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2008年12月 8日 (月)

疾病とは、進化の試練、淘汰のフィルターかも!?

 健康診断の結果が帰ってきたよ!月間で、疾病関連の記事を大量アップ中である。
 そんな自分だけど、自分の考えは、知識も論理も伴っていないけど、考え方の基本は、人間も自然も全部同じもの。その系における変化、反応というのは規則性を持っているという考え方。正しいか、誤っているかは問題でなく、自分自身の考え方がこうだ!っていう前提の話である。
 その基本となる考え方っていうのは、全ての事象は複雑に絡み合い、全ての現象は一定の法則性を持っている。更に、その変化には必然性が必ず存在するというもの。つまり、世の中で起きている問題には、全て理由があり、必然性があり、方向性が決まっているということ。そう思うのである。そこには、感情も何も無しで、客観的に考える事が大事なのである。

 そうは言っても、人間は我が身が可愛く、自分にとって悲観的な事は考えたくないって本能があるのも事実。それゆえに、考える時にはテーマに対して客観的に見える立場でないと記事は生まれないのである。只、書き手が客観的に書いているのに対して、読み手は、なんらかの検索ワードで辿り着く訳であり、内容に対しては主観を持つのである。そうなると、結構、悲観的な印象を与えている場合もあるかなぁ?と心配したりするのだが、そこはコレ、この記事は、個人の思い付き日記のブログであり、公共性は殆ど皆無故に問題無いと判断している。

 さて、そんな前提で、病や疾病の意味をずっと考えていた。
 最初に考えたのは、個体に起因する疾病。ガン、糖尿病、認知症等の外的生物に起因しない疾病の類。これらについては、最近の記事に度々記載しているとおりに、何れの疾病も奥底で繋がっており、疾病としての発症は、複雑な生体システムの局所的な破綻が起点となって現れた症状という理解。そして、複雑な生体システムの維持は、生体機能の活用のみによって可能であり、生体機能(つまりは、人間という種族の進化のプロセスで洗練淘汰されて獲得した機能)を休眠状態としたり、他のモノで代用した時に崩れる生体バランスの結果が疾病として現れるのでは?ということ。
 此処で言う人類という種族の持つ機能っていうのは、食に置いては肉類、植物を同時に摂取するに叶った口を活用し栄養を摂取する習慣であったり、運動機能においては二足歩行であったり、知能面でも道具を使う思考回路であったり、歴史を積み上げて文明を発達させる知恵であったり、好奇心という本能で発明を繰り返す欲求であったりするもの。こういう本来備わった機能の意味であり、長きに渡る進化の過程で獲得した機能を保持出来るか否かが疾病に冒されるかどうかの分かれ道であり、進化の過程で得た機能を休眠させるモノほど、進化の歴史に反した存在という必然から、そういう個体に成人病とか癌という疾病が襲いかかり、結果として淘汰の対象(機能を休眠させる者=噛まない、歩かない、考えない奴ら)となっているのでは?という仮説である。

 その次に考えた意味っていうのは、例えば、ウイルス、細菌による感染。悪性新生物とよばれるような癌や前段症状の良性腫瘍、或いは、様々な不治の病と呼ばれる感染症、、、、いろんな病があるけど、そういう病は何故に存在するか?存在する時に宿主外の生物が何故に宿主を死に至らしめるのか?そんな事を考えたりしていた。生物っていうのは、本来、生存本能があり、感染性疾病に冒されたとしても、その原因であるウイルス、細菌自体も存在する必要がある筈なのに、何故に、感染先生物を死に至らしめるか?或いは、感染自体しない腫瘍細胞が何故に固体を死に至らしめるか?を考えると、個体のみを見て考えると、理解し辛い部分が多々ある。
 ところで、世界を見渡せば、人間同士が殺し合う闘争(宗教、経済格差、人種・・・・)も随所で起こっているし、地域固有の病が発見されたり、、、という状況である。

 そんな状況を見ると、これはもしかしたら人間という種族の進化のプロセスの一段階に過ぎないのかなぁ?と思う事があるのである。進化という言葉は、機能の洗練であり、洗練というのは、淘汰の結果生まれるもの。淘汰の結果というのは、種族において祖先を繋ぐ時に必須の考え方。環境の変化に耐えられる、耐性の高い個体のみが命を繋ぎ、種族を逞しく変化させる事が進化であり、その進化の流れに乗れない個体を間引く現象に過ぎないのかなぁ?と思うのである。全ての現象、事件、疾病というのは、人間という種族を強化するために必然的に起こっている状況に過ぎないのか?と思うのである。
 そう考えると、細菌やウイルスが宿主である個体を殺すのではなく、種族にとって合理性の無い個体を間引いているだけか?と思えば、客観的には納得できるのである。

 現代社会においては、様々な化学物質が出回り、それを口にする状況となっているが、それによって疾病を引き起こす、或いは、問題が生じないとパターンは様々だが、結局、そういう劣悪環境にも耐えられる個体の選択現象の一つなのか?とも考える事が出来るのである。
 こういう世の中で、淘汰されない側に残るには?って考えると、これはシンプルに考えるのが一番では無いか?と思うのである。結局は、種族として強い側に残るということであり、それは、生物としての進化の歴史に照らし合わせれば、本来持ち合わせている機能や器官を如何に休眠させることなく活用出来るかの只一点に集約されると思うのである。機能や器官を活用するっていうのは、結局は、言ってみれば人間らしい生活の事。食習慣、運動習慣、知的好奇心追求の習性を実践する以外無いのである。食習慣において、近年急激に普及しているサプリ類、特保食品類、合成甘味料、保存料に偏らない、横着志向で運動しない癖にならない、自分の頭で自分の答えを出す思考を保つってことである。こういう自然な?生活こそが、生体機能のフル活用に繋がり、生体機能の平衡安定性の確保と免疫機能の強化に繋がり、淘汰される側からの脱却に繋がるのでは無いだろうか?

 このような話を、絶滅した恐竜に当て嵌めて話したり、技術競争の生き残った技術史説明で論じたり、或いは、自然界の食物連鎖等々から遺伝、淘汰、進化論的に話すと誰もが客観的に受け止めるけど、これを人間に当て嵌めると、人によっては不道徳であるとか、情が無いとか、モラルが無いといった印象を与えたりするかも知れない。
 しかし、人類って種族も、多くの生き物の一つ。生き物自体が生体反応の連鎖によって活動しているのも事実であり、身体の構成物質も、元はといえば、全く関連のない所で使われていた元素だった筈。結局は、生物における進化の原則、自然科学における反応論、平衡論に従った挙動を示している筈であり、そう思うと、感情論、道徳論を剥がしていくと、純粋に反応の原則、進化のルールに基づくと結構非情な意見になるのである。

 感染の有無に拘わらず様々な疾病が存在するが、疾病自体が、人類を淘汰するための進化の試練のようなモノとも思える。その試練に打ち勝つのは、種族進化の過程で得た能力を如何に活用出来ているか?によるもの、、、、そんな風に考えるのである。

 改めて思うのは、知的好奇心養成のために単車、自転車に傾注し、運動能力確保のために、水泳、筋トレ、自転車を続け、自分で考えた主義に基づいた行動で生活を営んでいきたいものと考えるのである。
 この最後の一文である、自分で考えた・・・・って意味は、局部的な情報に煽動された習慣を持たないって意味。例えば、ある物質が発癌性・・・・って言われたら、それを極度に避けて他のモノに偏る習慣になったり、或いは、CM的に身体によいって言われているものを集中摂取という風に情報に極度に左右されないって意味。氾濫する情報の意味、本質を理解している筈もなく、安全という公称が真実か?という判断が出来ないならば、そういう見かけの情報に影響されすぎるのは、逆に、バランスを失い、習慣の偏りを生みかねないから。自分の知識で自分の判断で行うというのが大切。瞬間的に聞いた話で揺らぐモノほど愚かな行動は有り得ないのである。

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