願望、希望、無謀?
何だか知らないが、サイトの検索ワードで多いのが、自転車で速くなりたいとか、心肺機能を高めたいとか、、、、上手いペダリングがしたいとか、、、、そんな検索ワードが多いようだ。
それをネットで探している人が多い様子。
そういえば、身の回りの自転車好きな奴にも、そんな事を言う人が多いし、、、、。
話はずれるけど、単車でも峠を上手く乗る!的な雑誌のライテクのハウツー本がライスポ誌を中心に特集されているけど、自転車雑誌でも、ヒルクライムがどうだ、、、、巡航速度がどうした?って本が多い。
この辺の、本、ネット等々で共通している事。それは、、、、、オーバーオールで形から指示している事。殆どが形である。
見た目や格好、言葉も大事だが、そんなもん、おぼえても何にも為らないと言える。
なんだか、大昔に中学、高校生が、参考書を買い揃える事で勉強した安心感を得る世界と同じ印象。そういえば、中高生の勉強が公式暗記に傾注している実態とそっくり。
公式暗記しても、役に立たないのは、人生経験で判っているだろうに、趣味でも同じ事しているのが笑える。
基本、本とかネットとか他人の伝聞とか、、、特に、一方通行の情報源の場合、他人に当て嵌まる事が、悩みを抱える本人に当て嵌まるというのは、極めて稀である。特に、定型的、直視的に判る様な答えに問題の本質が見えているって事は無いだろう。
他人が出来る事が、自分に出来る筈という論理自体が成り立たないし、目に見た一瞬で、他人が自分と同レベルと判断する事も不可能。その人が、どう過ごしてきたか?そんな生い立ち、考え方っていうのは千差万別であり、殆ど見た目のトレースも役に立たないし、他人を仮想敵とか目標に据える事自体も無意味。
どんな分野でも、潜在的な能力的限界の差異は確実に存在する。しかし、その能力的な限界の差異が個々の差の主要因ではない。人によっては、個々の差を能力、特に、遺伝的能力の差と言う人もいるけど、潜在的な能力的限界迄個々の能力を高めた人っていうのは極めて稀。そうして、能力的限界の差異は存在しても、実は、その差は僅かである。これが、常日頃言っている、動物の種が同じだったら能力なんて似た様なモノって言う理由にも該当する。
生まれ持っての能力の差が僅かであっても、結果的に個々の能力は大きな差を生んでいるのも事実だが、その大きな差の主要因というのは、生まれ持っての能力の潜在性を具現化出来た割合の差によるもの。潜在性を能力として獲得するには、然るべき時期に、然るべき方法で、潜在性が機能として身に付くようなトレーニングすることが必須なのだ。このトレーニングというのが潜在性を具現化(機能を獲得)する上で重要な刺激に該当するのだ。このような時期に同じ様にトレーニングして得た能力の差っていうのが、遺伝的要因かもしれないが、その遺伝的要因による差異よりも、成長に際して必要な刺激を与えたかどうかによる差異の方が圧倒的に大きいのである。
この原則に従えば、個々の今の実態というのは、個々の潜在性+個々が過去に歩んできた生き方(つまりは潜在性を具現化するに与えてきた刺激の量、トレーニングの質)によってもたらされたモノであり、その実態に到る背景は皆違うのである。
それ故に、自分の実態に即した分析と、結果を得るに必要なモノっていうのは、一意的には与えれない。
笑い話だが、成長段階の青少年期に運動経験の無い人が、老化モードにある三十路過ぎで、本来の潜在能力が眠ったままの筈だから、トレーニングしたら備わった潜在性を具現化できる!って話していたが、時期を逃して獲得しそびれた能力は、タイムマシンでも無い限りは絶対に取り返す事は出来ない。勿論、目的に併せた取り組みに応じて、緩やかな進化はするだろうけど、然るべきに行ったとして画く理想の自分には絶対に到達しないのだ。
そういう事は理想というよりも願望でも希望でもなく、行う事自体が無謀とも言えるのだ。
結局、今の自分というのは、オリエンテッドなものであり、その自分を高めるにはどうするか?と言う部分では、自分の不満と持つ問題を列記し、その問題の何が能力を律しているか?を見極め、その制約を取り除いたら何が得られるか?を定めた上で、制約となっている部分を解消するという行為が必要であり、そういう思考の手順が無い限り、表題の希望っていうのは、叶えられないのではないだろうか?
色んな環境で、講師、インストラクターの経験があるけど、伸びる奴っていうのは、やはり定型性に重きを置かず、問題認識がハッキリしており、因果に基づいて解を求めるタイプであり、公式、技法の暗記に重きを置くタイプは、ツボに嵌った時だけ点数的な数値に良い結果を出すだけで、少し捻ると壊滅的な結果になる人が多かったけど、多分、似た様なもんだろう。
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コメント
ネットの世界は自己申告制ですから、話半分ですよね、、、、
文章だけで、それが真実か否かを判断するのは、難しいようで実は簡単だと思います。
書かれている文章に虚飾が多ければ、判る人から見れば、それは見抜けるモノです。
逆に、其処に書かれている事が見抜けなければ、読み手もそのレベルという風にも考えれます。
伝聞っていうのは、今一信用出来ませんね。実体験を伝えようとする文章は、文章自体に伝えたいという意志が滲み出るモノだと思います。
投稿: 壱源 | 2009年7月17日 (金) 21時22分
学生時代は運動といっても同好会レベルのくせに去年始めた自転車で60km/h出し、70km/hも可能なんて言ってるネットさんてちょっと哀れですね。
多分病気なので触れないほうがいいのですが。
あと人の受け売りをまるで自分の意見のように書く人も同類ですね。
ネットの無い時代もバイク雑誌なんかでいましたよ。
投稿: yama | 2009年7月17日 (金) 19時34分