金とかスペックとか
昨日、ニシダサイクルのお兄さんと一緒に泳ぎに行った帰りでの話し。
金についての話。金ってなんぞや?ということ。この話の発端は私のブログに度々記載している経済優先の原則への疑念の記事に対しての話だ。
自分の持論としては、儲け第一では考えない。金なんぞ、どうでも良い。と常日頃言っている。
そういう持論に関して、周りに本意が伝わっているか?というと、そうではない場合が多いって話をしていたのである。持論である、金はどうでも良い!っていうのは、決して、金が要らないと言っている訳ではない。金はどうでも良い!と言いながら、例えば、給料が安い事を気にしないといって就職活動するのとは全く異質のモノである。
金が要らないか?というと、そうでなく金は要るモノである。そんな事は当然でが、金なんぞはどうでも良いっていうのは、物事を進める上で、検討事項の最上位に儲かるかどうか?或いは、金が掛かるか?掛からないか?というのが判断材料に無いというだけの話である。
金が要るかどうか?というと、それは自分の目的或いは行動に対して、自分が判断して適当と思えば支払うし、行動の価値を判断した上で請求するという話に過ぎないのである。自分が何かを依頼したり、或いは、趣味のためにパーツを購入したり、単車を購入したりという事は度々あるし、そのための改造を依頼することもある。その手間や価格が高いから、安いからでモノの選択するのではなく、自分の目的に合うか否か?のみで、合えば対価を支払うだけの話であり、予算の範囲で必要な機能を妥協することは有り得ないというだけの話である。
逆に、自分の行動による報酬が自分の目で判断して適切かどうか?を自分で値付けした上で業務は請け負うというだけであり、見合わなかったら他を当たって貰うだけの話である。これは、企業勤務においても同じ論理で行動しており、自分が行った事と他人がトライして行えなかった実績を判断して、自分では、人が出来ない事を永遠に行い続けるというのは有り得ない訳である。過去、何十年に渡り出来なかった事を仮に完成させたとして、その対価が給与所得オンリーの場合は、完成後暫くは、意識的にアイドリング休眠モードとして、鋭気を養い、趣味に傾注し、そのツケを回収する迄は次の業務は請け負わないというのをモットーにしている。
金額の値っていうのは、そこに含まれる価値や手間を纏めた数値尺度に過ぎず、その額面数値に自分の判断した価値があれば、その金額での契約行動を起こすだけなのである。これはモノの金額数値に限った事ではなく、実は、色んなパーツのグレードであったり、ブランドであったり、或いは、カタログスペックに対しても全く同じ考え方で接しているのである。
どんなに高級なブランドであっても、夢踊るカタログスペックや、仕様や装備であったとしても、それを自分が必要としているかどうか?で、判断しており、不要なモノに拘らないというだけの話である。
金やスペックはどうでも良いというのは、その値を行動の判断基準にしないというだけの話であり、高額だから、或いは、ハイグレードだから、自分が高性能とか立派とかという価値観を持ち合わせていないというだけの話である。
そういう考え方は、昨日の記事において産業界が本質論より経済論理を優先して企業活動の指針を定める事に違和感を感じる事のバックボーンにも繋がっているのである。本質的に良いモノか否か?以前に、儲かるか?否か?で行動するのは、自由経済的には間違い無い行為なのは理解できるが、その過当競争と都合のよい環境保護論理の果てが現在の環境破壊や貧富の差という状況を生んでいるのは間違い無い事であり、都合の良い規制解釈っていうのは、利益追求活動の妨げにならないという前提を含んでいる事自体が不愉快なのである。
本来、考えるべき方針は、規制云々の前に道理的、道徳的に反するか否か?が先に来るべきモノであり、それが本質論だと思う訳だ。
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