較べてみると?
単車と自転車、どっちが楽しいか?というと、答えは明白、、、、断然、単車だ。
理由は、自分の理想と実践の結果にギャップが存在するから。理想を見繕う時に高すぎる理想を掲げているか?或いは、イメージをトレースすべき実践で想定通りに出来ない場合が少なくないから。つまり、自分の想定と結果が完全に一致していないからとでも言おうか?そんな感じ。精度の低さが、自分の単車観にあるからだ。
自分が出来ると判断した事が、イメージ通りに出来るか?出来ないか?で、単車の場合の方が出来ない事が多いっていうのは、その精度を高める工夫の余地がある。そういう意味というか、それこそが楽しい理由である。
自転車の場合、自分のイメージで自分の出来る理想をイメージすれば、ほぼ100%、思い通りの結果を得る事が出来る。他人に大してどうか?でなく、自分の持てる能力から自分が出来る程度がどうか?を考えた時に、そのイメージに対する実現度が非常に近い。
それ故に、今とは他の事が出来るか?というと、それが思い浮かばないし、自分以上の他人を目標とはしていないし、自分が出来るレベルで上が狙えるか?というと、それも出来ない自信がある。
言ってみれば、今の自分で自転車に大して出来そうな事は一通り行っているし、行ってきて得た結果を今以上になるよう方法は?っていうと、在ったとしても望まないというのが理由。
実際、自転車に乗る機会は少なくないけど、乗る都度、自分のイメージ通りなのは言うまでもない。思いの外、ダメとか、、、、そういう事は無いのである。
単車の場合、或る峠道に出掛けて、そこを走る。走る際には、視界から走りのイメージを組み立てる。組み立てた結果をトレースするのだが、その実践の結果、どうか?っていうと、イメージをもっと上にしても良かったのでは?とか、イメージ通りに身体が動かないとか、そういう時が少なくないのだ。イメージに対する再現性が低い。少なくとも、イメージしているのは、それを実践するための方法も判っているのだが、それが何らかの理由で出来ないのである。その理由も殆どの場合、判っている。判っているから修正できる。修正の余地があるっていうのは、自分の持っている何かを更に引き出す事が出来るって事。
だから、想定通りの結果を得れる様になりたいという願望が興味というか好奇心に大きな力を与えているのである。
実際、大昔の学生時代でも、テストなんぞは、想定の点数がどうか?に対して、同じ点数が得られるかどうか?が最大の関心事であり、科目によっては例えば、狙いが80点なら80点を得れれば自分でOKという判断なのだ。苦手科目で狙いが60点なら望む結果は60点であり、別に100点を目指しているのではない。
大事なのは、想定に治まるかどうか?である。
そういう意味で、自転車に関して言えば、自分のイメージと結果は殆ど一致している。単車では、一致していないのが実際だ。
まぁ、自分がもう少し、幼く、幼稚で、、、、自転車でも競輪選手とか、ロード競技者を目指すのなら別かも知れないが、今の自分で今出来る事、今実現出来る事自体、今が限界か?という判断が働くと、そういう意味では、閉塞感というか停滞感が一杯にもなるのである。
勿論、単車でもロッシとかペドロサに憧れている訳ではない。ただ、今の自分で狙えるレベルに対しての精度不良が興味追求の理由になっているだけである。
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