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2008年12月12日 (金)

大人の模倣と子供の真似

 なんて事はない。戯言である。
 色んな人を見ていて思う事。麻生ちゃんに対しても、自分の子供に対しても、周りの奴、会社の役員、経営者を見ていても思う事、、、、、一番大事なのは、なんていうか自分の決断力ではないだろうか?
 自分の決断力というのは実に抽象的だけど、何かの行動する際に自分の声、自分の心に基づくモノかどうか?っていう部分だろう。自分の意志に基づくか?否か?が重要なものだと思っている。

 まぁ、この自分の意志っていう言葉も、何が該当、何が違うって区別もまた難しいのだが、、、、、人によっては、他人の意見、他人の様を見て、それを自分で判断したっていう人もいるし、それも或る意味自分で決断したには違いないけど、その決断の背景にある思想、論理的根拠を自分で組み立てたか?或いは、人の組み立てたモノを真似るか?という意味で、決断の根拠が自分にあるか、他人にあるか?を俺的には区別している。

 これを単純かつ判りやすい言葉で言い換えると、、、、自分の意志を通す決断に必要不可欠なのは何か?それは、一言で言って、『自信』である。自信というのは確立した自己論理であり、即ち、自負である。自信や自負を伴う判断こそが意志である。そこには、他人の模倣や真似というモノとは絶対的に違うっていうのが判るだろう。真似や模倣には、自信や自負は有り得ないのである。
 自信や自負を持てるか否か?っていうと、考える本人の経験で本人が感じる事であり、それは個人の中の問題。個人の中で、何かに取り組んで、何かを掴んだという感覚的な実感を得た経験の有無次第ということだ。そういう体験を感じていれば、会話の中にも、行動の中にも、そういう空気が滲み出るのである。

 例えば、麻生ちゃんの漢字事件も、良い訳としては『読み違え』って話だが、自分の意見ならば読み違えは有り得ない訳で、自分の意見で話す時の現行っていうのは、ストーリーを追う際の道しるべであり、語句を追うような喋りは有り得ないのは、論文発表等でも当然の事だが、文章を単純にトレースする時くらいしか読み違えは無いのは、みんな知っている事。多分、麻生ちゃん発言は、他人の意見の棒読み故に、こんな無様な失態を晒しているんだろうと思うばかりである。

 ところで、行動においては目的がある。目的っていうからには、現状の問題がある。その問題を解決する手段や道筋を選ぶのが判断というか意志であり、それを進める際には、当然、問題への対応が存在する。
 その対応の選択が、個人の瞬間の判断である筈で、その判断の先には、物事を進める際には必ず難題にぶつかる筈である。
 この難題や問題へ直面した時の気持ちは、人によって感情が異なるもの。ある人は、問題を問題と思わず、普通に対応したり、その問題を楽しんだり、或いは、その問題を必然と捉え苦に思わないけれど、ある人は、その問題に挫折したり、『聞いてないよ、、、』、そんな筈じゃないよ、、、、ってノリで諦めたりする。

 その差は何処にあるか?って考えると、問題が問題たる所以は、そこには処理すべき事案があるのは当然で、それを必然と思えば、問題解決のプロセスとして何も思わないけど、判断が他人のそれに基づく場合は、その問題を、聞いてない問題、想定外の問題として諦めるのではないだろうか?
 これは、ダイエットでも言えること。どんな方法でもメリット、デメリットがあるけど、自分の意志で進める人は、その選択をした時点で、ネガを受け入れており、それを乗り越える力があるけれど、人の様みて真似る人は、ネガを受けれず挫折するという結果になる。
 似たような話では、健康管理でもそうだ。不健康状態からの脱却を本気で考える人、それで行動を起こす判断を下した人は、現状の問題を冷静に受け入れる事が出来るから、悪しき結果も冷静に見れるもの。しかし、現状認識を拒む人は、それすら出来ず行動が伴わない。これって、健康診断、例えば、HIV検査で結果を知るのが恐いから心当たりがあっても検査を受けない人にも通ずる気もする。他にも、不健康な人が、健康を取り戻すべく必要性を自覚していながらも、行動が中途半端とか、或いは、その状態からの復帰目的で揃える健康機材を購入しながらも、その実態の大変さに辟易して頓挫するなんて事例とも似ている。

 このように行動には目的が存在し、その行動の結果は人によって様々な結果を生む。結果では前述のような挫折を繰り返す人も結構多いのが現実だ。
 そこで、なぜ挫折に到るか?っていうと、それは目的行動の先の解決が見えない場合とか、結果に必要な方法が判らなくなったり、或いは、ぶつかる難題の全てが理解出来ない場合という事。そういう障害が多い程に挫折する率が高くなる。
 行動においては、どんな次元でも担い手には必ず障害が立ち塞がるけど、それを越えれる人、越えれない人の違いは何か?っていうと、これが冒頭に書いたこと。行動が、自分の意志に基づく判断か否か?その判断には自信が持てるか?自負が持てるか?ということ。結局は、自負や自信を持つに到る、自分の生活における蓄積が備わっているか?どうかが分かれ目なのである。

 真似や模倣に終始してきた人間には絶対判らないかもしれないが、真似や模倣する心理というのは、自分に自信が持てない事の証明である。自信が持てない奴は、何やっても出来ないのである。自信が持てる奴は、何か一つでも、そういう原体験を持っている筈であり、その原体験が人格のバックボーンともなっているのである。
 その原体験をベースに、色んな分野で目的行動を繰り返す程に、成功体験が蓄積され、それが更なる自負となり自信となるのである。

 だから、真似や模倣、他人の意見で左右されるような奴は、自身の知識や経験に自信が持てる程の蓄積を始める事が第一歩なのだ。短絡的な結果を求め、真似、模倣、他人の影響や他人の意見に左右されるようでは、何時までも進歩は無いのである。

 ここで、注意するのは、成人以降での真似、模倣というのと、幼児の見よう見まねっていうのは別物である。その精神の根底に利害が絡んでいるか否か?が大きな違いであり、大人の模倣は、結果を早く欲しがるが故の行動。幼児の真似は、純粋に興味の対象としての行動。これは全く別個のモノである。幼児はそういう外的刺激から好奇心を刺激され、好奇心の根底では、自分で出来るようになるという自立本能があるのが当然であり、大人の場合は、教えて貰わないと駄目、聞いてないから駄目という依存性がある点で大きく違うのである。
 実際、子供に一輪車、バランシングバイクを教える場合にも、子供は手をはね除ける仕草が殆ど。そんな子供は人の様みて勝手にやりたがるのが本能。でも、大人は手取り足取りを希望する場合が多い。これは、講師の立場としても、技術指導の立場でも感じる事。そういうのを見る程に、その大人の生い立ちを気の毒と思う事が多いのである。

 やはり、自信を持てる行動が取れるっていうのが大事。自信が持てるから決断が出来る。また、自信が持てるから新たな好奇心への旺盛な気持ちが芽生えるんだろうと思う。そういう好奇心達成の喜びが自信に繋がり、その自信の蓄積の結果、何事でも自己で決断が出来る大人になれるように、我が子の子育てをしたいって改めて思うところである。

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