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2009年6月15日 (月)

どこにも書いてない事

 単車、自転車、共に好きである。
 どっちも移動の手段だが、移動の過程で求めるモノが決まっている。単車の場合、未知のワインディングを自在に可能な限り速く走り抜ける事。自転車の場合、持てる体力を可能な限り出力に換えて遠くに行く事。それが、一番の目的で、そのためだけに接している。

 シンプルに言えば、どっちの乗り物も速くということで、同じ趣味を持つ人と同じ方向を向いている。そのために、することは何か?となると、多くの人と同様に、色んな情報を収集する。試す。聞く。習う。盗む。情報の品質も重要だが、量も重要ということで、多くの人同様に色んな事を試してきたように思う。

 しかし、そういう調査とか情報収集では限界があるのも事実。

 自分の理想に近づくには、理想とは何か?理想を選るには何が必要か?仮に、どうすれば理想を具現化するモノが感じれるか?といった、或る意味、数学的な仮定立案と証明的な活動が必要なのである。

 この問題を解決する手法というのは、実は、人生において遭遇する様々な問題への取り組み方と同じモノで、その手法というのは、実は教育課程において身に付くモノなのである。小学校教育では目に入る情報を紹介し、何故?何?の気持ちを植え付ける。中学校では、それらを体系立てて、分野ごとに最も単純な手法で問題に到る手法を身に付けさせる。高校では、仮定証明の方法のパターンを教え、大学教育では、正解が定まっていない分野で、身に付けた問題探求の手法を実践させることが目的なのである。
 この問題を解明するというのは、数学に限らず、語学、自然科学、法律、歴史、、、といった様々な分野に通用するものなのだ。

 未知の問題を無闇に試行錯誤しても答えには辿り着かない。答えに到達するには、近道を選ぶ方法論に従うのが最良であり、その方法論こそが、成長過程において学ぶべき事柄なのである。勿論、このような事は字面だけで答えを得る筈もない。実践、評価がセットであるのは言うまでもない。必要なのは、理想と理想を実現するための仮定、仮定を証明するための実践と評価の繰り返しである。その先に、その人なりの理想の答えがあると信じている。

 その答えっていうのは、人によって異なる理想毎に違う答えが、探している人にもたらされるのである。

 例えば単車で見知らぬ峠で自在に走る。咄嗟の判断で対応できる。そんな能力に必要なのは何か?それを考えて、それを得るためには何か?それを得るには、何が出来ないといけないか?それをするには道理に従うと、どんな乗り方がベストか?その乗り方を極端な形で身に付けるにはどんなトライが必要か?
 これをモデルに置いて、これを実践し試行錯誤した結果得たモノ。こういうモノを自分の中に確立している。この仮定が何で、それを実践するには、どうすればよいか?というのは、或る意味、人生の集大成みたいなものであり、それは唯一の守るべきモノ。

 自転車でも同じである。持てる体力を最高効率で出力に換えて、最も遠くへ、最も速く走るには?何が必要か?何を省くか?それを体感するには、各部をどう仕上げるか?調整するか?それが出来たら、どう感じて、それが出来なかったら、どう感じるか?という風に、仮定を立てて仮定を実証するにはどうするか?を考えて自分なりに掴んだコツというものがある。これは単車での自信を持てる乗り方と同様に、自転車でも自分のスタイルという形で大事にしているモノなのだ。

 このようなモノは、人によって異なるモノ。何故ならば、求める理想が違うから。それ故に、一般論とは為り得ないので、文書にもネットにも公になっていない(突き詰める人が誰も明らかにしていない)モノなのだ。
 これこそが、単車や自転車に乗った時の自分の武器になるのである。そうやって見渡すと、誰一人、その勘所を記載している例が無い。そういえば、工学図書にも理解のコツみたいな事は何も書いてない。事実のみ淡々と記述しているだけ。結局は、掴んだ事は誰も人に明かしていないのである。勿論、自分も人には絶対に明かさない。

 そうやって掴んだモノが自分の中で自信になり、確信として持てるようになるには、やはり、自分の知識レベルを高め、少なくとも自分の知識の範囲で論理的な破綻を来さず、信じれる道理に従っていなければ有り得ないし、自分の知識に自信が持てるように、知らない事を知らないで放置させない知的探求心も必要である。それだけでなく、そうやって信じた通りを実感として納得しなければならないし、納得に到るまで、物事を感じ取る事が出来るようになるまでの実践を積み重ねていなければ砂上の楼閣の如きの自信に留まるのである。

 単車で言えば、200台を越える台数を乗って、月に3000km走行という生活を10年以上過ごして得た結果だし、自転車ならば自分だけの力で何処まで行けるか?どれだけ走れるか?をターゲットに競技生活を含めて5年以上取り組んできた自負があるからである。
 勿論、自身の状況で納得しているのは、二輪車を扱うに必要な筋力、心肺機能といった部分を維持する生活を人生の8割方の期間において継続し続けているという自負があっての話だ。

 多分、天才とかセンスがあるって人は、そのような事を直感というか、繊細に感じる神経が発達して答えに最短で辿り着ける能力を持っているのだろう。

 天才とは程遠い自分の場合、単車でそれに気付くのに5年は要したし、自転車でも同じくらいの期間を要した。過去を振り返ってみると、自転車の競技を諦めたのは、当時、大腿骨の粉砕骨折という怪我に見舞われたから。当時、膝の関節は曲がらないと宣告されたのを覚えている。それで単車一本となったのだが、それから20年のタイムスリップを経て身体機能も事故以前の健常者と同じ状態に戻っている今、当時の掴んだ考えがそのまま通用する。それが判っただけでも、当時の考えが自分なりの自信に見合うと思えて嬉しいモノである。そうやって掴んだものはやはり大事にしたいものだ。

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コメント

そうですね。不干渉の原則ですね。
でも、やっぱり一言言いたくなる事があります。

投稿: 壱源 | 2009年6月15日 (月) 17時46分

サイクリングロードの車止めが外されているところがありました。
サイクリングロードを他の用途で使おうとするひとがやったのでしょうか?

過去の体験からひとつ言えるのは、迷惑な行為や不可解な行動をするひとにかかわってはいけない、という事です。

投稿: yama | 2009年6月15日 (月) 17時44分

そういう状況、多いですね。
記事に関係無い事は無いです。

その判定をどうすべきか?どこにも書いていません。
そういう脱法行為を違法だと非難すべきか?或いは、そういうのが国民性であり、それを当然と受け入れて腹を立てるのを抑えるか?これが、難しいですね。
明文的には違法、世間の多数派意見≒常識?的には、当然、、、、

実際、歩行者、一般自転車利用者、普通の自動車運転者、、、マナーの良い人もいれば、悪い人もいる。悪い人程目立つ。でも、誰も見て見ぬフリ、多いですね。
駐車場でエリアを跨いで斜め駐車する車、駐車向き指定を無視する車、空いているから?という理由で、本来のエリアに駐車しない車、、、、彼らの中には、その程度は常識という判定基準があるのでしょう。そして、その程度の行為は少なくとも逮捕される事はなく、或る意味、大丈夫だと判断しての行動。

そのような行動基準は何処にも書いていませんが、世間の身勝手度は相当なもんだと思うのが実際です。

投稿: 壱源 | 2009年6月15日 (月) 08時54分

幹線でトラックと並走するのが怖いので、車がほとんど走っていない農道、広い歩道、サイクリングロードを走る事が多いですが、問題が無いわけではありません。

サイクリングロードに釣竿を何本も立てかけて30cmくらいしか空いていなかったことや、どこから入ったのか大型の四輪が居座っていた、ということが最近ありました。

記事にあまり関係なくてすみません。

投稿: yama | 2009年6月15日 (月) 08時02分

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