ダイエットの目的は?
極々一般的な話で、誰もが知っている話。
肥満体型にコンプレックスを持つ人の願いがダイエットだが、このダイエットの難しさ、大敵は何処にあるか?を、ダイエットが目的かどうか?という視点で考えてみた。
ダイエット開始の意志を持つ段階は、その時点における自分の思いから行動を思い立つ訳であり、続くか否かは別として、ダイエット自体を始める時の意志は、どんな人でも、その人なりに強い意志を持っている。
次に、ダイエットを続けれるかどうかの関門は、ホメオタシス(生体恒常性維持)による停滞期を乗り切れるか否か?という段階だが、今の時代、ダイエットの進行に併せて停滞期が存在するっていうのは、ダイエットを志す人にとっては既知の事実であり、停滞期の発生=ダイエット成功の証という事から、この停滞期で挫折する人よりも、ダイエットの進行を実感する人の方が多いだろう。
ダイエットでは、決意を持って取り組んで、停滞期を乗り切って、目標に到達する訳だが、一番の問題は、目標に到達した時だろう。こんな話は、誰もが知った話で、今更、書く必要もないけど、先日の記事で、お金や地位は目的か手段か?という話を書いた時に、その考えとオーバーラップしたので、敢えて記事としてみることにした。
ダイエットの目標設定は人によって様々だが、ダイエット自体を目標に掲げ、体重計の数値を減らすことをターゲットにした場合、目標を達成した時点で、それまで保っていたモチベーションが失われるのでは無いか?と思ったのである。
目標達成したから、チョット、好きなモノを好きなだけ食べたい。苦しい運動は減らそうという意識が生まれると、そのモチベーションを無くした状態では、ダイエット時の生活習慣を取り戻す事は非常に大きな困難を伴うのでは無いだろうか?
ダイエットとは、生活習慣の改善であり、ダイエットが必要な状態というのは、生活習慣の乱れが継続して生じた結果(経過)である訳で、ダイエットが終了したから、生活習慣を旧来通りに戻すというのは、元のダイエットが必要な状態に戻るということである。
つまり、ダイエットというのは目標とした数値に一時的に到達するのではない。ダイエットが不要な状態となるような生活習慣を維持することで、フィジカルコンディションを保つということが重要であり、フィジカルコンディションが良い状態でなければ満喫出来ない何かを見つけるというのが大切では無いだろうか?
そして、その何かというのは、奥深い到達地点が見えない学問のような世界であるのが望ましいように思う。奥が深い程に、ダイエットが不要な身体を得たとしても、その世界を求道するようになれば、その世界において満足できる状態を常に高めて突き詰める意欲が沸いてくるのでは無いだろうか?
ダイエットというのは目的でなく、他の目的達成のための必要条件、手段と捉える事が大事であり、他の目的というのは、ダイエットのみでは究極に到達出来ないモノを選ぶのが望ましい。そういう奥の深いモノっていうのは、所謂学問であり、フィジカルポテンシャルを駆使するのが前提の学問とは、即ち、スポーツである。
そう、健康のためにスポーツするのではなく、スポーツを楽しむために最低限度の条件として健康な身体を保つというのが重要だ。スポーツという学問の場合は、身体+知識+技能が求道に必要なものであり、仮に健康な身体を手に入れたとしても、その分野における知識や技能というモノを突き詰めることで、スポーツの奥深さを楽しむ事が出来る。特に、スポーツの場合、高度な知識や技能っていうのは、それが実践できる親愛能力があるというのが前提であり、身体能力を高める毎に見える世界は変わるモノであり、先はあってないようなモノ。正に学問と同じであると思う。
先の記事では、金や地位のために生きるのでないという話をしたけど、金や地位があっても、満足できる使い方が無ければゴミである。それと同じであり、生き方の基本となる楽しみを見つけることが、健康を保ち、金や地位を手に入れるに繋がるのでは無いだろうか?
PS 仕事でも、趣味でも、ダイエットでも何でもだが、どうも、目的と手段が反転しているような世の中に感じるのは自分だけだろうか?
ダイエットが目的ではなく、ダイエットが不要なフィジカルコンディションを得て、何がしたいか?何で楽しみたいか?それを見つける事が全てに優先するというのが私の考えだ。
バックボーンにあるのは、健康でも、元気な身体でも、金持ちでも何でもなく、自分の場合は、10代の価値観形成期において自分が(自分の生い立ちから自然に)本能的に選んだ趣味を永遠に楽しむということ。それには、健康な身体、パワフルな身体、余暇を楽しむ時間、満足な環境を得るための財力が必要というだけ。それだけである。
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