アイデンティティとコミュニケーション
最近思う事。
仕事でも、趣味でも何でもだが、敢えて、己で気付いた事っていうのは公開せんでも良いかな?って事。再認識する事というか、そういうのは、結果は同じであっても考え方は様々であり、それ自体は他人にとっては殆ど無意味な場合が多いかも?って印象。本当に同じ境遇で困っている人とか、必要としている人には出来る限りの協力はしたいけど、その境遇が同じでなければ何の価値もない訳であり、それが同じかどうか?っていうのは、価値観や経験が同じでない限りは多分役に立たないのである。それ故に、自分の目線で見つけた事、理解した事を嬉しげに触れ回るのも変な話。
自分で発見って思っていても、他人からは常識と思える事もあるだろうし、逆も当然ある。そして同じ事柄、同じ結果でも、それに到る過程は人それぞれであり、それが個性な訳である。結果は言えても、過程に正誤は無いものである。正に人それぞれなのである。その過程に個性を発揮することこそが、人のアイデンティティでありオリジナリティである。その部分っていうのは、どんな分野でもだが、殆どオープンになっていない。
色んな問題、色んな課題に対して、様々な過程、解法が存在する。その方法論を見出す部分が本当は一番重要なんだが、その部分っていうのは殆ど公になっていない事が多い。
情報の公開の度合というのを考えると、基本的に簡単に手に入る情報っていうのは、言ってみれば価値の無い情報。そんなもんである。本当に欲しい情報とか、価値ある情報っていうのは、殆どの場合、公になっておらず、簡単には手に入らない。そんなモンである。
ネットの情報っていうのは、量も質も様々であり、そこから真実のみをピックアップするのは非常に難しいもの。その感じ方は様々であり、簡単に表現できないのも事実。それを何とか判らそうとうする親切なサイトもあるけれど、読む程に難しいというか、書き手にしか理解出来ない、、、、そんな印象だ。
でも、それは虚偽でなく、書き手にとっての真実であり、アイデンティティである。アイデンティティって名の通り、他人の掴んだコツっていうのは、同一人物でない限り、あんまり役に立たないもの。そんなもんである。それ故に、各人が掴んだコツは、各人だけのためのコツであり、他人には通用しないもの。そんなモンだろう。
そんなコツを他人に伝える事程、難儀な事は無い。正確に真意を伝えるのは至難の業。それを表面的に伝えようとする事は言ってみれば間違いだし、そういう気持ちで中途半端に公に情報を開示するのも混乱を与えるだけのようなもの。
そういう情報の開示は、本当の意味でコミュニケーションが採れなければ伝える事は不可能だし、伝える事自体が大きな負担、労力を費やすのである。費やすってことは、或る意味、タダでは無いと言う事。
判りやすく言えば、見つけた勘所とか、或いは発見っていうのは、その境遇に置かれた人が、その人の経験や知識の上で初めて見つかった事であり、その事柄っていうのは、結果に到る前提となった問題の見方等々が同じでない限りは無意味な事。それ故に、そこで見つけた事を伝える上で一番大事なのは、その結果に到る前提条件とか境遇とかであり、そこが共有出来ない限りは結果を伝える価値が無いのである。その結果に到る条件を伝えるという部分が最大の難題なのである。
思い起こせば、過去の経験では、例えば、自分が経営者で運営していた塾では、テキストから指導要綱迄完全オリジナルだったけど、対価として月謝を得ていた事もあり、殆ど教えられる事は全て教えていたし、教える事自体を喜びに感じていたのは事実だ。因みに、1990年当時で中学生の月謝が27,000円という金額。考えてみれば、べらぼうに高額かもしれないし、家庭教師では、時間制限無しで進度保証で月額100,000円という金額を通していた時代もある。
当時、塾の生徒は2教室で総勢で140人程、請負家庭教師では個人指導の生徒で同時並行最多で6人という時代もあったが、内容と対価で納得していたせいか、当然、出し惜しみ無しで接してきたように思う。
自分でコツを掴んだという自負、アイデンティティを確立したという自負は、それを伝えるのには本気で取り組まないと伝えれないということにも繋がる。それを行うには大きな労力と負担が生まれる。それを承知で人にコツを伝授するには、自分の分身を作る行為であり、それはやはりタダでは、そういうモチベーションを保つ事が出来ないのだ。
それ故に、塾という商売が成り立つんだろう。
趣味に限らず、仕事でも、自分で掴んだアイデンティティを広めるという状況が訪れて、それに注力するかどうか?は、やはり、それに見合ったモノを感じられるかどうか?がとても大きな要素である。
そんな訳であり、敢えてオリジナリティとかアイデンティティを人や組織に還元しよう!って気持ちにはなれない感じである。そのためには、問題に対する意識、それに取り組む姿勢、そこに必要な知識等々で等身大の聞き手が居てこその話なのだ。そして、自分と同じ目線の人っていうのは、誰にとっても皆無みたいなもの。それ故に、伝える側は相手に対して自分と同じ目線が持てるような取り組みが必要であり、それが一番の難儀なのだ。そのような行為を行うかどうか?を考えると、そこまで他人に奉仕というか、そうする義務も無いように思うのである。コミュニケーションとは一方通行ではダメだ。ギブとテイクが在って成り立つモノ。話すばかりではダメ。聞くのも大事。それは全てに言える事だ。
書いてる事は、モロにチラシの裏みたいなモンだが、剰りにも奇抜なアイデアは結果だけの公開は有り得ないし、剰りにも突拍子も無いと見える発想も組織に公開する事は有り得ない。
出し惜しみっていうのとは違い、奇抜とか突拍子も無い発想というのは、そこに着目できる素地を聞き手に伝えるという事自体を行うべきか?というと、それは違うように思うからだ。
奇抜とか突拍子も無いというと変人的かもしれないが、個人には個性があり、その個性から思い付くアイデアとか得た知見というのは個人毎に皆違うモノ。各個人は皆、そういうモノを得ている筈なのだ。そう考えると、一方的に何か出し続けるのが自分だけであるという必然は感じないし、寧ろ、皆が出すような雰囲気こそ大事かなと思い始めたのである。
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