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2008年11月 9日 (日)

メンタルヘルス講習会は大切さ!?

 先月も似たような記事を書いた。先月は『月間安全衛生ノート』って本の特集記事からの引用で、記事的には↓

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/10/post-5d21.html

の記事だが、ここでは、うつ病の原因と対策を自分なりの意見で書いたけど、本日(木曜日)には、厚生労働省の公示に従って、企業として従業員のメンタルヘルスの取り組みを行うということで、アドバイザーを招いてのメンタルヘルス研修会なるものが開催された。

この研修会は、午前の部、午後の部で管理職、安全監督者、労働組合関連の人員が総勢100名程が50名ずつに分かれて受講した。
研修会には、厚生労働省から派遣されたアドバイザー(ケロンパ似の薬剤師)の方が1時間半にわたり、メンタルヘルス研修の必要性を説かれるというもの。

ストーリー的には、自殺、鬱といった症例がここ数年、特に1998年以降に急増している。その原因であるストレス等の問題が1980年代以降特に顕著である。という統計に従って、国として厚生労働省が通達ないしは公示を出して取り組むという流れを説明しつつ、そのストレス問題等について解説なさるもの。

確かに、ストレス等によってメンタルヘルスケアが必要な人が存在するのも理解できるし、そのためには、そのケアを行う事によって国民を守るっていうのは必要なのかもしれない。
しかし、個人的には必要かもしれないが、その問題の解消は、果たして厚生労働省主導による生活の仕方等のアドバイスとか組織としての取り組みで対応するっていうのは正しいものか?というと、疑念が拭いきれないのがホンネである。
前提として、メンタルヘルスが必要なような状況を個人に負わせるのが社会構造による不可抗力からもたらされているかのような説明では尚更である。

自殺、ストレス、躁鬱、、、、いろんな症例があるようだが、この問題は、もっと根深いところにあるように思うのである。そのような負荷要因が社会構造にあると症例者の外界に原因を求めるのはナンセンスというのが持論である。原因は症例者の内面にあるのでは?と思ってしまうのである。そして、症例者の内面的精神、思考っていうのは、個人の成長によって形成されるものだが、その形成には教育が深く携わっていると思うのである。

 本来、世代単位で社会訓練を行うのが教育機関である。その教育機関では、学業を通じた知識の習得は勿論だが、その知識の習得に併せ、様々に出会う事例に対する好奇心を紐解く術を学ぶものでもあるが、個人の適性に併せ様々な世界が紹介される機関でもあるのだ。そう、教育を受ける時代は、個人の持つ可能性を信じ、様々な世界を紹介し、それぞれの世界における好奇を追求させるような深さと、追求させる手法を身に付けさせる時代でもある。そうやって過ごす事で、個人が得手、不得手を理解し、その中での己の考えを平衡させる訓練を行い、嫌な事でも消化できる耐性を身に付けるというのも社会に出る前の準備として重要なのである。

 どんな問題に直面しても、人間という生物の本能は自己を否定するというシステムは持ち合わせていない。個体としての完成は自己肯定が原則であり、自己否定で思考停止に到るっていうのは、個体として完成しているとは言い難いと思うのだ。様々な要因によって、自己否定に到るとされているが、その要因が、少なくとも外的要因(内的な疾病等は除く。)の場合には、個体の成熟度不足が原因では?と考える考え方は成り立たないのだろうか?

 時代背景的に、このような問題が明るみに出始めたのが1980年代半ばからだそうだ。そして、1998年頃からは問題が社会問題化して国として取り組まざるを得ない状況になっているという。この状況を見て、時代の流れが速くなったとか、或いは、パソコン、インターネットの普及がストレス因子になっているという話しもあるけど、そんな問題とは違うように思うのである。
 1980年代半ばからっていうと、教育においては、それまでの学歴社会、詰め込み教育と落ちこぼれによる校内暴力等が社会問題化し、教育の方向が転換を迎えた時期である。大学入試においては共通一次試験が始まり、受験戦争という言葉で偏差値偏重ながらも採点者側の効率性重視から選択問題という時代。学歴社会故に多数の人間が進学し、その人数に対処するための方針変更だと言える。
 その後、指導要綱の度重なる削減による教育機関で過ごす時間の短縮化して進んできたのだが、

 学校において、様々な好奇の対象にふれあう頻度が減り、好奇探求活動の機会を失い、手法を学べず、社会性を養うための時間さえも減り、数値的な点数偏重であったり、個人で過ごす時間ばかりという状況を生んでいるように見える。結果、自分で置かれた状況で最適な判断を下し行動を自主的に行うって力が失われつつあるのでは?と思うのである。そのために、社会のストレスとよべないストレスで自我崩壊したり、自信喪失に繋がるのでは?と思ったりする。
 実際、塾でも会社でも、無から生み出す力を持つ人は皆無に近いし、指示命令がなければ自発的に行動できる人も皆無に近い。言われた事は出来るけど、何も言わなければ活動が停止する人は極めて多いのだ。これは、問題に対する自己確立が自分で出来ない事とは強ち無関係とは言い切れないと思うのである。

 メンタルヘルスケアが必要な人には必要かもしれないが、今後、未来永劫にそれがデフォルトとは思わない。必要な状況な人に接する側を教育するのではなく、必要な人自体の変革が必要と思うのである。また、未だ社会に出る前の準備段階の人に対しては、教育における自主性、自立心、独自性を育み、最低限、属する社会における調和を訓練するような教育に変革することが大事なのではないだろうか?
 俺的には、厚生労働省が問題提起しても、対応は文部科学省が行うべきと思ったりするのである。

 話しが脱線するけど、昨今の金融危機による不景気を恐れる声がある。企業における収益力低下、生活困窮を危惧する声もある。しかし、外貨を稼ぐ事が使命の日本の競争相手は海外であり、それに勝たなければ未来は無いとも思うのである。大勢の人間が食いっぱぐれても、或いは、貧困に窮しても、いまのような飽食の時代におけるマナーの低下、自己防衛本能の喪失のような状況では絶対に勝てないと思う。BRICs諸国の上昇志向の強さ、ハングリーさ、ストイックさ、逞しさは、何でも豊かな日本人の比では無いだろう。
 昔の大藪晴彦の原作の小説、蘇る金狼の松田優作ではないが、『狼は生きろ、豚は死ね』である。そういう精神面の改革が必要なのでは無いだろうか?

 ドラスチックな変化こそが人々に切迫感を与え意識改革に繋がるようにも思うのである。支え合う事が不可能な程の荒波に晒されれば、過保護に覆われる事を当然とするような人の意識も変わるかも知れない。実力の無い企業、得手の無い労働者は消滅するくらいの変革が必要なようにも思うのは言い過ぎだろうか?

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