国際学力テスト、第10位!!!
火曜日の午前中、所要で車で移動中のラジオで聞いた話。今年、義務教育後の世代を対象に無作為で6000人を抽出して国際学力テストが行われたそうだ。今年で三回目との事だが、初回はトップだったのが、今回は10位に迄落ち込んでいる。
その中では、特に理科離れが顕著であるそうだ。
そんな実態に危機感を覚えたのかどうか知らないが、文部科学省の教育指導要綱は『ゆとり教育』からの方針転換で30年ぶりに教える内容が増えたそうな、、、、。
では、果たして30年前の教育を受けた世代がまともか?と考えると、30年前に義務教育を受けた世代っていうと、45歳以上の世代か?で、たしかにまともな人もいるけど、そうでない人も多い。その下の世代でも社会人世代を見渡して思うこと、、、、、微妙だ。
どうにも、独創性、発想力に乏しい人が多いように思うのは気のせいだろうか?何よりも、自分で意見を出せない人があまりにも多いように思う。殆どの人が他人に同調するような人ばかり、自発的に行動を起こすってタイプの人ってのは居ない。
まぁ、自分自身、大した事は出来ないけど、長きに渡り塾の非常勤講師~塾経営を行ってきて時代毎の中高生を見てきて、自分の生徒を通して見た、その世代の中高生や教員、親の姿、或いは、その後、卒業して就職してくる若年世代の姿は、やはり思考のアルゴリズムに独創性が見当たらないという事である。
考えてみれば、日本の教育っていうと、殆どの科目において、公式、法則、原理の簡単なガイドラインを説明して、その解法を当てはめる事例を例題として紹介した後に、その例題と殆ど相似な問題(数違い、虫食い、条件違いレベル)を類題として演習させた後に、その類題が解けた時点で理解したと判定するような手法に終始しているが、これって、型に嵌った問題のみにしか対応できない能力しか無い奴を大量生産しているだけのように思える。大体、入試問題で過去問で傾向対策すれば良い点が取れるってシステム自体が大きな過ちだ。
実際、企業に就職して様々な教育?を目の当たりにしても、同じ印象しか受けないのが実状である。安全教育、新人教育、設計における技術教育、現場での作業方案指導・・・・殆ど全てが、そんな感じである。あまりにも形に当て嵌めすぎた指導と教育、設計においては、関連性を超越した形でのチャート、公式の利用方法のみの実習に終始しているのは、何か違うような気がする。
それ故に、新たなる製品を開発したり、新技術に対する取り組みには及び腰であり、難問に対する考察も行えない、問題解決から得た知見をフィードバックせずに似た問題を繰り返す・・・・そんな風に見えるのである。
本来、ゆとり教育っていうのは、原理から分化した数多くの公式を詰め込むような教育を改め、公式に分化する前の原理を理解し、本質を見抜く目を養わせ、そうすることで体系的な科目外の体験の中にも様々な原理が潜む事を発見させるのが本筋では無かったのだろうか?単なる、指導科目の量の増減でゆとりか否か?を議論する思考自体が『ゆとり』的では無いだろうか?
例えば、クイズ的な話だが、一般に平方根を求めるっていうと、何通りかを語呂で覚えるっていうのが通常で、それを組み合わせて求めるってのが普通。しかし、少し前の世代なら開閉計算って筆算で求めるってのも知ってるかもしれない。ただ、この開閉計算にしても単に手法のみ暗記するのと、その意味を考えるのでは全く発展性が異なってくる。考え方を拡げれば、求めたい面積の正方形の一辺の長さを位取りの概念と併せて求めるという方法にも見える。そして、そういう見方ができれば、立方体の一辺長に展開して考えれば立方根も求めることが出来る。
更に、平方根、立方根を求める際の漸化性に気付けば、実は5乗根、7乗根も求めれたりする。(実際は相当に面倒くさくなるし現実的でないけど、考えると面白い。)これは学校では習わないが、気付けば面白いモノ。
他にも、分度器を使わずに正5角形を作図するとか、或いは、天体における季節や時刻で見える星座を作図的に求める方法とか、或いは、中学二年の身体の役割なんかでは、臓器の役割なんかも結構簡単に理解できる方法等色々あるんだが、そういう面白い解法っていうのは、まず学校では習わないし、塾や参考書でも見えてこない。
しかし、そういう所に、本質っていうのがあると思うのである。なんか表面的な語句だけ曖昧に覚えている連中は色んな勘違いしているように思う。大卒理系でも熱力の法則、モーメントなんかが良い例だし、酷い奴になると、抗力と重力が作用反作用の関係って言う奴迄居る始末。こうなってしまうと、修正不能である。
日本の社会を見て思うこと、若年世代に対しては公式偏重、解答への迅速性重視の傾向が強すぎるように見えるし、年輩世代に対しては経験という名の保守性、或いは、立場故の知ったかぶり現象が強すぎるように見える。どこの世界でも同じかもしれないが、なんか、新しい何かを生み出す力っていうのが、どの世代にも備わっていない気がするのは考えすぎだろうか?大企業は違うかも知れないが、少なくとも中企業以下では、そんな気がする。
ふと、思うのは、(上役から部下迄から)色んな実務上の質問を受けて普通に答えているけど、答えを簡単に教えてはいけないような気がする。せっかく、質問に遭遇したのなら、その質問を思い付いた機会を本人に有効利用させるべく、自分で考えさせるようにし向けるのが優しさなのかもしれない。必要なのは担当者にやる気と、自分の愚かさの両方に気付かせる事のようにも思う。
しかし、こんな愚痴ばかりこぼしてもNGな訳であり、資本主義社会においては、そういう構成で成立して資本の再分配という形で財を成している。超後ろ向きで考えれば、周りの能力と財の均衡を見て、適当に手を抜いても極端な話、罪悪感は沸かない。
こういう風に思うのは間違いだが、そういう思いを持つ人が増えると更に社会における生産活動は停滞的になり、価値を生み出す事に生き甲斐を持つ人も少なくなりそう。実際、そうやって日本は投資国家に変貌を遂げつつあったりする。
なんか、書いてる事が支離滅裂になってしまったが、まぁ、愚痴っぽい戯れ言なんでOKだろう。
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