相似性
技術、製品の世界においては、表題のような相似性を持つモノが多い。
特に要素的な考え方においては、相似性が強く保たれる。しかし、要素が複合的になる程、相似性の保たれない因子の影響が大きくなり、トータルとしての相似性が失われる傾向にある。
例えば、流体機械の設計においては、論理設計においては高い相似性が成立しているし、材料の複合化設計においても複合化させる条件には高い相似性が成り立っている。
しかし、要素が複雑に絡み合う程に相似性が保たれない要素が系の中に現れ始め、結果的に系としては相似性が保たれなくなるのである。これは、或る意味、当然の事であり、必然とも言える訳だ。
要素が複合的に絡み合う機械というと、例えば、原動機等が挙げられるけど、原動機の設計では要素の無尽蔵な拡大と縮小というスケーリングは成り立たない。これは或る意味常識であるし、直感的に理解できる事柄だ。
だから、原動機、例えば、内燃機関等においては、使用目的に応じた仕様を決める場合には、必ずしも要素が相似的に変化しているモノでは無く、スケーリングにおいては、複合化数が変化する場合が多い。これは、シリンダーの多気筒化に見受けられる傾向であり、その要素単位を見つめると、或る程度固まった領域に落ち着いているのが当然と言えば当然なのである。例えば、エンジンならば理想的な単室容積に落ち着く等。
この或る程度固まった領域に落ち着くのは、その要素単位の効率を律する要件において、論理的な相似性を実現するに必要な要素の基準が、強度的、熱的、損失的、精度的に相似性を保てなくなるのが理由である。最適値の相似性が失われる要素が増える程に、その系の効率は低下するのである。まぁ、当然と言えば当然なのだ。
ここに製品開発のヒントがある。それは、論理的な相似性以前に要素の最適性に影響する因子が先のようなモノの影響を受けている現実を覆す事が付加価値に繋がるということ。つまりは、無闇なスケーリングではなく、最適因子を律する要因を抽出し、既存の律則因子を他の因子に置き換える工夫こそが、新たなる知見であり、それが競争力に繋がるということ。
この極分かり切った現象があるのだが、この本質論を超越したスケーリングのみに頼る製品や技術っていうのは、本質的な技術力を持たない企業の製品に多々見受けられるのである。そのような企業の製品というのは、ゼロからの論理の組立が出来ないという特質を保っている。つまり、製品というのは、雛型の存在が前提で、そこからの無尽蔵なスケール変更によって生み出される場合が多いのである。
そのために、最適な効率を実現するための相似性を確保する要件を無視したスケーリング作業により、大幅な効率の低下を生んでしまうのである。
この失敗は、技術力、発想力、創造性の部分において、0と1の違いである。0から1を生み出す事の難しさと、1を2にする手間は全く異質のモノである。0から1は、何か新しいモノを加えなければ生まれないもの。1をベースに変化させるのは乗ずれば得られるもの。この違いなのだ。根幹となる技術が無いというのは、雛型を生み出せないということ。そうい企業において必要なのは手間を掛けても0から1を生み出せる風土を作る事なのだ。
そうは言っても、0から1を加えるレベルの企業っていうのは実は少なかったりする。それは、日本の製造業が初期の段階で海外製品の模倣から始まったという歴史に従うように、殆どが0からでなく1から始めた企業なのである。その企業が繁栄するか否か?っていうのは、その導入した1の技術分野の製品が、相似則に従う類か否かということ。相似則に従わない分野から始めた企業は、1を生み出せる企業以外が消滅する。それは、戦後の単車メーカー等の淘汰の歴史からも理解出来る。しかし、運良く相似則に従う種類の製品を作るメーカーでは、己で1を生み出すことなくとも、1がある限りは乗ずる事で製品のスケールアップによる商品展開が計れ、繁栄を謳歌出来る場合もある。相似則が成り立つ分野っていうと、機械で言うと要素部品、或いは流体搬送機等の被駆動機械であり、逆に相似則の成り立ちにくい部品っていうと、複合度の高い部品、機械なら駆動機械等が該当する。こういう機械製品に対する技術の重要度というか、発展性とかというのは、技術史等の書物にも記されている。
企業の生い立ちにおいて相似則の通用する製品を作り続けた企業が、その精神、その技術で、そういう相似則の通用しない製品を手がける時に、行き詰まる最初の障害がこの部分である。常識的なスケールアップ手法が通用しない。各要素を決する数値の根拠が見えない。根拠が見えなければ対策が打てない。事故が起きても対処が出来ない。ってなるのである。何気ない数値にも確実に意味がある筈。その意味を一つ一つ考える。そして、自身の決断(裏付けられた自信のある意志を伴って、)で数値を決める事の出来る力を養うことが、0から1を加える技術を養う事なのである。ここでも、個人に限らず、企業においても、模倣、真似が発展性の無い事を表していると言える訳だ。
この警鐘は過去において、相談を受けた企業、経営者、組織に鳴らしたのだが、この過ちを相変わらず犯すところもあるようだ。
これからの時代、円高で製品競争力で外貨を得る企業としては、製品と技術にはコアが必要で、コアとは、ゼロから論理を生みだす力が必要ではないだろうか?ゼロから生み出すのは、自信と自負に基づいた意志による決断あってのもの。自信と自負には、体験を経験に変える知識の蓄積が不可欠である。そういう気がする今日この頃。
最近、見た、小耳に挟んだ新?製品に対する印象だ。この新製品、取り組み当初は偉い人、担当管理職、経営者は自信満々だった中、一人、その論理は成り立たないと警鐘を鳴らしてきたものだが、結果論的に、多数の論理が崩壊したようだ。世の中、そんなモンである。
但し、商売としては、こういうのを覆い隠すのも商売なのだ。結果は兎も角、取り組み方は兎も角、その意志の発端は正論もある訳であり、正論を理由に取り組んだという事実自体は宣伝の仕方次第では競争力になるのである。この辺が不思議なところだが、それも正である。取り組んだ事実、その姿勢を宣伝に出来れば一流の製品にも一見は見えるのである。その辺が不思議ちゃんなのだ。
只言えるのは、そういう論法や話術で、真実よりも意志をアピールして市場に打って出る姿勢は、後に大きな負担を負う場合もあるのである。まぁ、経営的に、それでも行うっていうのは、リスクを承知でベネフィットを得るということで、そこは大きな経営判断に従うのである。
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