自己防衛本能喪失
火曜日の朝は、勤め先で安全についての講演会があった。なんでも、今期に入って労働災害が多発しているためで、この労災対策に有効な方法は?ってノリで絶対的に本質的に事故が起こりえない物理的対策を施すことのススメが説かれたりしていた。
一方で、最近は?っていうと、毒物が混入されてしまった中国産餃子の問題、もっとジェネラルに言うと、あらゆる製造物における製造者責任、PLの考え方に基づく、リスク要素の告示に非常に神経質になっている。
普通に、そんな実態を眺めると、確かに大事な事だなぁ!って思うのだが、自分的には、ここまで言う必要があるのか?そこまで配慮すべきか?って気持ちがあるのは否めない。
大体、何が危険で、どんな事態に陥るか?っていうのは、普通に生きていれば、普通に見えるのが人間で、そういう危険を察知する能力っていうのは、成長過程において身に付けるべきものであり、そこに告示されていないから、告示義務怠慢が負傷の原因というのは如何なものか?と思うのが正直なところ。
一口食べて変なら食べずに吐き出すってのが自然である。見るからに危ない場所には近づかない。危ない場所に潜む危険要素は自分に見つけ、それに応じた対策を自分で講じるってのが、自然な行動であり、それは本能的に身を守る習性ではないか?
こういう習性的行為を取れないのだとすれば、最も重要なのは、状況に潜む危険要素を一から十まで対策するのではなく、その危険要素を察知して自己防衛する能力を教育する、或いは養わせる事が最も重要だと思うところだ。
最近のニュース、周囲の状況を見ると、そこまで言う必要があるの?って気が極めて多い。何故に、そうなったか?というと、平和ボケ、安全ボケで、自分で負った怪我や損害を全て周囲の責任に転嫁する価値観が広まったためとも思える。
こういう状況となった人達や、この事態を当然と思い、義務的に教育する事だけに熱心な管理者っていうのは、なんだか、微妙な存在だ。
こういう人っていうのは多いけど、こういう人っていうのは、自発的にデザイン、創作して行動を起こすタイプの人とは違い、上役から言われた事を義務的にこなす人が、こういう問題の管理者に当て嵌められているようにも見える。言われた事を、繰り返し、淡々と行う事が得意な人が管理者になり、言われた事さえもが、なかなか出来ない人っていうのが、その教育対象になっているようにも見える。
そういえば、よくルーティーンの業務という言葉があるけど、全ての仕事に単純な繰り返し作業っていうのは、実は存在しないのである。にも関わらず、ルーティーンという言葉を使いたがるバカってのは、実は、現状における行動に改善しようとする目、好奇心を失っているという証明でもある。極論すれば、繰り返し作業を進歩の無い作業と思いながらも、それを繰り返す事で働いていると思っている奴がいるとすれば、それは存在価値ゼロであり、そういう機械的な作業自体は機械にやらせば良いのであり、それに違和感を持たない奴=ルーティーンに染まった奴=新しい価値が創造出来ない奴=価値無しなのである。繰り返し作業に見えても、そこに何かを感じ、新しいモノが見付けれる奴ってのは、恐らく、日常のチョットした隙に潜む危険も察知できるし、ミスも予防できる。そういうのが本能である。
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コメント
こんばんは!
まぁ、自身が満足していれば、それでOKですよねぇ、、、。
でも、身を守るのは、自身で守る。自身が怪我したら、先ずは自分の不注意、不慮を悔やむのが先で、守ってくれないから怪我したって考え方は違和感を覚えますよね。
用心深い人っていうのは、例えば、ロープで吊ってあるモノが移動されているとき、仮にロープが切れたら、どういう風に振られて、どっちに落下するか?というのを考えながら自分の逃げ場を確保する訳です。
単車で信号待ちしているときも、バックミラーを見て、後続の車が止まるかどうかは注意しています。こいつ、前を見ていないとか、止まりきれそうにないと思う時は、咄嗟に回避する訳です。
高速道路でも大型車両と併走する状況は作らないとか、、、、色々ありますが、そういう配慮をするだけで、リスクは相当回避される訳です。そして、そういう配慮が出来る人っていうのは、恐らく、日常行動の中でも考えて行動しているのでは無いでしょうか?
投稿: 壱源 | 2008年2月 9日 (土) 00時08分
>公取委「燃費向上効果なし」 19社に排除命令
これなんかもだと思います。
ただ、生命に別状なくて自身が満足しているなら、それでも良いかななんて思わなくもないですが・・・
でもそれでは全体の進歩がなくなるのがダメなところかな~
投稿: morimori | 2008年2月 8日 (金) 22時01分