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2008年7月31日 (木)

先行待機対応新型摺動システム試験、その2

 昨日は、全く新しい摺動システムの通常使用環境域での性能確認を行った。通常使用状況っていうのは、従来のシステムの設計想定範囲である土砂混入水中での低負荷~想定負荷での摺動性能の確認である。

 で、本日は通常システムでは想定外使用条件である完全無潤滑条件での摺動性能チェックである。今回試験するシステムは、摺動材自体には高度な技術を投入した本番品ではなく、比較的安価な材料のみで構成された評価システムである。

 因みに、今回の開発は材料面、構造面の工夫から成り立っているが、従来は材料面からのみの挑戦で目標達成を試みていたのを、構造面の工夫を入れたのが売りだけど、本日は、材料部分は標準に戻し、構造面のみの工夫がどれ程の効果を持っているか?を確認する試験である。

 因みに、このシステムは摺動条件による発熱量を計算し、その発生熱を分散させる際に熱の介在物の熱の冷却性を制御(放熱面積の特殊加工による確保で)することで、材料の膨張係数と併せて想定範囲内では決して軸受隙間が消失しない、つまりは抱き付きを発生しないというデザインであり、熱設計を高度に行う点が肝である。

 構造の工夫といっても、材料特性と密接な関係を持っており、軸受側と軸側の物性の相対性を大きく利用することによって無潤滑摺動性能を高めるという考えだが、その相対性による性能を確認するのが目的だ。

 さて、周速6[m/hsec]、面圧2[kgf/cm2]での無潤滑摺動試験だが、摩耗による軸変位増分はゼロ(即ち摩耗せず)で、200分を経過した。旧来の特殊なセラミックスを円周方向に分割配置した軸受と特殊な複合材軸スリーブでは同じ条件の無潤滑運転が90分であったわけで、既に、それを越えている。
 昨日の通常条件(潤滑面に水膜形成される条件)での摩擦係数も旧モデルの2/3以下となっていたけど、これは、低摩擦係数保持に最も有効な摺動面における水膜形成性の差によるものであり、摺動局部における水膜欠損確率を計算上で65%改善した効果が現れたモノと認識しているが、その新しい摺動面は、無潤滑下における固体接触状況においても、摺動が連続して継続することによる(断続的とは異なるという意味で)摺動の安定性が固体同士の接触時における発熱を抑えているように考えている。

 ということで、此処までは、デザインを構想した時点で予測したとおりの結果で満足であるというか、完璧というか、予想以上の結果である。

 この試験を何度か終えた後に、今度は高濃度土砂水中(スラリー中)での耐摩耗性評価を行う予定だ。耐摩耗性を材料物性に依存せず構造的工夫、流体挙動的工夫によって解決するというのが今回の目玉であり、それが評価試験本番である。

 因みに、このパーツは一見するとジャーナルベアリングには先ずは見えないモノ。殆ど別の分野の機械構造にそっくりなのである。というか、その機械をヒントに作ったのであるが、、、、

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炎天下の自歩道風景

 毎週末、炎天下の時間帯を含めてラングスターTT号、オ・モイヨWW号でアホみたいに走り回っている。走り回っているのは、ホームコースだけど、ホームコースは堤防上自歩道区間、広めの自転車通行可歩道区間、車道の組合せである。この内、河川堤防上自歩道区間は、舗装がカラーアスファルト舗装してあり、ランニングコースとしての距離標識も併設された場所であり、この場所っていうのは、他の区間に比べると非常に沢山の人がいる。ウォーキング、ジョギング、サイクリスト、犬の散歩と相当な混雑状態となっている。

  この自歩道区間は往路では新工兵橋~大芝水門、復路では安芸大橋~北大橋がその区間である。そんな中、炎天下の中、汗だくで走るジョギングランナーを結構目にするところ。

 しかし、炎天下っていうのは汗は大量にかくけど、果たして脂肪燃焼をしているか?っていうと、チョット違うような気がするのである。減る体重は殆どが水分で直ぐに元に戻る量のように感じるところである。汗をかくとイイ運動して痩せた!って認識の人が多いけど、それはチョット違うのではないだろうか?

 特に炎天下のこの季節に歩き回るのは、寧ろ熱中症のリスクが高いのでは?と思ったりするのである。
 減らすのは水分でなく脂肪であり、脂肪燃焼には相応のエネルギー消費運動が必要な訳であり、炎天下の高温下ではそういう運動もしづらいと思うところ。

 まぁ、汗をかいたら気持ちよいっていうのならアリだと思うし、自分も炎天下の中を走り回っているので、何とも言えないところではある。ただ、自分の場合は痩せる事、ダイエットする事よりも、心肺を強化し、脚力を中心とした筋力をアップするというのが日常の目的であり、痩せるよりも肥えるっていうのが目的だからチョット違うのではあるが、、、、。

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2008年7月30日 (水)

社長への道!?

 ということで、これが新しい日記というか長期プランでの思い付きを記録する親記事となる。
 思い起こせば、以前にも書いたけど、自分は大学時代を中心に塾講師のアルバイトから始まり、塾経営にまで嵌り込んだ過去を持っている。そこで感じたのは、自分で好き勝手にやることの楽しさである。
 で、最近はどうか?というと、中堅企業に就職してはいるものの、入社以来今迄に直属且つ実務的な上司っていうのが存在しない状態で過ごしてきている。仕事は命令で受けた事が無いのである。仕事というか?何というか不明だが、殆どが経営者の願いとか不満とか、そう言う戯れ言ばかり聞いてきて、それを何とかしたいという要望が命令と言えば命令となっている。爺さんの願いを具現化するってのが仕事って言えば仕事のようなモノだ。

 それ故に、行う事は二度と同じ事が無く、常に未知の領域で、その答えの道筋が見えないという課題が相手であり、経営者から効いた時点では超抽象的な話ばかりなのである。その抽象論を現実の手法に展開し、必要な技術の調査、開発、組織の改善、運用っていうのは、その都度、最適と思われる方法を選んで、時には自分で行ったり、時には他人にやらせたりで過ごしてきた。その案件というと、殆どが、ルーティーンとは懸け離れた問題ばかりであり、そういう過去の人間が対処不可能な事のみを専門に手掛けてきた状態である。
 その中に、技術計算プログラムであるとか、データ計装システム、スケジューリングシステム、データベースの構築、技術データの運用体制の構築から、設計手法の確立、材料開発、現業部門の作業法案の改善等々、特許取得、関連企業への技術指導、或いは、コンサルタント業務等を行ってきた。

 しかし、そういう事は企業に留まって給与を貰ってやるという労力と報酬の収支を考えると不均衡気味か?という思いが募っているのが今である。そういう状況と過去の自身での経営経験を照らし合わせると、昔の方がやる気が湧いてきたっていうのも確かにある訳だ。
 別に今の状態に不満を持っている訳でないが、なんか、物事の進め方や、決断の仕方が前時代的で、多くの人が金や名誉、体裁に翻弄されている状況に見えるのが、生理的に受け付けないのがホンネだ。

 但し、そんな決断だけで行動を起こすのも、自分の周りの環境を考えると影響が大きかったりする訳で、少なくとも、生活レベルを今の次元を保つ準備だけは整えておかなければならないと思うのである。十代、二十代で独りならば飛び出すのも簡単だが、三十路、不惑と歳を重ねると、色んな状況に保険を掛けておかないと駄目である。

 という事で、下のような手順で準備を進めており、決断のタイミングというと、最低レベルで前年度の8割程度の年収は確保する。ってことか?

1.申告等手続きが面倒臭い事にならないような形で起業させる。(完了)
2.起業した事業体に飯のネタとなる特異な技術や特許を集積させる。(一部完了)
3.開発技術を複数の外注先で工程別の分散調達体制を構築する。(一部完了)
4.開発技術のユーザーが安定的な組織となるようなネットワークを作る。(進行中)
5.新しい技術が普及期となって収益性で評価する。
6.必要なら、応じた技術を更に集積する。ネタの複数開発も実施。
7.趣味で塾経営も併設する。

って感じ。こんな事を考えながら、何をネタに活動するか?或いは、転機となる出来事が起こったか?心の変化があったか?を不定期にコメントで追記する日記としてみようと思う。

 やはり、自分の判断で自分で行動して、損も得も自分の責任で自分で取るという形で生きるのが望ましい。となると、最終的には経営者にならなければ自分は満足できそうに無いというのが実感としてあるところ。ホント言えば、今すぐ勝負!って行きたいけど、歳を取ると柵が多く、この周囲の説得には先の7段階のプロセスを以て結果を示して行かないと駄目だろう。

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先行待機対応新型摺動システム試験、その1

 本日、表題の摺動システムの試験を行った。
 これから定期的に系を変えて最適な組合せを探していく予定である。

 この摺動システムはジャーナル軸受の一種であり、ジャーナル軸受で一般的な水潤滑に加え、土砂スラリー潤滑、無潤滑の3つモードを、無荷重、歳差偏芯荷重、軸芯変位による残留定荷重、軸受部振動荷重の四通りの荷重をかけて摩擦係数、絶対的摩耗量、比摩耗量、摺動トルクの連続計測による成績評価を行うモノである。

 で、本日は手始めに、基本的なシステム要件を満たした摺動組合せに対して、最も基本的な摺動条件での評価試験を行った。

 この評価試験は、摺動システム評価の専用試験機によって行うけど、この試験機は製作してから10年が経過する代物である。機能的には、温度、荷重、振動加速度、変位、回転数等々を連続に永遠に計測する事が出来るシステムであり、長大な連続計測と並行して、高回転する軸の軌跡における振動状態等の監視もオシロスコープ的に全チャンネルで行えるシステムである。
 このシステム、先に紹介したように、摺動雰囲気としては、液、スラリー、無潤滑を切り替えて行う事が出来、摺動雰囲気温度、摺動雰囲気圧力も指定できる機構を備えている。
 摺動状況のシミュレートでは、回転軸に偏芯ウエイトを用いることによる偏心荷重と調整機構、回転軸に一方向から掛ける定荷重と調整機構、回転軸を支える軸受ホルダーの保持剛性の調整機構、回転軸に対して回転と非同期の振動をファンクションジェネレーターで発生させて負荷させる機構、摺動過程において定方向荷重成分を通常の20倍程度にアキュムレーターを用いて一瞬で増幅させて水撃等の負荷を再現する機構も兼ね備えている。

 そんなこんなで結構複雑な機構と計装システムから成り立っているが、全て自作である。但し、10年前の自分の幼稚さが随所にある訳で、メンテナンスしながら作り替えたいなぁ、、、と思う事が多いのである。

 さて、こんなシステムを用いて全く新しい摺動システムの試験を開始したところ。基本特性を把握するために、摺動システムの構成材料は最もコンベンショナルな構成で、特徴は構造のみというモノだが、今のところ思いの外、好調に動いている。
 予測通りというか、従来の高コストの素材、成型手法によるモノと比較しても、予測通りに摩擦係数的には2/3程度で静定するのを確認したところ。

 これから8月一杯を目標に各種データの計測を行う訳だが、取り敢えずは幸先良いスタートである。

 因みに、度々記事にしてきた先行待機ポンプが望む完全無潤滑で荷重をかけた状態での全力運転に耐えうる摺動システムの開発も完了しているが、このシステムを用いて評価を行ったモノ。この完全無潤滑摺動に耐え、その状況で想定される異常高温による破断や熱衝撃破壊さえも完全に抑止したものを完成させているが、その摺動システムを更に進めたのが、これから評価するシステムである。従来型システムの唯一の弱点は、土砂摩耗に対して弱い領域が存在する事であるが、今回のシステムは土砂摩耗耐性を大幅に高める事を目的に基本構造の見直しを行ったモノである。

PS 既に、ブログの領域を越えてきたかもしれないなぁ、、、、、。

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エンド周り、検討中

 現在、次なるロードバイク作成の構想を練っている。
 このネタは、物欲ネタ等で度々記事にしてきたけど、コンセプトは、心肺機能で長距離をハイアベレージで乗るバイク。軽めのギアでクルクル走るバイクで、トライアスロンバイクに近いイメージのロードバイクである。

 で、ギア比も決定で、ギア比は唯一のフルサイズロードモデルである531パイプの小林ロードに準じた構成。因みに、小林ロードでは14-15-16-17-18-19-21-23-25Tというカセットセットに前はSORAのトリプルクランクにスギノの歯で46-38-30Tという構成である。これがとっても楽珍なのだ。但し、レトロ目的で作るのでは無いから、使えるものは最新のパーツを使うし、同じギア比ならば歯数はなるべく大きな歯数で作りたいというところ。
 カセットセットでトップが一番大きなのは16Tトップが選べる訳であり、それなら16-27Tというジュニアカセットを使いたいし、フロントも50-39-30Tというセットを使う予定。
 変速系はWレバーかバーコンのつもりでポジション的にはラングスターTTライクに仕上げようと思っている。

 そこまでは決まったのだが、決まらないのがフレーム本体。最近のロードバイクの多段ギア車はギアとフレームのクリアランスが異様にタイトであり、シートステーとトップ状態でのチェーンとの隙間が非常に厳しいのが問題だし、一般のエンドはストレートドロップエンドであり昔のロードエンド宜しくアクスル位置調整も難儀。仮にロードエンドを用いても、限界は14Tトップだろう。実際、小林フレームのゼウスラージエンドに14Tトップを会わせると、チェーンとステーの隙間は1mm以下。15Tは間違いなく不可能でステーの潰し程度で逃げれるような余裕は無い。
 そんなこんなで他の自転車を見ると、我が家で言えばルイガノMVFというパシフィックリーチ系のフレームもリア13Tトップが殆ど限界の仕様。これでもクリアランスは1mm程度で14Tトップは不可能。2005年モデル以降のDAHONもシートステーが絞った構造でありトップ12Tが限界でそれ以上ではステーとチェーンの干渉がある。このように、最近の自転車は軒並みトップ歯数は小さいのがデフォルトとなっており、それを前提に車体をタイトに作るためにシートステーが絞られている。

 我が家の自転車でいうと、2002年モデルのDAHONスピードベースの西DAHONくらいが余裕の構成だ。これは、安価な打ち抜きの正爪エンドで大きな鉄板エンドである。その鉄板エンドのかなり上方からシートステーが出ているのでトップ歯数は幾らでも使える優れものである。

 今、欲しいのロードバイクでシートステーが広い状態で立ち上がる構成のフレームだが、これは結構少ないのが問題。シートステーを広い状態でシートパイプと結ぶようなデザイン、つまりは巻きステーのようなデザインで大きなロードエンドを用いたフレームというのが自分の希望を叶えてくれそうなフレームだが、見つからないのが困ったところだ。
 今思うのは、エンド自体を作図してSCM材辺りを削りだしてワンオフ製作したモノを工房に持ち込んでフレームを作ろうかな?と思うところである。

 まぁ、後は良く判らないというのが素直な所だけど、C-Cトップ長で530mm、C-T縦長で530mm、ホリゾンタルでクロモリ系の鉄フレーム。更に、ロードバイクらしく、ホイールとフレーム各所の距離は相当にタイトに詰める感じかなぁ?ってところ。

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2008年7月29日 (火)

ブログインパクト!?宣伝しようか?

 ブログっていうのも結構な力があるようだ。
 今、毎日平均アクセスが300前後と快調に増えているのだが、多いのが技術ネタ。

 この技術ネタで更に興味深いのが、その分野の企業からのアクセスが異様に多い。

・ベアリングメーカー
・ポンプメーカー
・自治体
・素材メーカー
・薬剤メーカー
・水処理関連業種
・自動車産業

 とそんなところが、検索キーワードでテクニカルタームを用いて検索してくる。以前、公的機関からのアクセスって話を書いたけど、企業、研究所関連からもアクセスが多い。IPからのドメインを見ると、日中時間帯のアクセス増の殆どがコレ関連。

 因みに、知っている知識で権利化していない部分は公開出来ない要素はあるけど、それ以外の終了案件、ノウハウ等は隠し立てするつもりは無いので、相談されれば全てオープンしているので、関心があれば、メールでも頂ければ対応するつもり。

 自分で考えて適応したプログラミング、技術計算、作業法案、設計ガイダンスなんぞ勤務先の守秘対象外のモノばかりであり、考えれば馬鹿みたいな事ばかりである。困っている人が居れば遠慮無くどうぞ!って感じである。相談料は資材購入や実験委託で無い限り、このブログからの応対では当然無料であり相談者来たれ!である。

 ぶっちゃけた話、その内、脱サラする準備をしているのも実は周知の事実であり、既存の年収に対して、自費開発で得た技術を商売としている起業収益が相当な割合となったときが決断の時である。現在は、税対策等々で既に起業化した何種類かの事業は、体裁上、自分とは経理上は完全に無関係として組織に委託しているだけだが、将来的には、その目標にスムーズに繋げるような財力維持の制度作りもしている訳で、将来的には、特許開発して得た部品の販売による利益調達、学生時代~最近迄の十数年間での塾経営経験、塾講師経験を生かした副業を格とした方向で考えている。現在は、開発技術の安定的な顧客確保とそのためのネットワーク作りに務めている。安定的な顧客を確保するには、開発技術のエンドユーザーが公的インフラ関連に近い業種が望ましい訳であり、そういう活動を行っているところ。構想から8年が経過したが、漸く、年収の6割程度の実収益は上げているだろう。という訳で、そのためには、色んな人が色んな事で困っているとかの貴重な情報が必要であり、その準備のためには宣伝を兼ねて相談受付中である。

 思い起こせば、学生時代の塾経営時の年収はバブル期とは言え、今の年収でも及ばない訳であり、自分で活動して、自分で実を得るっていうのが一番の理想であるのは間違い無い。身体の無理というか自由が効きそうななのは、長くても後20年。この20年は悔いなく思い通りに過ごしたいというのが最近の気持ちである。

 最近は80年代ブームだけど、当時は異様に忙しく、大学での実験、趣味の単車も異様に忙しく、遊びも大忙しだったけど、やった分、帰ってくるという時代であり、或る意味最高だったと思う。あの状態を再現するのが今の夢だ。
 当時は毎月1日、11日、21日が給料日であり、10日おきに札束が財布に入ってくる生活。夏休み、春休み、冬休みの講習会シーズンがボーナスに該当し、ガッツリ入る。1989年頃を思い起こせば、起業した塾の教室の分室を作り、生徒数も200人に迫る勢い。一人あたりたしか25000円/月程度の月謝で、週4日、一日4時間の授業で忙しかったけど楽しかったのも事実。

 この十数年間の中学、高校生、予備校生の全教科の授業経験が今の知識のバックボーンにあるのも事実であり、これは大事な財産である。これを活かさない手はないのである。

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ニュー万歩計、購入!

生活日記には、毎日何歩歩いたか?を記録している。
 この記録は、100円ショップに売っている程度の万歩計を使っての記録であるが、この万歩計は歩数オンリーでボタンで記録がリセットという単純なモノである。自分が使っているのは、嫁が結婚前に保険契約で貰った粗品の万歩計でプラスチックの小型のモノ。
 この万歩計、クリップ部分が破損して、そこをプラリペアで補修し、内部のスプリングの先のウエイトが外れたのを解体してハンダで補修して使っていたのだが、最近はリセットボタンでの復帰が怪しくなってきた。ボタンで導通して記録をゼロにするのだが、ボタンの導電性ゴムと基盤の間の導通が今一のようで、ゴムの摩耗か何かで相当強く押さないと復帰できないのである。

 ということで、ニュー万歩計を購入した。これも100円ショップで!って思っていたのだが、一年以上の使用実績を考慮して若干のグレードアップで、激安万歩計の弱点が対策されていそうな機種を選ぶ事にした。予算は奮発して最高1000円である。

 前機種は、プラボディ一体成形のプラスチック製クリップであり、これが割れたので、クリップ自体がスプリングでバインドできるタイプを選んで、そういう構造の最安機種を選んだ。
 見つけたのはドラッグストアのメタボ対策コーナーで陳列されていた商品で980円で選べるのは三通りである。それは、

1.大きな文字盤
2.バックライト表示型
3.燃焼脂肪量概算型

の三種類。で選んだのは、カロリー概算型だ。これは歩幅、体重から歩数で使用カロリーを推算するオムロンの製品であるが、これを購入した。機種名はHJ-106というタイプである。商品情報は、↓

http://www.healthcare.omron.co.jp/product/hj106_1.html

類似種には、バックライト表示型が距離表示機能を持っており

http://www.healthcare.omron.co.jp/product/hj108_1.html

である。バックライトはどうでも良いけど、距離表示は多少関心あるところ。
但し、距離よりも脂肪相当g数の方が面白いか?と思ったのでHJ-106を選んだのである。
上位グレードでは、距離も脂肪相当g数も表示するけど、価格が3000円に迫り、本体サイズも大きいのが難点。因みに、高機能機種はコレ↓。

http://www.healthcare.omron.co.jp/product/hj710it_1.html

 今回、ニュー万歩計を導入したので、更に活用して記録には消費カロリー量も併記するのも面白いかも知れない。
 そう言えば、ラングスター号に装着している心拍モニターも心拍数から消費カロリーを概算出来るタイプである。ラングスターで走り回るとホームコース1往復で600kcal程度であるが、そのようなカロリー表示も併記するのも面白いかも知れない。

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祝!?禁煙1周年

 煙草を中断して(決して禁煙しよう!って意志で吸っていない訳でない。あくまでも煙草が不味いからである)から丁度1年が経過した。
 この一年の間に煙草を巡る環境は一段と厳しくなっている!?というか、迷走の度合が酷くなっている。一つは、消費税増税論議をけん制するっていうのがホンネながら、建前上は健康に配慮するということでの煙草税の増税論議で煙草一箱1000円にするか?って話であったり、未成年者の煙草購入を防ぐという名目ながら、夜間の自販機稼働を容認し、今の時代の無駄な電力消費を助長しかねないTASPO(タスポ)導入と深夜の自販機販売の再開であったり、、、、煙草っていうのは、本質的には無い方が良いものなのだろうけど、必要悪的な存在となっており、決して禁止することも無いであろう存在のようで、それを取り巻く施策を見ると、世間の都合に振り回されている感が否めない感じである。

 そんな事は兎も角、なによりも煙草を一本も吸わない生活が丸一年経過したという事が自分的にはビックリである。
 で、喫煙習慣が無くなって一年経過してからの変化を纏めると、、、、、

・煙草代が節約されてウハウハとはならない感じ。他の出費が増えた。
・煙草を止めて体力、持久力が強化されたとは感じない。
・煙草を止めて食事が美味くなった?とも感じない。
・煙草を吸わなくても酒、コーヒーの旨味には影響しない。
・飲み屋で煙草を吸わなくても気にならない。
・目覚めの一服が無いと目が覚めない事も無い。
・煙草を止めて寝起きの口の中のネバネバ感は無くなった。
・歯にヤニが付かなくなった。(当然だ)
・イライラの対処に煙草は効果的とは言えなかったみたい。
・ライターを持ち歩かなくなったので、蚊取り線香、花火の着火に不便。

 ってところ。実際の所、一番大きな違いは?っていうと、歯の汚れ、寝起き直後の口の中の状態というところ。

 一番のあての外れは何と言っても体力の変化が顕著には顕れなかった事か?
 最高心拍数、安静時心拍数、肺活量、3000m水泳の所要時間、連続水泳距離、自転車でも速度、平均速度等々、全てのファクターは一年経っても変化は感じれない事。

 取り敢えず、今の段階で喫煙を再開する予定は無い。まぁ、何よりもニコチン等の物質を呼気に混ぜて吸い込むというのは肺の組織、肺胞にとっては決して良くない事っていうのは間違い無い事であり、将来の肺気腫、肺癌といったリスク回避のためには、恐らく、今後喫煙習慣が復活するということは無いだろうと思う。

 更に言えば、禁煙というは煙草を止めるっていうのは、それ程、強い意志も不要だし、禁断症状が現れる訳でもない。案外、簡単なモノっていうのが感想だ。普通に辞めれるのには少々驚きである。何故に、人は苦労するか?その辺が理解出来ないところである。

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2008年7月28日 (月)

今週の予定は?

 今週末は既に8月である。
 真夏である。で、会社は週末三連休。勿論、自分も三連休!で、金曜日は海水浴に出掛ける予定。更に更に、今週の水曜日は地元の神社の夏越大祭、土曜日は学区の盆踊り大会。となると、木曜日にはしっかり泳ぐ必要が、、、、

 先週末の不愉快な事もあったので、今週は入る仕事、依頼は全てキャンセルの却下モード。私用、遊びに忙しいのである。

 懸案、先週の経営者からの案件、これは全て廻りに流す予定。一切ノータッチで無視するつもり。そんな面倒臭い事、今後に何かを生まない案件、過去を振り返るだけの案件には無関心であり、それで喜ぶ奴がやればよい。俺知らねだ。

 っていうのは、建前で、ホンネはトップ16Tが使えそうなフレームを探しており、それを前提とした車体構成の構想を検討するのに暫く脳細胞を占有するからである。

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品種改良野菜と環境

 表題の自然には無い野菜が話題なんだそうだ。なんでも生活習慣病撃退にも効果的な栄養バランスを持つ新種も生産されているという、、、、。この新種は、不自然に生まれたモノだけど、遺伝子組み換えとは違う種の交配によって作るモノ。種の交配というのは、人為的な遺伝子操作ではないが、結果的には遺伝子の組み換えと似たようなモノと捉えることも可能だが、全く異なる種が掛け合わせれる訳では無いので、一般には安全とされているもの。
 種の平均値っていうのはメンデルの遺伝の法則等によって優劣の適当な分散によって決まるものであり、初期の品種改良というのは、この優性品種のみの選択で種を繋げて得たモノだったりする訳だが、そのこと自体が、種の原則を踏みにじる行為でもある訳だ。

 確かに、品種改良という名の技術革新で農作物の収量アップが図られてきたし、今は、野菜と果物のハイブリッドのようなベジフルーツなる品種改良野菜が表題の如く注目されているみたい。

 ただ思うのは、こういった品種改良野菜というのは不自然なものであり、自然界的に言えば奇形種である。こういうモノは種子等を野生に帰す事の内容にしなければならないのでは?と思うのである。

 環境問題で話題となっている外来種の帰化、或いは、混血、新種というような訳の判らない生態系が生まれつつある現代において、栄養分とか、収量とか、人間に都合の良い解釈での新種を作るって言うのは、一種自然への冒涜とも思えるのである。

 結構、人間はこのような生物というか生命への冒涜を自分の都合だけで、一方では帰化生物駆除、環境保全といってみたり、一方では新しい技術による収量革命とか、ダイエット技術革新とか言っている。都合の良い生き物である。

 因みに、自分は、こういう野菜を食うか?っていうと、幼少期において食った経験の無いモノに対しては臆病な性格であり、トマトは赤、ピーマンは苦い緑色、、、、そんなイメージであり、それ以外は生理的に拒否してしまう傾向がある。勿論、そうは言いながら流通している米(品種改良種だろう)は普通に食っているのだが、、、、。

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2008年7月27日 (日)

時間外勤務の意味

 金曜に引き続き、土曜の朝っぱらから、勤務先の企業トップの会長から電話である。
 昨日のメインサイトの日記

『 労働組合員時代の話、勤務先は金曜日は定時操業日で16時45分で勤務終了が原則。そんな時、当時の社長(現会長)から電話が掛かり16時40分から打ち合わせしたいとの要求、、、、普通の社員なら行くのだろうけど、その時は、丁重にお断りした。

 で、次は昨日金曜日の昼前の事。今は非組合員であり勤務時間の制約は原則無いのだが、それでも自分の中は昔と一緒。金曜日の話は、土曜日に一緒に大学に出張に行こうとの話。しかし、土曜日は原則休日であり、出社する予定にしていたけど、出社するには先約の要件があるために出社する訳であり、会長と出かけるのは予定外。で、今回も前回同様に丁重にお断りした。休日に出勤するには、すべき理由が存在している訳で、その理由を押しのけて別件を優先で入れるっていうのは俺的にナンセンスである。内容も然りである。普通の人は内容優先よりも命令者の地位優先なんだろうけど、俺は中身しか見ない主義だ。

 今後も方針は変わらないだろう。っていうより、気分的には、どんな業務命令もお断りするつもり、、、、これを言ったら勤め人失格だろうが、命令では動く気はない。依頼でも動かない。動くのは、自分の意志にのみ従うというのが主義である。』

 ではないが、土曜日の朝10時から打ち合わせしたいから会長応接室に来い、、、、で、解答は、何度言われてもNGである。
 時間外勤務は、用件があるから勤務している訳であり、用が無ければ出てこないのが原則。つまり、出ているということは、先約がある訳で、その先約を優先するのは極当然の事。その先約を覆すのは、絶対的に有り得ないのである。割り込み主が、社長、会長、役員、或いは、政治家、役人であったとしても、それは有り得ないのである。仮に、その決められた予定が、小さな仕事でも、優先順位はひっくり返らないというのが私の主義である。

 仮に順位がスライドするというのは、仕事の要件というか重要度による訳であり、その重要度が低いと判断した場合は、その要件の依頼元が誰であろうとスケジュールは遵守なのである。ただ、この会社、要件ではなく、要件元の地位で順位が変わるっていうのが日常化しているので、経営者自体、それが普通と思っている節がある。それが習慣化したためか、自分を神様と思っているようである。ただ、俺的には、そういう価値観には決して染まらないというのがポリシーであり、全ては内容次第であり、内容に順位が付けれない場合は、予定遵守が大原則である。そういう姿勢はこれからも貫いていくつもりである。

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金とかスペックとか

 昨日、ニシダサイクルのお兄さんと一緒に泳ぎに行った帰りでの話し。
 金についての話。金ってなんぞや?ということ。この話の発端は私のブログに度々記載している経済優先の原則への疑念の記事に対しての話だ。

 自分の持論としては、儲け第一では考えない。金なんぞ、どうでも良い。と常日頃言っている。
 そういう持論に関して、周りに本意が伝わっているか?というと、そうではない場合が多いって話をしていたのである。持論である、金はどうでも良い!っていうのは、決して、金が要らないと言っている訳ではない。金はどうでも良い!と言いながら、例えば、給料が安い事を気にしないといって就職活動するのとは全く異質のモノである。

 金が要らないか?というと、そうでなく金は要るモノである。そんな事は当然でが、金なんぞはどうでも良いっていうのは、物事を進める上で、検討事項の最上位に儲かるかどうか?或いは、金が掛かるか?掛からないか?というのが判断材料に無いというだけの話である。

 金が要るかどうか?というと、それは自分の目的或いは行動に対して、自分が判断して適当と思えば支払うし、行動の価値を判断した上で請求するという話に過ぎないのである。自分が何かを依頼したり、或いは、趣味のためにパーツを購入したり、単車を購入したりという事は度々あるし、そのための改造を依頼することもある。その手間や価格が高いから、安いからでモノの選択するのではなく、自分の目的に合うか否か?のみで、合えば対価を支払うだけの話であり、予算の範囲で必要な機能を妥協することは有り得ないというだけの話である。

 逆に、自分の行動による報酬が自分の目で判断して適切かどうか?を自分で値付けした上で業務は請け負うというだけであり、見合わなかったら他を当たって貰うだけの話である。これは、企業勤務においても同じ論理で行動しており、自分が行った事と他人がトライして行えなかった実績を判断して、自分では、人が出来ない事を永遠に行い続けるというのは有り得ない訳である。過去、何十年に渡り出来なかった事を仮に完成させたとして、その対価が給与所得オンリーの場合は、完成後暫くは、意識的にアイドリング休眠モードとして、鋭気を養い、趣味に傾注し、そのツケを回収する迄は次の業務は請け負わないというのをモットーにしている。

 金額の値っていうのは、そこに含まれる価値や手間を纏めた数値尺度に過ぎず、その額面数値に自分の判断した価値があれば、その金額での契約行動を起こすだけなのである。これはモノの金額数値に限った事ではなく、実は、色んなパーツのグレードであったり、ブランドであったり、或いは、カタログスペックに対しても全く同じ考え方で接しているのである。

 どんなに高級なブランドであっても、夢踊るカタログスペックや、仕様や装備であったとしても、それを自分が必要としているかどうか?で、判断しており、不要なモノに拘らないというだけの話である。

 金やスペックはどうでも良いというのは、その値を行動の判断基準にしないというだけの話であり、高額だから、或いは、ハイグレードだから、自分が高性能とか立派とかという価値観を持ち合わせていないというだけの話である。

 そういう考え方は、昨日の記事において産業界が本質論より経済論理を優先して企業活動の指針を定める事に違和感を感じる事のバックボーンにも繋がっているのである。本質的に良いモノか否か?以前に、儲かるか?否か?で行動するのは、自由経済的には間違い無い行為なのは理解できるが、その過当競争と都合のよい環境保護論理の果てが現在の環境破壊や貧富の差という状況を生んでいるのは間違い無い事であり、都合の良い規制解釈っていうのは、利益追求活動の妨げにならないという前提を含んでいる事自体が不愉快なのである。
 本来、考えるべき方針は、規制云々の前に道理的、道徳的に反するか否か?が先に来るべきモノであり、それが本質論だと思う訳だ。

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2008年7月26日 (土)

ポジション

 今日はニシダサイクルの常連さんであるM君と可部迄のホームコースを走行した。
 M君、小径車に乗られているのだが、何でも尻というか腰が痛いんだそうだ。一緒に走って見て判った事、、、それは、微妙にポジションが厳しそうって感じ。骨盤が寝過ぎているように見えたところ。
 このM君、MTBに乗るとビックリするぐらい速いのだけど、小径車では漕ぐ姿勢に無理がある感じ。上手い具合にポジション出たら格段に速く走れそうな感じ。

 ということで、やっぱり自転車はポジションが重要ではないか?って思ったところ。

 ところで、ラングスター号、最近はサイコンに加え、心拍計も装備して、殆ど景色が変わるエアロバイク状態。中距離以上の走行でも、スパイダーサドル+普通の短パンで尻も痛くないし良い具合である。追い風で45+αkm/h維持、向かい風でも35+αkm/h維持が可能。大満足である。

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From ○○.go.jp

 最近、表題のようなところからのアクセスが多いようである。go.jpって言えば、政府機関である。衆議院、参議院、色んな省庁、独立行政法人・・・・多くが、摺動技術かバラスト処理か環境技術、硬質材料関連、自転車の三人乗り等々の検索でいらっしゃるようだ。

 興味深いっちゃぁ、興味深い話。殆どの方が、検索して記事を見て、プロフィールページを見て、又、記事を見て、、、、って移動履歴である。

 検索される語句というと、結構専門分野ネタであり、その分野の動向は?っていうと、自由主義経済の論理で経済性が物事の判断指標の上位となっている様子。

 しかし、儲かる、儲からない以前に、どの専門分野ネタでも、その判断指標は別の基準で行うべき時代に来ているのでは?というのが個人的な感想だ。
 自由経済の論理で世界中の国々がアクションを進める事は、破綻への序曲となっているのでは?と思うのである。

 少なくとも、技術的なアプローチで手法の選択を行う場合は、経済性以前に、アプローチの本質が問題の本質に合致しているか否か?を見極めるべき時に来ているのではないだろうか?

 例えば、温暖化ガスを例にとると、排出枠は取引すべきものでなく、絶対的に排出量を削減するという大前提を覆しては為らないものだし、バラスト処理で環境保護を唱う場合、排水物質自体は、自然界に存在するモノに限定するという前提が無ければ新たな問題を生みかねない。先行待機ポンプにおいて気中運転をいう無潤滑発熱運転を行う系においても、発熱源である回転軸外周に軸より小さな膨張係数の超硬合金を用いる事自体ナンセンスである。
 経済性優先の手法の場合は、排出物等について規制内だから大丈夫という論理を振りかざす事が多いけど、その規制値自体の根拠が結構あやふやであり、その弊害が予測出来ない結果が過去の公害病や薬害に繋がってきたという過去を学習すべきなのである。
 それでも尚、このような経済性が上位に来た選択肢が採用の可能性を残しているっていうのは、本質的欠陥以前に、利益追求という自由経済的思想が残っているからであり、その経済性によって得た競争力で勝負するっていうのは、本質的に間違っているのでは?と思うのである。

 今、日本という国の産業が世界に勝負を挑む際に、競争力を価格競争力に頼っていては将来の勝ち目は無いと思う。本当に価値あるモノを価値に見合った金額で勝負するという体質に変わるべき時代に来ているのではないだろうか?政府機関等公的な組織は、本質的に優れたモノを見出し、そのコストが普及の阻害因子となるような場合には、その阻害因子が普及の妨げにならないような施策を施すために存在するようなものであり、そういう見方ができず、経済性のみでしか物事が見れない機関は消滅した方が良いようにも思うのである。

 このサイトを技術用語で検索してお越し下さるお客様に、そんな思いが届くことを期待したり思うところである。

 まぁ、くだらないダイエット系日記サイトだけど、ダイエットにしろ、技術論にしろ、或いは、自転車、単車にしろ、なんでもだが、全てのジャンルにおける行動には目的があり、その目的達成の近道っていうのは、目的の原因となる問題を筋道立てて理解する事っていうのは共通した考え方である。近道というのは論理が破綻しているか否かのみで評価すべきもので、楽か苦か?儲かるか?損するか?っていうのは二の次の話なのである。

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冷房温度とメタボ度

 メタボ度数が高い程、冷房温度が低い傾向にあるんだそうだ。元ネタは↓。

http://www.daikin.co.jp/press/2008/080723/index.html

 ってことで、メタボ人は25[℃]、非メタボ人は28[℃]って調査結果だそうだ。

 う~ん、、、、、

 そんな事よりも、その温度設定を見ると世の中は冷房設定温度を結構高くして過ごしているのだなぁ!って感心である。

 身近な場所での設定温度を振り返ってみると、、、、会社の休憩室は?20[℃]!、事務所は25[℃]!、自宅のリビングは炎天下で26[℃]!夕方以降はドライ設定!、、、、、で、大きな声で言えないけど、自分のトレーニングルームは、、、、運動中はそれでも16~18[℃]!それでも汗吹き出しまくりである。運動後はドライ設定にするけど、、、、

 何[℃]設定が涼しいか?って純粋に振り返って考えると、その中で、何しているか?どんな格好しているか?で随分と感じ方が変わってくるというのが素直な感想。ガンガンに運動していると18[℃]以下だけど、薄着でくつろいでいる時は26[℃]でも寒く感じるというのが正直なところ。

 今回の調査では、温度刺激が基礎代謝向上に効果的って報告である。温度刺激によって血管の拡張収縮の切り換え温度が26[℃]という事で、それを境にした温度刺激は基礎代謝向上に効果的なんだそうだ。
 自分の場合、家に帰ると100%の確率で26[℃]以下で過ごしている。しかし外出時っていうのは、工場、研究所では今の時期は35[℃]を越える事も珍しくない。そういう意味では代謝向上には良いみたい。

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物欲

 未だに表題のような思いが渦巻いている。欲しいモノは?っていうと、新しい車、単車もあるけど、現実的にはフルサイズのロードバイクだ。

 そんなに高級な構成にするつもりは無いけど、自分の思いが具現化できるのに最も安価かつ現代的な構成で一台作ってみたいのである。ひな形としては、531ロードのようなギア構成、ラングスターのような走り方を川沿いの平地に限らない色んな状況で!って思いである。531ロードは良いのだけど、見た目がオッサン臭過ぎで、レトロ過ぎ。昔構成に拘る訳でなく、今の選択肢を含めて理想を組み上げたいのである。

 基本は、ジュニアカセット+フロントトリプルという構成で、シマノ的には禁止構成だが、端からSTIのような変速機構を用いない、基本はフリクションによるWレバー構成を考えているので何でも可能だろうという事。
 懸念なポイントとしては、大きなトップギアがシートステーと干渉する可能性が高いということ。現実問題、531ロードでもトップ14Tでシートステーとのクリアランスは1mm程度と超タイトな構成。それでも、531ロードの場合は昔ながらのロードエンドだったんでアクスル位置が調整できたから何とかOKだった訳であり、それより厳しい16Tトップを考えている今はエンドは薄手且つアクスル位置に調整幅が得られるロードエンドが必須な訳である。

 本当は、そういう構成でフレームオーダーすれば良いのだけど、エンド自体、最近はロードエンドを見る事が稀だし、今は昔の鉄系のフレームでロードエンド装着のモノを探して、後は現物合わせでステーの内側の干渉域に潰しを入れようか?という事を考えているところ。試験的に作ってみて具合が良ければ高価なオーダーフレームって方向で良いかなぁ?って思うのである。

 そういう試して遊べるフレーム探しを今行っているところだが、そういうフレーム入手の目処が付けば、フロントは50-39-30Tの105グレードのトリプル+CSにはアルテグラのジュニアカセットで16-27Tという構成で作ってみたいところである。最新のフレームで上述のような構成が苦もなく出来れば良いけど、現実は難しそう。そんな中、試しに作った小林製の531ロードのあまりにも快適なノリ味と程良いギア比に目から鱗って状態であり、そんな目から鱗状態をもう少し本格的に高めてみたいというのが今の欲求。
 因みに531ロードは前が46-38-30T、後が14-25Tという構成で、常用が46-16~17Tというところで超快適。想定巡航速度は35km/h、最高速度は55km/h以上、登坂も15%勾配もOKという仕様だが、これをそのまま実践できる2号機がもう少し新しめの構成で作ってみたいというところ。

 レトロ志向よりも寧ろ近代的構成を望んでいる訳であり、フレーム自体は、ロードエンド付きでその他は細身のクロモリレトロ志向よりも寧ろ現代的な扁平パイプのような方が好みである。願いは全品を最新のパーツにしたいけど、それが適わないから古めのフレームを仕方なくつかおうか?というところである。どっかに良さそうな古いけど、見た目古く見えないのは無いだろうか?

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博士論文?

 金曜朝の会長殿との打ち合わせ。

 昨今、話題の原油高、原材料高の対策の話。この話、地元の新聞とテレビでも取り上げられている。この効果をチャートで判りやすく説明してくれという依頼を受けて、過去の経緯、データの分析、結果等々を一覧のチャートに記して提示したところ。

 この発端は、4年前に遡り、当時勤務先の企業が抱えていた問題を当時の段階で予測して、何をすべきか?を洗い出して、計画立案後に担当者の人選を行い進めてきたモノであり、その効果は去年の段階で一応評価の土壌に上る状態になっていたモノ。

 この成果は、私の意見に同意してくれて協力してくれながらも、当時、その協力者との意見調整が上手く行かず、結果的に退社された方々の努力の上に成り立っており、自分としては、そういう真の功労者を評価すべきという事を常日頃から訴えていた。しかし、組織の実態は全く無関係の人間が、さぞかし実行者のような顔で全面に出ているのが実情。

 そのような組織の中で、先週、勤務先のトップ(会長&社長)から、今回話題になっている案件を技術要素と効果を判りやすいチャートとして示し、その効果を絶対的な数値として示した表も提出して欲しいという依頼を受けて、その解答を木曜日に社長、金曜日朝一番に会長さんへ提示したところ。

 そうすると、現代の技術から経済効果が現れた良い案件と思うので、大学と共同して表題のように博士論文を提出しろ!という話。この件に関しては、論文作成は、その手間を担うべき人(自分が功労者と思っている奴)は、もっと別に居るだろう?といって断っただけだ。それをやったとアピールする奴が、その手間を担えば良いので俺はノータッチだ。

 そもそも、はっきり言って、甘過ぎである。博士って奴らは、世間の常識から見ると変態であり、変人であり、普通の人では無い(良い意味での話だよ!)のであり、そういうアブノーマル(Above normal 、つまり標準を上回るって意味)な人が執念の積み重ねを経て博士となるのである。根本的に博士課程に見合う専門性、先進性があるか?という段階で、経営者が感激?しているような今回の件なんかは見た瞬間に答えがでるような取り組みであり、論文ネタにさえならないのは明白。仮に、自分が抱えるテーマで博士課程論文ネタになりうるネタは何か?っていうと、度々紹介してきた先行待機ポンプ等で使われる事を想定した完全無潤滑~土砂摩耗雰囲気の全ての領域で全く壊れることなく使う事が出来る全く新しい摺動システムくらいか?それにしても、テーマを扱うのが自分である限りは不可能だろう。博士論文というモノは、自分の印象では、博士を狙うに相応する知識的バックボーンを駆使した上で、構築した論理を文章としたモノ。テーマが有っても、それを博士論文の格式に相応する知識を駆使して表現する事は、自分には出来ない。自分自身、先輩や同級生で博士課程を修了した人と付き合ってきたが、どう考えても自分にその器があるとは思えないので、基本は辞退である。どいつもこいつも、学位を甘く見過ぎている。

 っていうよりも、こんな他力本願的で蜜に群がる者で構成された組織のために一肌脱いで貢献しようなんて思いはサラサラ無いわけであり、一肌脱いで協力して欲しかったら、それに見合わない人が、そういう顔して表に出る事を恥と思えない価値観が蔓延している限りでは、無理。実際に、どんな動きをしたとしても、それは、廻りの協力あってのモノであり、その協力者を称えない風習がある限りは、だれの協力も得れなくなるモノ。将来に渡り、やっても旨味は無いジャンって思いが蔓延すると、知恵の結集は不可能となるのである。

 自分自身、大した事は無いけれど、自分の考えを実践するに協力してくれる人は大事にしたい訳であり、それが埋没するような組織では、廻りに協力も依頼出来ない。協力なくして何も出来ない訳であり、そういう状況では、新しい事には現状は一切ノータッチの不干渉の気分。
 将来、何らかの危機が訪れた時、危機感を皆が共有するような空気が組織には必要と思う今日この頃。今は、誰かがやってくれるだろう、、、って意識が強すぎである。

 まぁ、こういう風土を作ったのは経営者であり、最近は経営者には協力できないなぁ、、、って気が大きいところ。これからしばらくは、お手並み拝見ということだ。此処で言うお手並み拝見っていうのは、他人に対して『お前ら出来ないだろう!』って意味ではなく、何某かの行動を起案して計画を練って手順を決めて行うというプロセスを結果が出るまでやる上での苦労と味わって見ろということ。誰かが何かを行うと、その人なりのアイデアが浮かび、それに従って何らかの結果が出るのは間違いないけど、その過程の面倒臭さを実感すれば、その結果(良い結果でも、悪い結果でも)にどう向き合うべきか?っていうのは、当事者となった事の無い人間が本当の当事者になって初めて気付くものだということである。(そうは言っても、新しい案件に殆ど全ての人がNoという解答を行い、率先してやろうという意志を示す奴はいないから無理か?)

 まぁ、一度、みんな自分からアイデアを出してプロセスを決めて見抜いて行動してみれば良いのである。そうすると、発想の重要性とか、その起案の意味とか、分担の意味とか、分業スタッフへの感謝とか、色んなモノが事欠かせないって事が気付くかも知れない。一部を見て全てを掌握したような気になる奴がいるとすれば、最後の後始末迄、やればよい。それが解らない奴は、それを実体験で学習すべきだろう、、、、。最近は、愛想を尽かす事が多いなぁ、、、、で、今は金曜の昼休み中である。

 まぁ、博士論文ってのは生涯の最終目標として自分の中で存在させても悪くない。仮に博士論文となると、先の話ではないが、完全無潤滑から土砂摩耗雰囲気の全域で使用可能な全く新しいジャーナル軸受のデザインについてかな?と思うところ。今は、その摺動メカニズムを紐解いて明らかにしていく上で、今の立場を利用して過ごすというのが基本である。それ故に、今は他の事を考える暇は無いのである。このシステムが完成すれば、結構楽しみである。今時点においては、その前段の摺動システムが既に地方自治体等に納品されて稼働準備段階という事。これ関係のネタが博士論文に繋がれば?って思う今日この頃である。自分の意識では、博士論文ネタっていうと、その分野において過去の誰もが試した事のない論理を論理的破綻無しで使用可能であるという論理を展開し、それを実証、評価した上で新しい論理を生み出すというストーリーが必要と思うところである。

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2008年7月25日 (金)

信じられるモノ

 世の中、信用できない奴、事柄が多い。
 っていうか、信用できないっていうのは、なによりも相手を見抜く力が足らなかった事であり、実は、廻りが悪いのではなく、そんな相手を見抜けなかった自分が悪いのである。

 全ての物事は理屈通りに動くのだが、その先を見誤るっていうのは、予測エラーということなのである。この予測エラーで、他人や相手を信じれないっていうのは、本当は言ってはいけない事なのだ。

 但し、全ての出来事の先を完璧に読むっていうのは非常に難しく、その読みの対象が他人であったりすると、なおさら難しい訳である。他人の境遇、性格、生い立ち、、、、そんな所を含めて他人の考えが読めなければ、他人の行動は読めない訳であり、つまりは、そういう先読みっていうのは実質不可能という事とも採れるのである。
 この実質不可能の結果を持って、多くの人は予想や期待とは反する対応を受けると、信じれないなんて感情を抱くのである。

 まぁ、言いたい事は、どんな変化、出来事も結果は、行動に応じた因果に沿った結果がでるということだが、その因果が読み切れないと、予想が外れる事が多いという事。
 その予想、読みの精度を上げるのに、人は知識の習得、経験の積み重ねをしていくのだが、やはり、それには限界がある。

 そんな中、結果がまずは裏切らないモノがある。

 その裏切らないモノっていうのは何か?っていうと、それは、自分の身体、体力というモノである。

 今、色んな事を考えると、行った行動に対して100%の結果を見せてくれるモノっていうのは、ダイエット行為による減量結果であったり、継続的な運動習慣、トレーニングによって身に付いた体力や技量ってところである。
 そう、振り返って見ると、自分の考えに完全に100%の結果で答えてくれているのは、身体をコントロールする取り組みである。これだけは、完全に思い通りである。

 そう思うと、この自分の身体を自分の考えの支配下において、そのプラン通りに生きるっていうのが一番楽しいのかなぁ?と思う事がある。全て、予想通りの計算通りで身体は変化する。こういう読みが的中し、得た結果で満足できるというのは、物事を続ける上では最も重要なモチベーション維持の道具とも言える。
 逆に、読みが的中しても、得た結果、効果で満足できない場合っていうのは、フラストレーションが溜まる訳であり、そうなると、そういう読み以て活動するという意欲が減るのも事実である。

 この2年間の話だが、自分の身体は自分の思い通りの計算通りに変化してきたし、その変化を得るために行うべき事も自分で考えてやってきたのだが、この入力と出力の一致というのは、最高の満足感を与えてくれるモノである。自分でやって自分で結果を納得する。こういうのが一番大事である。そういうフィールドを死ぬ迄に一つは見つけておきたいところである。人生の半分を過ぎて言えるのは、そのフィールドで一番重要なのは、自分の場合は、健康と体力という事である。そして2番手が単車、自転車という趣味なんだと思うところである。健康な身体を予定通りというか計画通りに維持して、趣味を満喫する。これが大事である。

 『トレーニングは裏切らない!』イイ言葉である。

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バラスト水ネタに注目!?

 最近は、過酢酸、過酸化水素水、紫外線、磁気、熱処理、、、、というバラスト処理関連でアクセスが公的機関、企業から増えている様子。興味深いものである。

 そんな中、実は未だ一押しとされる処理システムは定まっていないのが現状である。しかし、現状とは別に規制が発効される期限は刻一刻と迫っている。期限が来ても、方法論が決まらないのが現状。決まらない理由っていうのは、技術的な正当性(環境負荷っていうと、異物を放出するか否かの一点で本来は決まるけど、環境基準に定義されていなければOKという定義で決められているのが現状、、、)以前に、本質的に環境負荷を削減する方法よりも、規制に合致する範囲で安価なモノは?って価値観で競っているからである。

 果たして、これって安いからシステムとして商売になるという考え方がまかり通るモノなのか?が甚だ疑問である。自身、活性物質を薬剤として使用する手法は、廃液自体がどんな処理を施しても環境的には有り得ない物質であり、そういう手法は良しとしないが、コスト的にみると、薬剤を用いる方法も大きな選択肢として残っているのだが、その事実には傍観者として呆れるばかりである。

 質的に、有り得るか?有り得ないか?を考えると、例えば、ダイエットでも動けば問題ないけどサプリ依存するとか、軽微な疾病も薬に頼る前に日頃の抵抗力を付けていれば問題無いものを不調即投薬という行為同様に、本質的な話でなく対処療法的な判断の方が支配的に動くのは、言ってみれば資本主義、利益追求主義の欠点のように見えるのである。

 基準に定義されているか否かの判断以前に、定義する前に自然なモノか否か?を判断すれば一目瞭然というのが本来の姿と思うのは変な考えだろうか?

 更に、この問題に関して、規制発効の期日と現状を見合わせると、多分、掛け声だけで終わるようにも思うし、規制を現状と照合した上での落とし所を探る動きが出始めるのでは?と思うのである。実際、地球温暖化ガス排出量削減を目標にしつつも、結果的には、植林によって吸収するからOKとか、排出枠の余剰を持つ国から排出権を買うとか、つじつま合わせの論理を組み立てる事に傾注しているように見える前例から考えても、バラスト規制に対しても見ても、内航船、短航路就航船等に関しては海流による自然の流動を加味すると規制は不要という論理に移行しかねないし、既に外来種の定着と繁殖が極度に進行した港湾では、本来の生態系を戻す事自体が不可能という論理が生まれるかも知れない。結果、新しい港湾設備への出入りに関しては、規制が有効となり、手遅れ的な地域では、沖合でのバラスト交換でOKなんて妥協点になったりするのでは?というのが感想だ。

 ところで、このバラスト処理システムには、塩素系薬剤、過酸化水素水、オゾン等の活性物質を用いた化学処理法、破砕、粉砕、吸着、濾過といった物理処理法の他に、広島大学、大晃産業さんが開発した熱処理法

http://www.taiko-jpn.com/pdf/2005.04.pdf

なんかもあるようだ。一番は、処理後の残骸廃液を全て回収するという凝集システムが好みだが、熱負荷のみで処理を試みるこの方法も悪くないモノ。

 何にしろ、この規制対象は新造船、就航船全てに適用されるものであり、新造船の場合は、それが前提となるので、どんな方法でもそれなりの対応が可能だろうけど、就航船の場合は、結構難しい問題である。設置ユーティリティの確保を考えると、非常に難しい問題である。その難しさにコスト的な制約が入れば、物事が進まなくなるように思うし、結果、つじつま合わせの論理が生まれて有効性の乏しい結果を招くっていうのが一番の危惧である。

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世界糖尿病デー、、、、地球も糖尿病?

 何気なくネットを閲覧していたら、表題の様な日が制定されているようだ。そのサイトは、↓。

http://www.wddj.jp/

 で、制定された日は11/14ということらしい。このサイトによると、糖尿病人口は、世界の成人人口の5~6%を占めているそうで、2025年には2007年に比較して65%増となるそうだ。更には、アジア、中東、南米、アフリカでは約二倍に増加するらしい。
 日本でも40歳以上の3人に一人が糖尿病或いは、予備軍状態となっているそうだ。

 因みに、現代において世界では10秒に一人の割合で糖尿病関連疾病で亡くなっている計算になるそうだ。

 日本においては、1997年糖尿病実態調査で、日本には約690万の「糖尿病が強く疑われる人」が存在し、「糖尿病の可能性を否定できない人」も約680万人、合計で総人口の10%を超える約1370万人の糖尿病患者がいると推定されている。
 更に、40歳以上の3人に1人が糖尿病または糖尿病予備軍である事が、2006年の国民健康・栄養調査で発表された。糖尿病が原因の死者も年間約1万人に上る中、実際に治療を受けている患者は、その約15%にあたる約212万人に留まり、糖尿病には痛みなどの自覚症状が少ないことから、疑いがありながらそのまま治療を受けないケースが多くあることが、その要因と考えられている。(以上引用)

 因みに、糖尿病っていうのは、良く言われているような代謝機能喪失による弊害の蓄積でえあり、代謝機能、つまりは、しっかり食って、しっかり動く。エネルギーの出入りを収支を整えた上で活発にするということ。このような糖尿病の原因は何か?というと、活動の必要性の無く、簡単に高カロリー食が得られるというライフスタイルが定着したため。つまりは、現代の価値観で文明が進歩することで問題が顕著となった病である。

 言ってみれば、昔の高尿酸による痛風の贅沢病っていうのと同じもの。つまりは、現代文明がもたらした人体の不調という事であり、現代文明がもたらした弊害は、人体という尺度でみると糖尿病患者の増大という形だが、現代文明の便利さと快楽を追求するという方向性は、人間の住む地球における代謝機能も侵害しているようだ。代謝というと、物質の循環であり、循環においては滞留の無い状態が理想であり、環境においては炭素が一部に滞留することなく循環する事が健全性を維持するということ。

 環境において炭素循環の収支が失われた結果が、今の地球温暖化という現象だが、これは考えようによっては、地球環境の収支、代謝不良による生活習慣病のようなモノともいえる。今の地球温暖化っていうのは、地球が糖尿病になっているのかなぁ?と考えたりするのである。

 そう思うと、糖尿病の特効薬=肥満脱却=正攻法による実践が最も効果的という方程式に当て嵌めると、地球環境の改善では、額面だけの排出枠取引とか、原子力推進とかの手法っていうのは、医学における化学療法であり未知の弊害に対しては全く無防備な対応のように見えるのは気のせいだろうか?

 何事も自然に、道理に併せてというのが、本質的な問題解決には必須の筈だが、このような小手先というか僅かな知見で全てを理解したような振る舞いの先には手痛いしっぺ返しがまっているように思う。そのしっぺ返しというのは、医療依存過多の人には、副作用とか依存症とか、、、地球環境では未知の問題、新しい公害とか、、、、そんな事態が待ちかまえているように思う。

 こういうのは、人間の価値観が如何に楽して結果を得るか?或いは、身の程以上の結果を期待するか?という本能?的思考の果てであり、そういう行動の先には、人も環境も破局しか無いように思うのは悲観的すぎるのだろうか?

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2008年7月24日 (木)

ロードブーム、ピストブーム

 水曜日の地元新聞で見つけた記事。それは、シングルスピードバイクにフラットバーを装着してカラフルなパーツと好みのギアを組み付けて、メッセンジャーバックを背負って乗るのがトレンディー?で、広島でもツーキニスト?の選択肢として注目を浴びているそうだ。
 で、記事に掲載されていたのが、カラフルはホイール周りにメタリック系カラーのホリゾンタルクロモリフレーム車。

 謳い文句としては、素人にも扱いやすいギア比が装着可能で、メンテも簡単、、、、、とまぁ、ありきたりな謳い文句が並んでいるところ。

 そんなピスト系ファッションバイクと並んで、時折記事になるのが、最新のコンポ+CFRPを始めとする新素材をバンバンに採用したロードバイクと、それに乗って風を切ってメタボリック対策に大流行って記事。

 本来、シングルスピードもロードバイクも結構特化された車両であり、その潔さを受け入れて乗るっていうのが格好良さだったと思うけど、最近は、そんな車両をベースに個人の思いで自由にカスタマイズされたモノがファッションアイテム、ダイエットツールとして広く受け入れられているようだ。

 ピストバイクっていうのは、基本は固定シングルで乗る場所が極限られた場所で、その狭い範囲で最高の気持ちよさ(速さ?)を具現化するための道具であったりした筈である。ロードバイクっていうのも基本は同じで、脚が足らないからギア比を拡げるとか、不便だから便利さを付加するという質のバイクとは異なり、見合った脚の持ち主が活用して初めて、その世界が堪能できるというモノであり、不便さは不便ではなく、本来の機能のための必然性追求の結果故に割り切るという考え方が根底にあるものと思うのだが、最近の流行では、カスタマイズベースということで、あくまでも素材。素材を変更するのは、使い手の思い!って考え方が主流になっているように思う。

 そう思うと、ピストベース、ロードベースの様々なモデルっていうのは、実は既に、そのスピリッツを失った別個の存在のようにも感じるところだし、それが主流となることで、本来のピストバイク、ロードバイクの潔さが伝わりにくくなっているような気がしないでもない。ブームという流行で雑多な人の視線が集中すると、その対象を雑多な人へのアピール度優先となり、本来の意味を失い魅力も失うって事は少なくないが、それって、過去の単車のレプリカブームとオーバーラップするところである。

 一見ロードバイク、ピストバイクっていうのが増えていて、自転車人口が増えるっていうのは喜ばしい事だけど、ブームっていうのは反動が間違いなくやってくる訳であり、そうなった時にどうなるか?っていうのが実は心配だったりする。更には、雑多な視線の注目を浴びるための構成が増えすぎると、そういう視線の注目の外に位置するモデルっていうのが見つけにくくなるっていうのも少々寂しいところである。

 ここからは、勝手な考えだが、例えばロードバイクについて、、、、

 ロードバイク(ロードレーサー)の定義はなんぞや?というと、個人の主観としては、何と言っても潔さである。潔さっていうのは、特定の状況で効率良く走るために、不要なモノを削ぎ落とすという事。無駄とは言えない無駄というか余裕を削り、只一点のために追求するってスタイル。その潔さというベクトルでみた究極のスピードバイクがピストバイクとすれば、同じベクトルに有るものと思う。

 昔の自転車乗りの私の思うロードバイクの潔さは何か?っていうと、

 兎に角、タイト、ナロー、高剛性、無駄無しという方向で全てが構成されるべき。 具体的には、タイヤとフレーム間のクリアランスは極小。フォーククラウンとタイヤの隙間、Fタイヤとダウンチューブの隙間、Rタイヤとシートパイプの隙間、Rタイヤとステーブリッジの隙間。踏み幅は狭く、チェーンラインの角度も然り。回転を上げるためには、踏み幅(Qファクター)は狭いのが必須。チェーンの捻りも最小が必須。伝達ロスは極力押さえる。伝達時における外乱によるロスも最小狙い。同じギア比なら歯数構成は大きい組み合わせで!チェーンのコマ曲がり角度の面でもだけど、大きな歯数構成の方が駆動時のチェーンの張力が大きい。その分、外乱による乱れの割合が小さくできる。勿論、歯数構成は必要最小限。歯数構成の幅(キャパシティー)が大きいとケージも大きく、テンションで惹くべきコマ数も沢山必要で、外乱等々でチェーンが踊りやすい。その分、ロスも大きい。
 更に言えば、そういう構成でガンガンに踏む人のパワーに見合った剛性が各部に確保されている訳で、そういうトルクが生めない人には、パッケージが持つ剛性なんぞ無用の長物となる。
 思い付くところで、そんな所。逆に、どんなに高級なコンポ、新素材で構成されていても、スケルトン的に緩い構成は潔さが感じられない。 ロードバイクが必然的に形(スケルトン、ギア比)が定まるならば、その速度域に合わせた設計が為されている。よって、その形にして、形に意味を持たせるギア比、スケルトンは必然であり、その構成を回しきれないのは、想定された速度域に達しない。乗るのが目的ということは、或る意味、真だが、そのために、そのモデルに汎用性、万能性を入れすぎるっていうのは、そのモデルのストイックさが失われる事にも繋がると思う。

 逆に、ロードを選ぶって人は、それを承知で、それに見合った自分を判断してから手に入れるというのが昔的な考え方かもしれないが、そういう乗り手と自転車の関係が潔さだと思うのである。ピストバイクも然りであると思うのである。

 勿論、自分自身、ロードバイクもピストバイクも乗るに見合ったレベルにあるとは思わないが、そういう空気が好きなのは確かであり、その空気を自分に合わせたカスタマイズをおこなうとなると、何をどうすれば、そういう空気が手に入れれるか?を考えると、それは、車体の構成する一点毎のパーツよりも全体の雰囲気を決するスケルトンの方ではないか?と思うのである。

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2008年7月23日 (水)

本能の欲求は三つだけか?

 食欲、睡眠欲等(他の一つは検索ワードで変な検索エンジンに掛からないために語句は載せない。)、本能三大欲求というのはよく知られたモノ。
 本能っていうのは、生まれつき行う行動を駆り立てる性質という定義とされている。

 生まれつきの行動衝動っていうのは、個体を維持する上で必要な状況を得るための衝動であり、その加減の調整も個体維持の具合を調整することで行われている。

 そう、食べ過ぎ、寝過ぎ、、、、等の異常っていうのは、衝動が過剰に起こった結果であり、衝動が過剰に起こるには、それなりの理由があって、その理由から見ると、衝動の過剰反応というのは寧ろ健全な状態とも考えられるのである。

 衝動の過剰反応により、例えば過食行動の結果が肥満という結末に陥ったとしても、本能行動の結末と考えれば、もしかしたら、肥満という異常状況だとしても、その異常による生命の危険以上に危険な状態に陥る事を過食という逃げ道で対処しているだけとも考える事ができる。

 つまり、肥満に陥った人が過食に走らなかったら、肥満以上に危険な状況になっているのでは?と思うのである。
 そう考えると、先の記事ではないが、肥満に陥る過食を強引に制限すると言う事は、肥満に到る過食行為で個体を守っていた道筋を奪う事であり、その結果が、より悲惨な結末を招くのでは?と思うのは自分だけだろうか?

 肥満の原因を過食行為とするのは有りだけど、過食行為の原因は、欲求本能が満たされない事が食欲によって満たすという代理行動とも言える訳であり、適度な食事料で食欲が満たされるように、他の部分で感じる欲求が他の行動で満たされるような生活サイクルというか精神性が重要という考え方である。

 本能の三大欲求が、寝る、食べる、子孫を残すという事だけならば、食べ過ぎに到る不満因子が、寝れない、子孫を残せないというジレンマの結末とも言えるのだが、それだけでは無いように思うのだが、案外、本能の欲求というのは、この三つだけでなく、より多くの欲求が複雑に絡み合っているのでは?とも思えるのである。
 色んな欲求、例えば、金欲、名誉欲、、、、、色々とあるけれど、これらは全て本能による欲求ではないか?と思うのである。

 欲求というのは、人によって様々だけど、その欲求が個人にとって色々な選択肢がある程に、欲求未達成による不満を感じにくくなるのは確かであり、人生において欲求行為を行うフィールド、選択肢を如何に沢山持つか?好奇心、探求心を如何に沢山持つか?が、欲求不満によるストレスが、安易な本能的欲求の一つに偏向するのを防ぐ唯一の方法のように思うのである。

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食材制限式ダイエット方法より効果的なダイエットとは?

 先日のニュースでのネタ。ダイエットに食事制限を行う方法を取った場合、低脂肪法よりも低炭水化物法の方が効果が大きいとのこと。元ネタは↓

http://www.nankodo.co.jp/yosyo/xforeign/nejm/xf2hm.htm

 のことだが、何時も思うのは、人間の三大欲求の一つである食欲に制限を掛けるダイエットっていうのは、生理的、本質的に有りかどうか?という事。

 確かに、暴飲暴食で身体を壊したり、食べ過ぎ、動かない過ぎで、極度の肥満に陥ったりという実例を見る事も少なくないし、そういう人の肥満の原因を運動量消費<<<食事量摂取という収支非平衡に求めるのは正しいけれど、この食べ過ぎというのは、欲求的に正常な食行動か?というと、食行動自体が異常性を帯びており、その異常な食行動を行わせる背景というか原因を取り除く事こそが重要ではないか?とも思うところである。

 食事という行為は重大欲求の一つであり、なんらかの精神的な抑圧を受けた際に、快楽?でバランスを取るための安直な行動とも言える訳であり、異常な食行動というのは、本来の生理的な食欲を越えた行動と考えると、それを押さえ込むのは異常な食衝動を引き起こす要因を取り除く方が、食行動に走る人の精神的抑圧の度合も少ないのでは無いだろうか?とも思うのである。

 食を制限するのは、異常な食行動を排除するのが目的であり、節制をストイックに求めるものとは異なるものである。異常な食行動は異常食によって得られる至福感で紛らわせる不満が根底にあるはずであり、それを取り除けば、恐らくは異常な食行動に走ることは無いように思うのである。

 多くのサラリーマンのイメージである職場での不満を酒で紛らわせるのも同じであり、不満が無ければ酒にも走らない。ストレスを受けるから、解消法に走るという論理と同じ理屈である。

 これは、加齢と共に肥満傾向が強まるが、加齢と共に生活環境から制約を受けて、自己表現が出来なくなる事による結果ではないか?とも思うのである。
 つまり、加齢と共に肥満状態という異常食行動に走らないためには、個人が自己を開放できる世界を大事に持つ事ではないだろうか?
 自分の世界を成長と共に大事に持つことこそが、肥満という異常食行動の結果から遠ざかる唯一の方法のように思うのである。

 食いたいモノは食う。しかし、異常な量とならない程度で普通は満足できる筈であり、その適量で満足を得るのは、他の日常で精神が満たされているからである。日常で満足を得るフィールドこそが、肥満に悩む人にとっての特効薬であり、それが食行動自体が楽しみとして残す唯一の手段とも言える。

 何か不満、不平を抱える人の捌け口が異常食行動、深酒であるならば、その異常摂取行動自体を制限すると、更に、他の異常行動に走りかねないし、制限のために、制限すると、更に、ストレスがたまり、精神性に異常を来す破局を招きかねない、、、そんな風に思うのである。

 食い過ぎで困る奴は、幼少を振り返り、自分が本当に楽しかった事は何かを、今一度探す事が大事であり、その楽しい世界に再突入する事が良いのでは無いだろうか?

 人生においては、大人になるまでに、自分の最大の楽しみを見つける事が最重要であるというのが私の持論である。それさえあれば、何でも出来るし、どんな事も割り切って考える事ができる。私の場合は、それが単車であったり、自転車だったりするのである。

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姉弟の寝相

  我が家には6歳の娘と1歳の息子が居る。布団を引いて並べて寝かせているのだけど、何時も不思議に思う事がある。
 それは、殆ど毎日、毎晩の事だが、子供の常で寝相は相当に悪いのだが、この二人は並べて寝かせていると、全く同じ体制で転がりながら寝ている様子であり、何時も不思議に思うのである。申し合わせたように、同じ向き、同じ体勢で寝る。不思議なモノである。

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2008年7月22日 (火)

HKK VERTEX Blue Chain

 昨日、ラングスターTT号でホームコース走行後にニシダサイクルさんに頼んでいたのを装着して頂いた。
 そして、海の日の今日、走行予定は無かったものの、町内大掃除の前に急遽出撃したところ。

 本日のコンディションは、往路は微妙に追い風?時折、向かい風で、何故か復路も追い風、それも結構な追い風、、、、多分、風の向きが変わるタイミングで向かい風に遭遇する事が無い稀なコンディションだったんだと思う。

 で、昨日チェーン交換の際に感じたのは、元々付いていたチェーン等普通のチェーンに多い、コマの硬い箇所、柔らかい箇所の散在によるチェーンテンション調整時におけるバラツキ感が極めて少ない事。実際、組んでテンション調整すると一発で決まる。チェーンの走りに斑は無い感じである。

 で、本日走行しての感想。今日は、午前8時30分から町内清掃ということで、遅くとも8時には帰宅したいところだけど、家を出たのが午前7時直前。ホームコースのスタート地点に着いたのが7時10分で、結構タイトな時間、、、、

 そんな訳で、相当踏んで発進しました。すると、どうでしょう!チェーン周りの回転系からの音は皆無に近い状態。ガンガンにペダリングして加速体制中は、車体がきしむ様な、路面のタイヤの駆動音の様な音のみしか聞こえません。回転を上げて130rpm~150rpmキープで走っても風の音、加速時における車体の軋むような音のみです。如何にも駆動系のロスが無いような感じですね、、、、。

 ただ、走った感じとしては殆ど何時もと差違はありません。感覚として気持ち良いというレベルです。でも、往路、復路ともネットでの平均速度は結構なハイアベレージで過去最高クラスでした。まぁ、コンディションが良かったというのも大きいですが、チェーン交換による気分の良さってのが効いているかも知れません。

 見た目も、普通に黒チェーンであり、メッキとかカラーチェーンのようなモノと違い、質実剛健でスパルタンな感じが素敵です。

 チェーン交換で記事にしたのは、過去の体験から言うと稀な程に好印象をチェーンから感じたためです。少なくとも、薄歯のシマノのDURAのチェーン、105のチェーン如きでは差は判りませんし、駆動時の剛性感も感じませんが、厚歯のVertexチェーンは違います。

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2008年7月21日 (月)

ロードレーサー

 日曜の炎天下の中も午前中はロードレーサーに乗って走っている人を何人もパスした。
 何れも高級そうなバイクにレーシーの装備ながらも基本は軽装備で、装備的には長距離では無さそうな感じ。

 ロードレーサーというかロードバイクっていうのは身軽さが取り柄だけど、その分、やはりランドナー、スポルティーフとは少々長距離向けとは言い難いモノ。ロードバイクで長距離というと同行する車両が必須なように思うのは自分だけだろうか?

 その昔、自転車漫画でサイクル野郎って漫画があったと思うけど、その漫画に代表される当時のブームというと、殆どがランドナー、ランドナーで輪行仕様が花形で、亜流にスポルティーフというのが定番だったと思う。
 このランドナー、スポルティーフっていうのは、フロントバックが定番で荷物をそれなりに積載して走るというタイプ。更には、長距離走行では必須のフェンダー(ホンジョの亀甲とか、、)もデフォルトであり、如何にタイヤとフェンダーアーチがタイトかつ同心円に美しくセットされるか?なんて趣味性を競っていたのを思い出す。

 このランドナー、スポルティーフというと、上級車はTAのシクロツーリストでフロントトリプルが定番(マニアックとなるとストロングライト、廉価でスーパーマキシーの3ピン留め)でアウター48T、センター42T、インナー28T(マキシーでは34Tくらい)もあれば、どんな峠も安心という感じだったように思うところ。勿論、リアはボスフリーの5速ないしは6速程度のもの。
 この旅行向け自転車はフェンダー、キャリア、バックがフル装備で、勿論、ボトル、インフレーター、灯火類もフル装備で1日200km以上を淡々と走り、トラブルがあっても完璧に対処可能というものであり、その冒険心が当時のブームを支えていたように思うのだが、今のロードバイクっていうのは、ブームの生い立ちからして少々違うように思うところ。

 当時、ロードレーサー=チューブラーというのもあり、気軽に長距離というモノでは無かったし、当時のギアも前52T-42Tとか55T-44Tで結構脚が必要という感じで敷居の高さがあったように思うのだが、最近は、ブームに乗って一台目がカーボンロードって人も少なくないようで、ロードの気品というか気高さが失われてきたように感じるのは自分だけだろうか?
 乗り手にしても、当時のロード乗りは一目おいて遭遇しても圧倒的な人が多かったけど、最近のロード乗りは雑多な多くの自転車の一ジャンルに成り下がっているようにも思う。取り敢えず、最初の選択肢としてロードが入るというのは、やはり格式を下げているという感じ。ロードバイクっていうのは、自分にとっては気高い、敷居の高い特別なモノって意識があるのだが、日常で見る光景は、ロードバイク=ミーハーな初心者向けなモノって感じが強いのは少々寂しいところである。

 実際問題、当時のロード乗りの印象は、格好こそ今のレーパンレーシャツという専用装備でなくTシャツ+ジャージという汎用ルックだったけど、乗り手のフォルムも様になっていたし、実際の走りも皆さん速いし綺麗というモノ。競技をしているとか、していないとか関係なしに、当時、ロードバイクを選んで乗っていた人っていうのは、競技者でなくとも、ロードバイクに見合ったスキルと経験、速さを持ち合わせていたように思う。それに対して、現代のロードっていうと確かに派手で速そうなバイクにカッコイイスタイルだけれども、そんな様に風体がマッチしているか?というと、寧ろギャップアリアリの方の方が多く、パッと見た印象的にもスキル、経験、ましてや速さなんぞは感じない人の方が多いし、見た目、一流でも乗り姿からオーラを感じる事は稀なのである。そういう現実が、ロードバイクの持つ気高さを無にしているのが寂しいところ。
 これって、単車の世界で80年代の大型車乗りの出す雰囲気が、現代の初心者重量車乗りの下手くそ感に置き換わったのと相通じる感じなのである。

 因みに、当時的な見方でロードバイクの格好良さとは、ランドナー、スポルティーフには成り得ない潔さであり、その潔さは、無駄の無さであり、タイトかつシビアな雰囲気が格好良さだと思っていた。具体的には、フェンダーなんぞ入り込む余地の無いステー、フォークのクリアランスであったり、リアホイールとシートパイプの間の隙間の無さであったり、フロントホイールとダウンチューブの間の隙間の無さだったりするのである。そこに指が一本も入らないという構成が、当時の目で見て渋いって思う点だったと思う。
 どんなに高い材質、コンポで組んでも骨格部分のダルな雰囲気というか間延び感があったら、ロードの潔さは感じれないのである。

 そう思って、今売ってるロードバイクを見ると、そういうタイトな作りのロードバイクっていうのは、案外少ない感じである。特に、フロントホイールとダウンチューブの間隔についてはそういう感じである。ただ、そういう目でロードバイクを見る人っていうのは周りにいないのも事実。勿論、見た目の問題であり、その間隔が広いからダルという訳ではないし、今のトレンドというか、理論とは相容れないのかもしれないが、このタイトな雰囲気っていうのは、今のジャンルでもコンペティブなジャンル、例えば、ピストバイク、トラックレーサーではそういう傾向が強いと思うのである。

 自分の持つカッコイイロード像というと、全体のフォルムで上述の条件を満たしたモデルとなるところだが、そういう目で見ると、今現在、隆盛を誇っているバイクは自分的にいうと、自分が気高さを感じるロードバイクとは違うバイクということにもなるのである。勿論、バイク自体で格好良さが決まるのではないけど、バイクの格好良さは何か?を乗り手が判断する点は、乗り手次第であり、バイクの訴えが乗り手に通じていなければ見出されない訳であり、そういうバイクの潔さをカッコイイの認める人が選んだバイクと、価格とブランドだけで選ばれたバイクっていうのは違うと思う訳だ。そして、なによりも乗って遊ぶモノは、乗り姿を世間に晒す訳であり、乗り物の格好良さを引き立てるような乗り手のオーラが必要って思う今日この頃である。

 乗り手のオーラが乗り物にパワーを与えるような空気感こそが、格好良さに一番欠かせないモノであり、ロードバイクは特にその雰囲気が重要だと思うところである。

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2008年7月20日 (日)

ラングスターのメンテ

 本日、ラングスターTT号のメンテナンスを行った。
 1年と2ヶ月経過だが、今回、二度目のタイヤ交換である。前回は今年の正月だったから、大体半年程度で一本消費のペースだ。今回もIRCのレッドストームライトという軽いスリック系タイヤである。

 さらに、今回はチェーンも交換である。チェーンは今までは純正装着品だったけど、微妙にコマの硬い箇所、柔らかい箇所が散在し、チェーン調整の際に弛ませ気味にしないと厳しい感じがあったためだ。
 で、今回は通称『ブルーチェーン』という報国工業HKKのVERTEXというNJS認定品に交換した。チェーンのチョイスはニシダサイクルさんに適当にお願いしたところ、ニシダサイクルさんからシマダサイクラリーさんに頼んで分けて頂いたモノで、競輪選手が公道練習の際によく使うものらしい。で、実際に交換するとイイ具合であり、コマ間の硬さのばらつきは無いのがイイ具合である。

 そういえば、前回のメインサイト更新からラングスター号も細かく変更している。耳たぶで計測する心拍系をアームパッド間に設置してるし、ブレーキレバーも純正のテクトロの大きなモノからシマノのBL-R400に、そしてチェーンである。

 近々、メインサイトに最新状況を撮影してアップしようと思うところ。

 といいながら、実は車体を交換しようか?という気が少々芽生えてきたところ。

 固定シングルが好きだけど、流行りのクロモリ管、ホリゾンタルスタイルのピスト志向ではなく、どちらかというと高剛性のスローピングスタイル、パイプは丸断面よりも扁平管が好み。本当はアルミ系が好きだけど、材質に特に拘りは無い。ピストというよりも、トラックレーサー系のデザインが好みである。アンカーのカーボンモノコックデザインがカッコイイけど街乗りにはNG。Fuji Track Proが好みだけど、できれば、フレームのみの交換で済ませたいというのもある。フレーム交換で良さそうなのが欲しいところ、、、、。

 なんかないかなぁ、、、、タキザワサイクルさんのHARPのCM-1000ってフレーム、安いし良さそうなんだが、実際のところ、どうなんだろう?

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ひろしま健康づくり県民運動(健民運動)

 昨日、CATVの夜間字幕ニュースで見つけた記事。新聞にも掲載されていた。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200807190008.html

 ってニュースだが、地元広島でも他の地域同様に地域ぐるみでの生活習慣病撲滅の取り組みが行われるようだ、、、、、

 その取り組みは大きく分けて二種類で、一つは、医療体制の維持と確立、もう一つが、県民への啓発の様子。これは他地域でも同じなのだが、自分的には違和感アリアリである。

 この取り組みの内、医療体制の確立、資源の効率運用っていうのは公的機関の取り組みとして敢えて運動テーマに掲げる事でなく、所謂、当然の事のようなモノ。しかし、これは他の公的機関の非効率運用がはびこる世の中では納得できるものだが、県民への啓発活動っていうのが、やはり????????????である。

 最近の記事で、町内会で健康についての講演会開催について?????と思ったのだが、この健康っていうのは、果たして地域ぐるみとか、そういう枠組みの問題なのか?というのが、そもそもの疑問の発端だ。

 何故なら、健康とは個人の問題であり、殆どの健康な人、或いは、不具合を感じていない人にとって、健康を害された人の苦労は、言ってみれば他人事のような感じというのが正直なところだろう。
 そして、個人が健康を本当に意識するのは、自分自身が不健康の様相を呈した際の不具合を自覚して、その先どうなるか?に関心を持ち、危機感を持った時であり、それまでは、なかなか危機意識を持てないし、それ故に、継続性を有する取り組みに対しては持続できないのでは?と思うのである。

 健康ブームということで、健康グッズが大流行だが、基本は楽して効果を得るという方向性であり、それを選ぶ事自体、危機感があるとは思えない。実際、グッズを分類すれば、ダイエット一つでも健康目的というよりも美容目的という方が多いのが現実である。

 自治体単位で健康啓蒙活動は良い事だけど、健康ってのは個人の問題で、その解決は、過去の個人の自己否定による生活改変が必要であり、そのモチベーションは本当の意味での危機感が生まれないと得られないのでは?と思うところである。
 それを、半ば、デブを『メタボ?』って茶化す風潮がまかり通った中で健康を唱っても危機感は伝わらないし、そうならば、本当の意味での健康を得るのは難しいように思うところである。

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2008年7月19日 (土)

キャベツダイエット!

 ○×ダイエットって言葉は殆どの場合、胡散臭さ満開だと思うのだが、数少ない納得系ダイエットが表題のダイエットである。

 特に、サプリ摂取系ダイエットっていうのは、身体によいモノだから、ドンドン取り入れれ!ってスタンスをよく耳にするけど、自分的には有り得ないのである。
 サプリで取り入れる濃縮物質を高濃度で大量に摂取するっていうのは、本来、その物質を生体内で生成するものだったとしても、大量摂取を行うと、間違いなく身体は、その生成機能を放棄するはずであり、それが習慣化したら、必ずや依存症的な関係に陥ると言えよう。

 そんな偏食系、サプリ系ダイエットは信用出来ないのだが、食べ物系で納得出来るのが、この野菜食い系ダイエットである。
 まぁ、ダイエットが目的というよりも、食物繊維をしっかり摂って腸の掃除をしっかり行ってって意味だが、野菜をしっかり食うってのは、メインディッシュ前の場合は、それ自体で満腹感を得ることも出来る訳で、そうなると、食い過ぎは防げるっていうのも道理である。

 そんな当たり前の事なんだが、このキャベツを食事前に食うってのは、実は、コース料理等でサラダを最初に食うっていうのと同じ事であり、コース料理においてサラダを最初に食べるっていうのは、伝統に基づいたマナーなんだろうけど、このマナーっていうのは意図せずして身体にとって良い食順というのを経験から掴んだ結果なのだろうか?と思うのである。

 最近は、現代風のハイテクっぽい語句を崇拝する傾向があるけれど、人体の機構を明らかに出来る程文明が進んでいないのは確かであり、そんな浅い知識のみで身体に色んな負荷を与えることよりも、文化として根付いた行為の方が身体にとって良いのでは?と思う事しばしばである。文化っていうのは、長い生活経験から見つけ出した習慣であり、その習慣というのは、浅はかな技術論よりも遙かに深いもののように思うのである。

 話が脱線したけど、このキャベツダイエットっていうのは、食前にキャベツサラダをしっかり食うということだが、キャベツは結構噛み応えがあるし、味がプレーンで大量に食べる事も出来る野菜だ。食前に野菜を食いまくるっていうのは自分もやっているけど結構お奨めだ。
 しかし、キャベツ食ったら満腹感でメインディッシュを控えるか?っていうと、それは無いのでは?と思う。やはり、キャベツというかサラダばっかり食っていたら、それはそれでバッタになったか?と思うし、味が淡泊すぎて食事が寂しいのも事実。

 このキャベツダイエットの謳い文句で同意できるのは、メインの前に野菜(食物繊維)を食うという点だ。キャベツ食ったら他を食わないのでなく、キャベツもしっかり食って、肉も、飯もしっかり食うというのが大事なのは言うまでもない。キャベツに栄養分が豊富にあれば別だが、キャベツはキャベツ以上でもキャベツ以下でも無いのを忘れない事が大事である。キャベツ食ってトンカツ食う!こういうのが最高である。

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適価とは?

 原油相場価格の上昇による燃料費高騰、それによる、出漁コスト増大による漁師さんの悩みという話ではないが、コストが増大しても卸価格が上げれないがために、そのしわ寄せが全て漁師さんの負担になっている。これは、魚介類価格に燃料価格上昇分が転嫁出来ないのが原因。

 ところで、色んな商品を見ると、殆どが過剰に生産し、陳列されて消費者に選択させる事で、消費意欲を煽り、便利さを与え、、、、、ってスタイルで市場は成立している。

 結果、過剰生産や過剰供給があれば在庫処分という形で価格崩壊を招いたり、或いは、鮮度維持が不可能なモノは大量廃棄という憂き目にあっている。

 在庫処分の赤札特価とか大量廃棄では、本来、商品が生むべき価値が生めない状態であるが、それでも商品制作時にはコストがかかっている。大きな目でみると、このような大量消費システムにおける生産物は一つあたりのコスト負担が実は大きく、利幅が小さいのでは?という気もするところ。まぁ、そんな事より何よりも、貴重な資源が資源価値に見合わない形で流通や廃棄が為される事に強い違和感を感じるところである。

 このような無駄っていうのは、需要予測に見誤りによって生まれるものであったり、消費者の衝動性を期待した商品陳列戦略によって生まれるものであったりするのでは無いだろうか?

 自動車の生産では、仕様が顧客ニーズに応えた形となっているために、殆ど受注後生産に近い状態となっているのだが、その結果が無駄を抑えた競争力の維持にも繋がっている訳であり、他の全ての流通商品が受注後の製造や生産に切り替える事ができれば、利便性が損なわれたとしても、無駄は確実に排除出来て、廃棄物削減にも大きく寄与できるのでは無いだろうか?

 最近、スーパーではカタログ販売による宅配サービスが盛んに行われているが、そのシステムでは期限における受注分を製造元に発注し宅配するという形であり、そこには見込み発注、陳列で生まれる無駄はスーパー側にも発生しない訳であり、商品の梱包等々を考えても、このようなカタログ販売による宅配サービスのようなシステムの方がスマートに感じる。

 無駄を抑える事で、実質生活に貢献する製品率が高くなり、結果的に、自給率等も高くなるだろうし、流通商品の絶対数が小さくなる事で、単価も上昇するのでは無いだろうか?今の時代の利便性追求の考え方が無駄を呼んでいるように思うところである。

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2008年7月18日 (金)

凄く良い自転車って!?

 木曜日、久々に自転車少年と自転車話をした。チョイ前は話す気は全く無かったのだけど、まぁ、最近は本人様が気楽に過ごせるならば!って事で、何でも話をしても良いか?と思っているからである。

 さて、そんな中での話題は良い自転車は?って話。

 自分の回答は、自転車は取り敢えず整備されたモノであれば何でも良いか?という事程度の答えとなる。良い自転車の定義が問題だけど、良い自転車=速い自転車となるとどうか?に対しては、自転車の速さっていうのは、結局乗り手次第であり、乗り手が凄ければ安い自転車でも凄いし、乗り手が今一なら高い自転車でも今一という事。結局、言いたいのは、如何に上手い具合に使えるか?という事であり、使い方というのが一番大事ということなのだが、それを言っちゃぁ続かない、、、、。

 となると、良い自転車とは?という事は、高い自転車か?という話になるのだが、高ければ全て良いとも限らないのが答えである。結局、使い方が一番大事という事ならば、使いやすさという事が善し悪しの重要なファクターとなると思うのが持論である。使いやすさというと、乗り手の自分にとって適切な使い方が楽に行える事であり、それは乗り手によって様々に異なる使い方に如何に合わせているか?が鍵となると思うところである。

 そんな乗り手の希望を細かく調整出来るモノが良い自転車という思いが自分にはあるのである。で、結局は、そんな願いが満たされる自転車が良い自転車なんだが、それが所謂、オーダーメイドのフレームとなる訳だ。
 しかし、オーダーメイドのフレームが全て最高か?というと、全ての願いが適うという事は、乗り手が願いを伝える知識の力を持っていないと何も手に入らないという事にもなる。スケルトンや造作の指定を意味を持ちながらオーダーする、、、、これって結構な経験がいる筈だ。逆に、その辺が解らないならば、敢えてオーダーする価値も無いと言える。

 そう、良い自転車とは、乗り手が熟成されて初めて見えてくるモノだと思うのである。

 しかし、実際は、そこまでも拘って得た良さが、乗り手の満足度に本当に欠かせないモノかどうか?っていうと、多くの人にとっては、気のせいというレベルでは?と思うのも本音である。自分自身、そう思うし、オーダーフレームが世の中に存在し、高価な価格でも生き残っている現実から、そういう価値は確かに存在すると思うのだが、自分自身は、未だ、ビルダーさんにオーダーするに見合った力も知識も備わっていないと正直思うのである。

 そこまでも拘る人っていうのは、もしかたしたらプロ(自転車で飯を食う人)くらいかも、、、って思うのだ。

 自分では、自転車の満足度っていうのは、自分なりの使い方、漕ぎ方が出来るポジションとギア比があればどれも同じように感じれるというレベルであり、それ以外の要素の善し悪しは実感出来ないレベルであり、そうならば、直感的に気に入ったモノが良い自転車って判断しても良いとも思うのである。

 で、こんな相談事に関しての解答は、自分の知っている知識、自分の持っているセンスの範囲で、脳を直感的に刺激して欲しい!って思うモノが凄く良い自転車だろうって解答になったのである。そんな刺激の元がスペックだろうが、名前だろうが、ブランドだろうが、何でも良い。本人が気に入ったモノが本人にとっての最高の品と思うのである。

 ただ、自分的には、構成材料の正体が明確な鋼材系自転車の方がスペック自体からも善し悪しの判断が正確に出来ると思うところである。一意的にカーボンとか、特殊なアルミとかの表記では、ハッキリ言って不明としか言えないのである。カーボンでは、使用繊維は何使っているか?それをシート化する前の開繊工程はどうやったか?作成シートの厚さは幾らか?何層か?樹脂は何か?という要素が明らかでない場合は、見た目カーボンでもクソカーボンって場合が少なくないのである。
 笑い話ではないが、カーボン釣り竿を修理して使ったら、修正部分では全くしならないなんて話は良く聞く話。同じカーボンでも処理工程によって物性は全く違うのが現実だが、カーボンという言葉一つで全てが同じ物性を持つと判断する程、バカではないのである。
 その点、鋼材系材料は、型番で組成、肉厚・・・全て既定値であり、これを以ての判断は当然可能なのであり、選択時において失敗が少ないという安心感があるのである。

 言えるのは、カーボンとか特殊なアルミっていうと、少なくとも、実績材料とは異なる訳であり、鋼材系の実績のある材料よりも少なくとも圧倒的に高価な価格帯で無ければ、従来材料を越えた性能を持っているとは言い難いと想像できるのである。フレーム単体で30万円程度を越えないとマトモな品は無いのでは無いだろうか?

 ただ、そんな微細な違いを気付く人は多分居ない筈であり、本人が最高って思った品が、本人にとって最高に良い品という事で良いように思うのである。

 なお、自分にとって最高な自転車っていうと、自分のポジション、自分のギア比(展開量)が作れる自転車で一番安価なモノが最高な自転車である。

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基準値って?

 健康維持のための血液検査等々の各種検査項目には正常範囲というのが定義されていて、その範囲を逸脱した項目によって疾病状態を推定するっていうのが、まぁ、普通の感覚である。
 この健康な数値ってのは、根拠が何処にあるか?っていうと、実は、考えた事が無いし、その数値が最適であるという根拠も知らないのが正直な所である。一般に基準値が最初にありきであり、その数値から外れたら何が疑われるというのが皆の認識だが、この基準値の絶対性は何を意味するか?っていうと結構難しいものであろう。

 幅があるっていう事からも、基本的には健康というか疾病状態に無い人の検査数値を正常値として定義するという統計的な数値か?と思うけど、実際のところ定かでないのである。

 多くの人の注目のマトであるダイエットでも、効率的な運動強度が幾らで・・・・って話は良く聞くけど、その運動強度を求める上で必要な最高心拍数っていうのもあやふやな場合が多く、そんな曖昧から出た運動強度で●●%・・・・って考えも違和感アリアリだったりする。

 さて、そんな風に考えると、何でも数値っていうのは、その意味が実は非常に解りづらいものだったりするのである。

 そんな中、生活に直結する上で危険を感じる数値が、所謂、衛生基準であったり、環境基準であったり、保険基準という言葉で耳にする数値である。これは原発における放射線量であったり、或いは排出ガスのNox、Sox濃度という数値であったり、或いは、最近流行の風力発電の低周波ノイズだったりする。で、その数値っていうのは、現在の短期的な観測、或いは、極限られた標本検査における異状発生が認められないという程度の数値であり、基準で定められた数値なら大丈夫か?というのとは別の議論ではないか?と思う事しばしばである。

 結局、未知のモノ、予想外の事例は数値で特定化されていないけど、その結果が過去の公害病(水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病・・・・)とか、厚生労働省の医療技術過信による薬害エイズ、薬害肝炎、或いは、帰化生物による環境被害という事態を引き起こしているのが実態である。

 色んな産業界の事業者が、省庁が定義した基準値内だから安全だ!という宣言をする例は非常に多いけど、それはとても危険なように思うところである。その基準は、あくまでも、その時点の限られた知見の判断結果であり、それが即安全という筈が無いのではないだろうか?

 特に、原発誘致自治体、電力会社の言い分として良く聞く環境基準に適合・・・・って言葉は強い違和感を感じるし、その環境基準値自体の信憑性が疑わしいと感じることが多い。
 まぁ、そんな事ばかり言っていたら、新しい事は何も出来なくなると言われかねないが、個人的には、工業、製造業といった産業が主導する社会構造は不要であり、エネルギー開発、土木事業開発なんかは無用ではないだろうか?と思う事が多い。農林水産業主体の従来の価値観から見ると不便な社会の方が、これからの時代にマッチしていると思うところである。

 本当の意味で数値の意味を理解せずに、数値に入った出たという事で、単純に行動するっていうのは、結構なリスクをはらんでいるように思うところだ。

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町内会で講演会、、、、?

 以前、何か知らないけど気合いの入った人が町内会長を務めるようになって、伝えるべき内容が伝わりにくい回覧板を回し始めたって話を記事にした。

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/07/post_d5a7.html

が、その記事だけど、、、、、

今回の回覧は、7月最終日曜日の午後に、団地内に居住する医師に講演依頼を行って生活習慣病の恐さについての講演会をお願いしたので聞きに来い!因みに、聴講費は200円!って内容。

夏休みの日曜日の午後、、、、なかなか人は集まらないだろうし、なんとなくだが、町内会という括りで、このような講演会を開催する事自体にも違和感を感じるのは自分だけだろうか?

 言いたくはないけど、この町内会長さん、最近、この地域に引っ越してきた高齢者の方であり、居住地の近所を見渡すと世代が一回り以上年上の方。自分とは二周り以上は違うような方で、廻りとのコミュニケーションに飢えているようにも見える。
 チョイ前の話だが、山奥で採れたような草を食べれるからって理由で、他の家に分けてあげている事があったのだが、その家が留守か、居留守か知らないけど応対が無い時に、その草を別の家に分け与えるべく訪問を繰り返し、留守の連続の果てに我が家に来た事があるのだが、その行為自体が違和感を感じるところだし、何かのお裾分けで目的の家が留守なら、別の隣、更に隣、、、、、って感覚自体が自分には理解出来ない行為。

 まぁ、団地という集落の結束を高めるためなんだろう、、、って好意的に解釈しようとはしているのだけど、この界隈でこういうのは初体験である。
 因みに、自分は幼稚園の頃からこの界隈で生活をしており、少なくとも、今回のような回覧板綴じ込み戯れ言新聞とか、会費徴収の上での講演会ってのは初めての出来事。
 今回は、受講費用制ということだが、果たして、人が集まるか?仮に、集まらなかったら、講演を依頼した方にも無礼な気がするのだが、、、

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直すか?換えるか?

 水曜日、所要で市内を車で走行中の事、、、、エンジン警告灯が点灯しやがった、、、、。多分、スズキ車の事なんでO2センサーの故障だと思うけど、これ、歴代スズキ車に乗ってきて三回目の事。
不幸にも水曜日はディーラーは休みなんで正確な診断はできないけど、、、、、

 で、今年は車検のエリオ君。このセンサー修理も恐らくは保証期間外なんで実費が必要。車検ではタイヤ交換も必要か?更に、小傷も溜まってきたんで修理しようか?とも考え中なのが今の状態。

 しかし、買い換えたい!って気持ちは実は未だ沸かないのが現実。

 なんといっても、購買意欲をそそるモデルが無いのが原因だ。

 或る程度のラゲッジスペース+MTっていうのが希望だけど、合致するのが極めて少ない。優先順位的にはラゲッジスペースが最優先、ミッションタイプが優先順位第二位というところ。因みに、選定基準を優先順位毎に纏めると、

第一位:ラゲッジスペースに折り畳み自転車+子供自転車を搭載可能
第二位:ミッションタイプはマニュアルミッションを希望
第三位:幅広でないボディサイズ、幅は1750mm以下、出来れば全長は4500mm未満
※勿論、全長がコンパクトでも第一位の条件を満たせばOKである。

 スイスポは、全長が3700mm級でありエリオの-500mmは絶対的にラゲッジ不足なのは間違い無いので、子供二人の四人家族構成では厳しい。SX4は全車ATっていうのがネック、HBはエリオ-100mmの全長でラゲッジが不安。セダンはパッケージ的には結構魅力度は高い。MTが出ないと踏ん切れないけど、保留中。エスクードは幅広すぎ。スズキ以外で候補のプロボックスは嫁の反対で多分無理。レガシーも悪くないけど、ボクサーエンジンに拘りが無い人にとってはネガ要因が多すぎ。

 期待は、エスクードのMCでJ20A搭載車がJ24Bになったのを契機に、是非SX4に!って思いが強いところ。今回のJ24Bは相当気合いの入ったエンジンだから、これは是非とも!というか、既定路線に見えて仕方ないのだ。

国内向けSX4スポーツで検索すると

http://www.carview.co.jp/tas/2008/take_car/suzuki_sx4_suzukisport/default.asp

になるし、海外向けなら

http://ameblo.jp/supercar-style/entry-10077964581.html

ってセダンがヒットする。この辺りがMTで登場してくれれば、グッと来るのが正直なところ。
直して、車検取って、、、、希望の車種が出る迄耐えるか?或いは、現状ラインナップから妥協して選ぶか?

 ところでSX4セダンって車、見た目、ベルタとかフィットアリアと似ている。これは、HBにトランクを追加したデザイン故なんだろうけど、実は、ベルタとかアリアのように5ナンバーコンパクトベースで全長も4300mm級というパッケージに比較すると、幅も高さも全長も実は大幅に凌ぐサイズであり、ベルタとかアリア相手の車格ではないのである。全長は4500mmに迫るサイズで一昔前の2リッタークラスの四気筒のセダンに近いもの。昔のVWゴルフのセダン系のJETTA的な印象を持つのは贔屓目の度が過ぎるか?中身的には相当実用的と思うのは自分だけだろうか?写真を見るとトランクの奥行き、高さとも申し分無いのである。

http://www.autobytel-japan.com/special/sx4sedan/photo/11.cfm

HBもボディサイズの割には大きくラゲッジで判りやすい写真が

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0d/Suzuki_SX4_Kofferraum.JPG

であるのだが、結構広い。

まぁ、セダンで無くともMT出れば、、、、、そんな期待を捨てきれない理由は、、、、↓

http://www.mlit.go.jp/jidosha/nenpi/nenpikouhyou/gjou/suzuki.pdf

 ってところ。この表中のYA、YB、YCがSX4のシャーシ型式であり、YAがHBのFF、YBがHBの4WD、YCがセダンである。で、11が1500cc、41が2000ccなんだが、このYB41って型式認可はMTが2種類、ATが1種類あって、MTの2種類は燃費数値が異なるモノ。一方が13.2km/L、他方が13.6km/Lである。4WDとは別に燃費性能が分けて申請しているのが、やはり不自然。このSX4の13.2km/LってMT仕様車が一体何か?が気になってる。

 因みに、この国土交通省のサイトの次回更新が平成20年8月1日ということで、チョット期待してたりするのだ。

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2008年7月17日 (木)

頑張れ生産者

 先の記事で漁師さんの大変さを書きながら思った事。

 値段の決定権が漁師さんに無いのは、やはりナンセンスだ。因みに、一部には、魚の価格を上げたら日本人の魚離れに拍車が掛かるって話を漁連のエライ人がしてたけど、これもどうだか、、、、。

 我慢較べって事を言ったら身も蓋もないけど、出漁制限して自分で食いたいだけ獲って、買いたいという要望に対して受注的に漁獲するような行動に出ても良いのでは無いだろうか?

 こんな事を言うのは、価格の決定権は何処にある?ってところで最近似たような感覚に陥った事があるからだ。似たような感覚とは、自分の製作した唯一無二の新素材に対して、これを商品として使いたい業者さんが買い付けに来る訳だが、その営業マンの口調としては、安くならないなら、他から買っても良い!って文言で来る訳だが、価格勝負するつもりはサラサラ無い訳であり、損してまで売る気は無いのである。買って頂くって日本人的なお客様は神様です的考え方よりも、自信を持ったモノを生んで、使って貰うならば価格は幾ら!って殿様商売で良いのでは?と思ったのが、つい先日感じた感覚だ。

 因みに、どんな行為であっても生産活動、開発活動というのは、価値を生む行動であり、生み出した価値は、絶対的に永遠に無料で使えるモノで無ければ、価値が無くなるものでも無いのである。その価値から利益を享受すべきは、漁師さんのような生産者、或いは、青色LEDならば、その発明者のような方である。
 このような価値を生んだ人っていうのは、生んだ価値の価格は本人が付けるべきであり、他人や市場の関与を受ける必要は無いのではないだろうか?その価値を広めたいという意識が価値を生んだ人間にあるのならば、その人間主導で(市場主導ではなく)価格付けをすれば良いのである。

 生み出した価値や成果っていうのは、生み出した人が潤わなければ、将来に渡り新たに価値を生み出したいという人が少なくなるようにも思うところである。
 個人的には、青色LEDの発明者の方、或いは、電気ひげそり機の刃の形状の発明家、磁気記録媒体の発明者、漁師、農家の方っていうのは、そのモノを生み出す行為が生み出す価値に自信を持って、社会に挑んで欲しいと思うところである。少なくとも、どんな生産者の方であっても自身の得た収穫に自信をもっていれば、或る程度は勝負に出ても良いのでは無いだろうか?

 個人的には、魚介類の価格が高騰しても食べたければ買うし、そういう魚介類を獲っても漁師さんの生計が成り立たないという理由で、市場から消えてしまうくらいなら、高くても残って欲しいところである。それは、魚介類に限らず、米でも何でも同じであり、価値があれば、それに応じて価格が上昇するっていうのは至って普通の姿である。
 仮に、収穫に保存が利くのなら、収穫の後に在庫が尽きるまで遊んで過ごされても全くOKと思うのである。価値あるモノを、取れる時期にしっかり獲って、無くなったら漁に出る。これが自然の摂理であり、これは、農業、漁業に限らず、研究、製造についても言える事である。言葉としては、成果の上にアグラをかくという悪い意味合いにも取れるけど、全然悪いものではなく、アグラがかける成果っていうのは、言ってみれば在庫みたいなモノである。

 生鮮品を扱う世界では、そのような在庫という感覚が少ないようだけど、今の問題を解決するには、テレビでも放送されていたけど、賞味期限という概念を消し去る保管技術であるCAS冷凍技術等も駆使すれば、農業、水産業の姿も一変するかもしれない。安価に収穫可能な時期に作業分担を特化させる等の漁を行い、保存可能なモノは保存し、飼育可能なものは飼育し、オーダーに併せて出荷するという仕組みになれば、当然、生産コストも低下するだろうし、市場にニーズに併せた商品供給体制等の確立や、業界として結束すれば価格の主導権だった奪えるのでは?と思ったりするのである。

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原油高騰で漁出れん!から見た社会の構図

 って訴えの集会を開いているニュースが7/15のテレビニュースの一番であろうか?

 原油価格の高騰で、漁船が使用する重油のリッター単価が従来の30円程度から100円オーバーという約3倍の高騰により出漁時の船の燃料代も賄えないっていうのが問題。

 この問題に対して、漁連に燃料費補助を!って動きも見え隠れするけど、燃料費高騰によってダメージを受けている産業は他にも数多くあって、これまた簡単に燃料費補助って話しにならないというニュースも聞いたところ。

 普通に考えれば、原価が高騰する訳だから、この原価が商品価格に転嫁されるべきって思うのだが、漁業の場合は、セリという仕組みから魚の価格決定に漁業者が関与できないというのがシステム上の問題なんだそうだ。
 まぁ、セリというシステムの問題点ということだが、実は、宅急便等の配送料にしても業界の競争によって配送コストの高騰を配送料に転嫁できないらしいし、ガソリンスタンドのガソリン価格の高騰も、過剰競争によって、やはり高騰分全てを価格には転嫁できないという問題があるそうだ。

 食料品の高騰っていうと、生活を直撃するのは確かだけど、その産業に従事する人だけに負担が集中するというシステム自体は、やはり問題を抱えていると言わざるを得ない。本来なら実を生むところが享受を得るという社会が理想的だが、役人や官僚、省庁等の税や公費の執行状況から見ても不条理が蔓延しているのが、この世の中である。

 世の中の構図を客観的に眺めると、このような価格決定においても主導権を持つモノ、持たざるモノによって実益や評価の再配分では非常に大きな不公平感が生まれるモノが多い。それも世の中の定めといってしまえば、仕方ないけど、本来、得とか損という言葉は、得っていうのは取り組みや努力に対して、想定外の利益や評価を得る事を『得』っていい、逆に、報われない場合を『損』っていうのだろう。今の世の中は、このような損と得ってモノが偏ったままで、損する人はずっと損するという構図が不条理を生んでいるようにも思うところである。

 このような不条理は、どんな世界でもあることだろうけど、実際は、そんな不条理に対して折り合いを付けながら皆さん暮らしている訳だ。そう言ってしまえば、身も蓋もないけど、損な役回りをしている方にしても、やはり、どこかで折り合いを付けるのだろう。この折り合いって言葉が、業界や組織で蔓延する事を防ぐっていうのが、今の政府や組織、団体、業界の方針付けを行う権限を持つ方に求められているのである。

 損な役回りに対して、みんなが折り合いを付けるという意識に走ったとすれば、その時こそが、カタストロフがやってくるように思う。何故ならば、不公平感による不満が鬱積したり、損な役回りに対して我慢の限界を超えた時、殆どの人は実を生む行動を意識的に制限したり、放棄することで損を感じないように講じるのであり、そうなった時には、全体が必要としている実を得ることが誰にも出来なくなるからであり、今の場合、漁師の皆さんが漁を辞めてしまうと、食卓から魚が消えて無くなり、強いては、遠洋での漁業自体が行われなくなり、果ては、海洋資源の重要度認識も下がり、周辺の資源争奪に対しても後手の対応しかとれなくなるという流れが生まれるかも知れないし、そういう状態が固定化した時が、いわゆるカタストロフって状態となるかもしれない。

 本来、自由競争社会っていうのは、取り組みに応じた見返りが万人に等しく生まれるという原則の上に成り立つモノ。その対局にあるのが、その原則に反した度合が大きな社会で、つまりは取り組んだモノが損をして、旨味は一部の特権階級だけが吸い取る腐敗社会である。因みに、共産主義的、或いは、社会主義的な考えという理想論は、平等の定義にもよるけど、原則万人に利益が等しく享受される社会。

 今の社会構造を眺めると、利権社会というモノであり、既に自由主義的とは言い難いのが実状であり、最近の矛盾、不景気、、、、こんな歪みっていうのは、本来の形とは異なる損と得のアンバランスから生まれたモノのようだ。

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めざましテレビ、真夏の大激走

 7/15というと、フジテレビ系列で放送されている『めざましテレビ』のメインキャスターである大塚範一さんが、『はなチャリ』と名付けられた3輪自転車に乗って100kmの距離を激走するというイベントが紹介されていた。

 炎天下の中、重量級の三輪自転車で100kmを走るっていうのは、如何にメディカルチェックを行って、サポーターの支援があったとしても、この9月に還暦を迎えられる方にとっては過酷な企画と言えなくもない。通常の番組スタートに併せて午前5時半頃スタートで、この15周年企画の特別番組枠(午後7時~9時)にゴールを想定しての企画で、企画当初から15時間程度の時間を想定していたようで、実際の番組でも、その通りに進んでいた事から、周囲のサポート体制も万全だったようだ。

 ところで、今回の企画とは違うけど、NTV系の24時間テレビでもチャリティーマラソンという名の過酷の企画が恒例となっている。

 このような企画は、ハードな企画に立ち向かう出演者って構図で、確かに、頑張り感の演出には効果的で、感動の涙を誘うには打ってつけだとは思うけど、その演出狙いの行き過ぎの感が否めないでもない。

 萩本欽一さんがマラソンにチャレンジした時も喫煙家の高齢者で運動習慣のあまり無い方に、炎天下の中でのマラソンっていう発想も少々危険過ぎって感じを受けたのが正直なところ。
 今回のめざましの大塚さんの真夏の大激走でも炎天下を自転車で走るっていうのは、下手すると命にも関わる訳であり、少々複雑な気持ちとなるのが偽らざる感想である。

 実際に、この企画を担ってガンバル方は一番大変だったんだろうけど、本当は、その企画を行う局から、この企画によって問題が起きないように!って釘を指されて、放送されることなく、出演者の方の健康を最大限に留意しながら、局の企画に沿った結果が得られるようにサポートする周辺スタッフ、メディカルトレーナーの方が一番の功労者なのかなぁ?と思ったりするのである。

 何事も、表に出てきたり、企画する大きな組織よりも、そういう裏方さんが実は一番苦労されているように思うのである。
 今年の夏になり、各局から似たような催しが開催されるだろうけど、廻りの人っていうのは、事故は絶対NGで、必ず成功が要求されている中で行動している筈。ご苦労な事である。

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2008年7月16日 (水)

個人と公共

 個人的には今恵まれた状況にあると思うのだが、その財を生むフィールドっていうのは、世界でいう環境問題の古いシステムを維持する機構に属しているというのが、内面に葛藤を生んでいるのが自分でも判るところ。

 どんなフィールドにあっても他人が思い付かない事を作り出すっていうのが趣味?のようなものだけど、少なくとも給料を貰う上で組織に提供する知恵っていうのは、組織が利益を得るための道具に使われる訳で、その組織が旧態然とした仕組みの上の組織だとすれば、究極的には、自分の行った事っていうのは、旧態然とした仕組みにとって都合の良い仕組みという事になる。

 まぁ、職業っていうのは、そういうものかもしれないが、儲かったとしても世界の新しい価値観とは対局のフィールドで儲ける事っていうのは微妙に抵抗感を感じてしまうものでもある。
 例えば、どんな産業でも言い方によっては正義の味方的な表現は出来る。電力会社が温暖化防止のために原発をアピールするっていうのは、少し論点がずれているのと同じように、どんな会社であっても、言い方によっては良い会社!って言う事が出来る。

 そんな感覚があるのだが、仮に誰も作れないモノを作って楽しむのなら、そんな言い方によってはという制限で正義の味方をアピールしなくても、本質的に貢献できるモノを作るフィールドで知恵を提供してみたいと思う今日この頃である。

 例えば、先の話ではないが、先頃完成した完全無潤滑状況~土砂摩耗領域で使用可能な摺動機構を有する機械部品は、旧態然とした化石燃料をハンドリングする流体機械に適用するでなく、どちらかというと、温暖化による海水面上昇、或いは、高潮被害、洪水被害で生活が脅かされる人の生活を守るための流体機械に適用するためだけに使いたいという気もするのである。一方で、化石燃料の消費を促進するに使い、一方で、それによる弊害を守る側にも使う。
 今、両方の企業に商品を卸しているのだけど、利益はさておき、一方の本質的正義のためだけに知恵を提供する方が精神的に納得できる気がするところである。

 現実問題、そんな綺麗事ばかりでは貧乏くじを引くのだろうけど、貧乏か裕福か?の前に、納得出来るか否か?の方が大事なような気がするのである。
 そうは言っても、家族(嫁、子)が居ると、もう少しバックボーンをしっかりしておきたいところでもある。今、先のシステムを更に高度に成立させるためのシステムプロトを製作中であるが、これの拡販、宣伝に努め、バックボーンが確固としたモノとなる目処を付けるのが行動を起こす上で必要な事かも知れない。

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領土問題?

 どこの国もそうだが、日本も近隣諸国と領土問題を抱えている。
 ロシアとは北方領土問題、中国とは尖閣諸島、韓国とは竹島、、、ただ、これは日本に住んでいる日本人或いはマスコミが領土問題として取り上げて、そういう問題が存在していると日本人が思っているだけかもしれない。もしかしたら、対象相手国の国民の間の認識としては問題としていないかもしれない。

 何れの案件も、相手国の実効支配が為されて長きに渡るのだが、正直、そういう状況迄放置していたのも政府の政策であり、この状況に対して問題がどうのこうのと言うのは遅すぎという感がしないでもない。
 少なくとも、実効支配が為される前には、相手国が実効支配を行う意志がある段階で、相手国にとっても火種を抱えた領土という認識があった筈だが、その時点で、少なくとも実効支配を差し止めるような行動に出なかった時点で、日本の負けではないだろうか?

 まぁ、腰抜け外交とか政策と言ってしまえば終わりだけど、実効支配が為された状態から外交努力で問題が解決するとは思えないのが正直なところ。恐らくは、政府も担当省庁もそういう認識だろうけど、それでも尚、領土問題が存在するというアピールを内外に対して行うというのは、案外、国民レベルでは認識外の全く別の意志があるのか?とも思えるのである。

 まぁ、何にしろ、実質的に領土問題と騒いだところで、実効支配が事実としてあり、その期間が長くなる程、どんなに騒いでも日本政府が望んだ形にはならないのが関の山だろう。腰抜け外交の結果だろうけど、太平洋戦争の敗戦国であり、その後に領土問題として残っていたこれらの土地に、実効支配を受ける状況に対して何も手を打てなかった事を責める事も出来ないのだろう。

 しかし、今になってマスコミのニュースで取り上げたり、或いは、教科書に記載する等の行為を行うっていうのは、ホントの意志は何処にあるのだろうか?先にも述べたように、実効支配を覆す力には永遠にならないと思うけど、こういう行為をするのは、国民に対して隣国への意識を変えさせようというのであろうか?確かに、現代日本人の平和ボケの度合いは世界で類を見ない程だろうけど、、、、。

 実効支配を受けて、水産資源でも地下資源でも、実質的には、その問題地域による享受を受けていない状態だが、その資源の利用に対して実行力を行使する気がないのも事実であり、右よりな目線から見るとナンセンスだろうが、多くの人にとっては、その地域からの享受は無くても構わないと思う意識の方が多いように思う。

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最終兵器、検討中!

 なんだかんだ言って、物欲に負けてしまう今日この頃。
 で、メインマシンとして最後の一台?を計画しようかなぁと企んでいる。(サブマシンは不明、、、、)

 メインマシンはやはりロードバイクだ。ロードバイクでも、基本はフィットネスバイクであり、楽に走り続ける事を目標にしたモデル。
 雛形としては、過去乗ってきたモデルを現代に再現したベンチマークである小林製の赤ラベル531パイプで構成されたロードバイクを基本に、これを現代的にした仕様である。

 使うパッケージは531ロードとは全く異なる構成になるだろうけど、自分が思う自転車への拘り?としての展開量、ポジションをそのまま以降させるような仕様で、そんな仕様を満たす既製品、ブランド品は存在しないので、そういう構成が出来るようにビルダーさんとしっかり打ち合わせしながら作ってみたくもある。
 但し、パーツ群の使い方はパーツメーカーの保証範囲では無い組み合わせになりそう。
 何気なくパーツ群を見つめていて、既存のコンポーネントの構成を眺めていたら、531ロードと殆ど同じ構成が作れそうな事に気が付いたのが、この企みの動機である。

 見た目的な拘り?というと、フロントタイヤとダウンチューブの隙間を極力詰めた構成で、シートパイプとリアタイヤの隙間も同じく極力詰めた構成という形で、ロードバイクとしては極力コンパクトに作るつもり。トップ長は520mm、シートパイプのCTで530mmと言うところまで決まり。

 パーツ群のグレードは最新のDURAはカーボンっぽいらしいんで没。ホイール周りも今風に廉価な完組ホイールを使うし、パーツグレードもセカンドグレード、サードグレードの混成仕様。拘りとしてはカーボンパーツ類はなるべく使わない方針である。

 531ロードの構成、ラングスターっぽい遊び方が出来るモデル。そんなモデルを考えている。

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2008年7月15日 (火)

乗り換え、改造=機材への好奇心、期待感!

 ふと、振り返ってみる。
 例えばバイク、色んな単車に乗り換えてきた。バイクの買い換える動機で覚えているのは、

・峠の上りでパワー不足→排気量アップ
・峠でバンク角不足でスタンド接地、マフラー破れ→スタンド撤去、マフラー交換
・峠で切り返しが重い→軽量化、ツイン、シングル志向、2スト志向化

って感じ。そういう方向で行きながらも、知らない世界への関心も捨てきれず、

・マルチは速いの?→リッターマルチを試験的購入
・流行のレプリカは?→取り敢えず購入、しかし即売
・他のビッグ2ストは?→一通り買って比較後売却

って感じ。更には、お気に入りのモデルは意味もなく(永遠に乗るために)複数購入

・RZ350Rに嵌って→RZ系一通り購入
・S4ガンマに拘って→未だに買い増し中、、、、
・Z200系シングルの独特な鼓動感に嵌って→同系を4台購入
・CS250シングルのパンチ力に嵌って→二台購入
・2スト楽しい!?→全クラス制覇中、、、、

って感じ。

で、今の思いは、単車の楽しさは、基本は下りのタイトな峠道が一番楽しい。楽しさの理由は難しい?場面で自在に操る事。で、単車に望むのは、軽さとレスポンス、それに実用域で2速~4速でパワーバンドに一致するクラスのみ。これさえあれば他はどうでも良いって価値観。自分にとっては、ハーレーよりも、ドカよりも、BMよりも、最新のSSよりも、、、、何よりも2ストレプリカが好み。次点は、400cc以下の4stシングル、650cc前後のミドルVツイン。それ以外は眼中に無いのが結論。200台以上の単車を乗り換えた上での到達した答えである。

 次に自転車を振り返る。自転車も昔の段階で、BMX、BTR、昔のクロモリピスト、ロード、スポルティーフ、ランドナー、パスハンターの一通りの車型を制覇。当時的には、DURA ACE、シュパーブプロ、或いは、カンパのレコード、ユーレーのドッパー、ジュビリー等々のブランドは一通りフルで組んでも見た。パイプにしてもレイノルズ531を最高峰に、石渡019、017とか、ビルダーもTOEI、ZUNOW、、、、でも、、、、結局、昔の段階で得た結論も何乗っても答えは一緒って事。
 復活したこの二年の一番大きな趣味の原動力は、当時手を出さなかった(ミニベロの出始めでジャンル自体存在しなかった)小径折り畳みって自転車とアルミフレームの固定シングル(ピストといえばクロモリ!これは昔からそう)ってモデルは、どんなの?って興味だけど、実際、乗ってみると、まぁ、過去の体験したモデルと何ら変わる事は無いし、結果的に感じる風も、同じって事。ベンチマーク的に昔パッケージで組んだモデルと今乗り比べても変化無い訳であり、、、、、
 改めて出した結論は、自転車で楽しいのは自分に身体能力に対して高い負荷を与え続ける事。そして、その負荷を風という形で感じる事だけど、その風は、車型、ブランドでは変わらないモノ。その違いを感じるには、何よりも、ギア比(実質展開量)とポジションに帰結して、それを揃えれば何乗っても一緒って結論で、これは昔の答えと全く同じ答え。

 答えが出た今、今後、趣味との付き合いはどうか?というと、自分なりの答えを求めるための試行錯誤って部分は大きく減るように思う。単車の場合は、最近はめっきりと新しいジャンルに飛び込もうって気は無いし、どちらかというと、操って楽しいと感じる爽快感を得るために乗るって感じだし、自転車の場合も、漕いで何時もと同じ結果が得られるという事を確認するために乗るって感じである。

 少なくとも機材への期待感というのは、今は単車でも自転車でも殆ど皆無である。自分に取って拘るべきポイントが何か?っていうのは定まっており、それさえ満たされていれば、今度は逆に、如何に他の部分を落とせるか?の方が関心が強いところ。その上で、自分の望む単車の自由度、自転車の風が、どこまで落としても変わらず感じる事が出来るか?という方が関心が強い。

 単車ならば、傍目に見て、如何にも走りそうにない、如何にも無理ってレベルで、予想外の自由度を実現できるか?って方が楽しいし、自転車でも、一般の価値観で、それは走らないだろう!ってレベルで、ビックリ風を吹かす方が楽しいのである。

 今までの経験上?の話だけど、かっとび系ツーリングに行くと、ガンマだから速いね!とか、或いは、タイヤのグリップがイイから速いね!とか、そういうバカが身の回りに居たし、そういう戯れ言をほざく素人っていうのは、やはり何時も居る。特にそういう意識を持つ奴ってのは、やはり自分に自信を持っていらっしゃる(二輪車乗りは皆自信家だろう、自分もそうだ、、、)様で、仮に、挑発行動に挫けたりすると、殆ど、機材やマシンが良いね!って方向に話を持ってくる奴が多いのだが、そういう空気が嫌いであり、有無を言わさないような機材や愛車を選びたいって気持ちが奥にあるのである。因みに、そういう輩とのツーリングのためにマグナム80なんかを調達したりしただけだ。

 大きなお世話、勝手な意見だけど、へっぴり腰のおっかなビックリ乗ってるリッターSSとか、肉で身体の動かないレプリカバイクとか、或いは、デップリお腹でペダリングできない超軽量高級ロードバイクとか、、、、そんなのが自分の思いでは一番格好悪いのであり、そういう人が多いが故に、そういう人と同じ価値観で似たようなモノを選ぶという考えに抵抗を感じるという天の邪鬼的な考えもあるのだ。行ってみれば、ブームを形成するマジョリティの意見というか価値観に属するというのが嫌というのもあるのだ。ブームっていうのは注目度が高い事で、主張無しに人が集まるから人が更に集まるというモノであり、そういうブームでの価値観というと、形重視っていうのが多数派であり、その多数派にしても、それなりの自信を持った連中が、例えばリッターSSを選んだり、レプリカメット、レプリカツナギを着たり、自転車ならプロレベルの高級車両に乗ったり、レプリカ装備を身に付けたりするのである。そういうブームの中での大多数の意識っていうのは、イイモノが願いを叶えてくれる!願いが叶わないのはモノが悪いから!っていうのも少なくない。そういう流れで人目を惹くようなモノは敢えて選びたくないのである。良い結果がモノの御陰って見られる事自体不愉快なのである。

 自分にとって必要なのはオリジナリティであり、主義主張であり、自分だけの目的に併せた自分で出した答えに従うという事である。最低限の希望を満たした機材で望む結果を手に入れるっていうのが好みである。

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2008年7月14日 (月)

流行ピスト乗りを見て、、、、

 この週末、ラングスターTT号でホームコースを周回していて初めて見た生き物が、ここ最近流行しているって言われているピストバイク乗りである。
 勿論、競技者のような本格的な人という意味でなく、ファッションバイクとしてのピスト乗りの話。安佐大橋から安芸大橋に到る過程で追いついたバイクがクロモリのフロントブレーキオンリーのピストバイクに乗った若者だ。このサイクリストは安芸大橋の信号で直ぐに川の対岸側に行っちゃったんで併走することはなかったのだが、モロに素人っぽさを感じたポイントが一つ。乗り方云々は走り始めしか見てないので何とも言えないけど、トークリップに足を滑り込ます間の悪さである。見て吹き出しそうになったってのが正直な感想。足を一生懸命見ながら、反対に向いたペダルをつま先をチョンチョンつつきながら一生懸命入れようとする感じ。勿論、そんな行為故に、多分フリーホイール仕様のシングルギアバイクだろうけど、、、、蹴返し(ペダルスピン)の使い方、足の入れ方を知らないのだろうか?普通、クランクが1/4回転もすれば自然に入るようなものなんだけど、、、、

 まぁ、サイクリスト自体の格好もショルダーバック?を掛けて、半ズボンで脹ら脛露出しているものの、超貧相な足でどうにも走りそうに無い感じだったけど、正直、見苦しい印象の方が大である。

 ファッションピスト乗りと機材マニア系ロード乗りのどっちがマシか?っていうと、なかなか判定しづらいところ。ファッションピスト乗りっていうと、概ね20代未満の決して裕福でない若い世代が多く、機材マニア系ロード趣味な方っていうのは、概ね40代以上で脂肪や贅肉といった肉付きも豊かでメタボチックな機材誇示系オッサン世代が多いところ。

 ブランド物のロードバイクもファッションピストもブームだけど、このブームは機材スポーツ人気というよりも、スポーツ機材収集人気というもので、決してスポーツとしてのブームではなく、文系マニア的なブームであるのは間違い無いところ。

 中には、スポーツだ!って自負している人も居るけど、機材スポーツでは機材を使っているだけでは乗り手が鍛えられる訳ではない。単車にしろ自転車にしろ、機材を使わない基礎的なウエイトトレーニングとか持久系トレーニングをハードに追い込んでいるのが現実だが、本格スポーツだ!と言いながら、その辺走っている人は、あくまでも、その辺走っているだけで、運動密度から見ると相当低い行動しているだけとも思える今日この頃。

 実際、過去を思い出してみても、体育会系自転車部なんかでは自転車に乗っている時間よりも、基礎トレしている時間の方が遙かに長いし、、、最近、頻繁に使ってる心拍モニターとかでカロリー消費計算すると、水泳なんかに較べると自転車なんぞは、時間あたりの運動量(消費エネルギー量)は半分以下っていうのを目の当たりにしているから、そう思うところ。

 まぁ、ファッションピストだろうが、ロード機材マニアだろうが、スポーツ機材趣味でブツを扱うのなら、せめて、そのブツをスマートに扱えるくらいに為らないと、、、、って思うところ。まるで、免許取り立てがF1に乗っているような感じか?

 ところで、ブーム如何に関わらず、相変わらず、固定シングル、フルサイズロードで物欲が芽生えているのは事実だが、実は、最近は自転車に乗りまくる!って意欲が下がり気味なのである。趣味にのめり込む推進力というのは、何はともあれ好奇心であり、好奇の対象というか、ベクトルは、どうやったら上手い具合に扱えるか?機能を発揮できるか?というものだが、自身、他人に対して優れているって意識は無いけど、今時点で自分レベルで思い付く疑問点というか見定める事が出来る目標っていうのが見えにくくなってきたのである。

 振り返れば、学生の頃は自転車に乗って色んな経験を積む毎に、或いは、他のスポーツを通して基礎体力を付ける毎に自分でも自覚できる程に自転車を走らせて感じる風が変化していたのだが、、、、、20年のブランクを経て自転車に復活してからは、感じる風が殆ど変わらない事が悩みの種である。
 20年のブランクとは言っても、今回の自転車復活時には、既に体脂肪率は一桁、筋力、持久力は筋トレ+水泳によって継続維持していたものであり、ここ二年程は体力的に変化は無いところ。それ故に、今の体力から自転車に乗って感じる風っていうのは、もう変わらないのでは?って思っているのだ。他人より遅いとか速いではなく、今の自分は昔の自分と較べてどうか?を冷静に比較すると、殆ど昔レベルにはなっている事が判るのだが、これが今以上に進化するか?っていうと、今の自転車習慣の上に得た能力を使った上でのコースラップ、身体能力、最高速度、巡航速度を冷静に見ると、これ以上にはならない自信があるのである。

 これは、実は昨年あたりから感じていた事だけど、この2年間凝りずに続けれたのは、昔とは機材(構造、ジャンル)が大きく変化して、新しい素材が出てきて、新しい車型が出てきたのを体感してみたいという好奇心によるところが非常に大きいのだが、今の段階で、当時体験しなかったエアロアタッチメントを装備したバイクとか、折り畳み自転車で一通り遊んだ今は、殆ど知らないジャンルが無くなっており、当時の思い(所詮、自転車、何でも一緒で、ギア比とポジションだけで大抵の動力性能(感じる風)は決まるって持論、少なくとも自分が望む風の変化はブランドや高級品を纏っても手に入れる事は不可能であり、頼りになるのは自分の身体能力と経験のみ!)が確信に変わっただけであり、既に今更何?って冷めた感覚が出つつあるのは事実だ。

 そういう思いがありながら、接していれば物欲が沸き続けるのも事実であり、このまま物欲に任せて買い漁っていくと、自分の一番なりたくない存在であるスポーツ機材マニアで機材自慢するオッサンとか、ファッションピスト乗り的な流行な格好重視のクロモリピスト乗りになりそうで、ちょっぴり恐いのである。知らずの間に主義が変質するっていうのが一番恐いのである。実は単車趣味においても、ドカティ、最新のSSバイクに走らないのは自分の単車に対する意識、単車の楽しさは軽さ、レスポンス、使用環境に併せた設計速度が最重要という拘りで、敢えて、2スト、ミドルツイン、ライトシングルに拘っているのと同様だ。

 そう、この週末に見たファッションピストバイク乗りを見て、あんな風にはなりたくないなぁ、、、と思ったのである。更に言えば、高級ロードバイクに乗りながら挑発行動に奔りながらも失速する連中のようにもなりたく無いのである。この思い、実は、磨くだけのSS乗り、ドカ乗りになりたくないって感情と同じものなのである。

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2008年7月13日 (日)

アゲインスト

 今日は午後2時過ぎからという、通常より遅めの時間帯からCR走行午後の部を行った。往路は結構な追い風、しかし復路は相当な向かい風という状況である。

 大抵、午前の部では往路が向かい風っぽく、復路が追い風っぽくなるのが、その反対であり、更には、午後の方が風が強いのである。

 そんな状況で、朝がラングスターTT号、午後がオ・モイヨWW号で出掛ける。そんな日常だけど、最近思うことがある。
 追い風は兎も角、向かい風の事。ラングスターの場合、エアロアタッチメントであるDHバーの御陰で向かい風も楽々!?って思っていたのだが、今日はオ・モイヨWWでも向かい風の限界はDHバー装備のラングスターとあんまり変わらない感じである。で、その限界は?というと、吹きさらしの川沿い堤防上の道路でも大体35km/h程度というところ。この程度の速度は何とか維持継続できる感じであり、その速度の限界ってのは、DHバーの有無によらない感じである。

 そして、この限界っていうのは、結局は自分の脚力と心肺機能によって決まる数値なんだと思う。殆ど機材は無関係なんだろう。そして、自分の身体では、いつも走る道の向かい風での限界は35km/h程度ということなんだろうか?と、そんな事を考えた所である。

 因みに、そんな向かい風と格闘していた他の自転車は、TREK、コルナゴ、キャノンデール、クラインってモデルが居たけど、結局、皆さんの限界は機材の限界でなく乗り手の限界だったんだろうと思ったところ。

 そして、自分の限界は、恐らく、どんなスーパーな機材を用いても、その限界は今と変わらないのだろう、、、、自転車趣味に復活して二年、その間、機材は凄く進歩した!って話に胸躍らせて!?いたのだけど、結局、機材の進歩は見た目?だけで、機材から得られるアウトプットは乗り手次第って事は昔も今も変わらない。この2年間で知らない自転車、未体験の構成を買って試してみたけど、結局、得た答えは全て同じ。機材で答えは変わらないということ。今回購入したのは、過去に買ってないアルミ固定シングルとか、折り畳み系ミニベロ、エラストマーサス付きモデル、ベンチマークに昔的構成の531ロードだけど、どれ乗っても答えは一緒。笑える。

 なんていうか、これだけ頻繁に走っている訳だが、明らかに異次元の走りを見せてくれるような、最新の構成の乗り手っていうのに出会う事が出来れば、自身、好奇心を持てそうなのだが、最近は、この世界での好奇心が薄れつつあるのが感じられるのが寂しいところ。

 向かい風では、そんな限界?がよく判るので、結構楽しい!?

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自然治癒力維持への相反因子

 自分の考えでは、基本的な人間の生活環境でもたらされた身体の不具合っていうのは、初期段階では原則、放置プレーという考え方である。

 但し、人間の本質的な生活環境以外の要因で抱える不具合や、不具合に気付かずに疾患が重症化したような場合は、医療行為に依存するという考え方だ。

 例えば、話題の生活習慣病だが、これは重大疾病である糖尿病、脳梗塞、心筋梗塞に到る前段の高血圧、血液成分値異状への序章であり、その兆候が検査数値の乱れや肥満という初期症状を呈したモノと考えており、それ故に、自覚症状のない生活習慣病状態っていうのは、その疾病系統では初期症状故に、医療行為に掛かる必要が無いという判断だ。

 日本人の死亡原因のトップに位置する癌は、癌の発生が正常細胞の変異によるもので、変異の理由が細胞にとっての異状な環境という説を考えると、細胞にとって異状化する環境というのは、現代人の文明生活による本質外の環境負荷によってもたらされているのでは?と思っている。判りやすい例が、野菜不足による消化器系がダメージを受けて生じるポリープ、癌、或いは、喫煙習慣による呼吸器系の癌、更には、強度の紫外線負荷による皮膚の癌が思い浮かぶけど、癌という異状細胞は、古代人の生活では生まれなかったモノでは?という思いが強いのである。それ故に、癌っていうのは、無自覚でも受ける異状環境負荷によって作られるモノでは?という意識故に、早期発見、早期治療を心掛けたいと思うのである。

 もっと身近な例では、怪我、骨折等があるけど、骨折にしても人間の本質的な能力を使った生活の範囲では、殆ど骨折なんぞ有り得ないのである。人間が自分の身体を使った動きの範囲で受ける損傷の程度は知れている場合が多いけど、自転車、バイク、車等々の交通手段で身体能力以上の速度からの衝撃で受ける場合が多い訳で、人体の想定外の負荷による骨折等の修理?は、やはり人為的な行為が必要だろう。

 しかし、生活習慣病と同様に、普通に歩いたり、走ったりする中で遭遇する怪我による損傷、具体的には、切り傷、擦り傷という外傷については、人間の本質的行為で普通に遭遇するトラブル事例であり、そのような本質的活動過程で受ける怪我は、人為的な医療行為っていうのは殆ど不要ではないか?と思うのである。
 大抵の外傷は、放ってたら勝手に治るのである。

 生活習慣病にしろ、軽傷に属する外傷にしろ、人間の本来の機能のみを使う生活で受けるトラブルっていうのは、案外、医者に掛かる必要もなく、自然治癒力で治すっていうのが一番なように思う。
 そして、そのような自然治癒力っていうのは、人間本来に備わっている力であり、その本来の力っていうのは、複雑な人間の生体機能がしっかり機能するには、人間の機能のネットワークの殆どが未知な現代では、軽度な疾病や、ダイエット等で安易に化学物質を投与して、必要物質の分泌条件を阻害するような行為は慎んだ方が良いように思うところである。

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2008年7月12日 (土)

みんなと一緒!?

 子供の言葉、或いは、ブームにおける人の行動等々で同じモノを揃えるっていう風景は良く見掛ける光景である。そんな状況を目指す人々が口にする言葉っていうのは、表題の如く『みんなと一緒!』っていう合い言葉だ。

 この『みんなと一緒』っていう考え方がブームや流行の底辺にあるように思うところである。これは、日本以外の国がどうか?は知らないけれど、みんながやるから安心とか、みんなでやれば怖くないとか、、、そういう意識っていうのは、本来の目的とか原則論を見誤りそうに思うところ。

 特に悪い例で言うと、鶏肉の産地偽装でブラジル産を国産と偽った社長の言い分は『他もやっている。ウチだけではない、、、』っていうのも、みんなやってるから、、、って言い訳だし、、、、

 学校や幼稚園での流行りに対しても、子供達の言い分は、『○○ちゃんも持ってるから、、、』とかである。

 で、思うのは、人がやってるから!ってのは、何かの行動を起こす際の目的になるか?という疑問である。動機になっても、目的とは違うのでは?というのが印象だ。
 更に言えば、どんな人もそれなりに頑張っているのだが、みんなと同じ事をやるっていうのは、同じフィールドで同じ様に競争すると言う事であり、それが商売であっても、自己主張であっても、結局は突出できず埋没するという結果となるのは明白であり、少なくとも、何かの分野で成功して儲けるって考えでは、人と一緒という考え方では、儲からないとも思うのである。
 企業活動でもそうだ。企業においても他社がやってるから我が社でも、、、とか、余所の技術を使って我が社でも、、、っていうのは、根底に人がやってるから!って意識があり、そういうのは、動機であっても本当の目的では無いのである。

 話が逸れそうなんで、元に戻すと、この思いは、自転車や単車のブームの傾向から感じた事。自転車や単車では、ブームが発生し多くの人の関心を集め盛り上がっていく中で、何人の人が目的を持って選択をしているのだろうか?と思う事が多い。単車の過去のレプリカブームでも、盛り上がりの理由を高性能を求めてって論調を聞くけど、実は、誰々が乗っているから!って動機の方が殆どであり、今の自転車ブームでもそうだろうと思うところ。自転車では外国製の高級ロードバイクが注目だが、これまた殆ど限られたブランドに集中しており、そのブランドに跨る人の多くが経験の深いとは言い難いの現状である。でも、人気ブランドに集中するっていうのは、そのブランドの本質が何?って判断の前に、みんなが選んでいるから!って理由で選択している場合が殆どでは?と思うのである。

 拘りを持つっていうのは、自己主張をするって事だろうけど、人と同じでは殆ど自己主張は出来ないし、人と同じでは、人とは違う結果は得られないのでは?と純粋に思うところだ。

 本来、趣味とか研究というのは、拘りが必要であり、拘りとは主張であり、目的意識の筈だが、それを超越した『みんなと一緒』的考え方では、主義も主張も目的も欠如しているように思うところ。

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歳を取ると総じて、、、

 木曜日は午後から新素材関連の研究会の研究報告会、技術講演会に出席した。
 この研究会は、地元広島のマツダと広島大学が中心となって新素材の利用普及を促進する会合であり、自分は中心となる企業会員とは全く無関係ながら同じ地域に属し、同じ系統の材料を利用した開発を続けているという縁で参加しているのだが、ローカルな研究会ということで知った顔に随分と出会したのである。

 因みに、研究会というような技術的な産官学、産官の会合には1994年頃から断続的に参加しており、時代なりの目新しい?アイテムの検討や開発等を進め、情報収集と人脈の構築を目的に活動している。

 概ね、これ系の集まりっていうのは、比較的若い世代の人が多いのが常であり、特に時代毎に最先端のテーマで会合を持つ場合は、その傾向が顕著である。特に、1994年に参加した研究会では、当時初めて世の中に出始めた技術に基づく研究だったために、発起人の大学教授以外のスタッフという参加企業の研究員の方も殆どが30歳前の人ばかりだったのを思い出すところ。

 当然、研究に携わる人っていうのは、専門分野は基本的に懸け離れる場合は稀であり、自分にしても、1994年当時の研究会参加分野と今の分野は何らかの連続性をもっている。他の人もそうだろう。ということで、今回の研究会においても1994年当時に初めてであった方々が相変わらず参加されている。

 そういう経緯で、昨日の会合では非常に懐かしい顔ぶれと出会う事も出来たのだが、さすがに15年の年月が人を大きく変えているのである。こういった研究関連の業種、特に新規分野というと携わる人自体が不変であり、昨日の参加者、その内、企業、公的機関、大学の研究者の方の殆どが面識のある方だったのだが、みな15歳程歳を重ねており、15年分の変化(老化)をしている。

 職種的にも、身体の動かす時間が取りづらく、デスクワーク中心で、夜遅く迄ってライフスタイルが想像できるけど、そういう環境で15年を経過すると身体がどう変化するか?っていうのが一目瞭然である。研究会で一番インパクトを受けたのは、色んな講演よりも、15年間で研究関連の職種を重ねた人の身体の変化が一様に不健康サイドに変化しているという事実である。
 この事実は、先の記事でも身体活動度とガン発生の相関のニュースではないが、生活習慣病とか癌疾患が職種別にも発生率が一定の傾向を示すのでは?と思った次第だ。

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2008年7月11日 (金)

ガンと運動

 テレビと肥満に引き続き、木曜のニュースで気になったのが、ガンの発生リスクと運動の疫学調査結果のニュース。元ネタは↓。

http://epi.ncc.go.jp/jphc/outcome/72/Activity_Cancer.html

8万人の8年の追跡調査によるガン発生リスクと身体活動の相関を示したモノで、興味深いのは、活動度が激しい程ガンのリスクが低いということ。

運動と生活習慣病というのは運動による代謝促進と収支平衡による健康維持だが、ガンに対しても運動行為がリスクを下げると言う事。

運動という行為は疾病とは別に考えれば、純粋にエネルギー消費であり、生体サイクルを活発化するという事実は間違い無いところ。活動量を増やせば、大量摂取、大量消費という事で、代謝が多い、つまりは、身体を出入りする物質の絶対量が多いということで、摂取した物質が留まる時間が短いということも言える訳だ。

 ガンというのは正常細胞の変異によって生じるものであり、変異が何故起こるか?は、代謝或いは細胞分裂における外乱が作用しているのも事実。外乱とは何か?というと、生体にとっての阻害物質(ニコチン、アルコール・・・)であったりが思い浮かぶけど、運動の活動度とガンが相関する?って統計的事実があるのなら、自然界の物質を摂取しても体内における滞留時間が長い程、その物質が変質して細胞の癌化に寄与する異物になっているのか?と考えたりする。

 人が外部から摂取する物質というと、基本は有機物であり、そのままでは変質、腐敗したりするモノ。特に有機物は、温度、微生物環境等々によって敏感に変質するし、どんな物質でも時間と共に酸化したりするもの。
 そんな事を想像すると、代謝が少ないと滞留時間が長くなり、滞留中に変質するモノが、細胞の癌化に影響しているのか?と考えたりするところ。

 事実は不明だが、言えるのは、代謝を高める。収支を整える。そして鮮度を保つという考え方が重要か?という事。

 ところで、最近見掛ける疫学調査による健康維持のための情報は?ってみると、今の自分のライフスタイルが理想に近い!?と思ってしまう所。

 趣味を大事に、運動を定期的かつなるべく多く実践し、これを継続している。そして、しっかり食って、しっかり寝る。ストレスは受けない、、、、、正に完璧か!?とも思うところ。

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テレビと肥満

 木曜日注目?のニュースといえば、表題のレポートである。ネタもとは↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080709-00000480-reu-int

 であり、要約すれば、食事よりも視聴を優先して、つい食べ過ぎるという事か?結果、摂取カロリーで言うと、228kcal程増大するという、、、、。

 そうかなぁ?って思うよりも、テレビを見ると噛むという行為が疎かになるのが健康に害があるかもって思う所。噛む行為によって満腹中枢が刺激されて食を制御するのが機能ならば、噛むという行為が見るという行為によって阻害されて噛まなくなって結果、過食するのでは?というのが私の印象。

 まぁ、幼児の場合は、遊び食いが大好きであり、それにテレビってファクターが入ってくると、食事時間は大幅に延びる事も珍しくない。そうなると、今の季節なら食中毒だって引き起こしかねない。

 でも、理屈で食事中のテレビはNGとは言っても、実際、自分の生活を思うと、食事しながらニュース見るってのが習慣化しており、子供を教育するには説得力無いのが現実だ。

 ただ、何にしても、どんな行為でも、複数の動作を同時に行うっていうのは決して良い結果を生まないのは間違い無いところと思う。

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 洞爺湖サミットが終わってのニュースは?っていうと、学校給食に納める鶏肉でブラジル産を国産と偽って納入した業者が逮捕されたって話と、大分県教育委員会の教員採用、昇進における不正操作と贈収賄の話。

 一般的には、この業者は!この組織は!って、固有組織のモラルを責める論調だけど、振り返ってみれば、証券会社での不正情報利用、ありとあらゆる食品(野菜、ウナギ、牛肉、卵・・・・・)での偽装表示、加工食品での賞味期限偽装、飲食店での残飯再利用(昔からパセリは再利用!?って話は聞いていたけど、、、)、自動車会社のクレーム隠し、、、、、他にも様々な製造業、建設業における耐震強度偽装のような設計情報の偽装、機械性能の改竄、化学関連製品の内容成分の改竄、マスコミにおけるやらせ、政治家、役人の贈収賄、不正・・・・ってことで、固有組織のモラルという前に、社会構造自体が嘘にまみれて、その嘘が固有組織において露呈しているというのが実状。

 このような嘘が露わになるのは、殆どの場合が内部告発ということで、内部告発以外に調べようがないのが実状でもある。内部告発とは組織内部の者が告発する訳で、組織に属していたら人間の持つ妥協や打算、現実問題での職業問題等々で、実際に告発できるか?というと、現実的には非常に難しい訳であり、そうでありながら、このような不正や嘘がニュースを賑わすというと、これは氷山の一角にしか過ぎないというのが実状だ。

 機械製造業等においても品質データが第三者機関における証明が附属するものと、製造者の証明が附属するものでは、その信頼度は全く異なるもの。第三者機関による監査が無い品質証明自体は、殆どの場合で、改竄、偽装があるといっても差し支えないと思う。

 実際、色んな場所で、色んな相談を受けるけど、如何に隠蔽するか、如何に監査をくぐり抜けるか?という腹黒い?相談を受ける事もあるけど、そういう状況がまかり通っているのが現代社会の姿と思う。

 組織における不都合を如何に上手くばれないように隠蔽するか?こういう元来の目的とは異なった目的のために動く人や組織、管理職というのは実際に存在するのだが、それもこれも、社会自体が豊かになってしまった結果というのもあるし、そのような不祥事を引き起こす会社っていうのは、殆どの場合、社会的に一定以上の認知度を示す、或いは、その分野で大きなシェアを取っている会社の場合が多く、結局は、自由競争という緊張感が失われて、利権を守るという企業哲学から生まれた弊害のように思うところ。

 話は逸れるけど、現代のようにデジタル機器が普及し始めて、それに適応した人とそうでない人が混在する社会においては、その先進機器を盲目的に崇拝する傾向が強く、どんな嘘でも、そういう機器で印字したり表示したりするだけで、その情報が真実として受け入れられるという傾向が強い。それを逆手に取った改竄や偽装っていうのは、現実問題、色んなところから聞こえるものである。

 環境問題、原油価格高騰問題、食糧問題・・・・と様々な問題を抱えている世の中。それを裏返すと、新興国の急激な発展による、先進国の地位低下、利権低下、市場占有率低下という観点からの問題であり、結局は、新たな競争に危惧を覚えている既得権に拘る国家、企業、組織のエゴによるものだ。どちらかというと、新たな競争が生まれる事で、先に挙げたような嘘では勝負出来なくなる世の中が訪れる方が健全であり、今一度、大競争時代に突入して嘘や垢は洗い流した方が良いのでは?と思うところである。

 嘘をつかないと成立しない組織は、世のため人のため、消滅した方が良いのである。

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2008年7月10日 (木)

 色んな人と話をすると、結構、安易?簡単?に、研究とか開発とかに憧れたり、その必要性を説いたりとか、、、まぁ、ある訳だ。

 しかし、前の記事にも書いたけど、その研究とか開発という行為は、とてつもなく孤独で、その成果を得る迄の間は相当の時間を要する場合もあるし、その間の自身の気持ちの変化や、周囲の眼に対する孤独感も当然あって、実は貧乏くじに近い業務だったりするのである。

 では、何故に、そういう割の合わない業務が存在するのか?というと、理系、文系関係無しに自分で考えた事、自分で編み出した事、自分が初めて発想した事、気付いた事が、実際に思い通りになるという、その瞬間の満足度が、他の何よりも貴重で大きなものだからである。
 どんな仕事であっても、そのテーマに対して発想の起点を生み出した人間で無ければ、その満足感と自負は得られない。発想に基づいて動いただけの人間が感じる充実感と、その発想自体を生み出した人間が感じるそれは全く異質で、次元の異なるものである。
 大企業的に言えば、研究チームの発案チーフが感じる満足感と、それを手伝うスタッフの満足感は全く異質ということ。

 廻りがどんな評価をしようとも、内面的に自分自身で素直に満足が感じれるかどうか?の一点では、他人のアイデアの上に基づいたものでは、遠慮、後ろめたさ、といった満足感に対してはマイナスの要素が含まれている。こればっかりは、編み出した人間で無ければ感じる事は絶対に出来ないモノである。今回、この記事を書くに到った理由となった相談者の話によると、そういう個人開発に対する評価がどうのこうの、、、って話があったけど、個人での開発に対する見返りというのは、自分の気持ちに素直に満足が感じられるか否か?であり、組織からの評価とか、周囲からの評価という他人の視線を意識している時点で、恐らくは個人での単独開発って取り組みは彼らには出来ないだろう。自分の意識で行動して、自分の自尊心に嘘を付かずに自分で満足が得られるか否か?が問題であり、その満足感を得るための前提というか必然は、行動の原理自体が自分自身で編み出したか否か?に掛かっている。

 本来、新しい価値を生み出したり、長きに渡り抱えた問題を解決する手法を生み出したりするのは、行動における目的、目的を生む状況、その状況を招く原因・・・・といった因果関係を冷静に見抜き、そこから取り組む人間の経験と知識を駆使するという行為の事であり、それっていうのは、独りだけの世界である。その世界を楽しめるかどうか?が、それが出来る資質があるかどうか?に拘わってくるのである。

 勤務先においては、巨大町工場的な中小企業であり研究組織は無いけれど、その企業なりに抱えてきた問題を十数年の内に数件の問題を解決したり、特許取得を行ってきたが、そこでは、時間の流れの違う他業務の従事者と席を並べて、こういう業務を取り組んできたが、そういう時間の流れ方に違いから感じる焦燥感っていうのは、過ごした人間でなければ、なんたるか?は恐らく判らないだろうと思う。更に言えば、そういう過ごし方で独りで物事を最後迄諦めずに取り組める奴が居るか?というと、そうも思えない事が多い。

 しかし、製造業であるからには、やはり新しい価値を生み出すというのは重要な事であり、そういう価値を生み出すフィールドというのは必要だとも思う訳だ。今は中企業といっても町工場状態であり、何か新しい事?困った事?っていうのは、全くの一個人に兼務で任せた対応しかしていないし、そのテーマ自体も他からパクったものばかりだが、これでは将来に不安を持つ人が出ても仕方ない話である。不安の理由は、後ろめたさばかりでなく、ビジョンの無さ、計画性の無さ、そのプロジェクトに対する周囲の視線や雰囲気が該当する。

 どういうタイプの人が新しい価値を生み出したり、問題を見抜く目を持っているか?は判らないが、そういう眼を持って、尚かつ、全くの孤独に自己を保って打ち込めるような忍耐と発想力を持つ人っていうのは皆無に近いのでは?っていうのが個人的な感想だ。自慢では無いが、下記に紹介するアイテムの中には、会社としては取り組まないという答えに反旗を翻して、自己資金による特許取得、運用会社の設立、協力企業の開拓を勝手にやって、今は、その製品が様々な分野から需要を生んでいる案件もある。
 少なくとも、環境的に新しい価値に取り組む事を容認し、仕事を認めてやるような後ろ盾というか、そういう組織があれば、その中で、新しい価値や問題解決を行える人っていうのは居るかも知れない。

 人によって価値観は違うけれど、人や組織が歴史的に困っている問題を本質的に解決した時に感じる満足感や、今迄に存在しないモノが実際に機能する事を実感する時に感じる充実感っていうのは、なかなか味わえるものではないのだが、そういう感覚を、望む人間に味わわせる機会を与えてやりたいと思う今日この頃である。

 自分自身、出来て良かった!というアイデアは何アイテムかあるけれど、振り返ってみると、

・Ni、Coを全く使わずに常圧焼成のみで密度を上げる事が出来るWC基焼結体の発明
・無潤滑摺動と耐スラリー摩耗を両立し、破壊形態を制御できる軸受複合材料の開発
・通電軸電流監視によって均質性、焼結性を高める3軸通電式焼結装置の開発
・非鉄金属鋳物の鋳込法案のブラッシュアップによる欠陥抑制
・同上工程における生産計画精度を高めるスケジューリングアルゴリズムのデザイン
・製品製造制約を設計拘束条件に取り入れコスト低減を実現した設計ガイダンスの作成
・液化低温ガスび混合物性推算をリアルタイムで行うプログラムの作成
・計測データをリアルタイムで修正(?)して必要書式で出力、保管するシステムの作成

 等々があるけど、どれも前例無しでオリジナルデザイン、単独実施だけど、どれも結構な満足感が味わえたのは事実であり、そういう気分を次の世代に体験して貰いたいとも思うところ。まぁ、自分の反逆?(なんたって、何かをやろうという意欲の根元は、会社に貢献しようって意識は皆無であり、人が出来ない事をやって満足を得たいという自己満足のためであり、自分の利益に繋がることしかしないから、、、組織も会社も言ってみれば糞食らえである。)としては、、、実は色々あるけど内緒。
 そういう機会を望む人が居れば、チャンスを与えてみたいところ。但し、仕事に優劣は無いけれど、その思いを実現できるか否か?っていうのは、問題と個人が見合っているか?が大事であり、希望する人間に格が備わっているか?格を磨く気があるか?も結構重要だったりする。

 こんな文章を書く気はサラサラなかったけれど、ここ何年か、後輩を含めて若い世代が不安を打ち明けてきたり、希望を語ったりする事が多く、彼らに対する解答の背景の一つとして文章にしてみたりしただけである。

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2008年7月 9日 (水)

舌の先も乾かぬ内に、、、

 愚痴である。詳細はメインサイトの日記参照として、、、、とあるトラブルというか誤解を解く必要があり、そのために書類が必要なんだそうだ。そこでの登場組織は、

1.製造元(メーカー)
2.転売元(商社)
3.転売先(エンドユーザー)

 3.の転売先からの受注を2.の転売元が受けて、1.の製造元が見積納期回答で承諾の上で製作するモノ。
 1.の製造元の見積回答には、受注内容に応じた見積回答となっているのは当然であり、発注内容を変えると見積内容も変わるのは当然だが、発注内容を変えても見積内容が変わらないという御都合解釈を2.転売元が行ったのが間違いの始まり。

 で、見積内容の変更による経費増を3.の転売元に通達する際の文書作成についての件。

 3.の転売先にコスト負担増の説明書の原案を書いてくれと泣きついて来て、その文書が2.の転売元から3.の転売先への文書という条件で依頼してきた筈(これとて無関係の者が原案を書く事自体ナンセンスだ)が、3日も経たない内に、内容はそのままに表題の部分を1.製造元から2.転売元への文書というモノに改竄している。

 ということで、ぶち切れである。モラル、企業倫理というか約束違反も甚だしい訳だ。

 この会社、過去にも約束を反故にしたこともあるし、今回もそうだ。そういう体質なんだろうか?そう言えば、これまでの経緯で、紳士協定的に口頭、メール等では連絡した事にならない扱いのようで、最終的には文書、文書と言ってくる。ならば、承認審査後の文書が廻ってくるまで何も出来なくなる訳で、、、まぁ、その方が楽で良いし、特急案件は処理出来ないという事でOKだろう。

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洞爺湖サミット、環境問題は?

 最近、テレビ番組では表題ネタが多い。

 で、結果はというと、各国ともに利権を主張して議論は平行線で合意を見ないという流れ、、、、。

 こうやって滅びるのも悪くない。

 でも、排出炭酸ガスの炭素換算量で現在が64億トン/年の排出で、空気中の炭素固定(吸収)量が海洋、森林で合計30億トン/年という実態であり、結果34億トン/年の炭素換算量に相当する二酸化炭素が出ているのは間違い無い事実。

 利権、主張、文化、貧富の差・・・・こんな事は関係なしで物質収支を整えるのが長期目標で合意すべき数値というのは明白であり、現在の50%以上削減が必然なのに、何故に揉めるのか?が判らない。

 第一に目標を掲げる事くらい出来るだろうに、、、、、、っていうのが印象だ。

 どこが、どれだけ削減するか?どこが、どれだけ許容されるか?なんて、細かい事は後でも、兎に角、世界の総排出量を最低でも54%は削減せんといけない訳だ。

 先進国の言い分、新興国、途上国の言い分はそれぞれ最もだけど、言えるのは地球環境は特定の個人のモノではない訳であり、生活している人全てが等しく責任を負うというのが大前提であり、大きな原則論としては、人口数に比例した許容排出量が決まる訳だ。

 今は、カーボンニュートラルとか、排出枠取引とか経済性ばかりが関心の的だが、各国が許容排出量に到達出来ない場合には、余裕のある地域から権利を買うというのは基本的に間違い無いけど、少なくとも、それだけでは貧富の差、発展の差は埋まらないし、国力の在るモノ勝ちになるのは目に見えている。
 他地域から排出枠を購入したら、購入地域の生活レベル、食糧問題、文明の発達レベルを引き上げる義務を明示化するというのが必要だろうけど、今の風潮を見ると、金勘定と利権、利己主義のみがまかり通っているようにも見える。

 こんな詳細は兎も角、総意として50%減というのは簡単に合意しても良さそうなのに、、、、。

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2008年7月 8日 (火)

町内会新聞、、、、?

 週末に回覧板がやってきた。
 中を見ると、何やら体裁が少々変わっている様子、、、、、、。で、内容は、、、、、、なんか知らないけど、地域の結束を高めようとするような意図が見え隠れする、、、、なんとも違和感を感じる。

 前は、要件だけを箇条書きにした一枚モノのA4サイズ書類がバインダーに鋏んであっただけだが、今回からはB4サイズの中折れ書類の両面にびっしりと印刷してあるもの。

 元々は、その書類を読んだらサインして隣に回すというスタイルだったのだが、組毎に中折れの書類が世帯数分鋏んであって世帯が取るように書かれている。思いっきり無駄であるし、重要案件がくだらない文章に埋没して見難いモノ。デザイン的には、区画割が几帳面に区切ってあり、統一感の無いフォントスタイルを項目事に変えてある書式。
 内容は、、、、、昭和30年代の遊びを子供達に伝えよう!?とか、、、、、、地域の高齢者趣味(偉大なる?尺八演奏家?)の人に感謝を捧げよう!?とか、、、、まじかよ!?って状態。
 そんな雑断の中に小さく、夏の大掃除ネタが書いてあるのだが、大掃除の日時を知らせる時期の回覧に、くだらない文章を入れすぎるのはなんだか????って感じである。

 大体、B4サイズのフォーマットを使うという時点で古めの人か?段落がチマチマとしながらも、丁寧に区切った分け方からも、小さい事に拘りすぎて大局が見えない性格が想像されるというと言い過ぎか?

 この時期の回覧で各世帯に知らせたい事は何か?を考えて、要らない情報でなく必要な情報を確実に伝えるのが回覧だが、老人の戯言をグダグダ書いて、その中に小さく大掃除って記入していたら、書類をパッと見て丸めて捨てるって状態になりそうで、、、、、

 この資源を大事に!とかエコスタイル!って時代に、どうでも良い雑ネタをびっしり埋めた新聞?を世帯数分印刷して配るというのは、何とも時代に反するというか、時代錯誤というか、本来の伝えるべき情報の伝達性も失うというか、、、、

 まぁ、どうでも良いのだけど、町内会の回覧は、書き手の自己満足の道具では無いのに、、、って思ったりする。

 情報発信で個人の自己満足を得るならば、最近話題のブログでも開設すればOKだ。
 なんでも、開設されたブログの殆どが休眠ブログで、生きたブログのかなりの割合がスパム系ブログという世の中。書きたい人、伝えたい事があるなら、そんなブログ界に行くのが良いのに、、、、、

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ガソリン高

 月曜日に一月ぶりに給油した。
 本日のリッターあたりの価格はレギュラーが181円ということ。本日の給油価格が7096円ということで、7000円オーバーは初めてか?というところ。

 車の使用は通勤と週末の買い出しオンリーであり、走行経路は自宅から団地の裏を越えるという山越えと渋滞が通常の市街地という組合せであり、この区間では燃費は非常に悪い。しかし、遠出等をすれば結構燃費は良い。通勤区間オンリーでは9~11km/リットル、週末の買い出し等の平野部分が多いと12~14km/リットル、休日の家族ドライブでは16~18km/リットルというところ。

 因みに、車はエリオという車で、スタンバイ四駆ながら前と後の減速比が異なっており前輪が空転しない限りはFF車というモノで、1500ccのMT車である。

 居住地域というか車の使用形態はここ十数年変わっていないのだが、

この前のエスクードがDEターボのATで通勤区間オンリーで8~10km/リットルで遠出最高燃費が17km/リットル、その前のV6エスクードのMTが同じく5~7km/リットルから最高燃費が12km/リットル、その前の1300シエラのMTが10km/リットル前後から14km/リットル、660ターボのジムニーが7km/リットルから最高で10km/リットルというところ。その前は、学生時代に遡るので生活空間が全く異なるので比較できないからパスするとして、今のエリオは燃費的に相当優秀なのである。

 にも拘わらず、満タン一発で7000円オーバーとなるとガソリン代も高くなったものだと思うところである。今は現金買いすると10000円で釣りが寂しい感じ。一昔前のリッター価格が90円台の頃は5000円でも釣りが沢山という感じであり、支払う際の直感としては、昔は3000円台で5000円札で支払う事も少なかったけど、今は一万円札で払う事が多く、雰囲気的には3倍という感じである。

 まぁ、それでも月に一度以下の給油であり、ガソリン代の家計負担増は3000円未満なんで良しとしているのだが、思い起こせば、昔V6エスクードで月に4万円オーバーの燃料代を払っていた時に置き換えれば燃料代は8万円オーバーになる訳であり、そうなると相当堪えるのが想像できる。
 因みに、エスクードのV6は当時の走行距離で燃料負担が重くのし掛かっていたのが理由でDEターボのエスクードに一年で乗り換えたのだが、当時を振り返ると月の燃料代が4万円以上だったのが2万円以上安くなったのを思い出す。

 当時、V6が140PS/18kg・mだったのがDEで76PS/17.5kg・mと大幅にパワーダウンしたのを危惧していたのだが、実際運転すると高速道路以外では結構マトモで良い意味で期待を裏切られ、乗らず嫌いだったディーゼルエンジンが実は好きになったというモノだった。結局、パワー不足が理由でなくATというミッションが性に合わずエリオに換えたのだが、、、、エスクードのDEからエリオのMTに換えても燃料代は殆ど変化無かったのだ。

 さて、そんな昔の事を考える程に燃料代が高騰しているのは現実であり、実際、自動車の利用っていうのは少しずつ控えられていくのかもしれない。まぁ、燃料代高騰で車の使用が控えられ、二酸化炭素の排出が抑えられるっていうのは皮肉なモンである。そんな状態ながらも、実際に発表される新車の多くが、大排気量、大パワーを謳っており、なんとも不思議な感じを受けるのも確かである。

 地球温暖化で最初に被害を被るのは水没しそうな島国だったり、砂に埋もれそうな砂漠地域の都市で、先進国は最後ってパターンみたいだけど、車の利用者にしても、燃費が家計に締める割合の高い家族が最初に車の使用を制限されて、高級車やスポーツカーユーザーが最後という風になりそうで、何にしろ、弱者が最初に影響を受けるっていうのは、何とも皮肉な現象である。

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研究って?

 この週末は、大手製造業の研究部門の長の方と話す機会があった。

 で、研究とは?という話が出てきて、当たり前ながら、みんなが忘れている事の話が出てきた。

『研究なんかは100とか1000のアイテムを取り組んで、実を結ぶのは多くて三つ程度。』

って話である。その実を結ぶ研究っていうのは、最初の思い付きの段階は、殆ど誰もが関心を持たない、気が付かないというモノの場合が多く、逆に、誰かが何かをやっているという情報からスタートする場合は、既に情報が漏れてきている段階で、先行者が居て、結果として競争力は持てない事が多いとの事。

 正しく、そうである。

 誰かが何かをやっているから、我が社でも、、、、ってノリでは結果が利益に結びつかないばかりか、時間の浪費で終わるのでは?とも言っていた。

 これまた、正しくそうである。

 一方で、若い世代には、研究とか開発という言葉に憧れる人が多いとも言われていたが、コレもまた、正しくそうだ。

 研究とか開発とかの言葉は、言葉が持つイメージ程カッコイイものではない。特に、初期の起点から行う場合は、全くの無から立ち上げる場合の方が多く、その無の状態から何かを生み出す過程っていうのは、非常に泥臭く、幼稚くさく、無意味っぽくも見えるものである。そして、そういう格好悪い期間は思いの外長く掛かるものだったりする。

 そういう格好悪い、泥臭いという準備期間が実に長く、その長い潜伏の時に組織的な制約や、担当者のモチベーションが尽きると、実を結ぶ前に朽ち果ててしまうものでもある。
 そういう長い期間の印象を、単に憧れる人っていうのは知らない場合が多い訳である。

 更に、その長い期間において考える事っていうのは、いろんな現象を多方面から基礎的に見て考えるというという事であり、実は、憧れて実践するには、相当に幅広い知識で原理的に見つめてイメージするという作業が必要であり、そういう知識と見方と根気というのば要求されるものということだ。

 だから、そういう何か新しいモノを生み出すには、発端の部分は、それを担う個人の仕事なんだが、組織としては、そういう個人を労る?ように計らうのが大企業としての考えということらしい。

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最高心拍数、調査中。

 昨日から表題の最高心拍数について調査中である。

 殆どの情報源では、最高心拍数は年齢の関数で、加齢と共に下がるモノ、、、、って説明。更に断定的な情報では、220-年齢で表されるとか、、、、

 しかし、昨日の記事で書いたように、そういう数式では当て嵌まらないし、色んな人のサイト、ブログを見渡しても、必ずしも式通りの人ばかりという訳でもない。
 自分と同じく、最高心拍数で200越えって人も少数だが見掛ける訳だ。自分でも日曜日は心拍モニターの最大値を200にセットして走ったのだけど、ピーピーと警告音が五月蠅すぎであったのが現実。

 結局、最高心拍数ってのは、一分間に駆動する心臓ポンプのストローク数を表すモノで、心拍数が大きいってことは、筋肉を始めとした作動部分が血液(栄養分、酸素)を要求しているということ。
 エネルギーの要求量が高いということで、更に言えば、それに相応するために身体を動かしている結果ということでもある。
 身体を動かす事が出来るかどうか?というと、実質的に多くの筋肉をどれだけ速く動かしているか?ということであり、その筋肉の量と速度と、心臓の吐出量の関係で心拍数が決まってくるモノである。

 そんな色んな要素が関わり合っている訳であり、最高心拍数っていうのが幾らか?っていうのは、良く言われている式の如く、単純には決まらないのでは?というのが素直な感想である。

 最近は、トレーニング理論がどうの、最高心拍数の公式が何で、運動強度60%で云々、、、、が効果的ってあるのだけど、そういう数字を気にするのは、なんだか不健全な気もするところである。
 チョット気にして、考えたのが最近興味の関心アイテムである最高心拍数だけど、これとて納得できる説明は無い、、、、。

 ふと思ったのは、中学~大学時代の運動部では、そのような心拍数が何で、、、、って理屈は二の次三の次で、殆ど誰も知らなかったし、誰も関心を持てなかった訳だ。それでも、ガキの頃から運動に取り組んでる奴は、皆巧いし、運動能力的に優れている。彼らの多くは理論や理屈で行ってきたのではないだろう。
 結局、何かをする際には、最低限必要な道具や環境があれば適当に使って過ごしている。更には、その中で頑張れる範囲で頑張ってってスタイルで過ごしてるのが殆ど。そうやって過ごした結果、技能も体力も鍛えられているのが現実である。

 となると、最近よく見掛けるマフェトン理論、心拍数、運動強度云々を気にする事自体無意味かなぁ?とも思うところである。

 そもそも、人間が運動にしろ勉強にしろ意志を持って活動するという状況で、意志が継続できる限界値っていうのは、本能的に命に関わらない限界値には到達しないのが現実であり、運動の内容がどうこう言う前に、例えばダイエットならば、絶対的な消費カロリーの積分値が大きいのが絶対的に効果が最大である訳だ。
 つまり、歯を食いしばって出来る最大値っていうのは、個人差によって決まる個人の能力(各器官の能力)の総合力によって決まるもので、最大値なんかは各人が頑張ってみないと判らないというのが真実であり、ダイエットというならば、出力×時間=運動量が最大の条件が最も効果的というのが真実では無いだろうか?あんまり難しい理屈を考えずに、自分で感じる最もハードな運動をなるべく長く行うのが一番単純で判りやすい気もする。

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2008年7月 7日 (月)

維持可能最高心拍テスト

 今日は久々の晴天ということで、朝っぱらからラングスターで久々に出動。
 で、目的は、最高心拍数テストである。

 最高心拍数っていうと、一般的には数値計算で求める方法が使われている。前の記事でも紹介したけど、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/06/post_aff0.html

1.[最大心拍数]=220-[年齢](運動習慣のある人は210-[年齢])
2.[最大心拍数]=204-0.69×[年齢]
3.[最大心拍数]=男性で214-0.8×[年齢]、女性で209-0.7×[年齢]
4.[最大心拍数]=1.1×[安静心拍数]+115

ってところが有名どころ。

でも、これはあくまでも計算式であり、個人の状況を示したモノではない。で、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/06/post_31d9.html

でも試したように実走でも試した事もある。

・往路を16分44秒
・瞬間最高速度:54.4km/h
・最高心拍数:194bpm
・平均心拍数:174bpm
・平均ケイデンス:127rpm
・最高ケイデンス:168rpm
・復路を17分26秒
・瞬間最高速度:53.2km/h
・最高心拍数:192bpm
・平均心拍数:168bpm
・平均ケイデンス:129rpm
・最高ケイデンス:164rpm

・往復合計消費カロリー:645kcal

って奴だ。

で、今回は、最低でも5分程度の維持可能(鼻歌可能)な最高心拍数の瞬間最高心拍数アタックを行ってみた。

結果は、

・最高心拍数:202bpm
・維持可能最高心拍数:184bpm
・平均心拍数:178bpm

ってところ。この辺りが実走での限界のようだ。

しかし、ここで思ったのが、一般に220-年齢って式で求めると、どう頑張っても180bpmには到達しない筈。最大心拍数は頑張れる限界って定義とすると、180bpmレベルなら維持出来るということは、少なくとも180bpmは限界でなく、心拍モニターの数値から判断すると200bpm以上、これは計算式から大きくずれるもの。

何故か?

最大心拍数をネット検索を掛けても殆どが上述の式に留まるところ。では、何故に、年齢数値とは大きく異なる数値が何度やっても計測できるか?が不可思議なところ。さらに言えば、この202bpmを記録した時も、気分的には余裕がある状態。

ところで、この計測実績から最高が202bpm、安静時が42bpm(夏場)であり、巾が160bpmで、運動強度60%で138bpmとなるのだが、仮に運動強度が138bpmで60%となるような他の人の最大心拍数、安静時心拍数の組み合わせは他にどうか?っていうと、、、、

(138-最低心拍数)/(最高心拍数-最低心拍数)=60/100

であり、690=3×最高心拍数+2×最低心拍数となる。

で、最高心拍数が160程度の人なら最低心拍数が105、最高が180なら最低が75の人でも同じである。同じ心拍数で同じ運動強度となる訳である。まぁ、同じ運動強度だから同じ出力という事は無いのだけれども、最高心拍数が高く、安静時心拍数が低い人でも運動強度60%っていうと、最高心拍数が低く、安静時心拍数が高い人と同じ心拍数の運動って事になる訳だ。

マフェトン理論なんかでは、心拍計を使って運動強度、、、、、って話だが、其処までシビアに言わなくても、ぶっちゃけた話、140bpmくらいで運動したらきつめの有酸素運度って括りでも良いような気がするところ。大体、最高心拍数ってのが220-年齢って式が少なくとも自分には当て嵌まらない訳で、となると、大部分の人にとっても当て嵌まらないような気がするところ。

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2008年7月 6日 (日)

梅雨明け間近?

 この土曜日は、予報に反して午前中は激しい雨、路面はヘビーウエット、午後は所要があって、夕刻前から出ようか?と思っていたら急激に暗くなってきて再度雨、、、、
 ということで、この梅雨は週末に狙いを定めたかのような雨続きである。

 ところが、近隣の四国では梅雨明けして、中国地方も梅雨明け間近って状況だ。梅雨入りも今年は6/11で平年より5日遅い。梅雨明けは、恐らく日曜日中だろうけど、その場合で、平年より14日速い状態。となると、異様に梅雨自体が短くなる。雨も週末こそ降ったけど、全体の降水量は圧倒的に不足気味であろう。

 この日曜日、今週から夏本番!ってなると、長い長い暑い暑い夏がやってくる訳だ。それにしても、この梅雨の雨の降り方は長雨って感じでなく、集中豪雨的、スコール的である。まるで、温帯というよりも亜熱帯、熱帯に近い降り方に感じるところ。

 気候の変化というのは、人生振り返ってみると随分と変わってきているようだ。このブログでも最近は環境ネタの記事が多いけど、テレビ番組にしても今週はかなりの割合で環境ネタ、温暖化ネタの番組が多い。まぁ、洞爺湖サミットに併せてのプログラムだろうけど、環境問題っていうのは放っては置けない問題である。

 話が余所行くけど、夏は体温も上がる。すると、自分は減量以降、夏の血圧が異様に低下する。上が90、下が50を下回る事も珍しくない。そうすると、眠たいのとは違い、視界が真っ暗になる事しばしばである。チョットやばい感じである。そんな時の心拍数は高くなっているのだけど、それでも血圧が上がらない状態であり、一種の疾病状態だ。
 一昨年の夏にフラッと倒れたのも同じ理由。冬は冬で、血圧が高めで、心拍数が35未満で止まりそう、、、、これはこれでやばい訳だ。自転車、水泳にのめり込みすぎると、春と秋しか生きれない生き物になったりして、、、、。

 そうは言っても、日曜日は多分、晴れだろう。朝っぱらからラングスターTTで出撃予定。明日は、暑そうなんで半ズボンで出撃予定だが、レーパンでは無い。

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2008年7月 5日 (土)

原油高は必然だ。

 連日の高値更新である。原油も終値で1バレル145ドルを突破とのことである。

 原油価格が高騰すると、生活資材の多くを石油から調達している経済活動においては全面的な物価高を招く。結果、じり貧になっていく訳だ。

 因みに、日本は原油にどのくらい頼っているか?っていうと、一日あたり70万トンの原油を消費しているのである。これは、一体どういう事か?というと、巨大タンカー(全長300m以上で戦艦大和より巨大。新幹線16両編成級の全長)3隻分の原油を毎日輸入し続けているという事だ。つまり、毎日3隻の巨大タンカーが運んでくる原油を継続的に消費しているということ。

 そんな日本故に原油価格高騰は経済活動に相当なダメージを与えるのである。

 しかし、これだけの原油消費によって世界の5%にも相当する炭酸ガスを日本一国で排出しているという現実もある訳だ。炭素換算で61億トンの5%というと3億トン相当の二酸化炭素を日本は排出しているのである。人口構成から言うと、僅か1.8%程度の人口で5%もの環境負荷を与えているのも現実である。

 このような状態では現代日本においては経済活動と環境保護の両立は有り得ないということにも繋がっているのである。

 原油価格が高騰する。輸入資材価格も高騰する。加工製品価格が高騰する。世界に対して製品の競争力が無くなる。円安が進行する。、、、、このスパイラルで日本の経済面における国際的地位、競争力が今より低下するのは間違い無いところである。

 しかし、冷静に考えると、実力以上に経済的地位が高い状態が今である。

 今後原油価格が高騰して、経済力が低下する。すると、原油を含む資材を海外から調達する事自体が困難になる訳だ。そして、どこまで進むか?というと、環境から考えると、輸入原油量は炭酸ガス排出量が5%、人口が1.8%ならば、原油輸入量は多くても今の1.8/5=36%(1/3)程度に留めるべきだし、地球の炭酸ガス吸収能力に照らし合わせると長期目標的には18%(1/6)程度に留めるように為らざるを得ないのである。

 今の原油価格高騰を招く投機マネーの動きを否定する論調もあるけど、そのような経済活動を含めて自然な成り行きであり、地球というシステムが存続するための必然的な動きと捉えることもできる。大きなシステムが防衛機能を働かせた結果、投機という動きに現れて、人口比率的に炭酸ガス排出割合の過剰な地域における原油消費を抑えるような変化が現れているだけのようにも思えるところである。

 つまり、現代日本(先進諸国)の状況を修正すべく(エネルギー変換を促すための)変化であり、この原油価格の高騰って変化は、必然ではないか?とも言えるのである。
 現状、どの程度迄、今の流れが進むか?を単純に想像すると、世界の生活水準と日本の生活水準が近づく程に、日本に分配される原油比率は人口比率に近づくのが道理である。世界の全てが同じような生活水準となるのは暫く先だろうけど、少なくとも、新興国グループの生活が日本と同じ様になるのは時間の問題。新興国(BRICs)の人口は中国が13.3億人、インドが11.4億人、ブラジルが1.9億人、ロシアが1.4億人で28億人で世界の人口の40%以上を占めている訳であり、ここの生活水準(1人あたりの消費エネルギー量)が上昇するにつれて、日本に分配されるエネルギーも減る訳である。究極的(エネルギー分配率が等しくなり、温暖化ガス収支が平衡となる)には1/6、当面(エネルギー分配率が同じ)が1/3が取り敢えずの目標か?

 様々なエコノミストの予想とは全く異なるけど、温暖化ガスの物質収支と世界の地域の発展というのを考えると、許される原油使用量は究極的には今の1/6となる。つまり、1/6しか買えなくなる訳で、最悪の場合、価格は6倍になるかもしれないということ。ただ、代替えエネルギーのコスト競争力(バイオエタノール等製造コスト)から今の2倍程度の原油価格で新たな競争が生まれるので、原油価格が今の二倍以上となった段階で、環境負荷の無いエネルギーへのシフトが生まれるだろう。目安は、今の二倍というところというのが私の想像だ。
 分配エネルギーが1/2、経済力が不変ならば、エネルギー単価が2倍っていうのが単純計算であり、となると原油価格は今の倍で300ドル/バーレルとなる訳だ。
 因みに、原油価格の上昇はこの一年で二倍になっており、後1年後に迫るのかもしれないが、原油価格の高騰が進む程に、エネルギー置換が進みやすくなる。環境の事を考えたら、一気に値上がりした方が良いのでは?とも思うのである。

 ニュース報道では原油価格の高騰で物価上昇、生活苦、政府無策といっているけど、少なくとも原油価格高騰が続けば、原油調達が困難となり結果、原油消費が減るという流れになる訳で、この状態が続き、日本の経済界が一度リセットされる方が良いようにも思うところである。

 色々考える事があるのだが、ここ数年の昭和30年代ブームとかあるけど、高度経済成長前の当時のレベルに強引に戻される時代が来るかも知れない。

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故障からの帰還

 先々週、原因は分からないけど背中から左脇腹に掛けて嫌らしい痛みを感じた。骨でも無い、どちらかというと筋肉か?筋を違えたか?良く判らないけど、前屈出来ない程の痛みを感じたのである。痛みを感じたのが6/22の日曜日頃だったかと思う。

 これは筋肉痛とは違う痛み、しかし、故障痛という程でも無い痛みである。普通に自転車に乗ったり、ローラー台でブン回したり、或いは、スクワット、ベンチプレスが出来ない程ではないのだが、確かに痛みを感じていた。
 この痛み、日にちと共に気にならなくなったのだが、その状態で6/27(金)に水泳にいって3km程泳いだ後に、痛みが倍増して襲いかかってきた。
 しかし、日が経つにつれて痛みが気にならなくなって7月に入ると問題無い状態、、、、で、7/3(木)に再び水泳に出掛けてみた。泳ぐ際には、背中周りの具合を確認しながらの泳ぎ、、、勿論、泳ぐ量も速度も基本は不変であり、60分で3km程度というピッチを守っての水泳である。

 で、7/4(金)の朝の段階で、痛みの度合は増えていない事が判った。殆ど気にならない状態である。筋肉痛はおろか、故障痛が生じるような過度な運動は行っていないのだが、何故か、痛みを感じていた。この痛みは筋を違える等の軽度な故障だったのだろうけど、10日程度で回復できたので、取り敢えず安心である。

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2008年7月 4日 (金)

労働災害

 今、全国安全週間である。

 ということで、企業では労災防止の取り組みを盛んに行っている。

 良い事である。

 行っていることは、管理監督者の安全教育であったり、安全コンサルタントの講演だったり、、、、で、内容は、作業内容のマニュアル化、手順化を推進等々が目に付くところ。

 で、結果は?

 教育を行っても、労災発生件数は顕著に減少はしないのが実状である。

 ならば、教育の効果はあるのか?というと、判断出来ないのである。

 思うに、安全のための労災撲滅のために行っている事というと、ルール作りに奔走している事だが、本来、労災っていうのは、予測外の出来事が原因である場合が多く、ルールや手順には必ず隙間があり、その隙間がある限り、手順書で安全を得ることは難しいのでは?というのが素直な感想だ。

 労災が生じる環境は、現場環境だが、同じ現場環境において全ての人が事故や災害を等しく起こすとは限らないのが現実である。

 労災を起こすか否か?っていうのは、結局、事故や災害に対する嗅覚を個人が持っているか?どうかの方が影響が大きいのである。目にモノが入る。火傷する。挟む、巻き込まれる、、、、そういうのは状況判断すれば一発で判るものである。

 交通事故でも貰い事故で運が悪いという話があるけど、貰い事故を貰うかどうか?にしても、そういう危険な状況を察知して、貰う可能性の在る状況から回避しているかどうか?で結果は変わってくるもの。そういう察知状況自体をマニュアル化するのは非常に難しいし、予期せぬ状況から災害は起こるモノである。

 本当に有効な安全教育というのは、本人にモノの見方、考え方、思考の手順を教えることであり、そのジェネラルな考え方によって本人が危険を察知し回避行動を取れるように育てる事である。
 先のゆとり教育の記事ではないけど、当人が状況を判断して行動を起こす事が大事であり、そういう安全教育が今必要なのでは無いだろうか?

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ゆとり教育

 最近は、ゆとり教育による若年世代の学力低下が技術力低下を招いているという危惧からか、ゆとり教育を見直す機運が盛り上がっているようだ。

 そもそも、ゆとり教育という方向に方針が転換されたのはいつか?を振り返ると、

 1972年(昭和47年)に日教組によって提起された『週五日制』等が発端である。
 その後、1977年(昭和52年)に学習指導要綱が全面改定されたのが教育現場における指導内容削減の最初である。この新しい指導要綱は、1980年(昭和55年)から実施されている。その後も、この方針は堅持されて、指導要綱改訂の度に指導内容の削減が行われてきた。

 その後の大きな全面改定は1989年(平成元年)改訂、1992年施行(平成四年)であり、ここでは、小学校低学年での理科、社会の消滅、第二土曜日の休日化が導入されている。1995年(平成7年)では、第四土曜日も休日化した。

 さらに1999年(平成11年)にも学習指導要綱の全面改定がなされ、2002年(平成14年)からは本格的に授業時間数、内容とも削減されて、完全週五日制になった。

 その後、全国学力テスト等で2004年頃から日本の子供達の学力低下が問題視され始め、2007年(平成19年)、安部内閣の元で教育再生会議等によってゆとり教育の見直しが始まり2008年(平成20年)になって、削減され続けてきた授業内容、指導内容が久しぶりに増加に転じたのである。

 この指導要綱の対象世代は小中学生であり、世代分類を行ってみると、
1.1980年以前に卒業した世代で、ゆとり教育とは無縁の世代(43歳以上)
2.1992年以前に卒業した世代で、ゆとり教育の影響を受け始めた世代(31~42歳)
3.2002年以前に卒業した世代で、ゆとり教育の影響を大きく受けた世代(21~30歳)
4.2008年以前に卒業した世代で、モロにゆとり教育の影響を受けた世代(16~20歳)
5.2009年以降に卒業するであろう世代(15歳未満)
 ということか?

 最近では、『ゆとり世代!』って言葉が虐め用語のようになっているけど、世代を見ると概ね30代以前は全てそういう要素を持っており、その虐め用語が適切ではないのが判るところ。ゆとり世代の定義は様々で、一説によると1987年生まれ(21歳)世代とか、1993年生まれ(15歳)世代とか言われているけど、教育という連綿と続く制度を過ごす訳で、制度の変遷があったとしても、世代を跨って影響を受けているのである。

 そんな事はさておいて、そもそも『ゆとり教育』っていうのは、それまでの過度な指導量から生まれた弊害を改善するための対応だったわけで、『ゆとり教育』の考え方自体が悪かったというモノでもない。ゆとり教育のコンセプトとは『生きる力』を育むことである。この生きる力とは何か?の本質を履き違えたのが、過ちの始まりでは無いだろうか?

 生きる力とは、覚える量を減らすというだけではなく、教え込む内容を減らす事によって生まれる時間を何に使うか?という部分で、教える側が理解していなかった事が諸悪の根元のように思うところ。教える量を減らして、遊べ、個性を育む、、、、といって、本当に生きる力を与える教育を放棄したのが原因であろう。生きる力を教える事とは、考える力の事である。覚える、教わる、習う、、、、って子供から見て、受け身をさせるのではなく、子供達に意志表示させる、考えさせる、という自主性を持たせる教育の事だ。

 指導内容が削減方向に転じた昭和55年以前においても生きる力が欠如していたというのが真実であり、ゆとり教育世代がどうこう言う前に、日本人全体として生きる力が身に付いていないというのでは無いだろうか?

 何故にそんな事を思うか?っていうと、会社勤めで様々な交流があり、そこには、自社、他社、経営者、新人迄様々な交流があるのだが、この人は自分で物事を判断して決断しているって思う場合が極めて少ないからである。何かするにしても、自身で判断して行うとか、自分で問題意識を持って解決策を編み出すとか、、、、そういう人っていうのは世代を問わず非常に少ないような気がするからである。

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食中毒警報第一号発令

 表題の如く、広島にて7/2に食中毒警報第一号が発令された。

 食中毒防止の三原則は、『清潔』、『温度』、『時間』であり、手洗い、器具洗浄をしっかり行い、食品はしっかり加熱して、さっさと食べるというのが大原則である。

 だから、手は指の間、爪の先のように汚れが溜まりやすい所も重点的に洗って、しっかりと温度を掛けて調理する。そして、調理されたモノは時間を空けず、サッサと食するのが一番である。判りやすく書いてあるサイトは↓

http://www.pref.hiroshima.lg.jp/page/1168819288367/index.html

である。ここで、興味深いのがO157を例に取って説明してあるけど、細菌の室温中での増殖速度の事。15分で二倍である。30分で四倍、45分で八倍、一時間で16倍ということ。
これって、遊び食いをする幼児、例えば、汚い手で二時間掛けて食事をするような子供の場合は、手に細菌が付いていた場合、その細菌は、一時間で16倍、二時間ならば256倍にも増殖する訳である。

上記食中毒防止三原則で一番気を付けるべきポイントは弁当である。
弁当を食べる場合の食中毒注意としては、

1.前日に調理したおかずを使用するときは、入れる前に加熱し、必ず冷ましてから入れる。
2.温かいうちにふたをしない。(温かいうちにふたをするとお弁当箱の中は食中毒菌が増殖しやすい環境になるため)
3.弁当は長時間持ち歩いたり、持ち帰って食べたり、翌日食べたりするのは厳禁。

というところ。作る側の注意としては、最初の段階に如何に清潔さを保てるか?調理の段階では、如何に加熱調理を徹底できるか?最後は、最低でも御飯とおかずは別容器に入れる。果物も別容器という気遣いが必要ということか?

これから夏本番に向けて気温はドンドン上昇し、湿度も高く、食中毒の季節である。食中毒で身体を壊すのは一番バカらしいもの。

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カウンセラー?

 昔から、身上相談を頼まれる事が多い。大学、大学院時代から社会人生活を経てもそうだ。
 勿論、相談もあれば愚痴もあるし、その悩みの対象が、個人の付き合い、趣味、学問から仕事、将来、、、、様々である。

 まぁ、聞く事は可能だが、その解決策自体が相談者にとってベストか?というと、必ずしもそうではないし、結局は本人が決断する訳であり、決断には他人の意見はあくまでも参考程度だし、他人の選択が本人の選択として最適か?なんて事は判らないのである。

 ただ言えるのは、どんな選択であれ、その選択は自身の選択であり、仮に他人の言うとおりという風にしたとしても、その選択の段階で他人の意見に従うと決めたのは本人である。という訳で、その選択の結果が、自分の思い通りにならなかったとしても、それも又、本人がそういう意志決定をした結果である。そういう意味で、選択に迷いが生じたとしても、結局は、本人の判断でしか物事は流れないので、他人がどうする事も出来ないのである。

 他人の意見が、本人の選択に役立つか?というと、それぞれが色んなジレンマを乗り越えていく際にどのような考え方をしたか?という事で、それを期待するのかもしれないが、それとて、考え方自体を自発的に生み出す場合と、教授を受ける場合では、そのバックボーンが違う訳であり同じ結果は得れる場合が少ないと思うのである。

 結局は、自分の問題は自分で選択するしかないのであり、結果は自身で受け入れるしか無いのである。そして、そんな選択に際する悩みやジレンマというのは、どんな人にも直面するものであり、悩み無しで生きている奴なんか居ないものである。

 敢えて、アドバイスをするとすれば、悩みの原因となるような問題が起こるとすれば、その対処は、その瞬間に考えれば良いというくらいか?悲観的であろうと、楽観的であろうと、先を考えすぎるくらいなら、その瞬間の判断に従って行動して、刻々と変化する状況に合わせて再考するのが無駄がないというくらいである。

 行動せずに悩んでいても状況の変化は期待できないが、取り敢えず何かすれば状況は変化するもので、そうすると悩みの質も変化する。好転するか悪化するかは判らないが、どういう結果であれ、その時に考えれば良いのでは無いだろうか?
 それと、あんまり人の目を気にしないのがベストだ。人は人、自分は自分である。他人からどう思われているか?他人と自分を比較して優越感、劣等感を感じたりっていうこと自体無意味である。個人は個人であり、その個人の問題は他人との相対性で変わるモノでなく、本人の絶対値的な問題であり、他人を気にすることで、無用な悩みや安心を生みかねない。

 結局は、自分の事は、自分で判断して、取り敢えず、瞬間に思い付いた選択を歩む、そして、次の事はその時に考えるっていうのが答えにしかならないのである。

 どうやったら、新しい発想は生まれるか?或いは、勉強が好きになれるか?或いは、単車や自転車で速く走れるか?上手く泳げるか?なんてモノも一緒だ。結局、その満足を得るには、満足を得れない問題が個人特有の問題として有る訳で、その問題は、好む好まざるによらず本人は知っているモノ。その問題の解決の最短距離も見えているもの。それに対して行動をとれば状況は変化するし、先送りすれば問題が複雑化するだけ。

 悩みとは、問題であり、問題とは不満、不具合である。当然、それには原因があって、その原因を取り除く上で必要なモノも決まる。必要なモノを手に入れるには、自分に何が足らないか?っていうのもホントはみんな気付いている。
 大体、悩んでいるモノの解決策っていうのは、苦労しなければ手に入らない。何故ならば、本人の過去の生い立ちで、その解決策を得られなかった訳であり、過去の取り組みから踏み出した行動をして初めて解決策が近づくのである。

 だから、ハウツー本、金、助言といった手抜き対応では絶対に問題は解決出来ないのである。そんなもんである。
 ただ、生きる上で、そういう後悔や強迫観念で緊迫していては疲れるんで、まぁ、或る意味、気楽に、時折、気合いをという形で生活に抑揚をつけて過ごせばOKな訳だ。

 読んでいる人には、書いてある事の意味が伝わらないかもしれないが、まぁ、どんな人でもその人なりに自然体で過ごすというのが結局一番イイという事である。

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2008年7月 3日 (木)

正論?

 最近、自転車ネタで一般にヨシとされている事に対するアンチテーゼを記事にしたところ。結構アクセスが集まり、中には肯定的なコメントを下さる方もいらっしゃる。
 そんなアンチテーゼを纏めると、、、、

・ピストバイクのような固定シングルギアの走り心地について
・SPD等ビンディングペダルの必要性について
・自転車の重量と速さについて

 が大きなところである。

 固定シングルギアっていうと、色んな褒め言葉、メリット、格好良さ・・・が有るけれど、中には、有り得ないだろって話も結構含まれている。そんな数ある話で一番印象に残りながら、自分的には一番有り得ない話が、『フライホイール効果?で、ホイールに脚が回されているために速くペダリングが出来る!』って話。これは全く意味不明である。前も書いたけど、脚が回されているっていうのは、エンブレが掛かっている訳で遅くなっているんでは?というのが感想。少なくとも、一定速度を保つ走りをしている上では、確実に損失を補うように駆動力を加えており、その状態ではフリー機構の有無による差は感じないというのが素直な感想。漕いでいる時には差異無しというのが結論だ。

 で、ビンディングペダルでの引き脚論で、引き上げる時も回転力を発生するという論法もなんだか意味不明なところ。何度も言うけど、戻るペダルの抵抗にならないように脚を揃えるだけでは?っていうのが素直な感想で、特に高回転程そうなる筈。
 引くという行為で速度が稼げるというのは有り得ない訳であり、高回転で脚を戻す際に、踏み始めでの踏み外しを防ぐっていうのが一番の目的の筈。昔のクリートの溝構造を考えれば一目瞭然の筈。溝はペダルの踏み面の前後方向で足の裏を拘束しているに過ぎないのだ。

 最後が、重量の話。一般に小径を下げ荒む傾向があるロード目線だが、その根拠は、ホイール径が小さい事による慣性モーメントの小ささによる速度の落ちやすさだが、絶対的な重量でいうと、同じ速度で動いている物体ならば、重たいモノの方が慣性が大きく速度が落ちにくいというのも真実。一定の速度以上での抵抗といえば、空気抵抗と接地抵抗。転がり抵抗よりもタイヤの変形に起因する抵抗が支配的。空気抵抗とタイヤ変形からくる抵抗が同じならば、慣性の大きい方が速度は保ちやすいのも真実。つまり、ロードバイクがロードバイクらしく走れる最大の要因は、ホイール径、軽量差の前に、高圧タイヤによるタイヤの接地抵抗の少なさが一番効いているといえる。

 あとは、いろんな意見があるけど、フレームマテリアル云々、パーツの締結構造云々の話については、自分の体感上否定する事が出来ない。もしかしたら、フレームマテリアルの違いによる材料の変形、弾性の違いを感じ取れる人が普通なのかもしれないし、BBの締結でも四面テーパー、オクタリンク、ホローテック等で締結部の剛性の違いを感じれるのが普通かも知れないけど、俺の筋力と感覚では、フレームの違いも締結構造の差による剛性の差も判らない。だから、否定は出来ない。更には、ロードが絶対に速いか?というと、自分が持っている自転車のどれに乗っても結果は同じであり、車体の限界より自分の限界が低いのは間違い無いので、自転車の差が速さの差になるか?っていうのも不明というところ。殆どの人にとって、色んな感覚っていうのがフラシーボ効果では無いだろうか?
 でも、上に挙げた3つの要素は、紹介した論理自体が矛盾しているように感じるところ。

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新しい技術の環境負荷

 最近は新興諸国の発展で食料、資源の争奪戦が展開されている。
 この争奪戦は、基本的な食料、利用しやすいエネルギー以外にも、高度な機能を持つ製品を作るに不可欠なレアメタル等稀少性の高い材料に到るまで行われている。

 さて、最近思うのは、レアメタルを使う製品っていうのは、高度なプロセスを用いて全く新しい素材、材料、構造を生み出し、省エネ、環境負荷低減に貢献しようって流れがあるのだが、新しい、高度な技術で生み出されたモノっていうのは、殆どの場合は、廃棄物化した時に処理に手こずるというジレンマを抱えている。

 自動車産業等ではリサイクルについて研究が進んでいるけど、それにしても使用材料の複合化が進んだ現在では、その新素材のリサイクルというのは、コスト的にみると非常に難しいのではないか?と思うところである。
 過去の例でいうと、レジャーボート、漁船で用いられていたFRPという繊維強化プラスチックが良い例である。
 材料が複合化、それもナノレベルでの複合化であったり、表面処理であったりと機能を特化させる緻密な技術が多く投入される程に、後の単体回収には大きな障壁になりかねない気がする。

 最近では、高度な制御で生まれる金属間化合物、複合炭化物を用いたスーパーセラミックスもそうだし、今はやりの炭素繊維複合材料とそれを利用した機械部品等もそうである。高性能、高機能、高強度ってモノほど、後処理に大きなエネルギーが必要で処理が厄介というものである。

 エンジニアとして言うには抵抗があるけど、強引に高機能化を計るために難しく、難解に作るよりも、駄目なモノは駄目的に自然の現象を受け入れて物事を考えていくべき時代に入っているようにも思うところである。

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温暖化対策とバラスト水規制の矛盾

 昨日、深夜のニュース番組を見て思った事。
 昨今は、環境関連ネタのニュース報道が極めて多い。その中で一番の注目は、地球温暖化の問題で、排出炭酸ガスを如何に抑制するか?って話題である。

 さて、世界で年間に排出される二酸化炭素は如何ほどか?っていうと、御存知だろうか?炭素量換算で、61~62億トンの二酸化炭素(二酸化炭素という量では260億トン)が排出されているのである。
 この排出ガスが全て吸収されれば、大気中に炭酸ガスが増えるということにはならないのだが、排出量に対して、吸収量は如何ほどか?どこで吸収されているか?っていうのは、案外知られていないのである。

 61億トンの内、話題の森林で吸収されるのは、何と僅か9億トンに過ぎないのである。思いの外少ない事が判る。
 吸収量の殆どは、実は海洋生物によって吸収されており、この量は何と、22億トンに上るのである。で、この海洋生物というのは、実は、炭酸ガス濃度が高い海域に存在する植物性プランクトンなのだ。
 因みに、吸収される炭酸ガスは9億トン+22億トンで31億トン、つまりは、61億トンの内、大気中に増え続ける炭酸ガスは61億トン-31億トン=30億トンが毎年増え続けるという。
 この毎年30億トンずつの大気中炭酸ガス量が増加することで、大気中の炭酸ガス濃度は、ここ20年間はずっと毎年2ppmずつ増加している。

 さて、この一方で、世界の海洋環境保護という建前?(ホンネは、貝毒系生物の侵入による魚介類からの中毒汚染の防止)で、世界を航行する船舶から排出されるバラスト水を処理せよってムーブメントもあるのだが、この処理技術の多くは、船舶の搭載するバラスト水中に含まれる海洋微生物(海棲生物の幼生、動物プランクトン、植物プランクトン)を薬剤、機械処理等によって滅菌、殺菌、殺滅せよというもの。

 これら殺菌の中で、薬剤殺菌というのは、薬剤中和後等でも死骸等の海水中有機物が増加するリスクもあるし、処理不完全な薬剤が海域にばらまかれるというジレンマを抱えている。
 このジレンマが意味することは、薬剤の完全未処理前の排出は、排水による海中の植物性プランクトンを殺すことにも繋がるし、死骸等有機物の排出も、その海域における食物連鎖形態を破壊することとなり、植物性プランクトンの減少にも繋がるもの。

 その場合、炭酸ガスの多い陸地周辺の海域における植物プランクトンの減少というのは、先の地球温暖化ガスの吸収率が大幅に低下することが危惧されないか?という心配をしてしまうところ。

 これらの問題を解決するには、バラスト水は船舶に積み込む前に処理すべきであり、排出する時には、絶対的に処理物質を凝集等によって回収しなければ上記のリスクや矛盾は解消できないのではないだろうか?

 そう思うと、日立さん、三菱さん、住友電工さんのコア技術を用いた、磁気凝集システムしか生き残れない気がするところだ。
 それにしても、全世界の1/20に相当する炭酸ガスを日本が排出しているっていうのは、世界の人口に締める人口割合からすると多すぎである。

 炭酸ガスの固定化?っていうと、先の植物性プランクトンの培養とか、そういった生物の遺伝子を陸上植物に組み込む等があるんだろうけど、そういう小手先の対応は後に新たな問題を生みかねないのが現実であり、世界の炭酸ガスの吸収能力が31億トンならば、排出ガス量は大気中炭酸ガスを減らすためには31億トン未満で成立する社会を作るしかないのである。
 現行で61億トンを31億トンにする。世界の人口が現在67億人、っていうことは、権利を等しくすると、1億人で0.5億トン程度の炭酸ガス排出に留めるのが最適ということ。日本が4.5%の排出なんで、現在が3億トンを排出している訳であり、これを0.5億トンに留める事を国家間の約束事として取り組むしか無いのでは無いだろうか?

 変な小理屈よりも、日本で使用可能なエネルギー総量を排出炭素量0.5億トン相当しか国際条約で認めないというのが一番である。全ての国が人口比率に従って排出炭酸ガスを制限するというのが一番である。ここに排出枠取引なんぞ廃止するのが、環境回復には最も有効なのは言うまでもない。

 単純に言えば、暮らしは快適さを失うかも知れないが、エネルギー量は3億トンが0.5億トンで1/6になるということ。光熱費は1/6で済む訳だ、、、、。

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2008年7月 2日 (水)

How much? セラミックス!

 普通、エンドユーザー向けの製品の価格っていうのは概ね相場が決まっている。
 しかし、一般消費者向けでない製品、特に、特殊な製品っていうのは価格は決まりにくいし、表に出て来ないモノ。

 さて、そんな相場があってないようなモノの価格を如何ほどにするか?っていうのは、極めて難しい。更に、そのモノが量産体制に乗ってない場合は尚更だ。

 一つの例として、特殊な超硬合金の価格は幾らが適正か?を考えてみる。
 一般に超硬合金というとWC(タングステンカーバイト)粉末に、Co(コバルト)或いはNi(ニッケル)粉末を均質に混合した混合粉体を原料に、これを成型後焼成し、加工仕上げすることで製造する。この場合、製造方法が確立しており価格相場も概ね決まっている。

 そこで、特殊な超硬合金というと何が特殊か?というところで説明すると、材料内部にNi、Coといった元素が全く含まれていない事が特徴である。この元素は、一般に材料の製作性を高め、強度、靱性といった機械物性を高めるのに不可欠な物質だが、これがあるがために、耐食性が著しく悪化するというモノ。
 特殊な材料というのは、この腐食に対する強さを追い求めてNi、Coを極僅かも一切含まない事を特徴とする材料である。市販のNiレス、Coレスって表記材料は、厳密に言えば少量のNi、Coが含有されているモノだが、特殊材料では全く入っていないというのが特殊性である。

 この特殊性によって失う機能というのが、普通では、強度であったり、靱性であったり、製作性であったりするのだが、この強度、靱性、製作性を改善させるには色んな手法がある。
 一般には、

・原料粉末の粉末粒子径を微細にする。普通は数ミクロンをサブミクロンオーダーへ!
・全く別個の材料を用い、強度、靱性を高める。
・全く別個の材料を用い、製作性を高める。

 という方法だ。

 で、特殊な材料は、特別にNiやCoとは全く別の材料を加え、更に、通常合金材料とは1オーダー微細な超微細粉末を原料にして製作する。

 製作工程は、

1.原料購入・・・・・単価と組成を掛けると原料粉体購入価格は12,000~15,000円/kg
2.粉体混合・・・・・超微粉を湿式、乾式混合で調合する。所要時間は合計4時間

 で、製作パターンは二種類あって、基本的なホットプレス法と常圧焼成法があるが、

・ホットプレス法の場合は、(使用設備費合計は8000万円くらい)
3-1.型充填・・・・加熱と加圧を行う型に充填する。一個段取りに1時間
3-2.焼成・・・・・・加熱兼加圧で焼き固める。1800[℃]で0.5[ton/cm2]。一個を6時間
3-3.加工・・・・・・Hv=2400級の硬質材料でダイヤモンド加工で4時間/個

 因みに、素材重量は850gで粉体費用だけで、最高10,200~13,000円/個

・常圧焼成法(専用設備で1.5億円くらい)の場合は、素材重量250gに限り設備があるので、
4-1.造粒・・・・・混合粉体に樹脂バインダーを加え顆粒化。36時間/40個
4-2.分級・・・・・顆粒体サイズを整え金型充填性を高める。3時間/40個
4-3.成型・・・・・面圧で2[ton/cm2]で金型成型加工。6時間/40個
4-4.脱脂・・・・・成型加工体を素焼き状態としてバインダー除去。20時間/40個
4-5.焼成・・・・・素焼き体を1800[℃]以上で焼成。6時間/20個
4-6.仕上・・・・・単体をバリ取り。5分/個

 このような工程を要するものがある。ホットプレスで例を示すと、購入素粉体が10,000円オーバー。加工に15時間を要する。さて、幾らが適正か?

 割と具体的に書いたのは、このブログ、材料を買いたい企業のスタッフもチェックしているようなんで、少し考える材料を提供してあげているだけ。あんた達、幾らなら買う?対象は上記3の方法で製作する材料だ。
 更に言えば、前述したように、腐食因子であるNi、Coを全く完全に含んでいない材料で、世の中で唯一無二の材料である。設備チャージは明かさないが、無理に売るような材料でも無いのである。摺動材料に特化して作ったセラミックスであり、競合品が存在しないモノでもある。

 因みに、超硬材で普通のCo超硬合金の製品の価格を見つけた。

http://www.rakuten.co.jp/nishitani/511979/583154/

 である。丸で仕上げ無しの小さなモノで5.5万円だそうだ。

 ということで、価格は幾ら?というと、煙草ケース大の直方体形状メタルチップ(重量850g)、縦辺二本、横辺二本、高さ辺4本をC=5程度の面取り加工して、本音を言えば自分の管轄設備なら諸々で最低で6万円っていうのが本音である。この材料、Hv=2400以上という硬質材料で、Coレス、Niレスで曲げ強さは1.2[GPa]以上。加工するのが超難儀なのだ。
 原料費で1万円を超えるものを1万円台で欲しいという所もあるのだが、まぁ、有り得ない。

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技術vs営業

 営業畑っていうのは、結構厄介である。
 どうも、過去の経緯とか、途中の経過とか、説明事情ってうのを手順を踏まえて説明しても、そういうのを超越して論法を展開する。そういう展開論法の戦術が嫌らしすぎである。

 例えば、実績の無いモノの価格調整を行うとして、価格は幾らか?という事で、製作側からは解答しょうがないモノが在ったとする。実績が無いということは、何が起こるか判らないから、受けれないと断るのだが、、、、、それでも、強引にその価格を決めようとする。決めれないから、あくまでも断る。その繰り返しで、最終的には、仮に問題が何も発生せず、製作工程の一部を発注側が受けるという条件で、尚かつ、次回以降は、その価格は変更するという前提でありながら、一度、それで通すと、2回目以降は、その経緯を超越して、実績ベースという、、、、。それでも、製作工程の一部を発注側が処理したなら文句も言わないが、結果、出来ないと抱きついてきて、エンドユーザーの事を考えた上で、物事を進めたのだが、、、、

 そんな経緯の上で次回以降の話っていうのは、その経緯から見積もり回答すると、それが、実績と異なるんだって、、、、、。
 更に、それを断ると、仮に、この部分を発注したら幾ら?という話をしてくるのだが、既に、実績の無い話で仮の価格回答さえ出来なくなるもの。

 なんか、経緯、経過、打ち合わせを超越して、、、、というか、先方の意志疎通欠如で話を持ってくるようなところとは、、、、、微妙である。

 意志疎通欠如が明白となったのは、当初、こっちが無理だから類似品で余所の品を使えば?って連絡していたのだが、本日は、そんな価格なら余所の品を使うぞ!って脅してくる訳で、今まで何聞いていたの?って話になる訳だ。どうぞ、どうぞ、余所使ってくれとなる。端から断っていた仕事であり、余所で類似品使うなら幾らでも紹介してやるってなる訳だ。こっちが、遠慮していた話を先方の社内の意志疎通していたならば、少なくとも、余所でやるぞ!って脅し言葉は出てこない。こういう言葉が出る事自体、先方の社内連絡、意志疎通が欠如している事の証明だ。特に、今回は、技術、価格決定の経緯を全て過去の日付付きのメール等の証拠で話をしているのだが、それでも、こういう事態を招くのは、なんだかなぁ、、、って感じである。

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エコ?節約?本当は?

 表題の取り組みが盛んに取り上げられている。
 アイドリングストップ、エアコン設定温度を下げる、多人数乗車推進、マイカーノルマーデー、空ぶかし抑制、、、、、
 そして、その理由は、地球温暖化防止とか、ガソリン価格高騰に対する家計防衛とか、、、、

 でも、こういう価値観っていうのは、レジャーでは車に乗るな!スポーツカーは不要だ!実用或いは仕事のみで使うだけにしろ!って感じであり、こういうノリでは、趣味=単車、自動車、ドライブ、ツーリングって価値観自体が否定されていくのでは?と思うところ。

 確かに、地球温暖化防止、石油資源保護、、、、大事であるけど、いろんな矛盾というか無理を含んでいるように思う処。

 俺的には、仕事や実用では車を抑制するけど、趣味では燃費は気にしない、楽しみたいって思うのだが、究極的には石油資源で遊ぶっていうのは許されない時代がくるかもしれない。しかし、逆に言えば、そういう時代が来る前に存分に楽しんでおきたいってのもある。

 大きな見方で見れば、環境問題、地球温暖化対策では排出温暖化ガスを抑制しなければならない。で、結局、どの程度にするか?っていうと、これは発達の度合いとか、歴史であるとか、貧富の差、財力の差、国家間の差は関係無いって言うのが正論だろう。許容される排出ガス量が決まれば、それを人口で割って一人あたりの排出ガス量は平等にって考え方が地球に生きる人が与えられる権利が平等って観点から考えると一番スマートである。
 国家における人口で割り当て排出ガス量が決まり、結果、一人あたりが決まる。となると、結果的に、一人が使えるエネルギー量が決まる。そう、電気もガスもガソリンも全て一人が使える量は平等って考え方が一番不公平が無い。金持ちだから沢山支えるって話でなく、誰もが同じ量。現状、豊かな暮らしを享受していれば節制が迫られるだけの話で良いんでは無いだろうか?
 以前も話したけど、車も単車も何乗っても、何のために乗っても個人の自由だが、一人が使える燃料が一定という考え方で統一すれば全然OKである。

 しかし、現状はそういうレベルの問題でなく、日本では原油価格高騰、物価上昇、生活苦で節約頑張るって考え方であり、そういう論法が前提で、環境論を振りかざすのは焦点がぼやけているように見える。その論法にしても、本当に原油高騰で生活苦?って人がどれ程居るか?っていうと、これまたマスコミの報道実態と実状はマッチしていないのでは?と思う事が多い。本気で環境論を考える社会構造であれば、快適志向の重厚長大な車の氾濫や高級車販売促進は有り得ないし、家庭レベルでも、一人運転が殆どの大型SUVブームなんても有り得ない。町を見ると、生活がひっ迫した人が多いか?というと、そうは見えないというと非難を浴びるだろうか?

 ガソリン価格高騰、景気の重し、とか色々と言われているけど、ぶっちゃけた話、リッター価格が1000円くらいになると考えるかも知れないが、500円程度では多分、それ程、ライフスタイルは変わらないように思うところ。ガソリン価格に対して、マスコミが騒ぐ程に世間が敏感だとすれば、昨今の多人数乗車前提の重量級自動車、それもフル装備+オートマチックという構成、更に更に、大きめというか、大きすぎるエンジンを搭載した車が人気というのは、本当に切羽詰まった状況に無い事の証明とも思えるからだ。

 生活が苦しくなる事を望む人は居ないだろうけど、実際に資源の争奪戦、環境の変化という状態は迫りつつある訳であり、今のグダグダの中では何も変わりそうになく、破滅への道を歩むように感じるところ。
 ドラスティックな変化こそが必要であり、そのためには、ガソリン価格が1000円/リットルぐらい迄高騰して、原油消費が成立しない世の中になって、従来の価値観(企業)が崩壊し再構築するくらいのインパクトがあった方が良いのでは無いだろうか?物価のアホみたいな上昇、更には、原油に浮かんだ企業の沈没という激変が起こらないと何も変わらないような気がするところだ。

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2008年7月 1日 (火)

バイオエタノール

 ケーブルテレビのニュース番組での特集の一コマ。

 最近は、バイオエタノールが話題である。話題の在り方も様々であり、食糧と競合するようなバイオエタノールはモラルに反するという主張が否定的な意見だが、食糧と競合しなければ賛同者が多いもの。

 そんな食糧と競合しないバイオエタノールの話だが、その技術の最新事情がTBSのニュースバードって番組の特集で取り上げられていた。

 一つは、細かくした生ゴミに酵母を混ぜて発酵させた上で蒸留してエタノールを作る技術。何でも、生ゴミを燃えるゴミとして処理するでなく、エタノールに変換するという事がポイント。であり、食料以外の原料からエネルギーを作り出す技術って点がポイントだ。

 もう一つは、稲ワラに注目したもの。これはセルロースと呼ばれる成分を糖分に変えて、1トンのワラから130リットルのエタノールが作れるという。

 更には、油を作り出すボトリオコッカスという緑藻類を利用した研究。この藻は、石油の成分に近い油を自ら作る。人工的な増殖が成功すると、茨城県ほどの面積で日本が輸入する石油の量を賄えるとのこと。

 これらの方法のネックはコスト問題であり、現状では生ゴミから作るエタノールは、原料がタダでも1リットルあたり370円。稲ワラのエタノールも現在の規模では1000円前後ということらしい。
 しかし、現状のガソリンがリッター180円を伺っている。どうせなら、ガソリンを揮発油税等々増税してリッター350円以上にしてしまえば、上述のような新しい方法の注目度も高まり、利用も促進されるだろうし、それによって投資が集まればコストも下がっていく筈。
 原油依存のエネルギーシステムからの転換には良いアイテムとも思うところ。

 この記事は日曜日に書いたけど、月曜の報道ステーションを見て追記すると、スウェーデンでもバイオガスという下水から取り出したメタンガスでエネルギーを賄う取り組みを行って、税制上の優遇処置を与え普及に勤めているそうだ。(追記此処まで)

 原油価格の高騰で仕方なくという形で価格上昇する前に、ガソリン価格だけでも増税してリッター350円とか500円とかにすれば、別の選択肢の技術開発競争が勃発するだろう。そういう選択肢を世界に波及することで、結果的に原油価格の高騰も抑える事が出来る訳で、産油国以外が原油価格に影響を与えるには、別の選択肢となりうるカードを産油国に見せるのが一番である。

 まぁ、そんな事よりも、本当は脱石油という社会構造を作るのが最重要。そう思うと、日本って国家は、ホントそういうのは苦手。何でもかんでもコストが最初にありきで、経済性優先である。欧州各国の取り組みは見習うべきだけど、経済性優先では難しいだろうなぁ、、、

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新自転車主義でいこう!

 日曜日の深夜、NHKのBSでニューヨーク街物語『新自転車主義でいこう!』って番組が放送されていた。進行はヒロコ・グレースさんで、ニューヨークにおける自転車使用啓蒙の取り組みが紹介されていた。

 その番組での自転車普及推進ボランティアの人の意見で、『自転車はスポーツとしては普及してきたけど、実用的な移動手段としては普及していない』との意見。更には、ニューヨーク市街地を走る自転車の多くはメッセンジャーという人という説明。

 で、そのメッセンジャーの走りを放送していたけど、かなり危ないリスキーな運転というのが印象的。

 そんな状況説明の中で、8年程前から自転車専用レーンの設置推進を図っているらしいけど、それには賛否両論があって自転車ユーザーからはレーンに車が停まっていたら意味無いとか、、、自動車ユーザー批判が目立ち、自動車ユーザーからは自転車レーンなんぞ作って車道レーンが減ると渋滞を招くとか、、、、なかなか意見はまとまりそうにない状況。
 更には、自転車と歩行者の間の事故も多発傾向であり、ニューヨークでも自転車ユーザーのマナーの悪化を危惧する声も少なくない様子。

 自転車の利用推進を図る事で炭酸ガス排出抑制とか、色々とメリットが叫ばれているけど、自転車を実用上の移動手段として定着させるには難しい感じを受ける所。
 確かに、便利といえば便利だけど、実用上の移動という観点に着目すると、天候に左右されない要素とか、荷物の可搬性といった要素も無視できず、そういう面から主力の自動車と置き換わるというのは難しい感じである。

 実際、自分も自転車は好きだけど、実用上の手段としては、目的が決まった上で、運搬する荷物が極限られる場合、更には、自動車の場合には駐車等の手間が煩わしく、比較した上で自転車がベストと限られる場合にしか使っていない。

 具体的には、
1.町内での買い物
2.繁華街への目的物が小さい場合の買い物
3.自動車の駐車場が無い近隣への所要の際
※当然、時間的に余裕があり、往路復路に過度なアップダウンが無いのが前提。

 に限られており、それ以外では、通勤も含めて乗用車を使っている。実用上の移動の主力は自動車であり、チョットでも時間がタイトだったり、経路に坂があると、第二候補の移動手段として単車を出動させるのである。
 そう、実用上の移動手段としての使用頻度は、

 自動車>>単車>自転車

 って状況である。

 逆に、スポーツって要素で考えると、

 自転車>>>>単車 で、自動車は全く無しである。

 更に、丸ごと一日を使ってのレジャーとして考えると、

 単車>>自転車>>>>>>自動車

 ってなるのである。スポーツで自転車という状況では、炭酸ガスの排出抑制には殆ど貢献していないのがホントの所。無意味に運動して吐く息は当然二酸化炭素。更に更に、ローラー台はやかましいので締め切って夜中に行うのだが、すると滅茶苦茶暑くなるので、ここだけの話だがエアコン使っている。休日に自転車に乗ると単車に乗らないか?というと、逆に、単車にも乗らなくては!って意識が強くなり、昔より沢山単車に乗っているのも事実。となると、スポーツ、健康維持増進のためであっても自転車に乗って余計な炭酸ガスを排出しているのも真実なのだ。

 現実問題、環境問題というだけで、自動車利用を減らし、自転車利用に転換するっていうのは相当に難しそう。
 そういう面では、自動車燃料を化石燃料から転換させるのが最も近道のように感じるところ。

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どっちを優先?

 今、自転車熱が復活したのは、元々、単車ツーリングでつなぎ、革パン、革ジャンがキツイ!って感じたのが発端。
 ライディングジャケットがボンデージのようになって腹周りのファスナーがタイトになったのが原因で、冷静に身体状態を見るとメタボオヤジになった上に、高血圧の兆候が見えるようになったのが発端である。

 で、それを解消するのに、水泳で月火木金土を毎日3km、日曜日に5km泳ぐという生活を行って二ヶ月で23kg減量したのだが、その後に自転車に乗ると、楽しすぎ!って事で、今に至っている。
 自転車に乗って楽しい!って思いが復活して、折り畳み散歩車で留める予定が、今や、ロード、固定シングル~各種折り畳みと併せて6台迄増殖し、アホみたいに走り回っているのが今。

 で、新たな問題、、、、、今度は、ブーツ、革パンの脹ら脛が入らなくなってきたのである。太股はもう少しの猶予があるけど、脹ら脛が革パン、ブーツで相当にキツイ状態。
 昨晩も風呂で筋肉マッサージを行っていたのだが、脚がここ二年程で相当に太くなっている感じ。
 太股こそ、最近は変化無い周長62cm程だけど、脹ら脛は44cmになってる。太股は3cmアップに留まっているけど、脹ら脛は5cmアップである。特に脹ら脛の周長に対するアップ率は激しい感じである。脹ら脛はジーンズをまくり上げる事は今や不可能だ。
 少し前は、パフォーマンスアップ志向で鍛える事に重点的に取り組んできたのだけど、今度は単車乗るには不具合が有りすぎである。馬鹿みたいに下半身強化に務める必要も無い。実際、ホームコースでピッタリ半ズボンで走っている他の人達の脚を見ると、ホント羨ましい。凄くスリムで細くてイイ感じである。あのくらいの太さなら革パン、皮つなぎも問題なく捌けそう。バイクレッグというような逞しさではないけど、細いスリムな脚っていうのもチョット憧れるところ。

 元々、競泳(専門はブレストストローク、小学校2年~)出身で、住んでいた場所が山の上で毎日、徒歩、自転車でヒルクライム状態から自転車競技と学生時代を過ごしており、元々脚が太めだったのだが、最近は輪を掛けて肥大化してきて単車のライディングウェアに不具合が、、、、。
 今のライディングウェアは、随分前に入手したものだが、当時の体型と今の違いから、腹周り、背中周りはユルユルで、脹ら脛と胸囲がキツイ状態となっている。そろそろ、体型の変化が止まる程度の運動に控えておかないとヤバイかもしれない。

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単車の楽しいところは?

 最近は自転車ネタが多いのだけど、雨の降っていない週末には必ず単車にも乗っている。この日曜日も、昼下がりからオ・モイヨWWでホームコース走行、ルイガノMVFで娘とせせらぎ公園サイクリングの後に、SV650SとCX改で地元の峠周回をしたのである。

 自転車の楽しいところは、どんな自転車であっても自分の心肺を追い込んで目一杯運動するって処であり、なんていうか器用さとか、平衡感覚的な楽しみ、操作する楽しみとは別の楽しみ方である。
 しかし単車では、車体挙動を全身をセンサーのように働かせながら、次の動きを、車体を身体全体を使って扱いながら、アクセルワークで意のままの挙動を与えながら走るという楽しみ方である。自転車程持久系の筋肉や心肺機能を発達させる必要は無いけれど、車体を通して挙動を全身で感知して、次の挙動を全身と右手の動きを使って生み出すという平衡感覚、情報処理速度、対応速度の面では自転車の比ではない。

 自転車で自分が満足を得る感覚と、単車で自分が満足を得る感覚は全く別個のモノであり、どっちが楽しいか?どっちが難しいか?というと、簡単に結論を出す事は出来ない感じである。
 単車の楽しみ方は様々だが、自分のように意のままに操っていると自覚する事を楽しみにする人は少数派だが、この意のまま感っていうのは、これまた一朝一夕では身に付かないモノだと思う今日この頃である。如何に、スペック的に高性能の単車に乗っても、使えるかどうか?は別問題であり、高性能の単車のシビアな動きを体験する事自体も、免許とって直ぐであるとか、経験の無い人には不可能である。そんなシビアさを体験するには、ステップアップが必要で、それをショートカットすると重大な事態に陥ったりする訳だ。

 決して、自分自身が他人より速いとは思わないが、今の自分は昔の自分よりは、いろんな操作ができるようになっているのは確かであり、今では、思い付く操作が比較的楽にこなせるようになっている所に満足感を覚えるところ。
 特に、週末に単車に乗って走り回ると、股下で単車を扱っているという実感が感じられるのはとてもイイものである。そして、その実感っていうのは、特に単車が曲がる場面で感じる事が多い。単車の楽しいところは、何と言っても曲がる瞬間である。この曲がっている時、曲げている時っていうのが、単車を扱う醍醐味だと自分は思っている。

 振り返れば、小学生、中学生の頃は自転車好きだったけど、下りなら自転車は単車に勝ると本気で信じていた事もあるけど、今はどんなに逆立ちしても下りの峠でも自転車は単車には適わないと思うところ。やはり、下りにおいても重力に加え動力を付加させる単車っていうのは、自転車の比では無いのである。

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