モノの格
戯言であるが、自分の持つブランドに対する意識の根底に有るモノを考えてみると、それはモノが持つ格に対する考え方が大きな影響を及ぼしていると思う。
モノの格、一般には、それを簡単に表した物差しが価格というものだが、価格が高い低いということでなく、価格以前のモノの品格?のようなモノに対する自分の考えが、モノ選びに大きな影響を及ぼしていると思う。
拘りすぎの考えすぎかもしれないが、モノの格に自分(のレベル、の技量、の使い方)が見合っているかどうか?が問題である。但し、モノの格と自分を較べるといっても、それ以前にモノを作った人の思いに対して、使い方が乖離しすぎていないかどうか?を考えている。
例えば、単車なんかの場合は、今の御時世、誰でも普通に免許は取れるし、金さえ払えば180PSオーバーなスーパースポーツが手に入るが、そういう状況であっても180PSのバイクの作り手は、そのモデルが、どんな使われ方をどんなライダーに為されるか?を想定して作っており(考え過ぎか?)、そのモデルの開発を通してエンジニアのフィロソフィーをユーザーに伝えようとしているのではないか?と思うのである。恐らくは、180PSを使うに見合ったライダーが、相応の環境で、相応の使い方をした時に、相応の能力を発揮させれるように作っており、そういう使われ方をしてこそ、そのモデルの価値が生まれると考えているのでは?と思うのである。そして、開発者としては、ユーザーの使い方によってエンジニアの考えが受け入れられた時に喜びを感じるのでは?とも思うのである。仮に、モノに魂があるならば、能力の欠片も発揮させずにスクラップになるのは耐え難いのでは無いか?と、そんな風に感じるのである。
モデルに限らず、ジャンル、パーツ等々全てがそういう成り立ちを持っているのではないか?これは、単車に限らず、自転車の世界でも、車の世界でも、全ての工業製品について言えることでは無いのだろうか?
自転車でも同じであり、価格的には安価かもしれないが、Dura Aceを頂点とするブランド群も同じであり、上級グレードっていうのは、作り手はレーシングユースにおける妥協を許さない世界で満足を得る品質と性能を提供するために作っている筈であり、逆に言えば、その品質差が埋没する世界で使われる事は望んでいないのでは?と思うのである。
最近は、全ての工業製品の価格の絶対値が安価になったせいか、誰にでも手軽に入手できるようになったけど、価格が手軽になったとはいえ、その作り手のコンセプト、品格が手軽な世界に降りてきた訳ではない。リーズナブルな価格=素人向けという方程式とは別物のように感じるのである。
この辺がジレンマであり、工業製品であるからには、売れなければ成立しないのも事実だが、少なくとも、トップレンジの製品に関しては、ブランドシンボルのイメージも合わせ大衆に迎合しないレベルに君臨して欲しいものである。
自分は、複数のクラスのグレードがあれば、自分のレベル(用途)に合わせてモノを選びたいと思うのである。
大きなお世話かもしれないが、場違いな使い方、技量に見合わないパーツ選定っていうのは、なんだか、モノが可哀想とも思ってしまうのである。それ故に、昨今の自転車ブームで素人オヤジが高級車+高級コンポっていうのは、なんだか、その世界を舐めているように感じるし、いきなり大型自動二輪免許で突然リッタースーパースポーツってのも違和感アリアリなのである。所有者の勝手とはいっても、モノの作り手に対して失礼な気もするし、使われるモノも可哀想なのである。価格の絶対値の高い安い以前に、モノの能力に使い手がふさわしいか否か?これが大事なように思うのである。
まぁ、私感に過ぎないのだが、自分自身は、選んだモノに相応しい使い方が出来るようになりたいというのが一番である。受け売りでない意味での自分の意見が持てるような感性を保ち続けていきたいのである。
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