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2009年6月20日 (土)

臓器移植法案

 表題の臓器移植法案のA案が衆議院で可決されたそうだ。
 脳死は人の死と定義する。これが意味するモノは何か?

 それを議論するには剰りにも短すぎる時間で採決されたようだ。総意として賛成意見、反対意見を多数決で決めるのは悪くないが、議論が尽くされたとは言い難い印象である。

 今回の採決では、移植を待つ患者さんから見ると、非常に有意義な結果だが、視点を変えると見方も変わる。

 脳死前提で積極的な医療が無意識に放棄される危惧、虐待、DVの結果か否かの判定はどうするか?とか、モラル的に脳死状態の患者の組織を資源的に見ないか?とか、、、、色々である。

 どの意見も一理ある。

 ただ、全く個人的な印象だが、臓器移植っていうのは、個人的には生命の尊厳から考えると、其処までの医療行為は神への冒涜というか、自然界のルールへの挑戦のように感じるのが正直な感想なのだ。

 不妊治療、移植、遺伝子操作、、、、このような行為は果たして行うべきか?という部分で心の奥底で違和感が拭いきれないのが素直な意見なのだ。それは、末端的には薬漬けで得る健康、サプリ依存生活への抵抗感に相通ずる感覚なのだ。

 何が正しくて、何が間違っているかの価値観で、果たして、長生き、長寿、、、、それは万人にとっての常識かという判断に違和感を持つのである。
 身体に障害を抱える方に対してどう思うか?というと、身勝手な意見だが、それは個性の一種という捉え方を持つのである。人によっては、それを不幸とか、可哀相とかの感想を持つ人もいるが、それは自分が幸せという価値観に基づいての判断であり、そこには優劣思想が入っているように感じる。
 思うに、個性とは違いであり、その違いの顕著な例がそういう事例かもしれないが、それは可哀相というものでなく、違いに過ぎないという認識なのだ。

 疾病、怪我、先天的な何か、、、、それは、やはり違いであり、違いは違いという認識を持つのである。生きる事と生かされる事、これはやはり同じとは捉えられないのである。

 勿論、そのような意見が当事者とか近親者に該当する人が居て同じように言えるか?と言われると、それまた自信は無いが、少なくとも、そのように立場が違えば様々な価値観と意見があるのは事実であり、その価値観が集約していない現状では、採決を行う事自体が時期尚早の感を受けるのである。

 人によっては、生まれながらにして障害を抱え、長生き出来ない例も少なくない。ただ、その事実をどう受け止めるか?それは、考え方次第だし、本人にしても何を考えているか?意識の深層はたとえ家族でも判らない。そう思うのである。可哀想と言うよりも、違いの一つとして考えたいというのが自分の理想論なのだ。そういう個性であり、人格を含めて100%対等であるという考えを持ちたいというのが、理想論と言われるかも知れない考えの根底にあるのだ。

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