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2008年9月 2日 (火)

非被教育の果て

 勤務先での今日の予定は、抵抗加熱炉のヒーター電極に電源から繋がる水冷電源ケーブルの交換であったのだが、朝、場所に出向くとと水冷系を共用する別の加熱炉が既に動いている、、、、、。
おい、水冷電源ケーブルへの冷却ラインがはずせないでないか、、、、、、まじかよ、、、、、。

 先週、本日月曜に水冷ケーブル交換を伝えていたのに、、、、水冷系統に水を流すなんて、、、、、因みに、水圧は4kgf/cm2。分配系のバルブの締まりが悪いので、基本はポンプを停めて作業する必要があるのだが、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。

 今日は予報では暑いということで水冷ケーブルの交換作業は午前中にしたかったのだ。このケーブル、周囲がグラステープで巻いてあるんで暑さと汗でガラス繊維で身体中が痒くなりかねないのである。やってられない。何考えているのだか、、、、。多分、何も考えていないのだろうし、何にしろ、作業するにしろ、部品見るにしろ、その外見、その瞬間のみを切り取った写真のように眺めるだけの観察力しかないのだろうなぁ、、、、作業や部品の前後、因果、意味を考えて何するか?どうするか?どう影響するか?これをヒントに次の対策は?って連続的な見方が出来ないのだろう。過去の流れを見て、現時点を判断して、過去の流れから未来を予測して手を打つっていうのが人間。この考え方こそを学校教育で習うものなのだ。

 話は変わるけど、そもそも社会に出るにあたって教育とは?というのには、塾講師経験上一つの考えを持っている。

 幼稚園、小学校低学年、、、、これは、好奇心を育み、色んなジャンルに潜む色んな知識のサンプルを見せて好奇心を煽るのが教育だと思う。

 小学校高学年~中学校、、、、、これは、幅広いジャンルをそのままに、そのジャンルにある知識や決まり事が現代において、どのように洗練されて今の形に行き着いたか?を歴史的な進化を早足に簡単に伝えるのが教育だと思う。人間の進化でいうと、赤ちゃんが母体の体内で受精卵から生物の進化の過程を急ピッチにトレースして人間の形に以降する期間に似ているようにも見える。

 中学校~高等学校、、、これは、様々なジャンルで、様々な知識、その知識や公式、ルールの生い立ちや原理を示し、全ての分野において、同じように知識には手順を経て今の形になっているという法則性を示し、その法則性から未知を解明する最も簡単な手順を示し、将来において様々な分野で遭遇するであろう問題を解決する手法を知らせる事が教育だ。様々な論法、ストーリーにおける起承転結、数学での三段論法、帰納法等を知らしめて、それを使うトレーニングを行うのである。

 高等学校~大学、、、、これは、過去において分野全般から分野毎の特定範囲で未知を解明する手順を習得した?と判断された者が、実社会において分野横断的に知識を駆使して新たなる知見を生みだすためのトレーニングを行うものである。実験計画法、或いは、論文作成、、、、そんなのは、新しい発見を知識として社会に残す作業であり、その先導が出来る能力を身に付ける。これが教育ではないだろうか?

 という風に、教育とは、瞬間でなく、その瞬間に到る経緯を理解し、その経緯とリンクさせた形で瞬間から未来を読む能力を身に付ける事である。そう、すべての事柄は目に見える事だけではないのである。目に見えたものから、どれだけ世界を広げれるか?が鍵である。

 教育においては答えを合わせる事は無意味である。公式を機械的に覚えるのも無意味。受験勉強で過去問のみをトレーニングして傾向と対策しか習得しないのも無意味である。レールの上、或いは、瞬間の判断しか出来ない人間は、存在価値無しである。こういうのが、言われた事だけしか出来ない。言われた事の先、前後が読めないという結末に到るのである。

 話は戻すけど、普通に教育を受けて社会に出るっていうことは、その瞬間を見て判断するでなく、その瞬間、その物、その現状を見て、その前後関係、因果を類推し、次の手を考える事を自分で行うってことだ。だから、人が何しているか?人の理屈はなにか?はどうでもよく、自分が考える姿勢が必要なのだ。指示がなければ的確に動けないっていうのは、駄目なのである。

 でも、新入社員教育、新人面接、或いは、塾の生徒、生徒の父兄・・・を見て、そういう原理的な事が通じ、それに価値を見出し、そうなりたいと願う人っていうのは、実は超少数派なのである。自分の力で、自分なりの答えを人に聞かずに出す。これが出来るのは案外居ないのである。これは企業の経営者にも言える事。

 殆どの奴が、指示を求め、解法を求め、アイデアを欲しがる。発明に憧れるが模倣しかしない。そんな状況である。自分で、自社で物事を生み出すという創造性に欠けているのである。

 因みに、物事を考える時は、その事実の因果関係を見るのが大事だが、人間関係を見る時、或いは、裁き事、相談事に直面する場合も責任を持った奴っていうのは、考える案件を取り巻く状況を総合的に判断するもの。状況判断を偏見による一意的な見方しかできない奴もいるが、そういう奴は、物を見る角度が変えれない奴であり、そういう奴は物事を考える時に見方を変えて自分の答えを出す事が出来ない場合が多い。話が行ったり来たりするけど、どんな分野の科目も似たような物で、文系も理系も無いのであるが、全ては、物事の前後関係を的確に把握するのが大事なのだ。

 そう言えば、裁判員制度っていうのが始まるけど、その事件の背景、或いは、その事態を招くに到った経緯、背景等々をしっかり考えれる人間が制度に参加しないとヤバイんでは無いだろうか?
 感情的、短絡的に判断するならば、制度自体が無意味であり、犯罪のレベルに応じて機械的に量刑を当て嵌めれば済むのだが、それをしないというのは、量刑の適応を社会の常識、価値観、道徳観と照らし合わせ判断するのが目的だろうし、それには、事件の経緯等時間的な連続性からの判断が求められる訳だが、そういう連続性、立場毎の言い分を等しく見る人が必要だ。

 新しい裁判員制度に、このような瞬間判断しか出来ない人間や、局所からの伝聞のみで自己判断のみで行動するような人間が混ざる事はとても怖い事のようにも思うのである。

 話がそれたけど、こういう社会の国は、リビルド、リストラトされた方が幸せになるかもしれない。いっそ、大不景気で生きるか死ぬか?生きるために、生活するためには何が必要か?そういう状況に追いつめられるような社会がきた方が良いように思うのである。

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