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2008年9月11日 (木)

中年に必要なのはダイエット、メタボ対策、、、、、自虐か?

 ちょいと不思議に思うネタ。
 最近は三十路、不惑を過ぎたらメタボ対策が必要とか、アンチエージングとか、、、、、四十過ぎたら衰えるとか、、、、或いは、新しい事を始める場合でも、歳が云々とか、、、、、そういうのを良く聞く気がする。

 それに違和感を持たず頷けば、それは当然の事のようでもあり、、、、、しかし、それは当然か?というと、これまた当然で無いとも思うのである。因みに、これを当然という考え方の前提では、二十歳迄が成長で、それ以降は死ぬまでに衰える一方、、、、、、って常識?が罷り通っているからでもある。
 確かに、成体に向けてサイズが拡大している最中は細胞数は増加の一途を辿る。逆に、成体に達したら細胞数は平衡から減少に転ずる。しかし、数が減少する事を保って後退、老化と言えるのだろうか?というのが最近の考えである。
 自然科学においては、どんなモノであっても変化する場合には、一定の法則がある。変化が連続的に行われている場合は、一定方向に変化したら、収束する前に確実に反対方向に振れる。そして、その振れ幅が小さくなりながら収束に向かうモノである。
 ならば、細胞の数的変化を考えても成長過程で増加し、その後減少する事は自然の摂理であり、その減少っていうのが機能低下に直結するものなのか?或いは、増加の後に、成体に要求する機能、或いは、ランダムに発生した群からの淘汰的減少では無いのか?とも思う訳である。
 少なくとも、成長期迄の期間よりも、個体完成の成長期以降から老衰に到る迄の時間の方が遙かに長いのは事実であり、成長が停止したら機能喪失に向かうっていうのは極端な考え方だと思う。

 生物の存在の目的っていうのは、確実に言える事は種を繋ぐ事である。成長というのは、個体の完成迄だが、個体の完成というのは種を繋ぐ能力が備わる時期であり、個体としての役割終了っていうのは、種を繋ぐ能力が失われる時期だと考えるのが妥当である。そう考えると、種を繋ぐ能力を持つ期間というのは、少なくとも個体としての能力が顕著に失われている筈もないと考えるのは間違いでは無いのでは?とも思うのである。
 人間という生き物では、卵を無限に産んで子孫を残すというよりも、一組のつがいで、多くても二人程度の子孫を残すという少産系の生物であり、そのために子孫を残しうる期間が昆虫等に較べると長期間であり、少なくとも、子孫を残す機能が備わっている期間というのは生物としての機能低下は顕著でないとも思えるのである。

 そういう見方をすれば、最近のアンチエージングとか、ダイエットサイトで言われている二十歳を過ぎたら老化で衰えるとか、肥満等で健康を失うって文句に対して、これって、果たしてそうなのか?二十歳を過ぎたら単純に衰えて、無駄を蓄えて健康を失って、、、、っていうのが生態的に顕著に現れる摂理なのか?というと、最近は、そう思わない事の方が多いのである。

 まぁ、身体が大きくなる、個体としての成長過程が二十歳頃迄っていうのは理解できるが、成長過程が終わったら滅びモードに以降するか?というと、それも極端な話では?と思う事の方が多いのが最近の考えである。
 根拠は無いけど漠然と思うのだが、勿論、理由がある。それは、二十歳までに成長した生物が、成長後の成体として何時まで生存可能か?と考えた時、現代ならば80歳程度は楽勝だし、西洋医学に頼らずに自然に健康を維持している人ならば、更に長寿っていうのが珍しくない訳であり、そうなると、寿命の内、最初の二十年如きを終えたくらいで機能を著しく失い始めるか?というと甚だ疑問なのである。

 そんな事を言いながらも現実社会では、二十代後半にしてヤバ目な人も多いし、三十路過ぎた所帯持ちを見ると不健康が集積したような人も多いし、壮年期の頃になると病院通いがデフォ化しているのも事実。
 でも、最近思うこと。それは、通勤途中で見る学生さん達の状況。小学生でもメタボ系、中高生でも終了系?、女子高生でもオバチャン?ってのが、凄く多いのも事実。これが稀な例ならば変異か?ともいえるけど、そのような不健康な中年的な子供が異様に多いのも現実であり、中年子供の存在は、加齢による機能低下や老化が不健康の主要因という常識を成立させない状況とも言う。

 そういう事を踏まえ、自分のコンディションの変化も踏まえ、今の考えっていうのは、肉体的機能の低下等々っていうのは、少なくとも子孫を残す機能を維持している間については、加齢的、老化的要因が支配因子でなく、ライフスタイル自体が支配的な機能低下因子ということ。電子ゲームに傾注し、菓子ばかり食って、外で遊ばないガキ共の見た目というのは、仕事に追われ、活動的な生活が出来なくなった中高年の見た目と同一のモノであり、共通しているのは、理由は何であれ、健全な食習慣と運動習慣が維持出来ない結末に過ぎないと言う事。そんな風に思うのである。

 あと、成長期過程と完成後の違いで最も大きなモノは、個体内細胞数が増加傾向にあるか平衡状態にあるか?ということだが、肉体的な能力、神経的な能力は成長期において決められるっていうのは現実としてあるかもしれない。成長期に取り組んだ運動や勉学っていうのは、その時点で完成するもの。逆に成長期において個体完成に至る過程で、機能を取り込むプロセスを踏まなければ、完成時点において備わっていないのも現実。
 成長期を過ぎて個体が完成した時点で、そういった能力を持つか持たないか?は決まるものでは無いだろうか?機能を作らなかった者っていうのは、成長期以降において相当な努力と労力を払っても手には入れれないかもしれない。逆に、成長期において機能を獲得しながらも、成長期以降に機能を使わずに眠らせていた者っていうのは、成長期以降においても、その能力を覚醒させる事が出来るのでは?とも思うのである。勿論、覚醒させる事が出来るのはピークから眠らせ続けた時間に反比例するものだろうが、少なくとも、個体の機能が維持出来ている期間においては、殆ど100%に近い機能を目覚めさせる事が出来るとも思うのである。

 このような感覚に到ったのは、自分的に運動という観点からみた暗黒?の三十代を過ぎて不惑の四十代になっているけど、運動能力的に二十代以前と比較して実感する程に衰えているか?というと殆ど感じないという実体験に基づいての話があるからだ。勿論、疲労の回復もそうだし、無酸素運動的な限界能力もそう、有酸素運動での負荷、持続時間もそう、当時出来て今出来ない事も在るんだろうけど、現実的にそれが実感出来ない。
 その一方で言える事は、十代の頃重点的に鍛えた心肺機能や下半身の筋力が当時と同レベル以上を確保する事が出来ていても、二十代後半以降から取り組んでいる上半身の筋力強化の取り組みの成果は、十数年の期間を経ても下半身の強化到達レベルには達していないと思う。これからも、昔得た能力を覚醒する事は出来ても、成体化して以降の取り組みでは新たに能力を獲得するのは極めて困難という思いに繋がるのである。

 『昔取った杵柄』って言葉があるけど、それって、こういう現象の事を言うのだろう。

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