いい加減
人の事ばかりは言えないけど、結構、みんないい加減だと思う。
いい加減っていうのは、仕事の質について思うところである。
仕事っていうのは、行動の対価を賃金で得る訳であり、賃金を得るには見合った仕事っていうのがデフォルトだが、そういうバランスが取れていない例を多々感じるように思うのである。
持論では、仕事を覚えて勉強するって言葉を聞く事があるけど、それならば賃金を得る資格は無くって、本当は覚えるのであれば授業料を払え!って気分なのだ。
さて、そういう風に仕事を捉えているのだが、街で溢れる?作業を見ていると、その仕事ぶりが賃金の対価を得るに見合うか?っていうと、結構怪しいのである。
思い付く例を挙げると、、、、、
・ネジを斜めのまま電動ドライバーで強引にねじ込んで、行き詰まる作業員
・サイズの異なるドライバーでネジの掛かりを壊して行き詰まる作業員
・車のエアロパーツの存在を無視したジャッキアップで外装を壊す整備員
・エアコン配管で長さが足らないのを不確実なジョイントで賄い確認しない作業員
他にも結構見てきたけど、なんか素人目に見ても有り得ない作業をしている奴、結構多いのである。あれで金取るか?って思う程だったりする。
金取る前に、雇われる資格が在るかどうか?が問題。雇用問題で職を失う云々って話を聞くけれど、少なくとも、作業に対して責任を持って仕事をする人でなければ、労働の対価で金を取る資格は無いと思うところ。
話は、変わるけど、そういうことは習うことでも無ければ、教わる事でも無い。
上の愚痴は、家電、家具のサービス員で体験したフラストレーションを愚痴にした事なんだが、最近は、自分の生活圏でもそういう事を感じることが多い。
良く聞くのが労災関連。労災の内容も、有り得ないような労災が起こったりするけど、そういう労災は常識欠如で生まれている様子。常識欠如といえば工場等での作業員でも見かける事があるけど、工具の使い方、使う向きが変だったり、ネジの閉め方、バルブの開閉手順、ネジの種別、テープの巻き方、釘の打ち方、、、、、そういう所に有り得ない作業を難しそうにする例を頻繁に見るけど、そういうのは教わることでも習うことでもなく、寧ろ、常識に近い事。そんな常識が通用しないのが今の常識なんだろうか?
そう思うと、雇用問題で権利を主張する人が多いのは確かだが、権利を主張できるだけの資格以前に常識を兼ね備えているのか?と、問い詰めたくなったりする。
生きる上で必要というか、文明を構成に伝える事の出来る人間としての天命は以前も述べたように、未知の知見を見出す事。即ち、発見である。発見、発明、特許という部分を生み出す力を頂点に、その未知に繋がる既知の作業を担う資格が続き、底辺が作業の根本を支える常識が必要と自分は思うのだが、この常識が欠落していれば、いくら公的な資格や免状が有っても何の意味も無ければ、作業に信頼をおくことが出来ないと思ったりする。
因みに、常識っていうのは、こうすれば、どうなるという常識的な因果関係を行動前に理解することであり、常識的な現象と結果の推定が出来れば誰でも簡単に出来ること。これは、ありとあらゆる現象に当て嵌まることだが、その因果関係を多くの分野で当て嵌められるようになるように知識的サンプルを知る事が実は教育だったりするのである。
基本的な常識論が通じないっていうのは、その初等教育の段階で知識サンプルの修得が出来ていなかったように思う。
辛口になるけど、そういう部分っていうのは自分の記憶に従うと小学校教育ではないか?と思ったりする訳で、義務教育レベルで身に付けるべき常識を持たない人も実は居るのかな?と思ったりする。
常識を持たないっていうのは、その上に資格を積み上げたり、或いは、知見を生み出す高みに辿り着く事は不可能にも近く、社会に存在意義を還元することが適わないのでは?と思ったりする。
中には不幸な例もあるかもしれないが、発明能力は愚か、資格も有さず、果ては常識的な概念も欠落している場合は、雇用面で不遇に遭遇するのは、或る意味仕方ないとも言える。仮に、常識的なモノを持ち合わせながら単に不幸で生活が立ち行かなくなるという状況はあってはならないが、常識さえも持たない者は、本来、社会から還元を受けるべきで無いのも道理であり、そういう常識を身に付ける初等義務教育であっても、検定を通過しなければ上級教育を受けて社会に還元できるポジションを与えるべきではないようにも思ったりする。
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