事故米騒動から見える事。
今週のニュースというとリーマンブラザーズ破綻のニュース一色に為っているけど、先週迄のニュースというと(問題は解決していないが、、、)、事故米騒動。
この事故米騒動っていうのは、毒物やカビ混入の米を食用に転ずることで儲かるという事で故意に起こした騒動だ。故意にリスクを承知で実行するっていうのは、実行しても何の差し支えも生まれないという土壌があるからのもの。背景には、人間の意識として、ばれなければ何してもOKという意識が作用している。
ばれなければ何してもOKという意識がエスカレートすると、絶対にばれない様にする!?って意識に変質しがちだったりする。
でも、この問題、今回の事故米に限らない問題。自動車のクレーム隠し、強度計算の改竄や偽装、試験データの捏造、消費期限や賞味期限、産地偽装・・・・・分野的に問題が生じない分野は無いというのが現実だ。工業、農業、医療、、、官僚、役人、政治家迄、アリとあらゆる分野でありとあらゆる立場の人が、こういう後ろめたい事をしていない限りは、こうも明らかになっていない筈である。
恐らく、ありとあらゆる分野で、こういう表に出ると不味い措置っていうのは行われているのだろう。こういう社会で糧を得るというジレンマが告発者が出ない理由でもあるんだろうなぁ、、、、
こういう世の中では、潔癖を主張し過ぎても生きていけないのも現実。しかし、言われるがまま、為されるがままっていうのも如何なものか?とも思える。大きな視野で考えると、社会を先導する少数にとっては、民衆の大多数が先導に従うような集団である方が都合が良いのも事実。最近の意志の希薄さ、絶対性の無さって傾向は、そういう民衆思想?をコントロールする事を目的とした教育の結果か?と考えたりもする。
多くの消費者を欺く偽装行動に対する世論の厳しさを見る限りは、罪の深さに対して甘い気がするし、組織内等で蔓延る改竄、偽装にしても、それが無ければ商売が成り立たない(≒自身の生活が破綻する)場合は、それに対して殆どが黙認、容認、見て見ぬフリという態度を取っているが、それが許せるというのは、その嘘の上に自身の身が成り立ち、或いは、自身がそれを否定しきれる状況に無い事を示してる様に見える。
どんな行動でも故意か否かで罪の深さは異なるかもしれないが、何かの数値決定に際しても根拠を以て決定する場合、或いは、その数値を引用、慣例、伝聞に従って決める場合があったとして、その結果が過ち出或る場合、前者の場合は、過ちを認める意志が働くが、後者の場合は責任を引用元、伝聞元に添加したり、或いは、過ち自体を問題になるまで放置する傾向が強い。この二例の何れも意図的な改竄、偽装とは異なるかも知れないが、自分の考えでは、考えるべきポイントを無視?し、決定に根拠の無い(意志の無い)伝聞や慣例に従う時点で、やはり潜在的には本来行うべき判断を故意に避けているようにしか見えない。
意図的な、故意な改竄、捏造、偽装っていうのは勿論悪だが、判断に思慮の無い伝聞、引用を用い、結果的に生じた不具合に対する対策なんかの場合は、罪悪感の薄さから対応が遅れる場合も少なくないけど、そういうのも、判断する際に思慮を働かせなかったという責任が結果を招いている訳であり、やはり、悪であろう。そういう空気が昨今の不祥事の問題の遅さの一因にもなっているかもしれない。担当者が真剣に判断を行い、責任意識を持っていたとすれば、対応は相当に早いのでは無いだろうか?
昨今の対応っていうと、遅さが露わだけど、多くの人が、その事態に応じて判断するという自主性が無くなってきたという社会の傾向なのかなぁ?と考えたりもする。つまり、物事の判断を自分自身で行う。或いは、行動の目的を自分で定める。類似のモノでは、オリジナリティーを重要視し、模倣をさけ開発を推進する。そんな、オリエンテッド崇拝の志向が薄くなっているように感じる。結局は社会を構成する人の教育自体に問題があるのか?とも考えたりもするのであった。
| 固定リンク
コメント