本能的な酒と煙草の付き合い方の変化か?
先日、コメントを頂いた。対象記事はCOPDネタで煙草と酒に関する内容だ。
酒と煙草には禁断症状があるっていうのは、良く言われている事。ところで、酒も煙草も嫌いか?っていうと、実は大好きなのである。
酒は?っていうと今の季節ならばブランデーの湯割り、通年では、バーボン、ブランデー、ウイスキーの順にストレートに限る。水割り、ロックは基本的に好きでない。水割りは味わ見えなくなるし、ロックでは飲むペースで薄まるのが不愉快だからだ。だから、味が変わらず舌で感覚が楽しめるという意味で、飲むならばストレートが基本なのだ。
それ以外では味以外の楽しみ方では、喉越しや風味を楽しむという意味で、ハイボールの高GVの炭酸で割った奴。それ以外は?っていうと、カクテル類が好き。ゴードンのドライマティーニとか、、、、有名な所ではモスコミュールとか、そういうのが楽しい。勿論、会話ネタには、ブルーハワイ、雪国、オールドパル、ロングアイランドアイスティー、、、、、そういうのは、カクテルが生まれた生い立ちから知っているので、カクテル自体が同席者との会話ネタにもなる。っていうか、学生時代のバーテンバイト経験から、そういうのが悪くない雰囲気と思っていたりするし、酒を使った楽しみ方と言う意味で、その武器としての酒は嫌いではない。
酒自体の楽しみでは、先の洋酒の次に好きなのが、ギネスの黒ビールだ。ビールならば黒ビールに限る。一世を風靡したドライとか、一般に伝統とされているラガーも好みでない。敢えて、黒ビール以外で好きなビールは?っていうと、、、、既に廃盤のファインピルスナーが好きだった感じ。
黒ビールと並んで美味い!って思えるのが、ワイン系統。ワインを飲みながら美味しい食事を摂るっていうのも悪くない。結構好きである。食事とワインと会話で夜遊ぶっていうのは、学生時代は週に4日以上は、そういう過ごし方である。
そんなアルコール生活だけど、結局は、合コンで飲む、女の子と出掛けて話するっていうための酒みたいな部分が多分にあり、そういう機会が不要となると、飲む必要も無いとも言えるのである。っていうか、そういう生活に飽きてしまったというのが本当の処かも知れない。
で、煙草は?っていうと、これまた嘘でも何でもなく、未だに禁煙しているつもりもないし、寧ろ、吸いたいぐらいなのだ。これは、不思議な事にある日突然、煙草が美味く感じなくなったのである。しかし、細かい事を考える時、訳の判らない?事を考える時には必須だったし、単車で山岳ワインディングを攻めまくって走った時のパーキングでの一服なんぞは至福の一服だと思っていたのだが、その際の美味さがあってのこと。
これが、全く美味いと思えなくなったのが断煙への一歩である。
その時に行った事は?っていうと、何が何でも、自分に合う煙草を探そう!っていうことで、自動販売機の全銘柄を順に買って吸ってみたのだが、どれも今一で、一本吸っては捨てるというパターンに陥り、結局、美味くないのなら買う必要も無い!って事が、断煙の始まりなのである。
それ故に、美味い煙草があるのなら、吸っても構わないとさえ思っているのが今である。
それが、不惑を過ぎて、酒も煙草を必要なくなってしまったというのが正直なところである。でも、それが必要な時期には辞めろ!っていわれても、多分、辞めれなかったのだろうと思うのである。
思うに、酒というのは、人生において交友関係を拡げる上で必要なモノ。煙草っていうのは、生活の中で様々な分野で可能性を探る際に頭の切り替えを行うスイッチみたいなもので、やはり必要なモノなのかもしれない。
しかし、人生における交友関係というか、自分の生きる世界が決まった時には、酒の必要度は一気に下がり、煙草でも、自分の好奇心で目指す方向性が決まった時には、思考切り換えの必要性も無くなる訳で、必要度が一気に下がるために喫煙衝動がなくなるのかもしれない。
御都合解釈かもしれないが、ブリンクマン指数とかサケ指数で言われているような影響の蓄積度評価で危険症状が現れる50歳以降迄に、煙草とかアルコールを用いる事で生き方を定めるっていうのが必要で、それを定めるための必然性が煙草とかアルコールの必然性なのかもしれないと思うのである。
逆に、煙草とかアルコールの必然性はやはり必要で、その効果を持って経験を高めるというのは本能的に必要であり、それが完成できていないと、煙草やアルコールの必然性が断ち切る意識を上回るのが、世間で言う禁断症状なのかなぁ?と思ったりする。
今や、酒もアルコールも不要だけど、その必然性に力を借りるタイムリミットというのが、先の因子に表されるような40~50歳ということかもしれない。そこで、その必然性を消化できれば、後の疾病リスクを高める心配もなく、天寿が全うできるのかなぁ?と勝手に考えているのである。
良く言われている禁断症状ってやつにも、禁断性を持つに到る摂理が存在しており、それが快感と思える状態っていうのは、それが必要という形で、生命にプログラミングされているのである。そのプログラミングの意味を考えると、何となく、禁煙とか禁酒の意味が理解でき、そうするための過ごし方っていうのも自分なりに考える事ができるかもしれないのである。
なお、元記事のコメントにも記載したけど、様々な病には、不可逆とか、手遅れとか、治らないとか、そういう話もチラホラ聞く。
身近な所ではダイエットでも中年世代以降では困難とか、、、、、
でも、そういう常識的な知見を逸脱した例が無いか?というとそうではないのも事実である。アルツハイマー症、認知症で顕著な症状として脳の萎縮が言われているが、人によっては脳の萎縮が見られても症状として認知症を発症していない例とか、或いは、末期癌からの復帰とか、、、、いろんな例がある。
そして、人はそれを奇跡といったりするのだが、これは奇跡でなく、実は、当然の結果なのだと思う。奇跡というのは常識的概念外の例ということ。常識というのは、統計的に見られる平均的な症例から生まれた概念であり、前例が無い場合を奇跡というだけであり、結局は、現代の医学や科学で証明されていないだけの事を奇跡と呼ぶだけである。
更には、現代の医学や科学は、実は殆どの事が明らかにされて居らず、もっと言えば、その僅かに明らかにされた事実さえも、情報を受け取る人は、情報の上っ面を表面的に聞いただけでであり、実は、殆どの事が未知の事という事実に誰も気付いていないのである。
それ故に、病と闘う人にとっては、その情報を表面的に判断するのでなく、また、表面的な知識だけで言われている意見に影響されるでなく、自身の強い意志と判断のみに従っていけば、良いのでは?と思うのである。
勿論、一般的な常識論は常識論として知ることは非常に良いことだが、その常識論が決して全てではないという事は理解すべきである。まぁ、常識論は多くの症例が示したパターンであるというのは事実であり、その事実をヒントに自分の生き方や考え方、過ごし方を決めていけばよいのである。
或る意味、御都合解釈かもしれないが、常識的な意見は、それを参考に過ごす反面、それが全てでないという事も常に考えて、自分の考えを主体に過ごすというのが良いように思うのである。
酒や煙草に対する付き合い方もそれで良いと思うし、それに起因する病に対する付き合い方、闘い方も同じではないだろうか?
一番、違和感があるのは、むやみやたらな嫌煙運動、喫煙者を追い込む制度、環境整備ということ。そして、そういう意見で目の敵のように煽動された大勢の態度という事だ。
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