楽しい仕事は、
楽しい瞬間は?という戯れ言をメインサイトの日記に書いたけど、楽しい仕事というか、楽しい過ごし方っていうのは、どんな過ごし方か?というのを書き連ねてみる事にした。
何が楽しいか?っていうと、自分で見つけて、自分で納得する事である。見つけるためには相応の知識と好奇心が必要で、納得するには相応の実践評価が必要だ。
逆に楽しくない事、苦痛な事は?っていうと、楽しい事の反対の行為だ。
極論すれば、行動の自由度が与えられない反復作業、更には、大きな流れの極一部だけを繰り返すような作業、そういう作業は、自分の価値観からすれば超苦手である。
勿論、両方の活動が重要であり、優劣が付けれるものではないのだが、価値観的に後者は苦手と言う事。
少なくとも、同じ反復作業であっても、入口から出口迄のプロセスを一通り続けることが出来る作業ならまだしも、プロセスとプロセスの間の一瞬を機械的に続けるというのは耐えれない。
そんな事を思うのである。自分にとって楽しさを得る条件に順位を付けるとすると、
1.発想が独創的かどうか?が重要。模倣やトレースというだけで楽しみは半減する。
2.行動が全工程を賄うかどうか?であり、一部の作業でも楽しみは更に半減する。
3.作業による結果が見えるかどうか?モノ、手順、図面等形に残らないと半減する。
4.当然だが、行動結果の良否の判定が出来る基準が必要。無いと意味無い。
と、そんな感じである。単純に流れ作業的に上流から下流にモノを流すだけの仕事等には全く感心が沸かないし、魅力を感じない。(勘違いされては困るけど、配送業務は該当しませんよ。配送は、如何に短時間かつ正確に物流を成立させるか?という極めて高度な考え方が根幹にあり、それを可能とせしめる配車等々のノウハウが詰まっている。)
一般に、何のために活動するか?というときに、単純に金のために動くのであれば、どんな作業でも換金評価できる訳であり質は問わないものと自分は思うけど、以前も書いたように、人間は過去の知見の上に新しい知識を生み出し文明を繋ぐのが使命という持論があるように、新しい価値観を生み出すことこそが活動の目的という価値観に従うと、最低でも活動した痕跡が形として残らないと魅力は無いし、一番は、前人未踏の知見を発見する瞬間だと思う。即ち、新たな知見を生み出すために活動するというのが持論だ。
この新たなる知見が、自分以外の第三者のためにも利用される場合が、知見を見出す過程が仕事という形で評価され対価を得ることとなり、新たなる知見が自己満足のみのための場合が、趣味という形で無償となる訳である。最終的に生み出した知見が、利用される範囲の違いのみで対価を生む場合と、そうでない場合があるだけであり、結果を生み出す過程の活動内容や考え方、思想に差異は無いのである。
つまり、遊びで見つけた発見を、第三者が見て欲しいといって金を出せば、それが対価となり、それを商売に載せると、趣味=仕事になるだけの事である。
だから、自分を例に挙げると、オ・モイヨWW用のFメカ台座、西DAHON用のトリム調整機能付きFメカ台座から、単車に施した特殊加工からワンオフパーツの作成、はたまた、無潤滑摺動を可能せしめる特殊複合材料製摺動材、最近ならば一般材料で耐摩耗摺動性能を確保する機械システム等々も全部同じであり、結果が対価を伴うかどうか以前に、誰もやっていないからやる訳で、結果的に『どうだ!お前ら、出来ないだろう!』のためにやっているようなモノ。
一番理想的な生活は、分野は問わず自分で注目した部分において、自分の考えの範囲で構わないので、『これは凄いぜ!』って思うような発見をして、あわよくば、それで泡銭を稼ぐってパターンだ。まぁ、泡銭のために自分でせっせと特許だしたり、起業したりしているのだが、、、。
だから、活動のフィールドが趣味であれ、仕事であれだが、トレースは駄目、模倣も駄目、反復も駄目なのである。しかし、周りを見渡すと、トレース反復しか駄目、教わらないと駄目、自分での判断は駄目、自分の持ち分以外の知見を拡げる事も拒否って奴があまりにも多いと思う。
まぁ、企業における人材育成の価値観からすれば、普通はどんな従業員であれ、その代用員を育成するというのが重要視されているけど、自分からすれば、他人では同じ事が絶対に出来ない能力を身に付けたいというもので、代わりの人間で務まるような能力に留めたくないのである。
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