飯島愛さん、死去
12/24未明の事。夜中にリビングダイニングが時々薄明るくなる?って嫁が言いに来たんで、ダイニングに探索に出掛けると、午後に留守電が入っていたんで、それがインジケータで光ってた。で、携帯を開くと、そこに第一報で『飯島愛さん、死去』ってニュース、、、、
最初は、質の悪い冗談か?と思いつつ、書斎のパソコンでネットを見ると、最新のニュース記事としてアップされている様子。
さて、飯島愛さんの経歴、活動は、散々に色んなブログで取り上げられているんで今更取り上げることはしないけど、印象的に、この方は天才肌のような感じを受けていたし、何よりも好感が持てたのは、やはり裏表がある事をさらけ出すような正直さ、ストレートさでは無いだろうか?
良いも、悪いも、全ての人に備わっているという事自体をストレートに表現し、悪い部分を良く見せないという印象である。悪いモノは悪いし、それが自分に当て嵌まると、冷静に自分を悪いと判断できるような潔さを感じていたのは自分だけだろうか?
自分も社会に出て17年が経過した。学生時代迄は、良い、悪いを判断し、結果として自分が良い、悪いの判断を冷静に下すことが出来たし、周りもそういうもんだと思っていたのだが、社会に出ると、そういう価値観は少数派という印象を保つに到っているが、冷静で正確で、客観的な判断に従ってブレ無い行動を取るっていうのが実に難しく感じる。
その印象を強くしたのは、今から6年前に管理職になって以降である。管理職になると、それ系の会議、会合に出席することも多いのだが、周りの人間の殆ど全ては、経営者の顔色にのみに注意を払い、判断基準は、叱られない、怒られない、自分が苦労を受けない、、、、という方針でのみ行動を行い、行動としては本来の目的と離反するような行動でさえも良しとするようなパターンが多く、上級職程、本音と建て前が離れる傾向を感じるからである。
言ってみれば、良いものは良い、やるべき事は何か?悪いものは悪い、、、、というストレートな目的に最短な行動を取るという空気が限りなく希薄になり、なんか体裁の良い言葉だけを並べ、ニコニコするだけで過ごす人が多く感じるのである。
そういう周りとの距離感を最重要視し、良い?案配で過ごすっていうのが、本当に良いことか?と思うと、どうも違和感を感じることが多い訳で、そういう点で、良いも、悪いも素直に表現できる飯島さんは、対照的な存在と思うのである。
自分の印象の範囲だが、そういう人が亡くなったのは残念である。
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