ナチュラルっていうか、ニュートラルっていうか、、、
今月、勤務先の先輩で、一緒に仕事をしてきた方が退職される。
年齢的には相当上で、部門長を務めた上での定年退職であるが、この方と、仕事や技術に関して話をする事がある。それは、どうして短期的な仕事を請け負うのか?という質問的な話であることが多い。
自分は、この方の纏める職場に落下傘的に配置されて長くは無いし、その職場の専門性を持ち合わせている訳ではないが、自分の見方で、その職場に関連して活動を行ってきた。因みに、自分の職歴は?っていうと、一所で定型的な業務を行った経験は皆無であり、最長でも5年を目処にして、様々な部門を見て歩いている。設計、開発、システム関連、検査関連、製造関連、、、、、である。何れの部署に対しても、その部門に特化した専門性は持っていないけど、別に気にしていない。
そのような状態で何を行うか?っていうと、その部署における入力と出力を考えて、その中間行為における目的と、目的を得る為の手法が、自然の理屈に合っているか否かを判断し、無理が或る部分を取り除いて、新しい方法とか製品を提案する事が多い。
具体的には、製品であったり、プログラム、システム、技術、製法といったモノを新たに生み出す事を職務としている。つまり、新しいモノの創造と、長きに渡り抱えた問題点の解決というのを請け負っているのだが、その際に大事にしているのは、行為に潜むナチュラルな感覚である。
例えば、どんなプログラムでも機械でもだが、それらは全て、物事のナチュラルさを大事にして、それが乱れない様な形を補う事で成り立っているという考えである。
公式的、伝聞的に、強引に生み出された形っていうのは、そこで扱うモノの動き(数値の動きであったり、流体や熱の動き)に無理があるのだが、その無理は、モノの動きのニュートラルな感じを阻害する事から生まれるのである。
つまり、大事にするのは、公式とか技法、伝聞とは別の、自然な現象との適合性であり、ターゲットにニュートラルさ、ナチュラルさがあるかどうか?を見る目であり、それを判定するための工学的な知識だったりするのだ。要は行動に対する目的の意識と、目的を得るために必要な手順が何か?を、自然な理屈に基づいて生み出す事を大事と考えている。
この考えは、仕事に限らず、単車で走る時も然りである。単車を操るのは、単車の動きたい様に動かす。股の下で遊ばせるという感覚を大事にしているし、自分の望んだ動きを自然に行うには、どのような切っ掛けを与えれば良いか?を考えて実践しているだけだったりする。
自転車でも然りだ。望むモノ、結果を得るには、自分は身体をどう使いたいか?そうするためには、機材をどう仕上げたいか?を考えて、そのイメージに合う様に具体化するだけだったりする。
何事も、モノを得れば結果が付いてくるという考え方には否定的であり、結果を得るには、どういう方法が最も合理的で自然か?を考え、それに最も近道となるような補助を作り、その補助こそが、技法、製造法、製品、セッティング、機材選定になるのである。
話が戻るけど、その方と話をした時に、製品はどう?将来性は?って質問を受けた時の解答として、、、、最近思うのは、流体機械の形状を見て、この形状は、流体の気持ちを無視しているな!って思う事がある。大抵、そういう製品は性能が今一である!って返答となったのだが、モノを生み出す実力がやや欠けてきたかな?っていうのが正直な印象だ。
これは、仕事に限らないが、比較的若い世代と、単車、自転車といったネタで話をする事も少なくないが、どんな分野であっても、原則を重きとした考えが出来ない、即物的な人が多い様に感じる。
これは、社内の安全教育とか技能伝承、或いは、作業指導等でも感じる事。機械的に作業を記憶するばかりで、そこに潜む本当の理由を知らない人が多すぎる印象だ。
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