好奇心 その2
昨日の記事は、趣味における好奇心の向き方を紹介したけど、今度は所謂正攻法の中での好奇心について。
誰でも、『道』について関心を持てば上達したいし、極めたいという願望がある。それ故に、努力したり、練習したり、耐えたり、、、、する訳だ。
これは、例えば、学問とか、スポーツとか、或いは、ダイエットといったモノに取り組む気持ちに見えるものだったりする。
学問で基礎から知識を積み上げる。スポーツでも必要な能力を地道に獲得する。ダイエットでも手順を踏んで行う。このような系統の取り組みは、積み上げるべき道が定まった分野では必須なんだが、その必須の手順を段階を踏んで徐々に行う。継続して行うというのは、その取り組みの先に得られる理想像を皆がイメージしているからに他ならない。
そして、その理想を得るには、手順が必須という認識故に、努力が継続するんだろう。
その取り組みというのは、実は、定型的なモノでなく、取っ掛かりこそは、万人に共通要素が多く含まれる基本的な内容であるが、その取り組みが進む程に、取り組む人に応じて内容は様々に変化するもの。そして、変化に到る選択というのは、取り組む個人が選んだ結果である。
その個々の違いというのは、個人が自分に応じた内容を取捨選択するものであり、そこで選択するのは、やはり一種の好奇心が働いているのだろうと思うのである。
このような正攻法的な段階の先に理想を追求する分野でも一番大事なのは、やはり好奇心かなぁ?と思うのが自分の考えだ。好奇心というのは、欲求があるから生まれるものであり、欲求というのは個人の理想があるからだ。理想があるから、具現化に最短の選択を行う訳で、それが個々のやり方に反映されているもの。
つまりは、何事も自分で選択できないというか、自分で自分の方法を見出せないのは、自分の理想がホントは判っていないから。自分の方法が自分で決めれないっていうのは、実は、理想を持っていないということ。理想が無いのは、ゴールが無いのと同じであり、結局は、自己を確立する事が出来ないように思うのである。
目標に対して飽きずに諦めずに続けれるかどうか?っていうのは、目的を確固として意識しているかどうか?であり、その手順を決めれるか?っていうのは、結局は、何すべきか?が判っているかどうかに掛かっている。
そういう風に思う事が多い。
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