株価下がって、何か問題?
株価が下がって問題!って話し、ニュースで聞くけど本当に問題?ってところ。
株価下がって時価総額が目減り!って時価って概念が怪しすぎ!?
株安の連鎖に悲観論が飛び交っている。しかし、株価が下がって苦労するのは、基本的に組織でも個人でもだけど、実力以上の企みを持つ人が殆どではないか?組織で見ると、株式市場で資金調達が必要という段階で、その調達が適わないということだろうけど、調達しなければ事業が先行かないのなら、その事業自体が調達に見合わないとも言えるし、老後の資金を株式や投資信託に充てるのも、欲が先行した結果。リスクがあるからリターンもある。老後が不安というのは、最低資金の概念を持たない人の野望?無謀?による結果とも言う。だから、株式投資を行っていない人にとっては、「株安、株安と騒いでいるけど、生活にどう影響するの? 」となる訳だ。
株価低迷で投資が行われなければ資金が市場から消えて無くなる。結果、倒産の憂き目に会う企業も出るだろう。でも、存在意義の無い企業を生き残す必要もないというと言い過ぎか?金を必要とするよりも、金が集まる事業を発案する事が全てであり、前後関係がひっくり返っているから悲観論が先行しがちとも言う。
多くの人は株価反発を期待するが、株価の反転をツケの先送りのような赤字国債発行や公共事業発注で賄うのもナンセンス。大きな代償を将来に転嫁しているだけだ。完全なリストラクションこそが最大の景気刺激策だと思うのは言い過ぎか?
本当は教育の充実、モラルの維持という部分が一番大事で、そこで生きる力≒独創性のある発想が出来る人材の育成≒競争力の確保できる技術という方程式を地道に積み上げるようなのが一番のように思う。逆に、それが出来ない人、組織は消えて無くなるのが淘汰の論理のようにも思う。
社会的弱者という表現があるが、弱者は最初から弱者である例が極稀であり、殆どが、人生の何処かの部分で輝いていた筈。そこでの過ごし方、怠け、堕落が後のツケとして廻ってきたとも言う。苦労の度合は現在の社会で人それぞれだろうが、その現状は、その人の生い立ち、生き様が自分で生み出したモノでもある。そういうものだろう。逆に、現状でも他人事のようにあぐらをかいている人も居るだろうが、それも何時か代償を払う時期が来るだろう。
そもそも株式という企業活動資金を市場から集めるというルールだけど、その株式っていうのは投入資金による事業が成功した時に、投入資金配分に応じて利益を回収するというシステムであり、資金を募っても市場が判断しなければ資金が集まらないのが本来の姿。資金の収集力を上げるような事業こそが、この経済システムにおける必要な力となりうるという原則論を唱えるっていうのは間違いだろうか?今の施策っていうのは、例えば、公的資金の注入とか、公共事業っていうのは、絶対に事業が成功しますよ、これを保証しますよ!って宣言であり、仮に、そういう形で株価数値を引き上げても、市場において株価を牽引する事業自体が作為に満ちているとも言う。
今回の株価下落は、そういうツケを払っているに過ぎないようにも思う。そのツケが応える人や組織っていうのは、過去において、ツケを利益として享受しているのでは無いだろうか?
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