習慣と趣味
大した意味は無いけど、色んなスポーツ、運動・・・・ってのがある。そして、その目的っていうのも、それ自体を楽しむのが目的だったり、それを通じた交流や友好が目的だったり、ダイエットや健康というような別の目的の手段だったり、、、、と、同じ行動でも人によって取り組み方は様々である。勿論、その取り組み方っていうのも一意的なモノでなく、いろんな要素がいろんな割合で、人によって様々な気持ちで接している。
それ故に、行動自体が何だ!って断定的に目的や意味を言い当てる事は出来ないが、なんて言うか、何でもだが、自分の場合は、殆ど全ての行動(趣味、運動、学習、、、、)が自分の習慣のようになっている。こういった行動を通して世界や交流を拡げるっていうよりも、今の行動の全てが習慣のようになっているのである。
習慣っていうのは、何か?っていうと、何らかの行動を取る時は、意識は自分の内面しか考えていないっていうことだ。自分のために、自分の疑問や思いを自分の中で判断し、自分の中で消化するって事であり、その行動においては他人が隣に居るって状況は想定していないというか、意識に無いのである。眼中に無ければ、意識にも存在しないのである。
幼少の頃から振り返ると、そう言えば、昔は何かする際には仲良しの誰かが居るっていうのはとても大事だったように思うのだけど、大学生活以降、特に社会人生活になって以降は、第三者が居るよりも、全くの個人での行動の方が心地よく満足度も高いという考えが過ごし易いと思い始めたのである。
例えば、単車での山間部のつづら折れの道を繋ぐような山岳ツーリングなんかの場合は、人と連れだって走るよりも一人で気の向くままに自分のペースで走りまわる方が遙かに満足度が高いように思うのである。
勿論、集団で連みながらの旅行等も嫌いではないけれど、連んで友好を深めるという目的が一意で無い行動の場合は、殆どの行動において、単独行動の方が心地よいと思うのである。
他人が居る場合と居ない場合の感情の違い、、、恐らくは、行動が習慣化して、行動の目的が自己完結となるような場合は、何かをする際には、誰も居ない(気を遣う必要が無い)方が集中して出来る分心地よいと感じるのだろう。
逆に、そのような状況でない時、例えば、映画鑑賞とか、、、そんな状況では他人と行動を共にした方が楽しいと思うのかもしれない。
結局は時と場合、場面によって違うんだが、、、、、この辺の兼ね合いっていうのが、何故だか結構難しいのである。
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