、それをやることで単車が信用出来なくなった事であり、同時に、設計者や開発者、テストライダーの方々の凄さを思い知ったのでもある。

 それ以来、関連性の全く無い車両間での足回りのスワップは行っていない。やるとすれば、作動性の良いサスペンションへの交換、バネレートの見直し、ダンパーオイルの番手の見直し程度である。
 自転車の場合は、凝っていた時代が中学高校時代であり、スケルトンを変更するって考えは無いので、特に何も考えていない。

 しかし、最近は西DAHONという変な自転車を改造するにあたり、自転車も単車同様に二輪車だなぁ?と思い、DAHONという小径車故の癖を解消するには?という考えで、自転車の操縦性について考える事が多くなってきた。

 自転車や単車のような二輪車では、安定性を決定づける要素に、キャスター、トレール、オフセットという3つの要素がフロント周りに隠れている。簡単に各々の意味を言うと、

・キャスター
 フォークの傾きである。キャスターが大きくなるほどにフォークは寝る。
・トレール
 フォーク旋回軸を延長した地面との交点とタイヤと地面の接点間の距離
・オフセット
 トレール量を調節するためのフォーク旋回軸中心とホイール回転軸中心の距離

 である。
 難しい話は省略して、キャスターが大きい(フォークが寝る)程、トレール量が増える。ホイール直径が大きい程、トレール量が増える。トレール量が増える程直進性が高まる。トレール量を大きくする事で進行する力で前輪を引っ張る力が生まれ直進性を保っている訳であり、この距離が安定性に大きく作用している。そして、フォークを寝かせたり、ホイールサイズを大きくしたりしてトレール量が増えすぎる弊害を緩和するためにオフセットを与える。オフセットを与えると、タイヤと地面の接点が前方に移動し、結果的にフォーク旋回軸延長線と地面の交点迄の距離、即ちトレールが減少する。
 因みに、このような動きから旋回に到る過程では、旋回軸が傾いた時に、車体全体の旋回速度の大小はホイールベースの長短で決まる。ホイールベースが短いと、小さな操舵角でも向きが大きく変わるし、ホイールベースが長いと小さな操舵角では向きの変わりだしが緩慢となる。操舵角の過敏さによる車体全体の挙動の安定性を確保する、或いは前後の重量バランスを換えて、内力的な旋回トルク値を調整するためにホイールベースを選ぶことで対処できる。

 ところで、自転車と単車の直進性を考えると一番大きく違うのは、単車の場合は、ステアリングに乗り手が積極的に内力としてトルクを掛ける事が無いが、自転車の場合は、その限りではない。ペダリングのみならず、下りのコーナーリングでも単車と自転車は全く異質なモノであり、結果、ハンドルグリップ部には乗り手によるトルクが作用してしまうものでは無いだろうか?

 スケルトンの生む素直な直進性や操縦性に対して、乗り手からの内力的なトルクが大きく影響するのが自転車と単車の違いのように思う。この内力的なトルクが車体の持つ安定性への影響度が大きい程、乗りにくい自転車になる。車体の生む安定性は、先にも述べたがトレール量で決まる。この距離が或る程度無ければ安定しないが、その安定する効果(復元力、センタリング力)をうち消すような大きなハンドルの旋回トルクを与えるような構造は、操縦性を悪化させる。(幅広いハンドル幅で引いて運転すると揺れるというだけの話。)

 自転車の場合、ハンドル幅は肩幅であるが、ステムの突き出しにより旋回トルクは実際のハンドル幅以上の値となる。世の中で販売されているステム長を見ると、概ね100mm前後のモノが多いけど、これは、このステムを用いる自転車にとってバランスを崩さない黄金値のような値であろう。(正確な計算を行えば、フルサイズの自転車で良いとされる操縦性を得るには100mm前後となる筈で、普及して一般化した値には意味があるのは道理)
 つまり、700Cフルサイズで適度なオフセット(フォークの曲がり)を持つ自転車で、直進性、操縦性が調和した状態を作るには、ステム長として100mm程度が適切って事でもある。

 今回、西DAHONでステムの突き出し=0mmとしたのだが、これで随分乗り易くなったのが、この記事の発端だが、20インチの小径車では、元々700Cサイズよりトレール量が少ないために直進性自体は劣っている。直進時における復元トルク値自体がフルサイズの自転車より小さい訳であり、この小さな復元トルクを如何に阻害させないか?が乗りやすさの鍵ではないか?と言う事である。
 以前の突き出し60mm仕様の西DAHON、オ・モイヨWWの90mm突き出し仕様、試乗したレ・マイヨM、ルイガノMV3Bで感じたのは、グリップに力が作用した状態でのふらつき感だが、これは乗り手の内力による旋回トルクが車体の外力から直進性を回復させる復元トルク以上となっているかのようなふらつきを感じたけど、オフセットゼロ仕様西DAHONとかスピママでは、そういうふらつきは皆無である。引きを掛けまくってもふらつきが増幅せず収束傾向に変化する。

 この傾向は、色んな自転車に乗って、色んな改造を行って再発見したモノだが、結構興味深い挙動である。

 そして、こういう知識(違うかも知れないが、、、)で、既存の自転車を見ると、小径車で長いステム突き出し+グリップが先に延びたハンドルを持つモノってのは、本気で走ると相当に怖そうである。っていうか、仮想ハンドル幅が広く大きな旋回トルクが得られる構成ってのは、もっと低い速度域で路面からの外乱をゆるりと受け流すための構成と考えた方が自然かもしれない。パーツの見た目に惑わされてガンガン行くのでは無く、構成上はハンドル幅が広い低速自転車という事である訳で、ポタリングを楽しむための存在ってこと。小径車故の過敏な操縦性をステアリング保持力で安定性を出すってのが殆どの小径車のステム回りの構成のように見えるが、場合によっては諸刃の剣のようにもなりそう。
 つまり、ロードをミニチュアで造ったホビーマシンって事なんだろうか?そういう目で見ると、走りの小径!って売りの小径車を見て、踏めそう!って思える車種は案外少ない気もする。以前にも書いたけど、この辺がモールトンとかタイレルの価値なのかもしれない。それ以外の小径車は流行モノ、際物的色彩が強い。
 少なくとも小径車で速度云々を言うならば、安定した車体が必須だが、トレール量を確保するのが必須であり、キャスター角を確保するってのが必須だが、それでハンドリングに軽快感を出すためにオフセットを確保すると前方にかなり伸びたフォーク周りになりかねない。そうなると、強度、剛性的に厳しいのかもしれない。ならば、キャスター角は程々に、オフセットも程々にという構成だが、トレール量が少ないために、ステム長も短く無いと成立しないかもしれない。窮屈なフォーク周りを承知で安定性を得るためには、後輪を後方に追いやるようなホイールベースが必須となる。
 こういうスタイルの小径車ってのは、パッと見渡す限り、モールトン以外にはあんまり居ない気もする。

 因みに、今回の西DAHONの改造では、前後の重量配分を換えるべく、ポジションを後に置いて、その方法としては駆動時、ダウンヒル時にハンドル周りに作用する旋回トルクを減らすべくステムの突き出しを限りなく無くし(つまりはゼロにして)、乗車段階でのハンドルへの重量配分を減らす事を最大の目的に50mmほどアップライトにしたという事。
 一応、理屈としては先の持論に基づいた変更である。

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職場ストレス

 最近、会社で病に倒れる人が多い。潰瘍、癌、腫瘍・・・・・といった病である。多くは、管理職の方々である。この場合、上役からの理不尽な業務命令ストレスが原因ってのも多い。
しかし、世間一般では、パワーハラスメントっていうことで職場の上下関係で言い返す事が出来ない下の立場の人間がストレスを溜めて鬱病に陥ったりするって話しもテレビ等でよく見る。

 どっちもストレスである。しかし、ストレスを受ける側が、被害妄想では無いが自分の事を棚に上げて騒ぎすぎていないか?っていうと、現場における個々の状況が見えないだけに何とも言えない。

 自分は、基本は上役、経営者からの理不尽な命令は一切受け付けないし、奴らが間違っていたら、何されようが説明に徹するんで、そういった系のストレスは受けない。
仮に、理不尽な虐めのような処遇を受けると、10倍返しをモットーにしているんで、最悪、辞職に追い込む迄やり返すんで、何も怖くないし、何の問題もないし、今は何の被害もない。
 しかし、下の立場に対しては、当然、行うべき事を要求している。下の人間は、己の駄目さ加減に自己反省する奴もいるけど、反省ばかりで改善が全く見られずに、陰に陰に入り込んでいく奴もいる。対象者自体は、現実逃避で、心の底では刺し殺したいと思っているかも知れないが、同じ事、基本的な事を何百何千回繰り返しても何の変化も見られない現実を目の当たりにすると、こっちにストレスが溜まりかねない。
 気を付けなければならない。そういうバカの御陰でこっちが身体を壊したら身も蓋もない。

 基本は個人主義である。出来る奴は伸していけばよい!出来ない奴は、口は悪いが消え失せろっていうのが持論であるが、組織では、そうも言っておれない。そういう奴も背負うモノが有る。基本は、業務命令以前の精神的未熟さが原因で出来ない奴を出来るようにしてやる気は無い。キツイ話だが、咄嗟の状況で嘘を付く奴とか、パニックになる奴とか、小中学生の知識欠如でモノが見えないのは、それは周りがフォローするとか以前の問題である。本人が己の欠陥に気付いていながら変わろうとしないなら、それもまた人生か?と思うし、その変わる気持ちっていうのは、自分で気付くべきだし、それが出来ずにストレスを溜めたとしても、それは、まぁ、仕方ないかなぁ?って思っている。

 でも、様々なレベルで人が居るのが社会であり組織である。全員が同じでは、面白くない。全員が同じ筈ではない。人間や企業、組織に実力の差が有るんなら、本当は、それに応じて手に入れる財、生活にも、それに見合った差が有るべきである。最近は格差是正って言葉を良く聞くけど、格差って何?って思う事が多い。

 労働、能力と財、生活の関係は、或る意味、比例的な関係でなければ平等とは言えない。何もせずに、何かを得るってのはNGだ。これは、権利と義務の原則論にも通ずると思う。この辺の甘さが一人歩きして善人面したコメントを聞くと反吐が出る。

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考えられない!?ライダー

 日曜日にSVに乗って本屋に行ったんだが、そこで本屋で買い物を済ませた後、単車に戻ると横にV-maxが停めてあった。ノーマルの普通のバイクだが、特に意識しなかったのだが、グラブを装着してメット被って単車に跨って後方確認したところで、このオーナーが戻ってきた。
 最初は、なんの感心も持たず、第一印象で『アホっぽいオッサン』って程度だったんだが、自分の単車を出して何気なくV-maxを見ると、、、、、、

なんと、ダボダボの寝間着ルックに室内用の布のスリッパ、100円ショップで売ってるような奴、それ履いて、あご紐付けずにジェットヘル、、、、、俺、初めて見た。室内スリッパで単車に乗る奴、、、、、

 改めて思い出すと、年齢的には30代でしまりのない緩んだ体型で、表情的にはチョビ髭付いたチョイ悪オヤジを意識しているのか?実際の発進時の風景はあごが前に出た肩に力が入った乗り方で、恐らく下手くそ、恐らくV-maxの本当のパワーも自分のモノに出来ない奴だと思うけど、、、、あういうのはライダーとは思いたく無いというのが正直な感想。
 でも、実際には格好良いの価値観が違うために単純に格好悪いとは言い切れないけど、スクーター、アメリカンでふんぞり返って手足を伸ばせるだけ伸ばしたスタイル、レザーはレザーでもなんか車体に巻き込まれそうなヒダヒダをブランブランさせてるライダー、ジェットヘル+サングラス+ジーンズ、革ジャンでウエスタンブーツで踵をステップに乗せたがに股ライダー、最新のスーパースポーツに何だか完全な普段着+素手にひも付きスニーカーってスタイルも、自分の尺度から見ると??????????????である。あーゆーのは、アリなのだろうか?

 古い人間かもしれないが、単車は怖い乗り物である。ブーツ、グラブは専用品が必須だと思う。プロテクター入りの革パン、革ジャン迄必要か?っていうと、街乗りでは長袖、長ズボンでOKと思うけど、峠に行ったり、ツーリングでは必須。

 あういうヘナチョコライダーが居る反面、このブログのスポーツバイク記事への注目度の高さもある。恐らくは125とか250のスポーツバイクに関心がある人は、例に挙げたスリッパV-max系とは違うと思うけど、あんなのは、単車のキレル様な運動性能の先にある快感と恐さは知らないんだと思う。快感があるが故に、恐さを感じない。しかし、冷静になると装備が重要、これが大事な考えである。

 装備に気を遣うライダーは、運動性能を満喫するリスクを心得る。そうまでして、その先の快感に身を委ねたいだけである。少なくとも、俺はそうである。

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2007年12月 3日 (月)

小径車乗り較べ

 この記事、実は公開3日前の記事で、先の記事と書いたタイムラグが24時間程度しか離れていない。内容が思いっきり重複かも?

 自分は西DAHON(一寸前仕様+今仕様)、スピママ、オ・モイヨWWという改造小径車を三台乗っている。最近、身近(ショップ関連)で小径車が増えてきた。

 そんな環境で、購入された小径車にも少々乗せて頂いた。乗った自転車は、レ・マイヨM、ルイガノのMV3Bってモデルである。偶然にも最近流行のスポーツタイプの451サイズ+ドロップorブルホンの小径である。
 自分が乗ったのは、自分の小径3(+1)台+2台の5(+1)台である。
 今回、乗せてもらった小径車は折り畳みではなくアルミフレームで軽量な自転車だが、乗った感じは、オ・モイヨWWに極めて近い。考えてみれば、ホイールベースも1000mm以下だし、ホイールサイズも451WO仕様、トップ長+ステム長の長さも殆ど同じで、ギア比も同じようなもの。違う訳無いのである。確かに、微妙な重さ、折り畳み可否による軋みの差はあるけど、普通に乗る範囲では似たようなモノである。

 で、思ったのは、このレ・マイヨM、オ・モイヨWW、MV3Bは何れもダンシングすると、相当に車体が振られる。車体の内力からの挙動安定性に対しては非常に神経質である。
 そして、ダンシングでの振れ具合っていうのは、一寸前仕様の西DAHONでも見られた挙動である。

 その一方で、スピママと今仕様の西DAHONでは、ダンシング時における振れは殆ど気にならない。この違いって何?って車体を見比べると、単純にステムの付きだしの長短による影響っぽい。特に、ドロップ、ブルホーンタイプのハンドル+長いステム長っていうのは、ヘッド中心からグリップ位置迄の距離は相当に長くなっており、グリップを引く際の力は車体を揺らしそうである。タダでなくとも、小径の場合、ホイールセンターからのステム長が長いけど、それに加えて蛇角センターからの距離が遠くなるような長いステムの場合は、グリップに掛ける力が蛇角を与える力となるためだろうか?今仕様の西DAHON、これはステム突き出し量はゼロだが、少なくともハンドルショルダー部を引くようなペダリングで車体が乱れる事は皆無だ。

 ホイールサイズが小径の場合、内力による蛇角の乱れが大きい上に、外力に対しても元々直進安定性が低くなる。そして、その不安定さの解消の一つの手立てとしてホイールベースを伸ばすって方法があるけど、小径車のホイールベースがあんまり長く無いのは何故だろうか?長くしすぎると小さくなくなるし、仮想トップ長が長く為りすぎるからか?キャスター寝かせれば良いと思うんだけど、なかなかそういうスケルトンは見掛けない。
 小径車で1100mmを越えてキャスターが寝てるバイクは、アレックスモールトン、タイレル、2003年式以前のDAHONくらいしか見当たらない。この辺りのモデルはタイヤが小さいだけで車体の大きさはフルサイズ並のデカサである。

 それにしても、小径車も奥が深い。小径車=可愛い手軽って考え方でなく、小径車でしっかり踏めて安定させてって形も可能なのだろうか?モールトンとかタイレルとか見ていると、コンポーネントスペック的に似た小径とはチョット違う気もする。

 因みに、DAHONは2002年式と2005年式以降では、ホイールの451化をした時にブレーキキャリパーの適合性に差がある。古いDAHONではショートリーチで丁度良いけど、新しいのはラージでないとNGだ。つまり、古いDAHONの方がフォーク長が短く、車高(重心)が低いのである。

 こんな事が見えてくると、更に古いDAHONが良いと思ってしまうんだが、実際のところ小径車を前傾姿勢で乗るのは、最近は?????な気分の方が多い。バリバリの最新ロードも吟線に触れない。今、舗装路を気兼ねなく乗るなら?って思いで、一番良いと思うのは、最近のフラバーロード、或いは、我が家の531ロードのようなビンテージロードかな?って思うところ。

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血圧の測り方

 定期健康診断以来、会社に備え付けの血圧計『健太郎アドバンス』で血圧を測っている。

 血圧計の推奨される使い方をまとめると、

1.測定前5分は安静にしておく。
2.測定前30分にコーヒーのようなカフェイン摂取は控える。
3.血圧計の前に座り背筋を軽く伸ばし、腰のベルトを緩めリラックスする。
4.測定中は腕を動かさない。
5.測定は3回程度続けて行う。
6.続けて測定する場合、カフの圧迫を解放するために、カフはいちど外し呼吸を整える。

って事。
この内、定期健康診断では、1.の項目については測定前に階段を三回程駆け上がったのがNGで、3.の腰のベルトにデジカメホルダー、携帯ホルダーをぶら下げてベルトをきつく絞ったまま測定していた。
この2点がNGだった。

そして、先週からの注意点としては、
測定を三回続けて、中央値を日記コメントに残しているが、更に注意しているのは、続けて測定といっても、カフを付けたまま続けて測定は駄目である。うっ血状態で圧迫されているので、血圧は圧迫したままだと下がり気味に変化するからだ。
続けて測定する際には、測定後はカフから腕を抜いてリラックス&腕を少し動かして、呼吸を整えた後に測定する事が大事である。

血圧の測定一つでも結構意識してやらないと、数値がかなり上下する。

因みに、カフってのは腕に巻く圧迫帯のこと。

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スポーツバイクブーム、来るか?

 或る意味、超マニアックなこのブログだが、このブログで最も多く読まれているのは、ダイエットネタ、自転車ネタでは無いのが興味深い。このブログは、基本的にダイエットブログで、それ中心で記事は構成されているだけに面白いものである。特に、最近は自転車ブーム、自転車ブームの中でもインターネットを操る層に限って言えば、ロード、ピスト、小径が大きな注目を集めている筈だし、当サイトには、それ系の記事は結構多くあるはずだが、現実に注目を浴びているのは、

1.Kawasaki Ninja 250R
2.YAMAHA YZF-R125

が、海外で発表されたよ!ってニュースを記事にしたモノが注目度が高い様子である。
過去には、バイクネタで言えば、ZX-10R、ZZR1400、GSX1300R関連を記事にしたけど、殆ど関心を集めずスルーされていたのに比較すると対照的である。

 いよいよ、本当に操る楽しさに関心が行き始めたのだろうか?ならば、大歓迎である。
自身、この一年を振り返ると、自転車に軸足が傾きすぎていたけど、11月以降は努めて単車に乗っている。乗って行くところは、山岳ワインディング、そう、峠である。峠を走って思うのは、大パワーは不要であるってこと。そこそこのパワーで十分以上楽しめるってこと。そんな単車の楽しさの原点を再発見したのだが、そんな楽しさに関心を持つ人が増えているって事か?
 或いは、手軽に気分だけってノリで、格好いい下駄が欲しいって事か?

 上記二台が関心を集める理由はしらないけど、ライディングプレジャーの追求って要素に関心が集まっているなら嬉しいところだ。

 しかし、仮にそうならば、この関心を持つ世代ってのは、予想するに30代後半以上の高齢者層では無いだろうか?若年スペオタ層にはスペックに魅力を感じないし、ライディングプレジャーへの妄想が掻き立てられる層ってのは、間違いなく、そういうプレジャーを過去に経験した世代。つまりは、レプリカ世代以外が考えれない。レプリカ世代が当時の楽しさを再現するに必要なパートナーは現実的な日常で使い切れるパワーを持つパッケージ。
 今、巷で流行の大型輸入バイクもあるけど、あれ系は、レプリカ世代より上の団塊世代か、レプリカ世代以降のSR、スティード、ビクスク時代に過ごした連中がブームの牽引だと思う。レプリカ世代は一時期最近の600/1000のスーパースポーツモデルに関心を持っていたようだけど、その盆栽性に手を焼いて、現実の世界に目を向け始めたのだろうか?

 そうならば、実に楽しみである。自分的には、そういう人達が戻ってくるのも楽しい。自負としては、一度下りた連中と、乗り続けた自分が対比できるという面でも、鼻くそみたいな優越感も感じる事ができる。

 レプリカ世代を過ごしたオッサンどもよ!もう一度、こっちの世界に来いよ!遊んでやるぜ!

そんな気持ちで一杯である。

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2007年12月 2日 (日)

406HEも良いかなぁ、、、。

 最近、DAHON折り畳み自転車愛好家の間で流行っている?のは、フロントメカ増設のためのディレーラー台座の装着(輸入、自作・・・)と、ホイールの大径化(406HEから451WO)、なんちゃってアヘッド化が感心が高いようである。
 こんな意見に疑問を持つのも、自分自身がWO化+フロントW化+インテゴ化+なんちゃってアヘッド化をやって居ながら変な話だが、最近は、そんな事はしない方が良いかなぁ?果てには、小径車なら大きくても406HEサイズに留めておく方が良いかなぁ?と思い始めている。

 実際、西DAHONではなんちゃってアヘッドは辞めて、通常(とはいっても、ステムがポストに完全に差し込まれる程度の範囲だが、ステム側は若干カットしている)のテレスコープ式折り畳みステムを用いている。そして、実際にこの状態で乗るとアップライトな姿勢かつ工具レスで完全折り畳み可能なんで使い勝手は遙かに向上している。

 そして今、フロントWも、451WO化も必要かなぁ?更に思い始めている。
 フロントWにする理由ってのは、大きくはカセットのギアレシオをクロウス化するのが目的だが、小径折り畳みでクロウスレシオが必要か?っていうと、微妙である。
 使い方自体は人によるけど、小径車=ちょこまか走る!って印象であり、川土手とか堤防道路を疾走するのとは少し違うように思う。寧ろ、急なアップダウンとストップアンドゴーの多い知らない道を走る場合の方が多いように思う。

 そういう状況では、大きく変化する走行状態に対しては、ギア比も一段で大きく変化する方が使いやすいのは間違い無い。更には、定常走行を考えなければ、異様に高いギア比も不要であり、そこそこの重さをトップにして、ワイドに刻めば色んな場所が走れるのでは?って思う。
 西DAHONにはFメカが付けてあるけど、小径車でチェーンラインの厳しい自転車はカセットが多段であるほどに、チェーンの捻れが大きくなりFメカのガイドプレートと干渉する場合が増える。そうなると、Fメカの位置を乗ってる内に調整する必要が出てくる訳であり、そういう行為自体が煩わしいとも感じている。幸い、2003年以前のDAHONではリアアクスル位置を後方に移動出来るので随分と楽になるけど、最近の小径車はどれも厳しそう。リアセンターの距離がどうなっているか知らないけど、西DAHONのホイールベースで1130mmあれば楽だけど、980mm程度のオ・モイヨWWではチェーンとFメカガイドの干渉は不可避っぽい。最近の小径の殆どはホイールベース1000mm程度。大丈夫か?って気がする。
 その点、フロントシングルのスピママはリアカセットのどのポジションにあってもFメカのガイドとの干渉は皆無(Fメカが無いから当然)であり、異音は全く発生しない。変速はRメカオンリーで一発で変速OKである。

 という訳で、小径車にフロントメカは必要か?っていうと、あればあったで煩わしい。特に、最も使う状況では邪魔である場合の方が多いって事になる。最も使う状況では、鬼のようなハイギヤードレシオもクロウスレシオも不要である。
 そうなると、そこそこのトップギアからワイドに刻んだレシオっていうのがベストのように感じる。

 更に、ホイールサイズの大径化だが、今昼ポタで大活躍のスピママは市街地走行主体だが、この状況でホイールサイズが小さい事によるデメリットは感じた事が無い。寧ろ、小径故の畳んだ時の小ささの方がメリットが大きい。タイヤの選択肢も406HEの方が広いし、451に敢えてする必要もないかなぁ?と思う。
 まぁ、ホイールサイズについては、使い手次第だけど、街乗り、収納性って考えると、小径車ならば406サイズの方が良いと思う。
 西DAHONやオ・モイヨWWのように奇形的な小径車を作るならば451WOサイズも有りかもしれないが、奇形は奇形であり王道、正統派ではない。だから少数派なんである。
 今更ながら思う事は、小径車買うなら406HEかなぁ?って事である。小径車はホイールが小さいから小径車であり、背伸びして大径に色気を持つなら、最初からフルサイズの方が良いのは間違いない。小径車ならではの世界は小径のホイールを活かす、受け入れるって考えの方が自然と感じる今日この頃である。

 こういう改造のトレンドを否定するような意見を、改造してない人が書くとひがみっぽくなるけど、実際、自分はレ・マイヨW、DAHONのスピード系モデルのフロントW化も451化もアヘッド化もやっている。改造して、暫く使った上での感想である。使う際には、通常の406HEモデルも使っており、感想としては比較に基づいた感想である。
 そういう結論として、小径車なら406+ワイドレシオの方がらしいって結論である。

 ところで、街乗り小径車としてはスピママがあるけれど、最近は自分の持っていないジャンルとして、折り畳めない小径車で、小径車らしいモデルが欲しい。そのモデルは、前から言ってるけど、やっぱりDAHONの古いハンマーヘッドである。これ、結構気になる存在だ。
 このモデルのハンマーヘッド5.0って安いモデルが興味ある。7.0ならフロントシングル化してリアをワイドレシオ化して乗りたい。因みに、今年のマコや来年以降のハンマーヘッド8.0ってモデルはスパルタン過ぎて興味持てない。あそこまでするなら、普通にフルサイズのロードかピストが良い。最新のロードが気張りすぎってなら、ビンテージ風のクロモリロードの方が遙かに良い。

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2007年12月 1日 (土)

健康は目的か?手段か?

 今年も師走を迎え、残すところ一ヶ月である。
 今年は子供も生まれ、自分は虫垂炎で手術したり、大腸~直腸の精密検査をしたりと結構色んな事があった。
 趣味においても、自転車、単車と楽しく過ごせたと思う。

 楽しく過ごせた一番大きな理由ってのは、健康な身体、趣味を楽しむに十分な身体能力があっての事だ。

 さて、勤務先では経営者は従業員の健康を願っており、従業員には冷水摩擦、ラジオ体操を積極的に薦めているが、そうやって得る健康ってのは何のためか?っていうと、経営者と自分では大きく異なっているのでは?って思う事が多い。

 企業経営者が願う、従業員の健康っていうのは、根底には高い出勤率による生産性の確保っていうのと、健康でなければ労働して社会に貢献出来ないためっていうのが大きな理由だと思うが、自分は、そういう考えとは完全に一致しているとは言い難い。
 それとも、健康に生きるって事自体を生きる目的として説いているのかは定かではないが、、、、、言える事は健康な身体が大事であるっていう意見が一致している事だ。

 私にとって健康とは、人が自分らしさを発揮して自分の好きな事をやるために必要な要素の一つでは無いか?と言う事である。好きな事をやるためには財が必要であり、財をなすために労働する。そして労働して財を得るには、社会にとって新たな価値を与える事、価値あるものを供給する事等を行うってのでは無いだろうか?

 分かりにくくなったけど、健康っていうのは、人が人らしく活動するための必要条件であり、そのためには、人にとって人らしく活動する事が必須で、その事と時間、経費が必要だと言う事だ。つまり健康であるためには、健康を使うように個人が趣味を持ち、それに時間を費やせる時間的余裕が必要ではないか?と思っている。人が人らしく趣味に接する姿=楽しい姿であり、その姿を子に見せる事が、本当の教育では無いだろうか?

 そう考えると、現代社会において多くの人が趣味を諦め、余暇に費やす時間さえ取れないという社会構造が、健康の必要性を個人に伝えにくくしているのでは?と思う。そういう余裕の無い社会構造は、過度な競争と拝金志向から生まれているように見える。

 今、生活習慣病の予防を国家を揚げて取り組んでいるし、企業に対しては生活習慣病該当者数によってはペナルティーを与える施策も検討されている。いくら健康が大事だと言っても、個人にとって健康でありたいという願望を健康な時から持たせるには、個人のライフスタイルがどうあるべきか?を提言してやらなければ気付きにくいのでは無いだろうか?
 人々にとって本当にやりたい事が生活の中で実践できるようなゆとりが取れるリズムを社会全体で作らなければ、そのゆとりの中で、人がしたい事をやる(=趣味に生きる)ことには繋がらない。
 健康でありたい!したい事をするには健康でなけれなならない!したい事が出来る時間的余裕、経済的余裕がある!って状況になければ、個人にとって積極的に健康を維持したいっては思わないかもしれない。

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AVP2

 この前、テレビを見ていて映画予告のCMを見かけた。それは、今やB級映画なんだけど、AVP2って映画である。何年か前にAVP(エイリアンVSプレデター)って映画を、株主総会後の会食を抜け出して同期で鑑賞に出掛けたけど、今回はその続編である。

 AVPの最後のシーンを思い出すと、エイリアンと闘って亡くなったプレデターを仲間のプレデターが宇宙船で連れて帰るシーンで、宇宙船の中の遺体からプレデリアンが登場するというシーンで終わっていたけど、そのプレデリアンを巡るストーリー展開がAVP2では為されているんだろう。

 エイリアンの設定は、寄生対象の生物の遺伝子?と融合した生命体として成体化するのがエイリアンシリーズの設定である(過去のシリーズでは犬型エイリアンも登場した事がある)が、エイリアンがプレデターと合体するのがプレデリアン。
 但し、プレデターの強さっていうのは、強力な武器を装備して使いこなすって所が大きい訳であり、中身のプレデターと合体しても、プレデターの能力を使いこなす事になるのだろうか?或いは、プレデターの知能を手に入れて、倒したプレデターから装備品を纏って闘うって設定になるのだろうか?
 この辺りに無理が生じているようだが、その馬鹿らしい設定が如何にストーリー展開されているか?って部分に感心がある。

 映画と言えば、先日、娘とプリキュア5を見に行ったけど、大きなスクリーンの前でポップコーンを食いながら鑑賞するってのは、結構楽しい。

 因みに、ポップコーンが映画館での食事の定番となっているのは、落としても音がしない。食べても噛み砕く時の音がしない。容器の中で動かしても音がしない。という特徴が、映画館のマナーを保つのに具合が良いからだ。偶然、先日のテレビでもクイズとして紹介されていたけど、あの菓子の構造、微妙に柔らかい発泡体構造が消音性能に寄与しているのだ。
 それにしても、映画館のお菓子の定番にポップコーンっていう発想を最初に持ち込んだ人は偉大である。こういう発想が出来る人っていうのが、所謂、エライ人、スゴイ人なんだろう。でも、それを当然として、何も考えず、日常を過ごす人の方が多いのが現実。

 地元のイオンモールの映画館でのポップコーンセットは巨大な容器で大量に入っているんだが、2時間も映画を見ていると簡単に食べきってしまう。勿論、次のAVP2でもポップコーンは食う予定である。

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