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2008年2月29日 (金)

0系新幹線

 今年の11月、遂に初代新幹線である0系新幹線が引退する。
 東海道新幹線では既に引退済みだが、山陽新幹線では『こだま』として運用中である。しかし、今の0系は最長でも6両編成で、塗色もグレー貴重に緑系の線が入ったデザインで、デビュー当初の普通の新幹線イメージであるブルー系の線の入ったデザインとは異なるモノである。

 そんな0系だが、これから塗色を塗り替えて初代ひかり号と同じ塗色で山陽新幹線を引退迄走行するらしい。そして、11月以降では、『こだま』として運用する車両に、世界最速を誇った500系新幹線が格下げ運用されるとのこと。

 確かに、700系の方が快適、N700系に到っては速度も同等となる。居住性の悪い500系は人気が無いのか、、、、、。しかし、新幹線の格好良さは、やっぱり500系かなぁと思う。

 こんな新幹線は、0系、100系、300系、500系、700系と山陽線では進化してきた。
 0系は如何にも生まれたて、100~300系は基本は0系でチョットモダンって感じ。500系では尖った性能追求ってイメージ、700系からは技術的な先鋭よりも実用品として進化って感じ。性能への拘りが全面に出ていたのが500系迄、それ以降は、チョット大人の考え方って気がしないでもない。

 最近、凝っている型おくれのデジカメもあるけど、大昔のQV-10とかは0系をイメージする。その後のデザインの洗練化は300系迄、現代の機能の基本である構成を先端技術として位置付けられた世代が500系、その先端技術が普遍化したのが700系以降とダブって見えるのは考えすぎか?

 そんな訳で、なんというか一生懸命度合いというか、個性の競い合いでは、新幹線なら100~500系が何となく好き。デジカメでも個性を競い合いながら、現代の構成のひな形が出来る頃迄が好み。
 考えれば、単車もそうだ。運動性能を飛躍的に高め始めた80年代~現代の構成の基本が出来上がった90年代半ば迄のモデルが好き。振り返れば、車もパソコンもそういう傾向である。

 これが、俺の好みなんだが、そういうモノの進化の過程の作りの面白さが自分の好みをくすぐるようである。どんなに素晴らしい性能も普遍化するが、普遍化した時には、その機械には別の個性を期待してしまう。要は、時代背景に併せ、そのモノが生まれた時代に、そのモノが持つ個性が光っていれば今でもグッとくるのである。

 特に、どんなジャンルのどんなモノでも、そういう個性、コンセプトが時代に色褪せない特徴だったりすると、それには強く惹かれてしまう。時代に色褪せない個性、これこそが、モノに求められる最大の要素だ。追随者や後追いの製品ってのは、結構、コピー元の本質を捉えていない場合が多い。そういうモノは一過性であり、時代の流れで色褪せるのも強烈に速いモノだ。車ならトヨタ車が特にそういう印象だ。

 そういうモノは、作り手の拘りと、他の追随を許さない発想から生まれる。そういうモノである。

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2008年2月28日 (木)

寝不足の症状

 寝不足で現れる症状、、、、、これで調べても、実はあんまり的確な解説迄辿り着けない。

 寝不足かどうか?は、寝不足の症状=日中眠たいという状態で少なくとも判断できるけど、睡眠が足りずに、日中の活動時間帯においても微妙に頭が痺れるというか、眼球の上側が押さえられているというか、そんな状況が寝不足の症状だろうか?

 で、寝不足になる理由で一般的には寝付きが悪い、床に入っても眠れないとかが原因だが、自分の場合、ベッドに入ると殆ど5分も掛からずに記憶を失ってしまう。大体、ベッドに入る前には、強烈に瞼が重くなり、眼を空けておく事自体が困難となる。頭もグラングランして意識を支える事自体が不可能であり、ベッドに直行して眠るというパターンである。

 因みに、就寝時刻、起床時刻は各々AM1:00、AM7:00というのがスタンダードであり丁度6時間の睡眠だ。この6時間睡眠ってのは90分の4倍で、90分睡眠周期の整数倍確保しているのだが、ダメである。全く、寝が足りていないようだ。起床時刻をこれ以上遅らす事は難しく、就寝時刻をこれ以上早めるのも難しい。夕方では会社から帰宅、夕食、子供の風呂入れ、自分の運動2時間、自分の入浴とくると、それでAM0:20頃になってしまう。

 睡眠時間を、あと90分増やすには、就寝時刻はPM11:30迄早める必要がある。そうすると、詰めれるのは運動くらい、、、、運動を一時間減らして、寝る時刻を90分早めるか?

 果たして、運動時間を減らして睡眠時間を確保するのと、運動時間を確保して睡眠不足を感じるのと、どっちが良いのだろうか?運動時間も確保して、睡眠時間も確保する。勿論、育児、入浴、食事を短縮するのはナンセンス、、、、、しからば、帰宅する時間を早めるしかないのだろうか?

 睡眠と運動は加齢によって必須要素である。しかし、1日は万人に等しく24時間しかない。ならば、生きる上で必須な時間を減らす事は出来ないので、減らす事が出来るとすれば、勤務時間だけしかない。

 そんな事を思うのだが、過労等の働き過ぎで健康を失う人っていうのは、年相応の生活が出来ていないのは間違い無い処。こういう社会構造を為す生活習慣を正とする価値観をぶっ壊す必要があるのでは無いだろうか?

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寒さと筋肉痛

 先週の日曜日、強風&吹雪&低温の中、何時もの時間、何時ものコース、何時ものラングスターで走ってから帰って感じた違和感、、、、、それは、太股の筋肉痛である。

 走っている最中は意識しなかったけど、その夜から月曜の昼に掛けて結構痛む、、、、寒い中、負荷を掛けて動かすっていうのは結構な負担なのだろうか?

 ということで、火曜日にマッサージして湿布して比較的安静気味に過ごし(それでもローラー台は何時も通り)、水曜日に目が覚めると、すっかり痛みも違和感も無くなっている。

 で、水曜昼休みの昼ポタでは強風の中、負荷、回転数共に高めでペダリングを行ってみたけど、全然OKである。安心である。

 それにしても、極寒での運動は、控えめにした方が良いのかも知れない。筋肉痛ならいざ知らず、膝痛なんかに見舞われたら最悪だ。過去から膝痛とは無縁だが、膝痛を経験した人の話を聞くと、一生治らないとか、、、、、そういう事態には陥りたくないものだ。、

 筋肉痛は大歓迎だが、そんな筋肉痛も長くても2日程度で治まる程度で無いと恐い。あまりに長引くのは筋肉痛でなく故障痛とも言えるもの。歳を考え、負荷を調整し、継続して体調管理を行いたいモノだ。

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2008年2月27日 (水)

殺人罪に時効無し。

 ロス疑惑で世間を賑わせながら、完全に忘却され過去の人となっていたM被告がアメリカ領サイパン島で身柄が拘束されたという。このロス疑惑での殺人事件では、日本では無罪となっていたものだが、アメリカでは未解決事件扱いであり、今回の事態となった模様。

 この違い、日本では属人主義、アメリカでは属地主義で裁かれ、日本では殺人犯罪でも時効があるけど、アメリカでは殺人では時効無しという事で生じたモノ。

 事件の論評は差し控えるけど、興味深い現象だ。それにしても、犯罪捜査に用いる科学技術の進歩によって過去の操作では追い切れなかった犯罪を再検証して罪を償わせるというシステムは、客観的に見て非常に合点のいくシステムである。

 仮に、今回のアメリカの裁判の様子は、注目度の関係から日本の世間の関心も高そう。その中で新たに現れた証拠が極めて信憑性が高く、M被告が有罪となり服役した場合でも、日本の裁判での結果(最高裁判決)は覆らないんだろう。日本のシステムから考えると、最高裁判決は絶対かもしれないが、真の事実が仮に明らかになるのであれば、逆に、システムの評価自体が間違っている場合もある訳である。そうなった場合には、極めて大きな違和感を感じてしまうものである。

 日本人による日本国内での犯罪に帰結する場合は勿論、海外を巻き込んだ犯罪でも、判決と真実の整合性は取れていなければならない。だから、どうしろ!って案がある訳ではないが、この裁判は色んな意味で注目に値する裁判になりそうだ。

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価格の常識、価格への意識差

 今、自転車ネタ以外で貧乏人?向けのネタ文を作成しているけど、自転車についての価格も人によって随分と印象が違うなぁ!って思う。

 ところで、火曜日のメインサイトのDiaryにも書いたけど、スポーツサイクルっていうのは、スポーツの道具としての側面もあれば、その物が趣味の対象という側面もある。どちらに視点の軸足があるかによって、随分と考え方も異なっている。物が趣味の対象というのが主な考え方の場合、装具、ウェア~車体のグレード、コンポのグレードといった物の優劣は額面的な大小で概ね優劣が付けられている様子である。

 特に、機材や装具依存症マニアにとっては、額面的に高価な物を崇拝し、安価な物を下げ荒む傾向があり、その判定基準っていうのは、一般人の価格的価値観とは大きく異なっているように思う。

 昨今の自転車ブームによって、自転車って商品はホームセンター、全国展開のスーパー、量販店~専門店等々の色んな場所で販売されている。しかし、自転車に対して従来興味が無かった人からみれば、何処で売っていても、パッと見は殆ど同じに見えるもの。
 価格的な常識でも、中国製実用自転車が1万円以下で売られ、これが世間に広く普及している今、マニアから見たら有り得ない自転車でもドロップハンドル装備で一般の人からみたら似たような物であり、マニアから見たら有り得ない価格である数万円程度の値付けであっても、一般の人から見たらママチャリが1万円なら何も付いていないドロップハンドルの自転車が数万円というのは、相当に高価に映るんだろうと思う。

 確かに、価格が違えば、モノが違うっていうのはある。しかし、価格の違いによる、そのモノの違いがユーザーにとって影響が何処までも明確に出るか?というと、極めて怪しい気がする。
 そういう意味で、自転車に興味を持った人から相談された時に何を薦めるべきか?っていうのは、結構、判断しづらかったりするのである。

 中学生の頃は、とにかくDURA ACEとか、カンパのレコード、ユーレーのジュビリーが欲しい!とか、フレームはやっぱりダブルバテッドのレイノルズ531とか、、、宣っていたけど、今は、どちらかというと、どうでもイイジャン!って思う方が大きい。そんなブランド、グレードが実際に快適さを本当に与えてくれたか?というと、相当に怪しい。結局、モノの能力と使い手の能力の関係によるものだ。
 モノの能力>使い手の能力では、使い手からみると、どれ使っても結果は同じになる。逆に、モノの能力<使い手の能力では、使い手の能力を引き出すにはモノの能力が高くないとダメである。使い手の能力が高い程に、モノの能力が高いモノが相応しいだろう。
 極端な話をすれば、最高級グレードで殆ど競技者向けのセットと、入門グレードのジュニア向けセットのどちらが良いか?というと、後者の方が使いやすいから後者を選ぶっていうのが今の考え。価格的には10倍違っても、実際には後者のセットの方が自分向けだと思うと、後者が魅力的に見えるのである。

 但し、相談された場合、そういう価値観を持っているか?或いは、高グレードの品の割引率を以て得したという価値観を持っているのか?或いは、同じ価格ならば、グレードが上のモノを得た方が得と思うのか?これが、実に判りにくかったりする。

 どんな価値観があっても良いけど、それは自分自身のモノ。その価値観の押し付けはNGだ。一方が優れて、他方が劣るという質のモノではない訳で、どっちも正しいし、それは好きずきだろう。但し、好き嫌いは人の好みによるけど、絶対的(普遍的な目的)な答えに対して、どういう価値観が答えに近いか?という絶対性に差があるのは言うまでもない。

 最近思うのは、経験が浅く、あまり乗った事がなくって、店を渡り鳥のように徘徊し、ネットで情報を仕入れる奴ほど、人の文章、伝聞でモノを判断し、何故だか知らないが、最低でもカーボンバック、最低でも105クラスなんて言う奴がいる。そして、自分の経験とは無関係に、他人のモノの判定を価格やグレードだけで寸評したりしてる。また、本人のコンプレックスは、集まり等で、自分のモノが最底辺の場合には、自分をショボイと卑下したりしている。
 質が悪いのになると、自分より格下の機材に対して、目の敵のような挑発行動を取る奴もいる。こういう生態っていうのも、機材選びは個人の好みだが、その選んだモノが自分の価値観では劣るモノに対して負けるのはおかしい?という思い込みが挑発行動を生むのだろうか?と思ったりする。

 結局、モノの価値を、額面だけでしか判断出来ない奴っていうのは、その判断自体を自分の意識の底で確信が持てていないのだろうか?と思ってしまう。
 それ故に、己の考えが正しいと思いたいがために、他人の行動や行為が異様に機になり、場合によっては、自分の考えと相容れない考えを否定したり、或いは、挑発的な行動を取っているのでは無いだろうか?

 最近多いインスタント自転車マニアの話、或いは、自転車専門雑誌のライターの記事に触れる程に、そういう気分になる。大抵、自分の世界が確立している奴は、他人の行動に影響される事は稀って気がするのは気のせいだろうか?本人が、各経験に基づいた尺度を持ち、それに従って行動しているって見えるのである。

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2008年2月26日 (火)

三人乗りOKな自転車を認めよう!

 表題の如く、今更ながら自転車の三人乗り運転禁止の指導を徹底すべく取り締まりを強化するらしい。元来、禁止されていたものだが、半ば黙認状態で見逃していたのを、この度、ルール通りに規制を強化するということ。

 まぁ、スポーツサイクルに夢中な人から見れば、当然!ってなるんだろうが、育児を行う母親が二人の子供を同時に乗せれないっていうのは、育児生活に与える影響は大きそうである。
 似たような問題では、傘の固定具を禁止って話も似たような話。ただ、この固定具は、固定された傘が突起物となる訳であり、三人乗り以上に危険と思うところ。

 このような現状でも規則から逸脱した実態に規制を掛ける場合は、その代替えを提供しなければ社会の賛同を得るってのは難しい問題だ。
 傘の固定具については、合羽、ポンチョの着用が代案となりうるが、自転車の園児送迎三人乗りを禁止すると代案は、、、、、軽自動車でも買えって事になるのだろうか?

 現状、1人乗りが基本のママチャリを三人乗りで使うって言うのは、確かに、安定性、制動性、操縦性の面から見ても危険度が高いのは確かだが、6歳以下限定で二人を乗せるという状況を物理的に考えると、15kg×2のウエイトが加算される訳であり、総重量で30kgの増加となる。元々が運転者+車体重量で90kg程度のものが+30kgというのは、特に、重量バランス、制動性の面で変化の度合が大きい点がリスクの元凶だろう。

 代案としては、重量バランス、制動性、強度が所定の基準を設けたものを認可するという方針で認めるのも手ではないだろうか?勿論、ヘルメットの義務化も並行して、子供二人乗せ対応型自転車、或いは、子供二人乗せ認可オプションと認可ステッカー等で十分対応出来るのでは無いだろうか?

思うに、
1.ホイールスポークが36本仕様+一定太さ以上のタイヤ
2.専用後部座席と固定キャリア+操縦性に影響しない位置に装着された専用前部座席
3.制動力が強化された制動装置
4.発進時における駆動力不足によるふらつきを抑える補助動力

という形で、電動アシストモデル限定で、専用のフレーム、車輪、ブレーキ+専用座席という形を認可する方向で考えるのもアリのように思うのである。

最近、よく見掛けるコラムトップに座席を乗せた前輪小径タイプの子供乗せ専用自転車だが、実際に乗ってみると極めて安定している。これはホイールベースも長く、基本は安定した走行が可能。これに、後部補助座席を装着しても大丈夫そうに思う。
ただ難点は、重量がかなりかさむので脚力の無い女性では発進時にふらつきそうであり、それが事故の元になりそう。そんな時に威力を発揮するのは電動アシストでは無いだろうか?

こういう仕様を提案しても現実味が無いのかもしれないが、ただの一案であり、もっと認可範囲を拡げるならば、元々重量が大きく、制動性が強化されており、尚かつ、子供二人を乗せる場面では前後振り分けが必然であることを考えれば、電動アシスト自転車に限り、補助座席を用いてヘルメットを被れば子供二人乗せを認めるってのも判りやすくて良さそうである。

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技術の進歩は凄いけど、、、、

 技術の進歩っていうのは凄いモノである。特に、マーケットボリュームが大きい程、リリースされる商品の進歩は著しい。
 パソコンでインターネット接続がデフォルトとなった1998年以降は、パソコンとの親和性の高い機器の進歩が凄まじいが、その中で特にパソコンの普及に併せて進歩したのが、デジタルカメラである。

 1998年頃といえばデジタルカメラは出たばっかしであり、パソコンに写真がデータの形で転送できると言うのが従来銀塩カメラと大きく違うところであり、カメラの一つというよりも、パソコン周辺機器の一つとしての生い立ちである。インターネットの普及に併せ、個人のWebサイトが増殖すると、そのサイトを彩る写真の採取機器としてデジタルカメラは必須の存在となったのがこの時期である。

 その後、暫くはデジタルカメラの解像度はパソコンのモニターサイズと連動していたが、その画素数の増大に合わせ印刷出力に見合った能力を持ったデジタルカメラがパソコン周辺機器から再度カメラとしての存在に戻ってきたのが現在である。

 現在は、各家庭に備わったPC環境を用いデジタルカメラで撮影した画像が、インスタントに家庭で出力出来るようになり、写真を楽しむって環境が昔以上に身近になっている。

 そんなデジタルカメラが従来のフィルムカメラに置き換わり得たのは、何と言っても、L判出力において普通の写真的な品質を得る事が出来たからであり、そうせしめたのは、なんといっても、高画素化による処が大きい。勿論、フィルムカメラにおけるフィルム面積に比較すると著しく小さい撮影素子に画像を美しく結ぶための様々な機能の進化の存在もある。

 今、街のデジタルカメラ売り場に出向くと、1000万画素オーバーに多機能高機能をコンパクトに詰め込んだ最新機種が実売2万円程度で普通に販売されている。そして、こういった機種は、現代では、どんな機種を選んでも、相当に素早く、相当に美しく撮影する事が出来る。
 思い起こせば10年前は30万画素レベルで機能が殆ど無い機種が5万円以上の金額で売られていた。
 一番判りやすい尺度である画素数で言えば、10年前が30万画素、5年前が300万画素、今や1000万画素である。物凄い進歩である。
 画素数以外でいえば、10年前は単焦点+固定焦点、5年前は光学ズーム+AF、今はそれに加えて顔認識、手ぶれ補正と進化している。
 そんな機能の多機能化、高機能化に反比例して本体サイズは、10年前は幅でいうと120mm程度でコンパクト、5年前は100mmサイズ、今なら80mmサイズとコンパクト化も著しい。

 そんな事を考えると、進化の速い製品は最新=最強であるっていうのは、或る意味正しいのは間違いない。

 しかし、である。

 絶対的に最新機種が高機能多機能高性能って言うのは判るのだが、どうも最新機種が心を捉えるか?っていうと、これが捉えないのが何とも言えないところである。
 例えば、自転車でロードバイクを見てみると、最新のカーボンフレームに最新構成のパーツのモノよりも、レイノルズ531フレームに旧世代コンポの方が好きだし、単車でも最新の1000ccスーパースポーツよりも20年前の2ストマルチが好きである。パソコンでも最新のデュアルコアのマシンが好きか?というと、一寸違い、純粋にデュアルCPUで、ディスク周りも無意味?に高価なLVDの160とか320のSCSIとかで組んだマシンの方が好みだったりする。そういう、へそ曲がり的体質のためか?しらないけど、デジタルカメラについても最新機種には物欲が刺激されないのである。

 これは、多分、自分の考えが変態的で、変わり者なためだろうと思うのだが、自分自身、こういう考え方で、何と無駄な事をしているのだろうか?と思ってしまうのである。

 トレンドに乗った工業製品は短い期間に急激な進歩を遂げる。そして、その陳腐化のスピードも異様に速いのが特徴だが、自分の興味は、その進化の過程を実感するっていうのに一番の興味がある。そして、自分の満足度を満たす必要最低限の機能を持つモノが一番好きなのである。これは、単車もそう、パソコンも、車も、自転車もそうである。自分に取って与えられるであろう機能が過剰なモノっていうのは、なんだか、機械に負けているような気がして、自分の理解出来ないモノは、その必要性を感じる迄欲しいと思えないのである。

 取り敢えず、色んな機能が書かれていても、それが実体験、実経験に基づいて絶対必要か?或いは、自分の困った問題が、そのカタログワードで解決できるか?が結びつかない限り、その煌めく文言に心がときめかないのである。

 そんな訳で、各ジャンルにおいてグッと来るレベルが何か?を羅列すると、

1.行事撮影用デジタルカメラ
・求める特徴
 L判出力に応じた解像度、構えた状態で見つけた瞬間を逃さない機能
・特徴を満たす機能
 130~200万画素、望遠端で明るいレンズ、高速シャッター、プリキャプチャー、連写性

2.成長記録撮影用カメラ
・求める特徴
 L判出力に応じた解像度、取り出しから撮影迄の俊敏さ、手軽さ、簡単さ
・特徴を満たす機能
 あらゆる状況で即写せる性能。AF不要、レリースタイムラグ最小

3.Webサイト掲載、PCモニター閲覧写真用カメラ
・求める特徴
 PCモニター閲覧に応じた解像度、軽量さ、手軽さ、気軽さ
・特徴を満たす機能
 右手一本でのワンハンドオペレーション、汎用電池二本駆動、価格1000円以下

 ってところ。それにしても、この自分の性格っていうのが、どうにも怪しいというか、自分でもバカだなぁとか、腑に落ちないなぁ!って事が多すぎである。ホント、新しい機種、売ってるのを見ると、如何にも新しそう、さらには、コンパクトで素晴らしいのだが、何故だか、何も付いていない単純な古い機種の方が魅力的に見えてしまうのである。

 こういう性格はどこから来ているのだろうか?と色々考えるのだが、そう言えば、数学等々で機械的に公式を暗記するのは苦手だし、学生生活を振り返っても、習う内容をリアルタイムに習得する事は稀で、習った後暫くして『なるほど!』って理解する事の方が多い。大抵、1年で習う事は二年生で理解したり、或いは、卒業してから気が付いたりって事の方が多い。良く判らない事が全く身に付かないし、良く判らないモノは、やると言われても断る事の方が多かった。但し、自分で必要と思う何かは絶対に譲れないという頑固さがあると思うけど、そういう性格が、こういうモノ選びに大きく影響していると思う。

 単車の場合は、操縦する際の動的な軽さ、運動状態を制御する際のレスポンスの良さに拘るし、自転車の場合は、自分にとって必要なギア比が作れるかどうか?に拘る。そういった機能が一番リーズナブルかつ不要なモノが付いていないモノ程素敵に見えるのである。何でも出来ると言われるモノ程、魅力を感じないし、自分が望む形が、誰にでも全自動で提供されると言われる程、魅力を感じないのである。

 自分の思い込みを満足させる機能を最小限に有し、その最小限度の機能を自分の納得できるレベルで自分の能力で発揮させることが出来ると思えるモノ程魅力的であり、その思いが適った時に、自分が自分に満足を感じるというのである。

 そうして考えると、結局、ある機能を有するモノに魅力を感じるのでなく、ある機能を自分で納得できるように自分の能力で機能させる事が出来たという実感に対して対価を払うという価値観を持っているのだ。

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2008年2月25日 (月)

機材、装備は何のため?

 自転車や単車のブーム、特にロードバイク、レプリカバイクのブームの時代に身を置いて思う事。こういうブームでは、憧れの究極が競技車両であり、それに通ずる機材であり、装備を纏う事で、その憧れに近付こうとする。極、当然の事である。

 さて、その憧れの究極の形っていうのは、単車と自転車は同じか?という風に考えると、同じ側面もあれば、大いに違う側面もある。この判断は人それぞれだが、自分が思うに、単車の装備っていうのは、機能優先ではあるが、何よりも安全性に最高度の留意を払った形態になっていると思う。しかし、自転車の場合は、安全性よりも効率性追求の軸足が極めて強いと思う。
 自転車について、機材以上に装備においては、その形態は、スケート選手、競泳選手の装備に近いモノである。何よりも、抵抗を小さく、身体を動かし易くというコンセプトである。そのためには、相当な部分で安全に対する犠牲を払っているように見える。

 自転車の装備において安全に効果的と言えるのは、ヘルメットくらいのものである。それ以外の装具はプロテクト能力に付いては皆無といっても良い。実際、プロツールでの落車映像では選手のレーパン、ジャージの裂け方は尋常ではない。薄さの割には頑丈かもしれないが、基本は発汗性能を高め、軽量、高い密着性という方向故に、保護機能は多くの部分で犠牲になっている。
 サイクリストの論理では安全のためにヘルメットという話は聞くが、それ以外の装備、ウェア、或いはクリップ、ビンディングっていうのはハッキリ言って安全とは無縁で寧ろ危険な装具といっても良い。

 何故に、こんな記事を書くか?というと、風の強い日の午後、ニシダサイクルさんに立ち寄って、自転車雑誌をめくっていて掲載されていた記事に強烈な違和感を感じたからだ。

 この記事は、ジーンズとレーパンで出力、ケイデンス、平均速度を計測し、レーパンの効率性を誇らしげに記事にしており、その文面に、ジーンズスタイルを完全に否定するかのような記事が掲載されていたからだ。
 ロード系装備というのは、ロード競技においては正装だといえる。競技という救急体制、競技の目的においては、そういう無駄を省き、効率を追求してリスクが生じても、救急、救援、保護体制が整っていれば重大な状況は回避できる。これは、競技においては、起こりうるリスクが或る程度は想定されるから許されるもの。つまり、競技環境が競技者を守っているがために、そういうスタイルが成立するものと考えている。
 しかし、一般公道で他との交通と雑多な環境で走る。その中にはルールを自分が守っているから安全というものでも無い。何が起こるか判らない環境であり、そういう中では安全と言う要素にもっと軸足を置くべきでは無いだろうか?ヘルメット、グラブは賛同できるが、あまりに薄いウェアは転倒時に身を守る能力が本当に高いのか?というと非常に疑わしいとも思う。

 少なくとも、安全というならばウェアは兎も角、ビンディングは有り得ないと思うところ。勿論、トークリップでもクリートなんか付けて締めるとやっぱり危険だと思う。

 まぁ、趣味に対する付き合い方は個人次第なんで、どうでも良いのだが、昨今のマニアの意見を聞くと、そう言う装備、或いは、ロード崇拝、コンポグレード志向の度が極端であり、それが無いと走れない!?或いは、走るためには、それが必須!?という空気もあるけど、これには強烈なアンチテーゼを示したいモノである。

 ラフスタイル+ロード以外の車両で、その為りを実証したいと思う今日この頃である。

 個人的には、一種の装備や装具よりも、少しでも低い心拍数で高負荷を持続できる能力であったり、装具の誤差を超越したケイデンス、或いは、絶対的な筋力の方が遙かに魅力的だと思う。そういうモノを地道に手に入れていきたいものである。あわよくば、そういう無形なモノを目の当たりにさせたいとも思う事がある。

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2008年2月24日 (日)

運動は減らすな!軽負荷運動程注意せよ!

 ダイエットという目標に運動を取り入れている人は多い。そんな人に怖いニュースだ。

 そのニュースは、土曜日の午後、車を運転中に聞いたラジオで解説されていたのだが、なんでも、ダイエット目的に運動を行う人が、途中運動量を減らして、所謂中途半端な運動量にした時には、運動を行わない人以上にダイエットの反対、つまり肥満症状が現れてしまうって結果があるという話。

 特に、運動量を低下させるという行為が反ダイエット効果に現れる症状は、基準となる運動量が少ない人程激しく現れるということで、あんまり運動しない人が運動を中断した際に肥る量が非常に大きいって話。

 つまり、少ししか運動を行わないのであれば、続けながらも運動量を増やす方向で取り組まないといけないし、増やした運動量を将来減らしてもダイエット状態を維持したければ、運動量自体は相当量迄増やさないといけないという話。

 この実験は、アメリカのローレンス・バークリー国立研究所の調査報告書で、一週間で走る距離が男性で32km、女性で16kmという人と、一週間で数キロ程度しか走らない人の標本比較で、各グループが走る距離を減らした時に現れる反ダイエット症状(肥満)を比較すると、一週間で数キロしか走らない人のリバウンド量は良く走る人の4倍以上にも到達するとの話。

 これって、気まぐれ運動族、器具を用いた短期集中型お手軽ダイエット依存派の人には悪い知らせである。くれぐれも注意すべきである。

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一芸、取り柄に嵌る。

 どんなモノ、人でもだが、やっぱり必要なのは、そのモノに宿る『取り柄、一芸』ではないだろうか?その取り柄っていうのは、他に較べて優れているのもそうだろうし、他では無いモノっていうのもそうだろう。所謂、他のモノと違うポイントで、そのポイントが何らかの実効的な違いを表してくれるモノが在るかどうか?が重要だ。

 自分の悪い癖だが、何でも、試して較べて考えて、、、、って手順を踏むせいか、いつも無駄遣いしている。

 単車は勿論、自転車、デジカメ、、、、、なんでもそうだ。結果、一寸使ってみては、これダメ!って判断して、即捨てたり、売却したりっていうのは結構やっちまう。バカだなぁ!って思いながらも、自分で確かめて体感しないとグッと来ないのである。

 例えば、単車、、、、、

 これは今では完全に好みが決まっている。基本はガンマのような2ストが第一。4スト乗るなら、中小型ではシングルでグース、中型以上ならVツインでCXかSVである。それ以外は眼中に無い。

 しかし、この結論に到るまでを振り返ると、ありとあらゆるジャンル、それも相当数の乗り換えをしての結果である。乗り換えに到っては、名変して1週間もせずに売却ってのも在った。まぁ、無駄だけど、それで得た確信っていうのは未だに生きている。そして、乗った上での判断故に、その後の迷いってのは無い。

 次に、自転車、、、、

 これも同じだ。中高大学生の自転車部時代は勿論だが、今も含めると、かなりのジャンルの自転車に相当な台数を乗り換えてきた。そして結論は?というと、今のサイトに紹介したような自転車達である。どの自転車も結構個性的な選択肢だと思う。今は折り畳み自転車が一番、トレーニングには固定シングルに限る。

 最後にデジカメ、、、、

 これもそうだ。運動会、発表会なら連写能力に長けた機種でE-100RS、日常の子供の成長記録なら何と言っても簡単操作+迅速動作のC-120、自分の携帯用なら汎用電源で小さいってWS30Slimってのが自分の考えだ。この撮影って意味から考えると、作品撮りが趣味で無いのなら、必要なのは機会を得るかどうか?その機会にカメラを使うか?って考えると、速さ、手軽さ、コンパクトさっていうのは、素人がカメラを使うかどうか3大要素である。

 そんな風に自分の選んだモノっていうのは、自分の目から見て、ある一点が満足しているか否かで選択の判断をしている。こういった一芸尊重主義っていうのは、周りを見渡すと案外いない。

 殆どの人が、カメラなら高機能多機能を詰め込んだコンパクトモデルを志向するし、自転車でも、ハイグレードコンポ+最新のトレンドのスポーツバイクを志向する。単車でも一番の売れ筋は、ツーリングからスポーツ走行、所有欲を高い次元で満たす、大排気量マルチエンジンモデルが人気だ。

 でも、そんな考えに対して思うのは、何でも出来るっていうのは、何にも出来ないって裏返しに聞こえるのである。

 そう考えると、俺ってやっぱり変わり者かもしれない。別に趣味モノに限らないけど、日常生活で目に触れるモノって言うのは、時折、ハートのツボにはまってしまう。そうすると、全部試したくなってくるのは良くない浪費性に繋がっている。

 変わり者の上に、浪費家で、アホである。

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2008年2月23日 (土)

みんなの関心事!?

 さっき、久々にアクセス解析を見た。
 ビックリである。興味深いフレーズをみると、

・ロードで時速50km
・ピストの最高速度
・自転車で速くなるには?
・適切なケイデンス

 といった、速さ?に憧れて辿り着いた人が結構沢山、、、、これは、もっと詳しいマニアに聞くとか、ショップで聞くのが一番だろうけど、こんな偏屈ダイエットサイトにやってくるのは、、、、何故?

 ロードで時速50km、、、これは鍛えれば出るとしか言いようがない。気合いと鍛錬で60km/h程度はいくだろう。ピストの最高速度は?っていうと平地の話だろうから、人によるけど、回転数×ギア比が一番大きな数値となる自分のセッティングでどうか?ということ。平地しか考えなかったら、ロードと同じくらいは出るだろうけど、走る場所を全て一つのギアでカバーしようとすると、ロードの最高速の20%落ち位になるんではないか?
 適切なケイデンスは?っていうとは人それぞれだろうけど、個人的には110±5rpmが一番楽である。

 速くなるには、心肺鍛えて、脚力鍛えて、、、、これしかない。これは継続するしかない。ぶっちゃけた話、自分で自分を特別速いとも思わないけど、決して、どうにもならないくらい遅いとも思っていない。素人サンデーサイクリストでは、ぼちぼちか?と思っている。

 まぁ、自分で自分の状態を納得しているのだが、その納得できる状態を得るに到った過去からの経緯を紹介すると、、、、大昔学生時代の自転車部、水泳部経験は除外して、

・直近の15年間、週2回の水泳で、一回の水泳では連続で最低2kmは泳ぐ。普通は3km。
・同じく直近の15年間、最低週1回で筋トレを一時間は行っている。

・最近1年では、実走+ローラー台で1400km/月は走っている。
・実走トレではケイデンスで言えば120rpmキープで35km/h維持を30分単位で行う。
・実走最高ケイデンスでは目標170rpm以上(60km/h近く)を週に1回は行う。

で、その結果は、

・250W×1時間は楽勝で持続できる。この際、心拍数は155~165程度で安定。
・安静時心拍数で35、日常心拍数は45前後、最高心拍数は190以上
・しかし、徐脈とⅠ度心房ブロックと診断されている。

と、そんなところ。機材は、市販の安物ピストと安価な折り畳み自転車。
そして、高価な自転車には絶対に乗りたくないところ。あくまでもチャンガラで走るのが拘りである。

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ビューティーコロシアムはモルモット番組?

 火曜日にビューティーコロシアムって番組を放送してた。これ系の番組は結構多い。この番組は、特に美容整形に力点を置いた構成となっているけど、その美容整形の部分に隠れて実は減量って要素も結構大きなウエイトを占めている。

 これ系の番組では、出演する人の使用(施行?)前、使用後を比較して、ワイワイやるもの。ただ、この前後比較の映像は、純粋な施術以前に化粧、衣服から表情に到る要素でも相当に差異を付けている。特に、化粧って方法が一般的な女性では、その施術外の効果が相当に影響度が高そう。
 言い方にもよるけど、施術という実変化以上に、化粧、衣服という脚色によるゲインアップが甚だしいって感じである。

 さて、そんな演出はさておいて、いつも思うのは、出演者の施行前の努力の紹介VTRが流れるのだが、そんな中で思うのは、様々なダイエットにトライして、、、、、ってフレーズが何時もあるように思う。様々なダイエット、、、、で、その内容としては、単品ダイエット、減食ダイエット、サプリ、、、、ってパターンが多いし、極稀に、スポーツジム通い云々ってあるけど、言ってみれば通うだけなら誰でも出来る。通って、何をどの程度続けたか?が重要だが、そこまで説明する例は皆無。

 勿論、美しさに憧れるってのは否定しないが、それに応じた努力の痕跡が見えるか?っていうと、実は、そういう努力の痕跡が見えるとは言い難い。先天的、骨格的にハンディを背負うって場合も人によっては在るかも知れないが、ならば、それ以外の自分の独力で何とかなる部分を何とかしているか?っていうと、一寸違う場合の方が多い。

 大抵、整形的要素の部分は除外して、肥満的要素については、各人の生活パターンによって生まれた必然体型であり、本人の言うところの努力で、問題解決が得られない場合は、外科的な処置によって強制減量したとしても、それは一時的なモノであり、直ぐに元に戻るのは目に見えている。生活指導を含めて美を崇拝し、それを与えるような構成にしなければ、応募によって施行を施す人は、時間の経過によって更なる酷い状態に陥るのでは無いだろうか?

 少なくとも、このビューティーコロシアムって番組は、結構昔からやっており、初期の出演者が今どうなったか?を追跡して番組で一時的に与えた変化が出演者にとって良かったかどうか?を検証してもらいたいものである。
 視聴率的には今の施行前後のギャップで驚かせる方が良いのだろうけど、施行後しばらく経った状態が施行前以上に悪化しているのだったら、それはモルモット番組にしか過ぎないと思うの自分だけだろうか?

 仮に、超、健康的なダイエットで、二ヶ月で20kg以上の減量を行いたいのなら、このサイトの軽量化日記の日々の記録をトレースすれば楽勝である。
 更に、そういう過激?なダイエットでリバウンドを封じ込めたいのなら、同じく、このサイトの筋力強化日記の日々の記録をトレースすれば完璧である。実績ベースでリバウンドは既に2年以上封じ込めている。
 その上に、結構好きなモノを好きなだけ食える。お奨めである。甘いモノ、辛いモノ、おやつ、肉・・・・何でも食っている。

 これは空論ではなく、実績であり継続中の行動であり、自分が出来るのなら、やる気次第で誰でも出来る筈である。掛かる費用といえば、SCでの設備利用料くらい。
 フィットネスクラブでの高額な年会費も不要。サプリ代も不要。器具的には一諭吉以下の簡単な器具だけである。

 どんなダイエットネタの番組よりも、どんなダイエットプログラム(DVD、教室)よりも、完璧である。また、最近多いダイエットの極意と称したダイエットマスター?によるネット本斡旋よりも完璧である。
 何と言っても、必要なモノは何も無い訳。それで居て、間違いなく体力強化が可能となる。気合い次第で金は不要だ。

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2008年2月22日 (金)

『メタボ』って響き

 40代の男性が6割以上で『メタボ』を自覚ってニュース。
 しかし、このニュースにしても、何故にメタボリックシンドロームっと語句をメタボって略すのだろうか?
 この言葉を略すってのは、結構一般的だ。最近では、若年世代の『KY語』ってのもあるが、何故に略すの?って印象だ。

 このKY語については、長い説明がウザク無い?って理由も聞くけど、本質は別の所にあるように思う。
 それは、同世代のみで認識できれば良いというのではなく、同世代間のみでしか伝えたくないというモノでは無いだろうか?もっと言えば、公に声を大にして言えないというものではないか?
 色んな略語系があるけど、殆どが、事象にたいする不平、不満を表した言葉が多く、それ以外の場合は、全く個人の印象を表現する語句に留まっている。これって、つまりは、声を大にして言えない不平、不満を判りにくくして言ってストレスを解消しているだけのように見えるのは、オヤジの戯れ言だろうか?

 そして、このような略語体っていうのは、往々にして、本当の意味を茶化す、誤魔化す、といったそういう場面に多く使われているように思う。

 脱線した話を戻すと、メタボリックシンドロームをメタボって略す事で与える印象と言えば、それは、危機感を希薄にして皆同じ状況に為っている事で安心し、安心=安全と勘違いしているような印象だ。実際、メタボって言い回しによってサラリーマン川柳で面白可笑しく言い回されたりしている。テレビの娯楽系番組でも芸人がメタボって表現で滑稽に笑いを取る場面も少なくない。

 極端に言えば、交通ルールを面白可笑しく風刺した『赤信号、みんなで渡れば恐くない』みたいなノリに聞こえるのである。

 メタボリックシンドロームって状況が終末的な状況の引き金になり、最終段階では手の打ちようが無い重大疾病に繋がるって意識があまりにも希薄であり、その前段症状からの脱却が出来ない理由に、忙しいから!って理由が聞こえる段階で、多くの人にとっては、危険意識レベルは低い状態になっているように思う。
 情報を受ける個人、伝えるメディアの双方が、メタボって略して表現する段階で、何か間違っているような気がする。

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気に入ったデジカメ

 デジタルカメラ熱が随分と治まってきたが、自分の中での落とし所?としては、随分と人と違った所に落ち着きそうだ。

 当初は、高速連写+プリキャプチャーっていうのでデジカメ熱が再発したのだが、その後は、固定焦点+単焦点+見える液晶クラスを経由して、最終的には激シンプル型が一番良いと思う事になってしまった。

 この激シンプルな仕様としては、

・アルカリ乾電池で長時間駆動OK
・記憶はフラッシュメモリなら内蔵、交換可能に拘らない。
・サイズはタバコケース以下、100g以下がベスト
・再生液晶は不要
・最高画素数は30万画素でOK
・今なら1000円以下で調達可能

 ということだ。これって、所謂、5年前のオモチャデジカメ、トイデジと言われるクラスである。そうなんだが、この程度で自分のサイトに掲載させる写真は十分OKということなのだ。

 トイデジタルカメラ=オモチャであり、ブーム時には数多くリリースされるけど、アッという間に市場から消えて、入手困難となるパターン。でも、有れば1000円以下で調達可能。仮にジャンクの動作保証無しで不動品に当たっても、承知の上なんで気にならない。更には、使っている最中に紛失したり壊しても惜しくもない?ということで、これは結構良いなぁ!って思う所。

 そんな中で『これは!』って機種をピックアップすると、

.日立マクセル WS30SLIM/Largan Chameleon 2
・長所
 マクロ付き、単四電池で長時間駆動、内蔵フラッシュメモリー8MB、コンパクトサイズ
 F3.47で明るい、前モデルから格段に向上したボタン配置、節度感、操作性
 快速レスポンス(シャッター速度、起動時間等々)
 スペックは兎も角アスフェリカル、マルチコートガラスレンズ採用
 内蔵メモリながらデータ吸い出しが超高速(Fuji系に較べると段違い)
・短所
 42mmで一寸望遠気味
 トイデジの宿命か?設定が記録出来ない。(他モデルも同じだが、、、)
・備考
 Largan Chameleon 3ってモデルもある。
 これは、Chameleon 2にビデオ出力が付いたモノ。後は同じ仕様。
 トイデジの究極形態というか完成形に間違いない。あれば買い足すつもり。

2.日立マクセル WS30/Largan Chameleon 0.4
・長所
 マクロ付き、単三電池で長時間駆動、内蔵フラッシュメモリー8MB、コンパクトサイズ
 35mmで広角気味、快速レスポンス(シャッター速度、起動時間等々)
 内蔵メモリながらデータ吸い出しが超高速(Fuji系に較べると段違い)
・短所
 節度感の無いボタン、配置の悪いボタン体系、F4で一寸暗い、激しくチャチ
 単三電池仕様故にブ厚いのでワイシャツポケットには厳しい。
 レンズはプラスチック。
 ストラップ交換が難しい。
・備考
 OEM元のLargan Chameleon 0.4ってのはCCDセンサータイプ?後はWS30と瓜二つ。1000円以下なら確認してみたい。仮にCCDで綺麗に撮れるんなら最上位になる。という思いで、動作未確認なるWS30とLargan Chameleon 0.4を入手して解体してみた。
 外形は全く一緒で色違い。中身は、、、基盤は概ね共通だが見える範囲でチップが各所で異なる。基盤迄は解体していないので中身は不明。唯一大きな違いは、WS30が中国製で、Larganは台湾製というところ。WS30は不動なんでLarganの補修部品としてストック予定だ。

3.富士フイルム AXIA ix-20
・長所
 単三電池で長時間駆動、スマメ利用可能、F2.2で相当明るい?
・短所
 WS30系に較べるとデカイ、レスポンス悪い(タイムラグ)、マクロ無し
・備考
 WS30Slimよりは劣る(勝負にならないデカサ)けど、WS30とはチョイス上良い勝負。一寸大きいけど、スマメ対応に加えて、何よりも明るいF2.2のレンズ。殆ど見かけないレンズ仕様だ。ix-130(F3)より魅力的。E-100RS等の明るいレンズの威力を実感しての話。逆にA101/A202の暗いF4.6レンズで悲しんだ上での話。

4.その他
 ランダムに挙げると、Casio LV-20、Fuji Clip-it DS-10辺りも気になる機種だ。やっぱり35万画素機で十分かなぁ?と思う今日この頃である。画素数制限を外すと、WS80、DC-85、Revio C2、@xia ix-130辺りも候補だが、何れも微妙に大きかったり、評判今一だったりする。

 この辺に関心を持ったのは、電池が死亡気味のEyeplate megaで遊んでから。これ系のカメラ、潔くって何か好きだ。シンプルな構造、操作性が一番だ。特に、汎用乾電池で激薄コンパクトであるWS30Slimは相当にお気に入りである。
 こういう液晶無しでアルカリ乾電池前提のモデルは割り切りが潔い程に魅力的。

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2008年2月21日 (木)

車、巨大化中、、、、。

 最近思う。ショッピングセンターや公営の駐車場に車を停める際の話。車を停めるエリアを示す線が引いてあるのだが、この線にキッチリ納まるように停める車があまりにも少ない。駐車場枠サイズは昔から大きくなっていない反面、乗用車は巨大化中であり、枠に収めるのが難儀になってきたのは判るけど、だからこそ、枠に収まるように入れるのが他の利用者に対するマナーである。

 そう思うのだが、殆どの車、特にご婦人方の車は酷い停め方である。入れる事が出来ないのか?入れる気がないのか?いずれにせよ、そういう公共性が守れないというか、そこに罪悪感を感じないのなら免許は返上すべきではないだろうか?

 これは、団地の狭い道でも思う事。生活道路の道幅は決して広くなっていない。しかし、車は大型化、、、、で、結局、路肩に寄せる事が出来ないのか?上り優先等のルールが判らないのか?知らないけど、我が物顔で突っ込んで見掛ける口げんか、眼跳ばし、、、、

 そんな事を思ったのは、先程見た車のCMでの一コマ、、、それは、現代のドライバーの実態に併せてかどうか知らないけど、アラウンドビューモニターとか、駐車アシストとか、バックビューとかといった車の位置アシスト装置。こんなのが必要なくらいなら免許返さないと駄目だろう、、、、画面見て運転していると視野外から飛び込む子供とか轢き殺しそう、、、。

 最近の車の形状は昔に較べると巨大で大型。運転免許試験も、その実態に併せた試験にしないと駄目な気もする。自動車学校のコースはもっと狭く、試験車両はもっと大きくするとかして車両感覚くらいは身に付けさせないと、、、、、

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国際学力テスト、第10位!!!

 火曜日の午前中、所要で車で移動中のラジオで聞いた話。今年、義務教育後の世代を対象に無作為で6000人を抽出して国際学力テストが行われたそうだ。今年で三回目との事だが、初回はトップだったのが、今回は10位に迄落ち込んでいる。
 その中では、特に理科離れが顕著であるそうだ。

 そんな実態に危機感を覚えたのかどうか知らないが、文部科学省の教育指導要綱は『ゆとり教育』からの方針転換で30年ぶりに教える内容が増えたそうな、、、、。

 では、果たして30年前の教育を受けた世代がまともか?と考えると、30年前に義務教育を受けた世代っていうと、45歳以上の世代か?で、たしかにまともな人もいるけど、そうでない人も多い。その下の世代でも社会人世代を見渡して思うこと、、、、、微妙だ。

 どうにも、独創性、発想力に乏しい人が多いように思うのは気のせいだろうか?何よりも、自分で意見を出せない人があまりにも多いように思う。殆どの人が他人に同調するような人ばかり、自発的に行動を起こすってタイプの人ってのは居ない。

 まぁ、自分自身、大した事は出来ないけど、長きに渡り塾の非常勤講師~塾経営を行ってきて時代毎の中高生を見てきて、自分の生徒を通して見た、その世代の中高生や教員、親の姿、或いは、その後、卒業して就職してくる若年世代の姿は、やはり思考のアルゴリズムに独創性が見当たらないという事である。

 考えてみれば、日本の教育っていうと、殆どの科目において、公式、法則、原理の簡単なガイドラインを説明して、その解法を当てはめる事例を例題として紹介した後に、その例題と殆ど相似な問題(数違い、虫食い、条件違いレベル)を類題として演習させた後に、その類題が解けた時点で理解したと判定するような手法に終始しているが、これって、型に嵌った問題のみにしか対応できない能力しか無い奴を大量生産しているだけのように思える。大体、入試問題で過去問で傾向対策すれば良い点が取れるってシステム自体が大きな過ちだ。

 実際、企業に就職して様々な教育?を目の当たりにしても、同じ印象しか受けないのが実状である。安全教育、新人教育、設計における技術教育、現場での作業方案指導・・・・殆ど全てが、そんな感じである。あまりにも形に当て嵌めすぎた指導と教育、設計においては、関連性を超越した形でのチャート、公式の利用方法のみの実習に終始しているのは、何か違うような気がする。
 それ故に、新たなる製品を開発したり、新技術に対する取り組みには及び腰であり、難問に対する考察も行えない、問題解決から得た知見をフィードバックせずに似た問題を繰り返す・・・・そんな風に見えるのである。

 本来、ゆとり教育っていうのは、原理から分化した数多くの公式を詰め込むような教育を改め、公式に分化する前の原理を理解し、本質を見抜く目を養わせ、そうすることで体系的な科目外の体験の中にも様々な原理が潜む事を発見させるのが本筋では無かったのだろうか?単なる、指導科目の量の増減でゆとりか否か?を議論する思考自体が『ゆとり』的では無いだろうか?

 例えば、クイズ的な話だが、一般に平方根を求めるっていうと、何通りかを語呂で覚えるっていうのが通常で、それを組み合わせて求めるってのが普通。しかし、少し前の世代なら開閉計算って筆算で求めるってのも知ってるかもしれない。ただ、この開閉計算にしても単に手法のみ暗記するのと、その意味を考えるのでは全く発展性が異なってくる。考え方を拡げれば、求めたい面積の正方形の一辺の長さを位取りの概念と併せて求めるという方法にも見える。そして、そういう見方ができれば、立方体の一辺長に展開して考えれば立方根も求めることが出来る。
 更に、平方根、立方根を求める際の漸化性に気付けば、実は5乗根、7乗根も求めれたりする。(実際は相当に面倒くさくなるし現実的でないけど、考えると面白い。)これは学校では習わないが、気付けば面白いモノ。

 他にも、分度器を使わずに正5角形を作図するとか、或いは、天体における季節や時刻で見える星座を作図的に求める方法とか、或いは、中学二年の身体の役割なんかでは、臓器の役割なんかも結構簡単に理解できる方法等色々あるんだが、そういう面白い解法っていうのは、まず学校では習わないし、塾や参考書でも見えてこない。

 しかし、そういう所に、本質っていうのがあると思うのである。なんか表面的な語句だけ曖昧に覚えている連中は色んな勘違いしているように思う。大卒理系でも熱力の法則、モーメントなんかが良い例だし、酷い奴になると、抗力と重力が作用反作用の関係って言う奴迄居る始末。こうなってしまうと、修正不能である。

 日本の社会を見て思うこと、若年世代に対しては公式偏重、解答への迅速性重視の傾向が強すぎるように見えるし、年輩世代に対しては経験という名の保守性、或いは、立場故の知ったかぶり現象が強すぎるように見える。どこの世界でも同じかもしれないが、なんか、新しい何かを生み出す力っていうのが、どの世代にも備わっていない気がするのは考えすぎだろうか?大企業は違うかも知れないが、少なくとも中企業以下では、そんな気がする。

 ふと、思うのは、(上役から部下迄から)色んな実務上の質問を受けて普通に答えているけど、答えを簡単に教えてはいけないような気がする。せっかく、質問に遭遇したのなら、その質問を思い付いた機会を本人に有効利用させるべく、自分で考えさせるようにし向けるのが優しさなのかもしれない。必要なのは担当者にやる気と、自分の愚かさの両方に気付かせる事のようにも思う。

 しかし、こんな愚痴ばかりこぼしてもNGな訳であり、資本主義社会においては、そういう構成で成立して資本の再分配という形で財を成している。超後ろ向きで考えれば、周りの能力と財の均衡を見て、適当に手を抜いても極端な話、罪悪感は沸かない。
 こういう風に思うのは間違いだが、そういう思いを持つ人が増えると更に社会における生産活動は停滞的になり、価値を生み出す事に生き甲斐を持つ人も少なくなりそう。実際、そうやって日本は投資国家に変貌を遂げつつあったりする。

 なんか、書いてる事が支離滅裂になってしまったが、まぁ、愚痴っぽい戯れ言なんでOKだろう。

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2008年2月20日 (水)

イージス艦、海難事故

 最近は防衛省の事故、不祥事がニュースを賑わしている。
 で、今回はイージス艦と漁船の衝突事故。まぁ、複数の異なる個体が無関係に運動しているのだから、確率的な程度はともかく、衝突するって事はあり得る話だが、今回の関心事って言うのは、今回のイージス艦の言い分が時間と共に変わっていると言う事。

 言っている事が変わっているというのは、言っている事が事実を覆い隠している事の裏返し。ぶっちゃけた話、恐らく、イージス艦は衝突の極直前迄漁船を見つけていなかったというか、見ていなかったのでは無いか?その基本的な過ちを隠すために、見ていたという前提を説明したものの、言っている事の整合性が取れずに話が変質しているのでは無いか?という風に見える。

 こんな事故に限らず、一般的な事故や失敗において、報告を受ける場合、大抵は報告者は自身のミスを報告せず他の要因を挙げて事故原因を不明瞭化するっていうのは、よくある話。今回も全くその通りでは無いだろうか?

 そういう訳で、今回の事故も恐らくは同系の話だろうと思う。

 いくら、海では事故が多発する。夜は見えない。大きな船は慣性が働き急な運動変化は期待出来ないとは言っても、、、、、普通に考えて海難事故のステージは海であり、海の広さから考えると船のサイズなんて高々知れている。それなのに衝突するというと、見ていなかったと考えるのが全く妥当である。危険回避の国際ルールが決められており、目視レベルでも認知できる距離があれば、衝突による影響が軽微となるような運動状態の変化を与える事は可能な筈。

 海での事故は結構聞くけど、恐らくは、殆どは海という広大な空間故に衝突する筈がない!という思い込みによる監視怠慢によるものとしか考える事が出来ない。そんな気がする。

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時間配分

 平日は兎も角、休日の時間の使い方である。
 休日と言えば、日曜日、祝日だが、そんな休みの日には、好きな単車に乗らなければならない。でも、単車に乗って楽しむには、結構、遠出したくなるし、楽しめる場所に出掛けるには時間も掛かる。単車で楽しむには最低でも2時間は必要である。しかし、そんな事を言っていれば単車に乗る時間なんか確保出来ないのが現状である。所帯持ちの場合、自由な時間が2時間連続で毎週確保っていうのは、子供が小さいとなかなか難しいのである。

 今の生活では、時間としては子供が活動する前、子供が昼寝している時、といった生活の時間の隙間しか趣味の単車や自転車に乗る時ってのが無いのである。

 そんな生活で趣味を満喫するにはどうしたらよいか?である。自転車、単車を両立するには、どうするか?がここ最近の課題というかテーマであったのだが、ここ何ヶ月か、そのテーマが自己完結しつつあるのである。自転車に乗らないと身体が衰える。単車に乗らないと、感覚が衰え、機械自体も調子を崩す。だから、両方乗ろう!と心掛けている。

 で、結果的に落ち着いた時間の使い方だが、自転車に乗るのは、一日の前半戦である。大体、午前7時出発~午後2時帰宅迄である。つまり、出発時刻としては、午前7時から、遅くても午後12時半迄である。午後1時を過ぎると、自転車で出掛けるのは急激に腰が重くなるのである。
 それに対して単車にのるのは、午後2時以降である。この時間帯は子供は昼寝モードであり、そんな一時を利用して単車に乗って峠に出掛けたりしている。午後二時に出て、まぁ、午後4時半くらいに帰ってくるパターンである。台数を沢山乗る場合は、短いインターバルで乗り換えながら過ごし、一台に集中する場合は市外迄足を伸ばす。

 自転車に朝乗るのは、寝起きで身体を起こすのに都合が良いし、その後、家族で買い物、食事・・・・と続ければ疲労感は殆ど感じない。しかし、自転車を夕方前に乗ると結構疲労感を感じる。そんな疲労感の感じ方からか、自転車は疲れを感じない朝乗るってパターンが多い。
 単車の場合は、朝出庫してエンジンを掛けるという行為が気が引けるのもあるし、朝っぱらから遊びに出るという空気が出過ぎてしまうのがNGだ。昼下がり以降では、出庫するにも気を遣わないで済むし、夕方前迄ワインディングを走っても、自転車で走る回る程の肉体疲労は無い。単車の場合は、精神的な疲れの方が多いけど、その後の晩ご飯作り(日曜の晩ご飯は私が当番!)、子供と入浴、自分の運動と続く日課の中では、身体を少し休めながら気分がリフレッシュできるという意味で良い具合なのである。

 こういう風に乗る時間帯が分かれてきたのであるが、これが結構良い具合である。

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2008年2月19日 (火)

屈伸運動でスイスイ通勤

 なんだそうだ。これは、2/18の地元ローカル新聞ネタで、引用もとは、

http://www.chugoku-np.co.jp/Reporter/Rn08021801.html

 である。なんでも、10kmの距離を20分で走るとのことで、結構速い!
 因みに、このリカンベントとこのサイクリスト、去年、太田川沿いで何度か目撃したことある。人違いか?とも思うのだが、その際の印象は狭い歩道でリカンベントは結構邪魔って印象である。

 それはともかく、こんな記事が新聞に掲載されること自体、自転車ブーム、健康ブームって事。そして、もう一つの驚きは、この人、俺より年下だったって事。絶対、年上だと思っていたけど予想は見事に外れた。

 でも、そう言えば、最近は自転車がメディアで取り上げられる事が増えたなぁ、、、、ネタ的には、健康ネタか、交通事故の加害者ネタかのどちらかであるが、、、、。

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スーパー電チャリ

 何でも、パナソニックからフラットバーロードでチタンフレーム+カーボンフォークという本格仕様の電動アシスト自転車がネット限定で販売されるという。他にも、前後油圧ディスクブレーキに8段変速、そして非接触式モーターで非アシスト時も軽いという。

http://club.panasonic.co.jp/mall/cycle-webstudio/open/product/custom/flatroad/

で、コンセプトは10kmを30分で移動出来るように、法定速度上限の25km/h迄の加速性能を最大限高めるというコンセプトらしい。それで、その名は『T・E・N』という。10kmサイクリングを楽しむが、そのまま名前になっている。

 『オッ!』って思う反面、そこまで楽に高速に移動したいのなら、単車かなぁ?と思う部分もある。確かに、自転車という括り故の手軽さはあるかも知れないが、価格的には相当に高価であり、その価格の割に実質的な速度上限が25km/h未満に抑えられるのは微妙だ。

 但し、狙ったターゲットが団塊?世代で、効果的なサイクリングで健康効果+一寸ハイグレード?ってノリならアリかもしれない。しかし、こういう自転車に載った激走サイクリストとホームコースで遭遇したら結構難儀かもしれない。

 ホームコースへの通いの最中に時折遭遇する、電動アシストサイクルに乗ったおばさん連中、これは実は結構速いのである。何と言っても、発進加速の鋭さはスポーツサイクル以上である。そういう意味で、激走思考のオジサン達が、こういう武器を手に入れると凄そうである。買おうとは思わないが、走っている姿が見てみたい。

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次世代DVD

 次世代のDVD方式の覇権争い。ブルーレイとHD-DVDが争っていたが、遂にHD-DVDのメーカーである東芝が撤退か?とのニュースが報道されて、決着が付いた模様。

 昔のビデオテープでのVHSとベータの争いでは、性能上優れていると言われていたベータが破れ、VHSが勝者となったが、今回は、性能通りでブルーレイが勝者となった様子。

 さて、そんな次世代DVDだが、これが本当に普及するのか?というところに興味が移る。

 なんといっても、未だVHSが現役の我が家である。DVD化にしてもDVDを高解像度低圧縮で保存しているか?というと、実は一番多いのがLPモードでDVD一枚で4時間(30分アニメを8本、娘のプリキュア用です。)を記録させるという使い方である。大体、VHSでも三倍録画で済ませる事が多い。つまりは、画像品質以上に、録画効率を重視している。これは、自分に限らず、多くの消費者もそうだと思う。実際、メディア売り場では、VHSの場合は3倍でも綺麗!とか、DVDの場合は、LPモードが録画時間と画像品質からお奨め!って言われているのが現状だ。

 最近は、テレビのCMでもハイビジョンが連呼されているが、ハイビジョンが必要か?というと、これが微妙で従来解像度でも不満は感じないし、DVDでもハイビジョンで見たいか?というと、実のところ、あんまり魅力を感じていないのが現状である。

 今、地上波、CS放送と色んな放送形態がある。しかし、実際は、テレビのハード面でハイビジョン化が進んでも、放送コンテンツ全てがハイビジョン化されているのではない。かなりの割合のコンテンツ(番組)が従来解像度である。そして、ハイビジョン液晶パネルで低解像度を表示させた時程に汚い映像は無いのが現状である。(この汚さを実感する一番判りやすいのが、家庭に多く普及したパソコンで画面解像度は1280×1024ってのが主流だろうけど、この表示プロパティを変更して640×480って解像度で見れば一発である。液晶等の高解像度専用表示装置は、想定外解像度を表示すると激しく醜いのである。)そんな訳で、放送コンテンツの解像度が入り乱れた現状では、実はテレビにしてもハイビジョン対応のプログレッシブブラウン管が最も綺麗に(低解像度~高解像度のコンテンツがトータルで綺麗に)見えると思う。

 仮に液晶パネルでも、大画面で見る時はハイビジョンの高精細な画像は綺麗だが、我が家のテレビのように32インチ以下の場合はハイビジョンでなくても、、、、ってところが正直な所。
 地上波デジタル化が完了してアナログ放送が終了したとしても、チューナーを用いて旧世代テレビの延命が一つの選択肢としてある今、そういうテレビではコンテンツ自体はデジタル放送だが、表示自体は従来解像度のままであり、そういう商品が注目されるってことは、解像度に対しては一般的に大きな拘りがあるのか?というと、実に微妙である。

 本当の意味でハイビジョンが普及するのは、ハイビジョンならではの大画面表示のコストが普及価格帯に下りるか、大画面表示ならではのメリットが提案されてからの話。更には、放送コンテンツ全てがハイビジョン制作で無いとダメ。そして、そういう時代が来た時には、恐らく、BDのフォーマットとは別のフォーマットが主流を占めていると想像したりする。現行の次世代DVDは、BDでも50GB、HDでは30GBであり、通常DVDの10倍どまり、、、これでは、表示品質が上がったというだけだ。上がった表示品質の恩恵を受けるのは36インチ以上の大画面表示で1画素辺りの面積が大きい場合だけ。

 何となくだが、ハイビジョンが一般的になった時には、既にブルーレイでも旧世代で、全く新しい記録方式がメジャーになっているのかなぁ?なんて想像したりする。勝手で根拠の無い予想だけど、今思うのはメモリーデバイスへの記録がメジャーになるのでは?ってところ。CD、DVDとディスクデバイスっていうのは結構神経質だし小型化にも限度がある。それに較べるとシリコンデバイスの高容量化は凄まじい勢いだ。SDカードの発展型に行き着いたりして、、、、仮にディスクデバイスならばHDDしか無いように思う。

 或いは、デジカメの世界と引っ掛けて思うのだが、デジタル画像の場合、表示面積に比例して高解像度が必須となる。これって、表示エリアが100インチ以上にまで巨大化した場合には、解像度が追い切れない可能性も出てくるのではないか?
 そうすれば、或いは、将来、アナログ的に回路に戻るのでは無いだろうか?デジタルの弱点は隣接情報が欠損していることだが、デジタルを基本に、本来は欠損する領域をアナログ的に補間推算するようなシステムが一番理に適っているように思う。そんなアルゴリズムが生まれれば、基本情報として最低限のデジタルデータ+表示面積に応じたアナログ補間によってデータの圧縮伸張を自在に行う事ができる。そうすれば、旧来DVDでもOKかもしれない。オーディオ機器の世界ではいざ知らず、パソコン用機器を思い起こせば、その昔、動画圧縮伸張は専用のハードウェアを要していたが、CPUの高速化によってソフトウェアで普通に動くようになった事もある。そう考えると、ハイビジョン表示=高容量メディアという方程式以外でも成立するようになるかも?って期待したりもする。

 今、我が家ではケーブルテレビをデジタルSTBで受信視聴している。このSTBは、Wチューナーでハイビジョン録画可能なHDDも装備しているけど、このHDDが直ぐに一杯になる。結局、データ量が多すぎであり、これが所詮50GBレベルのBDを利用して追い切れるか?というと甚だ疑問だったりするのである。で、実際は、HDDにHV録画と並行して、別のHDDには通常録画して、残すモノを従来DVDにLPモードで残すというパターンである。録画時間重視してEPモードで録画したけど、あれはブロック状ノイズの嵐となって使い物にならない。LPモードならOKで、それ以上のXP、SPとかは不要とも思えるのが私の感想だ。他人は知らないが、DVD録画でLPモード主体で見ている人にとっては、ハイビジョンもクソも無いのでは無いだろうか?

PS この記事は、実は日曜日に書いたモノ。で、月曜の段階で、今回の撤退報道については東芝は否定しているようだが、こういう報道が為されるってのは、どこからかリークされている可能性もある。これが虚偽情報であったとしても、このダメージは相当に大きい。

 そんな訳で、恐らくHD方式は破れるのが決定的か?とも思えるのだが、高い互換性を持っているならば、価格的な消耗戦に持ち込めば勝機が生まれるかも知れない。勝機というよりも、DVD世代の次、BD世代の前という形で棲み分けを狙うのも一つの戦略である。BDと同じ土俵でHV録画というのではなく、超高密度DVDで、従来解像度でありながら記憶容量が10倍となって録画時間が10倍となるならば、大きな存在意義が出てくるとも思う。旧来DVDは記憶時間があまりにも短いのがNGであり、これからハイビジョン化がデフォルト化するには、未だ尚時間を要する気もする。ハイビジョン化する前に、記憶容量の大型化という方向性を提案し市場で受け入れられれば、次のステップも生まれるかもしれない。
 そういう方向性で、メディア単価を従来DVD並にするとか、録画再生機も同様に従来機並にするとか、そういう戦略が必要である。

 長々と書いたけど、次世代DVDという括りでは、BDが勝ち、HDが負けなんだろうけど、次世代高密度記録デバイスでは、ディスクデバイスでは勝ち目が無いように思うのが感想だ。CDが登場したのが1983年頃の話。その後、デジタル化が進んだけど、案外、アナログ論理を用いた回帰現象が起こる転換点の時期に来ているのかもしれない。

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2008年2月18日 (月)

街道レーサー!?

 今、春の直前だが、一番寒い時期でもある。これ程寒いと自転車少なそうなんだが、先週辺りからレーシーな装備+レーシーな自転車という組み合わせを沢山見掛ける。

 今朝(日曜朝)も、沢山見た。

 で、、、、、どうでも良いのだが、こいつらウザ過ぎである。

 この多さは何か?というのは、先週の日記にも書いたけど、3/16に迫った西日本チャレンジという素人レースが迫ってきたからか?ということだが、、、、なにがウザイか?というと、こいつらいちいち人に反応しすぎである。

 こっちは、単車にのるためのコンディション(体力、持久力)維持のために、余った時間を利用して自転車に乗っているだけ。日頃から単車に乗りまくる時間は無い。単車は乗って出掛けると最低でも3時間は出掛けたい。だから、所帯持ちには無理なんである。だから、1時間でもみっちり鍛えれる自転車に乗っている。勿論、自転車自体も楽しいけど、何よりも峠やワインディングで単車を操る自分で在りたいのが何よりで、それが出来るために、自分のテーマ?を掲げ、それに併せた乗り方をやっているだけで、あくまでも人は関係無しで35~40km/hで淡々とペースを換えず走っているだけなんだが、そうやって走っていると、好む好まざるに拘わらず、前方を走る自転車を抜かざるを得ない状況に遭遇する。
 勿論、遭遇してからは、嫌みの無いように、大外から、或いは、狭い場所では声掛けしてから抜くのだが、中には、抜いた途端に真後ろにピッタリつけたりする奴がいる。

 ピッタリつかれるのも嫌だが、途中で離れて消え去る程度ならば、付いてくるなと言いたいところ。鬱陶しいのである。酷い状況では、こっちは信号で確実に停止するけど、その信号で追いついた途端にシグナルスタートで、目の前を、くそ遅い蝿のようにふらついたり、酷い奴になると、信号無視してまで追い掛けてくるのが居る。

 結構な大人的風貌で少なくとも学生では無いのだが、イタ過ぎである。

 今朝は、キャノンデール、トレック、ビアンキ、ピナレロのバリバリ系ロードがそんな感じ。お前ら、装備や自転車が泣いてるぞ!って思う程にイタイのである。ところで、本日の最高傑作は、バリバリレーシー?なウェア等装備のサイクリストが一台居て、無気になって追走してきた様子(振り返る事はしない、背後の気配で感じただけ)だが、5分もせずに消え去った後に、帰りの北大橋で引き返している最中、つまり、こちらは引き返して帰っている最中にすれ違ったのだが、こっちを見るや否や、エラク不愉快そう、、、、絡んできたのもオマエ、付いて来れなかったのもオマエ、で、その表情は無いだろう。余裕無いのか?

 勿論、そんなイタイ自転車ばかりでなく、中には、普通に挨拶し合う自転車も居る。同じキャノンデールでも真っ赤なキャノンデールに乗った年輩の方も遭遇したが、この人は、以前、ホームコースを撮影しながら走っていた時も前方に居た際に声掛けして抜いたことがあるけど、普通に対応して、極常識的な方。
 太田川橋近辺で離合したアンカーに乗られた方も以前から何度か合うけど、ごく普通に挨拶できる人。

 普通な人もいるのだが、それ以上にイタイ奴が多すぎる。これがブームであり、ブームの弊害かもしれない。
 単車のレプリカブームの時代もそんな感じだったなぁ、、、、。

 それにしても、一般公道っていうのは面識もない、見ず知らずの人が、それぞれの意志で利用しているのだが、そこで競争や煽りを行うのは何故か?少なくとも、未成年の行動なら理解出来ないではないが、いい歳したオッサンが、そういう抜かれたら抜き返す、速そうなの見たら追走する、意図的な嫌がらせするとか、、、、、再度教育を受ける必要がある。少なくとも、あかの他人であり、相手が何者か?判らないのに挑むなんて、ナンセンスだ。機材と装備が全てって錯覚でもしてるんだろうか?何時も、挑発してくるサイクリストに対して思うのだが、『あんた、何してるの?速いつもり?』ってこと。思うに、青少年期に然したる運動経験無しで自転車=スポーツって思ってる奴、身体能力無さ過ぎだ。
 俺も若くはないけど、伊達に水泳を30年もやってる訳ではないし、筋トレだって既に続けて15年近く経っている。ウザイのは嫌だ。

 そう言えば、全く話しが変わるけど、土曜日の事、普通に信号待ちしていたら、前にレクサスのIS250、その前に女子大生が乗ったスクーターが居たのだが、このスクーターに車間1mくらいでピッタリと煽りながら追走するレクサス、、、、、レクサスっていうのは、トヨタの高級ブランド?らしいけど、こういう輩に売っているようでは、レクサスの営業もたかが知れている。金持ち?かどうかしらないけど、高価格車の運転者っていうのは運転自体がガラ悪い。まぁ、これは大型ミニバンも含むけど、、、、こういう煽り系はいけないけど、そういう世の中なのかもしれない。

 教育が悪いのか?精神年齢が低い奴ばかりか?それとも、そういう民族性なのか?或いは、メタボ全盛のこのご時世、肉ばっかり食って野菜不足でカリカリしているのか?もう少し余裕を持てば良いだろうに、、、。

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2008年2月17日 (日)

ニュース?

 テレビ朝日の報道ステーション、古館さんは結構謝罪しているみたい。今回は、『アダルトチルドレン?』って文言の誤った使用で、、、、

 でも、その前に結構色々とテレ朝は謝罪をくりかえしている。

 その前に、この報道ステーションって番組だが、これはニュースなのか?という原点に立ち返って考えると、、、、、、

 この番組は、世の中の出来事を伝えるという報道番組的ではあるけれど、すくなくとも、客観的に事実を伝えるというスタイルのニュースではないような気がする。
 この番組は、時間帯こそ平日の午後10時頃という全番組のニュースステーションから引き続き放送されているけど、この番組は、夜中のワイドショーに過ぎないのでは無いだろうか?

 報道されている事、され方、表現をみると、普通に昼下がりに放送されている各局のワイドショーそのもののように見える。

 ワイドショーならキャスター、司会者の主観等々は全然OKであり、雑紙で言えば、純粋な新聞とは違い、怪しい週刊誌に近い状態ではないだろうか?

 そう考えると、まぁ、堅苦しく考えず、こういうのもアリか?という気持ちで見れば全然OKである。

 ところで、最近の報道系ワイドショーは相当に司会者の主観や演出が過剰に入っているが、物事に対する批判が多すぎである。何事にかんしても否定はOKだが、批判はNGだ。これは、日常生活でもそうだが、否定的な意見の先には改善が見える。しかし、批判は批判で終わってしまう事が多い。報道系ワイドショーは、今見渡すと、殆どが批判型ワイドショーである。

 最近は、CS放送、地上波デジタル放送・・・・と放送形態が多様化してチャンネル数も増大しまくっているが、その割に、コンテンツは今迄通りで、殆どが再放送とか、同じ番組のタイムシフト放送が多いけど、どうせなら、報道番組も色んなパターンで放送したら面白いように思う。

 例えば、

1.完全なニュース・・・・・出来事を客観的事実のみ伝える。
2.批判型ワイドショー・・出来事を批判する論評を加えて演出する。
3.肯定型ワイドショー・・出来事を全て良い解釈で演出して伝える。

 こうすれば、チャンネルによっては、視聴者の意識は随分変わるかも知れない。

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2008年2月16日 (土)

理想の食生活

 ダイエットに効果的な食の摂り方について。
 健康的な食生活はなんぞや?と言えば、バランス良くしっかり噛んでゆっくり決まった時刻に食べるってのは極自然に言われている事。

 でも、その表現はあまりにもマクロ的な話であり、もっと詳細にミクロ的にどうか?は、相当に食に拘っていない限りは知られていなかったりする。

 ミクロ的に言うところとの一番馴染み深いのが、しっかり噛んで(例えば、一口30回とか)食べるって言うのが一般的だが、ダイエット目的というと、食べる順番に拘るって説も結構有名である。
 これは一般的にどんな順番か?というと、

 食物繊維→タンパク質・脂質→炭水化物

 ってのが良く言われている。で、その効果、効能っていうのは、満腹感を早めに来させ過食を防ぎ、血糖値の上昇を穏やかにするために食物繊維を先に食べるって話であり、この件に関しては、自分もなるほど!って思って、その習慣を守っている。

 でも、これって多少の順番の違いはあるものの、普通の洋食のコース料理で出される料理の順番にも概ね当て嵌まる食べ方であり、殆ど今では馴染みの無い和食のマナーでの食順にも近いものである。
 日本人の食生活っていうと、食べる場所的なスタイルは和食チックな部分が少なからず残っているかもしれないが、出される料理っていうと、メインディッシュとなるおかずは、殆ど洋食である。特に、洋食の家庭料理というと味が濃いめであり、その濃い味+御飯という洋食高カロリー+和食高カロリーの組合せを雑多に食べるのが現代日本人の食の実態である。

 高カロリー食を混合して一気に食べるのが日本人の食生活であり、これは、伝統的な和食マナー、西洋食マナーとはかけ離れた食べ方であり、それ故に、生活習慣病や肥満に陥りやすいのだろう。
 現代日本人の食のスタイルは、どの段階で生まれたのかしらないが、生活習慣の西洋化によってもたらされたのは間違い無い訳であり、それ程長い伝統に裏打ちされたモノではない。それ故に、そういう文化の複合化による一つの結果が現代の生活習慣病として現れているとも言える。

 逆に、現代の生活習慣病の一つの要素が、食スタイルの和洋複合化にあるとすれば、その本来のスタイル(和食であれ、洋食であれ)に戻す(前述の食順を守る)ことで、現代病である生活習慣病や肥満からの脱却が可能とも考えられるのである。

 自分自身、こういう食順を守り始めて丸二年が経過している。体重はずっと一定で、食事はどう変わったか?というと、そう言えば、食べる御飯の量は明らかに減っている。

 昔は好物のおかずがあれば、御飯と交互に食べるので、御飯3膳程度は当たり前だったけど、今は、サラダ→メインディッシュ→納豆御飯というスタイルなので、御飯は確実に一膳オンリーである。勿論、空腹感は無い。これは、食順によって満腹感が早く現れ過食を防止しているとも言えるのである。

 日本人にしろ、西洋人にしろ、昔のマナーに準じた食順というのは、ダイエットに効果的な食順に近いというのは、ダイエットという意識以前に、食順が伝統によって生まれたモノであり、伝統っていうのは、長い年月の間に良いと認められたモノが生き残ったモノである訳で、理屈を越えてマナーと伝統的な習慣っていうのは、現代においても良い効果を与えてくれるものだろうと言える。

 食順のことを考えながら、伝統や習慣の奥深さに気付く今日この頃である。

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2008年2月15日 (金)

方針転換?

 昨日、単三電池で動くトイムービーカメラがやってきた。早速、単車のトップブリッジに搭載可能なマウントの図面を作ったので、暇を見て実物のマウントを作る予定。

 今回、このムービーには、おまけとして、SDカード、ケースにEyeplate Megaってカード型カメラが付属していたのだが、このカメラを使っての所感。当初はオマケ故に意識の外だたのだが、現物を見ると結構、ハートに響く。この小ささは、Very Good!である。しかし、リチウムポリマーって電池は寒さに弱く、中古故に電池が寿命を迎えていたせいか?フル充電しても即撮影不能となるのがNG。
 しかし、この小ささは最高に魅力。この小ささならば液晶モニターさえ不要かな?とも思える。丁度、関心がデジタルカメラ関連に向いているせいか、今度は小型軽量乾電池で相当長持ちなカメラがエエなぁ、、、、って意識。(冷静に考えれば不要なのは明白なんだが、、、、) 

 小さい=携帯性が優れる=電池の寿命と持ちが必須=内蔵電源、専用電源はNG

 更には、

 液晶は無くても可!

 記録媒体も交換可能に拘る必要もない。

 小型化=電源信頼性確保=単四電池仕様が理想。可能ならば厚みは15mm以下か?

 画像サイズと搭載メモリーの関係で100枚以上が記録できればOK。

 画質はその場の空気感が記録できれば可!

って事。写真的にはブログやHPへの掲載用という前提ならば、そういう割り切りで機能を絞った方が良いか?とも思える。

 今回、電池の関係で使い物にはならなかったけど、Eyeplate Megaのコンセプトは悪くない。そう思うのである。
 フォーカスがどうの、画素数がどうの、、、、色々あるけど、なんかやっぱり、普通の35万画素のVGAデジカメで十分な気もするのである。

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ブログは有意義!?

 ブログを立ち上げて3年、HPを立ち上げて6年が経過している。結構、長く続いているし、自分的には結構こまめに更新しているとも思う。そろそろ、整理する時期か?とも思う反面、容量的な制限が年数と共に緩和されていることもあり、結果的に整理は後回し、で、更新は継続ということで、容量肥大化は著しい状態となっている。

 とまぁ、そんな現状は兎も角、このブログ、HPっていうのは、生きる上で結構役立つもののように思う。ここ十数年で、いろんなモノが生活に普及している。その筆頭はデジタル家電であり、パソコン、携帯電話、デジタルカメラ、デジタルビデオカメラ、CD/DVD録再生機、更には、ソフトウェア的には家庭用ゲーム、インターネット等々が代表的なものだが、こういったモノは必要か?というと、モノ自体の価値は大したものでは無いように思う。カメラ、ビデオ、携帯、パソコン・・・これらは単体としては、自分的には無くても構わないものばかりである。機能に目を向けても、インターネットによる情報検索の速さ、メールによるコミュニケーション手段の獲得っていうのも便利といえば便利だが、これまた無くても困らない。ゲームにしてもそう。

 そんな中で、こういった新しい世代のモノを使う上で、一番変わったっていうのが、このブログやHPってものだ。このブログやHPを更新するためには、常識的にはパソコン、携帯という端末が必須であり、その端末を用いて常時アクセス可能なインターネットというインフラが必須だが、あくまでも、必須なモノは目的でなく手段として必要というだけであり、将来的には、本当の目的のために、より便利な方法が見つかれば、この端末やインフラは不要になるかもしれない。
 で、その目的というブログやHPであるが、これは他人のブログやHPが目的でなく、自分のブログやHPが目的であり、それは、何時でも何処でも気軽に更新できて、何時でも見る事が出来るという点で、自分の生活の中で時間を有効活用するという意味で非常に有意義な存在となっている。

 人間、生きていると、色んな時間帯において色んな環境に身を置いている。そして、その身を置いた環境においては、その環境に思考は支配されがちになるものであるが、実際に精神と肉体は一致していないのが普通である。判りやすく言えば、勉強していながらも遊ぶ事を考える事が往々にしてあるって事。実験しながら頭は峠をイメージしているようなモノ。それは、極普通の事だが、昔は、そういう時間の隙間に思い浮かぶ事っていうのは、正しく、隙間に浮かんだ気軽なイメージ故に、簡単に忘れてしまうのが普通であったのだが、現代は、肉体と精神が関心を持つ事が異なっていても、その瞬間に考えた事を何時でも何処でも記録できる環境があり、その記録対象がブログやHPになっている。
 そういう意味で、好む好まざるに関わらず、人間生きていれば必ず考えている自分の関心事の発想を忘れることなくメモとして記録できるという点で、ブログやHPは生き方に大きな影響を与えているように思う。

 自分の場合、ブログは生活している瞬間に思った事をキーワードで携帯等でメール転送し、空いた時間にキーワードから文章を作り更新している。そうやって、思い付いた瞬間の考えを書き続ける事で生まれる考え方の塊を一定の期間毎にHPの更新という形で表しているのだが、日常生活の生活時間帯に思い付く、本能的な発想を逃さず記録できるという、今のブログ、HPが使える環境っていうのは、一日の中から退屈な時間というのを完全に消し去ってくれている。言ってみれば、暇さえ有れば、違う事を考えて、それを電子日記として記録しているというモノである。

 それ故に、冗長な文章が多いけど、他人に読ませるのは目的ではないし、自分が、思い付いた瞬間に何を考えていたか?が、あとから判るのでOKなのである。

 という訳で、ブログやHPっていうのは、個人にとっての時間を無駄にさせない有意義なツールだと言える。(まぁ、社会性って面では、今一かもしれないが、、、)

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2008年2月14日 (木)

生と死

 人の死っていうのと遭遇する事は極稀である。親族では祖母の死に遭遇したくらい。ニュースで全く面識の無い人が事故や事件で亡くなるという話は聞く事はあっても、自分と面識のある人が亡くなるっていうのは非常に稀である。少なくとも、高校生時代以前では覚えが無い。大学生以降になると、何人か面識のある人が亡くなっている。

 大学生活においては、友人が二人程、交通事故で他界し、卒業以後では学生時代の交友関係、趣味の世界での交友関係、勤め先で名前と顔が一致する人で何人かが亡くなっている。
 学生時代の交友関係という同世代の人間では、亡くなる原因は殆ど全てが交通事故である。
 趣味の世界の場合は年齢的に幅があるけれど、その差は±10年未満であり、やっぱり一番多いのは交通事故だが、序で、十大疾病というのが増えてくる。

 しかし、自分の世代的な繋がりよりも雑多な範疇に近いであろう世界では、疾病や自殺といった事故以外の要因で亡くなる人が多いように思う。考えてみれば、老衰っていうのは、殆ど遭遇しないが、それは年代的なモノとも言える。

  まぁ、そんな傾向は兎も角、生きる年数が長くなる程に、周りで亡くなる人が増えてくるっていうのは或る意味当然なのかもしれない。で、亡くなった人を見渡すと、なんていうか、結構良い人が多いように思うのは気のせいだろうか?寿命というのは人それぞれであり、それは変えようの無いものかもしれないが、天寿を全うしたとは言えない状況で命を落とすのは、悲しいものである。
 なるべく、長く楽しく悠々と生きるっていうのが一番だが、なんていうか、あまりに過度な自尊心や、使命感を持って生きるっていうのも違うように思うし、逆に、あまりに堕落した生活を送るのもどうか?って思うけど、最近は、あんまり難しく考えずに自然体で、生きるっていうのが大事なようにも感じるところだ。

 最近は好景気という状況もあるが、それ以上に格差という問題もあり、なんとなく余裕の無い生き方が多いし、嫉妬や妬みって意識も組織の中には渦巻いている。でも、あんまり自分以外の事は気にせずに、どんな状況でも、置かれた状況をプラスに変える考え方で、必要以上にプレッシャーを感じずに、適当に緩く過ごすのが良いようにも思う。そういう一歩引いた、良かろうが悪かろうが、他人と比較するまでもなく、自分の置かれた状況を意識の中で良いように使って過ごすっていうのが大事のようにも思うところである。

 変な、意識や使命感、責任感はストレスやプレッシャーの元だし、出来ない事をやるという事は考えず、ストレスフリーの精神的に残留応力ゼロの状態で現状を受け入れて楽しむというスタイルが大切なようにも思う。

 身近で若くして亡くなった人を見ると、妙に頑張り屋さんだったりするし、気合いが入りすぎてる傾向が強いように思う。プレッシャーは大切だが、自身を追いつめる程のプレッシャーは身体に悪そうだ。出来ない事は出来ない。高望みはしない。現状の環境の範囲で楽しみを最大限引き出す事を重視する。そんな考え方でゆったりと時間を過ごすのが大切だろう。知識や好奇心っていうのはとても重要だが、それは、仕事や学業に打ち込むためのモノではなく、自分の時間を楽しく効率的使う時に重要な道具であり、自分の事を自分のために考える際に必要なだけである。

 最近は、なんていうか、周り(他人や組織)を見て、それは無いだろう!って思う事は相変わらずあるし、無駄な事しているなぁ!って思う事もあるんだけど、まぁ、それを一生懸命というか気付かずにやっているのなら、それも良いかなぁ?とも思う。その人なりに、それなりに、やれば、本人にとっても一番幸せだろうし、もっと良い方法が有る事に気付かないなら、それはそれで幸せで、教える必要も無い気もするところ。結局は、そういうのが本人にとっても幸せで、知らなかったり、気付かない内は、本人が気付く迄放置するのがベストのように思う。本人にとって重要なのは気付くという転機が訪れる瞬間であり、転機を速めるような助言やアドバイスは本人や組織にとって良くない気もする。そういう転機が訪れるという予兆を感じる感覚の芽を摘むのは、第三者にとって、その権利は無いのが当然かもしれない。仮に、それで良い結果が得られたとしても、違う土壌で助言を与えられた側が、同じレベルの発想を発揮できるか?というと有り得ない訳であり、逆に、それを自分で養うチャンスを奪うのは罪であり、当人にとって、自分では出来ないというコンプレックスは当人にとってのストレスに繋がり、当人の幸せを奪うようにも思う。

 そんな風に考える事で、天寿以外の死亡原因が身に降り注ぐ事を或る程度は減らせるようにも思うところだ。

 文書にすると勝手な怠け者の意見のようだが、結局は、誰しもが自分の状況だけを見て、それを自己完結で消化して、のんびりと楽しく過ごすっていうのが一番大事かもしれない。

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中国の一人っ子政策

 月曜日のテレビで中国を特集した番組があった。
 殆ど、ローラー台の上から見ただけであり細かい内容は見ていないが、印象的だったのが一人っ子政策についての解説。

 この一人っ子政策っていうのは、1979年から急激な人口増加を抑えるために執られた政策であり、子供は一家に1人という政策である。で、その子供の教育の仕方によって『小皇帝、小皇后』なんて表現が為される程に甘やかされたり、我が儘になったりしているという。

 さて、中国の経済発展は著しいが、この一人っ子政策で中国はどのように変化するか?と考えてみると、少なくとも、一人っ子政策が浸透したとすれば、両親から子供が1人、その子供同士から生まれる子供は1人という事であり、人口は減少するという事になる。
 更には、この政策で生まれた子供達の様から小皇帝なんて表現が為されたりしているが、それ以外にも、日本同様に、ネット難民、親による代理見合い?なんて現象もあるらしい。
 最近思うのは、情報と文化の広がりは現代社会ではシームレスかつ急速であり、国が違っても世代が同じであれば似たような価値観、ライフスタイルを持つのが自然なのか?ということであり、中国の若者であっても、彼らが接するモノっていうのは、日本、欧米といった国々と差異が無ければ、似たような価値観形成が為されているか?とも思う訳であり、そう考えると、現代の急速な経済発展を遂げている中国にしても、それを継続させる事が次世代の若年層が担えるか?というと、日本同様に厳しいかも?という印象を受ける。

 中国の近年の経済発展は目覚ましいが、その発展の急激さや、先に挙げた政策によって、社会の抱える歪み(地域格差、世代格差・・・・)も相当に大きいように思う。その歪みは幅が大きいだけでなく、規模が大きいために、案外、日本のような戦後60年で生まれた歪み以上に解決が困難なのかもしれない。

 中国の事はよく知らないけど、日本も含めて、急激な変化っていうのは各所に大きな歪みを抱えるっていうのは間違いないところだ。地道にコツコツと小さな変化を積み重ねるという進化が歪みを最小に留めるのだが、どうも国家から個人に到るまで、そういう地道さっていうのは注目度が低いのが機になるところだ。

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2008年2月13日 (水)

リハビリ

 この連休では、NHKスペシャルでリハビリについての番組が放送されていた。
 リハビリ=機能回復訓練だが、自分のイメージのリハビリでは、外科的障害からの機能回復という印象が強く、放送されていた脳梗塞、脳卒中による中枢神経系の再生というイメージは持っていなかった。

 何故か?というと、これは少し前の記事にも書いたけど、昭和59年末で遭遇した交通事故による大腿骨骨折後のリハビリが自分の体験として残っているからだ。
 当時を思い出すと、事故に遭ったのが昭和59年の12月末、折れた大腿骨の固定手術が昭和60年の正月、リハビリ開始が同年1/15頃、退院が2月半ばという感じ。
 で、行ったリハビリは、固まった膝関節の可動範囲を拡げるようなトレーニングだったと思うけど、関節が思いの外固まっており、可動範囲は極僅かで伸ばした状態~90°程度までしか曲がらなかったのを覚えている。

 当時の医師の言葉で、この辺が限界?かもということ。走ったり、正座したり、自転車に乗るのは不可能かもという言葉を聞いて、その後は自分で太股を抱いた状態で関節を温め、腕力で半ば強引に関節の可動範囲を増やすようなリハビリを我流で行った覚えがある。その可動範囲の回復過程で覚えているのは、最初の二週間では関節可動範囲は殆ど増えない状態だったけど、二月に入って約一週間で殆ど怪我前と同じ状態迄動くようになり医師に驚かれたのを思い出す。
 そんな体験からか、リハビリ=外科的障害からの回復訓練=本人の気合い次第という意識を持っていた。

 そんな意識に反して、放送されていたのは、神経系の損傷により身体の自由が効かなくなった人の機能回復についての話。
 この神経系の損傷からの回復では、回復というよりも、神経伝達経路の再生というモノであり、従来の印象を越えた身体の回復機能を紹介していたのは、自分にとって目新しいものであった。

 このリハビリ訓練による神経伝達経路の再生というか生成っていうのは、元来の機能と等価な能力を伝えるための新たな神経系を生成するというもので、神経ネットワークの再構築とも言えるような現象。
 これって、脳細胞における神経ネットワークも作り替える事が出来るということを暗示しているのだろうか?とも思えたりした。従来の印象では、失われた神経回路は二度と再生しないというモノだが、同じ場所に再生せずとも、別の場所に等価な経路が生まれるということは、刺激の与え方によっては、新たなネットワークが生まれると言う事である。

 凄いな!と思う反面、そういう新たな神経系を生成させるために与える外部刺激を、どのように与えるか?次第にも掛かっている。そういう意味でリハビリの理学療法士っていうのは重要だが、普通障害とは見なされない考える力を失った人の脳の再生には、それに相当するインストラクターというのが存在しない訳であり、やっぱり神経回路形成は不可能なのか?とも思ったりする。

 でも、将来、脳の思考回路再構築をテーマにしたインストラクター資格のようなモノが出来たりするのだろうか?とも思える。

 今回の放送では、リハビリの表現を『闘うリハビリ』と称していたけれど、専門の理学療法士が居たとしても機能再生には当人の闘うという意志が必要ということだが、この意志というかモチベーションを如何に保てるか?が、神経系再生医療のキーワードである。

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ダイエットの目的は?

 極々一般的な話で、誰もが知っている話。
 肥満体型にコンプレックスを持つ人の願いがダイエットだが、このダイエットの難しさ、大敵は何処にあるか?を、ダイエットが目的かどうか?という視点で考えてみた。

 ダイエット開始の意志を持つ段階は、その時点における自分の思いから行動を思い立つ訳であり、続くか否かは別として、ダイエット自体を始める時の意志は、どんな人でも、その人なりに強い意志を持っている。
 次に、ダイエットを続けれるかどうかの関門は、ホメオタシス(生体恒常性維持)による停滞期を乗り切れるか否か?という段階だが、今の時代、ダイエットの進行に併せて停滞期が存在するっていうのは、ダイエットを志す人にとっては既知の事実であり、停滞期の発生=ダイエット成功の証という事から、この停滞期で挫折する人よりも、ダイエットの進行を実感する人の方が多いだろう。

 ダイエットでは、決意を持って取り組んで、停滞期を乗り切って、目標に到達する訳だが、一番の問題は、目標に到達した時だろう。こんな話は、誰もが知った話で、今更、書く必要もないけど、先日の記事で、お金や地位は目的か手段か?という話を書いた時に、その考えとオーバーラップしたので、敢えて記事としてみることにした。

 ダイエットの目標設定は人によって様々だが、ダイエット自体を目標に掲げ、体重計の数値を減らすことをターゲットにした場合、目標を達成した時点で、それまで保っていたモチベーションが失われるのでは無いか?と思ったのである。
 目標達成したから、チョット、好きなモノを好きなだけ食べたい。苦しい運動は減らそうという意識が生まれると、そのモチベーションを無くした状態では、ダイエット時の生活習慣を取り戻す事は非常に大きな困難を伴うのでは無いだろうか?

 ダイエットとは、生活習慣の改善であり、ダイエットが必要な状態というのは、生活習慣の乱れが継続して生じた結果(経過)である訳で、ダイエットが終了したから、生活習慣を旧来通りに戻すというのは、元のダイエットが必要な状態に戻るということである。

 つまり、ダイエットというのは目標とした数値に一時的に到達するのではない。ダイエットが不要な状態となるような生活習慣を維持することで、フィジカルコンディションを保つということが重要であり、フィジカルコンディションが良い状態でなければ満喫出来ない何かを見つけるというのが大切では無いだろうか?

 そして、その何かというのは、奥深い到達地点が見えない学問のような世界であるのが望ましいように思う。奥が深い程に、ダイエットが不要な身体を得たとしても、その世界を求道するようになれば、その世界において満足できる状態を常に高めて突き詰める意欲が沸いてくるのでは無いだろうか?

 ダイエットというのは目的でなく、他の目的達成のための必要条件、手段と捉える事が大事であり、他の目的というのは、ダイエットのみでは究極に到達出来ないモノを選ぶのが望ましい。そういう奥の深いモノっていうのは、所謂学問であり、フィジカルポテンシャルを駆使するのが前提の学問とは、即ち、スポーツである。
 そう、健康のためにスポーツするのではなく、スポーツを楽しむために最低限度の条件として健康な身体を保つというのが重要だ。スポーツという学問の場合は、身体+知識+技能が求道に必要なものであり、仮に健康な身体を手に入れたとしても、その分野における知識や技能というモノを突き詰めることで、スポーツの奥深さを楽しむ事が出来る。特に、スポーツの場合、高度な知識や技能っていうのは、それが実践できる親愛能力があるというのが前提であり、身体能力を高める毎に見える世界は変わるモノであり、先はあってないようなモノ。正に学問と同じであると思う。

 先の記事では、金や地位のために生きるのでないという話をしたけど、金や地位があっても、満足できる使い方が無ければゴミである。それと同じであり、生き方の基本となる楽しみを見つけることが、健康を保ち、金や地位を手に入れるに繋がるのでは無いだろうか?

PS 仕事でも、趣味でも、ダイエットでも何でもだが、どうも、目的と手段が反転しているような世の中に感じるのは自分だけだろうか?
 ダイエットが目的ではなく、ダイエットが不要なフィジカルコンディションを得て、何がしたいか?何で楽しみたいか?それを見つける事が全てに優先するというのが私の考えだ。

 バックボーンにあるのは、健康でも、元気な身体でも、金持ちでも何でもなく、自分の場合は、10代の価値観形成期において自分が(自分の生い立ちから自然に)本能的に選んだ趣味を永遠に楽しむということ。それには、健康な身体、パワフルな身体、余暇を楽しむ時間、満足な環境を得るための財力が必要というだけ。それだけである。

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2008年2月12日 (火)

写真は作品か?記念か?

 ということで、先日ゲットしたE-100RSを目的であった娘の学芸発表会で活用してみた。
 最近は、ローエンドでも600万画素、ミドルクラス?で1000万画素オーバーってカメラが多いのだが、わざわざ調達したのは150万画素の旧世代機であるE-100RSである。

 この機種を選んだ理由は、

・望遠端でも明るいレンズ
・高速連写機能
・プリキャプチャー機能
・高速シャッター
・手ぶれ補正

 って要素。この要素を全て満たすというと、現行機種を含めても存在しないのが現状だ。で、今回活用したのは、講堂のステージでの演劇風景だが、150万画素ながら合計で600枚程の写真を撮影。勿論、連写撮影なんでストロボは使用していないのだが、L判出力した範囲では、案外見れる写真ばかり。ブレも少なく極めて良好。レンズの明るさ、シャッター速度・・・結構イイ具合に作用している感じである。

 勿論、写真自体の画質?って部分では、今一なんだろうけど、写真は画質の品質よりも、被写体の表情の瞬間の方が重要。如何に、シャープで美しい写真でも被写体の表情が狙った瞬間で無ければ意味無いのである。

 そういう意味では、写真は作品としては低レベルかもしれないが、家族の記念スナップとしては最高の瞬間が撮れるのは極めて重要だ。

 このE-100RSってカメラ、当時の価格では絶対に買わない選択肢だが、今なら10000円程度で入手可能。L判出力限定で割り切れば、これほど素晴らしい機材は無いと思う。

 一瞬の表情のような瞬間を切り取るカメラは、瞬間を逃さないための機能が大事って事を改めて思い知るカメラだ。似たスペックのC-730UZでは絶対に撮れない写真ばかりが撮れて大変満足だ。

 因みに、人物の表情や動作の瞬間という動体撮影にはこういう機種が最強だが、ツーリングでの風景撮影のような静物撮影では別の選択肢がある。記憶補助としてのスナップでは目で見た風景情報を思い起こさせるための検索キーのような存在としての写真が重要であり、写真全体が写るのが大事。そして、その空気感を捉えるのが大事。

 その用途としては、全体がそれなりに撮影できるというゾーンフォーカス、パンフォーカスが大事。更には、暗闇でも写る。薄暗くてもフラッシュ無しで適度に写るってのが大事。
 そんな機能とは、人間の眼のような機能を持つカメラ。そういうのが、明るめのレンズのパンフォーカス機だ。

 人間の視界に相当する映像を記録するのは、屋外撮影で対象被写体が数m以上離れたモノの場合は、望遠寄りのカメラで、屋外の照度によらず雰囲気を描写できるカメラが最高だし、その瞬間を撮るには、なるべく手軽なカメラがイイと思う。そういう用途を限定させれば、世間の評判は芳しくないCaplio RR211ってのは結構イイ。昨日から自転車走行時に携帯しているけど、空の感じは前のA101よりも正確に写るし、目に見える視野という近景撮影では相当に印象に近い写真が撮れる。

 一方で、屋外撮影に加えて屋内撮影で対象被写体が数m以内の場合は、広角気味のカメラ、ストロボ撮影が前提のようなカメラが良い。恐らく、今流行のデジカメは、この用途のカメラが多そう。ただし、自分は現行機種のような多機能性よりも、やはり手軽な特化した単機能機の方が好み。

 考えてみれば、自分はカメラは趣味では無い訳であり、用途に応じた単機能で構わないので、写したい瞬間が撮れるかどうかの方が大事。写真で画質を捉えるではなく、その場の雰囲気というか空気感、或いは被写体の瞬間の表情を撮る方が大事。

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安全・平和ボケ

 先日、自分の身を守る意識というか危機回避能力とうか、防衛本能が失われているのでは?って記事を書いたけど、これって、完全に身の安全は環境によって保証されているというような先入観によるもののように見える。
 新幹線のプラットホームには事故防止のために柵が設置されている駅もあるけど、そこまでしないといけないのか?と思うと、何とも微妙である。車両の往来においては、ホームから転落のリスクがある場所迄迫るという行為自体が自殺行為であり、それが危険な事は誰しも判っている筈である。
 どんな状況においても、何が危険で何が安全か?危険な目に遭うと痛みを感じるというのは当然予想されるし、日々遭遇する行為の中で痛みの度合は、どの程度か?というのも状況を見るだけで予測されるのが当然と思うのだが、なにやら、最近のニュースを見ると、全ての危険を排除するために、可能な限り保守担当者が対策を講じるのが必要という考え自体に違和感を感じるのは変だろうか?

 自身が遭遇するであろう危険が予測されないために、考えられない事故が生じる訳であり、この裏返しというのが、安易に他人を傷つける行為が日常化した社会に通ずるものがあるように感じる。

 自身の痛みが想像でき、その痛みを回避することが本能的にできるならば、痛みを他人に与えた時に他人がどう考えるか?というのも理解できる筈だと思う。

 本来、安全とか平和っていうのは、自分で作り出すモノの筈だが、昨今の様子を見ると、安全とか平和っていうのは、自然と存在するモノ、与えられるモノという意識の人の方が多いようだ。それ故に、身を守るという意識が欠如しているのでは無いだろうか?

 安全第一という事で、不安全要素の排除に努めるってのは大事な事だろうが、不安全要素の排除の前に、日常行動の中に、どんな不安全行動が潜むか?を考えて避ける事ができる目を養わせる事が最重要だろう。

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金は目的?手段?

 さて、これまでに、好きな事を捨てずにずっと楽しむために、どうするか?そういう気持ちが、どのように変化して、嗜好がどう変化したか?って話をしたけど、好きな事を好きなようにやるに必要なモノは、現実的に時間と財力である。

 しかし、金も地位も、自分で趣味と付き合う上で必要な資本を得るための手段であり、目的ではないのである。人生において最重要なのは、趣味と付き合うための時間であり、時間を犠牲にしてまで金を得ようとは思わないのである。

 趣味と接する時間は最大限確保=働く時間は最小限度に留め、自分の欲求を叶えるには、それを満たすだけの財力も必要であり、結局は、時間あたりの生産性を最大限度に保つのが重要である。つまり、生産性を上げる事が最重要ということだ。

 生産性を上げるには、誰でも出来る事を時間を積み上げる事で財を生み出すという方法では実現不可能である。行為や行動、発想の価値は、希有な発想が大前提であり、人が出来ない事、思い付かない事、諦めている事にターゲットを絞る事で、その金脈を見つけることができるのである。その金脈=価値あるアイデアっていうのは、どんな分野であっても、(自然界の摂理)真理に基づくものであり、それを見抜く目こそが重要だが、そういう目を養うに必要な考え方というのは、実は、金や地位を、個人の中で、どの位置に据えているか?によって変わってくるモノだろう。新たな価値こそが全てに優先するのである。

 金や地位を手段でなく目的として捉える人は、組織内の行動においては、自分の意見やポジションを相対的に評価して行動を起こす。そのために、モノ自体を判断するよりも、モノに関連する組織や他人の目から見て良く思われたいという考えがある。

 しかし、モノの真理のみで判断出来る人は、組織の都合や、体裁は超越して、摂理に従っているか否かの判断で行動出来るので、行動はぶれないし、判断した意見は自分の納得の上での考えとなっている。

 昨今、偽装問題、職場ストレス・・・・様々な問題があるけれど、その多くは、組織の都合、自分の立場という相対的な評価や、良く思われたいという色気故に、生じる問題も少なくない。モノの道理、真実に基づいた行動をすれば、偽装問題等は起こるはずもなく、人間関係で八方ふさがりとなるようなストレスに苛まれる事なんて有り得ないのである。

 つまりは、好きな事を好きなようにやるには、モノの道理と摂理を見抜き、本当に良いモノは何か?の判断が自分で出来るような知識を磨く事である。そうやって、モノの因果を見極める知識が身に付いて、信念に基づいてぶれない判断が出来れば、偽装もストレスも何も生まれない。 特に、日本社会においては、独創性=出る杭は打たれるという社会であり、そういう発想を持つ人自体が稀な訳であり、稀故に、労働生産性も高く保つことができる訳であり、結果的に、趣味に費やせる時間と財力を多く確保できるのである。

 本当に価値あるモノは何か?新しいモノは何か?が見つかると、それが普遍性を持っていれば、世の中には受け入れられるモノである。間違っても、そういうモノを企業として儲けるために開発しようという欲が先行してはダメなのである。人が思い付かない新たな価値を生み出す事自体に価値があり、結果として儲かるというのが理想である。

 個人にしろ、企業にしろ、金や名誉を目的に行動していては、現代社会の抱える偽装、ストレスという問題が間違いなく生まれるものだ。

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2008年2月11日 (月)

正統派?サイクリストのマナー

 昨日は、朝昼、今日は早朝とホームコースと自分で称したコースを走った。
 このコース、信号が少なく平坦で走りやすいために、地元のショップ?の走行会?コースともなっている模様。

 で、昨日の朝は帰路において、地元のNモトの常連と思しき集団と離合した。毎週決まって遭遇するんだが、昨日は30台程度の大集団。これは何故か?と思いきや、そういえば来月には『西日本チャレンジ』という素人レーサーによる自転車ロードレースが開催されるということもあり、それにエントリーする人が練習を始めたのか?とも思えるところ。

 それは、兎も角、昨日は自歩道部分でレーパン+ジャージ姿で走るならいざ知らず、進路を塞ぐバリケードのような形で停車して他の往来の邪魔になるような人もいれば、自歩道を目一杯使って3列並進するレーパンさんもいる。

 で、今日は恐らくNモトさんのお客だろうが、信号待ちしてたら目の前を信号無視しながら反対車線側への逆走して店の方面に走り去る。

 ということで、今月に入りレーパンさんを多く見掛けるのだが、多分、来月に迫るレースに備えてか?と思えるのだが、どいつもこいつも、自歩道や車道での振る舞いは褒められたものではない。どうにもキモイと思うのは言い過ぎか?せめて信号くらい守れ。車線を塞ぐような停車や、三列並進もやめれと言いたいところ。

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今度は動画!?by オモチャカメラ

 デジタルカメラ熱が一段落した所。
 そして、先日、スポーツセンターに通う最中に車中から峠のコースをCaplio RR211で撮影してみた。で、ウインドー越しの風景が、それなりに判るように撮れているのに満足しているところ。

 で、固定焦点+単焦点のカメラの総括を行っていて気付いた事が一つ。

 それは、このお手軽カメラ群の動画撮影能力についてである。殆ど全てのスナップカメラの動画撮影能力は、メモリー容量に従うのだが、基本はワンショットで10~20秒という撮影時間が限度なのだが、唯一の例外はCaplio RR211であり、これは搭載メモリー容量が満杯になるまで連続撮影可能となるもの。今、手持ちの256MBのSDカードを使えば、連続で30分程度の動画が記録できる。これって、峠のコース紹介では十分過ぎるモノ。他のCAMEDIA C-120、SANYO DSC-R1では15秒、GV-20で10秒、Finepixでも20秒なんで、スタート前にシャッターを押しても最初の直線で終わってしまう。そういう中でRR211の30分撮影可能ってのは、低解像度でも雰囲気が判れば良い訳であり、十分である。
 更に、興味深いのはCaplio RR211の焦点距離だが、49mmという結構望遠気味のレンズで、スナップ撮影というよりも十数メートル先を撮影するのに適当な画角。更には、パンフォーカスのくせにレンズは明るめでF2.8という仕様、、、、、全てが他のスナップカメラとは懸け離れている。他のカメラは、若干暗め、焦点も広角気味と、毛色が違うのである。

 そう、このCaplio RR211ってカメラはデジタルカメラの体裁をしているが、機能、機構的には、トイムービーカメラであるIO-DataのMotionPix AVMC211と殆ど同じスペックであり、今は亡きNHJのChe-ez!のMovix3なんかと極めて近い仕様となっている。恐らく、撮影部分については共用仕様ではないか?とも思える程に似通っている。具体的には、レンズの絞り値F2.8、焦点も49mmという望遠気味の画角、1/2インチのCMOS、単三電池二本仕様、極めつけは発売時期が殆ど同じというのが物語る。

 MotionPix等ムービーカメラとの唯一の違いは静止画撮影でストロボ搭載で、オマケのマクロ機能がある反面、動画音声が記録出来ない事。本体サイズはコンパクトであり、この軽さと相まって、可動部分の無さは、単車等への車載にピッタリである。
 動画として撮影したいのは、動いている被写体を止まって撮影するのではなく、運動した状態で風景を撮影するというもので、リスク等を考えると高価なデジタルビデオを使いたくないし、画像品質も、判れば良いというレベルの話で考えると、ビデオ撮影というよりも動画クリップとして考えると、最適か?とも思える仕様だ。

 そういう訳で、これからトップブリッジか左ハンドルバー近辺にマウンタを製作して実際に峠を走る風景を撮影してみたいなぁと思い始めたところ。

 今更ながらのトイムービーだけど、それはそれで楽しそうなんで、これからは、そういう路線でも遊んでみようと思う。なお、想像上の姉妹機?であるAVMC211ってムービーカメラは音声が撮れるという事だが、S4ガンマなんかで排気音も撮れたら楽しそう。既に新品は流通していないけど、中古で2000円程度であれば調達してみるかもしれない。
 調べた限りでは、他にも動画撮影機はあるけど、PanasonicのD-snapは高い。SANYOのXactiも高い。MotionPixの新しめの機種でさえ生産中止+専用電池で割高になる。
 そんな訳で、もし手に入れるならば、AVMC211、AVMC132って単三電池二本仕様のカメラが狙い目である。

 実は、このAVMC211って機種は、現役で新品流通段階で少し関心があった機種である。現役時は19800円と機能の割に高価だった訳で買うには到らず、動画撮影としてはDVDカムを当時は購入していたのである。

 それにしても、馬鹿者である。止せばよいのに、つい、無駄遣い+遊びに走ってしまう。

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2008年2月10日 (日)

お気軽、シンプル、軽量デジカメ

 デジタルカメラは日常を写すのであれば、撮るのは作品ではないのであり、過度な画質に拘るのは素人的には不要だと思う。

 という訳で、瞬間を逃さないカメラが重要という意識である。

 で、瞬間というと、人の表情という刻々と変化するような場合は、高速連写カメラが良いし、スナップというか生活記録という静物を写す場合は、単焦点で固定焦点のカメラが良いって結論も持っている。

 それで、一応完結なんだが、先の要望に加え、自分の好みの条件である、単三電池仕様、見えるTFT液晶・・・・と入れると、結構、かさばる存在になったりする。

 そんな中、手元に転がっているのがCaplio RR211というトイカメラ。このカメラは、兎に角小さいのが取り柄。小さいながらも液晶+単三電池というフォーマットを守っているのがエライのだが、これ、持ち運ぶと、その厚さが気になる。

 その厚さを気にすると、単三電池+液晶がサイズ的な制約を与えている訳だ。単三電池を諦めると、液晶オンリーで、そうなると厚みはかなり減らす事が出来るけど、液晶があるばっかりに、電池の消耗が心配になる。

 で、ならば序でに液晶も無しで良いのでは?そして、半分使い捨てみたいなカメラが良いか?とも思い、今度は、超シンプル、液晶無し、電池も内蔵・・・・最大限に薄いカメラとういことで思い付いたのが

『Eyeplate』

このカメラ、2005年末で出荷終了だが、チョット欲しかったりする。写りは、RR211並でOKなんでCMOSのトイカメラで十分な気もする。こういう薄さに特化したカメラってのも案外悪くないかも知れない。

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献血で糖尿病検査

 日曜の新聞で目に付いたのは、献血によって糖尿病チェックも行うという。糖尿病っていうと、今や国民病とまで言われている病であり、その前段階で生活習慣病、メタボリックシンドロームっていうのは、殆ど全ての国民が知っている言葉だが、当事者以外にとって糖尿病って恐さを本当に知っている人は案外少ない。

 自分としても、尿が甘い臭いがする?程度の認識だったけど、そういうモノではなく、壊疽、失明~様々な重大疾病を引き起こし最終的に生命も脅かされる病で、大勢の認識以上に怖いモノである。

 そんな恐さとイメージが乖離した病が糖尿病だが、新聞によると、企業で勤める人のように定期的に健康診断が受診できない人、主婦等も、その検診を無料で受けて頂けるというのがメリットとして解説されていた。

 そう言えば、献血といえばHIVの検査もされているし、普通に血液検査が結構行われているもの。HIVについては、献血をHIV検査代わりに利用するなとアナウンスされているが、糖尿病の場合は逆であるのが興味深いところ。

 ところで、実は、自分は献血っていうのを行った事がないのである。

 心が狭いようだが、大昔、昭和59年末に交通事故で骨折し、昭和60年正月に手術を受けた事がある。その際は、思いの外出血が多く、輸血をしようとしたらしいのだが、その町病院では、幸か不幸かしらないが、輸血血液が無くて、結局、輸血無しで手術を行ったと聞いた。その際に覚えているのが、麻酔が覚めて傷口から滲んだ血液を見た時の事で、血液が赤くなく、なんか半透明のオレンジ色だったような記憶がある。

 それで理由を聞いたのだが、その際の説明が輸血、血液製剤等が無かったということ。
 それ以来、献血はしないという方針なんだが、仮に、その際に血液製剤等を利用していたとしたら、最近話題の薬害肝炎の血液製剤の事が頭をよぎったりするのである。

 まぁ、薬害肝炎の殺菌処理方法が昭和60年の8月前後で異なっており、今問題となっているのが昭和60年8月~の血液製剤という話もあるけど、当時の厚生行政を考えると、輸血なんかされなくて却って良かったという思いもあったりして、チョット複雑である。

 話が脱線したけれど、本当にニュースを好意的に解釈して、今は献血という事で、献血者の健康を気遣うようになってきたのだろうか?別に意図が在るのだろうか?

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老いによる意識の変化

 さて、昨日迄に弛んだ身体を元に戻し、それを戻すために維持したモチベーションは何か?って記事を書いたけど、自分の趣味の移り変わりを見ていると、自分が確実に老いてきたのが判ったりする。

 20代の頃迄というと、純粋に好きな事を時間と金の許す限り取り組んでいた。しかし、30代を過ぎると、時間、環境、経済的な制約により、その好きな事が満足できるように出来にくくなる。しかし、その好きな事を満足出来るように行いたいという欲望が勝り、必要な労を厭ってきたのが今である。

 好きな事が満足な状態で出来にくくなるってのは、先にも述べた、時間、生活環境、経済環境的な制約もあるが、それに加えて加齢による衰え等も、好きな事を失わせる助長因子となっている。

 それでも、好きな事に拘りたいという意味で今がある訳だが、この純粋に好きな事が何か?によって、生き方、価値観は大きく変わるものである。

 人によっては、地位、役職、名誉であったり、立場であったり、富や金、経済力であったりする。それが何か?によって、随分と人生の後半戦は変わったモノになるようにも思う。

 自分の場合は、勿論、金や名誉を有るに越した事はないが、それよりも、なによりも、今の自分の価値観や人生観、趣味を形成する上で最も本能的かつ直感的に取り組めた10代の頃の価値観が、本能的に最も好きな事と考えており、その頃の興味の対象と永久に関わっていきたいと思っている。
 これは、単車(場合によっては自転車も)に乗って、自分の思い通りに操る事である。この自分が自分の思い通りに二輪車を操っているという意識を死ぬ瞬間迄大事にしたいのである。

 しかし、モノをターゲットとした趣味故に、形有るモノは何時か壊れるし、操るという行為自体、身体能力が必要であり、確実に衰えていくのも事実である。

 30代を越えて、所有している単車の台数が増えまくっているのは、恐らく、乗っているモノの寿命を察知してからの延命的な意味合いが、自分の深層心理の中にあるのだろうと思う。また、カメラ、デジタルカメラ、ビデオというのに関心が出てきたが、そこで選ぶ機種も原則、車載性、携帯性を重視している辺りから伺える事は、自分が操る様子を記録に留めておきたいという、自分の衰えを予感しているためなのかなぁ?と思えたりする。

 デジタルカメラ、デジタルビデオも子供の成長記録用での調達もするけど、どちらかと言えば、二輪車に乗って何処行った?どんな風に走ってるか?を記録したいがために、選んでいる時の方が、実は真剣だったりする。

 そんな訳で、自分の趣味の移り変わり、、、、昔は、単車や自転車に時間の有る限り乗りまくる。その後は、持っている好みの単車を複数所有して何時までも続けれる体制を作る事が関心事となり、一寸前からは、そういった二輪車を自分の理想通りに操るために必要な自分の身体を作り上げる事が関心事となり、最近は、そのような環境や出来る行為を記録に残したいというのが関心事となっている。

 これって、変化を見ると、好きな事は不変だが、その事に対する自分の変化(老い、加齢)に対応して趣味のスタイルが変遷しているようにも見えるのである。

 この先、自分のフィジカルなコンディションが変化していくと、どんな方向に行くのか?が実に興味深いものである。

 全ての制約が無ければ、人里離れた数百坪の敷地+ガレージで、好きな時に好きな整備を行って、思い通りに走れる環境っていうのを実現したいが、こればっかりは夢で終わるかも知れないし、また、現実となるかもしれない。

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2008年2月 9日 (土)

最新は最強か?

 趣味の対象っていうと、多くの場合、工業製品がターゲットだったりする。
 単車、自転車、パソコン、デジタルカメラ・・・・・色んな分野に関心を持っているけど、どれも工業製品である。

 そして、工業製品の宿命、それは、技術の進歩による性能向上、それを反映した形で製品投入され、旧世代の製品は消えていく。これが定めである。

 そんな事を考えた時、果たして、全ての工業製品では『最新=最強、最高性能』って方程式が成り立つか?というと、これまた微妙な気がするのである。

 純粋に技術レベルの進化のみが反映されるような製品の世界においては、最新=最強という方程式はなりたつが、実際に製品というのは、別の使命を担っている。

 その使命は、製造元が潤うか否か?であり、良い製品=優れた製品とは限らず、良い製品=製造元に利益がもたらされる製品である。利益がもたらされるとういうのは、製造元、消費者の双方にとっての話であり、コストパフォーマンスの優れたと言う事になるし、技術的な優劣以上に優先されるのは、消費者の商品選択の尺度の上で宣伝力が有るか否かで決まってくる。

 そう考えると、実際に末端消費者にダイレクトに届けられる商品っていうのは、最新=最強とは限らないモノも多いように感じる。最新=最強という関連性が強いモノというと、それは、工業製品でも趣味性よりも道具としての機能性を重視したモノ。別の目的の道具としての存在価値が強いモノ程、最新=最強という関連づけが強いようである。

 例えば、パソコンなんかも、現代では道具であり、新しいモノほど、道具としての機能が洗練されている。車でも貨物車両は新しいモノ程良い。単車でもそうだ。最新のカブが最良のカブってものだろう。
 道具でも消費者の選択眼によっては、最新=最良とは言い難いモノもある。パソコンなら数年前の過剰な程のクロック競争であったり、最近ならデジタルカメラにおける多機能化競争、高画素化競争なんかがそれに相当するし、昔の車や単車の馬力競争もそうだ。
 このような競争は、競争するカテゴリーにおいては後出しの勝ちであるが、そのスペックが最終的な用途に見合った性能に影響するか?というと、実際、そうでは無い場合が少なくないのが現状だ。このような実態が顕著な世界が実用品では無い嗜好品の世界であり、道具というよりも嗜好品に近い世界では、最新=最良とは成り得ない。これは、嗜好品の場合は、それを選ぶ人の拘りが千差万別であり、人の目が肥えているためであり、何を望むか?によって、人にとって最良の形は異なっている。車ならスポーツカー、単車ならスポーツバイクっていうのは、万人にとって最新=最良とはならない。

 自分にとって最良と思えるのがジャンルによって時代性の制約が異なっている。

 例えば、単車ならば、時代性は無視して基本は軽量、反応性が高い乗り物が好み。デジタルカメラなら、何よりも場所を選ばない単純操作+迅速動作に拘る。パソコン関係なら、新調する段階では、最新のトレンドで最強の性能ってのが好みだ。パソコンでは時代で選ぶ面が強い一方、デジカメでは時代性の影響は非常に大雑把、単車では全く時代性との関連は無かったりする。

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How?習慣化

 先の記事には、どんな事も効果を得るには、効果に見合った労力を掛けなければ得られないという事を書いた。更には、問題に悩む人は、そういう事態に陥りやすい思考故に、問題を抱えている訳であり、抱えた問題を修復するのは、問題を抱えない人が現状を維持する事に較べると、本来の思考と合わせて考えれば、非常に困難であるという事も書いた。

 それ故に、簡単、手軽、即効ってキーワードに人は関心を示すのだが、そういうキーワードで得たモノは、アッという間に効果を失ったり、予想外の弊害を抱えたりするものであある。

 そこで、そのような問題を抱えた人が問題から解放されるには、何が必要か?と言う事だが、それは、非常にありきたりな、継続的な努力であり、継続期間が長い程、継続する負荷が大きい程、問題解決に作用するエネルギー自体が多いのは自明の理であり、如何に、効果的な取り組みを長期間絶やすことなく行えるか?ということである。

 一言で言えば、しんどい事を続けてやるっていうのが必要ってことである。

 で、しんどい事を続けるにはどうすればよいか?と言う事だが、普通は、しんどい事は続かないものである。

 一言で言えば、続けるって事であり、その事自体を自分の生活の中で習慣化させる事が、望ましい。習慣化させるって事は、続ける労を、食事や睡眠といった生活の中において必要不可欠な事と対等な位置づけにする事である。
 食事や睡眠っていうのは、生きる上で必要不可欠であり、厭う労を生きる上で必要不可欠な事とするには、結局、続ける行為自体を、自分の欲求に必要不可欠な要素となるような位置付けに置くことである。

 実際に、中高年の運動ブームっていうのは、何よりも生きるという欲求において、肥満や生活習慣病による恐怖が現実の問題として迫ってきたが故の行動である。但し、そういう切羽詰まった状態では、既に、運動自体が制限される場合が多く、手遅れ的な状況となる場合も少なくない。
 そのような事態に陥る前に、継続的な取り組みが各人にとって生きる楽しみが高まるようなターゲットを見つける事が一番効果的では無いだろうか?

 因みに、自分の場合は、単車を操る事、自転車に乗る事が楽しみであり、その楽しみの満足度を確保するには、最低限、今以上の身体能力が必要ということであり、楽しみを維持させたいから、運動を続けているのである。

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2008年2月 8日 (金)

手間と効果

 カテゴリー的には、別にスポーツやダイエットに限った話ではないのだけど、ふと思った当然の事がある。
 それは、ダイエット、スポーツ、健康に限らず、学問にしても、儲け話にしても全てについて言える事。それは、どんなものでも、掛ける手間と得られる効果っていうのは、原則、比例関係にあるということ。

 効果を得ようと思えば、絶対的に労力が必要と言う事。何もせずに儲けようとか、楽して痩せようとか、、、、、そういう事は原則、有り得ない。

 即効性を謳うものは、効果が薄いばかりでなく、もしかしたら、何らかの弊害により症状の悪化を来すものさえもある。ハイリスク、ハイリターンという言葉もあるが、世の中の事象について全てに当て嵌まるものである。

 先日の記事ではないが、加圧トレーニングっていうのも、トレーニング効果はトレーニングを止めたら簡単に失われるとか、或いは、学問において公式の詰め込みのみで点数を取ることを目的としていれば、公式に従った問題しか解けないとか、或いは、誰でも出来る?簡単ダイエットっていうのも、そういう範囲でしか効果は得られない。

 本質的、根本的な改善や解決を求めようとすれば、その時点において問題となっている事象の因果を理解し、その根本原因を解決するために必要なモノを一つずつ解決するのが重要であり、そうすることで、付随的に様々な関連因子の不具合も見つかり、順次問題を解決していくこととなり、結果的に、時間は掛かっても、悩んでいた問題の生じた理由を理解し、それを導く問題を全て解決できて、更には、元の悪化した状態にも戻りにくいのである。

 簡単に得られるモノってのは、簡単に失われる。そんなモノである。儲け話は人が知らない、人が選びにくいから、儲かる訳であり、誰でも儲かる話なんて、有り得ないのである。これって、当たり前の事だけど、様々なメディアにおける宣伝を見ていると、即効性、手軽さを売りにした商品があまりにも多いことに驚かされてしまうし、そういう宣伝が多数を占めると言う事は、裏返せば、そういう宣伝が効果的なのが人間って生き物なのである。

 どんなモノも堕落する方向に変化するのが世の常である。これは、自然界の全てに当て嵌まる法則(工学で言えば熱力の第2法則)である。しかし、人間は本能的に、価値の高いものを求める。価値の高さ=変化の余力のある状態であり、それは、変化する前の形に対する憧れである。その形っていうのは、変化の余力を保った状態であり、その余力こそがエネルギーである。つまりは、エネルギー=労力を掛けなければ、余力の有る状態には移れないのが、所謂、自然の摂理(先に言った第二法則)である。

 掛ける労力(=エネルギー)が多い程に、レベルの高い状態に移れるのが摂理である。

 ふと、そんな事を考えたりするのである。因みに、『楽して稼ぐ』って事を望む人も多いけど、多くの場合は、そういう状態を作り出すのには前段階において、相当の労力が掛けられているが、それが見えない人も結構居る。

 何をするにしても、継続的な取り組みが必須であるが、これが続けれないのが多くの人にとって問題となっている。特に、例えばダイエット希望なんかの場合、元の状態からダイエットに必要な状態になってしまったというのは、元々、堕落した生活に陥りやすいのが原因であり、この生活における価値観を反対にするのが必要だが、それはとても難しいのかもしれない。

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2008年2月 7日 (木)

道路特定財源は不要

 道路特定財源、暫定税率・・・の問題だが、この暫定税率撤廃&一般財源化するのが一番である。

 というのも、今日も定例の昼ポタにスピママ号で出掛けたのだが、今日は突然のように道路工事が行われている。ふと、思い起こせば、丁度一年前も、この時期に道路工事が同じ場所で行われていた。

 そう、これから年度末である。で、至る所で道路工事が始まるのである。年度末の忙しい時期に、何故か道路工事、路面標識のやり直し・・・・盛んに行われるのである。

 この風景は、日本の年度末の風物詩状態である。

 道路工事を集中してやる必要があるか?毎年、同じ場所で工事する必要はあるのか?一体何の工事をしているのか?これが極めて怪しいが、結局、予算を使い切る目的で年度末に道路工事が集中しているのである。予算が剰れば、次年度の配分が減らされる?ためという話は、良く聞くけど、こういう無駄を省けば、必要な道路くらい出来るだろう。不要な工事と、その利権の構図で業界を維持するがための工事ってのも少なからず存在する。

 勿論、そういう構図で生活を支えている層も存在する訳で、全てをいきなりカットは出来ないかも知れないが、そういう所から目を背けたままでは、立ちゆかなくなるのではないだろうか?

 改めて言うが、道路特定財源の一般財源化+新たな炭素税、環境税、福祉目的税という使途が明確な税体系を作る時期である。
 少なくとも、予算が剰ったら喜ばれる民間と、予算を剰らせたら叱られる官庁の価値観の正反対というのは可笑しい。常識的な価値観が官庁にも根ざせば、少しは予算執行においても効率が良くなるのでは無いだろうか?

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取り敢えず、終了!

 突如、思い付いたように遊んだデジタルカメラだが、考え方は5年前と変わっていない事が改めて判った。

 メインのサイトにも書いたけど、ここ数年で購入した複数台のメモ用デジタルカメラで一番良かったと思えるのは、オリンパスの通販専売機種であるCAMEDIA C-120ってモデルである。

○長所は、
・レンズバリア連動の撮影スイッチ。
・起動、撮影間隔、シャッタータイムラグの何れもが非常に短時間で高速動作。
・128MBのメディアで100枚以上記録可能。
・異様な程の電池長持ち。乾電池で10000枚、CR-V3で18000枚
・ホワイトバランス等或る程度選択可能
・固定焦点+単焦点ながら十分以上の高画質。
・L判~ハガキサイズの印刷に十分以上の画素数。
・再生液晶モニターも十分以上に綺麗。D-TFDとは雲泥の差。

■動画は
・ワンショットで最長15秒

×短所は、
・単三電池4本仕様で少々大きい。
・記録メディアがスマートメディア。

★用途は、
・家での育児記録用
・自分の仕事記録用

 ってところ。何よりも動作が速く、真っ暗闇で瞬間に撮影可能。更に電池が強烈に長持ちっていうのは、それだけで大きな取り柄である。
 で、このカメラがベストという結論に達するまでに比較した他の固定焦点+単焦点機のC-120と相対させると

1.SANYO DSC-R1
○記録メディアがCF
○薄暗い所で、少しはマシ。
■動画はワンショット15秒
×微妙に遅い
×WBが完全AUTOで蛍光灯下では死相!?が出る。青々になる。
★A101より屋外で見やすいので屋外用に使う予定。

2.CASIO GV-20
○WBはAUTO設定で一番自然
○薄暗い所で、少しはマシ。
■動画はワンショット10秒
×完全に遅い
×厚い、重い、イカツイ。
★もしかしら売却するかも。

3.RICOH RR211
○単三電池2本仕様で軽量コンパクト
■動画でワンショットはメモリー搭載容量に準ずる。
×望遠過ぎ
×完全に遅い
×室内撮影ではCMOS特有か!?赤々になる。
★動画撮影機能+小型軽量=単車に固定搭載して遊ぶ。

4.Finepix A101/A202
○単三電池2本仕様で軽量コンパクト
■動画はワンショット20秒
×微妙に遅い
×液晶モニターが屋外では全く見えない。
×日付等設定値が電池交換で初期化される。
×室内や薄暗い所では、全くダメ。
★近々処分予定。A202は後輩行き決定。A101は未定。

 とそんなところ。過去を振り返れば、35万画素機ならC-420Lが最も美しく撮影出来たし、コンパクトズームならばC-730UZって機種は、L判出力で十分以上に綺麗だし、機能自体は上級機種並であり、カメラで遊ぶ人には良い選択。特異系機種ではE-100RSは、近々登場予定のEXILIM-F1迄、連写能力は最強を保っているし、プリキャプチャー機能も備え、更には手ぶれ補正、望遠端でも明るいレンズと運動会系最強とも言えるカメラ。

 どの機種も一長一短有るけど、少なくとも、写り、写真の映え具合で、自分の好みを言うと、オリンパスが一番良いと思える。

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自己防衛本能喪失

 火曜日の朝は、勤め先で安全についての講演会があった。なんでも、今期に入って労働災害が多発しているためで、この労災対策に有効な方法は?ってノリで絶対的に本質的に事故が起こりえない物理的対策を施すことのススメが説かれたりしていた。

 一方で、最近は?っていうと、毒物が混入されてしまった中国産餃子の問題、もっとジェネラルに言うと、あらゆる製造物における製造者責任、PLの考え方に基づく、リスク要素の告示に非常に神経質になっている。

 普通に、そんな実態を眺めると、確かに大事な事だなぁ!って思うのだが、自分的には、ここまで言う必要があるのか?そこまで配慮すべきか?って気持ちがあるのは否めない。

 大体、何が危険で、どんな事態に陥るか?っていうのは、普通に生きていれば、普通に見えるのが人間で、そういう危険を察知する能力っていうのは、成長過程において身に付けるべきものであり、そこに告示されていないから、告示義務怠慢が負傷の原因というのは如何なものか?と思うのが正直なところ。

 一口食べて変なら食べずに吐き出すってのが自然である。見るからに危ない場所には近づかない。危ない場所に潜む危険要素は自分に見つけ、それに応じた対策を自分で講じるってのが、自然な行動であり、それは本能的に身を守る習性ではないか?
 こういう習性的行為を取れないのだとすれば、最も重要なのは、状況に潜む危険要素を一から十まで対策するのではなく、その危険要素を察知して自己防衛する能力を教育する、或いは養わせる事が最も重要だと思うところだ。

 最近のニュース、周囲の状況を見ると、そこまで言う必要があるの?って気が極めて多い。何故に、そうなったか?というと、平和ボケ、安全ボケで、自分で負った怪我や損害を全て周囲の責任に転嫁する価値観が広まったためとも思える。

 こういう状況となった人達や、この事態を当然と思い、義務的に教育する事だけに熱心な管理者っていうのは、なんだか、微妙な存在だ。
 こういう人っていうのは多いけど、こういう人っていうのは、自発的にデザイン、創作して行動を起こすタイプの人とは違い、上役から言われた事を義務的にこなす人が、こういう問題の管理者に当て嵌められているようにも見える。言われた事を、繰り返し、淡々と行う事が得意な人が管理者になり、言われた事さえもが、なかなか出来ない人っていうのが、その教育対象になっているようにも見える。

 そういえば、よくルーティーンの業務という言葉があるけど、全ての仕事に単純な繰り返し作業っていうのは、実は存在しないのである。にも関わらず、ルーティーンという言葉を使いたがるバカってのは、実は、現状における行動に改善しようとする目、好奇心を失っているという証明でもある。極論すれば、繰り返し作業を進歩の無い作業と思いながらも、それを繰り返す事で働いていると思っている奴がいるとすれば、それは存在価値ゼロであり、そういう機械的な作業自体は機械にやらせば良いのであり、それに違和感を持たない奴=ルーティーンに染まった奴=新しい価値が創造出来ない奴=価値無しなのである。繰り返し作業に見えても、そこに何かを感じ、新しいモノが見付けれる奴ってのは、恐らく、日常のチョットした隙に潜む危険も察知できるし、ミスも予防できる。そういうのが本能である。

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2008年2月 6日 (水)

サドル高

 日曜日の午後、ラングスターでホームコースを走行して帰り際に、小雨がぱらついてきたのでニシダサイクルさんで雨宿り。

 そこで、雑紙をめくって目を引いたのが、未だに特集されているペダリングネタ、フォームネタの記事。その中で更に目を引いたのがサドルトップからBB迄の距離のネタ。一般にこの距離は、股下寸法×0.875~0.885って言われている。で、その数値より大きいとトルク重視、その数値より小さいと回転力重視っても言われている。

 また、ペダリング中に脚が下死点に降りた時に、骨盤が引っ張られるとサドルが高すぎ、上死点で骨盤が押し上げられるとサドルが低すぎとも解説されていた。

 で、ふと考えてみた。

 因みに、自分の場合は、その距離は700mm、股下寸法は乗車スタイルで785mmである。で、0.875という係数に相当する数値は0.892となる。言われている標準値より随分と高いサドルポジションだが、骨盤が引っ張られるか?というと、自分では、そういう気持ちも無いし、回転が上がらないか?というと、実走において常用が110rpm、最高で180rpm以上なんで、寧ろ回転数は高め。

 人によって、足首関節の柔らかさも違えば、サドルの前後位置も異なっており、こればっかりは杓子定規に決めるのは、相当に難しい。
 自分の場合、どの自転車も、自分でこれだ!と決めて位置決めを行うと、全ての自転車で下半身の三角形が完全に等しくなると言うモノ。自分のポジションが正解か否かは不明だが、少なくとも、自分のスタイルは完全に固まっている感じである。

 そういう訳で、雑紙の特集ネタが無意味とは言わないけれど、最初に数値ありきで囚われすぎると、己の固有値が見つからないかも知れない。乗り方、関節位置、関節硬さは人によって千差万別。よって、パーソナルベストは完全に固有値である。人の話、雑紙の受け売りに翻弄されすぎるのは危険かもしれない。

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2008年2月 5日 (火)

ナンバーカバー禁止か?

 夏迄にナンバープレートに取り付けるカバーが原則禁止とする方向で検討されているらしい。このナンバープレートカバーってのは、そもそも赤外線撮影オービスによる自動速度取り締まり装置の撮影対策で、赤外線遮断カバーってのが発祥であるが、その透過率によって一部生き残り?で販売されているアクセサリー。

 しかし、所詮プラスチックであり、ナンバーとの密着度も少なく、ホコリを間に挟みやすく、表面も傷つきやすいもの。更には、意図的だろうけど、スモークであったり、グラデーションカラーであったりというモノが多い。

 そして、その装着車両っていうのは、言葉は悪いけど、少々柄悪い感じの車、昔流でいえば、エアロ+車高短+セダン、今風で言えばエアロ付きミニバン、茶髪系ネーチャンの軽自動車ってのが多いように思う。
 印象的には、原付に多いナンバーの折り曲げ行為に近い印象がある。

 ナンバー折った原付=ナンバーカバー付き四輪ってのは、あまり好印象を持っていないのが素直なところ。時折、高級車(外車を含んで)に、このカバーつけるだけで、印象的に、上品さが吹き飛んで、なんかチョイ悪を気取るというか、ガキっぽいというか、そんなネガティブなイメージになる。他人はどう捉えるか知らないけど、少なくとも、自分はそう思う。

 こういうのも、一種のドレスアップっていうか、改造なんだろうか?
 僅かな改造で、全体の印象がガラッと変わる一例だが、単車のカスタムなんかでは、自分の好みは、かなり大がかりに手を加えたとしても、一見、何も変わっていないような、ノーマルのような印象を与えるようなモディファイの方が好み。

 一見、何も変わっていないように見えるけど、じっくり詳細を見る程に、『こんなところ迄もも、手が加えられているのか!』って方が好み。

 この違いは、改造の目的が、外にアピールするための改造か?或いは、機能の違いを獲得するための改造か?というのが思想の違いとして根底にあるように思う。

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加圧トレーニングジム

 日曜日の行列の出来る法律相談所での出演者の話。

 その日は、副業を持つ芸能人がゲストで、その副業が紹介されていたけれど、そこで目に付いたのがヒロミ氏の副業。この副業がトレーニングジムを経営されているとのことで、特色としては、今流行りの加圧トレーニングをメインに据えたトレーニングジムとのこと。

 なんでも、ヒロミ氏が最近熱中されているトライアスロンと、それに伴うトレーニング熱の趣味からジムのオーナー迄手掛けるようになったとの事である。

驚いたのは、その加圧トレーニングのインストラクターとして番組に出られていた方で、確か、井川さんという女性の方だが、なんと今年で45歳を迎えられるとのことだが、ウエストで58cmというのが強烈。45歳といえば、自分よりも年上だが、それでいて、鍛えようによっては、あのような状態を維持できるということでもある。

 なお、このジムは『KAATSU STUDIO 51,5』という名前らしく、それで検索すれば直ぐに見つかるので興味がある人は見ればよいかも、、、。

 この加圧トレーニングっていうのは、一寸前から流行のトレーニング法であり、メリットは効率的に筋の限界近くまで追いこめるということ。デメリットとしては、トレーニングを中止(休止)すると筋力の低下も早いということ、講習を受けないとできない、選手によっては気分が悪くなったり、筋の成長と骨の成長のバランスがとり難い等。

 因みに、俺は、この加圧トレーニングを取り入れるか?っていうと、答えは『ノー』である。確かに、加圧すれば、2kg程度のダンベルで十分な筋力トレーニング出来るのかもしれないが、ダンベルなら15kgは使いたいし、ベンチプレスでも100kg上げているんだぞ!って方が実感として判りやすい。何よりも、トレーニング効果が簡単に得られる反面、簡単に失われるというインスタンスな面が性に合わないからである。

 他にも、運動中はそれに応じて血管が拡張し血流を増やすような機構が働くのが人体ならば、それを外部から制限かけて、、、ってのが、どうも違和感があるというか、本来の人体の器官の平衡性維持機能を破壊しているように感じる点が拭えない。

 そんな自分は、上のトレーナーの方の一つ年下。トレーニングはオーソドックスかつコンベンショナルな方法。女性とは違い、男だけど、ウエストは66cmである。だから、敢えて今より楽して更に効果を求めたいって希望は無かったりする。

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2008年2月 4日 (月)

平均寿命と元気な高齢者

 日本人の平均寿命は、男性で79歳、女性で85歳を越えているそうだ。
 この数字自体を聞くと長生きだなぁ!って思うのだが、周りに居る高齢者というか、そういう人達の年齢を聞いた時の数字と、発表されている平均寿命っていうのはギャップがあるように思う。

 実際、身の回りにいる元気な高齢者っていうと、70歳代は極当然、80歳以上でも普通。敢えて言うなら90歳以上になると、『長生き!』って思う感じ。少なくとも70歳代というと殆ど現役世代のように感じるのは気のせいだろうか?

 因みに、勤務先の前社長(昨年8月迄社長、今会長職)は今年89歳になられるが、未だ現役バリバリで、背骨も全く曲がっていないし、歩くのも速いし、エライ元気。まぁ、これは特殊な例だろうけど、それでも80歳代で元気な人っていうのは普通の感じである。

 となると、発表されている平均寿命は結構若い?ような気もする。

 更に考えると、周りで疾病で亡くなる人っていうのは40歳代~50歳代っていう人が実に多いのも事実である。っていうことは、案外、長寿の人と早死にの人の両極端なのだろうか?と、ふと思ってしまう。

 そういえば、現代病である生活習慣病が重症化して亡くなるのも結構若い年齢だが、この平均寿命っていうのは、これからどうなっていくのだろうか?

 戦後から現代迄の間に、確実に平均寿命は長くなってきているが、これが果てしなく長くなるか?というと、長寿の限界は生物学的な限界であり伸びようがないのが事実。しかし、生活習慣の現代化?によって生活習慣病を抱える人の割合は確実に増えていく。
 そうすると、ある時点から平均寿命は緩やかに短くなっていくような気もする。

 果たして、これから平均寿命はどのように変化していくのだろうか?

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2008年2月 3日 (日)

エコって?

 今日、暇つぶしに車雑誌を会社帰りに買ってみた。
 で、読んでみると景気の良い話(新車予想)が沢山記事になっている。

 確かに、予想記事に拘わらず、デビューしてくる車は、馬力自主規制解除もあり、高性能化、高価格化が進み、メーカーはエコエコとクリーンカー?を沢山発表している。その延長線上の予想が記事にされているけど、実際街ゆく車を見ると、レクサスも、メルセデスも、BMWも、その他高級車~多人数乗車ミニバン迄、殆どが渋滞車列を作りながら一人で運転しているのが多い。

 これって、エコなんだろうか?

 ハイブリッド車も話題だが、例えば、レクサスは標準がLS460、でV8の4600cc、で、ハイブリッド版がLS600h?ということで、V8の5000cc+モーターで6000cc相当なんだそうだ。

 これって、エコかどうか?というと極めて微妙である。価値観自体が古い価値観で押し出し重視の恐竜のような存在に見えるのは気のせいか?

 寧ろ、インドのタタ社が国民車構想で10万ルピーで開発した車という、必要最低限の機能で5人乗れるって車の方が価値観的に新しく感じる。
 如何に、環境性能が良いとはいっても、所詮5000ccの車である。どんなに頑張っても500ccの車より排出ガスの絶対量は多い。これはどうしようもない、紛れもない事実である。

 実際、老人が環境だの、エコだのとイイながら、3ナンバーの車を長時間アイドリング駐車していて、例えば、単車を下げすさむ目で否定するのも、そういう価値観と似ていると思うのは単車乗りの被害妄想だろうか?

 エコを言うなら、近場の移動に車なんか使うな!って政策でもぶち上げる方がスマートである。道路特定財源としての暫定税率維持は反対だが、一般財源化したガソリン税なら大賛成である。一般財源化してガソリン税を今の税率の10倍なんかにした方が遙かに自然である。そういう政策で、今の古い価値観をぶっ壊す必要があるようにも思う。

 車の話に戻すけど、今の景気の良い新車予想、或いは、新車投入計画だが、実際は、景気が悪化して環境問題が深刻になっていけば、バブルのように弾けて、今の景気の良い話は吹き飛びそうでもある。俺的には、地球のためには、一度吹っ飛んだ方が良いと思うのである。

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2008年2月 2日 (土)

ビリーズ・ブーム

 ビリーズブートキャンプっていうと昨年の秋頃から大ブレークした短期集中ダイエットプログラムである。テレビ通販で毎日のように放送されていたし、ワイドショーでも相当数取り上げられていた。

 しかし、今はめっきり聞かない。

 更に、最初はテレビ通販で良い値段で販売されていたが、年末の頃には10000円を切った値段で大手スーパーのワゴンセールで扱われ出して、先々週の新年会前に街を徘徊した時は、オモシロ商品を扱う怪しい店で4980円で扱われ、今週に入って街中で見掛けたのは2980円迄下がっている。
 それでも、人の注目は集めることが出来ず、大量に山となっている模様。

 ブームというか、一過性の流行だったみたい。二年前にはステッパーが大流行してたし、、、、

 ステッパーでもブートキャンプでも、続けてやれば間違いなく効果あるのだが、一過性の流行で終わるってことは、多くの消費者が効果が無いと判断したため。つまり、続ける事が出来なかったという訳だ。

 ブームの発生は、ムーブメントが在る訳だが、そのムーブメントはマスコミ、宣伝が作り出すモノ。如何に消費者が振り向くか?が勝負だが、そのムーブメントがブームで終わるっていうことは何か?というと、これって、ムーブメントの火付け役というと言葉は良いけど、結局、殆どの消費者にとってはダメだったわけであり、それは詐欺みたいなものである。

 そう言えば、振り込め詐欺、先物取引、羽毛布団・・・いろいろあるけど、旨い話に乗る人が多いのが社会の犯罪になるほどに、日本人っていうのはムーブメントに乗りやすい傾向がある。そして騙されたり、ブームが一過性っていうのは、結局、何も考えない人が多いってことを示している。

 日本人の弱いフレーズは、

・短期間で楽に効果が得られる。
・取り敢えずスペックが良い
・儲かる!得する!

 という3点。しかし、そんな話が転がっている筈無いのだが、それが転がっていると勘違いするのは、如何にも欲深い。そんな気がするのである。

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2008年2月 1日 (金)

中国産?薬物ギョーザ・・・・

 昨日のニュースでギョーザに殺虫剤成分が大量に入っており、食中毒を引き起こし重体患者迄だしたという冷凍餃子だが、この原産国が中国製とのこと。

 コストを下げるために効果の高い(害虫駆除性能の高い)殺虫剤を大量に用い、大量に食物生産を行うために、或る意味、仕方ないといえば仕方ないのか?勿論、食に関する問題故に安全第一な筈だが、それ以上にコスト的な要求が厳しいがためか?或いは、生産者が生産性追求しすぎたためか?は知らないけど、結果的に、食の安全を脅かすモノが入ってくる。

 中国産食材だと、野菜、鰻についても水銀だの何だのの話題がのぼった事があるが、こういった安全を脅かす食材流通を防ぐ体制が日本国内でも十分で無いのが実情のようだ。
 今回の安全性チェックだが、野菜等は生の状態では検査対象となるらしいけど、何と、加工食品については未チェックというのが実態だそうで、結果、超ザル法みたいなモノである。

 中国製を全て否定する訳ではないけど、中国製激安自転車も品質面で物議を醸しだしているのは事実だし、幼児用玩具でも有毒物質が溶け出すなんて話があるのも事実である。他にも、安全に直接的に関係無い部分でも品質を問題視する話も沢山ある。

 さて、そういう実態から中国製品、或いは産業を管轄する国家を責める事が出来るか?というと、それは簡単な事ではない。
 恐らくは、中国の産業は海外からの要求に従ってコスト的に成立させる方法を執らされているという側面も在るだろうし、企業における管理体制が未成熟って要素もある。しかし、それを承知でオーダーを掛けているのはクレームを言っている消費国であるのも事実。オーダーする側は、自国でのコストアップ要因が人件費から管理費、設備費・・・・にあるのを承知で、その経費が掛からない=未熟な体制を承知で作らせているのも事実である。
 中国製品に消費国生産製品と同じ品質を求めると、コスト的に見合わない可能性が出てくる可能さえあるのではないか?

 本当に安全、品質を重視すれば、全ての輸入を停止するという処置が必要だが、今、見渡せば生活資材の殆どが中国製だったりする。仮に、周辺から中国製品が消え去れば相当にモノが無くなる筈。更に、安くモノが買える現代社会は、安価な中国製品あったのモノでもある。

 そう言えば、日本も高度経済成長期の始めの頃は、海外に大量の衣料品を輸出していたが、その品質は褒められたモノではなく、ボタンを接着剤で付けていたなんて笑い話も在るくらい。自動車だって最初は安いのが取り柄だったのだが、今の中国の状態っていうのは、その頃の日本の状態にオーバーラップしているようにも思う。食の安全云々にしても、当時の日本の食の安全への無頓着とそっくりに見える。
 当時の日本が品質よりも価格という競争力で海外に進出していったように、今の中国もそうなんだろう。

 恐らくは、そんなに遠くない将来、中国の産業も成熟し、一定レベル以上の品質と安全性を確保した製品を以て世界を席巻する日が来るのだろう。そういう製品の重要性を理解するために、今の状態っていうのは、発展してきた国々全てが通ってきた道のようにも思うところ。

 今回、食の安全で中国を一方的に批判する風潮が見受けられるが、国の発展において、そういうプロセスを踏むって意識を当然に持ちながら、品質に目を向けなかった日本の落ち度の方が大きいと思うのは自分だけだろうか?
 コストが安い=人件費、管理費が安い=日本の管理体制以下というのは当然であり、その辺を無視して利益追求しすぎた日本の商社、販売会社が予想されるであろう管理体制の不備を補う体制を取らなかった事が一番の悪のように思う。

 管理費、人件費の安い所で作られたモノっていうのは、管理されてない、匠の技が無いって事であり、それを見極める事が企業のみならず消費者にも求められている。特に、文明の水準が雑多な現代においては、自分だけの先入観で安全、危険を判断することは自分の身を守るには注意不足だろう。
 安いには訳があるのである。訳の中にはリスクも存在する。これは当然であり、そのリスクを回避するためにはコストがかかる訳である。

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良く判らないなぁ、、、

 本来、カメラを趣味としていない自分がデジタルカメラに関心を持つ理由は何か?っていうと、、、、個人的には、

①.2002年から始めたホームページ掲載用の写真データを収集するため。
②.2004年からの職種上、工場内の記録を収集するため。
③.2002年からの子供の成長記録のスナップ写真を収集するため。

っていう使い方に集約されている。
本来はこれだけなんだが、家族的には、

④.子供の成長に合わせ、子供の運動会、演技発表会、音楽発表会での記録用
⑤.子供を連れて出掛ける家族イベントでの記念写真用

って用途が生まれてきた位である。
同じ写真を撮るといっても、取り方、必要な記録品質は全く異なっており、個人的な用途では、完全に写るんです状態である。
こんな要望を満たしてくれるカメラは何か?というと、カメラのスペックからは正直判断できないのが現状である。
 取り敢えず、オートフォーカスとかパンフォーカス、画角、或いは、手ぶれ補正、連写速度、プリキャプチャー機能なんて語句の意味は理解できるけど、更に一歩踏み込んだカメラの基本であるISO感度、F値、シャッター速度ってなると、これらが最終的な映像品質にどのように関わっているか?を断定する事は出来ない。
 最も単純な固定焦点機でも、ブランドによってISO感度、シャッター速度、F値はそれぞれに異なっている。この数値を単独で判断して善し悪しを決めつけることは少なくとも出来ない。F値が小さく、ISO感度も低い、シャッター速度も遅いという組合せと、F値が少し大きいけど、ISO感度か高く、シャッター速度は速いという組合せが結果的に差がどうか?なんていうのは、良く判らないのが正直な所である。
 機種を比較すると、この三要素は機種毎に異なっている。凄い理解力のある人っていうのは、恐らく、その辺りが区別できるのかもしれない。
 他にも撮影素子がCCDかCMOSかで違いはあるか?CCDでもインターレススキャンか?プログレッシブスキャンか?を言い当てれるか?フレームトランスファーだから凄いか?なんては今一つ判らない。

 突き詰めて調べると、その数値の微妙な違いからカメラの特徴っていうのが明らかになるのかもしれない。

 ただ、何となく思うのは、少なくとも情報の入力はフィルムカメラ同様にレンズを介しているのは間違い無い訳であり、家電メーカー、カメラメーカー、スーパーが入り乱れたブランドにおいてカメラメーカーのブランドを関している限りは最低限の写真は撮れるように思う。

 ところで、最近のカメラのトレンドを見ると、殆ど多機能ばかりだが、その多機能化の最初の一歩というところがオートフォーカスか否か?ってところ。でも、スナップカメラの場合は、漠然とした一瞬を撮ることが多く、極端な話、殆ど見ずにシャッターを押すなんて事をやる場合がある。例えば、バスやJRの窓からとか、自転車や単車のハンドルにマウントして走りながらボタンを押すとかである。または、暗闇の中でシャッターを押したりする事もある訳で、そうなると頭の良すぎるカメラの場合、合焦しないとシャッターが押せない機種もある訳で、それはNGなのである。
 更には、旅先スナップの場合は全域で何となく何が写っているか?が見えないと、旅の記憶は呼び起こせない。ボケ味とかの話もあるけど、少なくとも記録の場合は、写真全体に何が写っているか?が確認出来ないとダメである。
 他に、パンフォーカスに拘るのは、自分の眼で見た風景っていうのは、意識を特別集中せずに漠然と見ている時は殆ど視野全体を大雑把に見ており、人間のモノの見え方っていうのは、パンフォーカスの方に近いと思っている。オートフォーカスの場合は、人間の見え方では注視している時の見え方であり、記録に取るという行為は、注視するような場合は多機能カメラ、行動記録を取る場合はパンフォーカスという安直カメラが良いと思うのである。

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