目的意識
先日、コメントを頂いた方と多くの部分で意見が共有できると感じた事。
それが、表題の『目的意識』である。
目的意識とは、現状の問題を自己認識しているのである。詰まり、自分の現状把握が出来ているということ。そして、目的が持てるのは、その現状問題の因果関係を類推しているということなのだ。
つまり、目的意識=現状認識=問題の類推=因果関係の把握という方程式が成り立つのだ。
これは、真実を追究する世界では共通した考えである。その世界における真実は絶対的に一つなのだ。要するに、競技における一等賞であったり、優勝、世界記録、最もエライとか、ノーベル賞、、、、、というように価値観の方向性は同じ方向に向いて優劣が語られている。
真実の追究に終わりは無いが、その方向性は一つであり、その優劣を極めるのが競技であり、学問、研究なのだ。
その優劣を競う上での闘いはどうやって生まれるか?というと、方向性こそは一つだが、その一つの方向性で優れた結果を出すには、それを支える要素に何を選ぶか?が異なってくるからである。
例えば、数学の問題を代数的に解く人、幾何学的に解く人の違いだったり、自転車でトルク重視で漕ぐ人、回転重視で漕ぐ人の違いだったりするのである。
その選ぶ要素の組み合わせが人の個性であり、違いなのだ。ただ、どっちが正しいという質のモノとは異なり、違うだけの話なのだ。そして、その違いは個人の目的意識で選んだ要素の組み合わせによって決まるものである。
ただ、スポーツや学問が自然科学のルールに則ると言われる所以は、結果を得る要素の選択は自由だが、選んだ要素における優劣、真偽は自然科学に則っているという真理があるからだ。
多くの素人や、横着系の人が、自分の考えとか、自分なりという言葉で好き勝手をやるが、要素の選択に自由度は有っても、その要素毎の考え方が支離滅裂の場合が多く、そういう考えになる時点で、その人なりの上達の可能性は壊滅的にゼロになるとも言える。
上達というのは、選択の自由、選択したモノの真理に従う。その真理を学ぶという謙虚さと、無知を認識して知識を積み上げるという前提が無ければもたらされないのである。その積み重ねの先が、行動において必要な本当の意味での目的意識を持つ事につながるのである。
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