色々と大変ですね
先週末、会社に入社してきた同窓生の入社歓迎会があった。
出席する気は無かったけど、歓迎会というのは歓迎してやるためであり、それには出席しないと活けないかな?という思いで、取り敢えずという形で出席した。
出席して思った事。殆どの出席者は歓迎すべき新人を歓迎するのでなく、企業トップの方ばかり見た応対ばかり、、、、なんか腑に落ち無いなぁと思いながら見ていた。
そんな席での話題は?っていうと、やはり同じ会社の人ということになると、片足仕事に突っ込んだ様な話題が中心で、どうにも面白くない。
で、途中からは、パーティ形式故に居るコンパニオンの女性を一人捕まえて、好き勝手な話で時間を過ごしていたのだが、パーティの後半になると、新しい製品を担当するプロジェクトに配属されている後輩から、半ば愚痴のような話しの相談を持ちかけられた。
話の内容的には、理解も出来るし、悩んでいる様も判るんだが、聞かされたところで自分が彼らの満足出来る対応をするか?っていうと、それは難しい。
何にしろ、何事でも、相手が誰であっても、様々な状況っていうのは、その状況に到る環境が現状を生みだしている。勿論、不憫にも不幸にも気の毒にも思う事はあるけれど、そこに到るには、到るべくして到ったのは間違い無い訳であり、そこに到り、自分が満足していない状況があるとすれば、その満足していない自分の行動が今の状況を作っているのは紛れもない事実なのだ。
確かに聞くほどに気の毒な感じはするのだが、逆に言えば、そうなる事は予測出来る事でもあるのである。
似た様な事は我が身でも同じようにある。
しかし、残念ながら、こういう組織を選んだのは彼ら自身だし、自分自身でもある。そういうモンなのだ。それで不満なら、どうするか?不満を解消するような行動というか、切り換えが必要なのだ。
不満が人的な問題を含むならば、その解消は不満を感じる本人が行動に出なければならない。そんなモンである。それが出来ない、そして不満を昇華させる考えも持てないのなら、辞めるのも一つの手なのである。
自分の考え方は、不満がある。不満を解消すべき行動を取る。しかし、その状況では行動を取った時の答えも当然予測できる。予測した上で、次の選択肢を何通りか容易して挑めば良いという考えだ。
つまり、悪い予測をしていて、その予測でも自分を納得させる論法を予め作っておく事。そうすれば、どんな悪い方向に進んでも『想定内』と思えるのである。
大抵だが、何でも進み辛い時期って言うのは、皆に訪れるモノ。そして、それが進み辛いのは、何故か?とういと、多分だが、進むべき時期や条件が整っていない事。つまり、機が熟していないのである。それ故に、進みにくいと感じるのであろう。
昔は、何でも能動的なコントロールで行おうと考えていたが、今は、時期なりの条件で臨機応変に対応すれば良しという程度でしか考えていないのである。焦らず、構えず、自然体で、、、、これが大事だ。何事も、なるべくして為るのだ。取り組んでいる事が本当に必要なモノならば、というよりか、それが必要だと自分で信じていれば、それが動き出す時期っていうのは、遅かれ早かれ何れやってくるモノなのだ。やって来なくとも、その過程で身に付いた知見というのは、将来何らかで役に立つものだろう。
そういう自然体的な意識っていうのは、或る程度の年数が経たないと見えないのは、自分の経験でも明らかだが、多分、彼らにも、そういう事が理解できる時期が自然とやってくるんだろうなぁと思うのである。
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