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2008年12月25日 (木)

常識という名の意志喪失

 世の中で一番嫌な言葉、、、、それは、自身も頻繁に使うけど『常識』って言葉。

 でも、常識って言葉には二通りの使い方があると思う。
 一つは、知識的な常識であり思考の道具としての存在であり、もう一つが判断結果としての存在である。前者は自己の判断を下すに必要な知識としての常識、後者は人の判断としての結果である。

 前者の常識っていうのは、自分の判断を下すに必要な既知の概念であり、それは判断を生み出すための必要な存在であり、後者の常識は人の判断にしたがって自分の行う決断であり思考停止の理由となる存在だ。

 そういう意味で、常識を持つのは必要だが、常識に翻弄されるのは情けないと思うのである。

 常識で判断するけど、他人の判断を常識としない!これが大事なのである。

 学問でも、趣味でも、健康でも、、、、全ての分野で当て嵌まる事である。

 判断に用いる常識というのは、その分野において確立された、体系的に整理された知識であり、それを知ることは、その知識を生み出すに到った論理的手法に基づいて新たな論理を生み出す上で必須なものである。
 その新たな論理というのは、既知の常識とは異なる独創的なモノであり、分野によっては、それを奇跡と読んだり、発明と読んだりするのだが、実は、それは、論理の上に見つかっただけであり、驚くべきものでは無いともいうのである。

 ところが、思い留まる常識っていうのは、人の判断以上の判断を自分で下さないという考えであり、そういう考えの下では、その人に、発明も奇跡も何も起こらないのである。

 奇跡を起こす、発明を生み出すっていうのは、常識的な知識を駆使し、新しい常識を生んでいるだけであるが、これこそが重要なのである。

 特に、ダイエット、疾病(糖尿病、癌、COPD・・・・)等では悲観的な『常識』論が飛び交っているが、それに悲観した時点で、恐らく結末は悲観的なモノに繋がっていくんだろうと思うし、逆に、それに闘う意志を持った時点で、奇跡が生じる可能性を生んでいるんだろうと思うのである。

 勿論、『常識』的な理屈が並んでいるのは事実だが、それはそれ、それが全てと思う事自体が、意志を喪失することであり、それが一番怖い事のように思うのである。

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