勉強はしていて損はない。
色んな場面で、色んな人を見掛けるが、なんか虚しいというか、哀れって思ってしまう存在っていうのは、色んな場面で見掛けるものである。
共通しているのは、そういう人っていうのは世界観が狭いという一言に尽きるように思う。
世界(観)が狭い、即ち、視野が狭かったり、普通気付く事が見えなかったり、常識的と思える知識を持ち合わせなかったり、、、、である場合が多い。
そういう傾向で人格が形成されている大人っていうのは、そういう指摘を受けても変えようがない、変わりようが無いためか、内向的、陰気、殻に閉じこもりやすい、自己嫌悪に陥りやすい、、、、そんな特徴を有しているように思う。
物事を広く、詳細に、客観的に見て、その中の自分の位置を冷静に見つめるっていうのは、極自然の事だと思うけど、全てを主観に基づいてしか判断できないのは、思い込みの激しさという好意的な見方もあるけれど、どちらかといえば、世間知らずの馬鹿野郎故の性質では無いだろうか?
考えてみれば、詐欺系犯罪についての意見も、加害者が悪というのは当然ながらも、鴨になる人は鴨リストと呼ばれるように鴨となる側にも人格的に問題があると言わざるを得ない。
騙される側の言い訳として、心の隙間に入り込む加害者の巧妙さもあるけれど、何よりも、犯罪被害に遭うか否かは、行動に対して客観性を持って判断できているか?それを判断するための常識、知識を持ち合わせているか?によって大きく異なるように思う。
特に、20代、30代という若年層で、そういう犯罪に巻き込まれたりする人、鬱に陥る人、自殺を考える人っていうのは、物事を考える知識や世界観が不足し、客観的な判断が出来ない状態にある人ではないか?と思うことが多い。
いろんな事例を学び知識を深める程に、様々な出来事に関連性や法則性が見つかり、その傾向から、いろんな考えを張り巡らせるようになる。勿論、問題の解法を専門的に学ぶのも有効だろう。そういう多くの考えや価値観を学ぶ事が勉強だが、学校において学ぶ勉強が大切なのは勿論だが、それ以外にも、様々な本を読んだりすることも大切である。
そうやって客観性を持って行動出来るようになるっていうのは、長く生きる上でとても大切な事だと思う。三十路を過ぎて、そういう事が出来ずに、陰に陰に入る人もいるけれど、長い人生が楽しくないだろうし、見ていて不憫に思うことがある。20代ならいざ知らず、自分を駄目人間と思ってしまうと、キツイ言い方だが、生きる価値が無くなったも同然と言っても良いのでは無いだろうか?
よく人は、熱い人、クールな人といった表現を使うけど、衝動的にカッとなる人の事を熱い人というのは大きな間違いである。衝動的に自分を見失う人っていうのは、単なるバカである。
熱い人というのは、冷静な分析によって必要なモノを手に入れるために、弛まない努力を諦めずに続ける事の出来る心の強さを持った人を熱い人というのである。
そういう意味で、長続きしない癖に衝動的になる人が時折、己の事を熱い人と思っている場合があるけど、それは大きな間違いである。衝動的になる=自分を見失う=客観性がない=脳が働かない=単なる獣ということである。
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