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2008年12月12日 (金)

スポーツサイクルと市街地

 スポーツサイクル、特にロードバイク等のタイヤの細い自転車の多くは、連続的に漕ぎ続ける事が前提の競技で用いられる機材である。
 それ故に、その構成は全てが連続して走り続ける事が良いように作られている。逆の言い方をすれば、停まることが煩わしくなるような構成になっているということ。例を挙げれば、、、、ビンディングペダルなんかが良い例だ。そういうモノなのである。

 だから、こういう自転車に乗って楽しいのは、自転車本来の使い方、或いは、それに準ずる使い方をした時の話。それは理解できる。そして、そういう自転車に乗って効果を体感したり、心地よさを実感するのもそういう瞬間に限るものだと思うのである。

 しかし、こういう機材と使い方は、果たして公共の場に適応しているか?って考えると、結構厳しいものである。
 自転車自体、形状によって走行する場所の規定は殆ど皆無なんだが、その車型の持つオーラというか乗り手に与える雰囲気は、乗り手に自制を求めるモノなのだ。逆に、自転車の持つ特質を気持ちで抑える事が出来ない人は、本来使ってはならないものでは無いだろうか?

 チョイ前に、自転車の車道通行禁止に対する反対のムーブメントが局部的に盛り上がった事があるけれど、その多くがスポーツサイクルユーザーの声なのだが、そのスポーツサイクルユーザーが車道通行において遵守すべき交通規則をスポーツサイクルの持つ魔力に負けて規則破りを日常的にしているのが現実である。
 これでは、説得力ゼロなのだ。

 自分としては、自転車の車道通行禁止というのは、実は賛成なのだ。勿論、道路自体が路側帯しか無いような郊外の道路については、自動車、歩行者と同じ様に走れるっていうのは当然なのだが、少なくとも、歩道が整備された道路においては、自転車は車道を走る資格は無いと思うのだ。
その根拠は、先にもいったけど交通ルールへの遵守度が、自転車ユーザーのそれは、自動車運転手よりも歩行者のそれに近い実態を見ての話だ。信号一つみても、自動車運転手、単車運転手(単車のエンジン掛けたまま降車手押し無視行為は多いけど)は、信号無視率は歩行者程多くはない。それ程に自転車利用者の交通道徳は酷いのである。

 そんな危険認識が低いような乗り物は、交通の絶対的な流れが速い空間の利用を許可するのはナンセンスというのが持論なのだ。危険認識が低ければ、強制的に低速運行を強要させるしか無いのである。勿論、現状のままでは、歩行者に危害が及ぶ訳であり、歩行者空間とは物理的な障壁が必要で、走行エリア自体にも物理的に走行速度を制限させるような路面の凹凸、パイロン、支柱、溝切り、バンプで速度を殺さなければならない。

 今の自転車ユーザーを見ると、権利ばかり主張して、義務を負うという認識が大幅に欠如しているようにさえ見えるのだ。歩道が走りにくいから車道を走るとか、歩道が自転車走行に適した整備が為されていないっていうのは本末転倒であり、車道を走る資格が無いから、障害の多い歩道で使えというメッセージとも捉える事ができるのだ。
 更に突っ込んで言えば、障害の多い歩道で走りにくい自転車=高速連続走行が前提の自転車でもあり、そういう歩道走行が強要されるエリア=高速連続走行がナンセンスである訳で、スポーツサイクルなんぞを街中で使う事自体が間違いとも見えるのである。

 権利を主張する前に、多くのサイクリストは、自身の走れる環境を守るという義務意識で、車道における交通ルールの遵守、歩道における歩行者保護を啓蒙して取り組むべきでは無いだろうか?今の実態では、なんの説得力もない。そう思うのである。

 話が脱線するけど、12/9の水曜日の夕方のJチャンネルのニュースのローカル版では、福山市と岡山市における自転車事故対策と利用環境の実態、自転車インフラの整備状況が特集で組まれていた。
 そこでは、自転車ユーザー、特に、学生の傍若無人ぶりな利用形態が映し出されていたが、携帯電話操作運転、並進、脇見運転が典型的なもの。コレ見ると、インフラ整備、法整備しても利用者意識が改善するって見込みは殆ど無さそうって気持ちになる。それ程に、利用者の利用実態は酷い状況に陥っているように思う。スポーツサイクルも実用車も自転車自体、みんなの意識は、自動車とは別個のモノで、手軽なモノという意識からか、安全や他への配慮っていう部分でも軽んじられているようだ。

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