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2008年12月31日 (水)

今年を振り返って、、、やはり健康が一番だ。

 平成20年という年が暮れようとしている。例年通りに、表題のような事を考えてみた。但し、例年は一年の総括というノリだが、今年はチョット違う。一年の総括というよりも半生の総括というか、これからの過ごす方針はどうしようか?という感じである。理由は、年齢的な要因。自身の年齢による事もあるだろうし、同世代の人の状態を見ての影響もあるだろう。言えるのは、やはり四十年以上という半生を生きてきたからということ。

 自分の寿命が運命的に何時か?は不明だが、今が丁度折り返し地点のようにも感じる。希望を言えば、人生の1/3くらいと思いたいところだけど、それは泉重千代さんを越えるので有り得ない。まぁ、よく考えても半分くらいかなぁ?と思うところ。

 それで、今年一年の最大の収穫は?というと、これから過ごしていく上でのターゲットが定まったという事である。
 昨年迄のターゲットというと、今考えれば小さなネタばかりだったように思うけど、今、頭に思い描いているターゲットというのは、昨年迄のターゲットとは異なり、非常に緻密で、継続的且つ、まやかし無しの取り組みを続けなければ絶対に実現不可能なターゲットである。

 振り返れば、過去はどうやって生きてきたか?というと、物心付いて以降は、何時も、何か、誰かと競ってきたように思う。そういう競争的な意識が芽生える前というと小学校低学年以前の話だが、小学校中学年以降というのは、実現出来る出来ないは別として、理念としては、好きな事はナンバー1を目指し、競うと負けは許されず、仮に負けても勝つまでトライする。そういう好戦的な意識で過ごしてきたように思う。そういう競い続けるという考え方は大学に入る前迄は少なくともそういう意識だったと思う。

 大学入学以降は、多少は考え方は変わり、誰かと競うというよりも、誰もしない事、誰も気が付かない事、誰もやった事が無い事ばかりを考えて、人と同じは絶対にしないという考え方で過ごしてきた。それは、その後の進学においても、その方向を追求し、結局は、誰も出来ない事、過去の取り組みで諦められていた事を選り好んで進めるという方向にエスカレートしてきた。その本能的な欲求が満たされるレベルの組織を本能的に選んでいるというのは、本能的な選択の結果、今の会社に居るんだろうとも思うところ。

 そのような指針で、大学卒業後17年が経過した訳だが、選んだ場所がまずかったかどうか知らないけど、今の場所では、その組織の悩みという部分を選択的に取り除くという行為に、あまりにも労力が不要で考える事も無いような感じを受けるのである。
 チラシの裏的に言えば、最近取り組んできた事というのは、抽象的なテーマを見て、結果の出る手法を思い浮かべるのにも時間的にも殆ど負荷が掛からない状態。半ば、瞬間的に答えば導き出せるといって過言でないように感じるのである。それ故に、手応えの無さに、今度は、最近20年の生き方の反動ではないが、そろそろ、この路線から違う価値観で生きるモチベーションを保たなければ、、、と思ったりしている。

 で、何をターゲットにしようか?を探す一年が、今年であったのである。その結果、、、、、辿り着いたのが、自分の子供より長生きするぜ!って無謀なチャレンジである。無謀とは思いつつも、それを具現化するには何が有効で、どう過ごすべきか?を考え続ける毎日である。
 昨今の、様々な疾病が人間を蝕むという話は良く聞くが、それを如何に克服するか?がターゲットなのである。例えば、認知症に対しては、脳内ネットワークを如何に活発に動かすか?であり、そういう事で、ブログの記事を激しく更新したりしているのである。
 勿論、身体機能、骨年齢、体年齢・・・・等を現実以上に活発に保つべく生活するという事で全ての行動を統制しているつもりである。

 このモチベーションを維持し続ける事!これが、これからの生きる路線である。過去の知識と能力、体力の全てを自身の健康維持に集中して過ごす!これが、これからの生き方と決めた一年である。

 そういう考え方で過ごしてきた今の体組成は?っていうと、、、、

・身長:171.5cm
・体重:65.5kg
・体脂肪率:11.7%
・骨格筋率:37.1%
・基礎代謝:1608kcal/day
・身体年齢:32歳

 ってところ。で、一年後には、出来れば肉体年齢は20歳台に持ち込みたいと思うのである。さて、来年一年はどうなるだろうか?

 来年一年が終わる時、この身体スペックはどう変化するか?健康は維持できているか?それが一番である。

 来年一年に限らず、当面のターゲットは、昨日の自分以上にパワフルなコンディションを明日実現するということ。不可能な夢だが、不老不死みたいなものがターゲット。それ以外の関心は皆無といっても良い感じだ。

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90rpm崇拝で行き着くのは、、、、、膝痛?

 このところのスポーツサイクルブームでは、表題の数値をよく聞く。
 この数値、ペダリングの毎分あたりの回転数だが、この数値に拘る人がとても多い。

 このような沢山ペダルを回す漕ぎ方が膝を痛めない!って論とセットで語られているけど、実際は90rpmって回転数を踏む人にとっては、どの程度の力か?をセットで語らないと意味が無いようにも思う。
 一般にペダルを踏む力は回転数に依らず一定って言われる場合もあるけれど、現実には、踏む力が小さい程、ペダルの回転数は上昇するものである。

 そう、『人の脚力』=『ペダルを踏み込む力』+『ペダルを回し続ける力』となっているのである。

 だから、仮に90rpmで回していても、頑張って踏むという行為の場合には、例え90rpmであっても膝にダメージが及ぶのでは無いだろうか?
 自分はそう思うのである。

 回転数を語る前に、一番大事なのはロールアウト(展開、一漕ぎで進む距離)を問題にすべきっていうのが私の持論なのだ。結局は重いギアを回す程に膝に負担が掛かる筈なのである。
 90rpmって回転数崇拝が先行する程に、多分、素人は或る程度の重さのギアを頑張って90rpmで踏もうと努力するんだと思うからだ。何回転であろうと、頑張って負担を掛けながら踏んでいるって事実がある限りは、膝に負担が蓄積するのは当然と言えば当然なのだ。

 この話しは、スポーツサイクルショップでカッコイイ自転車を売ってる所で、ケイデンス90rpm、効率的なビンディングもセットでどうぞ!って所で買ったビギナーが膝痛を訴える場面でも想像できるし、最近のマニアの中でよく聞く膝痛の現実からも想像できる話だ。
 何回転で踏もうが、重いと膝が痛くなる。ましてや、90rpmって回転数で漕ぐっていうことは、負担を激しい頻度で与えるってこと。却って酷い事態になる訳だ。

 膝が痛いっていうのは、基本は軟骨がダメージを受けるもの。軟骨が壊れると二度と再生しないもの。その結果、ダメージは一生残りかねない。何故に軟骨が壊れるか?っていうと、ペダリングという行為、特にビンディングで足裏を固定し、サドルで着座すると可動脚の上下が完全に固定されており、その間のクランキングにおいては負荷が全て関節に集中するのである。関節に掛かる力は圧縮方向の力である。要は、一番柔らかい軟骨が歪みを全て吸収するのである。軟骨に内部応力が掛からないようにするには、軟骨で力を支えるのでなく、大腿筋、脹ら脛筋で力を支えるのであって、軟骨に歪みを蓄積させるのではNGなのである。
 この理屈は、どんなに重いギア、勾配の大きな坂道でもダンシングという腰側の支点がフリーの場合は膝に定方向の応力が掛からず膝痛に繋がらないことから、本当はみんなが知っている筈の事実であり、結局、座って回すペダリングで膝関節で内部歪みを全て受けるという事実が膝痛につながり、内部歪みは結局は、90rpmで回せる回せない関係無しに、本人にとって筋力で支えられない力を反力として受けているからである。

 回せるか?回せないか?っていうと、これは或る意味、回し方の問題。優れた?回し方が出来れば、少々重くっても回ってしまうもの。
 だから、回せるか?って尺度で90rpmが回せる最も重いギアを選ぶという考え方を捨てるのが正解だ。

 自分的には、90rpmが本人にとって軽めのギアで実践するっていうのが第一ということ。つまりは、90rpmの回転で絶対に膝のダメージを受けないロールアウトで実践するというのが肝要なのだ。90rpmが絶対に大丈夫っていうのは、結局、本人が絶対に軽いと断言できるギアでもある。軽いという感覚が、うぬぼれ、自尊心を除外して正確な判断となるかどうか?を見極めるには、手持ちの変速付き自転車で色んなギアで決めてから色んな場所を走り回ってみるのが良い。

 発進できるギア、10%程度の勾配なら楽に上れるギア、向かい風で回転数が落ちても身体を捻らずに漕げるギア、、、、、そういうギアのロールアウトを選ぶのがお奨めである。こういうギアがつまりは、個々にとってのマイギアだ。個人にとって最大登坂能力から最高速度迄賄えるギアを探すこと。そのギアで回転を保つ漕ぎ方を身に付けるって手順が正解なのだ。
 多くのショップでギアの選び方では、こういう話はしないはず。特に多段変速の場合は、臨機応変に軽く!って程度で、そこで負担にならないギアで90rpm回してね!ってノリだろうけど、その軽くって判定の仕方が判らないのが殆どの筈。その軽さを絶対的に見つけることこそが、ケイデンス論の前に膝を守る秘訣でもある。

 マイギアならば、少々の無理も可能だし、いろんなロールアウトで選ぶとしたらどれ?って意味のギアだから、、、、、こういうのがお奨めだ。

 因みに、自分のマイギアはロールアウトで5.5[m]程だ。この5.5[m]のロールアウトで実走時の最高回転数が180[rpm]以上、このロールアウトでダンシングで60[rpm]で10[%]登坂を行う。そういう場合で90[rpm]の場合は丁度30[km/h]程度の速度になる。

 あんまり90[rpm]に拘ると膝が痛くなる。少なくとも速度アップはロールアウトを長くして得るのでは無く、回転数アップで求めるのが正解だ。

 ところで、回転数アップが難しいって意見、よく聞く。でも、ポジションと漕ぎ方だけで勝手に回転数が20rpmくらいは上げる事ができたりする。ほんの僅かな工夫である。その工夫だけで誰でも20rpmくらいは回転数が上がる。勝手に回転が上がるには訳があるのだが、この工夫だけで脚が勝手に回るのである。回そうと思わずして回ってしまうのである。イメージ的には座ったまま立ち漕ぎするような感じとも言える訳である。力は加えていないのである。一寸した工夫だけなのだ。敢えて言うとタイミングが回転を生むような感じである。
 逆に言えば、そういう工夫で110rpm維持って状態が130rpmキープが楽勝って感じ。工夫だけで20/110だから18%の回転上昇。即ち、同じロールアウトなら18%の出力アップである。回転数に拘りすぎてトルクを18%アップするのは難しい。18%っていうと、ロードバイクならギア二枚~三枚分の違いである。

 自転車で速度に必要なのは出力、出力っていうのは脚力×伝達効率で決まる。脚力って部分は殆ど皆同じっていうか、若い程、パワフルなのは間違い無い。ところが、伝達効率が高くないと結局は駆動出力に繋がらない。この伝達率こそが機材、身体の使い方の技量というか経験の差だろう。プロレベルとなると別次元だろうけど、チョット詳しいマニア(ホビーレーサー、街道ローディレベルの)並の知識を備えるくらいは、体力のみでポテンシャル向上を図るよりも遙かに楽珍で苦労も無い筈。本職さんの奥義とは程遠いけど、街道ロード乗り級ならば、チョット詳しくなれば、簡単に同じ事できる。そうなると、意識せず90rpmは愚か、130rpmでも150rpm、170rpmでも楽勝となる。そんなモンである。本職さんは更に上の領域で220rpm級だが、そこに到達するには壁が存在し少々じゃ辿り着けないけど、最高でも170rpm程度なんざ素人がチョットその気になれば誰でも出来る筈だ。
 軽めのギアを選び、勝手に回る漕ぎに必要な要素を定めるのが一番お利口さんだ。

 マイギアを定め、その上で勝手に回せるコツを掴む。これが一番だと思うところ。回転数を狙うと膝が痛くなるかも知れないが、勝手に回った結果得られるのは大丈夫。

 チョット、生意気?偉そう?な文章だけど、あくまでも持論で、自分で感じた事だから、細かい部分は勘弁ね!プロとか現役競技者から見ると、アリエネェ!かもしれないけど、これは、体験上の感想だ。逆に、クレクレくんは、どうすれば?って事もあるかもしれないが、こればっかりは見付けるのが楽しみなんで、自分の言葉で自分で感じてみたら楽しいだろうとしか言えない。

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2008年12月30日 (火)

糖尿病、糖尿病予備軍、10年で1.6倍の理由は?

 表題の如く、糖尿病及び予備軍患者が、それぞれ890万人、1310万人で合計2210万人も居るそうだ。それで、その数は10年で1.6倍になっているという。
 ニュース報道では、摂取カロリーに目立った増加が無いので、一日での運動量が減ったのが原因と言われている。

 普通なら、そうか!で済むのだけど、これにもチョット違った感想を一言。

 10年前の調査と今の調査で絶対的に違うのは、調査対象となる世代が10年程シフトしている点である。
 メタボ検診対象年齢は40歳以上、今回の検診では20歳以上だが、10年前の調査標本からは10年ずれている訳であり、運動量が減ったと言うよりも、世代的に運動しない世代が増えたとも言える訳だ。そして、糖尿病の疑われる世代というのは、70歳以上が約38%、60代約35%、50代約27%、40代約15%、30代約6%、20代が1%ということで、結局は40代以上で糖尿病率の数値が支配される訳だ。つまり、今の四十代は10年前の三十代であり、今の四十代が入る事で糖尿病率が高まったというか、この世代の運動不足が伺えるということ。

 この四十代って数字は、最近よく聞く数字である。アラフォーとかであるが、アラフォー世代っていうのは、定義的には曖昧だけど、四十歳代前半を差すことが多く、この世代は、一昔前はバブル期入社世代、更に遡ると新人類って呼ばれていた時代もあったりする。もう少し遡ると、詰め込み教育の破綻が現れ始めた世代、校内暴力が顕在化した世代、センター試験(当時的には共通一次試験)が生まれ学歴格差が顕著となった世代である。
 勝手に思うに、今の四十代前半の前後世代では大きく異なる。今四十代後半以前の世代っていうのは、高度経済成長自体を生み出していた世代で、所謂、頑張り屋さん世代、自分で意志を持った行動を取っている世代、今の日本を造ってきた世代。その時代の疲弊が現れたのが、今の四十代前半世代で、その疲弊を修正に掛かったのが今の三十代以降の世代。学歴格差の反動から『ゆとり教育』に舵を取られた世代、完成して便利な世界に育ったが故に、内向性の強い世代であり、景気の後退期に幼少期を過ごしたが故に、消費意欲を抑える事になれた世代とも見える。
 つまり、今のアラフォーっていうのは、前世代の歪みが最大限になり、その問題が顕著となり、その反転に移る前の世代であり、世代内格差も大きいのが特徴では無いか?

 この元新人類、バブル期入社、今アラフォーっていうのは、幼少期を高度経済成長の波に乗って成長した世代だが、その中で時代の波に乗れた連中は、その前後世代に較べて苦労をしらず、イケイケ的な人が多かったりする。それ故に、消費を引っ張る特徴もあり、それが、今のアラフォー、10年前の三十代を対象としたレトロCDアルバムとか、或いは、商品CMのテーマソングが80年代だったりして、消費意欲を覚醒させようってのが見られる。その反面、時代の波を掴めなかった連中は、当時フリーターという道を選んだが故に、一生、その状況から抜け出せないという、或いは、80年代の聞こえは格好良いけど、不安定な横文字職業で一瞬のトレンドリーダーとなりながらも時代の流れで時代から取り残された人っていうのも結構多かったりする。
 どちらにせよ、この世代は、兎に角、飽食性豊かな世代であり、面倒くさい事を好まないという、世間を舐めた世代であり、それ故に、面倒くさい運動を好まない人が多かったりする。

 これが、現代の糖尿病患者率の増大にリンクしているのでは?と思ったりするのである。つまりは、兎に角、楽に、簡単に、便利に、という指向性で過ごしてきたが故に、その反対の節制や運動を大の苦手としているのでは無いだろうか?

 先にも述べたように、今のアラフォーっていうのは、バブル期入社であり、その時代の選択肢で非正規雇用労働者の生き方が生まれたのも否定出来ない。それが、四十代フリーターの存在の原点であり、考えてみれば、そういう社会不安の一要素である非正規雇用を一端を担いでいるのも実は、アラフォー世代だったりするのだ。
 このアラフォー世代は、社会における格差も激しいのが特徴であり、この格差は実は政府政策の失敗でなく、時代の申し子的な世代の特徴とも捉えることが出来るのである。
 アラフォーが国民の健康、雇用不安、バブル誘導と崩壊を招いている元凶世代とも言えるように思うのだ。

 今年の流行語には、『グー』と『アラフォー』が選ばれていたけど、色んな状況には先に述べたように、そういう世代が大きな影響を示しているという事から考えても、悪くない選考結果だったようにも思うのである。

 まぁ、自分も東京オリンピックと前後して生を受けて、高度経済成長で義務教育期を過ごし、バブル期に大学時代を過ごし、バブル絶頂期で社会に出た訳だ。或る意味、バブルの申し子的であり、実際に、生命に危険を感じる程の肥満に陥った事もあるのである。
 自分に限らず、アラフォー世代が糖尿病及び予備軍患者数を大幅に増大させているのでは?と思うところだ。

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雇用不安と定年延長は重なっている?

 最近は元気な高齢者!を旗印に、高齢者雇用の推進、定年延長、、、、が半ば常識的な正義のように叫ばれて、社会がそういう方向に動いている。

 でも、ふと思うのが、、、、1980年代といえば55歳定年が普通。で、今は?っていうと、65歳定年が普通で、下手すると70歳定年も行くか?って事。

 しかし、、、、、、企業から定年退職する人が減ると、そういう人が組織に詰まっていく訳で、結果、組織体型における上級職、高給職の割合が増加し、企業における人件費圧迫にも繋がるし、市場におけるパイが変わらない場合は、新たな雇用の受け入れ自体が収縮方向にいくように思う。

 定年延長の議論は、年金制度を守る?って大義の上に正論化されているが、結果、若年世代の雇用の門を狭め、結果的に年金積み立てを新たに行い始める人口を減らしているのが現実ではないか?とも思うのである。
 組織に於いても、管理職に高齢者が留まると、本来は経験を積んだ人で、なるべき人の上級職への昇進の機会が失われる。すると、年齢ばかり増えて、年齢に応じた職位、その職位に応じた仕事の伝授が滞るわけである。さらに、年功序列への回帰と重なれば、企業の製品における人件費比率が高くなり、結果、海外における価格競争力が削がれるという事にもなるのでは無いだろうか?

 昨今の40代以下のフリーター率、派遣比率の高まりと、就職率の低下という背景には、年金制度の崩壊を高齢者を働かせる事で食い止めようとした施策が大きな影響を及ぼしているように思う。

 今の雇用不安の問題を違う視点から見ると、これは高齢者VS若年者の闘いのようにも見える。安定を得た正規雇用の長い高齢者が機会を与えないという構図というのは間違いだろうか?

 雇用延長の元には、年金支給開始年齢の引き上げという前提であり、その原因は、年金納付世代の減少がある訳だ。
 この逆のアルゴリズムを考えれば、年金支給開始年齢を引き下げて、雇用期間を短縮させて、高齢者に第二の人生を積極的に楽しませる事で消費を煽動し、製造、生産活動から退いて貰うことで、若年世代の雇用機会を拡げ、年金給付世代を増加させるという論理も成り立つ筈。企業における人件費負担でも、上級職の年収と新人世代では大きい場合で3倍は違う。一人の役員が居なくなれば3人の若年層の雇用が生まれる訳だ。そういう方向が、結果として、生産活動に要する人件費の圧縮に繋がるのも事実である。

 年金支給額が将来になる程、圧縮されるというのは理解出来るが、現状の給付においても年金支給額を圧縮し、支給年齢も引き下げるというのが方法論として正しいと思うのである。

 そういう意味で、企業経営の一線を早くから引退した、HONDAの本田宗一郎氏は、実に素晴らしい経営者像と見えるし、その企業理念というか思想がHONDAが他の企業と一線を画す秘密のようにも見える。
 企業経営の一つの成功例であり、生産開発活動に従事する世代が若い状態を保ち続けるという組織形態が、突拍子もない技術を生み出し、昔ならサーキット、F1、最近ならロボット、ビジネスジェット等々の技術熟成を可能としているのかもしれない。
 逆に、超高齢者が経営を仕切るような組織では、販売品目の進化が停滞し、技術革新が極めて遅い新陳代謝の悪い組織になっているのかも知れない。

 個人に限らず、行政機関、民間企業においても、組織の統率者の理念が組織特性を決めるが、その理念次第で、随分と違う結果になるようである。

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2008年12月29日 (月)

自動車販売台数の落ち込み度の明暗は?

 秋以降、自動車販売台数の落ち込みが著しい。結果、雇用不安、派遣切り、住居不安、、、、いろんな社会不安が巻き起こり、その不安元?の自動車業界も、新車開発計画の撤回、休止、販売チャンネルの展開、工場建設の撤回、モータースポーツ活動の撤退、休止が進められている。そんな国内自動車メーカー8社の11月の生産、販売、輸出実績を見つめてみる。

まず、国内生産は、
トヨタが前年同月比27.2%減の28万8138台
日産自動車が同35.6%減の7万9649台
三菱自動車が同26.6%減の5万5858台
ホンダは同3.9%減
マツダが同19.8%減
スズキは同7.3%減
ダイハツ工業は同4.8%減
富士重工業は同3.8%減

次に、海外生産は、
トヨタは同26.6%減の58万9505台
日産も同33.7%減の22万2212台
ホンダも同9.9%減の32万6176台

となっている。
10月生産実績迄は、此処まで深刻でなく、前年同月比で見ると、三菱、ホンダ、マツダ等は増加していたし、落ち込みの大きなトヨタでも17%減に留まっていたのだけど、11月からは殆どが減産である。大手は軒並み生産が減っているけど、注目すべきはホンダのダメージの少なさである。同月比減率は桁が違う程。
一方で、中堅メーカー以下ではマツダの減率の高さも特徴的である。

 言ってみれば、ホンダ、スズキ、ダイハツ、富士重工の傷は浅く、トヨタ、日産、マツダ、三菱のダメージが大きいようである。

 勿論、12月以降の減産がどうか?は全く以て不明だが、この11月実績を見て、この違いは何故か?総生産台数、ラインナップ構成でみても、単純に分けれない感じである。この大きな減少率の背景には、直近迄の好景気における大きな増加率が潜んでいるという理由が一つあげられる。これは、減率の大きな、日産、マツダ、三菱であり、これは、1990年代末期における経営危機からのV字の回復があったが故の数字のマジックであり、大きく減ったのではなく、一時的にバブル的な売り上げがあったために、そう見えるだけでは無いだろうか?

 そういう景気変動による影響とモロに連動した企業を引いてみると、残るはトヨタとホンダだけである。どっちも最近は継続的な成長を続けてきた企業だが、一方は大きな減率を記録し、一方は減率自体は小さくなっている。これは興味深い現象だ。

 金融危機による消費意欲の減退で市場が縮小し、消費者が車を買わなくなったのだけど、何故にトヨタ車が減って、ホンダ車が減りづらい状況となっているか?である。

 勝手な印象だけど、トヨタ車のユーザーっていうのは、先の記事にも書いたけど周りに流される奴が無難に選ぶという印象が強く、景気の悪いという報道で、購入意欲が削がれやすい人が多いのが原因かな?と思うのである。ホンダ車っていうのは、個性の強い商品群故に、景気の影響よりも消費者が欲しいと思ったタイミングで購入するという傾向故に、市場心理に影響されにくいのかな?と思ったりするのである。
 そういえば、V字回復を遂げた日産、マツダもイメージ戦略先行で、消費者洗脳?により消費を煽動してきたような傾向があるけど、そういうイメージ戦略、市場心理操作に依存すると景気動向にダイレクトに影響を受けるのかなぁ?と思うのである。

 ホンダの商品の強さは、多分、商品にメッセージが強く込められており、それとシンクロした消費者個人の意識が購買力に結び付いている点と思うのである。この傾向は、富士重工にもある。或る意味、軽自動車もそういう商品である。完全に道具としての存在価値であり、商品には色気は皆無である。それ故に、ライフスタイルに応じて必要ならば売れるという売れ方には市場心理の影響度は、イメージ戦略、消費者洗脳による市場確保を行ったメーカーに較べると少ないと言えよう。

 恐らく、トヨタ自身もそれに気付いており、それが富士重工の子会社化、ダイハツ工業の子会社化を計ってきた理由だろう。
 多分、トヨタはホンダになりたがっている。そんな印象だ。

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生鮮工業製品!

 訳のわからないタイトルかも知れないが、表題のような工業製品というのは、登場後、価格の下落の激しい製品の事を例えたつもりである。

 先日、嫁&娘用のノートパソコンを買ったけど、これは一年前登場の品。標準スペックで13万円前後の商品だが、一年たって価格は60%ダウンである。

 先日、自分の携帯も機種変更したのだが、登場は半年前の品である。機種変更は基本無料。半年前登場からの価格は?っていうとは多分75%以上のダウンである。

 このような目新しい製品には、液晶テレビ等もあるけど、殆どが登場して1年以内に価格が大幅に下落している。
 下落の原因は?っていうと、、、、それは、競争の激しさの裏返しであり、同類製品の製造業者が沢山居るってこと。

 このような製品の価格下落を見ると、あまりにもコストに見合わないのでは?と思う程。価格ダウンが進んだ果てには、存在価値自体が否定されているような状況である。しかし、モノには本質的な価値が存在している筈であり、その価値の値付けがあって然りの筈だが、その最低限のモノの価値自体が喪失するのが当然の市場認識は異常と言わざるを得ない。
 こういう市場で製品製造で利益を得る企業は、その市場においては終わりのない消耗戦が強いられるように思うのである。

 パソコン、携帯、薄型テレビ、、、、、これらは価格が半年から1年で半分以下、1/3以下となることも珍しくない。しかし、現実的に機会が機能を保ち続ける年数は?っていうと、パソコンでも5年、携帯で3年、テレビなら10年以上の年数だったりする訳であり、実際の価格推移から見ると、登場して1年を経て買うのが一番幸せと思ってしまう。事実、それが一番出費が抑えられるのだが、そういう消費行動を取る程に、作る側の企業体力が果てしなく消耗するのである。

 こういう商品群は、トレンド系商品であり、ラインナップしていると格好良いかもしれないが、利益率的には割の合わない商品群ともいえる。
 しかし、このようなデジタル家電以外の分野でも、車ならイヤーモデル事商品力を維持するような方法が取られているし、自転車でもそうだ。殆どの商品が何らかの変更を逐次受けており商品力を高めるような方法が取られており、それ事に、前年モデル、前期モデルの値付けは激しく下落する。

 結局は、工業製品であっても値付け自体がモノの本質とは別の部分が支配的な様子を呈しており、或る意味、バブル的な様相を呈している。価格とはモノの本質の値付けの筈だが、今は、その本質や機能以上に、モノの需給バランスや製品鮮度という不確定な要素が値付けに影響を及ぼしている。或る意味、全てが時価表示であり、その時価で皆が一喜一憂している。

 結局、額の絶対値のみでしか判断出来ない事となり、これが、今話題?の金融危機とか、金融資本主義とか、不動産バブルといった問題の根元となっているようである。

 時価に惑わされず、モノの本質的価値で冷静な値付けが行われていれば、そういうあぶく銭的な儲けとか損失の影響を受ける事は無いだろう。しかし、モノの必要機能を冷静に見て、長い製品寿命を持つ商品っていうのは、少なくとも、一般消費者向けには存在しなくなっているのが現状だ。殆ど全ての商品の値付けには時価的な要素が大きくなっており、この時価的要素が大きいというのが、金融資本主義の特徴なのかもしれない。

 時価的要素が大きいから、見た目的な価値の低下が速い訳で、モノが変わらずとも価値が下がるという、なんか生鮮食料品のような価格変化になっている。

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2008年12月28日 (日)

原付二種ミニカーを創設して欲しい!

 ここ十数年で変わった事。それは、原付ミニカーが割と一般的となってきた感じである。そうは言っても、昔の原付ミニカーの如く本格的な自動車的な体裁を持つモノは少数派であり、どちらかというと、二輪車メーカーが海外向けで販売している四輪バギーであったり、三輪スクーターのトレッドを拡大して原付ミニカー登録しているのが殆ど。

 この原付ミニカーのメリットというと、維持費は原付、ヘルメット不要の自動車扱いというモノ。このヘルメット不要+簡単な屋根+最小限の積載性ということで、シティーコミューターとしての需要を満たしているのだけど、デメリットとしては、排気量が50ccということでパワー不足、乗車定員が一人という部分。メリットは原付ということだが、デメリットは原付1種扱いの部分。

 そう考えると、、、、、2種原付扱いのミニカーがあれば、、、、、って思うのである。
 維持費は原付二種、扱いも原付二種、但し、原付ミニカー同様に普通免許が必要、でも乗車定員を責めて二人で坂道に勝てる出力を、、、、、って思うのである。

 こういうのがあると、町内コミューター、買い物専用コミューターとして結構な需要があるのでは?と思ったりするのである。狙い目的には、新規格の電動アシスト自転車の如くである。

 実際、そういう括りが制度的に提案されたら、そこに製品を提供する業種は結構多いのでは?と考えたりする。町内限定で使われている軽自動車等の存在価値は失われるかも知れない。必要な用途に必要最小限の資源で賄うっていうのは環境的にも問題無いように思うのである。

 まぁ、戯言だ。

 でも、主婦向けに自転車三人乗りを認可する方向にあるならば、原付二種仕様のミニカーで、運転者+大人一人か、運転者+子供二人を認めるようなパッケージが認可されれば、それこそ、町内コミューターとしての需要は小さくないように思うし、結構なビジネスチャンスにもなるかもしれないし、遊びのベクトルでミニマムスーパー7のようなゴーカートみたいなのが出来れば、四輪のドライビングプレジャーに目覚める若者も増えるかもしれない。

 自動車産業の急速な景気減速によって、トヨタがスバルとコラボで計画していた廉価スポーツも休止の模様だが、それとて200万円コースだ。四輪を楽しむなら、原付二種で50万円以下という構成でも楽しめる訳で、そういうのがイイと思う。

 自分の体験では、大昔の学生時代にホンダスリーターでRoadFoxって原付で雪道でカウンター遊びに明け暮れて楽しい思い出があるけど、そういうお手軽遊びが出来るようなのが欲しいところだ。

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教えてあげる!教えてあげない!?

 私の趣味は、現在進行形でバイク、過去完了形で自転車がある。趣味でも、バイクなら操縦動作の修得による運動性能の追求、自転車ならば身体能力の鍛錬と経験と技法修得による動力性能の追求という部分に強い関心を持って過ごしている(きた)。

 ということで、何れのジャンルでも自分なりに満足のできるコツというか勘所を自分なりに掴んでいる。このコツっていうのは、自分の望む形を実践する上でのコツであり勘所である。単車なら運動性能、旋回動作を如何に自在に操るか?であり、自転車ならば如何に動力性能を高めるか?である。その目的に必要な要素、要件に応じて殆ど全ての部分で自分なりの意見を持ち、自分が納得できる方法、実現出来たか?の感じ方の判断基準を持っているつもりである。

 このコツの本当の部分っていうのは、実は極めて単純なのだが、この単純さに気付く迄、その単純さの意味を理解する前提条件っていうのが数多くの試行錯誤の上に成り立っており、或る意味、財産のようなモノなのだ。
 この積み上げてきた自身の感覚と全く同じモノを人に伝えるっていうのは基本的には不可能だが、それを理解する過程において、一寸したキッカケが開眼した要素というのは幾つかの部分で意識しているのも事実である。

 いま振り返れば、このキッカケに気付くという瞬間の喜び、それ気付いた事を実践して効果を得た時の喜びというのが、これらを趣味の目的として接する際に、熱中を加速させる上達願望、好奇心維持の原動力になっていると思うのである。

 そういう前提で、知っている部分を伝える内容の差異が人によってあるのである。

 チョイ前の単車ブーム、今の自転車ブームによって、何時の時代にも、周囲には自転車乗り、単車乗りが周りに居る。その周りの人間とのコミュニケーションの中で、自分の掴んだ勘所を聞かれて伝えるのはどういう時か?というと、それは、相手の趣味に対する接し方次第なのである。

 自転車、単車というのが、純粋に他の目的の道具であり、その価値観が自分とは全く異なる場合、特に、道具として以上を考えていない場合は、自分としては、自転車や単車が原因で、事故で怪我したり、死んだり、或いは、誤った使い方で身体を壊したりというのは非常に気の毒なんで、知っている限りを尽くし、如何に楽に安全に効率よく出来るか?を判る範囲で精一杯伝えてやるのである。勿論、そういう場合の相手の態度っていうのは、こちらに100%の信頼を持って、それに従った道具の選定等をする場合に限るのである。

 逆に、或る程度の自己意識を持ち、価値観的に、自転車や単車自体が趣味の目的の場合は、その楽しみが、先に述べたような上達願望が適えられた時の満足感にあるという自分の考えから、例えば、上手く走る、速く漕ぐ等々のコツは敢えて教えないのである。それを教えることによって、その部分で気付く楽しみを奪うのが気の毒だからだ。まぁ、そういう自己意識を持っている人達っていうのは、本質の部分では、自己意識が勝り、100%の信頼を持って聞きに来ているとは感じない事が多いからだ。

 そういう訳で、例えば単車の下りの攻め方とか、自転車の簡単ペダリングというのは、極身近で、機材を単なる道具として利用するって人にしか伝えなかったりするのである。

 でも、これは変か?って、思いながら、雑誌、サイトの免許皆伝系の記事を読むと、殆どの場合が、一般論に帰結しており、そのコツを掴む部分については述べられていないのが興味深いものである。考えてみれば、これは工学の専門分野の専門書でもそうだ。画一的な論理、展開は普通に書いてあるけど、それを理解するためのキッカケは一切書かれていない。
 学問的な論理の展開に基づく事柄の一般知識は溢れているが、その知識を己の実とする上で重要なキッカケは、どの世界においても公にはされていないのが興味深い共通性である。

 本当に大切なのは、小難しい論理よりも、その論理を単純化した上で、その意味を理解するキッカケであり、それがコツであり、ヒミツなのであろう。

 持論では、単車での運動性能、自転車での動力性能でも極めた先の世界は知らないが、同じ方向性の入口においても、その方向性を定める上で必要なコツというのが存在していると思うし、そのコツの一部は何となく掴んでいるかな?とも思うけど、先に進む程、そのコツが実は単純ながら、非常に気付きにくい、見つけにくいものとして存在していると思う。
 そして、そのコツやキッカケが公にされないのは、それ自体が、それぞれの世界での競争力に繋がるからではないか?と思うのである。
 それ故に、その方向性に価値観を持つ人には、誰しもが本能的に伝えないのであるとも思えるのだ。

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2008年12月27日 (土)

よくある事故が減らない理由は?

 年末の慌ただしい季節、例年通り?に交通事故、通勤途上災害が増える。
 そんな事故のパターンは、正に絵に描いたような、車のカゲの直進バイクと右折車両の右直事故、車と並進するバイクの車の左折巻き込み事故、、、、、そういうのばっかりである。不思議な程に減らない。

 この事故の言い訳の多くは、車が見ていないとか宣うバカタレがいるけど、バイクが車と並んで走るのは基本はNGであり、原付レーンを走る原付くらいしか巻き込みは起こりえない筈。最近、勤務先で原付二種が原付レーンを走って車と接触したというバカが居たけど、有り得ない。原付レーンとは、本来は原付一種の50cc以下専用のレーンであり、80ccを原付と解釈している時点で脳内は終了している。
 それで、車が悪いというのはバカ以外の何ものでもないのだ。原付二種は車と同じ速度で走ることが許されているというのは、原付専用レーンは走るなという事である。原付二種は税法上の区分で、運行時の基本は小型自動二輪なのである。

 こういうバカげた事故以外にも右直事故も凄くよく聞くけど、、、、、、何故に、このような型に嵌った事故が続くか?っていうと、乗り手に脳が無いのが原因である。イワシが群れで泳ぎながらも、一匹がよろめくと全てがよろめくのと同じもの。何も考えていないからだ。考えてみれば、そういう考えていない奴らが溢れているのが交通社会であり、それを理解して道路を利用するのが大事。

 勿論、画一的に完璧にルールを厳守するって奴は皆無だろうけど、そういう遵守度っていうのは、いろんな危険がはらんでいて、それを予知しながら承知の上で、事故に到らないという距離感を保っている筈なのだ。その距離感も無しに、呆然と事故に到るのは、やっぱり馬鹿野郎だ。

 考えていないバカ共は論外として、一方的に自分は法律を守っていると事故の度にわめくのもNGだ。バカが溢れているという事を自覚して、事故の害を被らない運転こそがベストであり、無事故、無違反を続ける事が大事なのだ。

 事故を起こす奴は仕方ないにしろ、貰い事故が多いっていうのは、実は、周りの空気が読めず危険を察知して逃げれていない事。加害者が大馬鹿野郎なら、貰い事故の多い被害者も実は、空気読めない鈍感野郎なのだ。
 だから、傷の多い車の運転者は危ないのである。凹んだ車に近づくな!これが判りやすい鉄則である。

 それにしても、この記事の発端は、通勤途上災害で左折車による原付二種の巻き込みだけど、原付二種が原付専用レーンを走っていたっていうのが大間違いの基。これを労災の安全会議で原因は車が悪い?という話で纏まるのは、アホの集団としか言いようが無い。渋滞路でレーン違反でガンガン走る80ccっていうのが有り得ないのである。
 こういう事故を起こす奴は、似たような事故を繰り返すのが通例で、こういう連中からは免許の永久没収で良いではないだろうか?と言うのは言い過ぎか?

 あんまり拡げすぎて戯れ言を下記並べるのもなんだが、絵に描いたような、型に嵌ったような事故や災害を起こす奴っていうのは、何時の時代でも、何処の時代でも結構多い。結構多いのは変わらないで、絶対に減らないのである。理由は、事故を起こす環境が悪いのでなく、本人が悪いのである。具体的には防衛本能、注意力が働かない欠陥をユウしているといっても過言ではない。
 だ・か・ら・・・・・こういう奴の殆どは、実は頭が良いってことは超稀であり、注意力散漫で流されやすい、持続力無しって事が多い。結果、、、、何をやっても出来損ない的結果しか得られなかったりするのである。

 まぁ、事故を起こしやすい奴は、何度も起こす。そういう奴に人は不幸が憑いているって言うけど、その人なりに不幸をイメージさせるのは、その人の取り組みが結果に結び付きづらい事を背景にある場合が多く、事故を起こしやすい奴は、失敗しやすい奴、見落としやすい奴、、、、一言で言って、鈍くさい奴なんである。

 まぁ、鈍くさくっても、頭悪くても、不幸背負っていても何でも良いのだが、事故の場合は、どんな場合でも誰かに迷惑を掛けるのがいけない。山奥で一人で転けて痛い思いするならいざ知らず、渋滞を招き不特定多数に迷惑を掛けたり、特定の他人が事故の相手となったりする事故っていうのは絶対NGだ。そういうモンである。

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ゴジラ映画、視聴完了!

 CSの日本映画専門チャンネルでゴジラ映画を一人フィルムマラソンしている。
 これは、以前にも記事に書いたけど、その映画も佳境に入ってきた。

 それで、今迄見たゴジラ映画での感想は、、、、、このゴジラ映画シリーズっていうのは、連続モノとは少々異なるようである。

 1954年公開の初代ゴジラから始まってメカゴジラの逆襲迄が一つのシリーズであり、そのシリーズは一応、そこで完結しているようだ。しかし実際は、初代ゴジラのみが完結ストーリーであり、それ以降とはチョット違うとも見える。
 初期ゴジラを別格としたら、以降のレトロゴジラはゴジラをヒーロー仕立てしたシリーズモノであり、当時の特撮漫画(ウルトラマン等)の影響を大きく受けており、ゴジラが愛玩動物、ペット、正義の味方的なキャラとなったのは今見ると、チョット厳しい感じ。それでも、怪獣を乱発させない範囲の対決モノは、初代ゴジラ映画の持つゴジラ映画の本質が残っているようにも見えるのだ。具体的には、モスラ、ヘドラ等がそうだ。怪獣乱発系は、既に相当に厳しく、勧善懲悪のお子さま向け怪獣映画に過ぎない。

 1984年に復活したゴジラは、ストーリーの起点は1954年の初代ゴジラとなっているけど、第二番目の作品であるゴジラの逆襲~メカゴジラの逆襲迄はストーリーとして存在しない形で話が進行している。このシリーズでは初回作が1954年ゴジラ、序で1984年ゴジラときて、、、、ビオランテを経て最終が1995年ゴジラ対デストロイヤで完結を迎えているようだ。これが第2ストーリーとでも言おうか?世紀末ゴジラシリーズである。
 この復活ゴジラでは、レトロゴジラシリーズで親しみ系キャラに変わったゴジラを悪役に戻すのがコンセプトだったのだろうけど、途中からやはり正義の味方チックに変わったのが微妙に引っ掛かる構成。

 次は5年のブランクを経て登場したのがゴジラ2000以降で、映像的にハリウッド版のGODZILLAに相当影響を受けている。水中移動シーン、水中からの登場シーン等はモロに影響を受けている。のど元辺りもトカゲ的であり、より生物的な色合いが強調されている。ゴジラ映画のセオリー通りに1954年のゴジラが起点という部分は他のシリーズと同様だが、他のシリーズとのストーリー的な関連は皆無であり、基本的には一話完結型のゴジラ映画(3台目メカゴジラ登場作品以外)である。このシリーズではゴジラは一貫して悪役を貫いており、ゴジラ=凶暴という初代作のコンセプトに拘りを持った作品のように見えるが、ゴジラ映画の本質はゴジラの凶暴性では無い筈という見方からすれば、タダのSFモンスター映画とも見えるのが、この時期の作品だ。
 更に、否定的な意見を言うとすれば、あまりにも映像的なインパクトを追い求めすぎのせいか、派手になりすぎというか、ストーリー的な内容、メッセージ性が希薄になっているかの様子。特に、最終作であるファイナルウォーズでは、過去の怪獣総出演、興味深いのはハリウッド版GODZILLAも登場し殆ど全ての怪獣が瞬殺されるというモノだが、何れにせよ、ストーリーよりも映像インパクトで勝負!って感じであるし、この映画は、単純にハリウッド版GODZILLAを否定するためだけに生まれた怪獣祭り的な映画とも言える。

 過去のゴジラ映画を見ると、初代作を越えるゴジラ作品は皆無かな?と正直思うのである。
 ゴジラ映画で興味深いのは、ゴジラが悪の化身になったり、正義の味方になったりと時代事に変化すると、それと対決するキャラもゴジラや人間の見方になったり、敵になったりと、全てのゴジラ作品を見ていると違和感を強く感じるという印象だ。
 キングギドラも最初は宇宙怪獣、途中が未来人の手による怪獣、更には古代の守り神とか、、、チョット変貌しすぎである。 ゴジラが優しくなったり、家族的になったり、懐いたり、、、、、それは、ゴジラとは言えないのであり、ゴジラがSF映画のワンキャラクターと成り下がり、突拍子も無い構成の一出演者では単なる漫画映画になるのでは?と思ったりするのである。

 やはり、ゴジラ映画では、ゴジラは感情論等通用しない弱さを見せない破壊の化身で暴れて帰るというだけで良いと思うのである。そして、ゴジラを象徴とした何か現実的な世界との連想が生まれるようなストーリーがあってこそ、ゴジラ映画の神髄では無いだろうか?と思うのである。
 ゴジラ映画の神髄っていうのは、現代社会の影の部分を具体化させて警鐘を鳴らすということで、技術の裏の弊害を怪獣の姿を借りているというのが本質だと理解している。

 全作品を全て視聴した今の段階での好みを整理すると、、、、

1.1954年の初代ゴジラ
2.1984年の復活ゴジラ
3.三代目メカゴジラ×ゴジラ(釈由美子登場版と、その続編)
4.ゴジラ×ヘドラ
5.ゴジラ×ビオランテ
※.準主役のモスラは何故か許せるのは歴史的に存在意義がぶれていないからか?

 ってところ。やっぱり、相手の怪獣としても時代を反映している怪獣が納得?の存在であり、公害ヘドラ、遺伝子操作ビオランテくらいしか存在意義が見えないのが正直な感想。それは、ゴジラのモチーフが水爆実験で生まれたという事の対比的な意味から思う事。
 少なくとも、宇宙怪獣とか、伝説モノ、巨大生物というのも、ゴジラ映画のストーリーが現実社会の危機を具体化するために怪獣を用いたという私の感想から考えると、存在意義が飛び過ぎている。そうはいっても、個人的に、何故だか、モスラだけは許せる?ような気もするのは勝手な主観故のこと。

 ところで、このゴジラシリーズは初代作は全てのシリーズの起点となっているけど、ストーリー的には最低でも3パターン以上あり、ゴジラは死んでも、再びスクリーンに現れるような存在のようである。
 案外、2004年のファイナルウォーズって28作目から5年経つ2009年には29作目が生まれるかも知れないなぁと思ったりする。

 今度、新たに生まれるのならば、ゴジラの初代作品のコンセプトを忠実に守るストーリーの正統後継的な作品を期待したいと思うのである。

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2008年12月26日 (金)

飯島愛さん、死去

 12/24未明の事。夜中にリビングダイニングが時々薄明るくなる?って嫁が言いに来たんで、ダイニングに探索に出掛けると、午後に留守電が入っていたんで、それがインジケータで光ってた。で、携帯を開くと、そこに第一報で『飯島愛さん、死去』ってニュース、、、、

 最初は、質の悪い冗談か?と思いつつ、書斎のパソコンでネットを見ると、最新のニュース記事としてアップされている様子。

 さて、飯島愛さんの経歴、活動は、散々に色んなブログで取り上げられているんで今更取り上げることはしないけど、印象的に、この方は天才肌のような感じを受けていたし、何よりも好感が持てたのは、やはり裏表がある事をさらけ出すような正直さ、ストレートさでは無いだろうか?

 良いも、悪いも、全ての人に備わっているという事自体をストレートに表現し、悪い部分を良く見せないという印象である。悪いモノは悪いし、それが自分に当て嵌まると、冷静に自分を悪いと判断できるような潔さを感じていたのは自分だけだろうか?

 自分も社会に出て17年が経過した。学生時代迄は、良い、悪いを判断し、結果として自分が良い、悪いの判断を冷静に下すことが出来たし、周りもそういうもんだと思っていたのだが、社会に出ると、そういう価値観は少数派という印象を保つに到っているが、冷静で正確で、客観的な判断に従ってブレ無い行動を取るっていうのが実に難しく感じる。

 その印象を強くしたのは、今から6年前に管理職になって以降である。管理職になると、それ系の会議、会合に出席することも多いのだが、周りの人間の殆ど全ては、経営者の顔色にのみに注意を払い、判断基準は、叱られない、怒られない、自分が苦労を受けない、、、、という方針でのみ行動を行い、行動としては本来の目的と離反するような行動でさえも良しとするようなパターンが多く、上級職程、本音と建て前が離れる傾向を感じるからである。

 言ってみれば、良いものは良い、やるべき事は何か?悪いものは悪い、、、、というストレートな目的に最短な行動を取るという空気が限りなく希薄になり、なんか体裁の良い言葉だけを並べ、ニコニコするだけで過ごす人が多く感じるのである。

 そういう周りとの距離感を最重要視し、良い?案配で過ごすっていうのが、本当に良いことか?と思うと、どうも違和感を感じることが多い訳で、そういう点で、良いも、悪いも素直に表現できる飯島さんは、対照的な存在と思うのである。

 自分の印象の範囲だが、そういう人が亡くなったのは残念である。

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子供用パソコンの選定基準と使い心地

 リビングでネット接続環境を作るっていうのは、まぁ、ネット接続家電が使える環境を作る序でにノートパソコンでも置こうかな?と思う程度。ノートパソコンといっても洒落っ気も何も不要。普通?に動き、普通に使えるという、それでいて消耗品の入手性に信頼の於ける国産ブランドか?というところ。

 HDDは付いていれば良いし、CD-ROMドライブも然り、メモリーも動くレベルで、CPUスペックも然り、、、、、多くは望まない。要は動けば?良いと言う事。

 但し、この動くって意味が重要。過去を振り返ると、i386がメジャーでi486が出始めの頃における時でいうと、Windows3.1を動かす環境では最低でもi486が必須という状況で、i386では実質ストレスだらけ、Windows95でのi486の使え無さ、Windows98でのPentiumの無力さ、、、、が思い起こされるけど、少なくとも、或る程度のストレスの無さっていうのが必要。

 しかし、ここ10年?程はパソコンに関心が無く、今の自分は、一昨年にWindows9XからWindows2000に変更したばかりであり、マシンスペックはメインサイトにあるように、Coppermine 1GHzのDual機を1GBのRAM+Geforce、Xeon(S603)のDual機を2GBのRAM+MGAパフィリアで動かすものであり、OSの見栄えは古いけど、超軽快に全くストレス無しで使える環境を利用している。

 そんな状況だが、周囲の状況はWindows2000は過去のOS、その後のWindowsXPを経て、WindowsVistaが今。そして、既に次世代Windowsも聞く頃であり、現在流通しているWindowsVistaがそれなりに動く環境っていうのは如何ほどか?っていうのは、さっぱり判らない。
 どんな時代でも最新のOSをストレスフリーで動かそうと思えば、その時代において最低でも30万円以上は必要だと思うけど、果たして、ローエンドでの使い心地は如何に?が関心事である。
 ところで、Vistaは2007年の1月に登場したOSであり、既に二年近くが経過している。多分、2007年上期登場のパソコンはXPクラスで使えるもののVistaでは厳しいというのが現実だろう。そんな状況を考慮して2008年暮れの商戦で激安販売されているパソコンは?っていうと、、、これは多分2007年暮れシーズンデビューの1年落ち品であろう。果たして、そのクラスがOSをマトモに動かす事が出来るか?っていうと、経験上、少々心配であった。でも、そこは何を求めるか?を納得した上なので気にしない。

 何を求めるか?というと、子供の遊び&嫁のネット検索であり、ハッキリ言って遅くても構わないレベルである。動画がどうの、速度がどうの、、、、これは気にしないということで、兎に角、価格重視、OS+ソフトのパッケージ品というもので、敢えて限定するなら国内メーカー品から選ぶ事に決めたのである。

 そうやって選んだ機種が、NECのエディオン専用の機種でVJ16MXF1027って機種。これは所謂スタンダードノートって奴で、CD-ROM、FDDを全て装備する昔ながらの嵩張る大きなノートパソコンだ。スペック的にはCPUは今で言うローエンドなCeleron Mの1.6GHz、メモリーは1GB、HDDが120GBって構成でグラフィックス関連も廉価機の象徴的な仕様。元々の生い立ち企業向けモデルのVJ16MXF3ってモデルのエディオン専用の量販型番で、標準の仕様では、メモリーが512MB、HDDが80GBという構成からスープアップされたグレードである。購入段階で確認したけど、この機種のメモリー増設を狙えば、既存のメモリーは取り外して増設というパターンで1GB以上を付けるならば割高になるのである。

 ところで、この心臓部であるceleronってプロセッサ、、、印象的には廉価パソコン用のCPUって印象で、インパクトとしては大昔のPentiumIIをベースとしたCeleron300Aっていうのがクロックアップで一世を風靡したのが懐かしい。Celeronブランドといえば、時の上級CPUの機能を意図的にカットした廉価CPUという位置付けであり、上級グレードが、PentiumII、PentiumIII、Pentium4、Core、Core2・・・・・と進歩してグレード表記が変わってもCeleronはブランド名称が不変というのが中身を判りにくくしている。
 Pentium4世代では、消費電力が多く、PentiumIIIから進化したPentiumMが登場したのに併せ、CeleronもデスクトップのD、モバイルのMという製品に分化し、中身は別世代のCPUとなっている。上級ブランドがCore2世代に進歩してからは、CeleronもCore2ベースとなり、DとMの分化は再統合されてプロセッサナンバー表記が主流の今に至っている。
 まぁ、単純に言えば、P6世代、デスクトップがNetBurst世代とモバイルがCore世代、Core2世代の全てがCeleronという表記である。P6世代が周波数表記、NetBurst世代がデスクトップをD型番、PentiumMやCoreをベースにしたモバイルがM型番で表記し、最新のCore2世代ではプロセッサナンバーのみを表記ということ。
 判りにくいのが、その切り換え時期のモデルで最近ならばCeleronMってモデル。M型番故にBanias-512KではPentiumMベースでプロセッサナンバーが300番台、Yonah-1MではCoreベースでプロセッサナンバーが400番台となる。
 ところがM型番でもCore2ベースのMerom-1Mでは500番台となっている。その後、M型番表記の無い現行のD/Mの区別無しのモデルではモバイル系は全て500番台となっており、当初のM530は表記を改めて単純な530表記となっている。なお、500番台以降の特徴はintel64に対応している点である。

 印象的には、500番台以降のCore2世代は、高性能なNetBurst世代と、省電力なPentuimM/Core世代が統合されて生まれた感じ。

 なお、デスクトップではDual CoreのCeleronも存在しており、ブランドはトップレンジの何か(今ならCoreブランド)、ローエンドがCeleronブランド、ミドルレンジがPentiumブランドとなっている。

 こういう予備知識で判定すると、今回のノートパソコンのCPUはCeleronの1.6GHzでCPUはCeleronM520ってモデル。M型番ながら500番台で一応は最新のCore2ベース(Melom-1M)のCeleronということ。Core2ベースの初号機である。CPUの速さは実はクロック数ではなく、世代の違いが最も大きいという経験から選んだ選択だ。高クロックのP5よりもP6の方が高性能だったりした経験に基づく判断である。CPUの体感速度はCPUの世代の影響が一番大きい印象であり、今ならCore2プロセッサベースから選ぶのが妥当だという判断である。
 OSはWindowsVistaのHome Basic、ソフトはOffice2007のパーソナルエディション(ワード、エクセル)というもの。まぁ、これ以上のソフトも不要。
 これに、カードバス接続の無線LANの子機をインストールしてリビングで使うという構成だ。ネットブラウズオンリーだから十分というか、今考えれば、CD-ROMもFDDも不要でスタンダードノートより小さな機種でも良かったか?とも思える程。まぁ、価格優先で選んだ結果だから贅沢は言えない。

 そうやって現実的に入手可能な最もローエンドな機種を選んだつもりでも、このハード構成はVistaを動かすには必要十分なスペックなのかもしれない。しかしマシン全体のパッケージで日頃の自分の使い心地に較べると、、、、視覚的印象以外の部分で進歩が感じられない。Vistaといっても一番ローエンドグレードで、これにオフィス+インターネットという環境は、Windows2000環境と殆ど進歩が無いようである。確かに、見た目的な進歩は認めるけど、少し奥を覗くと、、、、あんまり変わっていないなぁ!っていうのが素直な感想。上のクラスのグレードにしても可視的な印象こそ目新しいのだろうけど、本質は変わっていない。つまり、見た目的な動的な表現力に必要以上にハードの資源が占有されるんだろうと言える。そのために、ハードをワンランクアップさせ資金を2~5倍投入するのは馬鹿らしい。
 っていうのも、最近のCPUを始めとするハードの性能上昇は鈍化しており、投資で得られる体感差は僅かである。そして、絶対性能のCore i7よりも性能的には初代のPentium4以下(消費電力効率では雲泥の差があるけど)とも言われるAtomの方が関心が高いのは、ハードに求める速度性能への期待度が下がってきた事の証に見える訳だ。

 買ってから思うのは、この程度のOSの進歩に留まっているならば更に旧世代のモデルをWindows2000、或いはXPで手っ取り早く動かすでも悪くなかったか?という印象。そうすれば、ハードも更に旧世代で十分であり、下手すると3万円以下で狙えたかも知れない。
 子供&嫁のリビング機であり、怪しい教育ソフト等をインストールしたり、お絵かきソフトで遊ぶという状況を考えればスタンダードノートがベストだし、昨今のモバイルの進歩である可搬性の向上とは別のモデルであれば、旧世代でも大きなハンディにはならない筈である。
 最初は、5万円未満ってことでラッキーって思ったけど、結局、使ってみての感想は、より旧世代のロースペックでも良かったか?と思う程だ。

 ところで今回、久々のノートPCを触って思ったのはコードレス故の楽さである。自分が使うとすれば、完全にネット&メールに限定されるので、そうなると所謂、入出力インターフェースが原則省略されたネットブックが良いなぁ!って思うのである。

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今更ながら無線LANにしようかな?

 この冬期休暇で何するか?を色々考え中である。
 で、候補が、、、、、、リビングにノートパソコンを導入、CATVのSTBもLAN接続しようかな?って事。但し、外からの回線は二階に繋いでいるんで、ルーターは二階にある。このルーターに無線LANの親機を繋いで、子機を一階のリビングに接続しようかな?って事。

 CATVモデムに繋がったルーターに無線LAN親機を繋ぐか、ルーターを無線LAN親機に交換し、親機のLANコネクタには既存のパソコン、及び、既存のHUBへの分配を行う訳だが、それで追加されるのは、親機と無線で接続される無線の子機である。

 但し面倒臭いのがCATVのSTB、TZ-DCH2810がLANポートがあるので、これを無線で接続には無線LANの子機にはLAN接続の子機が必要で、リビング用にノートパソコンを購入する場合には、I/FにUSBかカードバス接続の子機が必要ということ。

 ふと考えてみると、、、、、、無線LAN親機、LAN接続子機、ノートパソコン、USB接続かカードバス接続の子機が必要か?ということ。無線LANの親機、子機セット+もう一台の子機で25,000円くらいか?それと、ノートパソコンを買うと、、、最高で100,000~150,000円くらいか?

 って所。まぁ、ノートパソコンはブラウザの閲覧が主なんで、それ程多くの機能は必要ないし、子供が使うのがデフォルトなんで、機能も程々で十分。あんまり特殊のメーカーの特殊な機種を選ぶと本体機能の前にバッテリー寿命が先に来てAC電源必須となるのも頂けないので、その辺を考慮しなければならない。
 まぁ、ノートパソコンがリビングに必要か?今の書斎以外で必要か?っていうと、極めて怪しいのも事実。何に使うか?という時点で、殆ど思い付かない訳であり、さて、どうしようか?っていうのが正直な所だ。

 まぁ、STB自体をネットに接続してしまうっていうのは、アリだと思うし、現在のSTBで録画した映像コンテンツを現行DVDデッキでDVD作成するという使い方よりも、STBからi-Linkでムーブした後に可搬メディアにダビングする操作をパソコンで行わせるっていう使い方は可能性がある訳で、USB子機とノートパソコンは見合わせて、映像編集用のPCを一台ハイスペックマシンで造るというのはアリかもしれない。今なら、Core i7なんかが最新のCPUだろうから、HDDとメモリを現実的な上限で組む方が使い道があるかもしれない。
 まぁ、安直にパナソニックのDIGAのi-Link装備の機種でTZ-DCH2810と連携させるのも一つの手ではあるが、どうするか?は未だ思案中である。

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2008年12月25日 (木)

健康なウンチ君

 最近、COPD等の肺疾患に関する記事を書いたけど、この症状っていうと痰が絡むとか、息苦しいとかで体感症状だし、重大な肺疾患による症状とは言い切れない要素が多分に含まれる。
 そんな中、肺疾患よりも現状では死亡原因の高い消化器系ガンを始めとする消化器疾患の異常を視覚的に冷静に判断に出来るのが、表題のウンチ君である。

 特に、最近は大腸ガン、ポリープ、胃ガン等々に神経質?になっているので、毎日お会いできるウンチ君には特別な関心を持って見させて頂いている。

 因みに、健康なウンチっていうと、毎日1回、バナナ二本程度の量の、それなりの太さのウンチである。ウンチの構成は細かくネットリ練った微細な感じに加え、色調は一定で黄土色というか、山吹色というか、黄色がかった茶色が正常。或る程度の太さ、或る程度の連続した長さ、そして色が重要な判定基準となる。

 因みに、黄色がかった茶色っていうのは、肝臓で作られた胆汁の色であり、その色が臓器異常の信号となる。白色ウンチとか深緑系ウンチでは、膵臓癌、肝臓癌の可能性もある。黒色ウンチは胃部での出血であり、胃ガン、胃潰瘍が疑われる。ウンチの表面に激しい赤色が混じっていると直腸、大腸での出血、即ち、大腸ガン等が疑われるのである。

 因みに、便秘とか下痢っていうのは異常な徴候であり、基本は適度な硬さのウンチを出し続けることが大事。便秘と下痢というのは便の大腸移動が連続的で無い事であり、ウンチの通り道が絞られるのが原因である。ウンチの太さが細くなって、便秘と下痢を繰り返し、便秘で黒色、下痢で真っ赤とかのウンチが出だすと致命的な症状に陥りかねない。

 そんなウンチだけど、基本は毎日出るモノ。毎日、身体の中を通過してくるものであり、それをしっかり観察することで、日々の体内コンディションが想像ついたりするものである。それ故に、毎日、ウンチ君とコミュニケーションを取る事はとても大事である。

 ところで、本日のウンチは、直径3cm程度で長さが20cm級が二本程度、、、、、色は単色の黄土色系、粒子感は緻密でクリーム状で洋式便器に沈んでも色が拡散しない程度の固まり感がある様子。至って健康である。

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常識という名の意志喪失

 世の中で一番嫌な言葉、、、、それは、自身も頻繁に使うけど『常識』って言葉。

 でも、常識って言葉には二通りの使い方があると思う。
 一つは、知識的な常識であり思考の道具としての存在であり、もう一つが判断結果としての存在である。前者は自己の判断を下すに必要な知識としての常識、後者は人の判断としての結果である。

 前者の常識っていうのは、自分の判断を下すに必要な既知の概念であり、それは判断を生み出すための必要な存在であり、後者の常識は人の判断にしたがって自分の行う決断であり思考停止の理由となる存在だ。

 そういう意味で、常識を持つのは必要だが、常識に翻弄されるのは情けないと思うのである。

 常識で判断するけど、他人の判断を常識としない!これが大事なのである。

 学問でも、趣味でも、健康でも、、、、全ての分野で当て嵌まる事である。

 判断に用いる常識というのは、その分野において確立された、体系的に整理された知識であり、それを知ることは、その知識を生み出すに到った論理的手法に基づいて新たな論理を生み出す上で必須なものである。
 その新たな論理というのは、既知の常識とは異なる独創的なモノであり、分野によっては、それを奇跡と読んだり、発明と読んだりするのだが、実は、それは、論理の上に見つかっただけであり、驚くべきものでは無いともいうのである。

 ところが、思い留まる常識っていうのは、人の判断以上の判断を自分で下さないという考えであり、そういう考えの下では、その人に、発明も奇跡も何も起こらないのである。

 奇跡を起こす、発明を生み出すっていうのは、常識的な知識を駆使し、新しい常識を生んでいるだけであるが、これこそが重要なのである。

 特に、ダイエット、疾病(糖尿病、癌、COPD・・・・)等では悲観的な『常識』論が飛び交っているが、それに悲観した時点で、恐らく結末は悲観的なモノに繋がっていくんだろうと思うし、逆に、それに闘う意志を持った時点で、奇跡が生じる可能性を生んでいるんだろうと思うのである。

 勿論、『常識』的な理屈が並んでいるのは事実だが、それはそれ、それが全てと思う事自体が、意志を喪失することであり、それが一番怖い事のように思うのである。

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疾病の原因はホント?

 今の世の中、健康志向である。健康志向の価値観の中では、肥満、喫煙、飲酒という世間で言われている習慣自体が悪習慣として敵対視されている。

 この方向は、最近のメディア、報道、社会、、、、、全てに於いて認められる傾向である。

 しかし、そうとは思いながらも、煙草なり酒なりが人類固有の文明の産物として存在しており、そこには確実に必然性があるとも考えられる。
 このような因子を存在悪と決めるのは簡単だが、歴史的にそういうモノが生まれた背景を考えるっていうのも、本当は必要なのではないか?と考えたりする。

 ところで、そのような存在(酒、煙草等)、状態(肥満)が全否定され、それを解消する事が重要という価値観の啓蒙が盛んなようだが、その根拠は何かと振り返ってみると、、、、

 例えば、肥満と糖尿病の因果関係では、どうか?言える事は、生活習慣の変遷で肥満に陥った人が結果的に糖尿病になったという事実がある場合は、糖尿病の治療は肥満解消にあるといえる程度であり、肥満が即ち糖尿病に直結するとは言い難いのでは無いだろうか?って事。

 実際、糖尿病の有病率の統計を見ると、有名な数字が40~74歳なら4~5人に一人が糖尿病(予備軍を含む)というデータがある。そして、糖尿病患者の多くが肥満となっているという傾向がある。
 しかし、それが肥満だから糖尿病であるという論理には必ずしも結びつかないとも言える。
 糖尿病の有病率のデータには年齢別のデータをあるが、例えば、世代別の糖尿病(予備軍)の有病率(%)がどうなっているか?っていうと、

           男性      女性
  40~49歳    4.8(9.2)        2.2(11.0)
  50~59歳     13.1(13.1)      8.2(12.6)
  60~69歳     14.7(14.4)     12.8(16.1)
  70歳以上     21.2(14.2)     15.3(19.0)
  40~74歳     14.3(12.8)       9.4(14.3)

である。これって、純粋に加齢と共に有病率が高まっているという傾向である。では、肥満人口率(%)の年齢分布はどうなっているか?を調べると

           男性      女性
  20~29歳    17        6
  30~39歳    31       10
  40~49歳    31       18
  50~59歳    34       25
  60~69歳    30       33
  70歳以上    25       30

となっている。40歳未満の糖尿病統計が無いからそれ以外の年齢で比較すると、糖尿病の発症が予備状態からの経過年数が発症の引き金になるとして、発症が著しいのが50歳以降というのが認めらる。ここで興味深いのは、肥満状態が減少する60歳以降でも糖尿病状態は加速度的に増加している状況であり、そこには肥満状態との因果関係を見出そうとすれば、肥満状態を20年程度持続した結果がタイムラグを持って糖尿病として発症するという見方が可能であるけれど、より単純に見ると、糖尿病というのは年齢に応じて増加しているが、肥満はその限りではないということ。

 もっと言えば、肥満になれば必ずしも糖尿病には結びつかないとも言える。敢えて言うならば、前述の通り、肥満化によって糖尿病になった人は、肥満が原因と言えるかもしれないということ。

 似たような例では、COPDと喫煙習慣の関係でも興味深い傾向がある。説明によるとCOPD患者の90%がCOPDを患っているとされている。ところが、喫煙者がCOPDになるか?っていうと、、、、喫煙者(経験者含む)の率から言うと12%程がCOPDになるという一方で、非喫煙者の5%もCOPDになっている。これから喫煙習慣がCOPDの発症加速要因とはいえるけど、それが全てとは言い切れないのである。
 そこで、COPDの年齢別有病率(%)をみると、

  40~49歳   3.1
  50~59歳   5.1
  60~69歳  12.2
  70歳以上  17.4
  40~74歳   8.5

となっている。これも喫煙習慣を継続した結果に発症するという見方が自然であり、その説は、ブリンクマン指数等でも導入されている考え方で理解するか、或いは、これも加齢による傾向と言う事も出来る。
 なぜならば、COPDの有病率が非喫煙者でも5%弱存在するということは、少なくとも60歳未満でのCOPDの有病率の数字を見る限りでは、最長でも40年未満の喫煙習慣ではCOPDの有病率に差異は生じていないという事でもある。
 毒物の習慣的摂取による害の蓄積という見方で判断しても、有病率の急増を示す60歳以上という年齢から、喫煙習慣で40年以上がCOPDを導くとしか言えないのではないだろうか?少なくとも、逆の見方をすれば喫煙者であっても総合で有病率は8.5%に留まるという現実は、喫煙行為が誘因要素であったとしても、その他の要因が多く存在するという裏返しでもあるのだ。

 肥満による代謝異常、喫煙による肺機能低下というのは事実として認められるが、肥満でも最低で肥満状態を20年以上、喫煙ならば40年以上の蓄積の上でという限定的な範囲でしか因果関係は無いのでは?というのは、楽観的すぎるであろうか?

 少なくとも、加齢による有病率増大という部分では明らかである。但し、この加齢による変化というのが、生物学的に不可避な機能低下的な衰えからくるものなのか?或いは、高齢化に伴う生活習慣の変化による機能喪失によるモノなのか?というと判断が付きにくい。
 何故ならば、70歳以上、80歳以上でも驚く程の張りと艶の肌を持つアスリート系高齢者が存在しているのも事実である。世間的な高齢者の衰えとういうのが、本来の宿命的な衰え以前の生活習慣による衰えの加速という部分が相当にあるかも知れないというのが最近の感想である。
 それ故に、先の疾病の有病率の発症というのは、高齢化にともなう生活活動度の低下による代謝低下や怠慢生活による身体機能の休眠化によって高まっているかも?という気がしてならないのである。

 勿論、寿命が存在するというのは判るんだが、人体器官で最初に完成し、細胞新生が行われない脳細胞でさえ120年程の寿命を持つと言われており、せいぜい40年程度で身体機能が顕著に摂理的に低下するというのは納得出来ない部分であるのだ。
 そういう訳で、現代人を蝕む疾病の本当の原因は何か?というと、何らかの原因が複雑に絡み合っているんだろうけど、実は特定しきっていないのでは?と思うのである。

 偉そうに、原因が何だ!と特定するならば、一般に言われている奇跡の回復って事は有り得ない訳であり、奇跡というのは、前例が無いというに過ぎないというか、多くの人が見たことが無いだけの話。それ故に、疾病には既知の常識の何かが関連しているのは事実だが、やはり確定的に言える事は何一つ無いのである。

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2008年12月24日 (水)

大腸ガン、備忘録

 12/16の『たけしの本当は怖い家庭の医学』でも取り上げられていたのが、表題の大腸ガンネタだ。

 大腸ガン関連の記事は、健康診断での癌、ポリープ云々でも最近は日本人の掛かる癌の中でも増加傾向にあり、これから最も注意すべき癌だという話を紹介したところだが、この番組では、大腸ガンの疑う症状についての問診結果が大腸ガン経験者のアンケートから紹介されていたので、忘れぬ内に書き留めて置こうと思った次第だ。

 で、その内容は、、、、

1.便に血が混ざる。
 見た目的に血と判る程は危険。臓器出血で血液凝固に到っていない部位での出血であり、大腸での出血が疑わしいから。

2.便が細くなる。
 大腸ガンの特徴は直腸に発生しやすい。癌の成長とともに便の通り道が狭められるので便が小指ほどの太さにもなりかねない。

3.便秘と下痢が繰り返される。
4.排便直後に便意がやってくる。
 2.と同じ理由。便が小出しにしか出なくなるため。

5.貧血、立ち眩みが頻繁となる。
 大腸での出血が継続するために血液が頭部にまで行き渡り辛くなるため。

 ということ。因みに、大腸ガンについて紹介した記事は、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2007/02/post_45d4.html

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/11/post-137e.html

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2006/07/post_ddca.html

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/11/post-3477.html

 等がある。

 大腸ガン、大腸ポリープ、、、、これは最近では日本人に多発傾向とういうが、やっぱり食生活の西洋化に伴うもの。元々、大腸の清掃に生物は何をすべきか?っていうと、人間以外の生物が繊維質植物を摂取する理由が大腸の洗浄を繊維で行うためであり、そういう事を考えると、人間においても食物繊維を摂取するというのは、そういう行為で消化機能を賄う必然があるから。それが普通な訳で、それを行わない習慣が大腸の不調を招く理由となろう。

 ふと思い出したのが、昨年末に行った大腸内視鏡+大腸レントゲン検査を二ヶ月で3回の精密検査を受診したけど、その際の医者の所見、、、、、ポリープの一つでも見つけてやろうと思ったけど、何も見つからなかった!珍しい!って事だけど、これも努めて野菜を食いまくる生活習慣の賜だと自分では思っている。
 逆に、ポリープの一つでも見つかるのが普通っていうのは、多くの人の生活が、大腸を清潔に保つ生活習慣が摂られていないという証明でも在る訳だ。

 やはり、なんでもだけど、それぞれの機能や効果を考えて、その理屈に従って活用するということ。これは、健康に限らず、趣味の単車、健康維持の自転車乗りにも通ずるモノ。結局は、考え抜いて的を射る行動が最も重要ということ。更に言えば、考え抜いて的を射るというのは、理屈を理に適ってるってこと。考えて正論を導く上で必要なのは、、、、やはり正しい知識を纏い、正しい論理の展開が出来る術を身に付ける事。そんな事を考えるのであった。

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薄型テレビ

 薄型テレビと言えば、液晶、プラズマ、、、、これが思ったより売れないらしい。
 それで、在庫だぶつき気味で売れ行きも今一。海外市場でも今一。それで、家電メーカーの収益さえも圧迫しているんだそうだ。

 で、薄型テレビに対する感想。

 我が家の厚型ブラウン管だが、薄型テレビに対して、どうしても必要性を感じないのである。
 その理由は、、、、、

 第一に、家庭におけるテレビの設置場所が部屋のコーナーというスタイルを取っているため。壁面は出窓、掃き出し等でテレビを設置できる構造となっていないのが大きな理由。一般住宅の既存概念としてテレビはコーナー設置がデフォルトというのがある。コーナーの壁面となると部屋から見辛い。鑑賞位置によって視野角の狭さから見えなくなるのが液晶テレビという欠点もある。
 第二に、テレビとセットの機器の問題。テレビを置くテレビ台があるけど、テレビ台の中にチューナーやDVD/BDデッキを収納する。このチューナーやデッキが相当の奥行きを持つ。結果、テレビ台の上面に薄型テレビを置いても上面が沢山露出するだけという結果になる。その平面にはモノを置けないのは当然。ブラウン管の場合は、テレビ台の上をテレビが目一杯占拠するけど、テレビ本体の上にはモノが置ける。
 第三に、コーナーにテレビを設置すると、一般家庭にありがちな壁面からの窓の明るさが画面に映り込む。画面への風景の映り込みが気になるのもコントラスト比が小さな薄型テレビの弱点である。

 考えてみると、薄型テレビを格好良くおけるような住宅デザインになっていないのも大きな理由である。責めて、奥行きのあるデッキ、チューナーと再生モニターである画面は切り離して置かないと格好悪い。そうやって初めて薄さの恩恵に与れる。
 或いは、デッキやチューナーが超コンパクトになる必要がある。デッキのサイズが嵩張るのは記憶デバイスの大きさが結構影響大である。記憶デバイスがHDDとかディスクメディアでは限度がある。この辺の記憶デバイスが全て半導体メモリーデバイスに置き換わると、激薄、縦置き可能なデッキ、チューナーが出てくるかも知れない。そうすると、、、、、薄型テレビも普及するかもしれない。

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2008年12月23日 (火)

本能的な酒と煙草の付き合い方の変化か?

 先日、コメントを頂いた。対象記事はCOPDネタで煙草と酒に関する内容だ。

 酒と煙草には禁断症状があるっていうのは、良く言われている事。ところで、酒も煙草も嫌いか?っていうと、実は大好きなのである。

 酒は?っていうと今の季節ならばブランデーの湯割り、通年では、バーボン、ブランデー、ウイスキーの順にストレートに限る。水割り、ロックは基本的に好きでない。水割りは味わ見えなくなるし、ロックでは飲むペースで薄まるのが不愉快だからだ。だから、味が変わらず舌で感覚が楽しめるという意味で、飲むならばストレートが基本なのだ。

 それ以外では味以外の楽しみ方では、喉越しや風味を楽しむという意味で、ハイボールの高GVの炭酸で割った奴。それ以外は?っていうと、カクテル類が好き。ゴードンのドライマティーニとか、、、、有名な所ではモスコミュールとか、そういうのが楽しい。勿論、会話ネタには、ブルーハワイ、雪国、オールドパル、ロングアイランドアイスティー、、、、、そういうのは、カクテルが生まれた生い立ちから知っているので、カクテル自体が同席者との会話ネタにもなる。っていうか、学生時代のバーテンバイト経験から、そういうのが悪くない雰囲気と思っていたりするし、酒を使った楽しみ方と言う意味で、その武器としての酒は嫌いではない。

 酒自体の楽しみでは、先の洋酒の次に好きなのが、ギネスの黒ビールだ。ビールならば黒ビールに限る。一世を風靡したドライとか、一般に伝統とされているラガーも好みでない。敢えて、黒ビール以外で好きなビールは?っていうと、、、、既に廃盤のファインピルスナーが好きだった感じ。
 黒ビールと並んで美味い!って思えるのが、ワイン系統。ワインを飲みながら美味しい食事を摂るっていうのも悪くない。結構好きである。食事とワインと会話で夜遊ぶっていうのは、学生時代は週に4日以上は、そういう過ごし方である。

 そんなアルコール生活だけど、結局は、合コンで飲む、女の子と出掛けて話するっていうための酒みたいな部分が多分にあり、そういう機会が不要となると、飲む必要も無いとも言えるのである。っていうか、そういう生活に飽きてしまったというのが本当の処かも知れない。

 で、煙草は?っていうと、これまた嘘でも何でもなく、未だに禁煙しているつもりもないし、寧ろ、吸いたいぐらいなのだ。これは、不思議な事にある日突然、煙草が美味く感じなくなったのである。しかし、細かい事を考える時、訳の判らない?事を考える時には必須だったし、単車で山岳ワインディングを攻めまくって走った時のパーキングでの一服なんぞは至福の一服だと思っていたのだが、その際の美味さがあってのこと。
 これが、全く美味いと思えなくなったのが断煙への一歩である。

 その時に行った事は?っていうと、何が何でも、自分に合う煙草を探そう!っていうことで、自動販売機の全銘柄を順に買って吸ってみたのだが、どれも今一で、一本吸っては捨てるというパターンに陥り、結局、美味くないのなら買う必要も無い!って事が、断煙の始まりなのである。
 それ故に、美味い煙草があるのなら、吸っても構わないとさえ思っているのが今である。

 それが、不惑を過ぎて、酒も煙草を必要なくなってしまったというのが正直なところである。でも、それが必要な時期には辞めろ!っていわれても、多分、辞めれなかったのだろうと思うのである。

 思うに、酒というのは、人生において交友関係を拡げる上で必要なモノ。煙草っていうのは、生活の中で様々な分野で可能性を探る際に頭の切り替えを行うスイッチみたいなもので、やはり必要なモノなのかもしれない。
 しかし、人生における交友関係というか、自分の生きる世界が決まった時には、酒の必要度は一気に下がり、煙草でも、自分の好奇心で目指す方向性が決まった時には、思考切り換えの必要性も無くなる訳で、必要度が一気に下がるために喫煙衝動がなくなるのかもしれない。

 御都合解釈かもしれないが、ブリンクマン指数とかサケ指数で言われているような影響の蓄積度評価で危険症状が現れる50歳以降迄に、煙草とかアルコールを用いる事で生き方を定めるっていうのが必要で、それを定めるための必然性が煙草とかアルコールの必然性なのかもしれないと思うのである。

 逆に、煙草とかアルコールの必然性はやはり必要で、その効果を持って経験を高めるというのは本能的に必要であり、それが完成できていないと、煙草やアルコールの必然性が断ち切る意識を上回るのが、世間で言う禁断症状なのかなぁ?と思ったりする。

 今や、酒もアルコールも不要だけど、その必然性に力を借りるタイムリミットというのが、先の因子に表されるような40~50歳ということかもしれない。そこで、その必然性を消化できれば、後の疾病リスクを高める心配もなく、天寿が全うできるのかなぁ?と勝手に考えているのである。

 良く言われている禁断症状ってやつにも、禁断性を持つに到る摂理が存在しており、それが快感と思える状態っていうのは、それが必要という形で、生命にプログラミングされているのである。そのプログラミングの意味を考えると、何となく、禁煙とか禁酒の意味が理解でき、そうするための過ごし方っていうのも自分なりに考える事ができるかもしれないのである。

 なお、元記事のコメントにも記載したけど、様々な病には、不可逆とか、手遅れとか、治らないとか、そういう話もチラホラ聞く。
 身近な所ではダイエットでも中年世代以降では困難とか、、、、、

 でも、そういう常識的な知見を逸脱した例が無いか?というとそうではないのも事実である。アルツハイマー症、認知症で顕著な症状として脳の萎縮が言われているが、人によっては脳の萎縮が見られても症状として認知症を発症していない例とか、或いは、末期癌からの復帰とか、、、、いろんな例がある。
 そして、人はそれを奇跡といったりするのだが、これは奇跡でなく、実は、当然の結果なのだと思う。奇跡というのは常識的概念外の例ということ。常識というのは、統計的に見られる平均的な症例から生まれた概念であり、前例が無い場合を奇跡というだけであり、結局は、現代の医学や科学で証明されていないだけの事を奇跡と呼ぶだけである。
 更には、現代の医学や科学は、実は殆どの事が明らかにされて居らず、もっと言えば、その僅かに明らかにされた事実さえも、情報を受け取る人は、情報の上っ面を表面的に聞いただけでであり、実は、殆どの事が未知の事という事実に誰も気付いていないのである。

 それ故に、病と闘う人にとっては、その情報を表面的に判断するのでなく、また、表面的な知識だけで言われている意見に影響されるでなく、自身の強い意志と判断のみに従っていけば、良いのでは?と思うのである。

 勿論、一般的な常識論は常識論として知ることは非常に良いことだが、その常識論が決して全てではないという事は理解すべきである。まぁ、常識論は多くの症例が示したパターンであるというのは事実であり、その事実をヒントに自分の生き方や考え方、過ごし方を決めていけばよいのである。

 或る意味、御都合解釈かもしれないが、常識的な意見は、それを参考に過ごす反面、それが全てでないという事も常に考えて、自分の考えを主体に過ごすというのが良いように思うのである。

 酒や煙草に対する付き合い方もそれで良いと思うし、それに起因する病に対する付き合い方、闘い方も同じではないだろうか?

 一番、違和感があるのは、むやみやたらな嫌煙運動、喫煙者を追い込む制度、環境整備ということ。そして、そういう意見で目の敵のように煽動された大勢の態度という事だ。

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Go! 円高、輸入品よ安くなれ!

 最近の円高傾向をメリットに活かす!?っていうなら、米国産の品物を買うのが一番だ。
 そう思うと、先日から関心が高まりっぱなしのH-DのニューモデルであるXR1200が欲しいって事である。
 このXRってモデルはスポーツスターファミリーでは高価だけど、他のシリーズから見ると、安価な系統だ。

 XR1200の詳細は、

http://www.harley-davidson.co.jp/lineup/sportster/xr1200.html

 に紹介されており、実際のXL883Rと随分と異なっているけど、パッと見の印象はあんまり変わらない。それでいて、その価格差が50万円程度であり、車体価格の総額から見ると、値段の差の割合は結構大きく、883シリーズが割安感が強い反面、絶対金額として大したこと無いのだが、割高に感じるというのが正直な感想。

 為替レートが安定していれば、何にも気にする事無いけど、このところのアメリカ経済の失速と秋口以降の金融危機の表面化による円の独歩高、ドル安傾向への反転、最近の日米金利差の逆転現象を考えると、今、即、購入行動に走るか?っていうと、それは無いのである。

 チョット調べると、このモデル、2008年の8月リリースであり、アメリカ経済が大きく落ち込み始める前の値付けであり、買うなら新しい経済事情が反映されてからということになりそうだ。

 ところで、円高になると政府の政策は、兎に角円安誘導って方針だけど、円高になったら円高を活かして消費が高まるような誘導をした方が元気になるって思うのは自分だけだろうか?
 超勝手我が儘だけど、米国の経済失速で円高進行で、円安誘導というのは、同盟国?であるアメリカを追いつめているようにも言える訳であり、日本の競争力がアメリカ頼みならば、アメリカ経済の回復が日本経済の回復の必要条件であり、ならば、Buy America運動を繰り広げる方が随分と良いような気がする。

 アメリカ製品を買うと、消費税免除とか、アメリカ製品の購入には10%の補助金支出するとか、、、、そういう施策でアメリカ経済を支え?てやるのも、長期的な過度なドル安進行を防ぐ方法とも思えたりする。

 今の状態では、アメリカ経済失速=円高、、、、これを円安誘導するっていうのは、結果的にアメリカ経済を更に失速させる事になるのである。

 まぁ、自分がH-DのXR1200をリーズナブルに買いたい!ってための思い付き的戯言だけど、こういう考え方も悪く無いなぁ!って思うのは身勝手だろうか?

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ルン、ルン、ルイガノ、その2

 自分は新興ブランドのバイクが大嫌いである。
 少なくとも自分が取り組んでいた時代に存在しないようなブランドは有り得ないのである。だから、今流行のカーボン系、アルミ+カーボンバック系でスペックを売りにしたモデル群は好きになれない。好みなのは、、、、、やっぱり国産品が良いのだ。ローコストに行くならアンカー、チョイ投資するならパナのPOS、贅沢に行くなら工房系となるのである。舶来モノなら、やっぱりイタリア系である。デローザ、コルナゴ、ビアンキ、、、、、その辺である。それ以外は最近よく見るけど、やっぱり大柄な人向けである。アメリカンブランドは多分一生買わないと思う。

 でも、そんなブランドに輪を掛けて嫌いな?好みでないブランドが、ルイガノってブランドである。これ、ブランド以前に媚を売るような名前にしか見えない。ロゴも格好悪ければ、生い立ちも格好悪い。これは、新興ブランドで隆盛を極めるTREKなんかに較べると、格好悪い権化みたいなものである。だいたい、ルイガノっていうのは用品ブランドの筈で、多分自転車を完成車としてリリースしているのは日本だけでは無いだろうか?
 そんな似非ブランドにブランドイメージなんぞ存在しないのである。

 ルイガノのブランドイメージ、、、、なんかファッションブランドみたいな軽い感じで、自転車でダイエットしたい女性の通勤廉価バイクとか、ファッション系小径車、よくってクロスバイクみたいなもの。これで高価なグレードを選んでも、そうなると他のブランドの方が安っぽく見えない分マシな感じである。

 でも、、、、

 そんな自分は、ブランドに価値を見出さないし、実は色にも拘りが殆ど無いのである。

 自転車を買う時に、ブランド、色は最終条件であり、それ以外に関心を持つのである。それ故に、大嫌いなブランドであるルイガノでも実は受け入れるのである。

 その証拠に、ルイガノMVFってモデルを散歩車に所有している。同じ形ならば、タルタルーガSとか、ビアンキのフェニーチェ、本家のパシフィックのリーチって存在があるけど、一番名前が悪いルイガノを持っている。理由は、名前と色は嫌いだけど、実質同じで、新車で定価の1/3ならOKか?って判断で買ったのだ。
 自転車を買う際に、色とブランドは制約にならないのだ。

 そんな自分が来年、ロードバイクを買うとしたら、可能性の高いバイクがコレ↓だ。

http://www.louisgarneausports.com/bike/09lgs_06-lcr.html

 ルイガノのLGS-LCRってモデル。ルイガノのコンフォートロードで、今時珍しいラグドフレーム、イタリアンショートカットのラグはメッキ処理。リアはコロンバスMAXの集合ステーっぽくなっている。フォークもクロモリストレートフォーク、コンポもリーズナブルな構成。これ、結構イイ感じである。ホント、名前が最悪なだけで、それ以外は結構満足度高いし、価格も安い。

 これ、良いなぁ、、、、。本気で思うところ。

 敢えて難癖つけるならば、縦管(シートチューブ)長に対して横管(トップチューブ)長が長めで、シートアングルが寝気味なところ。そういう漕ぎ(後乗り)なら、ステムはもう少し上が好み。この落差で乗るなら前乗り気味が望ましい。すると、横管長はフレームサイズ毎に10~15mm短く、シートアングルがもう1°程度起きている方が自然な気がする。

 この辺が外国ブランドの気に入らない唯一の点。後乗りを強要するポジション(シートアングルが寝て、トップ長が長め、ステム長も長めで結果リーチも長い)でありながら、サドルとステムの落差が大き過ぎるところ。腰を痛めそうだし、脚も回りづらい印象。
 少なくとも腕長の短い日本人の乗るロードバイクではサドルステムの落差は面一で十分だし、リーチが短い方が漕ぎやすい筈。

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2008年12月22日 (月)

COPDは治らないらしいけど、、、、

 これも火曜日の『たけしの本当は怖い家庭の医学』の中で紹介されていた病のネタ。
 COPD、正式名称を慢性閉塞性肺疾患という。これは、従来でいう肺気腫と慢性気管支炎が合併して生じた症状のこと。更には、世界では死亡原因の第四位になる程の病なんだそうだ。

 この病は、完全に喫煙行動と関連しており、40歳人口の8.5%がCOPDと診断される呼吸機能障害を示しているそうだ。さらにCOPDの潜在患者数は530万人にも及ぶらしい。

 因みに、この病、症状が現れると基本は治らない病ということで、何らかの異常を来さない予防的習慣こそが最重要なんだそうだ。
 診断的には、努力肺活量に対する一秒間に吐き出せる空気量の割合で算定するらしい。その割合が70%を切る状況になると疾病状態と診断される。

 この病の因子は、加齢、喫煙、大気汚染・・・・とあるけれど、一番の因果関係が認められているのが喫煙行為なんだそうだ。この喫煙行為で煙草歴を算定するのに用いられるのが、ブリンクマン指数という評価尺度。これは、

     ブリンクマン指数=一日の喫煙本数×喫煙年数

で求めることが出来る。この指数は式の通りで個人の積算数値となる訳で、生活とともに単純増加で減少することの有り得ない数値である。

数値的には400以上で肺癌発生リスクが高まり、600以上で肺癌の高度危険群、1200以上で喉頭癌のリスクが増えるという。喫煙者は喫煙によるブリンクマン指数が相当な数値となる訳だが、これを辞めても指数は減らないのが悲しいモノだが、辞める事で、癌発生リスクは確実に減るとも言われている。

 禁煙の経過時間と効果をピックアップすると、、、、
20分後には血圧、脈拍、体温が正常化し、8時間で血中一酸化炭素濃度、酸素分圧の正常化、運動能力の改善し、3日目にはニコチンが除去される。5年も経てば疾病リスクが喫煙者の半分になり、10年で非喫煙者と同じになるという。

 まぁ、このブリンクマン指数での喫煙の仕方も吸い方で随分と誤差要因となりうるけど、取り敢えず400以上の数値になる前に喫煙行為を経つのが肺気腫、肺癌リスクを抑えるのに有効なんだそうだ。400というと二十歳で毎日一箱ずつ吸って40歳になるって事。結構色んな人が該当しそう。因みに、自分の場合は平均すると15本で20年だから300という指数値だ、、、、。

 序でに色々調べてみると、似たようなモノでサケ(酒)指数っていうのもあるんだそうだ。これは、飲酒ファクターを調べる指標で、

     サケ指数=一日の飲酒合数×飲酒年数

で求める事ができるらしい。ここで飲酒の合数ってのは、ビール一杯、水割り一杯、日本酒1合が一単位であり、結局は晩酌で何単位飲んでいるか?に年数を掛けて求めるもの。この指数では80を越えると発ガンリスクになる。まぁ、ブリンクマン指数に比べると該当者は少なそう。二十歳というか三十歳以上の晩酌習慣として、毎日3合として27年だから57歳だ。これは煙草程の恐さは感じないのは、サケ指数の延びる割合が年数に支配的(時間的猶予が大きい)だからかもしれない。

 因みに、複数の臓器に別個の原発性癌が発生する状態を重複癌というらしいけど、その場合、ブリンクマン指数で1000以上!サケ指数で100以上!って場合が極めて多いらしい。

 でも、難しいのは、健康のため!っていうことで、煙草も酒も知らない!っていうのは、果たして正解か?とういうと、一概には、そういえないようにも思う。

 仮に健康に悪くとも、酒も煙草も嗜好品であり、或る意味、文明によって発明されたモノっていうのも間違い無い訳だ。そして、酒なんかは身体自体がアルコールを分解処理するシステムを有しているという事実を考えれば、そこには必然性が潜んでいるとも言える訳だ。
 やはり、人間が生み出して存在するって事は、必ずや存在意義があるのも事実であり、そこに、そういうモノが存在するのであれば、それは恒常的に嗜む必要が在るか無いかは別として、それを知るという事自体は案外大事な事かも知れないとも思うのである。

 この中で特に煙草っていうのは目の敵にされやすいモノだが、それが何故に存在するか?を考えてみた。煙草を吸っている時の感覚は、、、、ニコチンっていうのは、基本は興奮物質である。そういえば、過去を振り返ると、、、、煙草を一服して新しい発想を見出すって経験が実はあったりするし、それが否定出来ない事はない。煙草っていうのは、好意的に解釈すると、神経系を興奮させ新しいアイデアを生むような触媒的な効果を持っているとも考えられる。そう考えると、強ち全てを否定するのも単純すぎるか?とも思えたりする。
 少なくとも、世の中に存在するって以上は必然性が何某か隠れている筈であろう。

 まぁ、酒にしても煙草にしても、その必然性の裏には、一般に実証されているような弊害も在る訳で、その中では煙草によるCOPDなんぞは、肺癌と異なり不可逆な病理進行を示すために、己の生活において必然性が無ければ、さっさと辞めるのも悪くないように思うのである。

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単車の可能性>自転車の可能性

 スポーツサイクルを趣味にすると、目的はサイクルスポーツとなる。サイクルスポーツというからには、スポーツであり、それに傾注するっていうのは、そこで好奇心、上達願望があるからである。その上達願望で上達という方向の尺度は何か?っていうと、それは瞬間的な最高速度であったり、或いは、持続可能な巡航速度であったり、登坂斜度であったりである。この辺りを高めるというのが、尺度における進歩を測る目安となるのである。勿論、数値的にどうこう以外でも、感覚的に、何かを掴んだ?何かが変化した?っていう感覚を得ることを含めても、基本は、そういう尺度の上での話である。
 ふと思うのは、その尺度の物差しの目盛りがどうなっているか?って言うこと。これは、以前の記事でも書いたけど、スポーツを行うのが人間という共通点がある限り、その限界というか、尺度に影響する能力っていうのは、種族的な限界というのがあり、限界に到らずとも、到達しうる状態っていうのは限界に対して漸近的に近づくようなものである。そう、努力とか積み重ねに応じて限界に対する近づき方は対数目盛的な部分が大きいのである。

 この対数目盛が緻密(位の高い数字)かどうか?っていうのは、スポーツの種別によるのでは無いだろうか?数値が緻密なモノ程、多くの取り組みで出てくるアウトプット、上達の実感が非常に小さなモノになるという事だが、物理的、フィジカルな要因の影響度の高いスポーツ程、限界に近づく程、得られる実感が繊細なモノになる。
 同じ自転車でも、肉体的な限界で追い込むトラック競技では身体能力の影響度が高い分、その高めた能力から得られる結果の差が僅かであり、ロード競技、オフロード系競技、トライアル系競技と移る程、肉体的な要因とは異なる部分の影響度が高くなり、結果的に、努力によって得る開眼による効果の差が大きくなるということ。
 もっと言えば、肉体的な要因が大きい程、限界に近づく程、努力に対する実感が僅かだが、神経感覚的要因が大きい程、限界は遠いけれど、努力で得る開眼による効果が大きく現れるということ。

 例えば、自分の趣味である、タイヤの細いロード系スポーツサイクルと、ワインディングロードを自在に駆け抜ける事を目的としたモーターサイクルを比較すると、肉体的、物理的な身体能力の影響度が高い自転車、感覚的で反射的な対応度の高い単車という区別になる。
 この二種類の二輪車に乗って感じることっていうのは、自転車の場合は、最近は、幾ら追い込んでもあんまし変化無いなぁ?結構乗っていても、あんまり進歩無いし、誰とも似たような状況だなぁ、、、、って停滞的な意識と持つ場合がある反面、単車の場合は、乗る毎に、この感覚は何時もと違う感覚とか、或いは、乗る毎に乗れている!って実感を得る事が多く、もっと言えば、こういう領域には簡単には来れないだろう!って自負さえ持てる感覚を得られるって事。
 具体的に言えば、例えば自転車で55km/hを越える最高速が出るとか、35km/h巡航を1時間以上実現したり、或いは、200rpmを越えるペダリングであったり、45km/hを3分以上って能力は、多分、チョット鍛えれば誰でも出来る事だろうと思う反面、単車でコーナーリングアプローチでエンブレによるリアブレークを使ってカットインを早めたり、或いは、下りの切り返しでフルバンクからフルバンクへの操作を完璧に決めたり、或いは、アクセルコントロールでの立ち上がりのスリップアングルを支配下におくって行為は、多分、誰にでも出来るような操作では無いという自負を抱く事。
 過去の取り組みによって得たモノ、感覚の宝物感の違いとでも言おうか?そうやって得た感覚が感覚の世界で生み出すが故に、非常に大きく感じるのが感覚で操作する単車の特徴とでも言えるのである。

 この違いは上達願望や好奇心を持ち続ける上で重要なリターンであり、何か行うことで、その違いを実感するというのは、次のステップに踏み出す意欲に繋がるか?という部分で大きく違うような感じなのだ。
 このような感覚の違いから思い描く理想像の部分で、自転車の場合は先が見えているという停滞感に繋がり、単車の場合は、更に感覚を研ぎ澄ませれば、更に自在に操れるのでは無いか?という希望に繋がるのである。

 正直な感想だけど、今の自分は今の付き合い方で自転車力が顕著に高まるとは思えないのであるが、単車力は更に上の世界に行けるという印象である。そういう意味で、自分にとっての上達願望を満たす可能性、好奇心を持ち続ける事ができる可能性は、単車の方が自転車に勝っているのである。

 まぁ、そういう上達願望や好奇心を極限迄突き詰めた本職さんにだけ見える世界って言う部分が、自転車の世界では全く見えないのが、こういう感想に到る理由かもしれない。どっちの世界が上って問題でなく、上の世界が見えにくく、今の取り組みで変化を実感しにくいというのが、このような記事を書く理由だ。

 元々、大昔は自転車趣味だったけど、今回の自転車復帰では当初は便利道具、その後が、運動器具、そして趣味の一つって認識だったけど、ここに来て再び趣味というよりも、健康器具的な印象を強く持ち始めたところ。勿論、健康器具的に扱いといっても、機材自体には趣味的な側面もある訳だが、チョット、そのポテンシャルを高めたいって意識の部分の上達願望が無くなってきた感じだ。

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おだてて登坂

 我が家の娘、超負けず嫌いで、煽てに弱い。親子でそっくりかも知れないが、、、
 日曜日の午後、娘とサイクリングに出掛けたのだが、帰路の団地の登坂では、珍しく全く降車して押すことなく家まで帰宅して帰っていった。
 途中、10%を軽く越える坂が一箇所あるのだが、そこも漕いで上がっていったのには驚きだけど、その理由は、途中に知り合いの方が電動アシスト自転車で漕いで上がりながら声を掛けてくれたのが一番である。

 褒められる、驚かれるっていうのは、子供にとって自尊心が強く擽られ、自信が芽生えるようだ。

 それにしても、今のZIT-2020ってジュニアマウンテンバイクを与えて8ヶ月が経過したけど、その間に、実に上手に自転車を扱うようになったものと感心するばかり。変速操作も自由自在、身体も一回り大きくなったようで、当初懸念していたクランク長が長過ぎか?って事もないし、サドルのヤグラも逆に組んでいたのを普通に戻し、更には、ポスト自体も最低位置+15mmアップの状態。当初は如何にも大きな自転車だったけど、今は丁度良いか、チョット小さいか?とも思える状態。大したものである。

 そういえば、先週与えた一輪車も既に自立可能な状態となっており、上達の進歩は速いようだが、そういえば教え方も、褒めちぎって、煽てまくりの結果である。煽てて、褒めて、自信を持たすのは悪くないんだろうけど、最近は自信持ちすぎで、チョイ生意気の度が過ぎている。
 自転車、一輪車以外でも自信過剰の固まりで、自分の事を『○○ちゃんは凄い。何でも出来る。』と常に言い、親に向かって『あなた、坂上がれないでしょ!あなたより、坂も上がれるし、スピードも出せるわよ!』ってノリ。親にだけならいざ知らず、お店で部品を買う場合でも、自分の事を『小学校のお姉さんみたいでしょ!』って色んな人に吹く。

 今の歳なら、ホノボノだけど、このまま大きくなると、チョイマズイかもしれない。

 煽て、褒めるも度を過ぎると、つけ上がる。この辺を上手くコントロールしないといけないのだろうけど、そのさじ加減が難しい。

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2008年12月21日 (日)

H-D XR1200、欲しいなぁ、、、

 以前から気になっていたラインナップ。表題のモデルは、なんと本国ではリリースされないかも知れないらしい。狙いは欧州、日本市場向けなんだそうだ。

 個人的には、元来のH-Dのモデルは基本的に嫌いなモデルばかりなのだが、このモデルだけは、大昔のXR750を別格として好いていたのと同様に、頭から離れない希有はH-Dのラインナップであったりするのである。

 別にH-Dの全てが嫌いという訳でなく、一般的なH-D像であるフルドレス+フェアリングのグライドとか、クラッシックとか呼ばれているツアラーの様なモデルとか、あるいは、異様に低く長く、フォークも長く、曲がらないようなモデルとかは微妙に好みでなかったりする。

 H-Dに限らず、単車が別の目的の道具的な要素が強くなるタイプは、少々好みから外れているのである。勿論、単車自体が道具なのは間違いなく、何の道具か?という点でタイプを選り好みしており、自分の場合は、一般行動の高速道路でない山間部の適度に曲がった山岳ワインディングにて運転操作を楽しむ事を目的として、その道具として選んでいる。一般公道におけるワインディングでの運転操作を楽しむとい時点で、自ずと遊ぶ速度域が決まってくるので、少なくとも、2速、3速のパワーバンド近辺でも3桁半ばの速度域という絶対的な動力性能の範疇から選ぶということとなる。
 そういう目的と道具選びということで、幾ら動力性能重視!って気持ちがあっても、200km/hオーバーが常識的となるような超ハイパフォーマンスを誇る600cc以上のマルチエンジン搭載のスーパースポーツ群も選択肢から落ちるのである。

 つまりは仮に選ぶとしたら、SSとかレプリカとか性能志向の単車だとしても、ミドルクラス以下のモデル群だし、大きな排気量迄範疇を拡げると、スポーツネイキッド未満のモデルとなる。
 選ぶ観点が操縦操作という事となると、運転行為自体が常に全開と全閉を繰り返すようなサーキットライクな操作と異なり、経過重視、体感重視の過途特性重視であり、そういう中間領域における応答性を特に留意が働くのである。そうなると、兎に角応答性重視となる訳である。そういう価値観では、2ストロークバイク、4ストロークならば小排気量のシングル、それ以上ならツインエンジンという嗜好性に纏まるのである。

 だから、先述のH-D全体のブランドイメージを牽引する多くのラインナップは不愉快かつ嫌いなのだが、H-Dだから全否定というのでも無い。現実問題、H-Dの兄弟であるビューエル社の製品は殆ど全てのラインナップが好みである。特に、前世代のスチールパイプフレームのサイクロンM2とか非常に好みだったりする。但し、ビューエルという存在自体がレアであり、それを長きにわたり(自分の場合10年以上とか、、、)維持するという事を考えると、躊躇する部分が多く購入には到っていない。

 そういう意味で、実はチョイ前世代のビューエルは大好きだし、同様の理由で1990年代初頭迄のモトグッチ、ドカティ、BMWといった海外ブランドのモデルは何れも好みだったりするのである。モトグッチならば1100スポルトは最高だし、ドカティなら一世代前モンスターの1100Sとか、BMWならOHVのR100RSなんかはとても好みに合うのである。但し、これらが現役の時代は、自分は今の愛車で手一杯であり、即乗り換えてまで欲しいか?買い増す程の魅力が見えたか?というと、そうでないために購入に到っていないのだ。

 単車に乗り続けて27年が経過し、最後の単車を購入して4年が経過した今、何となく、新しい何かが欲しいなぁ?という思いが湧きつつあるのだが、その中で浮上してきたのが、表題のモデルである。
 勿論、H-D以外にもドカティの現行モンスターの1100S、モトグッチのスポルト等、BMWのF800S等も悪く無いのだが、そのような各車の中で、そのメーカーの生い立ちを色濃く反映し、そのモデル自体がメーカーラインナップの中でも特異な個性を発揮するようなモデルが良いなぁ!って思う。

 BMWのツインにはBMWの必然性を感じないし、独自性も無いし、コレ買うならTRXの方が良いか?とも思うし、、、、

 グッチのスポルト等にしてもエンジンこそ個性的だけどラインナップ自体の個性が曖昧で各位置付けが区別しにくく、ブレバ、グリッソのどれか?という必然が見えにくかったりする。

 ドカのラインナップの構成っていうのは、日本車におけるスーパースポーツとスタンダードモデルのように、世代違いのパッケージでラインナップを生むという手法(前年度のトップグレードコンポーネントが今年度のネイキッドに適用というお下がり的発想)が、どうも納得し辛い生い立ちとなっている。

 そんな事を思うと、H-Dの新ラインナップであるXR1200っていうのは、H-Dの歴史であるXR750をモチーフの祖としており、そのパッケージの核のエンジンは血縁のビューエルから多くの血を受け継ぐ。ポジション自体も他のH-Dラインナップとは一線を画している。H-Dのラインナップの中では一番判りやすいキャラクターだし、この存在は、H-Dだからこそ許されるモデルとも見えるのである。或る意味、自分の愛車でいうならばガンマ500のような存在感を持っているように思うのだ。
 ということで、今一番関心が高いモデルだったりする。従来はスポーツスターの883も悪くないか?と思っていたけど、あのキャパシティーのエンジンで回す喜びを得たとして、それが既存の愛車の650ccクラスツインに勝るか?という部分では、個性が被りながらも超越した部分が見出しにくいという点で好きだけど、買うに到らないという結論だったのだが、この度のXR1200ってモデルは、ミドルツインとは別の世界であり、そういう点でも、増車してみたいなぁ!って思わせるのである。

 勿論、速さなんぞは期待していないのだが、もう少しノンビリ、年齢なりにスポーティを楽しむという見方では悪くない選択肢か?と思うのであった。

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献血で糖尿病検査サービス

 木曜日のローカル新聞にも小さな記事が掲載されていたけど、表題の如く、献血を受けると、糖尿病の検査結果を知らせてくれるというサービスが来春から始まるという。

 糖尿病の検査というと直接的に血糖値を測定するのだが、この血糖値は空腹時血糖値という事から、献血行為の前に空腹とは限らないという事を考慮すれば血糖値を測定して判定する事が出来ない訳だ。
 そこで、新たに判定のために検査するのグリコアルブミンと呼ばれる項目。これは直近2週間の平均血糖値を反映していると言われ、血糖値が高い状態だったか否かが推定できるという。

 ところで、過去においては肝炎とかHIVの検査目的で献血を行う人も居て、それが献血後の検査をすり抜けて問題となると言う事で、検査目的の献血をしないように!って呼びかけが為されている。
 まぁ、そういうウイルス検査というのと、血液の状態検査っていうのは異質なモノなんで、献血を行う人は、その辺の意識を持たなければならない。

 因みに、血液の状態検査で判るのは、次のようなモノがある。
1.ALT(GPT)
 標準値が5~45IU/L、急性肝炎、慢性肝炎、脂肪肝、肥満の判定。肝臓に最も多く含まれる酵素で、肝細胞のダメージの度合で上昇する。

2.AST(GOT)
 標準値が11~37IU/L、心筋梗塞、急性肝炎、アルコール性肝障害、心筋、肝臓、骨格筋に含まれる。1.に加え心筋梗塞が類推できる。

3.γ-GTP
 標準値が10~65IU/L、閉塞性黄疸、肝炎、アルコール性肝障害、飲酒との関連性が高い。

4.コレステロール
 標準値が110~250mg/dL、肥満、動脈硬化、食生活中の脂肪摂取量を反映。

5.赤血球、ヘモグロビン、ヘマトクリット
 貧血の有無の判定を行う。この平均値の場合は、貧血の種類の判定を行う。

6.白血球
 標準値が35~100、細菌感染症の状態を示す。

7.グリコアルブミン
 糖尿病検査

8.B・C型肝炎検査、梅毒検査、HTLV検査
 異常があった場合のみに希望者に限り郵便で通知される。

 ということで、企業等で行われる健康診断と殆ど同じ検査を受けられるのが献血のメリットである。この血液検査に加え、胃部レントゲン、胸部レントゲン、心電図、視力、聴力、尿、便、血圧で成人病検診だ。これに単なる胴回り測定でメタボ検診という程度。

 献血をして健康診断に役立てる!っていうのも悪くない選択肢である。お奨めだ!

 ・・・・・・・・・・・・・・でも、自分は実は献血はしない事に決めている!?

 なぜなら、いつも貧血気味?っていうのは体感上あるけど、もっと別の理由、、、、、、

 それは、大昔、大腿骨が木っ端微塵に砕けた際の手術の際の事、昭和59年末の事故で、昭和60年の正月に手術を受けた際の事。

 その時に、地元の個人病院で大腿骨を金属プレートで代用させる手術を受けた時に、予想以上の出血があったのだが、その時に、輸血用血液が不幸にも(運良く?)無くて生理食塩水で量を賄った!?って嘘か本当か判らないような話を経験したのが一寸した理由。
 心が狭い?かもしれないが、その時以来、献血はしていない。それまでは、経験あるけど、必要な時に輸血が受けられなかったという印象から、そのまんま今に至るのである。

 まぁ、それは今となっては良かった事かも知れないが、当時、大きな手術をすると、輸血、フィブリン糊等々と今の時代では薬害肝炎のリスクを抱える可能性があった訳だ。
 そういう心配?で、薬害C型肝炎がニュースになった時に、当時の薬剤の処理を時系列的に纏めた事もあったりする。

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/01/c_eb65.html

が、そうだ。当時の時期というのが、偶然というか、大きな出血を伴う手術だったけど、偶然、BPL処理が為されたフィブリン糊だったというだけ。或る意味、リスクの可能性を抱えるか否かの危機一髪って状況だったのである。

 そういう経緯で、当時輸血を受けなかったり、時期的に1985/9以降の抗HBsグロブリン添加処理でウイルス不活化を済ませたモノが使われてなかったのは幸運だったのだが、それとの運は別として、その時の感情が今に繋がっているのである。

 勿論、その後の検査でセーフなのは確認しているが、あれでも事故を起こしたのが数ヶ月後で、手術を受けた場所が大病院だったりすると、輸血も受けて、フィブリン糊でも何らかのリスクを被った可能性があるのである。当時の血液産業?では、HIVとか肝炎を蔓延させたという事実がある訳で、ホント恐ろしい話と思うのである。

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埋蔵金、こんな事に使っていいのか?

 このところの深刻な経済事情に対応してか、なんかよく判らないその場凌ぎ的な財政出動が何兆円って規模で出てきているけど、見てみると、殆どが所謂、『埋蔵金』頼み、、、、

 おぃ、、、、自民党、、、、、埋蔵金なんぞあてにしないと豪語していた春先のアレはどうなった?埋蔵金を福祉関連に充てるとしていた野党案に反対していたのには、或る意味同意出来たけど、今回の場当たり的な対応で埋蔵金をばらまくっていうのは、更に場当たり的と思うのは気のせいか?

 今回の不景気対策に埋蔵金を流用するのは良いとしても、不景気脱却のモデルというか、その方向性が全く見えないのは後の財政に大きなツケを支払わせるように見える。
 少なくとも現在の不況(過去の量的緩和政策と過剰な競争原理導入)原因を作った政権が、現在の不況の原因に適切な対応を打てるか?という部分が疑問。現在の不景気に到る構造要因を取り除く対策に埋蔵金なり何なりを使うならまだしも、不景気による症状に対する対処療法的な政策に埋蔵金を使うとして、政策投資に見合った効果を何処まで算段し、予測されるシナリオは描いているのか?等々、政策の方向性が定まっていないように見える現状では、悪あがきで埋蔵金をばらまく様にしか見えないのが不安である。

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2008年12月20日 (土)

メタボ関連のコネタに感想

 メタボ関連のコネタニュースのピックアップ

1.発電床
 これは、JR東日本が、東京ビッグサイトで11日から13日まで開催された「エコプロダクツ2008」に振動力発電「発電床」を出展したもの。人の歩行によって床に加わる力を床内部に組み込んだ圧電素子で発電するもの。

http://response.jp/issue/2008/1215/article117798_1.html

がネタ。圧電体に掛かる力を電圧に変換するもので、言ってみればスピーカの逆の作用みたいなもの。

2.タイソンがメタボ?
 80年代に最強を誇り、日常の言動で話題に何度も上った旧話題のボクサーだが、、、なんと、お腹デップリのメタボ体型になっている。

http://www.nikkansports.com/battle/news/p-bt-tp0-20081216-440613.html

である。あれほど鍛え上げられたボクサーでさえ、僅かな時間で此処まで変貌してしまうのだ。みれば、タイソンも42歳の厄年だ。まぁ、脂肪がついても筋肉自体はある訳で、チョット運動すれば軽く絞れるものとは思うけど、、、、こういう状態を見ると、ジャンル違いで比較するのは適切ではないが、1980年代に一世を風靡し、未だにトップに君臨し、その美貌も体型も変わらないマドンナは凄いと驚くばかりである。

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併走、斜行、蛇行はこ・わ・い

 車線、法規があやふやな歩道、自歩道、自転車道で一番怖いのが表題の走行形態。
 何れの走行形態も、瞬間的に全道幅を占有する可能性があるからだ。だから、離合や追い抜きの際は非常に迷惑なのである。

 この併走、斜行、蛇行って走り方は、困ったことに、ママチャリ、通学車両以外にも集団走行するロードバイクにも多い走り方。
 日曜日に見かけ、以前反応されてウザイと思ったインターマックスも斜行、蛇行してたけど、実際、そういうロードバイクは珍しくないのである。

 まぁ、こういう道路内での動きっていうのは、自転車に限らず歩行者でもデフォルトであり、逆に言えば歩行者では自然な動きともいう。歩行者の動きを自転車が行っているって事は、皆の意識の中では自転車は車両とは異なる歩行者と同列と直感的に判断しているからかもしれない。

 しかし、自転車の場合、歩行者と異なって動きが速いのが曲者。自転車の場合、低速気味な自転車程、ふらつきが激しく蛇行の度合が激しいのも特徴。このふらつき蛇行は突然なんで避けるのもヒヤッとする事があるのだ。

 因みに、自分が自転車に乗っている時は、進路を変えたり、速度を加減したりする場合は、後方を目視で確認した上で行動を起こすけど、そういうスタイルの人は殆ど皆無。前方注意以上に後方に注意しているのだ。だから、仮にラングスターでDHバーを握って漕いでいる時も、後方に意識が行っており、誰が来れば、その気配で直ぐにわかる。気付かずして付かれるって事は無いのである。それ程に後方に神経を配っているのだ。
 しかし、ロードバイクユーザーの多くは後方に神経が回っていない人が多いのが現実。特にロード乗りは後から抜かれる前提が無いかのような判断、もしかしたら、自歩道最速とでも思っているからか?とも思えるような運転をしている人が多いのが、これまた怖いところである。それ故に、ロードバイクをスルーする場合は、絶対に世間話的挨拶を笑顔で交わしながら抜くように心掛けている。

 何にしろ、蛇行、斜行、併走、、、、これ程怖いことはないのである。

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ふと思う。ポテンシャル差って僅か?

 ロードバイクの性能っていうと、機材、乗り手の身体能力、技量で決められるんだろうけど、もしかして、競技で飯食うようなスペシャリストを除くと、どんな機材であろうと、どんな乗り手だろうと、経験に少々差があろうと、、、、、その辺のレベルっていうのは、案外、似たような性能なのかなぁ?って思う事が多い。少なくとも、距離的に50km未満という短距離では差違なんぞ無いのかも?って思うのである。

 二年以上太田川沿いを走っているけど、頑張って走ってる人、挑発的な人を含めて、勿論、自分を含めて、、、、その上限?っぽい所の状態は、極めて僅差のような感じを受けるのである。

 ビックリする程速い人っていうのは見た事無いけど、自分が遭遇した範囲及び、キーワードを『太田川 ロード』等で検索してヒットするサイトの内容を総合的に整理すると、、、、

・最高速度でも殆ど55km/h以下
・3km以下の短距離区間の走行速度も45km/h以下
・最長でも15km程度の中距離区間の走行速度は40km/h未満
・ケイデンスもせいぜい120rpm程度
・最高心拍数も200bpm未満

 それ以上でぶっ飛んでるような話は聞かないし、見た事もない。上述のような状況に近い状況で走っているサイクリストを思い出してみると、、、、全部で6人。それが皆本気かどうか?は知らないけど、、、、見た感じ、表情的にも一杯か?って感じられるし、その後の失速度合から見ても、その程度っていう感が強い。

 冷静に見渡すと、そんな感じである。6人中4人は、バリバリのバイク、決まった装備で、表情もその気な感じ。それ以外の二人っていうのは超普段着。乗ってるバイクもごく普通というか、相当古い感じのバイク。バイクの差、乗り手の差、装備の差、、、、、人が拘るほど全体としてのポテンシャルに差異は生まないのかも知れない。
 所詮、一般人。人間って種類の生き物。そんな生き物に筋肉の差、心肺機能の差なんぞは、せいぜい50km未満の距離が頑張って走るレベルでは見た目明らかな違いには繋がらないんだろうと、今更ながら考えてしまう。
 まぁ、肉体的な条件、経験的な蓄積が或る程度の処までは面白いように高まる。その上げ幅が広いほど、その体感や経験が自信に繋がる。しかし、或るレベルに到達すると、物理的な制約から望むほどの変化が得にくくなる。特に、速度という尺度で優劣を測ろうとすれば、低い速度領域での5km/h差と高い速度領域での5km/h差っていうのは意味が違う。速度が高い程に影響を及ぼされる因子による抵抗が増大する。力で二乗、エネルギーで三乗で聞いてくる。だから、高速域になる程に1[km/h]の変化を得るに必要な労力が大きく必要だ。そういう部分と個人が普通の努力で得られる自己の変化の小ささが相乗の効果を持って変化や進歩、進化が見え難くし、それが所謂誤差要因に含まれる程となるのが現実。

 このような状況を遙かに凌駕するサイクリストが存在するならば、一度、その驚愕の走りを見てみたい気がする。具体的には見たこと無いけど70km/h領域で走り抜ける様、或いは、1km程度の距離でも60km/hに迫る速度の走行、或いは、1時間以上を40km/hオーバーで駆け抜ける持久力って部分。でも、このような日常では有り得ない能力が実現できる人っていうのは、オリンピックレベル、世界選手権レベル、クラッシックレースレベルであり、そんな人が普段に居る筈もないだろうなぁ。

 ふと考えたのは、所詮、人間である。人間が頑張って得られるポテンシャルっていうのは、それに特化したような世界の住人でも無い限りは、殆ど変わらないのでは?という思い。考えてみれば、ムカデ、ゴキブリ、セミ、トンボ、、、、属が同じなら動きの度合に差異は無い。犬、猫、ツバメ、、、、動物でもそうだ。生き物の種類が決まれば、余程、それに特化したような過ごし方をしない限り、その差は僅かだろう。
 そういえば、先日、来広したオリンピックで一世を風靡したスイマーであるイワンソープ選手のトレーニング生活を聞くと、毎日十数キロを泳ぎ、毎日筋トレし、トレーニングの時間は毎日15時間を続けたという話。そういうレベルの過ごし方で、あの記録に結びつく訳だ。逆に言えば、あそこまでやっても、何時かは破られる記録に留まっているとも言う。ならば、並の生活の並の人が趣味域のスポーツで差が生まれるか?っていうと、それは無いだろう!って意見というか、もっと言えば、気合いが入っているって言っても結果はたかが知れているというか、違いは生まれないっていうのが自然な考え方とも思えるのである。

 逆に、対人意識が強い人っていうのは、冷静に考えると極自然なこういう考え方は頭に入らないようにも思う。頑張れば、頑張るほど、延びる!優れる!勝れる!っていう意識が大きいのかもしれないが、所詮、一般人、そんな差は生まれないんだろうなぁ、、、、。

 冷めた考えと言えば、冷めている。でも、現実はそんなモンだろう。でも、多くの速い自転車ユーザーはそれを認めたくないんだろうと思ったりする。

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2008年12月19日 (金)

今の不景気は悪?

 今、不景気なネタが多いのだが、約一年前は誰もそんな事は考えていなかったようだ。でも、一年前の自分は、不謹慎だが、Let's 円高、株安、ready?って事を言っていたようだ。

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2007/11/post_ede0.html

の記事がそうだ。他にも、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/03/post_1e91.html

とか、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/10/post-1838.html

にも記事にしたけど、不謹慎ながら、予想通りに進む経済状況を見てニヤリとしているのである。
今の状況、なるべくしてなっているように思っているのは、多分、俺だけじゃないような気がする。

引退宣言している小泉元首相の言うような、痛みを伴う価値観の再構築は、今のような時期にこそ必要なのかもしれない。

敢えて、円高誘導、円高で生き残る術を考える。

過去の小泉流の痛みは痛みでないように思う。あのときに言った痛みを感じるのが今の時代の筈である。それを実行する。そういう血を流す事を訴えるのが麻生ちゃんが小泉票で得た政権で行う責任のようにも思う。

何故に、自分の(組織の)言った事を忘れて、その場凌ぎに翻弄されるんだろうか?

今の与党は、まるで、野党の如くである。

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二輪、四輪兼業メーカーの将来は?

 12/17のニュースでびっくりしたのは、、、、やっぱりというか、予想通りというか、ホンダの次期NSXモデルの開発中止と、国内における高級ブランドのアキュラブランド導入の撤回というところ。ホンダはホンダアイデンティティであるF1活動の撤退についても一番に発表、、、、と、このところホンダの決断が他の自動車メーカーの決断を先んじているように見える。

 ホンダによると投資の選択と集中という過程で、このような高級ブランド、金の掛かるF1活動の撤退という反面で、2輪のMoto-GP活動の継続は打ち出しており、ホンダによる選択の結果、Moto-GPを初めとする二輪の活動は継続するというのが非常に興味深い現象。
 四輪業界の不景気はこの度からの問題だけど、二輪業界の不景気はここ二十年近く続いている状況。まぁ、世界的には二輪業界が衰退しているとは言い難いかもしれないが、それでも、このような選択を行うというのが興味深いものである。

 ただ直感的に感じるのは、今回の決断の速さは、ホンダ、スズキといったメーカーの速さである。そういえば、ニュースにはならなかったけどスズキが開発を進めていたキザシって3.5Lクラスの乗用車の開発も凍結という話は随分前に聞いた。

 このようなアッパーミドルレンジの開発撤退、凍結、白紙撤回が相次いでいるけど、ホンダによるとフィットよりも更にローレンジのハイブリッドカーの開発や、電動二輪車の開発は進めるという。
 或る意味、必要最小限のクラスに資本を集中させるという。そういう意味では、小さく精密な技術がバックボーンにあるような二輪関連の技術開発には必要性を認めているのかなぁ?と思ったりする。

 まぁ、最近までの3ナンバー志向、ミニバンやSUVの無尽蔵な大型化、3ナンバー車の排気量の異様な増大傾向、過剰装飾とも思える装備類の肥大化というのは、環境を叫ぶ割りに的はずれな違和感を感じていたのも事実であり、そういう意味で、豪華絢爛に偏った乗用車開発の在り方を見つめ直すには良い景気動向の変化とも思えるのである。

 環境技術という体裁の良い言葉があるけど、環境=高効率という観点で捉えるならば、それを全て自動的に行える技術で賄うという思想自体にも違和感を感じるのである。
 自動車の環境適応度アップでハイブリッドカーとか、CVTとか在るけれど、本当の意味で環境を論ずるならば使い手の意識次第とも言える。不必要に車に乗らない事こそ最高の環境対策であり、一寸した使用において煩わしさを感じる方が、使い方に選択の機会を与えるとも言える。そういう意味では、自動車を動かすには煩わしさ、儀式的な行為が残り、運転行為でも使い手次第で結果が大きく変わるという方が、実は、環境に優しい高効率に繋がるのでは?とも考えたりするのである。

 要は使い手次第であり、使い手の意識で同じ運転操作でも結果は随分変わるモノ。結果、使い手の意識のままに動かせるような方向に進めば、使われる機械はシンプルとなり結果、軽量化、省資源化にも繋がるもの。

 そういう意味では、二輪車、小型車の方が使い手の意識が重要な部分が残るというのは、案外、思想的、意識的な変化が生まれるかもしれないなぁ、、、と好意的に解釈したりするのである。

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発酵食生活!?

 最近、表題の如くの生活パターンが加速?してきた。
 食生活を見ると、、、、朝食では納豆御飯+ヨーグルトがデフォルト、昼食ではヨーグルト+ヤクルトがデフォルト、夕食では納豆御飯がデフォルトなんだが、先にも紹介したように夜運動の後の空腹感を癒すために食っていた夜スナ、夜アイスを停止したのだが、やっぱり腹が減るのはしんどい訳であり、そんな夜の食欲を満たすために選んだのが、、、、、そう、今度はキムチである。

 自分的好物は?っていうと、博多のドッカラ系明太子、それと本格キムチなのだ。しかし、御飯を食う時は何時も納豆というのが習慣化しており、明太子、キムチを食べる機会がとても少なくなっている。それでも、明太子は弁当に一緒に入れる事があり食べる機会はあるけれど、キムチっていうと臭いのキツサも併せて弁当に入れる事も無いし、朝、夕の食事でも登場しない。

 それで、ふと思い付いたのが、食べる機会は殆ど無いながら、ついつい買い置きして賞味期限を過ぎさせてしまうキムチである。家族の誰もキムチを食わないから、買っても捨てるというパターンが多かったのだが、ここに来て、キムチに注目である。

 夜スナ、夜アイスの変わりが、そう!夜キムチである。

 結果、冒頭に書いたけど、朝、昼、夕、深夜に渡り恒常的に発酵食品を摂取することになる。

 さて、そんな夜キムチなキムチだが、チョット見ると、キムチはダイエット効果もあるんだそうだ。
 そして、キムチ自体には実は大したカロリーが含まれていない。100gでいうと、僅か50kcalにも満たない46kcal程。これって、スナックで100gというと500kcalクラスなんで1/10以下である。言い換えれば1kgのキムチを食っても同じと言う事。キムチで特徴的な栄養分というと、ビタミンK、ビタミンC、食塩であり、これを50gほど食うと、1日の必要量の48%、12%、14%が取れるという優れものである。そのような栄養分に加え、乳酸菌が大量に含まれているのが特徴で、その乳酸菌により抗ガン、発ガン抑制といった効果があるとか?無いとか?

 そんな効能はどうでも良いけど、おやつ?代わりにキムチっていうのは自分的には相当正解。程良く食い応えあるし、これ食ったら後から甘いモノ欲しいって気持ちが全く湧かないのが良い。ただ、如何に低カロリーとは言え、三食外で余分に食うのであり、絶対的には摂取カロリー量が増えるのは間違いない。

 一般論的に言えば、辛い味から食が進み御飯のバカ食いに繋がるとダイエット効果には逆効果になりかねないので注意も必要だ。

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2008年12月18日 (木)

米国も量的緩和、、円高で効果的なのは?

 つい先日、韓国も金利引き下げで3%という韓国における最低水準迄金利を引き下げた。そして、火曜日未明、アメリカも0~0.25%という最低水準になった。

 アメリカ以外の国家が金利を引き下げるという意味と、アメリカがゼロ金利政策を採るというのは意味が違うように思う。経済政策の根幹に強い経済=強い通貨=強いドルという思想的背景を持つのがアメリカという印象だが、そのアメリカがゼロ金利を容認するということは、アメリカ自身が自国の通貨を強く保つという経済政策を破棄したように見える。
 更に言えば、アメリカの自国の自動車産業等を守るのに最も効果的なのは、日本車を入れない事と考えているのかもしれない。今回のゼロ金利政策によるドル安円高誘導っていうのは、自国防衛のためにアメリカが日本を見放したのか?とも思える程。米国が取り敢えずは威信を捨ててでもって決意の現れとも受け取れる。
 或る意味、アメリカはしたたかであり、今回の金融危機に対しては日本は対岸の火事的な風潮も見受けられたけど、この危機で構造的に最も深刻なダメージを長期に負うのは他ならぬ日本のように思うのは考えすぎだろうか?戦後最長の景気拡大という形で喜んでいたのは他ならぬ日本であり、その根元は日本のゼロ金利政策を許す世界の経済環境であり、その恣意的な円安誘導による価格競争力で世界から利潤を集めてきたモノが回帰するだけのようにも見える。

 少なくとも、そのような他国の威信に乗じた過去の円安誘導で膨大な利益を稼ぎ出すという構造に依存していた日本では、誘導的円安という政策の元で確保してきた輸出製品の市場における競争力が失われるということであり、世界市場において競争が強いられる製品の競争力を如何に確保するか?が重大の問題となる日が迫りつつあるように思う。

 今回の金融危機では、旺盛な消費によって収益を得る事が出来た限定的な産業部門(自動車産業、家電エレクトロニクス等)が大きな収益低下に直面しているが、各国の通貨バランスが新しい関係に移行した時には、収益を世界市場で賄う輸出産業では、輸出製品の競争力による淘汰の流れに曝されることとなる。

 市場が要求するレベルの製品に過不足の無い製品を安く供給できるか否か?が重要であり、幾ら高性能であっても市場が要求しないレベルに性能を上げて高価格を通すというのは不可能であり、要求性能を満たす上での価格競争に打ち勝つか、或いは、要求される要件を広範囲にカバー出来た上で高価格を通すか、或いは、何度の高い要求が求められる新規事業へ製品を供給し高価格を受け入れさせるか?が選択肢となる。

 この原則に従うと、成熟した産業分野では、非常に厳しい競争に曝されるために製品の価格競争力が非常に大きな要素であり、自動車、家電を初めとした製品や、伝統的な製品というのは、中国、韓国を初めとした諸外国と非常に厳しい競争が強いられるだろう。
 逆に、新興諸国が対応できないレベルの製品分野では、新しい製品=新しい価値観であり、その価値観創出に長けるEU諸国との競争が強いられる訳だ。

 今回の金融危機では、産業の受けるダメージの度合は、日本以上に諸外国の方が深刻であり、そういう面では、激しい収益低下に見舞われた限定的な産業以外の業種では、収益力の低下は限定的に留まるかもしれないが、金融危機からの脱却の模索の方向性が決まり、危機の底を打ってからは、新しい通貨のパワーバランスの元で、各国産業が収益を上げるためにとるべき施策が定まる訳で、そうなったときに、誘導的な円安が採れなくなった場合の日本産業の競争力が確保出来るか否かが、日本にとっての本当の危機からの脱却可否を占うものと言える。
 実際問題、諸外国の金利引き下げで円高は停まりようもなく、案外、日本企業の輸出製品の競争力は世界経済の回復傾向が感じられる前の段階に壊滅的な打撃を受けるかも知れない。為替は1995年以降のゼロ金利政策によって強引に歪められていた感も否めない訳であり、金融危機によって生来の為替水準に回帰するような動きが加速するかもしれない。具体的には、為替で1ドルが80円台前半になるかもしれない。

 ところで、今回の諸外国の金利引き下げ、量的緩和というのは、案外大きな間違いかもしれないと思うこともある。

 今回の金融危機というのは、日本のバブル崩壊後のゼロ金利政策と量的緩和による潤沢な資金供給が、世界経済における世界の消費意欲の刺激に相応の影響を与えているとも言える。日本だけの量的緩和が現状を招く要因になっているとも言える訳であり、その日本の当時の量的緩和と似たような政策を世界ぐるみで行うとなると、当時の反動が今を生んだと考えると、これからの施策の反動が同じ様に現れれば相当な影響となって帰ってくるという気もする。

 今の経済政策、政権は世界消費の冷え込みによる市場収縮、円高による輸出産業衰退をネガティブに捉えているばかりだが、資源の無い日本にとっては実は最大のチャンスの筈でもある。
 俺なら、金利は引き上げて、更に円高誘導し、強い通貨をもって開発中断、頓挫している資源の開発権、防災事業、環境関連事業への関与を強め、各国における事業で恒久性、公共性の高い事業権の獲得をする方が遙かにマシとも思う。そういう事業は、消費者の消費マインドとは切り離された産業分野が多く、そういう産業分野での製品を生み出す事で雇用や製品を生み出すことが可能と考えるからだ。
 こういう意見は、過去の世界恐慌における景気停滞を日本が軍事力で海外に出ていった事を連想させかねないが、この度の危機では、経済力を以て事業を海外で進める過程で、資源確保の道筋を付けるというならば過去の二の舞にはならないと考えたりするのである。
 この時代、環境破壊が大きな問題となっているが、その環境への投資が国家負担となるような事業分野で産業を創出するのが一番安定的だ。その事業は何処の国でも必要とされていること。太陽電池、ハイブリッドカー以前に、環境変化によって恒常的にさらされる被害を抑制、防止するような各国の産業を掌握する事。言ってみれば公共事業だが、公共事業でも建設関連とは異なり、今なら、都市災害を防ぐ機器製造に関連する業種。具体的には、電力、公共下水道、防災事業、医療関連、、、、そういう事業には数多くの可能性があるだろう。

 新しい時代での不可欠な産業分野を独占的支配下に置くには資金が必要であり、円が強い内にやっちまえ!っていうのは駄目なんだろうか?技術力のあるホンダとかトヨタには資金注入してでも防災関連の事業を興させ雇用を創出する。そういうのがスマートとも思うのである。

 まぁ、戯言だ。すくなくとも、思い付き的景気対策で埋蔵金をばらまく前に戦略的ストーリーに則った対応を望みたいと思ったりするのだ。

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赤穂浪士の義士祭

 去る12/14の日曜日、神社が催す赤穂浪士の義士祭が開かれ、その練り歩きにかり出された。

 幼稚園の年長さんの希望者が日曜日の朝に聖光禅寺に集合し、歴史の散歩道を通って明星院までを刀をさして練り歩くのである。そして、明星院で記念撮影した後に、討ち入りそばを食べて帰るというもの。

 この赤穂浪士(義士)って話は、簡単に言うと江戸城で起きた傷害事件で、刀を抜いた方が処罰され、その処罰に敵討ちを47人でとった話とされているが、その事件の背景については様々な解釈がある様子。因みに、討ち入りそばっていうのは、討ち入り前夜にそばを食したって話から、義士祭にそばを振る舞う習慣から食べられるようになったそばの事。

 この義士祭は年長さんの自由参加ということだったけど、幼稚園行事も残すところ僅か?ということで、多くの父兄がビデオカメラ片手に練り歩き風景を撮影していた。
 我が家は当初は参加予定にしていなかったし、子供が年中さんの時には、この義士祭を見に出掛けた時の感想が、つまらなかった、楽しくなかったという事で、意識にも留めていなかったけど、参加したらしたで、それなりに楽しんでいる様子。
 同じクラスの幼稚園さんとじゃれ合いながら歴史の散歩道を歩いている風景を見て、こういう行事も悪くなかったなぁと今は思っている。
 そもそも、日曜朝ということで、自転車に乗りたい、買い物にも行かなければって事で自分自身も乗り気でなかったけど、終わってみれば、参加して良かったと思うところ。

 ただ、参加の直前迄意識は程々だったんでビデオも持たずに出掛けており、常時携帯している単焦点固定焦点のデジカメで写真を何枚か撮っただけである。

 そういえば、この義士祭で振る舞われた討ち入りそばだが、娘は僅かしか食べなかった反面、1歳5ヶ月の息子はアホみたいに食う。無制限に食う。これには驚いたところ。

 この食いっぷりを見て、年末の年越しそばは息子の分も用意しなければ!って気付いたのが収穫だ。

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ホントに不景気?

 ニュース、メディアで報道されるのは、大不況、不景気、、、、、

 でも、実感、沸かない。

 週末、娘のクリスマスプレゼントを買いにおじいちゃんがトイザラスに連れて行くって事で、娘と一緒にトイザラス、家電店が一体となったショッピングモールに出掛けた。

 すると、人、人、人でごったかえしている。みんな景気よく買い物、、、ショッピングモールの駐車場の内部で大渋滞。駐車場から出るのに30分以上掛かった。オモチャ売り場では、威勢の良いかけ声、、、、親が子に『この際だから、全部買っておけ!』とか飛び交っている。ビックリ、驚きである。
 隣接の家電店でも、景気よくお買い物って感じである。

 コレ見ると、不景気か?

 っていうのが素直な感想。

 不景気っていうニュースは、主に自動車産業、エレクトロニクス家電産業、特に大画面テレビ関連が多いけど、それ以外の業種全般で不景気って話は、実はあんまり聞かないのが率直な感想だ。

 自動車産業、大画面テレビの商品である車とテレビっていうと、、、、普通に使用期間は7~10年スパンの商品だ。そんな商品が毎年同じ数量が出荷され続けるって論理は成り立たないし、買って不満が無ければ、殆どの場合、故障しない限りは使い続ける筈。

 ということは、、、、、、そういう高級車、大画面テレビを買う層が連続的に消費行動をしてくれるって前提自体がナンセンスであり、そこに継続的な市場が存在すると投資した会社の目論見が異常だっただけの話とも言う。

 それ以外の産業は?っていうと、そのようなメーカー、関連メーカー、下請けに従事する人は影響を被るかも知れないが、関係ない人にとっては、それ程深刻で無い?っていうと不謹慎だろうか?経済指標的には、インパクトの大きい額を扱う企業故に、不景気の印象が鮮明だが、この辺が叫ばれている実態と、感じる感覚の乖離を生んでいる要因かもしれない。
 実際に不景気を感じるか否か?っていうと、やはり身近な社会における変化が見えないと感じれない。不謹慎かもしれないが、そう感じるのである。

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2008年12月17日 (水)

電動アシスト自転車、進化加速中!

 秋にアシスト自転車のパワーアップの記事を載せたのがコレ↓

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/10/post-4845.html

 最近、売れ行きが原付を抜きそうって記事を載せたのがコレ↓

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/12/post-e6b4.html

 ということで、電動アシスト自転車が周りの経済環境や消費者ニーズの変化によって大きく進化しているようである。

 で、火曜日朝の『めざましテレビ』では、新型電動アシスト自転車の紹介をしていた。ここでいう新型って意味は、上の記事にも紹介した電動アシスト自転車のアシスト比変更による新規格対応って意味。

 テレビでは普通のママチャリ、旧規格電動アシスト、新規格電動アシストで登坂比較していたのだが、その比較の結果は、主婦が押さずに乗って上がれる距離を比較したもので、ママチャリが490m、旧電動が4.9km、新電動が5.6kmを上った事を説明、、、、、、その距離を問題にしてどうする?って印象だが、登坂時における軽やかさの違いも紹介されていたので、一応新規格での坂道等の低速域における補助率拡大の効果も表現されていたので、まぁ、納得。

 ところで、今回の番組で紹介されていた電動アシストはサンヨーのエネループバイクって機種でコレ↓

http://www.sanyo.co.jp/koho/hypertext4/0812news-j/1201-1.html

 基本はママチャリなんだが、特徴は、電動による駆動が前輪側のハブで行われる点。タイプによっては、後輪ハブで後輪駆動、クランク部で踏む力を補助ってタイプもあるけど、純粋に非駆動の前輪でアシストしているのが特徴。言ってみれば、コンベンショナルな自転車の変速ユニットがクランク側、フリー側の双方に組み込もうと思えば組み込める仕様。
 前輪のモーターが、発電機を兼ねているということで、減速時とうには回生発電が出来るのがサンヨーの電動自転車の特徴だ。

 このような実用系電動自転車に限らず、最近は相当にラインナップが豊富であり、使い方によっては、本格的なスポーツサイクルさえ凌駕すると言われるコレ↓

http://www.sponichi.co.jp/newitem/item/0808/11/

http://cycle.panasonic.jp/products/electric/EPH2.html

があるし、さらに高価なレベルでは、

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/02/post_fa48.html

なんてチタンフレームの電動アシストもあったりする。こんな感じで電動アシスト自転車も随分とラインナップを拡げた様子。

変わり種では、市販車ではないけど、トラック競技のぺーサーとして

http://www.yamaha-motor.co.jp/news/1999/05/19/pas.html

これをベースとしたプロトタイプモデルでは、

http://www.motormagazinesha.co.jp/medialog/ms2001/2/y14.html
http://www.yamaha-motor.co.jp/news/2001/10/24/tms-06.html

ってのもあるようだ。
自転車をストイックな道具、上達願望を適える道具と捉えずに、生活の便利グッズ、健康器具的に考えると、楽して運動という事で、新しい商品群は結構魅力的である。

 競技用自転車で競技性における上達度で満足するというよりも、移動の手段として活用しながらも脚や膝への攻撃性を解消した上で、軽度なサイクル運動を通して健康作りに活用しよう!ってノリならば、寧ろ電動アシスト自転車の方が良いように思う。

 後の記事にも紹介するけど、自分自身、自転車のサイクルスポーツとしての上達度への関心が薄まりつつあるのがあるけど、そういう前提で見ると、このようなスポーティなアシストサイクルっていうのは魅力的に映るのである。上に紹介した中では、BSのリアルストリームって商品は結構完成度高そうだし便利そうだし悪くない感じだ。

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スズキもWRC参戦休止!SX4のMTの芽を摘んだ自動車不況

 自動車産業の景気減速が鮮明だ。
 結果、自分的に最も懸念していたのが、ふざけている訳では無いけど『スズキSX4もMCにおけるMT追加』の芽が断たれるのが確実って事。

 SX4においてMTの追加を期待できたのは、SX4によるWRC参戦である。JWRC参戦とスイフトスポーツの相関の如く、SX4もWRC参戦イメージが定着すればMTモデルも出る可能性が在るという淡い期待だったわけだが、WRC参戦を取りやめると、イメージを高める必要性自体も存在しない。そもそも、本来の成り立ちがフィアット姉弟車が象徴的なように、便利でコンパクトなマルチパーパスビークル故に国内でスポーツイメージを高める必要性すらないのが現実だからだ。

 自動車産業の中では、北米での高級車需要への依存度が少ないスズキでさえ、経営資源の集中という名目でWRC参戦を休止する。チョイ前では、ホンダがF1完全撤退が発表されたばかり、トヨタのモータースポーツへの取り組みは今のところ報道は無いけど、いすずと共同で開発していた新世代ディーゼルエンジンの開発見合わせ、そのエンジン製造を担う新工場建設も白紙化ということ。トヨタ自体も利益が上期の好調な業績から一転し、下期では大幅な減益予測を経て、再度の発表では赤字転落、役員賞与カット、更には工場の週休三日制導入と不景気な話が続いている。
 勿論、最近メディアで取り上げられる非正規雇用労働者削減による問題も叫ばれているが、非正規雇用労働者の削減でも足らずというか、それが不可抗力であるかのようなアピールか実態か知らないけど、新たな投資計画の凍結、モータースポーツ活動の休止や撤退が次々と発表されている。最新の報道ではスバルもWRCから撤退という、、、

 国内の自動車産業関連が生み出す雇用は、国内の全雇用の7.9%を締めるが、自動車産業と同じ構造で利益を上げる家電エレクトロニクス関連における全雇用も相当な割合を占めている。この両産業分野における雇用の膨張と収縮が経済指標に大きな影響を与えているのが現実である。その経済指標に与える影響度の大きさから、不景気、不況の報道を繰り返すことで、消費者心理に影響を与え、マンション販売等不動産関連から、小売り、サービス業等の一般消費者の消費行動に支えられる産業に波及しているようである。
 逆に、その分野から離れた産業では、報道における不況の実感が正直沸かないというのも、あちらこちらで聞く話であり、この辺が不思議な感覚である。

 ところで、何故にこのような事態を招いたか?を考えると、、、、非正規雇用労働者の受け入れによる生産能力アップで賄える商品を主力商品に据えたのが大きな原因と言えるのである。つまり、即効性のある労働人口アップで生産能力アップが見込める商品というのは、商品自体が既存の価値観の延長で出来ているという証であり、そこには、本当の付加価値を加えるという加算の論理で製品開発が為されていないモノを高級と印象づける構造があるからである。売り手側からは、印象的な高級に誘導するような宣伝を打ち、買い手側は、その宣伝された高級を高級と受け入れるような価値観しか持ち合わせていないのが、急激な、ナンチャッテ高級市場の膨張を招いたようにも見えるのである。
 レクサス、アキュラ等新興ブランドの高級車の根幹は従来品+イメージで出来たモノで、本当の高級より手軽で買いやすい高級。大画面の液晶、プラズマ薄型テレビも似たようなもの。出始めの薄型テレビとは違うもの。このようなナンチャッテ高級ってモノは、実は、何処でも作れるモノだが、それを円安という価格競争力を武器に売りまくって上げた利益や豊かさを基準とした錯覚が、そのナンチャッテ高級市場が無くなって元に戻っただけの状況を激しく落ち込んだ不況と錯覚しているように見える。

 大規模な非正規雇用労働者削減という前提には、急激なナンチャッテ高級市場の膨張に併せた非正規雇用労働者の大量採用という前段が存在しており、言ってみれば元に戻っただけとも言えるのである。

 今回の金融危機では国外市場の消費マインドの冷え込みによる輸出産業の体力消耗と、輸出製品の製造を司る国内の雇用調整による不況というものだろうけど、本当の不景気、不況というのは、これからやってくるのだろうと言える。
 最近の記事にも繰り返し記載しているけど、歪んだゼロ金利政策による潤沢な資金供給を背景とした量的緩和政策で誘導した円安で、新興諸国の製品に対して有利に立っていた輸出品が、新興諸国製品の進化と、金利差の消滅による円安誘導の終焉により、外貨獲得の唯一の手段である輸出製品には本当の競争力が求められる時代になる訳だ。
 その競争力は価格が安いだけでは、勝負できなもの。
 本当の高級という分野では欧米各国と競わざるを得ず、既存分野では、中国、韓国といった新興諸国と競わざるを得ない。仮に自動車産業で高級を狙うならば、似非高級のレクサス、アキュラでは駄目だろうし、家電エレクトロニクスの花形である大型の薄型テレビというだけでは駄目だろう。新興諸国では対応出来ない、ワンステップ上の価値観で製品を生み出す事が出来なければ、本当の不況に陥るように思うのである。

 そういう意味で、イメージ戦略の象徴であるF1撤退とかWRC撤退というのは、企業として正しい判断とも思えるのである。
 恐らく、SX4もMTに限らず、雑誌スクープを賑わせていた華やかな高級車、スポーツカーの多くは見直しの対象になるだろう。

 取り敢えず、言えるのは、やはり強引な円安誘導を招いた好況時にも続けられたゼロ金利政策、量的緩和政策である。それを希望したのも産業界だが、或る意味、経営者の自業自得とも思えるところである。結局、経営者、政治家の判断が時代の流れにそぐわなかったのが原因で、それが原因による不景気は、今回の金融危機での不況の次に確実にやってくるだろう。円高で乗り切れる体質に作り替えることが今求められていることの筈だが、何故に、未だに円安誘導を試みるのか?が、とても不安になるところである。

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ロード乗りの習性

 ふと思った。
 いつものコースを何時も通りに走って感じる事。今更ながら気付いた事。それは、ロードバイクユーザーの共通の特徴、或る意味、習性かもしれない。

 ロードバイクユーザーと会合する場合というと、すれ違う場合か、追い越す場合があるのだが、その習性を感じるのは追い越す場合。

 追い越す場合、自分の巡航(35~40km/h維持走行)からみて遅い場合に躊躇無く抜くのだが、その際に二通りの反応がある。一つは、そのまま先行させてくれる場合で、もう一つが頑張って後ろに付けられる場合。それでも、後ろに付き続かれるって事は極稀で、殆どの場合は、一度は振り切れる。しかし、そこは公道であり、信号のタイミングによっては信号毎に付き続かれて、振り切っての繰り返しとなる。

 そうすると、こっちも面倒くさいので、急ぐなら先にどうぞと言うのだけど、100%の確率で、先行は拒否される。追い風だろうが、向かい風だろうが、風を受けて走るから意味があると思うんだが、何故に風を避けて走るんだろうか?というのが不思議な感じ。

 更に、興味深い現象?は、何度か信号で同じように停まると、会話が生まれる。すると、大抵は皆さん不調を訴えられるのが不思議ちゃんである。

 台詞としては、『最近スランプで脚が回らないんだ、、、、』とか『膝を痛めて回せないんだ、、、、』とか『夜勤明けできついんだ、、、、』とか、最近ならシーズン的に『二日酔いなんだ、、、、』とか、、、

 みんな凄いモンだと感心する。そんなに不調でも自転車に乗って、35~40km/h走行にしがみついてくるんだから、、、、みんな、カッコイイよ!みんな、速いんだなぁ!って、、、、

 ならば遠慮せずに、ブッちぎってくれれば良いのに、、、、

 なんで、そういう台詞が出るのか?っていうと、多分、話し手の意識には、ホントはまだまだ走れるとか、或いは、こんな筈じゃない?とかの潜在性が潜んでいるように思ったりする。でも、後の記事にも記載するけど、普通の人が普通に頑張って、普通に経験を積んだら、多分、結果は普通に似たような結果になるのが道理。で、その結果の収束点っていうのが大雑把ながら決まっており、その範囲にみんな入っている。そして、その範囲から飛び出すのは現実的には不可能。やればやる程、最初の思いからは変わらない。いつかは、そういう現実に直面するのであるが、熱い気持ちがある程に、やればやる程、先に可能性を信じ、自負を持つ程に他人との違いがあると錯覚するんだろう。

 冷静に思えば、似たような趣味を持つ人が、似たような場所で、似たように走っていると、多分、ポテンシャル的には似たような人ばかり。そんなモンだろう。
 そこに顕著な差なんぞ存在しないっていう事実に対して盲目なのが、最近のロード乗りの習性だ。

 乗る程に上達する!機材に拘る程先鋭化する!練習は裏切らない!そういうムーブメントがトレンドのようだけど、1980年代における単車のレプリカブームと似たような感じに見えるのは気のせいだろうか?

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2008年12月16日 (火)

クリテリウムごっこは楽しい

 水曜日、所要で休暇を取った残りの空き時間を使って自転車に乗った。(この記事書いているのは土曜日)
 乗ったのはラングスターTT号、走ったのはいつもののホームコースである。このホームコースは川沿いを北上し南下するというパターンで往復で24km程のコースである。このコースを週末に1~2セット/dayで走っているのだけど、平日の昼下がりともなると他に自転車なんぞは居ないだろう!って目論見と、時期的に学生の期末テストの頃で高校生は午前中で帰宅しているから更に空いているだろう!って目論見が走れ!って衝動を駆り立てたのである。

 とは言っても空き時間は3時間は無い状態。ホームコースへの行き来と家から出たら定番のヒルクライムを併せると実質2時間チョットしか無いのだが、その2時間で回遊しようと出掛けたのである。

 このコース、往路で信号は3カ所、復路で3カ所で、信号無しの区間が4km程度続く稀なコースでありロード系バイクでは快適なエリアだ。何時もの走行では1往復して帰宅ってパターンだから片道12km前後を約18分程度で走行するというのが恒例。18分間限定でも40km/h平均というのは限界に近い走行モードだが、それを2時間走行を念頭に走ってみた。当然、或る程度抑え気味でコースインする。往路が追い風、復路が向かい風のコンディション、往路では走行時の速度が43km/h強、復路が38km/h強って所。心拍数で165bpm程の状態で走行。
 この状態は2周回目でも何とか維持出来たのだが、2周回目の往路で右足に微妙な違和感発生。座る位置を微妙に調整しながら痛みを感じないポイントで走行。いつの間にか違和感は消えて3周回目、往路は何とかペースを維持できたけど、復路はグダグダ。乗っていて本人が失速を感じる程。35km/hを走行時にさえ保つことが困難。乗りながら完全に腹減り状態。力も入らなければ、回転も維持できない。そんな感じである。

 久々に2時間に渡る全力走行を試みた訳だ。結果が122分(正確には121分37秒)で72kmという状態。平均で35.4km/hという結果。

 まぁ、固定シングルとかロードレーサーって類のターマック向けスポーツサイクルで35km/hの平均速度っていうと自分的には納得の結果である。
 自転車の場合、速度が高い程に維持できる時間が短い。無風~弱い追い風という条件でも50km/hオーバーでは1分程度、距離にして1km程度が限界。45km/hオーバーなら安佐大橋~安芸大橋の3km区間で4分程が限界、40km/hの場合は20分程度。強烈な追い風ならもっと速いけど、それは無意味。そんな状況で往復という追い風+向かい風で相殺されるコンディションで2時間を35km/hオーバーっていうのは2年前から見ると随分と昔というか現役の頃に近い状態迄戻ったようだ。

 その内、時間が取れれば、4~5周回で100kmの全開走行、更には7周回の100マイルの全開走行で維持可能な速度を記録してみようと思う。一応、気分としては100マイルを30km/hキープっていうのが目標といえば目標である。

 しかし、本人が全開のつもりで2時間漕いでも疲労感自体は、水泳で60~90分のソコソコペースで泳ぐ方が疲れるというか疲労感が蓄積するっていうのは不思議なモノである。自転車っていうのは、水泳程の負荷は掛からないスポーツなのかも知れない。今(土曜日)の疲労感としては、昨日SCで泳いだが全身に残っている。特に上腕部、腰、大腿部、脹ら脛を中心に疲労感が残っている。水曜日のクリテリウムごっこ後の木曜日の疲労感は脹ら脛のみ、そういう部分を比較すると、水泳はモロに全身運動、自転車も全身運動なんだろうけど、下半身の運動が支配的って感じ。まぁ、この疲労感は午後には抜けるんだろうけど、、、、

PS この記事を書いたのは先週だけど、その後の先週末の土日も二周回のクリテリウムごっこしてみた。
 土曜日がラングスターTT号だが、48kmを17分30秒、18分30秒、18分、21分で75分だから38.4km/hである。日曜日がオ・モイヨWW号で同じく48kmを18分、19分、19分、20分で76分だから37.9km/hである。1時間限定ならば37km/hって処が、緩衝速度のようだ。60分を過ぎてからが失速の度合が大きくなる感じ。

 このゴッコを4~5周回で3時間程度で走って遊びたいけど、日常生活で3時間を確保するのは、これまた難しいなぁ!って改めて思うところ。実際、3時間あると、、、、単車に乗りたくなるんだよなぁ、、、、2時間未満だから走る場所に行く時間がごく僅かで正味丸々楽しめる自転車だけど、3時間あれば、走る場所に出掛ける往復1時間を引いても2時間遊べる山岳ワインディングが攻めれる単車は捨てがたい。

 やっぱ、自転車は健康管理ツールであり、日常的には避ける時間は2時間迄っぽい。

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この空腹感は、、、、、

 12/10からプレ年末年始モード突入ということで、夜スナ、夜アイス生活を終了した。
 するとどうだろう、、、、、平日日中における空腹感が強烈に訪れるのである。腹が痛い程の空腹感である。下手すると、頭迄痛くなる始末、、、、、

 空腹感=食欲、食欲というと本能。空腹感を感じる理由には、血糖値の状態を判断するとか、色んな話があるけれど、要は、腹が減るのである。腹が減るのは、燃料切れの警告のようなものなのだ。

 先の記事で年末年始モードって話をしたけれど、今迄の生活は、3食+間食補給で体重が平衡状態。つまりは、基礎代謝+運動消費が摂取カロリーと釣り合っていたのだが、その摂取中の間食要素を無くした分、生活パターンが不変な分、腹が減るのである。至って当然の現象である。仕方ないのかもしれないが、、、、結局は、夜食?夜スナ、夜アイスで補給していたエネルギーが足らないのが原因だ。

 体調管理、体重管理っていうのは、結局は、シーズンに応じた活動量の変化に応じて、摂取行動を制御するだけの話。結局は、食いたい時にしっかり食えるように身体を準備しておけば、それで平衡は保たれるだけの話。思えば、そんなに難しい事でもない。兎に角、収支を整えて、平衡させる事を意識すれば、何の問題も、何の弊害も、リバウンドも有り得ないのであろう。

 リバウンドっていうのは、本能が理性を上回った状態。或いは、目的意識を失った状態で為すがまま、為されるがままに身を任せた時の症状。結局は、目的意識を持ち、理性と保つというのが一番効果的な健康維持の方法なんだろう。

 この空腹感、夜の間食生活を止めて3日目にして感じる感覚だが、実は、既に、それで慣れてきたというのも面白い現象である。
 多分、その程度のもんなんだろうし、それでチョイ気合いを入れると、新しい状態に身体は直ぐに対応してくれるもんだと思う。

 そういえば、煙草を中断して既に連続で500日以上経過しているが、その間、吸いたいという衝動に駆られる事もない。隣で人が吸っても何も気にならない。止めるという意識で止めているだけ。止めるために何かが必要という訳でもない。

 そんなモンなんだろう。結局は人間の感覚なんぞ、人間のチョットした意志次第でどうにでもコントロール出来るのである。

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年齢別基礎代謝から思うこと

 カラダスキャンって体組成計では、基礎代謝が測定出来る。さらに、その基礎代謝と体重から体重1kgあたりの基礎代謝量を求め、体年齢?ってモノも表示出来るようになっている。
 そこで、基礎代謝の年齢別の変化を調べてみた。調べてみたのは、年齢別体重1kgあたりの基礎代謝量(基礎代謝基準値)、年齢別標準体重、年齢別基礎代謝(=年齢別の基礎代謝基準値×年齢別標準体重)である。

年齢    基礎代謝基準値      標準体重   標準体重時基礎代謝量
歳      [kcal/kg/day]                     [kg]                    [kcal/day]
1~2    男61.0/女59.7     男11.9/女11.0    男 730/女 660
3~5    男54.8/女52.2     男16.7/女16.0    男 920/女 840
6~7    男44.3/女41.9     男23.0/女21.6    男1020/女 910
8~9    男40.8/女38.3     男28.0/女27.2    男1140/女1040
10~11   男37.4/女34.8     男35.5/女35.7    男1330/女1240
12~14   男31.0/女29.6     男50.0/女45.6    男1550/女1350
15~17   男27.0/女25.3     男58.3/女50.0    男1570/女1270
18~29   男24.0/女23.6     男63.5/女50.0    男1520/女1180
30~49   男22.3/女21.7     男68.0/女52.7    男1520/女1140
50~69   男21.5/女20.7     男64.0/女53.2    男1380/女1100
70~     男21.5/女20.7     男57.2/女49.7    男1230/女1030

ということで、エネルギー消費量は上述の基礎代謝量の1.5~2倍程度なんだそうだ。

 因みに、基礎代謝を律するのはエネルギー消費の最も多い器官である筋肉量に関連性が強く、筋肉が多い程基礎代謝が多いのだが、老化に伴う筋肉減少によって基礎代謝も減少するのが定めとされている。

 この一覧を見て思うのは、体重減少期っていうのが30歳以上の世代。30歳以上になると自然と筋肉量が減るってこと。しかし、体重1kgあたりの基礎代謝量は殆ど不変であり、基礎代謝全体の減少っていうのは、体重(筋肉)減少分にしか相当しないということ。
 そんな事よりも注目すべきは、18歳未満における体重1kgあたりの基礎代謝量の多さである。18歳以降の場合は、殆ど体重1kgあたりの基礎代謝量は変化していないが、それ以前の基礎代謝量の多さは驚くべき数値であるが、これは一重に体細胞の活発さの違いによるものである。体細胞の大きさ(重さ)自体は基本的に年齢に依らず一定だが、18歳以下の世代は標準体重は急激な増加を示しており、これは、単純に細胞数量の著しい増大(細胞分裂)が活発に行われている事を示している。細胞数量の増大は、成長環境において相応しい数迄激しく増大するようである。その増大は、成長期における身体の成長、その時期における細胞分裂数に影響する刺激によって律せられている。

 そういう成長に従って18歳程度において肉体が完成し、体重減少が顕著となる50歳以降において老化による筋肉量減少が顕著となっているようだ。結果、肉体の基礎代謝総量は、50歳程度迄はほぼ一定となっている。

 この傾向を最近話題のダイエットと、このブログ検索で多いキーワードである体力、脚力の二つの面から考えてみた。

 まずは、ダイエットについて。
 ダイエットが必要となるのは、一般に標準体重を超える程の重量となる脂肪を纏った人。脂肪が多い人ほどダイエットが必要ということ。で、ダイエットが必要ってされる人に呪文のように言われているのが、基礎代謝量の低下が肥満に結びつくという論理。で、ダイエット対策には基礎代謝をあげるような筋トレが有効って話。
 この論理は、間違いではないが、基礎代謝を上げる程の筋トレというと一般的には現実的でないレベルの筋トレが強要されるけど、その辺はあんまり認識されていない。そういうレベルの筋トレでなければ、基礎代謝改善に大きな効果があるとは正直思えないのが感想。
 何故ならば、数値にあるように、基礎代謝自体が低下してはいるものの、それが2割、3割というオーダーで減っている訳でもないからだ。せいぜい1割未満で、量としては100kcal程度のモノ。少なくとも、肥満が疾病になるリスクを心配する世代、30代、40代ではそうだ。
 基礎代謝が殆ど変わっていないにも拘わらず、あれほど激しい体型の変化でお腹デップリとなるのは、基礎代謝減少とか老化という一言で片付けるのは責任転嫁も甚だしいのである。

 その違いは、、、、二十歳前の子供とオッサンの生活の違いに集約されるのである。基礎代謝に差が無いのに、脂肪細胞の肥大が顕著っていうのは、消費エネルギー量を決める肉体の活動度が激しく落ちている事を単純に示しているだけだ。
 子供っていうのは、授業の合間の休憩時間に走り回り、登下校も基本は徒歩か自転車、昼休みは飯食って走り回り、放課後も走り回る。食事は基本的にノンアルコール。
 しかし、オッサンは、日常的に歩行は殆ど無い。通勤は車か電車、バスといった交通機関、日常は事務職の場合は殆ど歩かない。社内移動もエレベーターとかが多い。放課後走り回る時間は有り得ない。帰宅すると、高カロリーのアルコール摂取習慣がある。
 単純に、その差だけでオッサンのデブ状態は説明できるのでは無いだろうか?結局は動かないのが原因である。試験的に娘に万歩計を付けてみると、、、、、驚くことに1日の歩数が20000歩以上もザラである。それ程に走り回っているのだ。これが5000歩も歩かないオッサンが相手なら、その差は歴然である。
 さらに、一般論に疑問を投げ掛けるとすれば、老化と共に筋肉が衰える話。
 自分の経験では大腿骨の粉砕骨折で寝たきりになった時でさえ、足の太さが僅か1ヶ月の療養生活で著しく痩せ細った事があるけど、結局は動かさないという事実が筋肉の収縮を招いているとも言える。高齢者の筋肉減少は、本当に老化だけで片付けられるか?というと、その歩かないという習慣の蓄積の結果ではないか?とも言える訳だ。
 さもなくば、パワフル高齢者が存在する理由の説明が出来ないとも思うのである。

 何故に歩かないか?食うだけ食って動かなくなる理由は?っていうと、人間、年を取って打算で動き、妥協して決める。結局は好奇心が無くなるから。欲望が単一化するからか?とも考えたりする。食欲、性欲、睡眠欲、他にも、名誉欲とか、、色んな欲望があるけど、好奇心、興味を失って残るモノ。それが食欲。その食欲に任せた生活、活動度が落ちた生活っていうのが肥満を招き、そして、筋肉減少というプロセスを加速っせているのでは無いだろうか?そんな風にも見えるのである。

 次が脚力等の身体能力について。身体能力の差っていうのは、身体器官のキャパシティー次第である。細胞単体の持つ能力なんて個人差のレベルはたかが知れているけど、器官としては個人差が極めて大きいもの。その差は結局は器官を形成する細胞の集積度の差である。集積度が高い程、多くの細胞から為っているのは、細胞単体のサイズに差異が無いことからも当然と言えば当然。
 細胞の集積度を上げる、即ち、器官を作る細胞数の差異は何処から生まれるか?というと、これは、基礎代謝基準値の多い時代における細胞増殖時における細胞へ与える刺激の差に帰結するものである。つまりは、成長期という細胞数が増加する時期において、その増加数を律する刺激をどれだけ加えたか?に集約されるのである。
 もっと言えば、18歳までに必要な部位を使用する運動をどれだけやったか?によって、器官の細胞数に差異が生まれているとも考えられるのである。

 勿論、細胞数が増大せずとも、細胞単体を肥大させることで組織を大きくする事は出来るけど、一つの細胞を大きくするっていうのは、容積の増加率という観点でみれば、肥大を進める程に増加しづらくなるもの。細胞自体が数多ければ、増加率が小さくても組織トータルでは大型化しやすいのも当然と言えば当然。
 つまりは、運動能力を律する身体能力っていうのは、遅くとも成長期が終了する二十歳の段階で殆ど決まってしまっているのである。成長期を過ぎてからの取り組みは細胞の肥大に頼らざるを得ないものであり、そういう手法では、肥大しにくく、失いやすいという特質しか得られないのも致し方ないのである。

 基礎代謝って言葉から、こんな事を考えてみたりしたのであった。

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2008年12月15日 (月)

円高進行中!

 現在、12/12の金曜日である。午後になって更に円高が進行している。それに併せて、株価も下落傾向だ。

 円高になると輸入品は安く買える。しかし、輸出品は当地にとっては割高になる。

 すると、、、、、極在り来たりながら、製品輸出によって収益を上げる企業は大きな減益が強いられる。特に、輸出品目市場が冷めている場合は、その減益のインパクトは大きなものになる。

 今回のサブプライムショックでは、本来住宅購入が可能でない層の消費意欲に支えられていた側面もあり、そういう層の購買品目であった、ナンチャッテ高級車、チョットリッチな家電製品が大きなダメージを受けるのは致し方ないのである。北米市場を見定めた製品で収益を上げてきた企業には大きなダメージかもしれないのである。

 でも、考えようによっては、日本への金融危機の影響がその範囲に留まっているという事が円高を招いているということであり、円高の意味は、被害が限定的という意味でも有る筈である。
 更に言えば、そのような金融政策で一時的に生まれたハイソ志向で、そういう市場向けの製品を急拵えで作ったのが、今の減益率の大きさで深刻さを訴える企業であり、そういう一時的に生まれた市場の生まれる前と比較すれば、実は、日本の輸出企業のダメージは報道で言われるほど深刻で無いとも言えるのである。

 実際、アメリカの金融バブル前と崩壊後の今を比較すると、途中に、大きなピークを体験したか否か?の話であり、バブル状態をスタンダード、比較基準と考えるから下落率が大げさに映るとも言えるのである。

 これは、日本の過去のバブル景気の際にも、不動産、美術品、株式で一攫千金を夢見た業種が多くのツケを払ったという前例にも近い部分である。

 このアメリカの金融政策+日本の低金利政策による虚像的市場の膨張時期こそが異常であり、もっと言えば、1995年から今迄の実感を伴わない好景気と言われていた時期こそが異常であったのである。
 何故に実感を伴わない好景気と言われたか?というと、経済指標に支配的な産業のみが繁栄し、その経営者のみが潤ってきたから末端市民には好景気が実感できなかっただけであり、その経済指標に影響力の大きい産業が、今回やはり影響を受けているに過ぎないのである。

 そう振り返ると、為替が円高とは言っても、1995年当時を振り返れば、1ドルが79円台を付けた時期こそがスタンダードであり、その時点に戻ろうとしているだけにも見えるのである。だから、1ドルが80円台になる事自体は、経営者でない自分にとっては極自然の姿に見えるし、本来なら1995年当時に1ドル80円台で競争出来る製品開発をすべきツケを今から本気で支払えという市場からのメッセージとも取れるのである。

 個人的な感想としては、強い通貨っていうのは絶対に必要だと考えている。為替によってしか競争力を得られない製品は既に作る価値が無いのでは無いだろうか、、、、

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不景気?

 ここ最近で最も報道される事案が派遣労働者の雇用契約打ち切りのニュース。
 全然関係ないけど、街中で最近特によく見かけるのが実用自転車に考えられない程の空き缶を搭載して移動する人の姿。

こういう状況に陥った理由は何か?って考えると、、、、、世間的には世界的な金融危機って話なんだが、そういう不況ってニュース程に不景気を感じるか?っていうと、鈍感なせいか、あんまし実感が無いのが正直なところ。
 一応、報道では全産業的に不況って話を聞くけど、具体例として聞こえてくるのは、自動車産業、エレクトロニクス業界における派遣契約終了の話が多い。でも、他の産業、例えば、流通業界、或いは低価格戦略の食品、衣料関連、他にも、電気、ガス等エネルギー関連業界、輸入品を扱う産業から深刻な話は聞く事も少なく、中には、最高の業績を上げたという話も聞いたりする。

 経済指標的には不景気なんだけど、その指標に金額的な支配力の多い産業の不調に全体指標が引っ張られているように見られるのが正直な感想であったりする。全産業中で、金額的なインパクトが大きいが故に、不景気な指標が過剰に現れているのでは?というと楽観的過ぎるだろうか?
 今回の金融危機の起点の一つとされているサブプライム問題だけど、この影響を受ける度合が、諸外国に比べて軽微とされている日本でも、その影響というか、破綻以前の恩恵を受けた企業のみが影響を受けているとも見えるのである。

 サブプライム問題っていうと、本来、購買力を持たない層が過剰な消費行動に走った事による破綻が一つの原因とされいるが、そういう層が注目したのが、海外不動産、それに関連する商品群だった訳である。そのインスタント成金に必要なアイテムが、成金趣味に相応している程々の(本格的でない、或る意味手軽な、新興ブランド的な)高級車であったり、立派なリビングに相応しい大画面テレビだったりしただけの話では無いだろうか?
 本来、購買力を持っていない層が、蜃気楼のような購買力で消費行動に走る様にマーケットの存在を信じ、そこに群がった企業がダメージを受けているだけのようにも見えるのである。少なくとも、日本企業でダメージを受けている企業は、そういう企業における高収益商品の売り上げの急減速が業績に影を落としている。その対象商品、対象ブランドの殆ど全てが、ここ数年に飛躍的に発展したモノばかりであり、その発展の原動力は、そこに(特に北米に)マーケットがあると信じたマーケティングによるものの筈だ。つまりは、マーケティングのミスにより今の事態を招いているに他ならないのである。

 その突然生まれたマーケットに対応するために、企業が取った策は、そのマーケットに提供する商品を製造するための人員であるのだが、そのマーケットを賄う人員に資質は不要というところに問題が隠れている。そう、数的な確保でマーケットに商品が提供できるという意味で、そこに供給する商品というのは、実は高い付加価値を持つモノではなく、印象的な高付加価値って部分が先行していたのである。それ故に、今の急激な派遣切りの前段では、過去においては急激な派遣契約の増大って事実があった筈だ。
 言ってみれば、企業の製品は、企業に長期滞留が必要な人員で無くても製造可能なものばかりという事になる。

 この背景を勝手に想像すると、結局は、バブル崩壊以降のゼロ金利政策、量的緩和による円安誘導で、企業が製品販売における競争力を為替による価格競争力のみに頼り、新たな技術開発、技術開発に必要な長期滞留人材の確保を疎かに円安バブルの利益にしがみついていたのが原因とも言える。
 円安バブルで価格競争力を更に高めるには、人件費を如何に低減するか?が鍵であり、非正規雇用をスタンダード化した時の政権が企業の利害に乗っかったのが今を作っていると言えるのである。

 今、政策的には既存企業の古い価値観を守るような政策を施しているようだが、価値観の脱却なくして再成長は有り得ないのでは無いだろうか?
 過去の15年と今後の15年の違いは、日本企業の主要製品市場における国際的な競争相手の存在の有無。今は、競争相手が非常に沢山居る。低金利政策が取れず、価格競争力が維持できない今、従来通りの価値観の製品製造では、国内に外貨を取り込む事は不可能だ。
 円高を前提とした付加価値を生む製品に特化した製造にシフトすべきであり、それには、開発に必要不可欠な企業への滞留人材を確保する事が必須。そういう方向に舵を取るべきである。勿論、現段階における非正規雇用の人間も、新たな価値を生み出す資質を身に付ける事が生き残りの正否に関わってくるのでは無いだろうか?
 まぁ、そうは言っても、日本企業の多くが和算型企業でなく、乗算型企業であり、製品展開が殆ど相似則に従った戦略を取る企業ばかり。それ故に、新たな価値を創出するという部分は相当に苦手っぽいのが不景気が長期化する懸念を抱かせるもの。

 そんな現状では、政策的にも長期的というか時間の掛かる対策ばかりでは、消費の冷え込みで、現在影響が少ない分野にも影響が出始めるのも事実。運輸、海運、エネルギー関連、輸入品が主体となる産業にも影響が出始めると不景気を実感として感じるようになるかも、、、、。

 まぁ、今回の不景気は何時まで?って声も良く聞くけど、景気に限らず、全ての物事は波形的変化を繰り返すもの。これは摂理である。ならば、戦後最長の好景気という時期を体験してきたのなら、普通に考えて、戦後最長の不景気な時期に突入すると考えるのが妥当だ。
 個人的には、そういう時期ほど、全てが磨かれると思うので、そういう時代が来るべきだと思うのである。

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おぃ!自転車屋、、、、

 スポーツサイクルブームである。で、取扱店も繁盛してるようだ。店の体裁も自転車屋って感じでなく、ブティックの如くである。

 良いじゃないか、、、、、

 ホントか?

 でも、扱ってる商品は、ファッションブランドの服とは違うのである。

 扱っているのは、競技機材としてのロードバイクである。

 これを、気軽にファッションブランド的にブティック的に販売して良いのか?

 これを不思議に思うのである。何故?っていうと、スポーツサイクル自体に経験の無い人が気軽に高級ロードバイクを買う。悪くはないが、その購買層の多くは三十路以降、不惑以降、下手すると50代、60代、、、、乗り続けた結果、経験を重ねた結果のそういう世代でなく、初めて乗る人である。そういう人にとっては、学生等若年世代と違い高級と言われる自転車でさえ100万円も出せば選り取りみどりである。其処まで出さずとも、中古の自動二輪を買う程度の出費で、所謂ハイグレードなバイクが誰でも買える訳だ。経済負担は殆ど軽微である。

 でも、、、、、やはり競技機材であるのだが、それを成長期を終えて老化モードに入ってる未経験者が乗るのだ。自転車の場合、完全なレーシングスペックがリーズナブルに帰るのだ。最近は単車でも同じだが、車ならF1クラスのマシン、単車ならMOTO-GPマシンを未経験者が変えるのである。また、そういうクラスと殆ど同じ様な性能がミドルレンジからラインナップされているのも曲者である。

 結果、よく聞く話、、、、、、、『膝が痛い』んだそうだ。人によっては、首、腰、手首の痛みも併発しているようだ、、、、、当然といえば、当然なんだ。競技機材のセールストークには、ツールがどうの、ジロがどうの、、、そういう文言に飾られている。買うと、高性能を発揮できるぜ!って錯覚するんだろう。乗って、踏んで、機材では無いんだって自覚した頃に訪れるのが、身の程を無視して試す行為の果てになるでは無いだろうか?

 で、膝が痛いのは、俺流に言えば、手遅れで致命傷なんだなぁ、、、、、損傷を受けるのは酷い場合で軟骨ちゃん、下手すると軟骨ちゃんは帰ってこないって教わってきたが、、、、、最低でも、故障痛の類の炎症を伴ったりしている。

 何故に膝を痛めるか?っていうと、所謂、未経験者が、身の程に見合わない重いギアを踏んで速度チャレンジなんぞするから。それも、痛くなるような乗り方、そんなギアを踏むからだ。

 痛くなったら、終了である。手遅れである。付き合っていくしかないのである。

 でも、そういう競技機材に含まれる毒を正確に伝えているか?って部分で、ショップの責任は大なのだ。
 指導的に、乗り方を教えたり、ギアの使い方指導、ペダリング指導を行っても、ユーザーは殆ど馬鹿野郎である。納車前にマスターするくらいなら競技として成立するはずもなく、そんな事判っていながら、それで教えたと言うなら、それは商売優先主義の言い訳にしか過ぎないのだ。特に素人は勘違いしやすいのだ。チョット聞いて、チョット雑誌読んで、詳しくなったつもりのバカが多いのだ。だから、ついつい、ギアが付いていれば使ってしまうのである。

 これは、単車でアクセルオープン、即クラッシュ、即昇天って奴と同じである。

 特に、始めてのスポーツサイクルならば、誰でも嬉しくなって速度を出したくなるのである。そんなものである。つい、軽い気持ちで、、、、、そこが落とし穴なのだ。そんな素人には、ペダリングの負荷が重いか軽いか?の状態の判断さえ付かないのである。そんなもんだと思えば頑張るのが素人の悪いところなのだ。だから、短絡的に速度=重いギアと思うのも責めれない、、、、

 そういう、重いギアがあれば踏みたくなる。速度を出す!って欲に負けて重いギアを選ぶのは、軽いギアが回せないから、、、、何故に回せないか?っていうと、本当の回し方を習っていないからか、、、、自然に脚が回るポジションが与えられていないから、、、、、ここを店は伝えるべきである。特に素人相手の商売するならば、競技機材なんぞ売るべきではないのでは無いだろうか?コンフォート系とか、クロスバイクで、トップ殺しで売るのが良心では無いだろうか?

 先日も、素人ロードの膝痛案件を聞いたけど、気の毒だ。

 少なくとも、ロードバイクの場合、ロールアウトが云々、ケイデンスが云々って話が普通に通じる人、或いは、乗る前から己のマイギアって概念を持ってる人でないと買う資格さえ無いように思うのである。だいたい、バーの持ち方さえ判らないような奴が乗り始めるっていうのが大間違いだ。買って実感するまでに、膝壊してりゃ世話無いのである。可哀相である。まぁ、可哀想なのはそうやって膝を壊す迄夢中になる人もだけど、もっと言えば、そういう使われ方で機械としての使命が終わる機材も可哀想。
 ところで、この膝痛ってのは、所謂故障痛である。筋肉痛、疲労痛とは異質のモノ。単純に壊れているのである。言ってみれば、腱鞘炎なんかと似たような故障痛なのだ。重いギアとは言え、所詮ペダリングで痛みっていうと、そういうギアを知らず内に無理して踏む結果である。どんなに重いギアでも一度踏んだくらいでは膝に痛み何ぞやってこない。一度踏んで判るのは踏み応えがあるなぁ!って感想。その感想は実は危険信号って気付かずに日常を接する事で、、、、、、壊れちゃうのである。結果に到るには、繰り返し疲弊の結末である。
 ロードバイクには最近はサイコンを着ける人が多いけど、そうなるとつい、速度って気分になる。ケイデンスを習っても速度って気分になる。頑張って重いギアを精一杯踏んで、回しているつもりでも、結果的には踏んでいる状態。それが膝痛を招くのだ。
 過去、友人から後輩、同級生の殆ど全てが膝痛を訴えていたけど、完治したって話は聞かない。チョット頑張ったら膝痛が古傷のようにやってくるんだそうだ。自分の場合、スポーツサイクルに嵌った時には、熟練店主の指導というかコーチが最初に有ったんで、とにかく重いギアは敬遠していたから、そのつらさは知らないが、痛くなった人は、膝痛には頻繁に襲われるようだ。
 話は変わるけど、自分は右肩が壊れている。大昔に友人と野球している時に200球以上を投げて肩がいかれた。その後は或る程度ならいざ知らず、本気で投げると肩の痛みが再発する。多分、似たようなモンなんだろう。その際の過ちは只の一度だが、壊れたモノは仕方ないと諦めている。
 膝痛は、見合わないギアで踏む、回転に合わないトルクで踏む、回しづらいポジションで漕ぐ等の要素でもたらされる故障。健康のために乗って、身体壊して世話無いのである。

 そういう意味で、競技機材を気楽にアピールするショップの責任は大きいと思うのであった。

 やはり競技機材である。その域に達する手順、経験の積み重ね方を指導して初めて良心的なショップと思うのである。まぁ、高額車両が売れると具合良いっていうのも判らないではないが、、、、最近、ウン?って思う事の一つだ。何故思うか?っていうと、初心者サイクリストの膝痛話を結構な頻度で聞くからだが、物凄く、悲惨で惨めで可哀想、気の毒で居たたまれない。そんな気がするのだ。
 サイクリング先で膝痛に悩まされ、一人車で積んで乗せて帰って貰ったとか、、、、チョット漕いでたら膝痛を感じ、それが抜けなくなったとか、、、、、故障痛の恐いところは、痛みを感じた瞬間に既に故障している。北斗の拳流に言えば、オマエはもう死んでいるって状態なのだ。痛みを絶対に感じない配慮が実は大事なのだ。つまりは、重いと思った瞬間に頑張っては駄目なのだ。一般的に重い?ってギアを踏むには、相応の脚力を筋トレ等で身に付けた上で踏む。そうすれば、人が重いと感じるギアも、重いと感じないかも知れない。試す前に鍛える。これが大事なのである。

 故障を直すのは、基本は絶対安静が原則。中途半端な治療が慢性化するのである。そういうモンである。

 スポーツサイクルブームで身近なところにも、初めてのスポーツサイクル=ロードバイクって人が多いけど、せいぜい一生抱える傷を負わない事である。

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2008年12月14日 (日)

相似性

 技術、製品の世界においては、表題のような相似性を持つモノが多い。
 特に要素的な考え方においては、相似性が強く保たれる。しかし、要素が複合的になる程、相似性の保たれない因子の影響が大きくなり、トータルとしての相似性が失われる傾向にある。

 例えば、流体機械の設計においては、論理設計においては高い相似性が成立しているし、材料の複合化設計においても複合化させる条件には高い相似性が成り立っている。

 しかし、要素が複雑に絡み合う程に相似性が保たれない要素が系の中に現れ始め、結果的に系としては相似性が保たれなくなるのである。これは、或る意味、当然の事であり、必然とも言える訳だ。

 要素が複合的に絡み合う機械というと、例えば、原動機等が挙げられるけど、原動機の設計では要素の無尽蔵な拡大と縮小というスケーリングは成り立たない。これは或る意味常識であるし、直感的に理解できる事柄だ。
 だから、原動機、例えば、内燃機関等においては、使用目的に応じた仕様を決める場合には、必ずしも要素が相似的に変化しているモノでは無く、スケーリングにおいては、複合化数が変化する場合が多い。これは、シリンダーの多気筒化に見受けられる傾向であり、その要素単位を見つめると、或る程度固まった領域に落ち着いているのが当然と言えば当然なのである。例えば、エンジンならば理想的な単室容積に落ち着く等。
 この或る程度固まった領域に落ち着くのは、その要素単位の効率を律する要件において、論理的な相似性を実現するに必要な要素の基準が、強度的、熱的、損失的、精度的に相似性を保てなくなるのが理由である。最適値の相似性が失われる要素が増える程に、その系の効率は低下するのである。まぁ、当然と言えば当然なのだ。

 ここに製品開発のヒントがある。それは、論理的な相似性以前に要素の最適性に影響する因子が先のようなモノの影響を受けている現実を覆す事が付加価値に繋がるということ。つまりは、無闇なスケーリングではなく、最適因子を律する要因を抽出し、既存の律則因子を他の因子に置き換える工夫こそが、新たなる知見であり、それが競争力に繋がるということ。

 この極分かり切った現象があるのだが、この本質論を超越したスケーリングのみに頼る製品や技術っていうのは、本質的な技術力を持たない企業の製品に多々見受けられるのである。そのような企業の製品というのは、ゼロからの論理の組立が出来ないという特質を保っている。つまり、製品というのは、雛型の存在が前提で、そこからの無尽蔵なスケール変更によって生み出される場合が多いのである。
 そのために、最適な効率を実現するための相似性を確保する要件を無視したスケーリング作業により、大幅な効率の低下を生んでしまうのである。

 この失敗は、技術力、発想力、創造性の部分において、0と1の違いである。0から1を生み出す事の難しさと、1を2にする手間は全く異質のモノである。0から1は、何か新しいモノを加えなければ生まれないもの。1をベースに変化させるのは乗ずれば得られるもの。この違いなのだ。根幹となる技術が無いというのは、雛型を生み出せないということ。そうい企業において必要なのは手間を掛けても0から1を生み出せる風土を作る事なのだ。
 そうは言っても、0から1を加えるレベルの企業っていうのは実は少なかったりする。それは、日本の製造業が初期の段階で海外製品の模倣から始まったという歴史に従うように、殆どが0からでなく1から始めた企業なのである。その企業が繁栄するか否か?っていうのは、その導入した1の技術分野の製品が、相似則に従う類か否かということ。相似則に従わない分野から始めた企業は、1を生み出せる企業以外が消滅する。それは、戦後の単車メーカー等の淘汰の歴史からも理解出来る。しかし、運良く相似則に従う種類の製品を作るメーカーでは、己で1を生み出すことなくとも、1がある限りは乗ずる事で製品のスケールアップによる商品展開が計れ、繁栄を謳歌出来る場合もある。相似則が成り立つ分野っていうと、機械で言うと要素部品、或いは流体搬送機等の被駆動機械であり、逆に相似則の成り立ちにくい部品っていうと、複合度の高い部品、機械なら駆動機械等が該当する。こういう機械製品に対する技術の重要度というか、発展性とかというのは、技術史等の書物にも記されている。

 企業の生い立ちにおいて相似則の通用する製品を作り続けた企業が、その精神、その技術で、そういう相似則の通用しない製品を手がける時に、行き詰まる最初の障害がこの部分である。常識的なスケールアップ手法が通用しない。各要素を決する数値の根拠が見えない。根拠が見えなければ対策が打てない。事故が起きても対処が出来ない。ってなるのである。何気ない数値にも確実に意味がある筈。その意味を一つ一つ考える。そして、自身の決断(裏付けられた自信のある意志を伴って、)で数値を決める事の出来る力を養うことが、0から1を加える技術を養う事なのである。ここでも、個人に限らず、企業においても、模倣、真似が発展性の無い事を表していると言える訳だ。

 この警鐘は過去において、相談を受けた企業、経営者、組織に鳴らしたのだが、この過ちを相変わらず犯すところもあるようだ。

 これからの時代、円高で製品競争力で外貨を得る企業としては、製品と技術にはコアが必要で、コアとは、ゼロから論理を生みだす力が必要ではないだろうか?ゼロから生み出すのは、自信と自負に基づいた意志による決断あってのもの。自信と自負には、体験を経験に変える知識の蓄積が不可欠である。そういう気がする今日この頃。

 最近、見た、小耳に挟んだ新?製品に対する印象だ。この新製品、取り組み当初は偉い人、担当管理職、経営者は自信満々だった中、一人、その論理は成り立たないと警鐘を鳴らしてきたものだが、結果論的に、多数の論理が崩壊したようだ。世の中、そんなモンである。

 但し、商売としては、こういうのを覆い隠すのも商売なのだ。結果は兎も角、取り組み方は兎も角、その意志の発端は正論もある訳であり、正論を理由に取り組んだという事実自体は宣伝の仕方次第では競争力になるのである。この辺が不思議なところだが、それも正である。取り組んだ事実、その姿勢を宣伝に出来れば一流の製品にも一見は見えるのである。その辺が不思議ちゃんなのだ。
 只言えるのは、そういう論法や話術で、真実よりも意志をアピールして市場に打って出る姿勢は、後に大きな負担を負う場合もあるのである。まぁ、経営的に、それでも行うっていうのは、リスクを承知でベネフィットを得るということで、そこは大きな経営判断に従うのである。

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卒検で死亡、、、、、

 週末のニュースでビックリしたのがコレ↓。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081213-00000044-yom-soci

 である。テレビでも盛んに報道している。コースを外れ、10メートル先の塀に激突って、、、、

 壊れたCB750をテレビで見るとフォークが曲がり、フェンダーが削れ、、、、って惨状。

 クランク走行中にアクセルふかして、誤って?

 卒業検定受けるレベルに有ったのか?或いは、整備不良で無かったのか?という程に驚きを隠し得ない。

 だいたい、ナナハン免許が手軽に取れすぎっていうのも違和感アリアリである。咄嗟の危険回避能力を見極めに無いのが問題。誤って10メートル暴走する程でも検定を受ける資格になる部分に違和感を感じる。

 個人的には、一本橋なんぞ最低1分とか、スラロームなら7秒切りとか、或いは、フォークの反動を利用した後退とか、、、、或いは、フルロックのUターンとか、急制動でも80km/hからするとか、もっと言えば、ブリッピングが完璧に車速とシンクロした減速操作とか、転倒訓練とか、、、、そういうのを入れるべきだろう。

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ガソリン価格急落中、この影響は?

 現在、原油価格の暴落によりガソリン価格も急激に下落中である。最高でリッター180円を超えていたのが、僅か4ヶ月で110円台迄下落している。
 これは、金融危機による世界経済の失速による、原油が投機対象から外れマネーが引き上げたって要素もあるし、更には、同調して進んでいる急激な円高によるモノ。この状況により世界経済のみならず、国内景気も後退し不況が叫ばれ始めているが、その家計への圧迫の度合いの部分で、燃料費による家計への負担は間違いなく減っている。

 こういう経済環境の変化は、身近な日常にどのような影響を及ぼすだろうか?
 一番新しいニュースでは、原動機付き自転車と電動アシスト自転車の出荷台数が逆転するかも?ってニュース。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/business/manufacturer/203510/

がソースだが、原付が昭和57年に出荷ピークの270万台から徐々に減少しているのに対し、最近は電動自転車が堅調に増加している。その出荷台数の交錯する台数が29万台あたりとされているが、この傾向に拍車を掛けたのが、今年前半までの原油高騰による燃料高が一つの要因。勿論、他にも、環境対策による排ガス対応によるコスト増で原付価格が上昇したのもあるけど、燃料価格が下落に転じた来年以降、この原付減少、電チャリ増加というトレンドには逆のインパクトが働きそうだ。

 他にも、最近の自転車ブームでもそうだ。燃料費高騰による車離れ+健康志向で自動車通勤が自転車通勤に代わったのが秋口迄のトレンドだが、これも反動がでるかもしれない。
 更には、自動車のハイブリッドカー等の省エネブームも然り、現行プリウスではガソリン価格高騰で注目を浴びたが、来年以降登場するインサイト、新型プリウスもガソリン価格下落による市場への追い風は失いつつある。

 それでも、原油価格下落と同時にやってきたのが景気後退、不況風という問題。原油価格下落っていう部分は、間違いなく庶民の生活にはプラスで作用するが、不景気っていうのは贅沢品敬遠傾向として作用する。この二つの効果の兼ね合い、前述のようなトレンドがどう変化するか?これが見物である。そして、この相反する効果を生みだしているのが円高っていう為替動向でもあるのだ。
 過去においては円安で、輸入品高騰でインフレリスクを抱えながらも好景気というのが一つの流れだったけど、今後は円高で、輸入調達品の下落でもデフレ的となり不景気となるという傾向。個人的には円高で、輸入調達品の下落があっても景気好調が望ましいのだが、今の不景気の原因っていうのは、円安メリットを享受し続けた輸出産業が、円安による価格競争力のみで商売してきたツケにあるようだ。

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バッテリー

 我が家には単車が沢山ある。
 でも、乗る頻度から言うと、結構一台あたりは少ないのが現状だ。特に、チャリに乗り始めて以来、その傾向が顕著である。

 で、問題は?っていうと、バッテリーの無意味な消耗である。

 キック始動のバイクではバッテリー無しでも掛かるには掛かるけど、結果的に玉切れ等の弊害を覚悟せざるを得ない。これは駄目だ。

 ということで、キックオンリーのバイクにはバッテリーレスキットを使うモノもある。因みにAR125Sはバッテリーレスキットを用いている。将来的にはマグナム80もバッテリーレスキットを付ける予定。
 しかし、それ以外のバイクはバッテリーを搭載している。それは、、、、やっぱりキーをONにしたらニュートラルランプが光って欲しいからだ。後は、セル装備のバイクはセルに意味を持たせるって意味でもバッテリーは必須だ。

 そんなバッテリーも結構な頻度で交換しているが、これが出費の元にもなる。

 バッテリーというと、安物論外、MFが最高、ブランド重視って傾向が結構強いけど、実際に使ってみると、そうとも言い切れないのが面白いところ。

 我が家のバッテリーはバイクによって様々である。中には紛い物?的なモノも選んでいるのだが、、、、、

因みに、正規品で国内メーカー品を利用しているのが、マグナム80、グース250がMFタイプ、SV650Sは台湾製の互換品MFタイプ、CXは液式と互換性を持つMFタイプのバッタモン、ガンマ200と500はゲル式MFタイプである。

 一般には、正規品がベストなんだろうけど、不思議な事にCXの互換式MFタイプ、ガンマ200/500で使っているゲル式MFタイプ(『駆』って商品)が放電に非常に強く、バッテリー上がりが未経験なのだ。放置に近い状態ながら、純正のMFタイプの二倍は保っている。序で、マグナム80のMF(FT4B)タイプ、グースのMF(YTX-9B)タイプである。まぁ、AV50、C200の液式の旧6Vは論外だが、、、、そんな感じである。

 互換式MFタイプ、それとゲル式MFタイプ『駆』っていうのは、結構お奨めである。

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2008年12月13日 (土)

糖尿病放置で治療費5000万円!って言っても、、、、

 木曜日のニュースで目を惹いたのが、表題のネタ。
 何でも、46歳時点で糖尿病診断を受けた人が70歳迄未治療で放置したら総額治療費が5000万円に上るとのこと。
 最初は、お~っ!って思ったけど、サイトの表を見て????とも思う。このニュースソースは、↓である。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/education/203585/slideshow/136509/

 これで注目すべきは三パターンあって、診断後治療を受けた人、断続的に治療を受けた人、放置した人で、総額治療費は、874万円、1463万円、5044万円という、、、、でも、詳しく見ると、、、、5044万円の内、4000万円が透析料という。

 因みに、透析が必要な腎不全の原因は何通りかあるけど、糖尿病性腎症、慢性腎炎があるが、近年は糖尿病性腎症が増加傾向である。この糖尿病性腎症は、糖尿病から始まる疾病の末期症状の一つであり、合併する高血圧による心筋梗塞、脳卒中によって腎不全に到る前段で命を落とす場合もあるが、その最終段階で腎不全、末期腎不全という状態に陥る模様だ。

 因みに、腎不全症状となって透析を受ける患者数は概ね30万人程度であり、これは国内の糖尿病患者700万人と比べると腎不全の患者が全て糖尿病患者だとしても4%にしかならない。因みに、腎不全患者の内、糖尿病が原因の患者数は38%と40%未満である。つまりは、腎不全症状を呈している患者の30万人の4%で12万人が糖尿病に起因しているということ。更に言えば、率的には12万人/700万人なら1.7%にしか過ぎない訳だ。これは、糖尿病患者の内、放置プレーするのが1.7%ということで、この数字は、言葉は悪いけど、一般論的に都合の悪い事を見て見ぬ振りをする人、学問的には落ちこぼれ?にも相当しかねない人で、割合的には、1.7%は普通か?って思う程である。

 こういう所で問題は、放置した糖尿病患者の1.7%が呈する症状で5000万円の負担で恐怖を煽るのでなく、別要因で腎不全に陥り透析治療を受ける人でも5000万円中の該当分である4000万円という多額な医療負担が強いられていると言う事。

 ニュース記事の切り口としては、糖尿病患者の1.7%がそうなっている事態から恐怖を煽るのでなく、実は、透析治療のコストが高い事を世間に知らせて、その医療負担を減らせるような声が上がるようにするのがマスコミとしての立場ではないか?ということだ。

 末期腎不全状態の要透析治療状態から健康状態に戻る事が可能かどうか?は知識を持ち合わせていないが、それが不可逆な疾病状態ならば、そういう多額な医療費を個人に大きな負担を強いるのは、福祉国家としては理想とは言えないように思う。

 基本的な理念としては、変に煽るでなく、重大疾病で多額な医療費が必要としている事例(患者さん)に対して、個人負担を限度を超えて強いる現在の医療制度自体に問題があるように感じる。
 難病等における募金活動等も報道されているが、そういう難病対策は、本来は国家が負担して行うのが理想的な福祉厚生国家の姿だと思う。

 糖尿病を放置すると、末期腎不全状態に陥るリスクがあるのは承知で、医療負担に5000万円に到る負担が強いられるリスクがあるのは確かかもしれないが、そこに到るには、相当な年月がある。そこに到らない施策として健康診断等で啓蒙活動するだけでは生温く、本当に医療費削減を狙うならば、糖尿病予備軍状態になると強制的に徴集して健康となるような活動形態を伴う労役に尽かせるような強権があっても良いと思う。健康を強制的に回復させるようなシステムである。そういうアピールだけで、個人は健康回復の努力を営むようにも思うのである。

 そもそも、糖尿病、痛風っていうのは経時的な贅沢生活から陥る病。質素倹約でコスト削減の大義の下で肉体労働を行わせる事で、価値を生み出させれば、懲役的製造品目の人件費削減にも繋がったり、、、、って変な発想に繋がったりするのである。そういう健康回復政策、施策に義務化を負わせるのが一番だ。

 こういう考え方の原点は、生きる意志と持てる道具を見た時に、意志があるけど、意志を実現するに多くの障害があるのであれば、その障害は国家として全力で排除すべきという考え方。だから極論すれば、猶予があり、取り組みで回避できる程度の不具合ながら、意志が無いがために、重大な事態に陥るようなモノ(習慣的疾病、世捨て人的要保護者)には、自己責任で、救済や補助は不要とも思えるのである。
 言い過ぎかも知れないが、己の本能のままでドツボに嵌る奴らは放置プレーで良いとも思うのである。自業自得って言葉そのままの考え方だ。だから、自業が無いのに、、、、って場合は、全力で協力するのは自然な姿だ。

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年末年始モード、起動!

 年末年始のスポーツセンターの休館日程と、不規則且つ多飲、多食生活によって危惧されるのが、生活リズムの乱れによる体調悪化(体重増加)である。これが、師走における生活の中での心配事だ。

 そういう年末年始の二ヶ月間は、意識的に生活を律するような心構えが大事か?と思う今日この頃。特に、週末行事が多忙になると、週末運動頻度も激減するので、それに応じたエネルギーの摂取、消費の収支を整えなければならない。

 今が12月9日だが、そういうモードに切り換えるのは例年12/15~1/15の30日間である。これから忘新年会が続き、ホームパーティも続く。一層の気の引き締めが大事だ。
 他の記事でも書いたけど、ガンガン食って、ガンガン動くが今の収支を支えている訳で、動く機会が減り気味、食う機会が増え気味な今の状態では、再びメタボリックフォームに戻りかねない訳だ。取り敢えず、12/15~1/15の間は、夜スナ(夜中のスナック菓子)+夜アイス生活は取り止めの予定。

 後は休日には努めて自転車に乗って、努めて泳ぐ。遊んでも日々のメニューは確実にこなすという事を肝に銘じなければならない。去年の年末年始と言えば、毎日ラングスターTT号に乗った覚えがある。今年もそんな感じで過ごすんだろうと予測したりする。

 冬場の活動っていうのは、元来気温が低い中での活動であり、本来的に身体は体温を引き上げようと代謝が活発になるのであり、冬場の運動っていうのは実は効果的なのだ。
 そういう冬場の屋外運動の効果的な代謝という特徴を思えば、怠さというか、怠け心も駆逐出来そう。今現在、基礎代謝が1600kcal、これが季節(気温)によってどう変動するか?チョット関心をもって観察してみようと思うところである。

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タイミングの必然性

 表題の事。タイミング。これってとても重要である。どんなに優れた能力でも、機会を逸すれば、得られる効果は随分と違ってくる。どんな分野にでも当て嵌まる事。そう思うのである。

 最近、ネタにしている自転車のペダリングでもそうだ。また、峠のワインディングを単車で走る場合も一緒だ。タイミングを逸すれば綺麗なペダリングも華麗なライディングも適わない。そんなもんだ。

 これは、新しい技術開発における発想でもそうだ。どんなに優れたアイデアでも、それが要求されるフィールドで本当に要求されているタイミングこそが、普及においては効果的だが、タイミングを逸すると埋没しかねない。

 はたまた、育児でもそうだ。子供の好奇心を最大限度に引き出すにはどうか?っていうと、興味を持った瞬間に、それが出来たら凄く楽しいぞ!を示し、好奇心を加速させるような例を提示してやらなければだめだ。どんなに素晴らしい例でも、子供の気持ちが向いてない時にやっても上の空なのだ。これもタイミングである。

 このタイミングっていうのが実に難しくも重要なのである。しかし、良いタイミングは偶然に訪れるモノか?というと、決してそうでないのだ。
 タイミングが良いというのを、運が良いという事で、偶然の効果として論ずるは容易いが、そこには必ず必然があるのである。
 タイミングが良いというのは、その事象の流れを読んで、その流れに応じた知識や知見を十二分に兼ね備えているっていうのが絶対条件である。つまり、個人の持つ知識データーベース内のアイテムと、外界の刺激を関連付けの思考的試行錯誤が行われているからである。この情報処理数が多い程、外界の刺激を経験に当て嵌める事が可能であり、それ故に、経験的な知識によって外界の刺激の未来を推測する事ができるのである。

 つまり、知識の蓄積と論法の活用が行われているから、傍目に偶然と見えるアイデアの創造に結びつくのである。

 最近の趣味?の一つに育児があるけど、育児でも子供の行動を観察し、その瞬間毎に子供が何に関心を持っているか?どうすれば興味を惹くか?を考えて、補助的なアイテムを与えたり、遊び方を提案したりするのだが、そのような手法は、瞬間の判断で利用してこそ、タイミングが良い訳であり、タイミングを無視した絨毯爆撃のような情報攻撃は、子供に対して大きなストレスとなるだろう。そういうものなのだ。

 育児、研究、趣味、遊び、、、、、全てがタイミングが重要だが、そのタイミングを計るには、知っている物事の多さ、ジャンルを問わない事象の類似性の探求、関連性の創造といった知識的なネットワークの複雑さ、そのような回路を使う事で効果を得るための道筋の決定といった要素が不可欠である。
 そのような脳内のネットワークの構築は、脳のトレーニングが絶対的に必要であり、その実践は、物事の判断を自身で下すという訓練が不可欠である。そんな気がする今日この頃である。

 育児をする上で、自分が親から受けた影響等々を今になって考える事が多いが、そういう部分を引き継いでいるところが確実にあるなぁ、、、、そういう風に見えるのである。
そして、これが遺伝っていうモノなのだろう。

 子供にはタイミングを掴む嗅覚を身に付けさせる。これだけで良いような気もする。

 これは、最近のゆとり教育への反動で、父兄が子供に過剰教育を強要したり、冴えない親が子供にこそは!って意識で教育熱心になったりする様を見るけど、そういうのは、子供への情報の絨毯爆撃であり、情報の受け手側にはストレス以外の何物でもなく、下手すれば、その親心で与えられる勉強や習い事自体を毛嫌いしかねない方向に行くリスクを抱えているのだ。
 ネットや雑紙、情報誌で溢れる情報を良かれという判断で、受け売り的な浅はかな知識で子供の生活を乱すのは、自分的には望ましくない結果を招くように思うのだ。

 まぁ、溢れる情報に翻弄される大人を見ると、その大人が翻弄されるのは、自分の生き方に自信が持てないという裏返しでもあり、前の記事でも書いたけど、自信も自負も無いからこそ一貫性も無く、翻弄され続ける。そして、本人と周囲には何もメリットが残らない。残るのは災いのみとなる。そんな風に思うのである。しかし、そういう人が極めて多いのが現実である。
 タイミングっていうのは、自信があるから出来る即断力であり、時を見計らう力というのは、結局は大局的に物事が見えるから判ること。つまりは、知識や経験を局所でなく、広く、関連分野に拡げて身に付けるという気持ちが無ければ、タイミングを読む力も養われないのかも知れない。持論としては、知識や経験に教科や科目のような垣根は存在しないって事。全ての事象は、類似性を保っており、何かの現象は別の問題のヒントになりうるもの。だから、色んな事象を見る時には、色んな知識に当て嵌めて見る。そんなトレーニングが必要なのでは無いだろうか?そういう嗅覚を身に付けさせる事が育児には必要なように思う。

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2008年12月12日 (金)

スポーツサイクルと市街地

 スポーツサイクル、特にロードバイク等のタイヤの細い自転車の多くは、連続的に漕ぎ続ける事が前提の競技で用いられる機材である。
 それ故に、その構成は全てが連続して走り続ける事が良いように作られている。逆の言い方をすれば、停まることが煩わしくなるような構成になっているということ。例を挙げれば、、、、ビンディングペダルなんかが良い例だ。そういうモノなのである。

 だから、こういう自転車に乗って楽しいのは、自転車本来の使い方、或いは、それに準ずる使い方をした時の話。それは理解できる。そして、そういう自転車に乗って効果を体感したり、心地よさを実感するのもそういう瞬間に限るものだと思うのである。

 しかし、こういう機材と使い方は、果たして公共の場に適応しているか?って考えると、結構厳しいものである。
 自転車自体、形状によって走行する場所の規定は殆ど皆無なんだが、その車型の持つオーラというか乗り手に与える雰囲気は、乗り手に自制を求めるモノなのだ。逆に、自転車の持つ特質を気持ちで抑える事が出来ない人は、本来使ってはならないものでは無いだろうか?

 チョイ前に、自転車の車道通行禁止に対する反対のムーブメントが局部的に盛り上がった事があるけれど、その多くがスポーツサイクルユーザーの声なのだが、そのスポーツサイクルユーザーが車道通行において遵守すべき交通規則をスポーツサイクルの持つ魔力に負けて規則破りを日常的にしているのが現実である。
 これでは、説得力ゼロなのだ。

 自分としては、自転車の車道通行禁止というのは、実は賛成なのだ。勿論、道路自体が路側帯しか無いような郊外の道路については、自動車、歩行者と同じ様に走れるっていうのは当然なのだが、少なくとも、歩道が整備された道路においては、自転車は車道を走る資格は無いと思うのだ。
その根拠は、先にもいったけど交通ルールへの遵守度が、自転車ユーザーのそれは、自動車運転手よりも歩行者のそれに近い実態を見ての話だ。信号一つみても、自動車運転手、単車運転手(単車のエンジン掛けたまま降車手押し無視行為は多いけど)は、信号無視率は歩行者程多くはない。それ程に自転車利用者の交通道徳は酷いのである。

 そんな危険認識が低いような乗り物は、交通の絶対的な流れが速い空間の利用を許可するのはナンセンスというのが持論なのだ。危険認識が低ければ、強制的に低速運行を強要させるしか無いのである。勿論、現状のままでは、歩行者に危害が及ぶ訳であり、歩行者空間とは物理的な障壁が必要で、走行エリア自体にも物理的に走行速度を制限させるような路面の凹凸、パイロン、支柱、溝切り、バンプで速度を殺さなければならない。

 今の自転車ユーザーを見ると、権利ばかり主張して、義務を負うという認識が大幅に欠如しているようにさえ見えるのだ。歩道が走りにくいから車道を走るとか、歩道が自転車走行に適した整備が為されていないっていうのは本末転倒であり、車道を走る資格が無いから、障害の多い歩道で使えというメッセージとも捉える事ができるのだ。
 更に突っ込んで言えば、障害の多い歩道で走りにくい自転車=高速連続走行が前提の自転車でもあり、そういう歩道走行が強要されるエリア=高速連続走行がナンセンスである訳で、スポーツサイクルなんぞを街中で使う事自体が間違いとも見えるのである。

 権利を主張する前に、多くのサイクリストは、自身の走れる環境を守るという義務意識で、車道における交通ルールの遵守、歩道における歩行者保護を啓蒙して取り組むべきでは無いだろうか?今の実態では、なんの説得力もない。そう思うのである。

 話が脱線するけど、12/9の水曜日の夕方のJチャンネルのニュースのローカル版では、福山市と岡山市における自転車事故対策と利用環境の実態、自転車インフラの整備状況が特集で組まれていた。
 そこでは、自転車ユーザー、特に、学生の傍若無人ぶりな利用形態が映し出されていたが、携帯電話操作運転、並進、脇見運転が典型的なもの。コレ見ると、インフラ整備、法整備しても利用者意識が改善するって見込みは殆ど無さそうって気持ちになる。それ程に、利用者の利用実態は酷い状況に陥っているように思う。スポーツサイクルも実用車も自転車自体、みんなの意識は、自動車とは別個のモノで、手軽なモノという意識からか、安全や他への配慮っていう部分でも軽んじられているようだ。

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健康管理ツール、カラダスキャン

 メインサイトの日記にも書いたけど、先週末のホームセンターのワゴンセールで通常売価の1/3の価格で表題のオムロンのカラダスキャンって体組成計が売られていたので購入してみた。
 これは、グリップを握って体脂肪率、骨格筋率、内臓脂肪レベル・・・・を表示する機能を有した体重計である。沢山、いろんな表示が出るんだな!って関心する一方で、グリップ部を取り外し手で持って測定するという意味で、チョイ面倒臭いのである。

 これを日記記録に残すか?はチョイ検討中。何故なら、すべての数値のバラツキがあまりにも日々で大きいから。このオムロンの体組成計はグリップと測定台上間の抵抗を測定するタイプで、タニタの体脂肪計の測定台上のみの測定とは異なるもの。オムロンの体組成計で計る体脂肪率はタニタの体脂肪計よりもチョット多めに出る模様。その値は、何度か計ったら11.9~12.3%である。そして、骨格筋率は36.0~37.4%、内臓脂肪レベル4~5、カラダ年齢32~35歳、基礎代謝1588~1602kcalって所が一発目の測定結果。割とばらつくものである。

 ところで、この骨格筋率って聞き慣れない言葉は一体何を示すのか?調べてみた。

 これは、運動によって増やせる筋肉の事。骨格に接続された筋肉、横紋筋のことらしい。筋肉は、心臓を作る心筋、他の臓器を作る平滑筋、身体を動かすための横紋筋から作られているそうだが、この内、体重中で横紋筋の締める割合が骨格筋率ということ。

 更に怪しい?体年齢っていうのは、体重1kgあたりの代謝量で求めるようだが、恐らくは、筋肉が豊富で低脂肪、即ち、骨格筋率が多く体脂肪率が低いほど、体重1kgあたりの代謝量が増える。そして、その代謝量を年齢平均のキロあたり代謝量と比較して求めるだけのもの。要は、筋トレして筋肉増強し、有酸素運動して脂肪を絞れば体年齢が若くなるという質のモノのようだ。まぁ、お遊びみたいなもので、あんまり参考にならない感じ。

 基礎代謝量っていうのは、新陳代謝が活発な二十歳までが最も多く、その後は、徐々に減少する数値のようだ。細胞単体の新陳代謝が低下する定めを覆すように基礎代謝を維持するには、筋肉量を増やすしかない。そのために、筋肉量アップっていうのがダイエットにおける肥りにくい身体の獲得の際の呪文のようになっている。

 今回の測定では、基礎代謝量が約1600kcalという事。因みに体重自体は、年齢、身長から見て、殆ど平均値だが、基礎代謝自体は一般的な基礎代謝のピーク量に相当するだけの基礎代謝がキープされているようで、単純な数値ながら悪い気はしないものである。でも、基礎代謝が低下すると一般的に言われていても、10代後半の平均値1610kcal/dayって数値と30~60歳の平均値で1500kcal/dayを比較すると、メタボ時代でも100kcal/day程度の低下に過ぎず、行ってみればチョット運動すれば賄える数値でもあり、こんな基礎代謝云々で敏感になるのは無意味のようにも感じるところ。

 ところで、水曜日の午後に行った一人クリテリウムゴッコでは、心拍計モニタリング走行をした訳だが、2時間での消費カロリーが1450kcalってこと。その後、家に帰ってのローラー台で500kcal、通常メニューの筋トレで350kcalである。この日だけで、2300kcalのエネルギーを運動で消費しており、基礎代謝の1600kcalを加えると3900kcalの消費である。
 また、週末スイムでは1セットが1000kcal程度の消費でもある訳で、そう考えると、体組成計等の基礎代謝の100kcal未満の変動で笑ったりするのもナンセンスな感じだ。
 基礎代謝云々、筋肉を増やすって行為の大変さもあるけど、筋肉を増やすのに固執せず、メタボ世代は普通に運動して100kcal分運動するって気持ちを持つ方が有意義な感じだ。その消費カロリーを増やそうという心構えの結果に、筋肉が増えるって事で良いのでは無いだろうか?

 話は変わるけど、このところ運動量は不変で、相当なカロリー消費をしているにも拘わらず、体重は殆ど変わっていない。これは、多分、相当なカロリー摂取生活を営んでいる証。確かに、間食も大好き。寝る前の食事も普通にしている。食欲は目覚めている間、常に旺盛。何時でも、何処でも、食欲旺盛。食欲に任せて食う!食う!食う!でも体重は変わらないっていうのは、日頃の最低でも1000kcalは行っている運動によるカロリー消費の賜なんだろう。ここで、摂取習慣そのままに、運動量を減らすと相当に加速的に肥満に陥るんだろう。
 しかし、不思議なモノで、運動量が減るような長期連休では、不思議と食欲も減退する。運動するほどに食欲が連動して増大する。この辺が面白い現象である。これって、食欲っていう中枢系からのシグナルも、結局は燃料タンク内の燃料不足から来ているもののようである。燃料不足を実感するのは、大量な燃料消費の後の話。人間の身体っていうのは、実に合理的に出来て居るなぁ!って今更ながら感心するのであった。

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大人の模倣と子供の真似

 なんて事はない。戯言である。
 色んな人を見ていて思う事。麻生ちゃんに対しても、自分の子供に対しても、周りの奴、会社の役員、経営者を見ていても思う事、、、、、一番大事なのは、なんていうか自分の決断力ではないだろうか?
 自分の決断力というのは実に抽象的だけど、何かの行動する際に自分の声、自分の心に基づくモノかどうか?っていう部分だろう。自分の意志に基づくか?否か?が重要なものだと思っている。

 まぁ、この自分の意志っていう言葉も、何が該当、何が違うって区別もまた難しいのだが、、、、、人によっては、他人の意見、他人の様を見て、それを自分で判断したっていう人もいるし、それも或る意味自分で決断したには違いないけど、その決断の背景にある思想、論理的根拠を自分で組み立てたか?或いは、人の組み立てたモノを真似るか?という意味で、決断の根拠が自分にあるか、他人にあるか?を俺的には区別している。

 これを単純かつ判りやすい言葉で言い換えると、、、、自分の意志を通す決断に必要不可欠なのは何か?それは、一言で言って、『自信』である。自信というのは確立した自己論理であり、即ち、自負である。自信や自負を伴う判断こそが意志である。そこには、他人の模倣や真似というモノとは絶対的に違うっていうのが判るだろう。真似や模倣には、自信や自負は有り得ないのである。
 自信や自負を持てるか否か?っていうと、考える本人の経験で本人が感じる事であり、それは個人の中の問題。個人の中で、何かに取り組んで、何かを掴んだという感覚的な実感を得た経験の有無次第ということだ。そういう体験を感じていれば、会話の中にも、行動の中にも、そういう空気が滲み出るのである。

 例えば、麻生ちゃんの漢字事件も、良い訳としては『読み違え』って話だが、自分の意見ならば読み違えは有り得ない訳で、自分の意見で話す時の現行っていうのは、ストーリーを追う際の道しるべであり、語句を追うような喋りは有り得ないのは、論文発表等でも当然の事だが、文章を単純にトレースする時くらいしか読み違えは無いのは、みんな知っている事。多分、麻生ちゃん発言は、他人の意見の棒読み故に、こんな無様な失態を晒しているんだろうと思うばかりである。

 ところで、行動においては目的がある。目的っていうからには、現状の問題がある。その問題を解決する手段や道筋を選ぶのが判断というか意志であり、それを進める際には、当然、問題への対応が存在する。
 その対応の選択が、個人の瞬間の判断である筈で、その判断の先には、物事を進める際には必ず難題にぶつかる筈である。
 この難題や問題へ直面した時の気持ちは、人によって感情が異なるもの。ある人は、問題を問題と思わず、普通に対応したり、その問題を楽しんだり、或いは、その問題を必然と捉え苦に思わないけれど、ある人は、その問題に挫折したり、『聞いてないよ、、、』、そんな筈じゃないよ、、、、ってノリで諦めたりする。

 その差は何処にあるか?って考えると、問題が問題たる所以は、そこには処理すべき事案があるのは当然で、それを必然と思えば、問題解決のプロセスとして何も思わないけど、判断が他人のそれに基づく場合は、その問題を、聞いてない問題、想定外の問題として諦めるのではないだろうか?
 これは、ダイエットでも言えること。どんな方法でもメリット、デメリットがあるけど、自分の意志で進める人は、その選択をした時点で、ネガを受け入れており、それを乗り越える力があるけれど、人の様みて真似る人は、ネガを受けれず挫折するという結果になる。
 似たような話では、健康管理でもそうだ。不健康状態からの脱却を本気で考える人、それで行動を起こす判断を下した人は、現状の問題を冷静に受け入れる事が出来るから、悪しき結果も冷静に見れるもの。しかし、現状認識を拒む人は、それすら出来ず行動が伴わない。これって、健康診断、例えば、HIV検査で結果を知るのが恐いから心当たりがあっても検査を受けない人にも通ずる気もする。他にも、不健康な人が、健康を取り戻すべく必要性を自覚していながらも、行動が中途半端とか、或いは、その状態からの復帰目的で揃える健康機材を購入しながらも、その実態の大変さに辟易して頓挫するなんて事例とも似ている。

 このように行動には目的が存在し、その行動の結果は人によって様々な結果を生む。結果では前述のような挫折を繰り返す人も結構多いのが現実だ。
 そこで、なぜ挫折に到るか?っていうと、それは目的行動の先の解決が見えない場合とか、結果に必要な方法が判らなくなったり、或いは、ぶつかる難題の全てが理解出来ない場合という事。そういう障害が多い程に挫折する率が高くなる。
 行動においては、どんな次元でも担い手には必ず障害が立ち塞がるけど、それを越えれる人、越えれない人の違いは何か?っていうと、これが冒頭に書いたこと。行動が、自分の意志に基づく判断か否か?その判断には自信が持てるか?自負が持てるか?ということ。結局は、自負や自信を持つに到る、自分の生活における蓄積が備わっているか?どうかが分かれ目なのである。

 真似や模倣に終始してきた人間には絶対判らないかもしれないが、真似や模倣する心理というのは、自分に自信が持てない事の証明である。自信が持てない奴は、何やっても出来ないのである。自信が持てる奴は、何か一つでも、そういう原体験を持っている筈であり、その原体験が人格のバックボーンともなっているのである。
 その原体験をベースに、色んな分野で目的行動を繰り返す程に、成功体験が蓄積され、それが更なる自負となり自信となるのである。

 だから、真似や模倣、他人の意見で左右されるような奴は、自身の知識や経験に自信が持てる程の蓄積を始める事が第一歩なのだ。短絡的な結果を求め、真似、模倣、他人の影響や他人の意見に左右されるようでは、何時までも進歩は無いのである。

 ここで、注意するのは、成人以降での真似、模倣というのと、幼児の見よう見まねっていうのは別物である。その精神の根底に利害が絡んでいるか否か?が大きな違いであり、大人の模倣は、結果を早く欲しがるが故の行動。幼児の真似は、純粋に興味の対象としての行動。これは全く別個のモノである。幼児はそういう外的刺激から好奇心を刺激され、好奇心の根底では、自分で出来るようになるという自立本能があるのが当然であり、大人の場合は、教えて貰わないと駄目、聞いてないから駄目という依存性がある点で大きく違うのである。
 実際、子供に一輪車、バランシングバイクを教える場合にも、子供は手をはね除ける仕草が殆ど。そんな子供は人の様みて勝手にやりたがるのが本能。でも、大人は手取り足取りを希望する場合が多い。これは、講師の立場としても、技術指導の立場でも感じる事。そういうのを見る程に、その大人の生い立ちを気の毒と思う事が多いのである。

 やはり、自信を持てる行動が取れるっていうのが大事。自信が持てるから決断が出来る。また、自信が持てるから新たな好奇心への旺盛な気持ちが芽生えるんだろうと思う。そういう好奇心達成の喜びが自信に繋がり、その自信の蓄積の結果、何事でも自己で決断が出来る大人になれるように、我が子の子育てをしたいって改めて思うところである。

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2008年12月11日 (木)

イレギュアル日曜日で育児

 先週の日曜日は午前中の町内清掃、その後の買い出し等々で、通常の日曜日とは随分とは違う過ごし方をした。まぁ、前日土曜日の寒波襲来で、日曜早朝の冷え込みと、早朝からの町内掃除(道路、公園等々)でラングスターTTでのCR走行はキャンセルし、掃除後の買い出しによる、昼食時間帯の大幅なずれ込み等々で、午後のオ・モイヨWWでの走行も時間が作れず断念したのだが、代わりに、ゲットしたクリスマスプレゼントの早渡しをしたので、その使い方を子供に伝授?するのに専念したのである。

 娘には一輪車、息子にはバランシングバイクである。一輪車の改造は不要だが、一輪車に乗るためには乗降、バランスが大事ということで、その乗降とバランスが練習できる簡単な道具を日曜大工で作成してトレーニング。息子のバランシングバイクもサドルハイトが40cmで足が届かないので、ベースフレームはそのままにサドル部分を取り外し、シートハイトを34cmになるようなスペシャルサドルをパイン材を削り出して日曜大工で製作。勿論、面取り、バリ取り、カンナ掛けも施して作成。
 因みにバランシングバイクのサドルハイトの34cmは、基本構造上可能な限界に近い低さであり、前の記事にも書いた対象年齢1.5歳以上の『KIX』のサドル高さ35cmを参考に目指した高さである。

 勿論、何種類かあるバランシングバイクの中で、サドル高さを低く改造する事を織り込んで選んだ訳であり、一応予想通りの品物を、当初の計画通りに改造しただけの話。その改造を念頭に、日曜午前の買い出しでは、途中にホームセンターによって電動カンナを購入したのだ。その電動カンナ、木材を使って、予定通りに1時間足らずで低床サドルの作成を帰宅後の昼食前に行って、その後、交代でバランシングバイクでのバランストレーニングと一輪車のバランストレーニングをさせたところ。
 子供っていうのは、好奇心一杯であり、チョットの支えで割と簡単にコツを掴む様子であり、そのやり方に慣れるとエラク上機嫌となり、練習自体が楽しいようだ。

 ということで、この日曜日は、自分の事は殆どせずに、育児がメインだったけど、子供が何に興味を持っているか?どうしたら喜ぶか?出来ない事が出来た時の喜びを味わわせるにはどうするか?そんな事を考えながら過ごすのも悪く無いなぁと思うところ。

 しかし、子供っていうのは、見るモノ、触るモノに強く関心を示すようだ。関心を示しては見よう見まねでトライする。特に、自分の知らない事には強い関心を示す。
 そして、関心を示したモノにトライしながらも、そのトライで上手く出来た時には、更に、その方向に突進していく様子。親的には、そのトライを見守りながらも、僅かな補助で『出来た!』って満足感を味わえるような補助をしてやるっていうスタンスである。
 全部を手取り足取り教え込むでなく、子供の興味の視線の先にあるもの、したい事を想像して、その簡単で手助けを軽く施す程度の事。こうやって子供と接するのは楽しい事である。

 まぁ、こんな子育て法が正論か否かは知らないが、数多くの育児本、育児サイトで定型的な子育て論が書かれていたり、他人の経験談が掲載されていたいりするが、そういう事例を単純に記憶して子供に強制するのはナンセンス。
 これって、瞬間における必要な要素を、そのタイミングで施す事が大事ということで、どんなに沢山の知識でも、時期が違えば、子供には負担になるだけの話。

 親に求められるのは、子供がその瞬間に何を望むか?を感じるセンサーで、そのセンサーが高感度、即ち、最小限度の補助が何か?を考える事、組み立てる事の出来るセンスである。このセンス自体が、親の経験の豊富さ、知識の豊富さ、先読みの深さに起因するものと俺は思っている。

 センスの無い親=経験、知識が乏しく先見性の無い親程、子供に自分の出来なかった過度な期待を背負わせる。そうすると、親が出来なかった事を子供に求める結果となる。それが負担になる。子供にとって、見るモノが楽しいモノから、背負うモノに代わった時点で、自発的好奇心の芽が失われる。そう思うのである。
 言い過ぎかも知れないが、親の裁量が、子育てに反映され、それで親のコピーが子供に写される。これが遺伝という事かもしれない。

 過去の十数年における塾講師、塾経営経験では、色んな親子を見てきたが、やはり親の考え方、生い立ちが子供の性格に大きな影響を及ぼしているのが見えてきた。そういうのを参考にしながら、手探りで自分で良いと思う育児を楽しんでいきたいものである。

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ゴジラ映画の記憶と幼少期の刷り込み?

 ゴジラ映画を見ての記憶の鮮明度の確認。
 ゴジラっていうと割と馴染みのある映画だが、その製作年度から言うとリアルタイムで見た作品は極僅か。また、映画館で見たっていうのも実は案外少ないモンだと、今更ながら気付くところ。

 ゴジラの初代作品は1954年ということで、自分の生まれる10年以上前の話。これ、白黒の作品だったんだ、、、、、で、次の『ゴジラの逆襲』って作品も1955年の白黒作品。
 因みに今見た感想だが、ゴジラ作品というと1954年の初代ゴジラこそ、ゴジラらしさが一番ハッキリしているような感じ。二作目以降は対決モノの様相を呈している。二作目がガイガン、三作目がキングコング、四作目がモスラと登場している。まぁ、対決モノとして許せる?のは四作目迄か?というのが今の感想だが、この四作目の制作年度でも自分は生まれていない訳だ。
 ゴジラ作品で、過去に見た記憶があるのは、三作目以降。キングコングとの対決は、これは大昔にテレビ上映されたのを見た記憶があるし、四作目のモスラとの対決は、小学校の3~4年の頃にリバイバル上映されたのを見たような記憶。この頃は、キングギドラの登場する五作目もリバイバル上映されたのを見たような記憶である。

 リアルタイムで見た最初の作品は、幼稚園の年長か小学校一年の頃の、ヘドラとの対決モノ。その次がメカゴジラとの対決もので小学校4年の頃の話。それ以外のゴジラ作品は、ゴジラフェスティバルと名うった東宝系映画館での夏休みのリバイバル上映を見にで掛けた程度。小学校時代に見た最後の怪獣はメカゴジラであり、ゴジラ映画自体見に行ったのはそれが最後である。

 そんな自分の記憶の中で、映画を見て、ストーリーは別として映像的に印象に残っているのが幼稚園年長から小学校一年の頃の、ゴジラ対ヘドラって映画のようだ。因みに、このゴジラ映画は記憶を遡ると、、、、広島駅に近い所だったような微かな記憶がある。

 実際、今放送されているゴジラ映画を見ても、やはり一作目、二作目~四作目のモスラ対決迄が割と面白いけど、五作目以降の怪獣同士の強力とか、愛玩動物的な仕草を取り入れたり、人間となれ合ったりのシーンは無意味かつ、ゴジラ映画が完全に子供向け?って印象だ。過去の記憶でも、小学生的にも五作目以降はやはり幼稚に感じていたのかも知れない。

 ゴジラ映画がそういう子供向け映画に完全にシフトしていながらも、当時的にも、今の目線で見ても、興味深く見れたのが、5作目以降のゴジラ対ヘドラって作品。この制作年度は1971年で、ゴジラが何故だか正義の味方になっている時の作品だが、それでも、この映画は見る気が起こさせられる作品である。

 ゴジラ映画のスタンスっていうのは、ゴジラが悪役というのが本来のコンセプトだったんだろうけど、それが、ゴジラというヒーローによる悪役怪獣の退治というウルトラマン的な構成になった時点で当時的にも今的にも今一な感じとなった。ゴジラ映画が子供の映画になったのは、それが原因だろう。
 その反省?から、そのヒーローモノ的なスタンスが薄められ始めた復活ゴジラシリーズ以後のゴジラの在り方に一つの方向性を与えたのが、四作目迄のゴジラ作品とヘドラ対ゴジラという作品のように思う。

 因みに、ゴジラシリーズが1984年に復活して以降のストーリーの中では、初代ゴジラ以降の対決モノゴジラシリーズ、特に5作目以降の作品自体は存在自体が無視されているというか、抹殺されているのが興味深い。現代の復活ゴジラでは、ゴジラは悪役というのが原則で、正義の味方となった5作目以降の作品は無き物とされている。(今回の日本映画専門チャンネルのゴジラガイダンスで佐野史郎さん解説でも言われている。)

 因みに、自分的にゴジラ映画のインパクトというか興味の度合でお奨め作品をピックアップすると、、、、

1.初代ゴジラ
 何と言っても、破壊の象徴。核の権化としての存在感。
2.ゴジラ対ヘドラ
 当時の社会問題である公害被害を偶像化したヘドラの存在感
3.ゴジラ対モスラ
 ゴジラが同じく悪役で、モスラという自然の偶像を対峙させている
4.1984ゴジラ
 子供映画に成り下がったゴジラを原点に回帰させている点。
5.ゴジラ対ビオランテ
 当時注目のバイオテクノジーで遺伝子操作によるリスク警鐘
6.平成ゴジラ対モスラ
 3.と同じ理由。

 で、ゴジラ映画に登場するキャラクターのインパクトは、

1.悪役としてのゴジラ
 原点はゴジラは核の権化であるべき。悪の化身、破壊の神が本来
2.ヘドラ
 社会問題の初の具現化
3.モスラ
 核の象徴のゴジラに対する自然の象徴としての存在
4.ビオランテ
 未知の技術の利用への警鐘の具現化
5.メカゴジラ
 小学生の頃見た時のインパクトが大、特に武器の多さの戦闘シーン
6.キングギドラ
 小学生の頃見た時のインパクトが大、特に登場シーン

 って感じ。逆に、有り得ないキャラクターは、

1.正義の味方で怪獣島のゴジラ
 ゴジラが怪獣と会話する?家族を持つ?有り得ない。
2.象徴としての意味が希薄な怪獣全般
 ラドン、エビラ、アンギラス、ガイガン、メガロ、ミニラ、カマキラス、クモンガ

 キャラクター的に、他のキャラは印象的に希薄な感じ。居ても居なくても、、、、って感じ。キングシーザー、スペースゴジラ、デストロイヤ、、、、、

 こうして見ると、ゴジラシリーズ後半に登場する怪獣の多くは、生まれの発端がゴジラと類似しており、ストーリーとしては新しい象徴的な怪獣とゴジラの競演というパターンが定形化している。つまりは、ゴジラよりも対決怪獣の存在が大きな意味を持っているような感じる。ゴジラが闘う相手が、その時代なりの社会風刺を具現化した存在として生まれた怪獣という点で、ヘドラっていうのは、メッセージ性を伝える最初の怪獣であり、後のビオランテ等に通ずるものである。

 この対決モノでの対決対象が、時代の象徴という構成となったところで、ゴジラが自然な生態系の権化として見ると、所謂、環境映画に見える訳だ。自然環境と現代の歪みの戦いという風に見ると、単純な怪獣映画以上に関心を持って見ることが出来る。そんな気がするのである。

 ゴジラ映画に対する印象はそうだが、それでも、ヘドラって存在が自分の中ではインパクトが大きい。これは、ヘドラ云々というよりも、もしかしたら、自分の記憶が鮮明になるというか、そういう時代に偶然見た映画がゴジラ対ヘドラという映画だったためかもしれないし、その印象というか、そのタイミングが、このような感想を持つに到る起点となったのかも、、、、って思ったりするのだ。

 そんな所を思い出すと、育児に於いては6~7歳頃っていうのは、結構大事な時期なようにも思うのである。
 6~7歳の印象深い体験は後にも残るようだ。そういう事を考えて育児にも取り組まないと活けないかなぁ?何時までも、ウヒャウヒャ遊ぶばっかりでは駄目かもしれない。

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バランシングバイク、買ってみました。

 一歳5ヶ月の息子用の乗用玩具として、表題のバランシングバイクって言う木製の乗用玩具を買ってみた。先々週には娘のクリスマスプレゼントに一輪車を選んだが、このバランシングバイクっていうのは息子のためのプレゼントだ。

 バランシングバイクっていうのは、二輪の乗用玩具だけど、原則、室内で使うモノ。大きさはコンパクトで跨って移動して遊ぶものである。推進は足蹴り推進だ。まぁ、形的にはペダルの無い自転車ってもの。因みに、バランスバイクっていうのは前二輪、後一輪のダイエット系機材で別個のもの。

 超幼児向け自転車っていうのは、二三年前から、子供にいきなり自転車って形で注目を浴びた幼児車(これはシートポスト、ハンドルポストが調整範囲が大きいタイプ)や足蹴り自転車(成長に併せて駆動系が後付け出来る構造)があるけど、まぁ、似たようなモノである。バランシングバイクは対象年齢からみると早すぎの感も否めないけど、我が家の乗用玩具では既に物足りない状況があるからだ。
 因みに、我が家の乗用玩具としては、一般的なプラスチック製プーさんの乗用ミニカー(対象年齢1.5~4歳)、ロッキングホース(揺れる木馬、対象年齢2歳以上)、樹脂製RODY(樹脂風船式の乗用玩具、対象年齢3歳以上)があるが、全て豪快に使っており、想定を越えた暴走ぶりを見せているので、少々早いか?と思いつつ、対象年齢3歳以上の足蹴り二輪車であるバランシングバイクを買ってみたのである。(因みに、完全に屋外使用前提で過去に売られていたブリヂストンのキックバイク『KIX』の対応年齢は1.5歳~だ。『KIX』は金属製にゴムタイヤ、サドルハイトが35cm、木製バランシングバイクは全て木製、サドルハイトは40cm、対象年齢の差は、サドルハイトの差だろう。)
 息子の動き具合を観察すると、既に乗り物に体重を掛けて足蹴りで動き回るっていうのは、乗用ミニカーの走り具合から見て、殆どマスターしていると判断しているからだ。但し、他の乗用玩具と異なりバランスを取るって部分が多少の心配といえば心配なくらい。バランスを取る乗り物でコツを掴むには、大抵は転倒を経験するが、屋外での転倒はチョイ早いか?ということで、屋内でバランス感覚を磨けるタイプということで、バランシングバイクの中では最も小さく、金属部品を一切使っていないタイプをチョイスした。
 屋外使用ならば金属製でブレーキ等も必須だが、屋内使用ならば木製でOKで機能も相当にシンプル。それ故に重量も軽くなる。転けてぶつけても怪我のリスクが低いという目論見だ。

 これで屋内でバランス練習、屋外で三輪車でペダル漕ぎ、、、、、或る程度慣れてきたら、手押し棒を付けた幼児車を使って屋外で散歩って計画だ。自転車練習には、どう考えても早すぎるのだが、折角、お姉ちゃんが居て、その遊びに興味を示して真似たがるならば、それで真似れるフィールドを与えるのも悪くないと思い、自転車に乗ることよりも、自転車風のオモチャで姉弟で遊ばせようっていうのが狙いである。

 さて、このオモチャの問題は、お姉ちゃんが嫉妬して独占使用しかねないか?って所が心配といえば心配だが、果たしてどうなるだろうか?まぁ、お姉ちゃんの一輪車が入荷してからの投入になりそう。ホントは、クリスマスプレゼントだから、そういうタイミングだけど、手に入れば先行して遊ばせたいと思ったりするのだ。

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2008年12月10日 (水)

夜の繁華街

 今、忘年会シーズン真っ盛りである。夜の繁華街は人混みでごった返している、、、、、、ということは無く、割と閑散としている。殆どの勤め人は、終バス、終電迄に帰宅モードに入っており、真夜中の繁華街を闊歩するのは、学生以下世代が殆どのようだ。

 この秋から急に不景気っていってるけど、好景気とされていた夏以前も含めて、夜の繁華街でタクシーが捕まらない事は有り得ない。客待ちタクシーが所狭しと停まっているのが現実、、、、、この状況は、もう十数年以上続いているように思う。

 タクシーが捕まらず、タクシー乗り場に丑三つ時を過ぎても人が待っていた時代もある。たしか、平成二年頃。学生時代の合コンの帰りにタクシー乗ろうか?って時には、タクシー待ちで1時間なんてザラだったけど、当時と最近の夜の街は随分と雰囲気が違う。

 まぁ、不景気っていうのもあるけど、自分自身、ここ十数年以上の間、一度も不景気を実感した事もないが、何となく、夜の街が遠退いているのが現実。

 大学時代を振り返ると、殆ど毎週のように合コン、同級生との飲み会が連続して、殆ど、飲み代のためにバイトって状況でも過言では無い。そんな時代。合コンといえば、待ち合わせ前に居酒屋で腹ごしらえ、その後、当時でいうワインバーとか、ショットバー、西洋居酒屋を一次会、二次会にはカラオケパブ、三次会にボーリングかビリヤード、、、、、四次会は各自勝手な行動ってパターンとか、一次会以降には今で言うクラブ?、当時ならディスコに午前零時迄しっかり遊んで、その後が、ロック喫茶とかジャズ喫茶、その後が故人行動、、、ってパターンだったような記憶があるし、それが凄く楽しい毎日だったようにも思う。
 当時、学生時代はバブル期と重なった事もあり、毎月一の位が1の日(1日、11日、21日)が給料日で15万円以上の現金収入を得て、夏休みとか冬休みとかの講習会シーズンは超バブル状態で財布の中には万札が唸っていた時代だが、そういうのもあって、今思えば、ありとあらゆる繁華街の店を制圧したように思う。当時で言えば、学生同士で遊ぶ時以外では、所謂、オッサン系盛り場等々も殆ど制圧していたような感じだし、女子大と合コンってノリでは、チョイシャレ系の異国料理、コース料理も一通りって感じ。仲の良い同級生とは、料亭とか小料理屋、寿司屋とか、、、、ホント色んな事を思い出す。学生期にバブルを満喫していたのは確か。思い起こせば、当時の年収と今の年収、比べると当時の方が多いのが笑える。それ故に、単車を2ヶ月足らずで複数乗り換えたり、買い増したりできたのだ。

 そういう時代を学生時代に過ごし、その時代に見た、社会人が夜な夜な繰り出す光景を見て、家族は良いのか?って学生ながら思っていた記憶があるのだが、そういう思いが今に生きているのか、社会人生活以降では、夜の歓楽街に魅力を感じなくなってしまったのが素直なところ。大抵の店を見ても、未だに目新しさを感じる事はない。夜の盛り場の設定は、殆ど昭和のままだ。今思えば、そんなに美味な料理も出会う事は稀、、、、

 で、忘年会シーズンで夜の歓楽街を歩いても、冷めた感じばかり。あんまり、ワクワク感が無いっていうのが正直な感想。昔はお酒は大好きで、学生時代からカクテル、洋酒は日常的に飲んでいたし、下宿生活では、たしか『クレスト』か『響』を常に買い置きして出掛けない時は毎晩飲んでいたような記憶がある。

 しかし、そんなお酒大好き生活は、卒業以降ぱったりととまり、今や歓迎会や忘年会程度で酒を飲む程度。それ以外では酒は全く飲まなくなってしまった。

 酒、夜の歓楽街、、、、この辺に、既に楽しさを見出す事が出来なくなってしまったのが、今の自分である。何の関心も湧かないし、飲み屋でネーチャンと話しても面白くない。食うモノも酒も今一である。

 個人的には、夜の盛り場というか、そういう外食の場で楽しいって思うのは、やはり飲みまくるよりも、人との会話を楽しむ事。会話の相手は誰か?っていうと、不特定多数と話しても面白くない。敢えて言うならば、同じフィールドで生きながらも、個人の意見を持った人とのコミュニケーションというところ。実際、研究会や学会の発表の場の後の懇親会等では、やはり楽しいと思う。話す程に、この人は凄いなぁ!って関心する事が多く、そういう時程、そういう場に参加出来る事に喜びを感じるモノ。
 それ以外では、、、、結婚前に、一対一で異性と話目的に出掛ける事くらい。
 考えてみると、コミュニケーションの目的は、あくまでも相手であり、場所はどうでも良いっていうのが素直な感想。そういう場自体が目的にはならないのである。

 昨今の不景気で夜の歓楽街が寂しいっていう以前に、ここ数年、タクシーの運転手さんが嘆く夜の盛り場の人の少なさの原因の一つには、夜の歓楽街に魅力が無くなってしまった事かもしれない。歓楽街自体が旧態然としているのが原因だろう。こういった所も、その場所自体が目的となるような営業努力が無いと、永久に寂しいままのようにも思うのである。

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昔ゴジラは面白い。

 11月の終わりから自宅で一人ゴジラマラソン上映を行っている。
 取り合えず、昭和ゴジラシリーズを運動しながら視聴しているのだが、初代ゴジラは1954年、昭和29年の作品、その後、ゴジラの逆襲、キングコング対ゴジラ、モスラ対ゴジラ、、、、と続くのだが、モスラ対ゴジラでも1964年、昭和39年の作品だ。

 そんな作品なんで、視聴する前は、どうせチャチで映像的には古いだろう!って高をくくっていたのだが、、、、現実は、全く逆の印象。

 古さを感じるとすれば、登場人物の服装、登場シーンの機械等形状(CRT、モニター、メーター、スイッチ、指示ランプから車、単車、バス、建物、電車等々)程度。ゴジラ画像の迫力とか、壊されるジオラマの壊れ方等は、寧ろ現在の作品等に比べると圧倒的にリアルで臨場感があるよう思う。

 現代の映画はCGが発達したせいか、全てCGで賄う感じだが、CGシーンっていうのに頼りすぎると、画面で詳細な情報を伝えたいという欲望からか、映像の核心シーンが画面の一部に制限されるためか、全体的に質量感の無い作品が多いように感じる。しかし、昔の映画はCGに頼れないために、実写とジオラマを上手く組み合わせての表現で、その表現に迫力を出すためには画面の構図、音声等も相当に練り上げられているのでは?と思うのである。
 建築物が壊されるシーン一つでも、建築物の映像は最初は実写、その背景にゴジラが登場しても基本は重ね合わせ映像、で、迫り来る状態に併せアングルを切り替えながら、ゴジラが建物を壊す瞬間に実写映像と殆ど同じアングルのジオラマセット映像に切り替わり破壊される様子が写される感じである。それ故に、その破壊される建物は記憶の中では実写映像が刷り込まれているせいか、破壊のシーンがとてもリアルに見えるのである。
 更に、ジオラマ一つにしても、破壊のプロセスにおけるコンクリートからの鉄筋の露出とか、瓦の一枚一枚の動き、ビルの窓ガラスの破壊の様子といった細部が実に細かくリアルに動くようにセットされている様には驚きを隠せない。そんな感じなのである。

 ストーリーも今見ると、初期の作品に限り、それなりに筋の通ったメッセージ性が伴っており、大人の鑑賞に堪える映画かなぁ?って純粋に思うのだ。途中、怪獣が連発して登場し始めてからゴジラが正義の味方になってからは、ストーリー的には怪獣モノというよりも擬人化しすぎで物足りない。良いなぁと思うのは、ゴジラ、ゴジラの逆襲、キングコング対ゴジラ、モスラ対ゴジラってところ。その後のキングギドラ登場以降はチョイ違う。エビラとか、ミニラとか、、、チョット悪ふざけ過ぎだ。その後の、ガイガンとかメガロとか、、、よせばよいのにって感じ。やっぱりゴジラは悪役でこそ嵌るもの。初期4作以外で、主観的に何故か好みなのは、ヘドラとの対決モノ。ヘドラは、初期のゴジラ的コンセプトに近いからかもしれない。
 

 さて、この記事を書いているのは、結構早い段階だけど、12/5~6に掛けて、平成ゴジラ、ミレニアムゴジラが一気上映されている。これも録画する予定だが、昭和ゴジラから平成、ミレニアムゴジラに到るまで全巻収録予定である。
 こんな記事を書いていて思い出した事、、、そういえば、平成モスラ三部作っていうのも以前、WOWOWだったか知らないが、見た覚えがある。あれも結構面白かった。序でに放送すれば良いのに、、、、

PS 記事公開前だけど日本映画専門チャンネルにて、今度はモスラがHDで放送されるんだそうだ!来年3月公開予定!、、、、、これは楽しみである。

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2008年12月 9日 (火)

ビンテージピストバイク作成計画、起案中、、、、

 実は先月末に、行きつけのニシダサイクルさんでレストアベースの自転車を頂いた。
 それは、、、、、片倉シルクのピストレーサーである。これ、低温溶接ってシールが貼ってあるラグレスフレームで剣先メッキ、塗色は白、フォーククラウンは二段肩である。当然、ブレーキを付けれる構成になっていないモノ。

 なかなかカッコイイものである。

 因みに、この自転車、ニシダサイクルさんの先代社長さんが販売されたモノ。そのユーザーさんが、もう乗らないからって理由で、ニシダサイクルさんに戻ってきたモノ。それを、乗るなら直して乗れば?って経緯でやってきたモノ。

 ニシダサイクルさんには、スーパーライトのレイノルズ531で組まれた小林氏製作のロードフレームを頂いたり、或いは、様々な自転車製作では懇意にして頂いて、いろいろとパーツを工面して頂いたりしているのだが、今度は、先に紹介したような経緯を持つピストバイクである。

 このピストバイク、見ると、先代社長さんの顔が浮かんでしまうのだが、折角だから綺麗に直して動くようにしようと思っている。
 でも、そういう経緯でお店に戻ってきた自転車でもあり、直して乗るけど、基本は、先代社長さん縁のビンテージバイクと並べてディスプレーしておきたいって気持ちも強くあるのだ。

 一応、基本的な構成はなるべくそのまま残し、小綺麗に組む予定。シルクのフレーム、ホイール周りはハブは流用するけど組み直し、それ以外はNJS認定のトラックパーツで固め、吉貝のブレーキキットを装着してみよと思っている。
 取り敢えず、このシルクのピストの完成を来年の目標にしようと思っている。

 なお、以前から計画していたところの、今乗る固定シングルのフレーム交換も来年度中には完了したいところ。今度のフレームは見た目はトレンドから思いっ切り外れているかも知れないけど、スケルトンというか、ディメンジョンというか、そういう部分は、思いっ切り自分好みなのだ。楽しみである。

 それにしても、乗ろう!って気持ちが持ち続けれる自転車は、今のところオ・モイヨWW号と固定シングルのラングスターTTが殆ど。ラングスターTTは実走で毎週60km以上走ってるし、その次がスピママ号でポタ中心で60km程度、オ・モイヨWW号はそれに次いで30km以上ってところ。次がルイガノ改で月に20km程度、小林ロードはローラー中心で毎日30kmというところ。西DAHONは年に1度の100km程度のサイクリング、BSロードは未だシェイクダウンのみで飾り状態。実走で乗ることを楽しむって自転車に限ると、ラングスターTTとオ・モイヨWWのみである。

 前にも『捻くれ者』って記事を書いたけど、小径折り畳みならマニアが否定的な横折れ式でド鉄が良いし、固定シングルピストバイクなら、同じく不人気なアルミ製スローピングフレームが良いのだが、シルクのピストが完成したり、或いは、ラングスターのフレーム交換後は乗車頻度はどう変化するだろうか?

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コスプレ系バカピストには中身が無いだろう。

 12/4の木曜日の昼休みでの出来事。大州街道を横切るコースで昼ポタ中の話だが、往路、復路で別々のクロモリピストバイクを見た。ブレーキは確認しなかったけど多分付いてなかったように思う。どちらもロードバイクのレーパン、レーシャツ、ヘルメットって出で立ち。多分、平生はロード乗りなんだろう。レーパンスタイルなら脚がモロ露出しているから、脚みるとスプリント競技者か否かは想像が付くけど、少なくとも本職さんでは無いと思う。もしかしたら、一方の方はホントは運動さえしていないのか?と思えるほどに貧相な体型。
 因みに、自分の居住地区には、所謂、本職さんが住んでいる様子だが、その方の脚の太さ、特に脹ら脛、太股の太さは遠目に見ても尋常でないから、そういうのと較べると歴然としている。

 さて、そんなピストバイクだったけど、これまでピストバイクっていうと街中でファッション感覚で乗る人が多く、それをロードバイクユーザーが下げ荒む風潮が見受けられたけど、木曜日に見たのは、通常はロードバイクユーザーが、それ系のスタイルでピストバイクに乗っている。でも、本職さんとは違うんで、所謂、コスプレ系ピストバイクなんだろうけど、これをコスプレ系と揶揄するのは、復路で見かけた白メット、ピンクジャージの出で立ちで、貧相な体格、特に割り箸のような脚を曝しながら、チョイレトロ入った白のクロモリピストに乗って何の躊躇もなく信号無視二連発で走り去っていったのを見たためだ。

 ロードバイクの信号無視もいつものコースで見かけるけど、こいつら、ピストバイクに乗っても普通に信号無視するみたい。多分、アホだろう。

 まぁ、救いは往路で見かけた青系フレームに黄色ジャージのピストに乗った人。ブレーキは付いていたかどうか覚えていないけど、少なくとも、信号はしっかり守っていた。体型的にも、復路でみた貧相兄さんに較べると、少しは見られる感じで、日常的に運動をされている様子が伺える。この人とは、最初の信号待ちで同じで、その後違うコースを走って、その先の交差点で再度遭遇したのだが、少なくとも信号は守ってた様子。
 でも、復路で見た奴は頂け無いなぁ、、、、、。

 それで思ったこと。昔の人は良いこと言うなぁ、、、、格言を思い出したのだ。

『健全な精神は健全な肉体に宿る』

 ということ。機材、装備を揃えても、中身が鍛えられてない奴は、モラルや道徳を律する単純で基本的な事さえ普通に出来ないって事。実際、身体が鍛えられているって状態は、『継続は力なり』で、積み重ねを欠かさず行ってきた結果であり、その続けるという行為を続ける事が出来る気持ちが、普通に守るべき事を無意識に行えるって事に繋がっているんだろうって事。

 そういえば、ピストバイクに限らず、ロードバイクでも、小径でもなんでもだが、キャンキャン挑発的な奴ほど、並進、逆走、信号無視、集団占拠を平気でやる。そういう基本的な普通のことが普通に出来ないってのは、そういう道徳心が養われていない事。そういう心では、強い心が無いと得られない鍛えられた身体は得られない。やっぱり、パッと見た目で、強いか弱いか?そういうのが判るっていうのは、強ち間違いでは無いと思うところだ。見た目、強そうな人っていうのは、日頃の継続的な取り組みがあって得られる体型等雰囲気が強うそうに見せる訳で、そういう継続的な取り組みが出来る心っていうのは、やはり、最低限度である市街地における信号遵守程度は無意識に従うのだと思う。
 どの道、速度が稼げるような走行環境でない市街地で信号の一つさえ守れないようなバカは、気持ちも余裕が無ければ、そうやって走り続けて意味が無い事にも気付いていない訳であり、そういう無神経さ、無知さが乗り手に本当の力を与える筈が無いのである。

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クリスマスプレゼント♪

 先々週の日曜日にチャレンジングな取り組みで後悔したのだが、懲りずに次の一手を考えている。
 次の一手っていうのは、どの分野か?っていうと、1歳5ヶ月の息子に自転車というか、そういうモノに乗せるってチャレンジである。

 屋外においてペダル外し、補助輪付き、手押し棒付きとは言っても14インチの幼児車は剰りにも巨大過ぎるっていう記事を先日アップしたところ。考えてみれば、ペダルが漕げないからといって巨大な自転車でペダルを外して乗せて大丈夫な筈は無いのである。ペダル付きの三輪車さえペダルに足を乗せようとしない訳であり、冷静に考えれば親が無謀なだけなのだ。

 しかし、室内ではプーさんの乗用玩具に跨って激走しているし、木馬に跨って揺らさずに激走しているのが現状。この姿を見ると、なんとか激走させたくなるのである。
 但し、ペダルは漕げない。ハンドル操作で方向をコントロールするのは、プーさんの乗用玩具で既にOK状態、、、、、

 そんな状態を考えている段階で、クリスマスプレゼントは何にしようか?と検討中なのだ。

 振り返れば、上の娘の乗用玩具系の取り組みは?っていうと、二歳で三輪車、三歳で14インチの幼児車(補助輪付き)を与え、4歳で14インチの補助輪無しデビュー、5歳でキックボード、年長さんに進級してから20インチの18段変速のジュニアMTBってステップを踏んでいる。
 下の息子は、娘と同月齢レベルで身長、体重とも二周りは巨大であり活発。今が一歳五ヶ月であり、このクリスマスに何か与えて、二歳で三輪車~補助輪付き自転車、三歳で14インチ補助輪無しデビュー、四歳でジュニアMTBと行きたいなぁって思っているところ。

 色々と案があるけど、興味が一瞬湧いたのがチョイ前に雑誌等で見た『三輪車パスして、いきなり自転車』って奴。これは、いろんなタイプがある。ベーシックなモノから、折り畳み、舵取り、、、、で売り文句は適応身長が83cm~115cmということ。

http://www.people-kk.co.jp/showroom/jit/jit_top_construction.htm

 二三年前のブリヂストン製でも見掛けたし、外国製の中には、駆動系が外せるタイプで、成長に応じて、駆動系脱着、手押し棒脱着、補助輪脱着が可能なモノもあったりする。確か、ブリヂストンのモデルはKIXって名前のバイクだったと思う。

http://www.cyclestyle.net/news/detail/185.html

http://www.nikkeibp.co.jp/archives/342/342905.html

 このKIXは既にラインナップから外れており、多分商業的には失敗だったのだろう。

 そんな処だが、既に新品同様っていうか痛んでいないお下がりの三輪車と幼児車があるし、手押し棒も買った後だし、重複用途の乗用玩具を買うのも無駄を感じるのである。
 この間、14インチの幼児車で頭を怪我させたが、今の段階では14インチの幼児車であっても巨大なのだが、これがアッという間に小さくなる。それ故に、10~12インチクラスのいきなり自転車を買っても、使う時期はホンの瞬間で終わる危惧もある。メーカーサイトにあるように2~6歳迄使えるっていうのは、これは親にとってのメリットでしかない筈だ。

 それで、出来れば今ある傷みの無い三輪車、幼児車を活用させることが出来て、これらと重複しない遊び方が出来る乗用玩具を調達したいところ。

 こういうマルチ機能自転車もまぁ、悪くないのだが、どうもピンと来ないのが自分の感性だ。っていうのも、別に金が無いのでなく、必要か?って考えた時に納得出来ない部分があるのだ。
 そう、娘の三輪車を買う時も、ペダルフリー機構とか、ステップとか、いろいろな装備の三輪車があったけど、敢えて極シンプルにしたのは理由がある。それは、子供の立場になって、どうにかペダルが漕げるか?って状態になった時に、複雑な機構故に大きく重くなるのは結構な負担かも?って考えたからだが、適応身長83cm~115cmっていうのは、2歳から6歳迄って事。これは、、、、、親の経済性を考えたら良いかな?とも思えるけど、2歳児には重量で12kg以上の車体は厳しいし、6歳児になるとクランク長も短すぎ、トップ長も短すぎだ、、、、年代に応じて乗り分ける方が子供は快適か?と思ったりするのである。実際、上の娘は5歳児で18段変速でウヒャウヒャ言ってるので、そういう年齢に併せたモノを与えるのがベストだと思うのである。

 そういう考え方で子供が年齢事に快適に遊べ、尚かつ、持っているモノ(娘のお下がり)の活用出来る組合せ条件を満たした一品を探して調達する予定。

 親バカなバカ親だけど、勉強も何も出来なくて構わないから、男の子だから自分より上手く二輪車を扱えるように!っていうのがたっての希望。
 クリスマスプレゼントとして息子に与えるモノ(あくまでも乗用玩具、二輪運転に慣れるモノ、、、、)を検討中なのだ。娘には既にオーダー済み。これ、どっかの記事(ブログか日記)に書いたような気がするけど、ニシダサイクルさんに16インチの一輪車をオーダー済みである。

 因みに、自分は一輪車には乗れません。乗った事は在りません。乗る気もありません。自転車での一輪走行、単車での一輪走行は楽勝ですけど、一輪車での一輪走行は無理です。

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2008年12月 8日 (月)

疾病について更に深く考えてみた。

 さて、前の記事では、糖尿病や脳梗塞といった生活習慣に起因する重大疾病、或いは、それに影響を受けているだろう癌等の腫瘍、関連が認められるような認知症、広義ではライフスタイルによってリスクが増減するであろう感染症といった疾病については、大きくは、対策や準備が可能という認識を持っており、その対応に疎いというのは、或る意味、種族淘汰フィルターによる必然かも?って書いたけど、その反面、疾病と闘ったり、治療による後遺症と闘う個人を見ると、考えの中には感情による意見も出てきたりする。

 先日のニュースでは子供の脳腫瘍に関する現状を紹介した特集が組まれていたが、脳腫瘍って疾病は、放っておくと死に直結するという絶望的な認識が一般的であり、それ故に、患者(子供)の保護者は、医師の診断に任せて治療を行うという。
 治療では、物理的な手術による腫瘍の摘出、放射線照射による腫瘍除去が為されるようだが、どちらの術を選んでも、後の人生に多大な影響を及ぼす後遺症を伴う事が多いという。
 その一例が報道で紹介されていたけど、ある例では、摘出し辛い部位の腫瘍を摘出する際に周辺組織に傷がついたため?か、食欲で満腹感を得る事が出来なくなった上に、太りやすい体質になってしまったとか、最初の診断で放射線治療が必要という事で治療を受けながら、その後の診断で実は良性で治療の必要性が小さいというのが判ったけど、既に繰り返し行ってきた放射線照射の影響で、記憶力が著しく低下したとか、、、、他にも腫瘍摘出後の術後診断で、何時まで経っても脳内の陰が消えず、放射線治療を繰り返したが、再度の手術で脳内に綿を置き忘れていたのを腫瘍と誤認したために、重大な後遺症を負う事となった放射線治療を受けてしまったとか、、、、、そういう症例を見ると、なんとも言えない気分となる。

 親の立場として、子供にそういう重度の疾病が襲いかかれば、藁をも掴む思いで医療を受ける反面、その医療行為によって様々なリスクを覚悟し、そのリスク原因に必然性、或いは、過失性という、いろんな側面がありながら、最終的には、患者自身に重い十字架を背負わせ、患者が子供の場合は、親にも相当な負担を与えるのは事実であり、その当事者となれば、当然、何故、自分だけが?我が子だけが?って思いを持つのも事実だろう。

 腫瘍や癌といった異常細胞や、先天的な疾患、或いは、解明されていない難病っていうのも、当事者にとっては100%該当っていう事実であり、それを患うのが人間である限りは、本人に意識や感情がある。その当人の思いの程は想像出来ないが、そういう悲しい思いをさせない事が重要である。疾病とは、その発症した本人に、発症の起因となる要素があるとは限らないもの。その起因要素が、外的な医療行為であったり、親等の以前の世代の何らかの生活習慣による異常の蓄積が遺伝したり、前世代の異常が母子感染のような形で伝えられたりする場合もある。そういう事を含めて考えると、疾病で悲しい思いをしている人を減らすためには、その周りの人間の意識も、いろんな行為、習慣が次世代の誰かに災いをもたらすリスクが有り得るという事を認識しなければならないと言える。

 増えすぎた個体数が自然の掟に応じて一定に保たれるっていう原則も生物の原則だろうけど、知能を有する人間の世界においては、知能を活用して得た医療的知見、医療技術っていうのも、種族を守るための本能的な活動の結果であるのも事実であり、健全な状態を失った人達を守るための医療行為というのも、或る意味、種族を守る本能というか本質の現れでもある筈である。
 そう考えれば、コロニーで生活を保っている人間界では、疾病と闘う個体を社会全体で守ると言う事こそ本能的でもあり、経済条件、社会条件といった別の価値観で受けれる医療に差が生まれることはナンセンスであり、そういう原則に則った医療政策等が本当は必要なんだろうと思う。

 人間も生物であり、生物の原則でいうと、機能を活用しない生活が機能喪失による疾病状態を招く。その疾病の発症が、該当世代に限らず、様々な形で現れるモノである。
 しかし、他の生物と違い、次世代を生む数っていうのは極めて少なく、生まれたモノを守る本能的な術として、知恵を授かっているのも事実である。その知恵が種族保存のために医療という形で蓄積されている。そうやって蓄積された知恵は人間の生きる術であり、その術は、医療行為を必要としている人には等しく分配されなければならない筈。これが基本であり、この事は、人間は、個体の見つけた新しい知恵を後世代に続ける事で種族を守るのが本質であり、結局は、知恵を次世代に続けるに必要な営みを長年に渡り行うのが定めということ。それを実践するには、まずは健全に生存すること。そして新たな知恵を生む事が必要で、健全性の維持には、持てる人体機能をフル活用する事のみが有効と言う事を認識し、そうやって一世代で長期に活動することで得る知見を文明として昇華するのが定めである。その一端が医療技術という形で残っており、それを生きる意欲も持つ個体に還元することで、種族の個体数減少に歯止めを掛け続けなければならないのである。そんな風にも考える事が出来る。

 これを裏返して冷徹?に言えば、機能を活用せず堕落した方向のみに流れる個体は掃滅すべきであり、己の行動が、他の個体(感染させてしまうような他人とか、母子感染、遺伝による異常の伝達)を汚染している事を気付かない個体も抹殺しても構わないとも言えるもの。更には、種族の生存率を上げる上で必須となる文明のレベルを高める事を放棄した(酷く言えば、好奇心を持って発見に喜びを見出せないとか、新しいモノを生むに見合った努力(学問)に取り組み放棄した)モノも種族淘汰の対象となっても仕方ないとも言えるのである。更には、歴史的な活動の積み重ねで得た医療技術を施すには、その医療行為を受ける事に制限を付けるような社会とか政府に存在意義は無い訳であり、また、その行為の実践においては、受ける側が不運や不幸に見舞われないような最高の安全体制と取り組むルールが絶対に必要なんだろうと思う。

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インフルエンザ、流行急拡大中!

 この季節は、表題のインフルエンザネタがニュースを賑わす時期である。
 最近は、新型インフルエンザが何時登場するか?ってニュースが話題の中心で、パンデミックワクチンをどうするか?プレパンデミックワクチンをどうするか?タミフルの確保は?感染確認されたら対策はどうするか?ってニュースが通年で多く、序で、従来型インフルエンザでもタミフルが効かない耐性タイプも登場したとかのニュースも聞く。

 そんなジェネラルな話題とは別に、現実の話として、今年のインフルエンザの流行が始まったってニュースが先週辺りから聞くようになってきた。
 今年のインフルエンザは、流行が最も速かった昨年に次ぐ感染状況を示しており、今年も例年以上に速くから流行が始まった模様。

 そういうインフルエンザだが、普通のインフルエンザであっても幼児、高齢者は感染すると重大な事態を招きかねない疾病の一つ。インフルエンザが重症化すると最悪命を落としかねないのである。
 話が逸れるけど、自分の単車関連の友人も、彼の家族(子供)が貰ってきたインフルエンザに感染し、それから肺炎を併発、最終的に気胸という肺に連続的に穴が開く症状に陥り手の施しようの無い状況となり若くして命を落としている。たしか、4年ほど前の話だが、そういう事態もあり得る訳だ。

 そういう事もあり、それまでは比較的安心し、根拠無く自信を持っていたのだが、それ以降は、敏感になってインフルエンザ対策を家族ぐるみで講じている。インフルエンザ対策の第一は、帰宅してからの手洗い、うがいの励行である。それと、人の多いところではマスク着用という事。これだけで、相当に感染リスクを減らすことが出来る筈である。
 そのような日常における配慮に加え、今はインフルエンザの予防接種を家族ぐるみで行っている。

 インフルエンザの予防接種は保険適用外であり、接種を受ける医療機関によって価格はまちまちである。更に、幼児では二度の接種を受けないと駄目である。我が家の場合、四人家族で幼児二人であり、子供が2回接種を受けるので、トータルで6回の接種が必要なのだ。自分の受けた医療機関では、一回が2,500円なので合計15,000円となる。結構な出費なのだ。

 インフルエンザに感染して重症化しないためには?っていうと、一般的には、休養をしっかり取り、栄養をバランス良く取り、体力を維持しておくって言われているが、これは身体の免疫機能を高める事を意味し、免疫機能を高めるためには、体力を高めた健康状態で居れって事。この辺は、癌、糖尿病対策で言われている事と対して変わらない事である。

 但し、この一般論に対してチョット気になる話が、新型インフルエンザでの致死率の推算の例でテレビで紹介されていた話にある。その話によると、インフルエンザで致死率が高いのは、中年世代以降よりも青年期を中心とした若年世代であるって話。実際、ネット上でもそういうニュースは見つける事が出来る。

http://mainichi.jp/life/health/news/20081202ddm013100144000c.html

がそうだ。ここから関連を引用すると、

『新型インフルエンザになると予測されている強毒性鳥インフルエンザ(H5N1型)ウイルスに感染した場合、5割以上の人が死亡している。しかし、専門家を驚かせているのが抵抗力が高い若い世代での致死率が7割以上と高いこと。

 世界保健機関(WHO)は03年11月~08年9月、確定診断された375人の患者を調べた。それによると、10代の致死率は76%と最も高く、次いで30代の74%、20代の71%と続いた。これに対し、70歳以上は25%、9歳以下も47%だった。

 一方、通常のインフルエンザの致死率は0・05%にとどまる。亡くなるのは、免疫が未発達の乳幼児や肺炎などを併発する可能性が高い65歳以上がほとんどという。』

 その話の根拠は、若い世代程、体内の免疫機能が激しく反応し、その免疫機能が過激さに身体が耐えられなくなり死に至るという話だったけど、それを言うと、体力を高め、免疫機能を高めておく事が良いとする一般論と矛盾するのでは?って印象だ。
 そんな矛盾を説明する原因が『サイトカイン』ってモノ。サイトカインは免疫細胞が感染によって分泌するタンパク質だそうだ。そして、免疫力が高い程、サイトカインが大量に分泌されるとされている。
 多くのサイトでは、元気な世代においてサイトカインが大量に分泌された免疫機能の過剰反応による状態、これをサイトカイン・ストームと呼んで死に至るという話を、恐らくは専門的な情報源から転記していると思われる。

 しかし、免疫力=サイトカイン分泌量という定義で、何故に大量に分泌されるか?迄を説明しているサイトは見つけれない。

 興味深いのは、他のインフルエンザでは若年世代の抵抗力は極めて高いという点であり、このサイトカインの分泌っていうのは、生体が経験したことのないウイルスか否かが、分泌量に影響を及ぼしていると想像される。サイトカイン自体が相当に多くの種類が存在していると言われているが、それぞれに役割を持つモノであり、更に、その組合せによっても新たな機能を発揮するもの。そういう多種に及ぶ機能を特化した物質が予め体内に準備されているとは考えにくく、自然な考えでは、生体システムに外敵となる物質と遭遇する経験から、生体防御システムが働き、それに最適な免疫力を生み出す信号としてサイトカインの選択と組合せが決まるのでは?と考えるのが自然である。

 種族にとって未知の感染症がサイトカインの過剰分泌と言われるサイトカインストームで死に至るという説明を仮定すれば、生体としても、個体としても感染経験が少ない状態で、新たな感染を受けた時に、その感染症状の類似な感染経験に併せて、様々なサイトカインが分泌されるという事態をサイトカインストームと呼んでいるのか?と仮定することができる訳だ。

 案外、ワクチンっていうのは免疫を作るためって言われているけど、その免疫という言葉の中には、適応型サイトカインの選択の雛形、情報を生体に与えているという要素もあるかも知れない。

 まぁ、何にしろ、未知との遭遇は控える事が重要であり、この新型インフルエンザが発生したかも?って情報は、恐らくは海外との人の出入りの拠点、或いは、人口集積度の高い地域、或いは、鳥類が集積している地域からもたらされると思うので、そういう第一報が届けば、即座に、自分の家族は冬眠体制に以降し、必要な資材の調達は自分一人で行うというスタイルになりそうだ。
 

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疾病とは、進化の試練、淘汰のフィルターかも!?

 健康診断の結果が帰ってきたよ!月間で、疾病関連の記事を大量アップ中である。
 そんな自分だけど、自分の考えは、知識も論理も伴っていないけど、考え方の基本は、人間も自然も全部同じもの。その系における変化、反応というのは規則性を持っているという考え方。正しいか、誤っているかは問題でなく、自分自身の考え方がこうだ!っていう前提の話である。
 その基本となる考え方っていうのは、全ての事象は複雑に絡み合い、全ての現象は一定の法則性を持っている。更に、その変化には必然性が必ず存在するというもの。つまり、世の中で起きている問題には、全て理由があり、必然性があり、方向性が決まっているということ。そう思うのである。そこには、感情も何も無しで、客観的に考える事が大事なのである。

 そうは言っても、人間は我が身が可愛く、自分にとって悲観的な事は考えたくないって本能があるのも事実。それゆえに、考える時にはテーマに対して客観的に見える立場でないと記事は生まれないのである。只、書き手が客観的に書いているのに対して、読み手は、なんらかの検索ワードで辿り着く訳であり、内容に対しては主観を持つのである。そうなると、結構、悲観的な印象を与えている場合もあるかなぁ?と心配したりするのだが、そこはコレ、この記事は、個人の思い付き日記のブログであり、公共性は殆ど皆無故に問題無いと判断している。

 さて、そんな前提で、病や疾病の意味をずっと考えていた。
 最初に考えたのは、個体に起因する疾病。ガン、糖尿病、認知症等の外的生物に起因しない疾病の類。これらについては、最近の記事に度々記載しているとおりに、何れの疾病も奥底で繋がっており、疾病としての発症は、複雑な生体システムの局所的な破綻が起点となって現れた症状という理解。そして、複雑な生体システムの維持は、生体機能の活用のみによって可能であり、生体機能(つまりは、人間という種族の進化のプロセスで洗練淘汰されて獲得した機能)を休眠状態としたり、他のモノで代用した時に崩れる生体バランスの結果が疾病として現れるのでは?ということ。
 此処で言う人類という種族の持つ機能っていうのは、食に置いては肉類、植物を同時に摂取するに叶った口を活用し栄養を摂取する習慣であったり、運動機能においては二足歩行であったり、知能面でも道具を使う思考回路であったり、歴史を積み上げて文明を発達させる知恵であったり、好奇心という本能で発明を繰り返す欲求であったりするもの。こういう本来備わった機能の意味であり、長きに渡る進化の過程で獲得した機能を保持出来るか否かが疾病に冒されるかどうかの分かれ道であり、進化の過程で得た機能を休眠させるモノほど、進化の歴史に反した存在という必然から、そういう個体に成人病とか癌という疾病が襲いかかり、結果として淘汰の対象(機能を休眠させる者=噛まない、歩かない、考えない奴ら)となっているのでは?という仮説である。

 その次に考えた意味っていうのは、例えば、ウイルス、細菌による感染。悪性新生物とよばれるような癌や前段症状の良性腫瘍、或いは、様々な不治の病と呼ばれる感染症、、、、いろんな病があるけど、そういう病は何故に存在するか?存在する時に宿主外の生物が何故に宿主を死に至らしめるのか?そんな事を考えたりしていた。生物っていうのは、本来、生存本能があり、感染性疾病に冒されたとしても、その原因であるウイルス、細菌自体も存在する必要がある筈なのに、何故に、感染先生物を死に至らしめるか?或いは、感染自体しない腫瘍細胞が何故に固体を死に至らしめるか?を考えると、個体のみを見て考えると、理解し辛い部分が多々ある。
 ところで、世界を見渡せば、人間同士が殺し合う闘争(宗教、経済格差、人種・・・・)も随所で起こっているし、地域固有の病が発見されたり、、、という状況である。

 そんな状況を見ると、これはもしかしたら人間という種族の進化のプロセスの一段階に過ぎないのかなぁ?と思う事があるのである。進化という言葉は、機能の洗練であり、洗練というのは、淘汰の結果生まれるもの。淘汰の結果というのは、種族において祖先を繋ぐ時に必須の考え方。環境の変化に耐えられる、耐性の高い個体のみが命を繋ぎ、種族を逞しく変化させる事が進化であり、その進化の流れに乗れない個体を間引く現象に過ぎないのかなぁ?と思うのである。全ての現象、事件、疾病というのは、人間という種族を強化するために必然的に起こっている状況に過ぎないのか?と思うのである。
 そう考えると、細菌やウイルスが宿主である個体を殺すのではなく、種族にとって合理性の無い個体を間引いているだけか?と思えば、客観的には納得できるのである。

 現代社会においては、様々な化学物質が出回り、それを口にする状況となっているが、それによって疾病を引き起こす、或いは、問題が生じないとパターンは様々だが、結局、そういう劣悪環境にも耐えられる個体の選択現象の一つなのか?とも考える事が出来るのである。
 こういう世の中で、淘汰されない側に残るには?って考えると、これはシンプルに考えるのが一番では無いか?と思うのである。結局は、種族として強い側に残るということであり、それは、生物としての進化の歴史に照らし合わせれば、本来持ち合わせている機能や器官を如何に休眠させることなく活用出来るかの只一点に集約されると思うのである。機能や器官を活用するっていうのは、結局は、言ってみれば人間らしい生活の事。食習慣、運動習慣、知的好奇心追求の習性を実践する以外無いのである。食習慣において、近年急激に普及しているサプリ類、特保食品類、合成甘味料、保存料に偏らない、横着志向で運動しない癖にならない、自分の頭で自分の答えを出す思考を保つってことである。こういう自然な?生活こそが、生体機能のフル活用に繋がり、生体機能の平衡安定性の確保と免疫機能の強化に繋がり、淘汰される側からの脱却に繋がるのでは無いだろうか?

 このような話を、絶滅した恐竜に当て嵌めて話したり、技術競争の生き残った技術史説明で論じたり、或いは、自然界の食物連鎖等々から遺伝、淘汰、進化論的に話すと誰もが客観的に受け止めるけど、これを人間に当て嵌めると、人によっては不道徳であるとか、情が無いとか、モラルが無いといった印象を与えたりするかも知れない。
 しかし、人類って種族も、多くの生き物の一つ。生き物自体が生体反応の連鎖によって活動しているのも事実であり、身体の構成物質も、元はといえば、全く関連のない所で使われていた元素だった筈。結局は、生物における進化の原則、自然科学における反応論、平衡論に従った挙動を示している筈であり、そう思うと、感情論、道徳論を剥がしていくと、純粋に反応の原則、進化のルールに基づくと結構非情な意見になるのである。

 感染の有無に拘わらず様々な疾病が存在するが、疾病自体が、人類を淘汰するための進化の試練のようなモノとも思える。その試練に打ち勝つのは、種族進化の過程で得た能力を如何に活用出来ているか?によるもの、、、、そんな風に考えるのである。

 改めて思うのは、知的好奇心養成のために単車、自転車に傾注し、運動能力確保のために、水泳、筋トレ、自転車を続け、自分で考えた主義に基づいた行動で生活を営んでいきたいものと考えるのである。
 この最後の一文である、自分で考えた・・・・って意味は、局部的な情報に煽動された習慣を持たないって意味。例えば、ある物質が発癌性・・・・って言われたら、それを極度に避けて他のモノに偏る習慣になったり、或いは、CM的に身体によいって言われているものを集中摂取という風に情報に極度に左右されないって意味。氾濫する情報の意味、本質を理解している筈もなく、安全という公称が真実か?という判断が出来ないならば、そういう見かけの情報に影響されすぎるのは、逆に、バランスを失い、習慣の偏りを生みかねないから。自分の知識で自分の判断で行うというのが大切。瞬間的に聞いた話で揺らぐモノほど愚かな行動は有り得ないのである。

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2008年12月 7日 (日)

簡単!?スポーツ心臓の作り方

 表題のようなキーワードで検索に訪れる方が結構居る。
 さて、自分はスポーツ心臓か?っていうと、医者から診断を受ける事は在るけど、自覚としては、自身はアスリートでもない中年サラリーマンだから、まぁ、スポーツマンハートとは違う、サラリーマンハートだと思っている。

 だから、心臓の能力?心肺の能力?のファクターである数値を見てもホンネの部分では、ピンと来ないけど、今のレベルを医者がスポーツ心臓と判断するなら、そうなんだろうと思っている。

 因みに、最新の計測値では、
・最高心拍数:202bpm(自転車で実走計測)
・安静時心拍:35bpm(起床直後に計測)
・平常時心拍:45bpm(勤務中の時折計測)
・肺活量:5400cc

って状態。まぁ、一般的な尺度で見ると、安静時心拍数は激低で、最高心拍数も激高な状態らしい。ただ、その数値が偏っているって認識を持ったのは最近の事で、同じ様な数値を持つアスリートの人が居るって話を聞くと、『へ~っ!』って思う程度だったのだ。それで、スポーツ選手の方と近い数値であるのを自覚して、もしかしたらスポーツ心臓?って思っている次第だ。因みに、診断されがちな病名ではⅠ度心房ブロックという名の不整脈があったりする。

 さて、そんな自分の事は置いておいて、一般論的にスポーツ心臓を作るには、如何にしたら得られるか?を考えると、、、、、

 心臓っていうのは、筋肉で横紋筋組織で出来ていながらも、不随意筋でもある組織であり、通常の筋肉と違い意識的に運動させる事は出来ないのである。意識的に心臓でベンチプレス等出来れば鍛えるのは簡単だが、それは出来ない相談なのだ。
 では、心臓の筋肉が何故に肥大するか?如何に肥大するか?肥大のパターンは如何なるパターンか?を考えると、、、、これは、他の筋肉と同じであり、筋肉の運動次第だと言えるのである。心臓の筋肉の強化は、筋力が求められる場合に生じるもの。どんな場合か?っていうと、大きなストロークで大量の血液が求められる場合である。もっと言えば、大量の酸素が身体から要求されて始めて心臓が変貌を遂げようとするのである。

 つまり、身体の各部が大量の酸素を連続的に欲するような状況を維持することで、間接的に心臓が鍛えられる訳である。結局は、筋力、筋持久力の強化が心臓の強化に繋がる訳である。
 ところで、心臓は大動脈を通して各部に血液を送るのだが、送る血液の利用先が分かれていても送り元の心臓は一つしかない。ならば、心臓に大量の酸素を送らせるようなトレーニングを行うには、、、、それは、全身の筋肉を導入した長時間の運動を行うしかないのである。局部の運動に如何に大きな力を発揮させようとも、全身の運動が欲する酸素量には及ばないのは、動かす筋肉の総量を比較すれば一目瞭然である。
 つまり、心臓に大量の血液を送らせる能力を与えるには、長時間の全身運動、、、、殆ど答えは一つだが、水泳しか有り得ないのである。
 そんな水泳を行う事で低負荷ながら全身運動で心臓に大量の酸素(血液)を送らせる力を宿らせたならば、スポーツの種別に応じて一番機能を支える筋肉の筋力と筋持久力を鍛える事で、全身運動で作ったスポーツ心臓の酸素をくまなく使えるようになるのである。
 仮に、ターゲットが自転車ならば、水泳で心臓を鍛えながら、10RM程度の下半身系筋トレをサーキットトレーニングで組み込んで鍛える等も一方法であろう。

 それを続ける事で、使う筋肉の強化、増強と心臓の強化、肥大が叶うのだろう。

 但し、一般に生物成体の細胞数は成長後は不変であり、成長後の変化は肥大のみによって与えられるというから、成人以降において、強化を望むので在れば、相当に長い年月を掛けて鍛錬をしなければならないし、強化習慣を怠ればアッという間に、得たスポーツ対応力は失われていくだろう。仮に、成長過程にある若年世代が、そういう習慣で取り組めば、肥大+増殖による強化が叶うために、スポーツ対応力の完成の速度も速く、仮に、将来、習慣を中断しても、比較的簡単にスポーツ対応力の復元が可能であろうと言える。

 それにしても、不随意器官である心臓を鍛えるっていうのは、他の筋肉を鍛えるのとは訳が違い、相当に長い期間が必要なのは言うまでもない。更には、少々の運動では、そういう対応力を備える状態にはなかなか到らないのである。

 自分の理解するスポーツ心臓の作り方は以上である。考え方は超シンプルで簡単なものだと思う。但し、これが実践できるか?っていうと、それは願う人の思い次第とも言えそうだ。
 客観的に、他人事的に考えると、スポーツ心臓っていうのは、こうやって作るんだろうと思う。そういう客観性で見ると、まぁ、普通のサラリーマンよりは多めで長めの運動量を長期間続けてきている訳で、医者の言うようなスポーツ心臓風味になっているのかなぁ?と思うのだが、本物のアスリートのスポーツ心臓っていうのは、理屈は簡単ながら相当の鍛錬で、幾らでも鍛えられるんだろうと思う。

 そういうスポーツ心臓の究極の例が先に記事にしたランス・アームストロング選手(安静時心拍数32~34bpm、最高心拍数201bpm?)なんだろうけど、もっと身近(物理的に近い所に住まれているっていう意味)に居たりする。
 心臓を極度に鍛える事が要求されるスポーツが、所謂トライアスロンなんだろう。広島県の三原市在住のF選手なんかがそうだ。トライアスロンの日本代表で、所謂プロのトライアスリート。その方のサイトを覗くと、鍛え上げられた肉体が如何なるものか?が良く判る。凄いモノである。まぁ、そういう状態は手に入れようと思っても、手に入れれるものでは無い。そんなモンだろう。

 こういうスポーツ心臓が欲しい!ってノリで検索されてるかたは、流行のせいか、自転車趣味人が多く、スポーツ心臓の用途を速くはしるためって目的のようだが、バリバリのトライアスリートを目指して超ハードなトレーニングを行われるのが一番簡単で、最も近道だと思う。
 まぁ、俺的には、目指すはスポーツバイクを操る山岳ワインディングツーリストなんで、そういうのは目指さないけど、、、、目指す人は、トライアスリートな方々のサイトが参考になるだろう。

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コンパクトクランクブーム

 なんだか最近は、このブログとメインサイトのコンパクトクランクの記事にアクセスが集中しているようだ。

 という訳で、コンパクトクランクに対するネット上の意見を検索してみた。すると、、、、おぉ、、、みんな大崇拝しているようだ。殆どの人が異議を唱えていない。異議を唱える人の意見には、言ってみれば幼稚な意見(私の判断で)が多い。下りで回りきるとか、重いギアで踏む機会を失うとか、、、

 で、コンパクトクランクが何故流行しているか?っていうと、ギア比をデジタル的(単に単独のギア比のみで)に判断した時に絶対的にロールアウトが短くなり、踏む力が軽くなるということ。それに尽きるのである。で、軽いギアがカッコイイ!って事がトレンドになったのは、今話題?のランス・アームストロング選手がツール7連覇の偉業を成し遂げた時の漕ぎ方、軽いギアで高ケイデンスが合理的って認識が一般的になったこと。そんなところだろうか?

 しかし、これに否定的な意見を持つのが自分。勿論、軽いギアが大切。沢山回して漕ぐ方が楽だけど、だからといって、その方法論がコンパクトクランクには行き着かないのである。

 その理由の一部は、過去記事、メインサイト記事にも記載しているので割愛するけど、世間一般でいうコンパクトクランクに感じるデメリットというと、純粋にクランクのアウターとインナーの比率が大きすぎであり、前の掛け替えで、後の併せ方が煩雑になるって話と、前のワイド化でチェーンのたすき度合が大きくなるって話を書いたと思う。

 でも、実はもっとイヤな部分があるのである。

 それは、、、、、高ケイデンスで回した時の脚の回転数への追随性の問題。

 一般に高ケイデンスで回す程、出力が同じの場合は踏むトルクが小さくなっている。その分、回転数が高いのだが、、、、この回転数自体が無尽蔵に変化させる事が出来ないのが自転車の面白いところ。例えば、70rpmで走っている人が90rpmに(絶対的には+20rpm、相対的には+28.5%)対応させるのは可能だが、90rpmの人が同じ回転数だけ上昇させた時は110rpmだが、同じ回転数比率を挙げようとすると115rpmとなる。そうやって、漕ぐ基本回転数が高くなる程、上げれる回転数比率は小さな値となる。回転数を変化させれる幅が広い程、離れたギア比が踏め、逆に言うと回転数変化の幅が狭い程、ギア比が近くないと踏めなくなる。

 高回転志向のペダリングでは、走行負荷の変動を回転数を保ちながらペダルを踏む力を一定に保つという前提であり、負荷変動に細かく対応できるようにペダルを踏む力を細かく調整しなければならない。それが出来なければ、回転数で調節しなければならないのである。
 だから、回転数の高い巡航走行では、負荷に応じてギア比を選ぶ時に微妙に重い、微妙に軽すぎるという状態を実感するのである。

 つまり、高ケイデンスで回転の変動比率を抑えて漕ぐっていうのは、踏む力が小刻みに変化させれなければならないのであり、そのためにはカセットセットの歯数の隣接比が小さくなければならないのである。これは、想定回転数が高い程、ギア比の隣接度合がタイトでなければならないという事である。
 元々、ロードバイクっていうのは、そういう使われ方が前提で、概ねギア比は1T飛びのクロウスレシオとなっているけど、1T飛びで使う歯数領域が何処か?によって、隣接度合が違う訳だ。例えば、11-12-13T辺りでは、1/12=8.33%となるけど、18-19-20T辺りでは5.26%となる。これだけ違うと漕いだ感じ随分違うのである。

 だから、思うのは、脚力の無い人が高ケイデンスを狙う程、カセットの隣接度合をタイトに組むというのが正解だということだ。これは、コンパクトクランクの結果とは正反対である。ギア比端部におけるロールアウトの絶対値では同じだけど、使用領域でのギア比のアナログ的な繋がり具合は全く別物である。
 コンパクトクランクでカセットセットを11-21Tとか12-23Tというのは、回転数が高い漕ぎ方をする筈なのに、カセット側の隣接比が通常クランクのままということは、それで回転数の高い漕ぎを入れた時に変速による負荷の変化率が大きくなり、その変動負荷がダイレクトに膝に響くのである。これは、コンパクトクランクで高回転ペダリング推奨という論理に反する状態だ。
 逆に、通常クランクセットでカセット側のクロウス領域を大きい歯数域にすると、高ケイデンスでの漕ぎを入れた時に負荷変動を小さく保つ事が出来るのである。

 因みに、これは自転車以外の世界では常識的な発想だ。単車等で高回転型にする程に、回転で出力を稼ぐ分、負荷トルクの影響を小さく留めるために、多段且つタイトにミッションを組む。これが所謂クロウスミッション。
 自転車で、何故に高回転化するのに、相対的なミッションの隣接比がそのままで、負荷トルク側から見ると変動比が大きくするような組合せがブームになるのか?

 これは、甚だ疑問なのである。

 すくなくとも、コンパクトクランクで軽いギア云々を言うならば、通常の11Tとか12Tトップでなく、13T、14Tトップのカセットでクロウスレシオを用いた方が随分快適(トップ歯数が大きいと実使用域においても1T飛びで作れるから)だと思う。
 回転数を高めで走りたいからって言う人は、コンパクトクランクよりもリアカセットの見直しをすべきだし、それでも重ければ、フロントのアウターを48Tとか50Tに変えるだけっていうのが本来の姿の筈。
 フロントインナーに34Tが欲しいっていうのは、回転数を高めたいためっていうのは言い訳で、実は楽して坂を上がりたいっていうだけの筈だ。そこで、見栄を排除して楽に坂を上がりたいっていうのなら、単純にMTBのカセットでも組めば済む問題なのだ。

 で、どんな漕ぎ方が楽か?っていうと、ここからが勝手な持論。

 ペダリング回転数を上げるには、漕ぎ方と踏む力の両方が必要だ。但し、低回転で回す時程、踏む力の割合が高くなる。つまり、脚力が弱い人程、出力を上げる場合に、踏む力という筋力に依存しない技量という部分で対応出来るのである。そう、回転数が高い程、実質的な筋力不足を補えるのも正論なのである。
 ということで、自分は相当にケイデンスを高めるトレーニングを自転車部時代に行ってきた。無負荷ローラーなら240rpm程度は回るし、今の負荷付きローラーでも220rpmは回る。実走では、固定シングルだろうが小径折り畳みだろうが最高速度を記録する時は170rpm以上は回っている。で、最低回転数で100rpm、速度維持走行時は120rpm以上が通常となっている。
 こういう回転域で走る時は、どんなギア比を使っているか?っていうと、前50Tで後は18~21T近辺だ。速度的には40km/h前後って状態。こういう速度域は一寸した風速の変化、路面の変化、自分の疲労に併せて細かくギアが選べる方が失速が最小となる。そういう状態でギア比が近接しているのは実に扱いやすいのである。

 で、本論に戻し、、、、単純に軽いギアで坂上りを楽にするのならコンパクトとかMTBカセットで良いと思うけど、軽いギアで高回転を踏むならば、カセットのクロウス領域の隣接ギアの近接度(レシオ比率)に注目するのがお奨めである。

 結論、自分は、そういう使い方であり、コンパクトクランクのように前の掛け替えで後探しが煩わしくなるような組合せは今一である。
 仮に、コンパクトクランクベースというならば、インナー34Tならアウターは42T程度、それでクロウスのCSを併せるって方が自然。中にはトリプルのアウター外しって人も居るけど、トリプルのアウターを外す時点でQファクターはトリプルと一緒。ならば、どうせアウターは使わない訳で、Fメカもトリプル用が必須ならアウターギア自体も外す必要も無いのでは?と思う程。

 とまぁ、此処まで書いてきて、コンパクトクランクの定義は?っていうと、これが良く判っていなかったりする。PCDが110mmのクランクセットの総称か?アウター50Tの総称なのか?或いはインナー34Tの総称か?だが、仮にアウター50Tならば素人には重すぎ。インナー34Tの意義なら高ケイデンスの説明には合致しない筈。不思議なもんである。

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復帰するアームストロング選手がガンに勝ったのは?

 アームストロング選手が来年のツールを目指し、チーム・アスタナから復帰するってニュースをブログで取り上げたのが秋の事。

http://replica2st.cocolog-nifty.com/diet/2008/09/post-c89a.html

 が、その記事。このチームは現代の絶対的なエースであるコンタドール選手がいる。アームストロング選手が過去に7連覇を遂げたのも凄いけど、直近の14ヶ月で三大クラッシックレース(ツール、ブエルタ、ジロ)を全て制覇してグランドスラムを達成したコンタドール選手もまた凄いもの。自転車レースではエースを勝たせるためにチームが存在しているのだろうけど、この二人のどちらがエースなのか?は興味が尽きないところだが、、、、

 今回、アームストロング選手をブログで取り上げたのは、復帰云々ではなく、睾丸のガン(精巣癌)に冒され、それが脳や肺に迄転移していながら、その後、復帰後のツール制覇と、ブランクを置いての再復帰というのが驚異的ともいう。そして、彼にとっては、『ツール7連覇』って称号よりも、『末期ガンからの生還者』って称号が嬉しいという。

 この話は、11/28にフジテレビ系で放送された『人体再生ロマン』の中で、アームストロング選手と、それを応援するガンと闘う少女のエピソードで聞いたもの。この番組でも、アームストロング選手のガンは、当時の宣告で20~50%の生存率と紹介されていたけど、実際の生存率は2%以下だったという話も在る程に末期的な状況だったという。そういう状況からの生還でありながら、ツール7連覇に到ったのは、アスリートとしての地力+ガンとの闘病で得た強靱な精神力、それに加えて、ガン患者支援の姿勢の原点の一つとなった番組で取り上げられた少女との約束があったのだろうか?

 良く判らないが、地力という基本は当然必要ながら、ガンとの闘病を経験していなくとも、或いは、そういう少女との出会いが無かったとしても、結果には結びつかなかったのかも知れない。

 因みに、アームストロング選手は、元々生粋のトライアスリート。そして、その三種競技の中でスイムに関する能力がずば抜けていたという。スイムでは1500m~4000m級の中長距離を得意としており、オリンピック候補レベルだっと聞く。そして、この時代から自転車競技選手時代を通して、安静時の心拍数は、日本女子マラソンのアイドルだった高橋尚子選手並の35bpm以下(因みに最高心拍数は201bpm)だったそうだ。
 過酷な有酸素運動を続ける事が、その心肺機能を作り上げ、それがアームストロング選手の自転車競技生活における成績の一因にもなっているようだが、そういう身体能力自体も簡単に身に付くものでない。
 ガンに冒される以前に、そういう身体能力を身に付けるというのは、相当に過酷な運動を継続的に行ってきた証明でもある。運動強度の高い有酸素運動を長時間を長期間に渡り続ける事は、なかなか出来るものではない。そういう持続性があったからこそ、生存率の低い末期ガン状態からも過酷な治療に耐え生還する事が出来たんだろうと思ったりする。結局は、ツールで7連覇したのも、末期ガンから生還できたのも、アームストロング選手の持つ性格的な要素が一番だったんだろう。驚異的な執念と実行力、持続力である。目的のために行動を続けれるっていうのは、結果を信じれる事であり、信じれるっていうのは、やはり、その分野を相当に深く理解して納得出来ているという背景があるに違いないのだ。

 そんなアームストロング選手も来年は38歳でツールにチャレンジする訳だ。今年はやりのアラフォー世代の活躍を期待したいところ。

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2008年12月 6日 (土)

インサイト量産型発表!しかし、、、

 そういえば、ホンダから来年登場予定のインサイトってハイブリッドカーの量産型の写真が発表された。これは、その前段で発表されたコンセプトカーと殆ど一緒。

 デザイン的には、プリウスにも似ているけど、見ようによってはサイバースポーツCR-Xにも似ている。それにドアを4枚付けて、グリルを今のホンダ顔にしたような感じ。
 何よりも良いのは、そのサイズで全長4375×全幅1695×全高1425mmって大きさ。実に扱いやすそう。ユニット周りはシビックハイブリッドを踏襲しているようだが、そんなユニット云々以前に、車としてのパッケージサイズに魅力を感じる。

 当然、ATオンリーだろうけど、こういうサイズの普通の車が普通に登場する事を願うばかりである。でも、初代インサイトはハイブリッドでありながらMTの設定も在ったはず。
 有り得ないけど、仮にMTが存在したら買っちゃうかも、、、、。

 この記事を書いた後の追記となるけど、なんでも、ホンダがF1活動から撤退するという、、、第三期のF1活動では辛うじて1勝を挙げているが、第二期以前と比べるとホンダ自身が望んだ実績には結びつかなかったのは残念。

 100年に一度と言われている金融危機。そのダメージを最初に受けている国内産業が自動車産業だが、ここ最近は、非正規雇用労働者の契約打ち切り、工場での稼働停止、減産というニュースが飛び交っていたが、遂に、企業イメージ活動分野であるモータースポーツ活動においても休止、撤退が現実のモノとして現れてきたようだ。

 今回のインサイトのような低コスト、低燃費の実用車の開発競争は更に激しくなっていくだろうけど、モータースポーツ活動の休止という風な、贅沢的、趣味的分野の投資は相当に削減されていくのだろう。案外、ホンダを始め、トヨタ、マツダ等でも計画されている超高額車、超高性能車等も全て白紙になるのでは?って思うところ。

 それにしても、まさかホンダがF1撤退を決心するとは驚きである。しかし、ホンダイズム、ホンダアイデンティティーの一つであるF1活動を停止しなければならないほどに、経済状況は深刻な状態なのかもしれない。
 ホンダの動き一つ見ても、チョイ前の原油高なら営業戦略上に相当の追い風を受けたであろうインサイトの発表、そして、急激な経済情勢の悪化によって追いつめられたF1撤退、その一方で、2.4Lながら400万円をオーバーするようなアコードの発表と、実際の経済状況の変化に企業活動が追随仕切れていない状況にも見える。それ程に、経済状況の変化は急激なものなのかもしれない。

 しかし、あのホンダをして、F1撤退で経営資源を集中させるという選択をしている訳で、それは、今後来る景気悪化が相当なものであることを暗示しているようにも見える。日本企業において、新しい価値を創造するという点で、ホンダに勝る企業は無いと思うが、その企業のF1撤退という判断は相当に大きな意味を持っているように思う。

 見方によっては、ホンダ撤退を嘆くモノもいるだろうけど、これからの自動車に求められる価値観の変遷に対してF1のエンジニアを投入して乗り切ろうという意思表示ともとれる。ホンダにとってF1撤退は、派遣雇用の打ち切りを進める上で身を切る事を示すためというレベルを超えた決断だろう。その先がどうなるか?は読めないが、今回の決断に対しては直感的な思いだが、後の新しい価値観の自動車産業においてホンダが業界を席巻しているような気がするし、その未来においては、今の判断の即断さが賞賛されるのでは?と思うというか、思いたいのである。

 個人的に、日本の自動車メーカーで、今後の円高デフォルトの市場環境で付加価値を持って競争できる唯一のメーカーがホンダだと思っており、逆に言えば、日本ではホンダしか生き残れないかも知れないとも思ったりするところだ。根拠は、やはり他のメーカーに無い視点と創造性、事業分野の多様性で、多様性と創造性こそが付加価値を生む原動力の他ならないという持論に基づくものだ。

 ホンダが、そのアイデンティティを失うモータースポーツ活動は、F1ではなく、多分はMotoGPだと思うのである。それは宣伝効果云々でなく、企業の教典のような存在に思うからだ。

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円高、失業、倒産、不景気、、、、

 表題のような事を希望するような事を言うと怒る人が多いだろうなぁ、、、、

 でも、今回の金融危機?で政策協調かなんか知らないけど、再び政策金利が引き下げられている。金利を引き下げて量的緩和政策に戻るのか?って印象。そもそも下げ代が殆ど無い0.5%から金利を引き下げるっていうのは、実効果が期待出来ないとも言われていたもの。それでも、下げてしまった。

 金利を下げて、例えば円高抑制に効果があるか?っていうと、殆ど皆無な状態。それは、だれもが判っていた事。今の金融危機の一端は、過去の量的緩和政策に責任の一端があるように思うけど、、、、、

 そんな危惧の中、前日銀総裁は、警鐘を鳴らしている。

 で、そういう政策を宣言したにも拘わらず、マーケットに改善の徴候は見られず、寧ろ円高にシフトしている状況。

 この夏以降、急激に経済情勢が変化して自動車産業を初めとして急激な景気悪化が訪れているってニュースを良く聞く。水曜日の関口宏さんのNFって番組でも東京都太田区の様子や、自動車会社の企業城下町における景気後退の様子を紹介していたりした。

 その中で、コメンテーターのコメントで、1991年以降のバブル崩壊では不景気の原因が国内にあったからまだしも、今回の金融危機は国外の影響を受けており、何故に国内が不景気に曝されるのか?って類のコメントが、先の太田区の町工場の状況と絡めて話されていたのが印象的だ。

 しかし、自分的には、今の金融危機の発端の海外での消費拡大、経済活動の活発化っていうのは、各国の金融の量的緩和政策、その中でも図抜けた日本のゼロ金利政策が海外の消費意欲の煽動に方分を担いだように思うので、或る意味、責任が海外にあるとは思えないのである。量的緩和、ゼロ金利による大量の資金投入と、国内生産品の海外での価格競争力の付与による輸出産業による旺盛な輸出行動で実力以上の潤いを享受した十年では無かったのだろうか?或る意味、円安バブル(海外の消費意欲を煽り、価格競争力を背景に利益を独占してきたのでは?)のような印象なのである。
 このような政策誘導で強制浮揚されていた景気に舞い上がった企業経営者のツケを今から払っていかざるを得ないように思うのだ。

 グローバル化が進んだ現代において、製品製造を担う地域は社会の成熟度に従って変遷していく(国の基幹産業が変化していく)のが原則であり、その通りに、繊維工業、造船、機械といった産業は欧州から米国を経て、日本、そして韓国、中国、更には東南アジア諸国が担うように移っていくモノであり、それが自然な姿である。産業が移ってしまうと、何もなくなるか?っていうとそうでなく、製品に新たなる価値を与えたり、新しい価値観を作り出すのが先進国の宿命であり、特に資源を持たない国家にはそれが強く求められるっていうのが定め(本来の国家戦略)なのである。
 そういう視点で、アメリカは自動車産業の次代産業として、軍事、航空、宇宙、半導体を経て金融に目を付けて市場をリードしようとしており、欧州各国も、環境技術、環境に関する価値観創世で市場をリードしようと覇権を争ってきたのであるが、日本は、既存産業に固執するかのような産業界からの圧力により、ゼロ金利による強制的な円安誘導による価格競争力を武器に10年を過ごしてきたように見える。

 その判断が成功か否かは別として、アメリカは政策として産業の柱に金融を据えるというビジョンがあったし、EU圏では環境に関する価値観創出を産業の柱に据えるという戦略の元で動いているが、日本は旧来の基幹産業を保護するためだけのゼロ金利による円安誘導での保持競争力保持という対処法に留まっていたのであり、本来なら1995年における1ドル80円の時代に、そのレートで勝負できる価値感を創出する取り組みを行うべきを、後回しに10年以上の時を過ごしてきたのが現在のように見えるのだ。

 その古い前提(円安が当然)の価値観では、価値創世の意欲を企業が失ったために、現代の問題が難題として残っているようにも見える。例えば、大企業における非正規雇用労働者の割合が多いってことは、企業に留まり価値観創出に寄与する人の率が減ったと言う事。つまりは、新しい技術や知恵が生みにくい状況を作っているようにも見えるし、中小零細企業における技術にしても、匠の技と言えば聞こえは良いが、作る課題(品物)が無ければ動けないという状態は、よく聞く言葉だが、『町工場=待ち工場』を表しているようだ。モノは作れても、価値は生み出せない事に問題が在る事を認めていない現状を映しているように見えるのである。待ち工場とならないような大企業が欲しがるニーズを先行して取り組む小回り性こそが小企業集団の持ち味であり、それを売りにする時期に来ているとも言えるのだ。

 1ドルが80円でも勝負できるような価値と価値観の創世こそが、急激に産業が発達しているBRICs等新興国と共存する唯一の条件なのでは無いだろうか?どんなに高性能であっても、国内製造業が製造する製品の性能に対する市場の要求レベルは、後進国の製品でも不満の無いレベルに達しており、これは、日本車がアメリカ車、欧州車を席巻したように、家電から産業機械迄、今度は日本製品が後進国製品に席巻される時代に移りつつ在る訳で、その流れは止めようがないのである。その必然に対する価値創出の仕組み作りを官主導で行うのが本来の姿の筈だ。

 物づくりに誇りを持つのは良い事だが、製造や設計という定型的な手順のみで満足しているようでは未来は無いように思うのである。価値を生み出す仕事こそが最重要であり、何処に何が求められているか?を見抜く嗅覚と、具現化するアイデアこそが匠であり、それを具体化する作業こそが、後工程である設計や製造を活用し、産業を安定化させる唯一の作業のように思うのである。

 仮に、日本における企業の中で、その主力製品が30年以上変化していない企業や、製品製造の競争相手が後進国の中で生まれ、着実にシェアを奪われつつある事態があるならば、そういう企業は、主力製品の次代の製品、或いは、その製品技術を利用した別の価値観の創出に務めなければジリ貧になるのは間違い無いだろう。少なくとも、現行製品で競争相手に技術的先進性を奪われた時点で、勝負は付いてしまうのである。

 そういう事実を受け入れて、次の手を打つには、企業として体力のある今の時点で、もっと過激な経済環境の悪化を経験した方が、次にどうするか?を真剣に考える機会を経営者に与えるようにも思うのである。経済環境の悪化を静観するようなスタンスを続ける事自体が、他国の追い上げを許す時間を与えるって事実が見えない訳であり、もっと危機感を感じるような経済環境の変化が寧ろ好ましいかもしれない。

 国の施策としては、考え方を改めて、そういう新しい時代に対応できるような景気対策をすべきであり、アホみたいな定額給付金とか、公共事業とか、、、そういうのはチョット違うように思うのである。

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'68年以来39年ぶりの自動車販売落ち込み

 先月の国内新車販売は68年以来、39年ぶりの低水準、前年比27.3%減なんだそうだ。
 今回の金融危機で自動車業界が不振に陥るとかの話が出る前に、世界が好景気に沸いている時から国内市場の不振は囁かれてきている。
 これまで、国内市場の不振は兎も角、海外向けが好調だったせいで、好調な業績を上げてきたが、ここに来て海外市場の冷え込みが急速に訪れて、自動車産業は大きなダメージを受けている模様。

 この変化は、この夏以降急激に訪れたもの。その変化に付いていけるか?それが各社の試練となっているようだ。
 さて、そんな変化が訪れる前の各社の方針っていうと、高級志向、高性能志向、ブランド志向で、高価格帯の高額車両の開発を強力に進めるっていう戦略が見え隠れし、今後数年の内に夢のようなスーパーカーが登場するなんてスクープも飛び交っている状態だった。
 しかし、世界市場の冷え込みで、そのような道楽的モデルが果たして登場するか?っていうと、かなり怪しい雲行きになってきたのでは?っていうのが素直な感想である。

 このような業界の動きはそれぞれ単独なものか?或いは、関連しているものか?を考えると、これは関連したものと言えそうだ。

 話が二転三転するけど、自動車が国内市場で売れなくなった理由。それは、色んな所で語り尽くされているけど、言えるのは自動車が夢の道具、遊びの道具、楽しいオモチャで無くなったのが原因。自動車が冷蔵庫、洗濯機、扇風機といった家電のような耐久消費財と同じ扱いになったのが原因なんだろう。動けば良い。壊れなければ良い。簡単な方が良い。手間は不要。、、、、、そんな価値観、そんな尺度で商品選びをされているのが原因とも言える。それが、燃費志向の車、コンパクトカー、ミニバンという実用車が売れる背景にあるんだろう。そんな事は、誰でも気付いていること。判っていること。
 でも、現実に自動車が夢のアイテムで無くなったのが最大の理由と言える。

 思い起こせば、80年代というと、自動車でドライブ、自動車で峠、自動車でナンパ、、、、、そういう世界が広がっており、自動車は遊びの中で大きな武器ともなり、自動車自体が遊びの目的でもあったけど、今は、遊びのアイテムとは異なっているのが現実。より深く言えば、80年代以前、自動車自体が遊びの目的だったけど、80年代には道具としての使い方が生まれ、それ以降は、自動車自体が目的となる状況が無くなってしまったのが本当の所。道具となると、必要なのは快適性。家具的な意味合いが強くなったとも言える。
 一説では、自動車が面白くなくなったって意見もあるけど、自動車自体、昔も今もそんなに変わっていないし、絶対的な性能は寧ろ向上しているはず。唯一の違いっていうと、MT設定が異様に少なくなったって事くらい。

 現代において、自動車自体が遊びの目的だよ!って価値観が通じる世代っていうのは、先の80年代以前の世代。つまり、そういう世代ならば、自動車自体が遊びの目的として捉えられるかも?ってマーケットリサーチの上で、高級高額車に面白そうなスポーツモデルが発表されてきたのだろう。

 これは、80年代以降に車と接した世代が変わったのでなく、多くのメディアで言われているように、80年代後半以降に車とファーストコンタクトした世代にとっては、自動車以外に楽しい事が沢山存在したということ。それだけの話なんだろう。
 それでも、自動車のニーズは、趣味的要素に加え実用目的というニーズも存在しているから、今程度の落ち込みで済んでいるのだろうが、趣味的要素のみで市場が支えられていた二輪業界は壊滅的な状況である。

 結局、自動車では、実用目的以外のニーズが消滅し、実用目的となると製品レベルの向上により耐久性が向上し、買い換えスパンが延びた事が、市場の冷え込みを加速させているだけであり、実用目的が殆ど無い二輪車では、市場自体が無くなったかの状況に陥っているだけであるのだ。

 自動車、二輪車の業界が盛り上がるには?って考えると、先行き暗いなぁっていうのが正直な感想。手軽に遊べるという例が提案されない限りは難しいか?って印象。手軽に遊べる提案が無いし、遊び方の提案も無い。相当に手軽に遊べる提案が無ければムーブメントは生まれない。最近は、パソコン、ゲーム関連でバーチャルで手軽に遊べる世界がライバルであり、それを上回る楽しさを超安価に提供できる世界が提案出来なければ厳しい印象である。
 そうでなければ、安価で長持ちな耐久消費財、家電的な市場に変貌するのだろう。今の時点で、家電的な側面が相当に強いマーケットとなっている。家具的なマーケットを目指しているのかもしれないが、それよりもオモチャ的なマーケットを目指さなければ、市場の若返り、活性化は難しいだろう。家電業界も厳しいし、家具屋も結構厳しい。

 そんな現状を打破するのは、そういうマーケットを創出する仕組みを整えるのが一番かもしれない。思えば、二輪業界はじり貧だが、二輪と四輪の間の存在ならば価格も安価で世に問える部分。今、空色ナンバーの原付ミニカー市場がプチブームだけど、原付ミニカーも原付二種ミニカー迄拡げて、最低でも二人乗りの125cc以下の四輪ミニカーなんかを原付免許で楽しめる世界に解放してやれば、四輪独特の楽しさを紹介できそう。
 そういう世界が作り出せれば、少なくとも低い敷居の段階で四輪自動車の操縦の楽しさを低年齢で体験できる訳であり、人間の成長では、10代の原体験が後に大きく影響することを考えれば、そういう制度を行政に働きかける等の取り組みも面白いかも知れない。

 この記事のこの部分を書いている段階で、殆ど自分の趣味的欲求になっているけど、仮に、125ccでスーパーセブンのミニチュア版みたいなのが30万円程度で変えるなら、即買いで遊びそう。10代で原体験させて二十歳前後でコンパクトスポーツに嵌める。こういうのが良いんでは無いだろうか?

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2008年12月 5日 (金)

蒟蒻ゼリー反対声明?

 先日、蒟蒻ゼリー復活を喜んだ記事をアップしたけど、月曜日に消費者団体が反対声明だそうだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081201-00000044-yom-soci

が、ネットニュース。

この人達は、正月に餅、ぜんざい、しるこ、雑煮、、、、食わないのだろうか?餅には、加熱時間、熱湯へ浸す時間なんぞパッケージに書いてあるの見た事無いけど、文句言わないのは、餅を食うにあたって皆が配慮するのを常識としているから。

で、蒟蒻ゼリーってダイエット食を子供に食わせる配慮が無い事が最も責められるべきだが、、、と思ったりする。言うなれば、筋肉マニアが摂取するプロテインは普通の人が食うものでもない。
 これが一般的で無いなら、もっと身近な例で、ピーナッツは幼児に食わせると大事になるが、常識的に5歳以降迄食わせないとされているが、そんな注意書きは見た事無い。ピーナツの破片を肺に入れて大変な事態になる子供もいるけど、それに対してニュースには為らない。

 そんな中、餅やピーナッツのように危険でありながら表示されていない商品に較べると、蒟蒻ゼリーは非常に不憫な気がするのは自分だけだろうか?

 消費者庁創設って話もあるようだし、消費者団体も結構色んなメッセージを発信しているようだ。消費者保護のため!って言えば、聞こえが良いと言えば良いけど、、、、なんだかなぁ?って思うのが正直な意見。

 似たような話ではPL(製造物責任)法っていうのもそう。その一環かもしれないが、最近の機械類には、色んなシールが貼ってある。眩しいとか、巻き込まれ注意とか、、、、直感的には、大きなお世話って感じ。

 他にも労働災害関連もそうだ。労災が起こる。原因を探す。手順化する。指導、教育する。、、、、これって必要?有効?って感じ。

 確かに怪我は良くない。事故も不幸な現象だ。でも、それって、商品や場所を提供する側の責任か?というのは常に思う。それを言うと、刃物は売れない。下手すると、工具も売れない、、、、、蒟蒻ゼリーも以ての外、餅もNG、ピーナッツも駄目、、、、、、チョコも駄目、、、、、、、ぜ~んぶ駄目。って感じに為りかねない。

 大体、何が危険か?何が大丈夫か?どうしたら危ないか?っていうのは、成長と共に学び身に付けるもの。その危険は育児の段階で親が伝えるモノの筈。

 もっと言えば、同時公開の記事にもあるけど、そういう予知が出来ず不幸な事態に陥る事自体が、種族淘汰の宿命と捉えることは冷酷だろうか?そんな気さえするのである。

 消費者保護は大切だが、保護の意味合いが違う。保護とは、消費者が自分で判断するための情報を偽り無く提供できる指導を請け負う程度で十分な筈。危険かどうかは、消費者が判断すべき。判断能力をもぎ取るような体制が、判断が出来ない人間の増殖に加担するようなものだ。他の記事でも再々書いているけど、自己判断出来ない奴は、俺的には存在価値無しとまで思う。危ないと書いてないからやったっていうのは、どう考えても変である。燃えさかる火を前にして、ここ安全だからどうぞ!って言われて火の中を歩く奴なんか居ない筈。本来なら見りゃぁ判る話。消費者保護を唱う制度や団体は、消費者が判断する際の情報を正確に表示しているかを監視するだけで他には何も必要ないのでは無いだろうか?
 自分の身を守る、、、これは、子孫を繋ぐ意味で親が子に伝えるのが生物の掟だ。そこを社会とか組織で行う事自体ナンセンスであるっていうのが持論だ。もっと言えば、自分で判断出来ないような個体は消えて無くなっても仕方ないとさえ思うのである。

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エイズって言葉を聞いたのは、、、、

 12/1は世界エイズデーなんだそうだ。
 最近は、難病から身近な病まで、病関連の思いを記事に書き留める事が多いけど、エイズっていうのも、そんな病の一つである。

 但し、病の恐さの方程式?で当て嵌めると、発症リスクが相当に限定される今、恐さの対象とはなっていないのが正直な印象である。エイズっていうのは、後天性免疫不全症候群の略であり、感染血液の輸血、体液交換による感染に限られるもの。今の時代、完全に治癒させる方法は見つかっていないのが現状であり、その感染経路、重傷度に加え、世の中に現れた時の誤った?認識から他の疾病に比べると偏見に満ちた扱いを受けた病でもある。

 そんなエイズって言葉を最初に聞いたのが、大学一年の時だ。時にして1984年の夏の事。未だ、日本ではエイズ患者が確認されていない時であり、その際の情報は、同性間の交渉、或いは、正常でない行為によって現れる病とか言われていたのを思い出す。これは1985年3月の事だが、実は1984年の9月の段階で血友病患者の内23人がHIV検査で陽性反応だったことがあり、実際は、より以前に潜んでいたのである。
 その後の記憶を辿ると1987年頃に初の日本国籍女性患者が異性間交渉で感染し、神戸で死亡が確認されたのがマスコミを賑わせていたのである。

 1985年頃っていうと、そう女性の社会進出も在ったけど、それ以上に、風紀的に退廃的な方向に進み始めた時代。合コン等も結構荒んだ状態がデフォルト、女子大生ブランドブーム、深夜番組のエスカレート、、、、そういう時代がスタート?した時のように思える。
 時代的にはバブル開始直前であり、その後の、風紀の状態が爆発的なエイズの感染者数増大に影響を及ぼしているとも思える。

 当時を振り返ると、当時の時点で既に病には相当に臆病であり、リスクの多い行動は禁じ手としていたのだが、当時の周囲というと、さすがにHIV感染を聞いた事は無いけど、STD関連は結構居たように思う。HIVの検査、これは怖いから受けないって人も多そう。日本では、風紀の乱れから考えると予想外に感染者数は少ないともいえるが、把握されている数が少ないだけだろうと言える。風紀、風潮が、臆病さを超越しているように思える。恐らくは、相当に大量の数の感染者が居るのでは無いだろうか?

 治癒する疾病ならば、後悔を後の生活の懺悔に取り入れる事は可能だが、全ての疾病がそうであるとは限らない。エイズに限らず、癌、認知症等々、陥ったら完全回復が困難な疾病が存在するが、そういう疾病に襲われてからあたふたするでなく、健全、健康な内に、健康に対して意識を持ち、臆病な程に物事を考え対処するっていうのは実は大事な事でもある。後悔って言葉、後から悔いても駄目って事。悔いる前に臆病になる。これは大事な事である。
 それ故に、公的制度を信用したがために受けた各種の薬害患者に対して、その疑いがあれば、政府は最後の最後まで徹底したケアを施すのが国家の責任とも思える。

 昨今の訴訟では、当時の責任者の責任追及が目立つけど、そんな事よりも、誰彼が悪いという前に、時間を失いつつある患者に対するケアを施す体制を作るのが何よりも先決だと思ったりする。

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一歳児に自転車は早すぎた、、、

 11月最後の日曜日にはチャレンジングな育児をしてしまった。って言うのも、1歳5ヶ月の息子に自転車に跨らせ押して遊んでみたからだ。室内では86cmの身長と活発さから随分と早く大きくなったなぁ!って思っていたのだが、外に連れ出すと、やはり一歳児である。殆どミニマムサイズで、歩きも覚束ない。14インチの娘のお下がりの幼児車も巨大なナナハンのようだ。

 何故に、そんな事を思い付いたか?っていうと、娘のXマスプレゼントに一輪車を注文しにニシダサイクルさんに出掛けた際に、偶然見つけたのが幼児車に取り付ける手押し棒だ。これは汎用品で、自転車のシートクランプとリアアクスルで固定するものだが、それ見て、使えそぅ!って思ったのが運の付きである。

 一輪車は注文ということで手続きを終えたけど、手押し棒は、そのまま購入し持って帰って、娘が春先迄乗っていた14インチの幼児車のサドルを目一杯下げて、ハンドルポストも目一杯下げて、サイドスタンドを撤去して補助輪を装着して、ペダルも外し、手押し棒を付けて、早速、乗せてみた。
 すると、やはり自転車は巨大過ぎる。既に三輪車は乗ろうと心掛けるようだし、木馬、オモチャのカートも自在に操るのだが、自転車は駄目だ。取り敢えず、チャレンジャーな性格故にハンドル操作を後方から押すと上手い具合にするのだが、如何にも不安定。家の周りの区画を三周程したら、完全に体力を使いきったようで、うつぶせになって頭をハンドルで打って大泣きである。チョット、早すぎたようだ。

 最低でも半年後の話かなぁ?と思う程。反省である。しかし、屋外三輪車の前に屋内で使える、それ系の遊具で鍛えてみたいような気もする。

 親バカ得意なバカ親の願い?は、自転車は兎も角、単車で自分と対等以上に走れるセンスを身に付けて欲しい事。あわよくば、15年後には二人で峠ツーリングに出掛けたいのである。二輪車にはなるべく速い内に慣れて欲しいのである。
 娘に単車って思いは無いけれど、いま6歳児だけど、18段変速を駆使して斜度10%以上の勾配も平気で上っていくし、一緒にサイクリングしたら往復で30km程度は楽勝で走る。そんな様子を見ていると、自分の幼年期では考えられないもの。娘の自転車の補助輪外しが4歳だったけど、息子には3歳狙いを企んでいる。まぁ、バカ親であるには違いないけど、一歳の今の段階で自転車デビューは速すぎたようだ。

 息子殿には、3歳で補助輪外し、5歳で娘のお下がり、小学校に入るとジュニアロード、小学校高学年以降ではエンジン付きで遊ばせてみたいのである。プロの競技者を希望するのでなく、生涯の趣味として二輪車の楽しさを教え込みたいという程度。競技者狙いならもっと若年からでないと今の時代は駄目だろうけど、そうなると近い未来の話となる。近い未来に子供に時間を取りすぎると、自分が山岳ツーリングに出かけれなくなるのでNGだ。あくまでも、自分が楽しんで、その楽しみ方の触りを伝えるというノリなのだ。

 考えてみれば、自分が楽しんで、その合間で子供を、、、っていう訳だから勝手な親である。

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2008年12月 4日 (木)

もみじマークの表示義務猶予化に思ふ、、、

 紅葉マーク?枯葉マーク?っていう高齢運転者標識の表示の義務化に猶予を行う検討が始まったそうだ。この制度では、75歳以上の高齢運転者がマークを表示しなければならないというモノだが、医療制度における後期高齢者って区分等と併せ、高齢者から高齢者虐めだという批判が相次ぎ、表示義務に猶予処置を与えるか否かを検討するんだそうだ。

 制度的には年齢で敷居て、表示を決めるっていうのは、免許所得年齢が18歳とか16歳で区切られているように、逆に言えば返納年齢を決めるのも一つの手だとは思う。今の制度では、取得時に検査、条件があり、更新時にも一応は適正検査は為されているのであり、理屈の上では、変な表示義務は不要とも思えるのだが、高齢運転者標識の存在の意味を考えると、免許更新手続き時における適正検査だけでは、高齢者による運動機能の衰えによる運転操作への悪影響が防ぎきれない?って事を暗に認めているだけである。

 ルールと制度をシンプル且つ本来の姿に戻せば、そういう風な修正すべき補完ルールは不要となるのが本筋であり、高齢運転者標識は廃止して、免許更新時における適性検査を、より厳格に行うように修正するのが一番では無いだろうか?
 そのような適正が劣る場合に、免許条件において『眼鏡等』とかの条件で、『高齢運転者表示』とか『老化マーク』とか、、、そういう条件を適用するのが最も自然に感じる所である。
 実際に、運転適性を満たさない場合は、標識表示したところで適性が改善する筈もなく、そういう運転者に対する補助条件としては現実的には、眼鏡のように機材、器具による補助が条件となるのが本当は自然な姿でもある。

 或いは、適性検査を従来通りで、高齢者の反応の低下を注意によって対処しえいるドライバーが存在しているのも事実であり、それは多分安全と言えるだろうし、その反面、若年世代の過信や、熟練運転者の慢心による不注意が危険を伴うとも言える。
 そういう意味では、身体能力に応じた精神が伴えば安全という事にも繋がる訳で、危険か否かの判断は、そのシンクロ度合次第とも言える訳だ。
 そういう場合は、危険か否かの判断は、直近の運転状況における違反、反則行為が一定レベル以上となったときに『高齢運転者標識』ならぬ『危険運転者標識』、例えば髑髏マークとかDANGERマークを表示させて辱めた方がイイのでは?とも思うのである。前歴1以上とか、累積違反点数4点以上とかに、格好悪いマークを義務化させるのが一番良いように思うのである。

 昨今、カード類のIC化が進んでおり、免許証のIC化も間近だった筈。現行の免許証でも照会は一発で済む訳であり、点数照会なんざ簡単な筈である。こういう制度の方が合理的だと思うところだ。

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地デジ対応機材を見に行きました。

 11月最後の週末は家族でDEODEOに出掛けました。売り場的にはテレビ、DVD関連の機材を見に行きましたが、結局、購入したのは、今更ながらのバリバリのスチーム式加湿器で御座います。

 さて、2011年7月を以て、アナログ放送が終了するっていうのは、CM等で知られているようですが、果たして、アナログ放送が終了したらテレビが見れないか?っていうと、決してそんな事は御座いません。
 一番簡単な方法は、安価な地デジチューナーを導入し、アンテナからチューナー、チューナーからデッキとモニターと繋げば何の問題もありません。地デジチューナーも2万円未満から選べるようになってきており、今後更なる低価格化が進むでしょう。

 さて、地デジでのメリットは?っていうと、実は画面解像度以外享受できるメリットは少ないのが現状です。どちらかというと、地デジに限らず、BSデジタル、CS、CATV等全てがデジタル放送となると、コピーテンって著作権保護のコピーガード信号が入れられるのがデメリットですね。
 今現在最も普及しているDVDもタイプによって様々であり、非常に使いづらいもので、DVD系メディアで最もユーザーフレンドリーなのは、マイナーなDVD-RAMではないか?と私は思っております。普及メディアのブルーレイは扱い上はDVDでもDVD-RAM的なハンドリングが可能という点で宜しいかと思いますが、コピーワンス、コピーテンの信号によってDVD-RAMもBDもコンテンツの移動には大きな制限が伴います。

 さて、現在、地デジ以外のコンテンツは解像度も様々に配信されていますが、地デジ化による大きなデメリットは、何と言っても、一画面解像度の増大に伴う画質の改善に付き物の、データ量の肥大が問題となります。つまり、最高解像度で記録すると、最低でも従来の解像度の4倍のデータ量を要求する訳です。つまり、従来の低解像度デッキの4倍の保存が可能で無ければ同等の使い勝手は得られない事となります。
 これは、デジカメの高画素化に伴う保存の煩わしさと同じ質のものです。

 つまり、フルハイビジョンとなると少なくとも、記録容量的には最低でも4倍は欲しいところです。4倍というと、、、、最低でも1TBクラスということですが、1TBをディスクとして抱えるデッキはハイエンドクラスの一部となります。PCで映像編集するとしても1TBのディスク領域を確保するのは結構大変です。1TBのディスクストレージが現段階では普及始めということで、今一つ手を出すには躊躇する訳です。
 勿論、250GBとか500GBでも可能ですが、我が家のSTBはHDDを250GB内蔵していますが、最高解像度で録画し続けると簡単に満杯になる訳で、録っても見る前に消去しなければ次録画出来ないと言うスパイラルに陥っているのです。

 こうやって記録した画像を可搬メディアに落とすとなると、、、、落とし先のメディアが今一のレベルかなぁ?っていうのが印象な訳です。落とし先には、価格、容量といった要素が要求に耐えなければなりません。
 現在、片面4.7GBのDVDメディアに記録できる標準解像度の映像記録時間は、僅か1時間ほどです。ブルーレイの場合は23GBでハイビジョン記録すると2時間ですが、4.7GBに記録すると25分となります。結局、HD録画をBDに行ってもBD一枚に一本の映画しか入らない訳です。これに最低でも二本の映画を収録しようと思えば、解像度のダウンコンバートか、圧縮率アップが不可欠であり、画質に拘るという大義が失われるか?という気持ちに為る訳です。
 実際、VHSで思い起こすと殆どが三倍録画でテープ一巻で6時間取り溜めるパターンに慣れており、画質と手間を考えると、メディア1枚で最低でも4時間程度の記録は期待する訳です。で、今の私の構成は4.7GBのDVDにLPモードで4時間録画という方法です。動画を鑑賞する、特に動きの速い動画を鑑賞するという状況では、高解像度の必要性を強く感じないというのが理由ですが、圧縮率にしてもブロックノイズが出ないギリギリの圧縮モードがLPモードで、これで十分かなぁ?っていう所に落ち着いている訳です。

 という訳で、結局どうしてるか?っていうと、一回見て直ぐ消すコンテンツのみダイレクトレコーディングのハイビジョン記録でHDD保存。視聴後は消去。そして、保存するコンテンツはノーマル解像度でHDD保存保存。それをLPモードでDVD一枚に4時間記録というスタイルに落ち着いている訳です。見てから残すか消すか?を判断するコンテンツの場合は、ダイレクトレコーディングでHDD記録し、ダウンコンバート且つLPモードで別のHDD記録も行うってパターンです。こういう使い方には、HD記録のようのHDDとしては最低1TB以上、SD解像度、LP圧縮モードで記録するなら250GB以上のHDDが欲しいところです。録画先を二系統に分けて同時録画というのが後の操作を簡単にするか?というのが印象です。後々のダウンコンバート且つモード変換は、記録時間分の変換時間が必要で、録り溜めた後に作業する気を全くありませんので、録画中に行うしかない訳です。

 如何にハイビジョンであっても、ダウンコンバート、或いは、モード圧縮で画質を落とすならばハイビジョンに拘る必要は無いのではないか?というのが現在の状況となっている訳ですね。
 そういう訳で、HDD容量的にも可搬メディアの容量的にも次世代DVDデッキを購入するのは見送りました。
 勿論、モニターのプラズマ、液晶の大画面モニターも今回はスルーです。売り場の高解像度画像は、どんなに贔屓目に見ても自宅のハイビジョンブラウン管より美しい映像とは思えないのが理由です。
 将来的にはPCを使いHDDの容量の選択の自由度を活用し、PC上で全ての操作が行えるようにすれば、テレビ周りは純粋に再生専用と割り切れるので構成的にシンプルに出来そうです。そういうスタイルが理想かもしれません。

 2011年の段階で普及HDDの容量が数TBになり、画像コンバート(解像度、モード)が瞬間芸的に終わる方法が定着した後に考えたいと思いました。

 その結果?買ったのが、スチーム式加湿器です。超音波式、ハイブリッド式、新型フィルター式は没です。加湿器ならやっぱりバリバリ加熱のスチーム式です。
 加湿器は数年前に最先端の超音波ハイブリッドタイプを結構な価格で購入しましたが、結論は今一だと思います。

 どのみち加湿器、内部に水が入っています。そういうのは子供の手の届くところに置く筈もありません。ハイブリッド式とスチーム式の大きな違いは、熱を積極的に使うかどうか?ですが、ハイブリッド式は低温というメリットがあります。しかし、温度が低いが故に、内部の水回りの汚れが顕著で、水カビ等が衛生的でありません。
 最新式のローメンテフィルターも見ましたが、フィルター構造が大袈裟で、結局は表面積を確保する事で汚れをトラップするという方式です。湿式フィルターこそ装備されていませんが、エアコン並の大型フィルターがホコリの吸着を予感させます。その点、スチーム式はエアーフィルターも超小型。原則、フィルターレスで完結します。このメンテフリーと菌繁殖をさせない衛生設計が購入のポイントです。

 ということで、殆ど衝動買いですが、地デジ機器を買わず、今更ながらのスチーム式加湿器を買った次第です。
 しかし、売り場は殆どがハイブリッドタイプ、超音波式の加湿器ばかりで、スチーム式で20畳以上に対応したのは僅か二機種。で、一機種はお取り寄せ、、、、、時代の流れですねぇ、、、、。

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0系の影で、500系も、、、新幹線は夢から日常に、、、

 11/30を以て、初代新幹線である0系の定期運用が終了した。11/30では最終運行の0系を求めて多くのファンが通過駅に押し掛けたんだそうだ。この0系の新幹線は実に44年の長きに渡り第一線で活躍し続けたのだが、遂に引退である。
 12月には0系のお別れ運転でひかり号として最後の運行が控えているそうだが、既に予約は完売なんだそうだ。

 この0系は昭和39年の東海道新幹線開業と共にデビューしたもの。昭和39年と言えば、東京オリンピック開幕の年でもあり、日本の近代史を語る上で忘れる事の出来ない年でもある。この昭和39年から日本の急成長が始まった訳だ。
 因みに、昭和の回想雑紙でも創刊号に取り上げられる年度として昭和39年っていうのは案外多いのである。

 そんな昭和39年にデビューした新幹線0系の引退は話題沸騰だが、平成9年にデビューした当時世界最速だった500系新幹線ものぞみ運用からこだまに転用されるのである。
 この500系こだまは営業速度が285km/hと、能力の300km/hから抑えた運用が8両編成で為される模様だ。

http://www.jr-odekake.net/train/kodama_500/index.html

で、既に車両紹介されているが、ひかり運用の300系よりも高速走行。のぞみ運用の700系と同じ速度で、500系のこだまが走るのである。できれば、こだまとしても300km/h運用して欲しいもの。どうせなら、博多と新大阪のノンストップ直通300km/h運用の激速こだまとして走って欲しいと思ったりする。

 新幹線、これが夢の超特急として、0系が持てはやされ、その正統後継者は、やはり、『夢』って言葉が似合う必要がある。そういう意味で、0系の後継者は100系、300系、500系がそうなんだろう。700系とかN700系っていうのは、『夢の超特急』という定義から、より安全に高速走行が可能という規定を勝手に当て嵌めれば、500系以降に登場していながらも、性能の一部を快適性、経済性に分配している意味で、夢の超特急では無いような気がする。
 この印象は、車で言えば、例えば、昔のトヨタ2000GT、最近ならNSXが夢のスポーツカーだが、現代の車の中にはより高性能な実用セダンが存在している。しかし、高性能セダンは何処まで行ってもセダンであり、夢のスポーツカーではないという印象に近いのである。
 勿論、新幹線という営業車両であり、そこには経済性が存在するのは判るけど、そこに国の技術的象徴のような威信があるからこそ『夢の』って枕詞が似合った筈。そういう意味で、0系の引退、500系のこだま転用っていうのは、新幹線が日本技術の象徴ではなくなった事を象徴する出来事なんだろう。
 あの形がこだま運用ってのも寂しい気がするけど、実は更に新しい700系もこだま運用されており、既に、製作年度と運用車両名称の相関は崩れているのかも知れない。

 今後、『夢の』スポーツカーの如く、夢の超特急っていうのは、今構想されているリニアモーターカーがそれに該当するのかもしれない。案外、リニアモーターカーが実現した時には、それが『のぞみ』号になって、現代の新幹線は、全て『ひかり』運用以下に扱われるのかなぁ?と思ったりする。

 日本の技術をアピールするのに夢って言葉が似合ったのが新幹線の0系で、その後継者、最後の正統後継者である500系だったんだろう。そんな象徴的な存在が現代の日本には存在しないのが寂しいし、それが、国に衰退を予兆しているようにも思う。やはり勢いのある国には象徴が在る方が良いと思うけど、何が象徴となるか?っていうと、それは、世界で唯一無二の存在でなければならない。そして、多くの人に夢と憧れを与えるようなもので無ければならない。アメリカ等では最強の戦闘機であったり、或いは、スペースシャトルであったりするわけだ。そういうのが日本にも必要だ。鉄道に限定せず、0系新幹線の代わりとなる夢の象徴が必要では無いだろうか?

 まぁ、そういう感覚自体が古くさいのかもしれない。或る意味、戦艦大和の大艦巨砲主義で46cm主砲を世界に誇っていたのと同じかもしれない。

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2008年12月 3日 (水)

難病であっても原因が、、、

 先週の金曜日に難病関連の番組を見て、前後して帰ってきた健康診断結果を見て、、、そして、病の怖さについて記事を書いて更新予約したのが12/2午前零時アップの記事だ。
 その記事のアップ前に、難病が一度に二つも襲ってきたという話を聞いたので、再度、病に関する感想を一つ、、、、

 さて、その前に、先週金曜日の番組での難病の話では、急性心筋炎って病で、心臓の筋肉の炎症で機能低下した状況から全身の血の巡りを確保するために、大腿部の動脈をバイパスする処置によって大腿部より先の血の巡りを失って大腿部の壊死、切断から義足によって元気を取り戻した女性の話が取り上げられていた。
 その際に耳に残っていたのが、筋炎って病。これは筋肉の炎症で、10万人に7人とかの病の話で、危機感としては全く感じない印象だったのだが、今回、身近に聞いたのが筋炎の一つである感染性筋炎の話。

 この筋炎は10万人に6人程度の有病率という稀な病だが、四肢の筋などの横紋筋が炎症を起こす病気で、自己抗体、ウイルス感染、薬剤の影響、遺伝的要因などが発症に関与するのではないかと考えられている。未だ、疾病の因果が特定出来ていないという意味で怖い病である。この中で感染性っていうのは、ウイルス感染、細菌感染が発症の引き金になっているって意味。そして、感染対象に対して免疫が過剰に反応して発症する筋炎のこと。

 この感染性筋炎と闘病された方が引き続き闘った相手っていうのが、間質性肺炎。これは肺の間質組織が炎症し、炎症組織が繊維化する病。因みに、歌手の美空ひばりさんもこの病で命を落とされている。この間質は肺胞と毛細血管の間の組織であるが、これが炎症肥厚化することで、肺胞と毛細血管の間でガス交換効率が低下するのが致命性を与えている。この間質の炎症原因によって様々に分類されるが、感染、膠原病、放射線、薬剤性、突発性と様々。突発性という場合は、喫煙習慣が原因となるとも言われている。
 これも稀な難病で10万人に5人程度の有病率。

 さて、この二つの病が稀な難病でありながら、同一人物に発症したというのは非常に珍しい事。
 この方には該当しないとは思うけれど、この難病の共通な特徴っていうのは、組織間、細胞間の組織の炎症ということ。そういう炎症を伴う病っていうと、膠原病って病がある。そこで、現代では忘れ去られつつある、過去の恐怖の病の代表である膠原病についても考えてみることにした。
 膠原病は、遺伝的、体質的要因もあるけど、それ以上に、発症を誘因する環境因子っていうのが大きな要素のようだ。怖いのは、膠原病というのは様々な病の症状を呈しており、それに応じた対処療法(対炎症措置)が治療の軸となっており、根絶療法的な方法が確立されていない点である。
 それにしても、この膠原病っていうのは、一般的な名称であり、発症パターン自体が稀であっても、それ自体が普遍化しているという意味で、消化器系ガン、腫瘍に近い怖さがあるようだ。様々な原因が複合的に作用しているがために、根絶策を講じにくいという点が自分にとって恐怖の類似性を生んでいると思う。但し、現代は、この病が致命性を持っていたのは昔の話であり、今は治療による改善も期待出来る分、病の怖さって部分は幾分和らいでいる。

 さて、この膠原病、組織間物質の炎症による病の原因が何か?を考えると、難病故に研究が進んでいないという質とは異なり、普遍的な病ながら原因の解明が進んでいないというのは、それはそれで怖いものである。ただ、昨日公開している記事にも書いたように、こんな難病であっても、所詮は、身体機能の平衡安定性の欠損に起因している筈。その欠損を抑える事こそが重要であり、日常的な健康維持への意識と、そのための身体機能の活用っていうのが、こういった難病の発症を遠ざける鍵ともなっているのでは?と考えるようにしている。

 病は怖い。特に、現代医学で因果が特定されていない病は尚更だ。しかし、それで恐さを感じるだけでは明るくない。恐さの理由は、いろんな疾病が我が身に降り注ぐ事を想定するからだ。恐さに打ち勝つには、それに対応する意識を持つ事。これは何事にも当て嵌まること。だれでも未来、将来を心配するが、それに対策を持っていれば心配するまでもない訳だ。
 それで、恐さを封印するには、見て見ぬ振りではなく、その恐さに対する自分の信じる手立てを実践するしか無いのである。こと、健康に関して、様々な疾病に恐さを感じるけど、それを遠ざけるための自分の意識の保ち方は、日常生活における身体機能のフル活用である。筋力、持久力、好奇心、、、、、そんな身体の機能をフル活用するような身体の使い方を続ける事。これが、自分の思う恐さへの対策法なのだ。

 難病であっても原因がコウだ!って思いを自分で決めて、それを信じて対策する。それが真実でなくとも、自分が信じる事が出来れば良いのである。そういう考えを自分なりに持つ事が大事な気がするところである。
 それにしても、いろんな病、疾病が存在するものである。これを一つずつ見ると怖いけど、見方によれば、なんとかなりそうな気もするのである。

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ひろしま自転車トーク2008

 記事自体は古い(11/30)記事。即、更新アップも考えたけど、催しの開催が12/6ということで、敢えてずらして記事にしてみる。ネタは新聞記事だけど、自転車の便利な活用法を考える講演が開催されるようだ。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200811300217.html

 まぁ、自転車の夢、活用法を語るのは良いことだけど、何時もの通勤風景を見ると、自転車は生活用具として活用されているのが殆ど。歩道を連なるように走る。渋滞時間帯では、歩道を占拠して十数台の自転車が停止する。そんな状況。歩行者から見ると確かに危険だが、その利用形態から見ると、純粋に高速移動する歩行者そのものである。

 そういう実態に夢や活用法を定義するのは、非常に難しいなぁって印象。

 自転車を夢のアイテム、統制された活用法を提案するのは、自転車に対するユーザーの認識次第だろう。普通の人が扇風機に拘るか?ストーブに拘るか?っていうと、殆どが、使えれば良いだろう!?って済ませる。そこに夢を持ち込んでも駄目である。そんな印象だ。

 自転車に拘りを持てる人対象限定なら実りある議論になるけど、99%が拘りを持たない一般市民。ここに問題がある。市民にとって自転車が関心の対象となるようなものに置き換える事、これが重要で、それには、自転車愛好家以外の一般市民が、その目線でOKと思える道筋を与える事が重要だ。

 日常品がブレークして生活に密着して、その利用法が洗練されているって世界があるとすれば、そういう世界を目指すのが一般的な自転車に求められている事だろう。そういう提案、活用法が生まれる事が大事なんだろうけど、今の自分には、何が良い案ある?って思っても思い付かないのが現状だ。

 敢えてっていうと、原付以上の自動車の如く、運転免許制にして取り締まり等も厳しく行うのが単純で効果的なモラル構築なんだろうけど、ユーザー年齢を考えると不可能。自転車のマナーが悪いと言われているけど、結局、利用者は自転車を道具として使う普通の人。普通の人は、普通に歩き、普通に車も運転する。歩行者のマナーは?っていうと、信号無視も日常茶飯事。車の運転は?っていうと、煙草のポイ捨ても結構茶飯事。駐車違反も殆ど常識化している。つまり、自転車の良い活用法は?っていうと、普通の利用者が普通にマナーを守れるか?ってこと。そうなると、それは自主性に任せた時点で不可能ということ。

 自転車の有効な活用法は?っていうと、自転車が事故を起こさない環境整備ってこと。これは、車とも歩行者とも隔離すべきって事。歩道内でも歩行者と隔離、車道内でも車と隔離ってこと。それを法律で定義できないなら、インフラで行うしかない。インフラで行うにも利用者の意識に任せるような方法では、遵法性、マナーが無いと無理。

 当面の課題となっている歩道での対人との事故対策なんぞは、アスファルト、インターロッキングタイルではNGだ。自転車で走る事が困難な全面点字ブロックか、点字ブロック以外なら、花壇やブロック、或いは、うねり段差を連続的に配置したような路面デザインとか、鉄柱で支柱で自転車通行が不可能な歩道構成にするとかしないと駄目だろう。車道を走る自転車エリアを確保するよりも、本来車道を走るべき車両は車道を走ればよいのだが、仮に歩道を走るならば、走る際に走れるエリアを強制的に制限させる方法が必要だ。全面点字ブロックでブロックの起伏が大きいものってすれば、自転車のスピードも殺せるし、何処でも暴走系の街中スポーツサイクルも減らす事が出来る。

 用途に応じた利用形態の特化が進めば、煩雑さが解消され、そこで利用方法の提案にも結びつくような感想である。煩雑な未整理な状態では、ビジョンを画く事も難しいのである。

 個人の感想では、チョイ前の記事にも書いたけど、自転車も道具の一つ。道具って言うのは適材制が在る訳だ。よって、街乗りコミューターならば、それ系のデザインの自転車こそが使いやすい訳である。一方で、健康グッズとして、スポーツ用品としてならば、そういう空間でそういう使い方をした時が一番快適なのである。用途に応じて、使う空間が違えば、選ぶ道具も代わる訳だ。道具が代わって、状況の特化していけば、それに応じた利用空間の定義も出来るわけだ。そういうのが夢であり活用法ではないか?と思うのである。今は、雑多な繁殖状態であり、スポーツサイクルの市街高速暴走があったり、或いは、遊歩道、CRにおけるママチャリ、通学者のお喋り並進運転があったりする。少なくとも、利用法、活用法を訴える前に交通弱者に対する配慮が行き届かないと声を主張しても虚しくなるだけである。
 だから、なによりも、市街地にスポーツサイクルで乗り込まないとか、或いは、市中歩道で歩行者を蹴散らす運転をしないとかが必要で、第一段階では、市中歩道における歩行者蹴散らし運転を物理的障害で出来なくするような環境整備が、自転車の用途別選択性の特化促進につながると思うのである。

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ウインターシーズン?

 金曜日も例によってプールに出掛けた。3000mを連続で泳ぎ60分以内で切り上げるという定例のペースである。泳ぎは全編平泳ぎだ。

 先週迄はプールもガラガラだったんだが、この金曜日は割と人多かった。若い人が4名程、年輩のメタボックリな方が3名程、化粧の臭いがキツイオバハンが一名、、、、、まぁ、自分を入れても8名で、レーンは各自が一本つかっても十分なんだが、オバハン、メタボックリオジサン、若い人が何故だか同じレーンで泳ぐ、、、、別に良いんだけど、明らかにペースが違うんだから、断続的な休憩で自分がターンする直前にリスタートは辞めて貰いたい。追い抜くにはレーンを外さないと活けない。それだけで疲れる。

 プールの利用人数は、季節によって結構変動する。部活系スイマーの傾向はサマーシーズンは50mプールを利用し、それ以外の期間には25mプールを利用する人が多い。高齢者の健康目的スイマーは、通念で25mプールの利用が多い。そして、減量目的のダイエットスイマーは、夏から秋が少なく、冬から春に向けて増加傾向。ダイエットスイマーの特徴は特定の個人というよりも、不特定多数が少ない頻度でやってくるというパターン

 スイマー別区分では、高齢者スイマーは各自が自分のペースで似たようなペースで泳いでいる人のエリアで淡々と泳いでいる。部活系スイマーもそう。それなりのペースで、他のペースに乱されず他のペースを乱さず淡々の泳いでいる。
 しかし、ダイエットスイマーで季節変動する集団っていうのは、結構、好き勝手にレーンを斜めに泳いだり、そんな感じ。ただ、これが何時も同じ人か?っていうと、そうでなく、滅多に見掛けない人だったりする。大方、通うという感覚ではなく、たまに来るって感覚なんだろう。

 運動で痩せるっていうのは、結構キツイ。っていうか、相当な量を継続してこなさない限りは現実的でない。プールに来て水着に着替えて、浮かんで休む時間が長いパターンとか、あるいは、極稀に泳ぎに来て、本人がターゲットって思ってる他のスイマーと単発泳ぎで休憩が長いってパターンでは、ダイエット効果を得るのは相当に難しいのでは無いだろうか?

 水泳でダイエットって効果を期待するならば、表題の如くの季節連動型スイマー、疑似温泉入浴系スイマー、極単発突進型スイマーでは駄目。如何に一定のペースで連続して長距離を習慣的に泳げるか?が鍵。水泳ダイエットが季節モノというスタンスでは多分効果を得る事は難しい。

 水泳関連でウインターシーズンとか言うなら、海水浴がサマーオンリーって感じで言わないと駄目なんだろう。シーズンものの運動はスポーツというよりもレジャーって感じだ。

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2008年12月 2日 (火)

激辛唐辛子ダイエットの激辛度は如何に?

 今、日曜日の『いってQ』って番組で、森三中がインドネシアで激辛料理+自転車100kmで、どこまでダイエットできるか?って番組を見ている最中だ。

 因みに、この番組で「なるほど!」って思ったのは、非常に暑いインドネシアの地では、発汗を促す行為を行う事で代謝機能を保つって意味で激辛の唐辛子料理が好まれているという、、、、そういえば、激辛というか、香辛料等々で食べると汗をかく料理発祥の地っていうと、殆どが赤道近辺の国々の料理だなぁ!って事に妙に納得している。
 直感的には、唐辛子等の激辛は一気に汗をかくので、寒い土地の方が適していそうな印象だけど、実態は南国の方が多いのは、やはり、暑い土地で発汗して代謝を保ちたいという人間の本能が生活の風習に反映しているためか?と思うところなのだ。

 さて、そんな事より、ピン!と来たのは、激辛唐辛子料理+自転車100kmって組合せの話。コレって有り得るか?もしかしたらヤラセか?って印象。

 っていうのが、自分自身、激辛料理は嫌いではない。汗をかきながら食う!っていうのは、基本、好みである。しかし、激辛料理で自転車?って組合せは如何なものか?と思うのである。

 激辛っていっても程度には色々だ。20年程前からメジャーになったカレー専門店での辛さ指定オーダーなんかでは、確かに辛いけど、その辛さの程は、味覚の範囲に留まるのが現実。その味覚の範囲に留まる辛さは、果たして激辛か?って印象だが、そういう辛さは激辛とは違うのでは?というのが感想だ。そういうのは、辛い味であっても、激辛とは違うような印象。

 激辛っていうと、どんなのが激辛か?っていう話だが、広島の大州に店を構える『ちろりんむら』って店の激辛ラーメン。これ、殆どトウガラシスープ+麺という構成だが、今迄経験した中で最強の激辛である。味覚を超越しているというか、、、、、このラーメン、完食したら写真撮影されて店内に張られる代物だが、それなりに結構な写真の枚数である。自分も一度チャレンジして完食したけど、二度目を食べようとは思わない。

 そんな激辛ラーメンだが、味覚が壊れる以上に、食って2時間程度で腹具合が壊れる。そして、4時間程度で排便が始まると、肛門が壊れる。そのダメージは24時間程度続くもの。肛門が壊れると、トイレに行く事さえも苦痛となる。
 そんなのが激辛だと思うけど、そういう状態では、とても自転車で100kmは走れないというか、自転車自体に乗る気は起こらないなぁ!って印象。

 ところで、味覚っていうのは、感じる度合は個人差が多い。恐らく、辛さによる発汗効果も個人差が大きそう。辛さ=発汗は間違いないだろうけど、発汗=脱水であり、発汗による脱水で体重が減っても、それがエネルギー燃焼によるものか?っていうと、実は違うんだろう。水分の出入りを促進することで、体温調整機能を高く保つっていうのが案外本当の意味なのかもしれないなぁ、、、って思うところ。
 それよりも、過激な辛さで肛門迄やられるような辛さは、消化器系の粘膜組織にも相当なダメージを与えていそう。粘膜組織の損傷によるリスク併発の方がダイエット云々よりも怖い感じを受けるのであった。

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病の恐さ

 金曜日も難病の特集番組をやっていた。
 ALS、2分脊髄、急性心筋炎、神経芽細胞腫、、、、、

 いろんな病がある。どれも恐ろしい。当事者でなくても恐ろしい。でも、恐ろしさを現実のモノとして捉える事が出来るか?或いは、何が恐ろしさを与えているか?っていうと、案外、漠然としていたりする。様々な疾病があるけれど、ホントに恐怖を感じる病と、現実のモノとして捉えがたい病があるのは確かである。勿論、当事者になれば、その直面している病が最も重要で闘うべき相手となるのは確かだが、当事者でない場合は、その病に対する印象は随分と異なる。

 金曜日の番組で取り上げられた疾病を簡単に調べてみると、先ずは脚を失った女性の闘病記の相手である重症心筋炎。これは、極ありふれた風邪が原因という時点では怖いけど、その疾病が心臓の筋肉の炎症に至り、心筋を破壊し、心臓を弱らせるって進行は、10万人に8人とい稀な難病であり、そういう進行頻度を聞くと、当事者意識が希薄になってしまうのである。

 さらに、ALS(筋萎縮性側索硬化症)という、筋肉の動きを司る運動ニューロンが冒される病も紹介されていたが、これは50~74歳で発症するという病という時点で当事者となる可能性を心配する病だが、これも有病率では10万人に5人という稀な難病である。

 もう一つ、印象に残ったのが神経芽細胞腫って小児ガンの一種や、二分脊髄って病。これは稀な発症率という要素に加え、誕生時~小児の内に見つかるという発症年齢的な条件があり、これを聞くと、我が子にはリスクがあるかもしれないが、自身のリスクという時点では既に無いという疾病であり、当事者意識は全く無いというモノ。

 このような難病は、発症率、有病率が非常に小さいという時点で当事者意識は相当に希薄になり、発症年齢で括られて該当外となる当事者意識は全く無くなる点において、明日は我が身って意識はあまり持てないのが正直な感想である。

 そういう意味で、当事者意識を持ち、恐れの対象となりうる病というと、もっと身近、即ち、発症率の高い、ありふれた病が相手となるのである。では、相手となる病には何があるか?っていうと、脳梗塞、心筋梗塞、脳卒中、認知症、糖尿病、肺ガン、肝ガン、胃ガン、大腸ガンというような病。このような病は、日本人の死亡原因の上位に来るような病ばかりであり、非常にありふれた病である。ところが、このようなありふれた病で、当事者になったら過酷な闘病生活が強いられるものばかりだが、それでも、恐れの対象となるもの、ならないモノに無意識の内に分けられるのである。

 それは何故か?を考えると、、、、、どんな病であっても、必然によって発生するものであり、その必然要因の支配因子が何かが特定されていれば、逆の見方をすれば予防可能であり、根絶対策も可能という点で、それ程の恐怖を感じるものでもないし、そういう事態に陥っても、どうにか出来るという意識が働くけど、発症の必然要因の支配因子が特定し辛い病っていうのは、効果的な予防が難しく、特に進行性疾病の場合は、その対策が絞れないと、とても怖いと思うのである。

 例えば、血栓系梗塞疾患、糖尿病、痛風系の病は殆どがエネルギー過剰摂取と消費不良による肥満が原因。肥満というか、体脂肪率過剰、体組成異常が原因であり、それを改めればリスクが激減出来るのであれば、怖さの感情が芽生えた時点で肥満を解消すれば問題ないのである。ガンというのは概ね怖いけど、例えば、肝ガンでは、前段の肝硬変、肝炎、脂肪肝と遡れば、原因は脂肪、アルコール摂取が原因であり、それを対策(過剰栄養摂取、飲酒習慣の解消)していれば問題無い訳だ。肺ガンなら喫煙習慣が原因なら喫煙習慣をやめれば済むこと。それ故に、恐怖を感じる事は無い。
 やはり、ガンで怖いのは、胃ガン、大腸ガン、及び、その前段症状である良性腫瘍等々である。原因は食生活というのは疑いの無いところだけど、あまりに雑多な食品を摂取する生活の中では、原因を特定するのは困難である。そういう意味で、発症頻度が高く、原因を特定しづらい=対策しにくいのが、自分にとって当事者意識を持つ、即ち、恐ろしい病ということである。

 こういう恐ろしい病に対しては、発症前に、気付いた発症リスクを抑える生活習慣を整え、定期的な検診で早期発見に敏感になるしか手立てがないのである。
 やはり、胃ガン、大腸ガン、及び、前段症状がとても恐ろしいなぁと思うのである。

 自分的に病の怖さを決めるのは何か?って整理すると、、、

病の怖さ=有病率(認知度)×重傷度(致死率)×発症リスク数(原因の多さ)

 って感じだ。認知度が高く、致死率が高いいうのは認知されながら医学で対処する術で有効な手立てが打てないって事。で原因の多さっていうのは、対処療法で医療行為を講じる場合も、有効な手立てでツボに嵌らなければ時間ばかりが過ぎて効果を得る前に力尽きかねないと言う事。
 認知度が低いのは実感が湧かないし、致死率が低いのも恐怖感が湧かない。原因が特定できるのは日頃の注意で或る程度対策可能ということ。そう思うと、上述の三要素の積が恐さの律していると言えよう。

 例えば、この記事と前後して登場する記事で取り上げた膠原病、、、、

・膠原病
 =有病率(高)×重傷度(中)×発症リスク数(高)・・・・・結果:★二つ
・消化器腫瘍
 =有病率(高)×重傷度(高)×発症リスク数(高)・・・・・結果:★三つ
・糖尿病
 =有病率(高)×重傷度(高)×発症リスク数(低)・・・・・結果:★二つ
・各種難病
 =有病率(低)×重傷度(高)×発症リスク数(低)・・・・・結果:★一つ
・AIDS
 =有病率(低)×重傷度(高)×発症リスク数(低)・・・・・結果:★一つ

って印象。まぁ、捉え方は人次第だが、自分の場合はこうである。
健康に配慮して、臆病に過ごす事が出来れば、少なくとも、この式内の発症リスクは相当に抑えられる気もするのである。

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若年性認知症から類推してみる

 消化器系腫瘍疾患における原因は?とか、或いは、膠原病の原因は?ってノリで色々と病に対して思いを巡らせているが、そんな病の中で、自分的に消化器系腫瘍疾患に序で怖い!って思っているのが表題の若年性認知症である。

 若年性認知症っていうのは、65歳未満で発症する認知症の総称なんだそうだが、この病の原因も消化器系腫瘍疾患と同様に、因果関係が明らかになったというか特定できるレベルに達していない模様だ。勿論、外傷性とか、アルコール性とか原因が特定できる認知症もあるけど、殆どが、原因特定に到っていないのである。

 そんな認知症だけど、最近よく耳にするのが、『アルツハイマー型認知症』って呼ばれるタイプ。アルツハイマー型認知症というと、高齢のお年寄りの病気のように思われがちだが、もともとは若年性の病気で、その年代には起こらない病変が脳に起きてしまう病気の事。最近は、高齢化社会になり、高齢者のアルツハイマー型認知症が増えたことで、老人性アルツハイマー型認知症と若年性アルツハイマー型認知症は区別されるようになっただけの事。結局は、脳に異常が起きて認知症が進行していくのには変わりないという。

 この若年性認知症の恐さは、印象的に若い人には認知症は無い!?って先入観による、初期診断の誤診による治療取りかかりの後れと、病状の進行の速さによるもの。これが、根絶治療法の確立していない現代では、取り返しの付かない事態を招く可能性があり、これが恐さなのだ。

 最近、一説では趣味を持って脳を活発に動かすとか、脳の活動に限らず、細胞代謝を高める生活習慣が有効とか言われているが、本当の原因が分からない。

 但し、強引に色んな疾病を結び付けるとしたら、消化器系腫瘍、膠原病、癌、生活習慣病、糖尿病、、、、、どんな病も身体の機能不全によるもの。膠原病等では、いろんな症状を単体でみれば様々な診断となるけど、大元的な考え方は膠原病という考え方で集約されるという。これは、糖尿病、脳梗塞、、、、と言った疾患が、生活習慣病の根元である肥満に起因しているという見方で固まっている。癌もそういう方向に議論が纏まりつつある。

 認知症っていうのは、ガン、膠原病、糖尿病ってような器官対象の疾病とは違い、神経系の異常。中枢部分の異常である。外見的に、何が悪いっていうのが非常に判断し辛い部分が原因を特定するのを困難としているのかも知れない。視覚的、検査的に確認する方法っていうのは脳の萎縮って部分に限られているが現状である。
 しかし、中枢、神経といっても、身体を構成するシステムの一部であり、他の臓器等々と何ら変わるモノではないのも事実。何が大事で、何が大事で無いというモノではない。神経も臓器も、はたまた機能も器官も全て必要なのである。これら全てが一つの個体を維持するのに不可欠なのである。そして、それらの要素は複雑に絡み合っている筈なのだ。

 そう、身体は元々一つであり、複雑なサイクルの均衡によってバランスが保たれている。その不均衡が疾病として発症しているだけである。案外、疾病というのは、身体機能の活用不良による発症の仕方が違うだけ?とも考えたりする。
 そう考えれば、どんな疾病、症状も、逆に抑える事は難しくないとも言えるのである。

 体内における各所における均衡が体調に影響する、、、、なんか、カオス理論みたいな感じ。何かの不均衡が、巡り巡って、別の症状として現れる。そういうモノなのかもしれない。

 認知症を恐れ、膠原病を恐れ、消化器系腫瘍を恐れるのではなく、体調管理を完璧=本来の人体の機能をフル活用することで、身体の機能バランスを保たせて平衡を保つ。
 これが重要なのである。

 平衡って意味を考えると、二種類の正負の反応が在った時に、双方向の移動量が大きくても釣り合っていれば見た目安定している訳だが、双方向の移動量が少なくても安定しているように見える。しかし、実際の安定性っていうのは、双方向の移動量が大きい程に、外乱や変動因子に対する影響度を小さく抑えることが出来、結果、安定する訳であり、安定の意味はそういう事。
 人体における平衡安定性の確保っていうのは、代謝量の増大を意味する訳だ。代謝量の増大=機能の活発運用である。人体機能を活発に運用させることが、身体反応の平衡安定性の維持=健康の維持とも言える。それが、外乱(ウイルス、細菌、加齢、遺伝要素)による平衡性破綻=疾病発症を抑止するとも言える訳だ。

 疾病発症後では、或る意味、手遅れだが、身体機能が破綻していない人は、身体の機能をフルに活用するような生活習慣を身に付ける事で、現段階で、因果関係が特定出来ていない病、膠原病、アルツハイマー症、消化器系腫瘍を防止する事が出来るのではないだろうか?そんな風に考える事が多い。

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2008年12月 1日 (月)

ゴジラ、視聴中

 今、日本映画専門チャンネルで一挙放送中のゴジラシリーズをローラー台漕いだり、筋トレしながら見ている。

 で、気付いた事。昭和ゴジラシリーズの多くが自分の生まれる前の作品だったようだ。しかし、何故か、そういう古いゴジラ映画を映画館で見た記憶があり、どうも釈然としなかったのだが、その理由が判った。
 それは、ゴジラ映画は、途中、ゴジラ復活フェスティバルと称して再上映されていたらしく、それを見に行ったようだ。

 ところで、ゴジラっていうのは、単純な怪獣映画だけど、一応は登場する怪獣にメッセージ性が持たせてあるようだ。

 まずは、ゴジラだけど、これは核実験による影響で生まれたもの。で、キングギドラは当時にして地球温暖化を予測したかのような金星温暖化で登場したらしい。ヘドラは公害の象徴であるヘドロから、最近ではビオランテはバイオテクノロジーから、、、、なんだそうだ。これは、ゴジラ放映に先立ち、ゴジラファンの対談の中で会話されていた内容だが、なんだか、妙に関心してしまったのである。

 今回、初代ゴジラからゴジラファイナルウォーズ迄、全編を録画する予定。取り敢えず、面白いと思う。毎日、一本ずつ見ると、全編みるのに1ヶ月足らず。良い案配である。

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自転車=、、、、、

 広島県東部福山市で自転車と歩行者の分離形態が決まった模様である。

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn200811280042.html

 に元ネタ、写真が掲載されている。インターロッキング(簡易タイル舗装)形式の歩道内の車道側に自転車走行区分を儲けるというもの。そして、歩道、車道の境界には、歩道の中央に高さ2~5cm程度の分離帯を設けるというもの。

 多分だが、こういう走行指示帯が設けられれば、本来の車道通行は禁止されるんだろうし、歩道混走も禁止されるんだろう。広島市内を見回すと、既に、車道通行禁止ってエリアは市内中心部に散在している。そして、歩道内の自転車通行帯は、殆ど↑の写真のようなモノ。

 でも、車両交通量の多い市内中心部なら、↑のようなレイアウトが一般的に普通なんだろうなぁ、、、、

 まぁ、自転車って言っても、一言で括れない程、形状的、性能的に幅広いもの。しかし、普及台数から考えると、殆どがママチャリ、軽快車系統。ママチャリ、軽快車=実用車であり、実用車=コミューターと考えると、スポーツサイクルではガタガタして走りづらいインターロッキング舗装も問題無いのだろう。
 今の自転車対策っていうのは、人と自転車が混流している地域における事故防止が最大の目的であり、そういう雑多な環境を走る自転車=ママチャリと定義するのは、考えてみれば、極当然のこと。更に言えば、市内のコミューター的用途において本格競技系スポーツサイクルを強引に使用する方がナンセンスと言えばナンセンスである。

 今の規制は実用自転車のための規制であり、そういう見方で見れば至って当然。スポーツサイクル=コミューターって感覚がホントは変。
 仮に、市街地部での規制が波及して、段差、起伏の走行がデフォルトとなれば、中心部におけるロードレーサーは激減するかもしれないが、それは自然な姿で、自然な使い分けを生みそうとも取れる。郊外、河川土手、CRを走るための自転車がロードレーサーって棲み分けになるのは、考えようによっては自然なのである。

 事実、自分の自転車の使用形態は?っていうと、市街地は32mm幅、28mm幅のタイヤを装着した自転車ばかりだし、逆に22mm幅の自転車なんかは市街地で乗ろう!っては思わない。まぁ、殆どの人がそういう使い分けを既にしているんだろうとは思うところだ。

 今、問題となっている自転車と歩行者の事故っていうのは、歩行者と同じエリアを走る自転車が問題であり、そういう自転車を歩道内で分離走行させるっていうのは、一番自然なのかもしれない。本来、そういう所を走る自転車はコミューターであり、ユーザーの殆どが実用手段として選んでいる現状そのものだ。

 チョイ前の議論で、自転車が車道を走れない!って議論で盛り上がった事があるけど、極少数派のスポーツサイクルユーザーが郊外でも車道を走れなくなる!って先走ったためか?とも思える。ふと、振り返ってみると、やはりコミューターは自転車と言っても、歩行者の延長だ。そういうのが殆どであり、そのための歩道内区分整備っていうのは、大多数の意見にマッチしているんだろう。

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ETC

 表題の如く、先月、漸くというか、遅ればせながらというか、車にETCをセットアップした。
 元々、車で運転する場合にしても高速道路は敢えて避けるようなコース設定をしていた事もあり、利用頻度等を考えるとETCは不要って意識が強かったから、付ける気は無かったのだが、昨年、地元のショッピングモールで会員カードを作った際の序でにETCカードも作っていたこと、それと、通行時における料金的な特典が増えてきた事から、機会を見てセットアップしようと考えていたのだが、そのタイミングが丁度先月だったという訳だ。

 ホントを言えば、車を買い換えてってタイミングが理想だったけれど、欲しい車が無い事。車検を秋に受けた事もあり、もう暫く乗るだろうって判断と、これからの景気対策でETC車両限定の特典が増えてきそうな事、子連れで移動する際の移動時間を短縮するために高速道路を利用する頻度が高くなるだろうって事から、今回、セットアップに到った訳である。

 ETC利用者となった今、一番期待するのが、スマートICの拡充である。
 高速道路は確かに便利であるけれど、ICの間隔が広い。これは、長距離移動では問題ないけど、短距離の移動では、ICへのアクセス自体が距離となるので、結果、近郊移動では利用しなくなる。高速道路へのアクセスポイントが増えれば増える程、ICへのアクセスロスが軽減されるので、利用頻度が上がる訳だ。

 最近は、無意味な?道路整備により都市高速道路網も整備されているが、都市高速、近郊移動ほど、アクセスの煩わしさがネックとなる。そういう意味では、既存の高速道路のSA、PAにスマートICを儲けるのは良いアイデアであり、これが整備されれば、より利用範囲が広がるのでは?と思うのである。

 まぁ、当面はETCをセットアップしたといって高速道路を使った移動を頻繁に行う訳ではないが、セットアップした機会に色々考えて見るのであった。

 因みに、未だにカーナビは装着していない。カーナビ自体の利便性は認めるけど、殆ど、困った事がないし、単車でカーナビを利用って事も殆ど有り得ないので、それに慣れていると、必要性自体を感じない。案内標識だけで何とかなると思うし、住み慣れたエリアしか走らない場合は尚更である。

 学生時代には車にダイバーシティアンテナでテレビを付けていた時期もあるけど、テレビ視聴も案外しないもの。車は、、、、ラジオと音楽だけで十分な感じである。

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Return to Motorcycle?

 よくわかんないけど、最近は、極身近な範囲で表題のような傾向を感じることが多い。
 それは、今、メディアから伝わる処では大流行のロードバイク(自転車)ブームだけど、メディアが取り上げるって事は、実態からの遅れがあるのが常であり、実態はもしかしたら、ブームを牽引した層の関心が薄れつつあるかも?って思う事がある。

 そんな事を感じるのは、最近のオヤジによるロードバイクブームの牽引は、健康志向、メタボ対策、ダイエットって部分が極めて多いと思うのだが、そういうロードバイクに嵌るオヤジの元の趣味って部分で、多くのオヤジが昔からのモーターサイクル趣味系が多かったように思う。此処で言う、昔からの単車中年っていうのは、昨今、突如湧いてきた外車(ハーレー、BMW、ドカ)がお初のオヤジデビューライダーとは異なり、どちらかというと、単車歴が異様に長く、モトクロス経験者っぽいオヤジ連中が該当する。
 そんなMXオヤジの多くが自分の知っている範囲では、結構ロードバイクに嵌っていたのが最近迄の傾向だと思っていたのだが、マスコミ(テレビ、雑誌)で取り上げられ始めて以降、最近は、MXオヤジはロードバイクから離れているような感じである。

 具体的に個人を特定する情報は開示出来ないけど、知っている範囲の人で、MXオヤジでロードバイクに夢中系だった人の今現在は、どうもロードバイクに夢中になっている形跡が無いのである。例えば、本人の周りからロードバイクが消えたり、或いは、運営サイトにおけるロードバイクネタの更新が途切れて暫く経っていたり、、、、そんな感じなのである。
 他にも、単車で山中をかけずり回ると、チョイ前は、乗り切れてない若造SSとか、オッサンデビューのキンピカハーレーが多かったけど、今は、装備的に年期モノのチョイ古レプリカ、或いは、KDX200SRとか、CRMとか、そういうのが多いようである。微妙に、80年代後半頃の雰囲気を感じる事があるようになったのである。

 で、感覚的な印象だけど、健康?目的でロードバイクに一度は足を向けた元ライダーは、再び、モーターサイクル趣味に回帰して、剰りにもありふれてきたロードバイクから離脱し始めたのかなぁ?って感じを受けるのである。

 まぁ、そういう中年ライダーの自分も同じ様な感じの考え方になりつつあるのだが、実際のところ、どうなんだろうか?

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