ロードレーサーの本質は不変。
表題の自転車は、昔は乗り手も一定レベルでなければ乗っては為らない物って印象がある。昔のロード乗りは、殆ど競技として取り組んでいる人(準ずる人)って印象が強かった。少なくとも、自分はそう思っていたし、自分が最初にロードを造る時も、似つかわしいか?を考えていた記憶がある。
当時のロードっていうと、潔さの象徴であり、チューブラーは当然、荷物の装備は基本は無し。そもそもサイクリング車とは異なるモノであり、それは当然の話。ギア比も然り。想定されたコースで最高の速度が得られるセット。前ギアは55-44T、53-42T、52-42Tがデフォルト、後ギアも13-21T、13-23T程度が標準。そういうモンだったのだ。
だから、当時の自分はロードバイクに畏敬の念を感じていたし、ロードバイクに乗っている周りの人は、みんな上手く、速く、格好良かったんで、尊敬できるというか、憧れる人だったのだ。そう、ロードには羨望の眼差しを送っていたのである。前の記事↓
http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/11/post-d594-1.html
にも書いたけど、大学自転車部時代の二年上の先輩とのが街道練習では、ハッキリ言って全く付いていけなかったし、何時も待って貰っていた程。そういう人が乗る自転車がロードレーサーであり、ロードレーサーに乗る人は、走でなければならないって思いが非常に強いのである。
そして、ロードバイク向けのレーシングコンポは、やはりロードバイクのための存在。ロードバイク以外に使うのは失礼にあたるとさえ思っていた。
それが1980年前後の自分が持っていたロードバイクの印象というか、考え。
チョット前に、ロードバイクとは潔さだ!ってノリの記事を書いた事↓があるけど、
http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/08/post_c9db.html
今思うのは、最近のロードレーサーに何故だか潔さが無くなってきた?って思うと同時に、ふさわしい乗り手像も大分変わってきた印象だ。実際、最近のロードモデルをロードレーサーと表現するのは違和感アリアリで恥ずかしい感じで、ロードバイクと表現する方が納得出来る感じ。なんか、乗り手を選ぶべき存在が、超フレンドリーになってきたと同時に、ユーザーもモノに選ばれる存在で無くなってきた印象だ。
でも、それは自転車の世界に限らず、単車でも、四輪でもだが、当時はメディア(殆ど雑紙オンリーだが)の姿勢もそうだった。単車でも、免許とって直ぐリッターバイクって論調は皆無で、原付からのステップアップの重要性を説くのが多かった。自転車でもそう。入門スポーツ車、ランドナー、スポルティーフが基本。でロードに憧れるなら、目的を持って、乗れる身体から作れ的な論調だった。でも、今は違う。舗装路で風になるには、、、、なんといっても細いタイヤで軽い車重のロードバイクがお奨め!って論調。カッコイイバイクを奨める事、紹介する事が雑紙やショップのトレンドとなっている。そう、ロードバイクに格式は存在しなくなっている。当然、ロードレーシングコンポにも格式なんぞ存在しない。明らかに似つかわしくない折り畳み自転車にDURA-ACEも普通?に為っているのは、なんだか違和感アリアリなのだ。
時代が変わってしまったというか、即物的になったというか、そんな感じである。
ただ、メディアが如何にそう言っても、時代が変わったように見えても、素人が気軽にそういうバイクを買ったとしても、モノの本質は変わらないのだ。モノの価値は不変であり、モノがモノらしく機能するための必要条件は、昔も今も何も変わっていない。見た目だけが優しくなったように、敷居が低くなったように見えても、モノの本質、奥底の部分では、なにも変わらないのである。やはり、フルサイズのロードバイク、ホイール径も変わらなければ、ポジションも昔のままだ。ギア比こそ多少は軽いギアが付いてはいるけど、本質は昔のままなのだ。だから、バイクがバイクらしく走るには、昔も今も見合った技量と身体が必要条件なのだ。
話が脱線するけど、似たような話で、最近は、アルミとか鉄のフレームを下げ荒んだ風潮がある。確かに、普遍的かもしれないが、アルミ自体、鉄自体の本質は昔と何も変わっていないのである。時代が変わって価値は失われていないのだ。本質は何も変わっていない。そんな印象。見栄えが変わっても実は本質は変わっていないのだ。
で、最近耳にした笑える話。ショップに自転車ビギナーが、ビギナー向けロードバイク(昔流に言えばロードレーサーでビギナー向けっていうのは有り得ないのだが、、、)を買ってギア比が逢わないそうで、ギアセットを乗る度に果てしなく軽いギアセットに交換するんだとさ、、、、
軽いワイドなギア、、、、、これって、ロードバイクの乗り方とは違うんでない?って思う程。最初から小径、MTB、クロスバイクあたりを買うのが正解なんではないの?って思うところ。まぁ、軽いギアに変えたいって思うのは正しいけれど、実際、そういう人は相当に多そう。
それにしても、ダイエットの話では、自転車や水泳がダイエットに効果的だから!って話も或る意味詐欺。効果的に運動出来るという前提が抜けている。出来なければ、歩行による効果と同じ程度のモノって事と同じように、自転車屋が高級なブランドバイクを素人に講釈を並べて勧めても、そのバイクの潜在性能を引き出す前提が無ければ無用の長物以外の何ものでもない。良いバイクに乗れば速く走れるような話をするショップがあるとすれば、それは詐欺以外の何ものでもないのだ。
時代が、即物的に変わっても、道理の本質は不変。そんなもんなのだ。即物的、安易に結果が得られるような印象を強く与える事がブームを呼ぶ。ブームとは冷めるからブームである。何故冷めるか?っていうと、期待通りの結果が得られないから。何故、期待するか?っていうと、ブームの牽引が、即物的な煽動によるからである。過去の単車のレプリカブームが一過性だったのも、走りの楽しさがバイクの性能で得られるような風潮を作った業界に責任がある。同じように、ロードバイクブームもロードバイクの速さが高額自転車で得られるという風潮を与えているとすれば、恐らく一過性のモノとなりそう。
今と当時の違いは何か?を振り返ると、今は、取り敢えず道具を揃えれば願いが叶うってノリ。昔は、願いを叶えるに必要なものを見つけるってノリ。全く、考え方が逆。逆は必ずしも真ならずってモノなのだ。
軽い自転車に乗っても、高級なコンポで武装しても、格好いい服着ても、一漕ぎで凄く進むギアを付けても、動力源は筋断面、伝達効率は経験年数に比例する。別の記事でペダルに掛かる力迄は推定したけど、それは脚の力とは別物。脚の力から伝達した結果の力の事。伝達効率っていうのは、ペダリングテクニックであったり、ポジションセッティングだったりする固有のモノ。そういう一番大切なモノを装備しないと何にもならない。だから、それが無い人の無様な様は、毎週日曜日、最低でも一台は見つけれる。それで、自分なり?に考えて踏める設定にしていくと、いつの間にか、ロードバイクを買っても、出来るモノは別物になったりするのである。
そういうことは、本当のプロショップなら判っている筈。しかし、今の完成車では、どんなに工夫しようとも、組み付け可能な設定には素人が使えない無駄な部分が相当に含まれる妥協が強いられる。20段変速のロードバイクを買っても使えるのは1/3程度しか使えなかったり、或いは、部品交換を突き詰めても1/2程度しか使えない上に、本来の使い方が見えなくなったりする。そんなモンである。未だ、入門者で10万円程度の車両なら、それを仕様だと説明できなくもないが、20万円を超えるような車両で、それでは、自分が客なら詐欺を働かれたって思いかねない程だ。
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