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2008年4月25日 (金)

道具は手段、玩具は目的

 先日の記事で比較的アクセスが多かったのが、700Cフルサイズが道具、小径が玩具って記事だが、これを更に踏み込んで考えると、道具は手段であり、玩具は目的って思える部分がある。

 手段というのは別の目的達成のためのモノであり、主従関係でいうならば主たる因子は、自転車に乗ってペダルを漕ぐという行為であり、自転車自体は、その行為で得られる結果を得るための存在というものでは無いだろうか?

 それに対して、その存在自体が目的の場合は、主たる要素は自転車自体であり、その自転車ならば乗って走ることも出来るというのが付随的な効果としてもたらされるのでは無いだろうか?

 自転車=速く走りたいって希望を持つ人が多いので、その状況で喩えると、本気で速く走りたいという事で、選ぶ道具が必然的に700Cフルサイズが正解というのに対して、小径車の場合は、小径車を選び所有する事が目的であり、その小径車でも速く走れると主張している事の違いでは無いだろうか?

 只々それだけのこと。しかし、結果としての速さっていう部分が、700Cフルサイズに乗れば100%小径車を上回るとは限らないのが事実だが、それを認めたくない人が居るのが面白いところ。

 そんな風に考えているのだが、それ故に、小径車ならば、のんびり走っていても結構気にならないし、様になるとも思う。逆に、超高級で高価なフルスペックロードにフル装備のサイクリストが好きずきとは言え、のんびり走っていたり、その風貌に見合わない乗り方をしていると、それには非常に大きな違和感を感じ、傍目には滑稽にさえ見える。

 勝手な考えだが、道具の究極たる高機能なフルサイズロードなんかに、機械とあまりにも不釣り合いな乗り手が組み合わされると不可解な印象だし、小径車でも過激の度を越したような高級パーツ群のインストールも不可解な印象である。
 単車ならばデブとレプリカの組合せとか、旧車に最新SS用やレース用の過激なパーツを用いたカスタムなんかも違和感アリアリである。

 一番大事なのは、乗り手と乗り物、乗り物の中でも車体と後付パーツという関係が、旨い具合に調和が保たれるという事。人と物、物同士の圧力というか影響力というかパワーバランスというか、才覚というものが良い意味で平衡してせめぎ合った状態っていうのが緊張感というかリアリティというか、そういう雰囲気を作り出しているのでは無いだろうか?

 考えてみれば、その調和っていうのは、単車、自転車に限らず、人と物の関係全般にも言えるし、複雑な因子が絡み合った系ならば全てに当て嵌まる事。
 乱れた状態、調和が取れない状態っていうのは、キワモノ的に一瞬は目を惹くかもしれないが、長続きしないし、最終的には系の破綻を招く物。

 見合わない物の操作は事故を招く。突出した機能では宝の持ち腐れを招く。そういう物では無いだろうか?
 系といえば、健康でもそうだ。各機能を調和させる事が重要であり、それ以外の手法では真の健康は得られない。環境も然りである。全ての系に重要なのは調和であり、調和するには突出性は不要なのである。調和が取れるというのは、因子が目的のための機能が取捨選択された物であり、因子自体が目的達成の手段として機能が特化されている状態なのである。

 そういうバランスと機能の特化を進める事が、最終的な格好良さに繋がるのである。

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