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2008年3月 7日 (金)

自転車の安全

 自転車と安全という言葉は、日本で普及しているモノの中では一番結びつきにくいモノのように思う。

 以前も記事にしたけれど、スポーツサイクルと装備では、安全性追求よりも、機能や効率に偏重したモノがスタンダードであったり、はたまた、激安折り畳み自転車でよく見られるフレーム折損事故の報告も、通常では考えられないモノ。本来、製造されたモノの品質が一定レベル以上ならば有り得ない壊れ方が普通に生じるのが自転車だが、売られている自転車は、老舗の自転車メーカー以外で個人が好きに組み立てる事もできるし、ショップオリジナルっていうのもアリ。下手すればフレームから自己製作する事さえ容認されている。売り手側の体制でも、整備制度が有っても、認知度が低く、スーパー、量販店で売られている事自体が考えてみれば不思議な話である。自転車という乗り物は結構な速度で走る事が出来て、歩行者に対しては突起物を有する凶器のようなものだが、保険制度が確立されていないのが実情。

 こうして考えると、自転車っていうのは社会の中では存在が無視されていたような存在に近いのである。
 実際、法体系においても自転車の正式な使い方っていうのは広く正確には認知されているとは言い難いのが実情。そして、そんな実情からルールと異なった形が一般化してしまっているのが現状だ。

 先にも挙げた自転車三人乗り問題もそう。一寸前の傘固定具にしたってそう。原則論で言えば、禁止な訳だが、そういう装具が自転車店に行けば普通に売っており、普通に装着可能。そして、取り締まる側からは黙認という体制で今迄来ている。
 ユーザーから見れば、ルールがどうで在れ、実質黙認されるならば、それは悪い事でないという意識を持つのは極当然。

 そんな混沌とした自転車環境だが、そんな自転車環境も他のモノ同様に、それなりのルールに従って接すべき時期が近づいてきているようだ。

 実際、自転車の利用を促す方針に移行しようにしても、実用品として見た場合に、モノの安全基準があやふやであったり、利用者の使用基準が曖昧だったりする。そんな曖昧さが、遵法性を希薄にして利用者の心無い運転、モラル欠如の運転を生み出しているとも言える。自転車利用者が歩行者に衝突させて死亡させる。そして運転者も書類送検されるってニュースもあるけど、これも普通の人が自転車に乗るだけで、モラルが一段低いレベルに落ちてしまうという状況から生まれたものとも言える。
 それ程に、自転車って存在は、モノ自体、利用者の実態、利用者のモラル等全てに渡り曖昧なまま長い間放置された状態できたとも言える。
 結構、不幸な存在でもある。

 今迄、放置状態でありルールがルールとして機能していないのが実態であり、機能していないルールをそのまま厳密に運用するっていうのは、実情と則さない部分が相当に出てきそうである。
 自転車の通行区分問題、三人乗り自転車の扱い、或いは、その他の保安基準、将来的には保険制度・・・・どのようになるのだろうか?

 日本の行政っていうのは結構極端な面がある。それ故に、自転車を社会の一員として認知させるべく法規制を掛けてくると相当に不自由な思いが生まれるかも知れない。
 車両の一員として考えると、極端な前傾姿勢(ドロップハンドル、DHバー、ブルホーンバー)は視線の落ち具合や視界の面からNG、咄嗟かつ不意な状況からの危険回避が実質不可能な足の固定具(ビンディング、トークリップ)はNG、突起物(バーエンド、先の尖ったレバー類)も勿論NG、下手すると回転体が露出した構造(泥よけ無し)もNG、当然、燈火類装備は当然という形。極端な話でなく、普通に単車なら当然の構造だが、それに準ずる基準が持ち込まれても何ら不思議ではない。
 勿論、そういう規制を適用すれば、欧米ではスタンダード、今の日本で流行中のロードバイクはNGとなる。そういうのは世界の常識から懸け離れるから、そこまで極端な規制は掛からないかもしれないが、少なくとも、足の固定具は認可されない可能性は相当に高い気がする。競技専用、クローズドコース専用の装具になりかねない。

 俺のホンネを言えば、ルールに縛られない自由さが自転車の楽しさとも思える。その自由さを保ち続けるには、使用者の自覚が必要っていうのは言うまでもないが、その自覚が無かったために、この自由な世界が失われていくって事になるのか?と思うと、少々寂しい気もする。

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