国際学力調査、結果、理数離れ
経済協力開発機構が行った国際学力テスト『学習到達度調査』で日本人の子供の理科、数学離れが一段と顕著になったそうだ。
学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から10位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下したとのこと。
これに対する政治家としては、『ゆとり教育』の影響を認めるコメントだしたり、なんだか知らないが、省庁のプランでは指導要綱の見直しを前倒しするとかがニュースになっている。
ホントにそういう問題か?っていうのが、正直な感想である。
時間の多少、習う内容の早い遅いの問題では無いのでは?っていうのが正直な所。
笑い話ではないが、例えば円周率πを昔は3.14、今は3と教える事を、さぞかし『ゆとり』とか馬鹿にしたり、小学校で台形の面積を教えないとか、中学で連立方程式を教えないとかの、教育指導内容についての論評が為されているが、本質はそんなところに無いだろう?っていうのが正直な意見である。
昔の詰め込み教育で学力が高いか?っていうと、これまた怪しいのが現実である。日本人のオリジナリティーって側面から見ると、近代以前の日本人、或いは戦前教育を受けた日本人の方が遙かにクリエイティブな感を受けるし、発明品の数々も、そういった『昔』の人間の方が上手ではないだろうか?
受験戦争世代は確かに詰め込まれているが、新たな価値を生み出す創造性があるか?っていうと、非常に怪しい。現代、企業の主力世代である40代前後の世代を見て、創造力豊かな奴が多いか?っていうと、チョット違うように思う。
学力低下を嘆く前に、学力とは何か?何が必要な力か?を見定める事が出来ない連中が、今後の方針を議論している段階で日本の将来は真っ暗なように思うが如何なものだろうか?さっきの深夜のニュースでも、切り口は?というと、指導内容の簡素化からの揺り戻しに力点を置いた解説してたが、そんな論評しか言えないニュース記者の浅はかさを露呈しているだけのように感じる。
勉強っていうのは、生きる力を身に付けるためであり、決して、学校での設問の解答を迅速に出す事が目的では無いのだが、そういう点で教える側の段階で既に間違っている。そんな教師側の価値観を鵜呑みにして輩出される社会人ってのは、たかがレベルが知れているように思う。例の自転車少年もそうだ。会社の上役管理職、役員にしてもそうだ。何をすべきか?これが無いし、何がベストか?という判断を下せない。上も下もだが、自分で答えを出す事が出来ない奴が多すぎである。
勉強とは生きる力を身に付ける事であり、生きる力とは直面する問題を解決する事。解決するには、その方面の基本的な知識(知識とは先人の経験、歴史である)と未開の問題の解に近づくための論法を身に付けること。理系も文系も無いのである。どの系も、題材こそ違っても大きくは同じ流れに存在している。不要なモノは何一つ無いのだが、責めて何か一つの分野で、そういう未開の解を解決できる手法、能力を身に付ける事が重要だ。
そうすれば、分野を越えて論理的な思考は活用できる筈である。
学力低下を嘆くのではなく、本当に国際競争力を得るために必要な学力、それを養う教育とは何か?を考える方が大事ではないか?子供の年齢に応じた創造性と好奇心を引き出すには何が必要か?子供の理解できる範囲で学問の必要性を知らしめる事が欠けているのではないだろうか?恐らくは今の指導要項の基本を最初に作った人には、そういう志と計画があったはずだが、今、それを引き継いで教育行政に携わっている人の大部分には、そういう志が見えなくなっているのでは無いだろうか?指導内容の多少でゆとり云々を言っている段階で、役人や政治家の教育が必要な気がする。
過去の塾経営の経験上、子供が自発的に好奇心探求活動を行うようにする事を最重要として指導してきたが、自発的探求活動を行わせるような教育っていうのは、過去の自分が受けた学校教育や周りのライバル塾の指導方針からも伺えないのが現実。
ところで、最近はサイト、ブログともハードというか、生意気口調というか、辛口な文章が増えてきたように思うのだが、それもこれも、実は、ゆとり教育以前に、周りにたいして苛つきを覚える事が多いからである。苛つきってのは、『それは違うだろう!』『何してるの?』『その立場でそれは無いだろう!』って違和感を感じる事が多いからである。
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