自転車での拘り
さっき迄は、心房ブロックの記事に繋げていたのだが、冗長になり過ぎなんで記事を割った。
心房ブロック←運動しすぎという話だが、日頃運動を続ける理由は何か?っていうと、運動する事で身体を或るレベルに保っておきたいという欲求があるからである。
その欲求が満たされるレベルというのは、250Wレベルの負荷を連続的に掛けても心拍数から言うと、運動強度は(130-35)/(197-35)×100=58.7%であり、鼻歌レベル以下となるようにする事である。因みに250Wというと、条件にもよるけど30~40km/hでの走行である。こういうレベルは維持しておきたいと思うところ。
身体能力については、色々と、リアル世界、ネット世界で吹聴する人が居るし、面識の無い人からみれば自分もそうかもしれないが、何て言うか、実際に走って、一定レベル以上の出力が長時間出せるには、それに応じた筋力と循環器系統の能力は必須であり、それが保たれているか否かを見るにも、こういった健康診断での医師からの所見、実際の運動下における身体状態を把握しておくってのは大事だと思っている。
逆に、色々言う人居るけれど、機能が発揮できる身体状態とコンディション維持のための日々の運動は一意的な関係であり、拘っている人が言う能力と、その人の運動メニューを考えた時に、言ってる事が嘘か真実かは何となく判る今日この頃である。特に、能力に拘る人にとって、能力っていうのは、機材以前に身体能力によってのみ得られるものであり、その身体能力というのは、個人の勝手な思い付きや、運動しているつもり的自負だけでは絶対身に付かないのも真実だ。よって、言っている事が真実の場合は、それだけの場数(運動の量と時間)をこなしており、体型一つ、姿勢一つ見ただけで、何となく、本物かどうかも判る気がするのは、気のせいとは思えない。
まぁ、身体能力に限らず、本当の知識っていうのも雑紙をめくったり、たかが人の話の伝聞のみでも身に付く筈は無い。本当の論理とか知識というと学問の世界に近く、そういう方面において、常識的な知識を身に付け、それの論法を説明できる能力と、それから何かを感じる事が出来る感性の全てが無い限りは、人の感想っていうのは、タダの根拠の無い感覚的感想に過ぎず、全く意味を為さないとも思う。機材に対する意見を各所で耳にするけど、話し手の経験や能力、知識は、本人と話したり、或いはサイト開設者であれが、その為りから本人のレベルは推し量る事が出来る。そういう見方をすると、殆どの機材インプレッションっていうのは、書き手のフラシーボ効果だろ!って思う事が殆どである。
例えば、自転車や水泳といったスポーツ分野で自分が納得できる結果を得るには、実際にスポーツをして自分の納得できる状態が体感できて、それを維持し続けるに必要な身体能力的レベルがどれほどか?っていうのも判る。それを維持するために必要な日々の運動も判る。スポーツに限らず、それ用の機材、知識にしても受け売りとは異なり、自分の頭でイメージして答えがだせるためには、関連する知識を本当に使えるようにならないと、実際の問題を分解して考え出す事が出来ない訳であり、その知識を維持するために必要な日頃の勉強やモノの見方、接し方も判る。そういう意味で、一日して為らず的な労が必要であり、何をどれほどやるっていうのが意識できる世界っていうのは、結構好きである。いくら講釈垂れても、いくら金を突っ込んでも、本人が労を厭う気がなければ手に入らない世界っていうのは、今の結果が過去の自分の積み重ねという点で、そういう世界では後悔を感じないように過ごしていきたいと思うところだ。
先の記事での心房ブロックって所見は症状的には異常だが、それに到る取り組みの結果、そういう風に診断されるっていうのは、健康面からはリスクがあるかもしれないが、継続した取り組みによって客観的に、そういう風に診断されたっていうのは、実は嬉しいという感情があるのも事実である。やっぱり、『よくトレーニングされた結果のスポーツ心臓である!』って医者からお墨付きを貰う訳であり、そういうモノである。こういう客観性を持った所見っていうのは、自分にとっては、過去の競技経験上に感じた感覚以上に重要な位置づけに為っている。
この感覚は、過去においては自分のレベルを他との比較で判断しており、現在は、現在の自分の状態は、その状態を作る日常生活の結果が診断数値に表れ、その効果を体感して満足出来るか否かを判断している。つまり、昔は相対的に自分を判断していたが、今は絶対的に自分が判断できるようになったと思っている。自身、自分が成長して自分のペースで楽しめるようになった証と満足しているのである。それ故に、人の事が気にならないとか、どうでも良いとか、干渉されたくないとかの感情を持つようになったんだろうとも思う所である。まぁ、昔から他人との優劣を競う競技は好みで無い。大抵は、水泳のように自分のタイムを見つめたり、単車でもコースのラップタイムに強い関心を持っている。人に較べてどうか?なんてはどうでも良く、自分の発揮できる能力を数字で表すと今幾らで、これをどうしたいか?という方が重要って思いを持っていたが、今もそのまんまである。尺度として曖昧な他人なんか用いる事自体が無関心。必要なのは絶対尺度で要は数字のみである。そして数字を純粋に改善するに必要なのは、本当に正しい自然界のルールのみであり、そのために知識を身に付け、経験を磨くのである。
こういった性格が、一般道で他人と干渉したくない気持ちにも繋がり、純粋に決まった尺度を用い自分のコンディションを計る数字のみから満足を得たり、物足りなさを得たりしているのだろうと言える。
例の自転車少年では無いが、何時も見掛ける誰彼に勝った!負けた!なんてどうでも良い。満足できるかどうか?は、決めたコースを決めた負荷で、決めた状態を保ち、走行時間をどれだけ短縮できたか?という方が重大な関心事なのである。相対性よりも絶対性が重要で、相手は他人ではなく、相手は時計である。主観より客観的事実が大事なのである。
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