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2008年4月10日 (木)

保健医療制度と平等の概念

 4月から後期高齢者医療制度、メタボ健診義務化・・・という風に医療制度が少しずつ変化している。思うのは、便利さを享受しすぎて動けなくなった方、或いは、メタボリックシンドロームという生活悪習慣の蓄積によって発症する病と闘う方が、医療費負担増大の中で相当数の割合を占めているのでは?という事。

 勿論、遺伝的、先天的に難病と闘う方も居られるが、一方で、本来はバリバリ健康な方でも不摂生や生活悪習慣の蓄積で健康を失った方も居る。

 国民全体に健康を啓蒙するには、健康を失った人、或いは医療を既に必要としている人に漸増する自己負担を負わせるのは賛同できるものではないが、疾病状態に移行しつつある人を定期健康診断から抽出し、個人の生活改善で疾病状態を回避できそうな人に対しては、啓蒙の意味で保険負担を増額しても良いのでは?とも思う。

 その一方で、難病といわれて為す術を持たない中で疾病と闘う人に対しては、保険適用可否という心配を無くしたり、極端な話、考え得る全ての医療行為を本人或いは保護者の同意が得られれば受けられるような選択肢を与えても良いのでは?とも思う。

 医療行為を必要とする程度は千差万別であり、医療対象の疾病も然りである。そんな中、不可抗力的な病と闘う人に対しては、金銭的な負担を一切掛けずして先端医療を望めば存分にフォローすべきであるし、逆に、本人の意識次第では疾病回避が可能な人に対しては、その啓蒙とペナルティー、将来の医療負担増大を先見した上で、通常の数倍の保険負担を強要させても良いのでは?と思う。

 なるべくしてなる、そんな疾病迄を過度に保険補助する必要は感じないが、運命的に難病を抱えるという状況において、その家族に極度な経済的負担を掛けて、結果、生活の自由度を奪うというのは、どう考えても不公平では無いだろうか?

 公平、平等っていうのは、等しく負担を負うのでは無く、生きてきた限りは、等しく可能性にトライできる環境を持つという事では無いだろうか?
 やれば出来ると判っていて、やらずして出来ない奴には、やらなかった責任を負うのが当然だが、やる事が出来ない状況があるにも拘わらず、やらない事を責めるのはナンセンスである。
 考え方は、勉強や運動に対する取り組み方と得る結果の差に対する意識と同様だが、本来の平等という考え方で、何を以て平等か?を考える時期に来ているように思うのである。

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