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2009年7月 1日 (水)

日頃の運動の意味

 毎日、運動を続けている。
 見方によっては量的に違和感を感じる人もいるようだが、何故に、続くか?出来るか?っていうと、一言で表現すると、『老いに対する抵抗』って話は、ブログでも再々記載している。

 すると、このブログで紹介している運動の一部をトレースして、目的としても同じように『老いに対する抵抗』って言う人も居る。

 別に良いのだが、老いに対する抵抗が、このブログの内容をトレースする事で、同じ事をする人にもたらされるか?っていうと、チョット怪しい気がする。

 その理由は、、、、抽象的な老いに対する抵抗の意味が、本人にとっても抽象的な場合、もっと言うと、老いに対する抵抗のために、何故に、このメニューを選んだか?が結びつかないと、そのメニューを行うことで、何がどう変わったか?が感じれないのでは?という危惧があるからだ。

 自分にとっての老いに対する抵抗というのは、老いる前の状態と較べる上で、老いる前に何がどの程度出来たか?の基準があって、そこに何処まで戻れるか?で推し量っており、老いる前の状態を作るに到った日常の練習を今に再現しているだけで、その再現メニューが今選んだメニューに相当しているのである。

 つまり、今のメニューっていうのは、当時行っていた練習に近いメニューということなのだ。そして、当時的に言えばメニュー=トレーニングであり、何故にトレーニングを行うか?というと、運動の種目別に必要な能力(力の絶対値とか使い方、使う部位)の内、自分で行うべき要素は何か?を考えて、その種目に応じた使い方を想定した上で、その想定した使い方が出来るように集中的に行う行為の事をトレーニングと呼んでいたのである。つまり、トレーニングとは、行うことで何を獲得したいか?が決めれなければ、種目に応じた能力の獲得には繋がらないである。

 よく自転車で筋トレは無用と言う例がある。これは、或る意味正解で、或る意味不正解なのだ。正解となるのは、自転車に乗る行為の中で、鍛えるべき部位、部位の動かし方に特化した部分で集中的に鍛えるのであれば、そのための筋トレは正解だが、そういう目的意識無しに漠然と筋肉を付けるという筋トレでは、必要で無い部位を鍛えたり、実際の使い方で使えない筋肉を動かす神経回路を作ったりして百害あって一利無しというのもあるのだ。
 つまり、筋トレは有効だが、自転車を例に上げると、パフォーマンスを上げる上で必要な力、使い方を意識した上で、どうすべきか?を考えながらの筋トレで無ければ全くの無意味に終わるということなのである。

 その辺の意識が一番重要であり、自転車に限らず、どんな種目であっても、トレーニングとは種目の実践において発揮すべき能力を発揮できる形態をエミュレートした上で集中的に鍛えるというのが大前提であり、各自が選ぶメニューというのは、各自が種目において納得できる結果を得るのに何を選ぶか?で決まるものなのだ。
 つまり、メニュー自体はオリエンテッドなものであり、抽象的な能力を得るのに、どういう要素で勝負するか次第でメニューが代わり、そうやって獲得した能力の組み合わせ方が個人によって異なるのが本来の姿なのだ。

 だから、目的意識をもった人間であれば、目的が違えば、組み立ても違う。組み立ても違えば、パフォーマンスの得手不得手も違うのだ。そして、それは優劣でなく個性というものなのである。言えるのは、個性という能力を支える各要素の進むべき方向性というのは、種目=科目で在る限りは、絶対的に正しい方向性が存在しているだけなのである。

 人によっては、自分の思い通りにやっているから!っていう人も居るけど、どの要素を組み合わせるか?においては自由な選択があり得るが、選んだ要素において進むべき方向性自体は間違いなく決まっているもの。そして、素人の過ちっていうのは、要素における進むべき方向性の間違いを自分の考え!といって主義を曲げない頑固さなのである。

 話が回りくどくなったけど、要は、トレーニングであれ、練習であれ、そこには目的があり、その目的が何か?を具体的に見定めることがなければ、行っているトレーニングはタダの自己満足に過ぎず、単なる筋肉ダンゴになるだけだったりするのである。トレーニングに限らず、練習っていうのに必要なのは、具体的な目的意識なのだ。

 だから、自分が一言で言う『老いへの抵抗』っていうのは、老いる前に計測した実績のある種目で、その記録に今近付く事を言うのである。そして、それに近付くには、当時行ってきたメニューがベースにあり、そのベースをどうすれば、今の自分のリソースに合わせて当時に近づけるか?を考えてメニューを作っているのである。
 当時がどうか?という基準として、偶然、自転車や水泳が自分の当時を示す数値を持っていただけで、それを得るのにどうしたか?を記憶しているから、それをベースに今を決めているに過ぎないのだ。

 だから、このメニュー自体は、そのような目的が大前提であり、メニューのそれぞれは、単純に模倣するだけの人からみると、その動作における勘所を何処に据えているか?が恐らくは全く想像出来ないものだろうと言える。この何処に据えるか?というのが、実践において足らない物をトレーニングによって集中的に鍛える事に相当するのである。

 一言で言うと、毎日行っているローラー台は、有酸素運動のためではないし、筋トレも単純に筋肉を付ける事を目的にしたような動作は行っていないのである。持久力=有酸素運動は確かだが、そのために行うべき有酸素運動は、どのような負荷でどの位続けるか?次第でメニューは選ぶべきなのだ。時間があるからエアロバイクをコグっていっても何のために行うか?その行為が役に立つか?を考えた上で行わなければ何の意味も無いのである。

 必要なのは具体的な目的意識。その先がどうか?を見据えているから、毎日続くし、日々、行うことが変化しているのである。
 折角、このサイトを見て、同じようにダンベル筋トレとか自転車漕ぎを行っている人もいるようなんで、ただ模倣しても同じ結果にはならないというアドバイスを敢えて記事にしてみたのである。

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コメント

こんにちは、コメント有り難うございます。
正にそう思います。目的意識を持つ事は、自分の問題が理解出来ている事です。その問題を解決する事が目的意識に繋がる訳です。つまり、因果関係を見抜いている訳で、これが、体育会系、理系の発想ですね。

他人が何しているから、本に書いてあるから、人に言われたから、、、、そういう主体性無しでは、何を行っても結果は得れません。何故ならば、本人に目的が見えていないからです。
そういう事を周りに伝える事は多いですが、人によっては、その目的迄教えてくれ!?っていう人も居ます。

しかし、自転車の面白さは、その目的意識で解決する方向性が自然科学的に真理を追究することであり、それ故に、終わりのない面白さが有る訳で、その辺が気付かない人は、チョット可哀相とも思ったりします。

投稿: 壱源 | 2009年7月 1日 (水) 12時14分

自転車の場合、2時間目的も無く走るのよりは、30分間目的を決めてトレーニングしたほうが、遥かに効果があるとかは、よく言われますよね。 「今やっていることは此処をこう強化してこういうシチュエーションで速くなる」ということを理解するというのは重要ですね。

やはり、目的が無いと、ついつい楽をしてしまうからなんでしょうか。人間、基本は怠け者、楽をしたがりますからね。そういう意味ではLSDなんかはとっつきやすい練習ですね。

投稿: k | 2009年7月 1日 (水) 11時36分

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